花に嵐   作:上枝あかり

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彼女のために祈って下さい。
夢野久作『少女地獄』



少女地獄編(年末)
少女地獄 1:ふるさとは遠きにありて思うもの


 よく、思い出せない記憶があります。誰にでもあるのではないでしょうか。印象深かったはずなのに、その一瞬だけ焼きついて、前後の曖昧な記憶。私のそれは、その後が曖昧です。もしかしたら坊は覚えているのかもしれませんが、聞く気にはなれません。

 春のことでした。まだお寺にいる頃の、光の加減からして昼頃だったように思います。私は布団で寝ていましたが、それが火傷のせいだったのか季節の変わり目のせいだったのかすら覚えていません。退屈していると、外に遊びに行ったはずの坊が来て、私の前で両腕を広げました。

 すると、桜の花びらがぱっと散って布団に落ちました。坊が桜の花びらを集めて、持って来てくれたのです。坊は「どうや!」と言いました。私はたぶん、きれいですね、とか、そんなことを言ったのだと思います。境内の古い桜の一本が満開を迎えて、とびきりきれいだと、みんなが話していたそれでした。女の子である私が花を喜ぶと思って、持って来てくれたのでしょう。詳しい流れはわかりませんが、確かその後坊に連れられて本物の木を見に行くことになったはずです。私が見たいと言って、坊が連れて行くと言ったのでしょうけれど、どうにも曖昧です。

 とにかく私は坊に連れられて庭に出ました。つっかけた大きな下駄が歩きにくくて、坊が途中で履物を交換してくれたのは覚えています。大人に見つかったら叱られるからと、ひそひそ隠れながら向かいましたが、この時は大人や兄さん姉さんどころか、いつも一緒だったはずの志摩さんや子猫さんも顔を見せません。坊は私たちといつも一緒でも、たまに内緒だと言って抜けていき、どうやら和尚(おっさま)のところに行っていたらしいことがありましたから、そんな感じで抜けての行動だったのでしょうか。

 そしてたどり着いた桜は、風もないのにはらはら落ちる花びらが綺麗で、子供ながらに息を飲んだと思います。木の下に座って上を向けば、見えるのは重たそうなくらいに花をつけた枝と涙のように降り注ぐ花びら。ぽかぽか暖かい陽射しはうっすら花で曇って、なんだかどこも薄紅色に見えました。たまに春風が吹けば、匂い立つように桜色が風に乗って抜けていきます。境内では聞こえていた誰かの遠い読経も、桜の木の下では聞こえず、まるで別世界のようでした。こんなところに連れてきてもらって、幸せだな、と思いました。しかし、布団で寝ているように言われるくらいに体力のなかった私は、そこまでの移動だけで疲れ果ててしまい、桜の木の下で寝入ってしまいました。

 ここからが思い出せません。

 結局起きて歩いて帰ったのか、流石に当時の坊に私を運ぶのは無理があったはずなので誰か大人に運んでもらったのか。そのあと怒られたのか、うまくバレずに済んだのか。記憶の(よすが)になりそうな当の桜も、次の春の前になにかの理由で切られてしまいました。寝るまではおぼろげでも記憶があるのに、起きた記憶はさっぱりないのです。子供の記憶なんてそんなものかもしれませんが、非対称性があまりに強い。

 なので、時々。ほんのたまに。ごくごく稀に。弱った時だけ。気の迷いとして。現実逃避のタネに。

 思うのです。ほんとうは、私はまだ起きてなどいないのではないかと。今の現実と思っているものは、桜の下、坊の隣で、幼い私が見ている夢なのではないかと。

 

 

 何やら歌いながら志摩さんと子猫さんが迎えに来て、落ち着いた私と酔いの覚めてきた坊はみんなと一緒に解散しました。坊はファンデーションの付いたシャツの上に上着を着て隠しました。

 外に出てから、しえみちゃんが私達に四つ葉のクローバーを渡してくれました。それで我慢のできなくなった奥村くんがしえみちゃんに「死ぬのかよ!?」と詰め寄りましたが、しえみちゃんはびっくりしながら否定し、理由は言えないけれど死んだりいなくなったりはしないと笑って言いました。そうなら、安心なんでしょうか。しえみちゃんは嘘をついたりしませんが、しえみちゃんが全部知っているわけではないのかもしれないな、と頭をよぎります。私もそういうことありましたから。やっぱり心配です。

 寮に帰ってから慌てて蒐集鬼部屋(ヴンダー・カンマー)に向かうと、フェレス卿は任務を遅れさせることはできないけれど、前倒しすることはできると言いました。京都の協力者の方も結婚式のシフト調整の都合上前倒しを提案していたらしく、急ですが明日の朝京都に向かうことになりました。部屋に帰って、神木さんと朔子ちゃんの眠った後に荷造りをしてから眠って。 

 朝の四時でした。流石に眠い目をこすりながら、荷物を持って部屋を出ます。ドアの前にきつねはいませんでした。ドアを閉める前に目を瞑りました。4月の頃は慣れなかった、神木さんと朔子ちゃんの寝息。いつから気にならなくなったんでしたっけ。寮の部屋の匂いを胸いっぱいに吸い込んでからドアを閉めます。

 蒐集鬼部屋(ヴンダー・カンマー)の方には、もうフェレス卿がいました。フェレス卿はまず、私の影にフェレス卿自身の影を忍ばせます。

「もう一度おさらいしますよ。運動能力の補助は」

「自動なので気にしなくていいけれど、筋は傷めないように、っ」

 言い終わった途端、何にも触られていないのにグン、と引っ張られて頭を下げさせられました。さっきまで頭のあったところを、天井から吊ってあった木製の飛行機の模型が通り過ぎます。私の影が先に動いたので、私自身が引っ張られたのです。

「移動の方は一度練習しておきましょうか。私の屋敷の玄関あたりがよいでしょう。きちんと自分の行きたいところをイメージしてからでないと()()になる。影の中が水になっていると想像して、玄関をイメージしながら潜ってみなさい」

 言われて、頭であの公園みたいなお庭の先の大きな玄関を想像しました。ヨハン・ファウスト邸。白くて大きな玄関。水たまりを踏むような心地で影を踏めば、まるで階段を踏み外したみたいに足が床の下にめり込んで、そのまま体ごと落ちて。

「ひゃっ」

 目を開ければ、思い描いたとおりヨハン・ファウスト邸の玄関口にしゃがみこんでいました。うわあ、鍵での移動やフェレス卿の指パッチンでの瞬間移動はやりましたけど、己が身一つでとなるとやっぱりちょっとびっくりします。ギイ、と玄関が開いたと思うと執事さんが出てきて、その後を着いていけばある部屋に案内されます。蒐集鬼部屋(ヴンダー・カンマー)でした。

「無事にできたようで何よりです。一応、移動は京都市内に限るようにしてくださいね。そう思っていれば、滅多なことで迷子にはなりません。後は、渡すものが二つほどありまして。まずはその衝立の向こうを」

 言われて素直に衝立の向こうを見ました。するとそこには、衣桁に掛けられた、見覚えのある見事な大振袖。赤い鹿の子と花に嵐。私としえみちゃんが運んだ、例の振袖でした。

「……うわあ」

「私の影由来の力によって、あなたはまず悪魔落ちとして処理されます。しかし、実際何の悪魔が憑いたわけでもないので、こちらの振り袖に憑かれたことにします。任務中は常に身につけていてください」

「いやいやいや……ほんまに憑かれますて」

「あなたと杜山さんのおかげで悪さできるほどの力は残っていませんよ。私からもよく言い聞かせてありますし」

 フェレス卿は言いながら衣桁から振袖を下ろします。適当に机の上に置いたようなのに、いつのまにかきれいに畳まれて見えるのはやはりまだ魔力が残っているからでしょう。

「振袖動きにくいですし」

「羽織るだけで結構ですよ」

 それでも動きにくいとか、そもそも打掛のような仕立てになっていないとか、汚れるとか、そんな常識的なことは多分全部振袖の魔力とフェレス卿の影の力の前には通用しないでしょう。制服や僧衣で動くよう言われていた気がするのですけど、そちらに羽織るミスマッチはもうこの悪趣味の前には無駄です。諦めて風呂敷に包まれたそれを受け取りました。

「で、もう一つは?」

「それはこちらです」

 フェレス卿は帽子でも入っていそうな丸い箱を出しました。差し出してくるということは、開けろということでしょうか。開けてみればその中には、花飾りの付いたベールが入っていました。

「……流石に趣味が悪いんやないんですかね」

 取り出してみれば、それはやっぱり花嫁さんのつけるそれのように見えます。私、結婚式に被せたくないから予定を変更したいって言ったじゃないですか。しかも、ついている花飾りはよく見れば半分が生花で半分は造花です。何かしらを暗示していそうで気分が悪い。

「角隠しですよ。貴女は悪魔落ちしている前提ですから、角がないということを隠さねばなりません」

 フェレス卿はひどく楽しそうに言います。私も諦めは良くなってきましたが、一言二言文句を言ってもいいでしょう。

「それならもっと他にあったんじゃないですか、帽子とか」

「こちらのベール、少し細工がしてありまして、貴女の火傷や涙なんかを隠せるんですよ。便利でしょう」

 ため息をつきました。この悪魔はどうしても私に花嫁のコスプレをさせたいようで。たしかに、お化粧や表情に気を使わなくていいのは結構ですけど。

「さ、一度試着してみてください」

 言って、フェレス卿は私にそのベールを被せました。やはり造花が左側――火傷の側で、オートクチュールにしたって趣味が悪いです。被ってみれば案外視界はクリア、というかほとんど変わりません。やはり普通の品ではないのでしょう。肩を抱かれてそっと右を向かされれば、そちらには姿見がありました。鏡の中から白いベールに覆われた私の顔が見返します。唇の色だけ、垂れた花飾りと同じ紅色でした。生花には狂い咲きの桜の枝や椿などを使ってあって、造花はつまみ飾りで、綺麗なことには綺麗なんですけども。頭を動かしてみても、案外ずれる気配もありません。タートルネックをまくっても、確かにベール越しには火傷がありませんでした。前は手を覆う程度に、後ろは膝の下まであるようで、サイズ自体は大きいのに重さをほとんど感じません。鏡越しにフェレス卿が言います。

「よくお似合いですよ」

 その言葉は珍しく、素直な響きがあるようでした。おそらく、私ではなく、フェレス卿のつくりあげたマイフェアレディに対するものでしょうけれど、柔らかく微笑むその顔には一瞬何かを感じそうになります。

「振袖の方で帯など用意できるので、このベールも同じものとして振る舞ってください。しかし詳しく調べられたら振袖由来のものではないとバレますので、タイミングを見計らって処分するように」

「そんな土壇場で処分て……」

「一言合言葉を言えば消えるようにしてあります。いいですか、よく覚えてくださいね」

 フェレス卿が言ったのは、ドイツ語らしき響きの言葉でした。単語よりは長くても、幸いとても長いというわけではありません。繰り返し練習します。覚えると、フェレス卿は満足げに頷いてから言いました。

「今更貴女には、この任務の意味や責任、どれだけの人間が関わっているか……など、説く必要もないでしょう。なのでこう言って送り出しましょう。とびきり楽しんできなさい。己の中の欲望を、満たすために」

 己の中の欲望。欲しがられたいも頼られたいも、全部だめで、今私はあの人から逃げたいのでした。薄く笑ってうなずきます。きっと素敵な悪魔の淑女(魔性の女)になって見せましょう。

 それを見てフェレス卿は興奮したように唇を釣り上げると、恭しく小さな封筒を差し出しました。中には、新幹線の指定席のチケットがありました。

 そして電車を乗り継いで、東京駅から新幹線に乗りました。指定席の場所を確認して座ります。窓際でした。そういえば、一人で新幹線に乗るのは初めてです。新幹線が動き出してから買っておいた駅弁で朝ごはんを終えて、ぼーっと要訣集を読んだりしていると、八時くらいにスマホが震えました。坊でした。席を立って客車を出て、トイレや乗降の邪魔にならないところで電話に出ます。

「もしもし」

「鶯花か。お前、今どこおるん」

「ああ、ちょっと出てまして」

「勉強会来ないんか」

「はい、すみません、野暮用で。何も言わんと出てきたから、神木さん達心配してるかも」

「俺らも知らんって言うたら急に焦っとったわ。どこ行っとるん?」

「街に出てまして。何か()うとくもんあります? 立て替えますけど」

「いや、ないけど……。気ぃつけえや」

「はい。……坊」

「何や」

「……あまり、思いつめないでくださいね」

「は?」

 返事を待たずに、スマホを耳から外しました。駅に着く前のメロディが鳴り出して、お客さん達が客車から出てきます。通話を切って、客車に戻りました。

 京都についたのは、まだ午前中でした。うちは人がいるときでも鍵をかけるのですが、今日は兄は仕事のようで、鍵を開けて入って「ただいま」と言っても返事が返ってきません。自室にひとまず荷物を置きます。まずは、祖父に会いに行くことにしました。出町柳の方までバスで行って、バス停からは歩きます。祖父は今日は調子が良さそうで、色んな話をしました。とはいえ、私が話して、祖父が頷くというパターンだったのですが。

 別れる前に、祖父に、「あてのこと信じててね」と言ってしまいました。あんまりこう言うの、よくないんでしょうけれど、病の祖父が聞かされるかもしれない心労は、想像したら少し堪えたので。祖父は、「いつだって信じとる」と言いました。

 さて、お昼ご飯をどこかで食べなければいけません。いつもなら虎屋にお手伝いに行ってお駄賃代わりにまかないを頂いたりするんですけど、まだ帰ると言っていないのに顔を見せても混乱します。適当にチェーン店に入って済ませました。ついでに今日の夕飯や明日の朝昼になりそうなものを買い込んでから、言われていた先斗町の隠れ家に向かいます。最初は場所がわかっていないので、バスで向かいました。渡されたメモのとおりに歩けばそこはビルの三階の潰れたバーで、いくらか家財が残されていました。表にソファが、バックヤードにソファベッドがあって、どちらかで眠れそうです。ひとまず埃臭かったので残されていた掃除道具で掃除をしました。バー全体を掃除するのは大変なので、バックヤードと、それから表のソファ周りだけきれいにします。それから結界を張ります。バー全体はもちろんのこと、玄関の前、階段に通じる廊下にも軽いものを張っておきます。これで、誰か来ればわかるはずです。伸びをしてからバーを出ました。

 バーを出ると、もう外は夕焼け模様でした。フェレス卿の影を使って金剛深山に行きました。一人で使うのは初めてでしたが、うまくいきました。私は不動峯寺のあったところで顔をあげました。洛北の山の中腹からは、洛中の夕映えを一目に納められます。夏に綺麗さっぱり焼けたお山は、そのあと生えた雑草が冬枯れて、ひどくさびしくなっていました。風が吹いて、冬山の枯れ葉がざあっと動きました。足元には瓦のひとかけらも落ちていません。廃寺に偲ばれた思い出も見えません。

 本当になにもない。

「ふるさとは、遠きにありて思うもの……」

 その後、どう続くのかは知らないのですが。半分埋まっていたせいか建物の礎石は残っていて、それの場所を頭に入れます。もし隠れ家を追われるようなことがあれば、ここに来て態勢を整えることになっていました。私が当然来るとわかっているから向こうもここは警戒しているでしょうが、最初からバレている居所は逆に安心できます。結界というのは、私たちは普段金剛杭で囲って作っていますが、本来区画をイメージできればそれでいいので、杭以外の、例えばお札などでも構いませんし、部屋とかそういう区切りは囲われているというイメージが最初からあるので非常に作りやすいのです。これは本堂、これは降魔堂、これは志摩寺、と枯れ草をかきわけて礎石を一つ一つ確認して、仮想の不動峯寺を建てていきます。瞼の裏の在りし日が、たそがれ時の暗がりに幻視されました。これで、私はここにいつでも結界が張れます。

 その後は、虎屋の様子を一度確認したくて虎屋の裏の路地裏に移動しました。裏口から覗くと、なんとそこには和尚(おっさま)がいました。うわ、どんなタイミングやねん。慌てて身を引くももう遅かったようで、「鶯花?」と呼ばれます。諦めて姿を見せました。

「もう帰っとったんか。おかえり。柳から、帰るのは来週やって聞いとったけど……」

「ああ、その……結婚式がありますから、予定を早めたんです」

「そうなんか。竜士らは一緒やないんか?」

「はい。あて一人で、先に」

「そんなところやと寒いやろ。こっちおいない。柳にも連絡して、夕飯はこっちで食べてけばええわ」

「はい、そうします」

「柳も鶯花が帰ってくるって連絡あった時喜んどったんやで。秋ごろから全然連絡来いひんって気ぃもんどったさかい」

「えへへ、ごめんなさい、勉強忙しくて」

 秋から連絡が減ったのは、家族には伝えても良いと言われたエリクサーの件を、どう伝えればいいのかわからないでいて、兄から来た近況の質問だけ答えていたからでした。兄に伝えられないことばかり増えていくな、と思って、それも少し面白くなります。

和尚(おっさま)、あてその前に頼まれ事片付けてこないとあかんのです。ちょっと行ってきますね」

「行ってらっしゃい、もう暗くなるし、気ぃつけてや」

 手を振って別れました。本当にうまく誤魔化せたか不安になってきましたが、大丈夫です。私、悪魔に嘘の吐き方習ったんですから。

 そのままの足でセルフのガソリンスタンドに向かいました。灯油を必要な分だけ買って、一度家に帰りました。

 もうここに帰ることすらないのだろうな、と思いながら、箪笥から母の形見の法衣を引っ張り出しました。こんなことに着るのはやや心苦しいのですが、称号(マイスター)をとったら着ることになっているそれは、もう今以外に着る機会がありません。着たことはありませんが、着方はわかっています。樟脳の匂いがしました。

 後は、家中をさらって金剛杭の類は全部持ちました。いつもは使った後ちまちま回収して手入れしているのですが、今回回収は叶いません。それに、手慣れた武器のほうが安心できます。振袖とベールを風呂敷に包んで、灯油も持ち運びやすい容器に入れて、持つべきものは持ちました。スマホや生徒手帳や魔除けの腕珠やしえみちゃんの四葉のクローバーや、持つべきでないものは置いていきました。何も言わずに、誰もいない家を出ました。

 一度着替えなどの荷物を運び込むために、隠れ家に向かいました。そして影を脚で三回、一回、二回タップします。私の影がぐるんと動いて、フェレス卿の形になりました。

「予定は順調です。これから向かいます」

「了解です。行ってらっしゃい」

 短いやり取りだけで影はまた私の形を取り戻しました。その中に飛び込んで、出張所近くに向かいます。

 出張所は顔パスでした。兄とは同じ顔で、さらには夏に手伝いに来ていたことが幸いしたのでしょう。もっと言えば、そもそも出張所の大半は顔見知りの明陀の人です。風呂敷包みを抱えていれば、お使いにしか見られません。格好こそ「どないしたん」と言われたものの、誤魔化すやり方はよく知っていました。

 流石に、深部へ続くエレベーターに近づけば止められました。しかし、もうここまで来てしまえば本性を隠す必要もありません。結界で動きを止めて、悠々とエレベーターに乗り込みます。目的階のボタンを押して、風呂敷の結び目を一つだけ解くと、待っていましたとばかりに振袖の袖がこぼれ落ちました。広げて頭から(かづ)くと、しっくり落ち着いて頭を振ってもズレることはありません。

「がんばってね」

「だいじょうぶよ」

「わたしたちがついてるもの」

 布地からささやくような声で聞こえました。振袖の中の(ゴースト)たちです。夏にも聞いた音でエレベーターは止まり、今度は一人でエレベーターを降ります。

 ここは夏に来た十三階ではなく、もっと浅い、図書室のある階層でした。僧衣の上に振袖を被った女、という顔以前に警戒を抱く格好を見て、少しだらけたふうに座っていた警備の人は立ち上がりましたが、最初質問から始めようとしたのが悪い。問答無用で投げつけた金剛杭で張った結界で動きを止めます。隣りにいた火蜥蜴(サラマンダー)も別の結界に閉じ込め、動けないよう封印的な処理もしておきます。今が一番警備の薄い時間で、この一人しかいないと聞いていました。結界を叩く警備の人に、先に言っておきます。

「あんまり、壊さんほうがいいですよ、それ」

 軽い足取りで図書室に入り、内通者さんが目立つところにまとめておいてくれた目当てのものをもう一枚の風呂敷に包んで外に出ると、風呂敷から灯油のボトルを出して撒きます。そして、マッチを取り出して擦りました。マッチ擦るつかのま海に霧ふかし――。火の点いた途端に、そんな短歌を思い出しました。火種ならライターでもよかったのかもしれませんが、こっちの方が手に馴染んでいましたし、それに。マッチはこうやって、火をつけた後そのまま投げれば、楽に床に撒いた油に引火させられるのです。

 ぼうっと炎が上がったところで、エレベーターのドアが開く音がして振り返りました。監視カメラがあるので、凶行はすぐにバレるはずでした。しかし、流石にみんな――おそらくこの中にいる顔も知らない内通者を除けば――火までつけるとは思っていなかったのか、そこには驚愕の表情がありました。後ろで上がる炎の、灯油の燃え切らない臭い。地下では場違いな明るさ。熱をはらんだ風が振袖の裾を揺らします。笑って言いました。

「あとできっと、ご連絡しますから――」

 エレベーターを降りてくる人たちがこちらに来る前に、階段の最後の一段を蹴る感覚で、トン、と影に飛び込みました。

 先斗町の隠れ家にいました。外からは歓楽街の賑やかさが聞こえますが、バーの中は静かで、自分の心臓の音ばかり聞こえます。自分で点けた火の眩しさが目に焼き付いて、視界が少し痛みました。確かに興奮しているのに、喋る相手もいなくて、口遊みます。

「富士の高嶺に降る雪もー、京都先斗町に降る雪もー」

 こんなにのんきに歌ってる場合じゃないのに。私、強盗と放火をしたのに。

「雪に変わりはないじゃなしー、とけて流れりゃ皆同じ!」

 いいえ、違います。小刻みに震える手を握ります。私、ちゃんと任務をこなしているのです。何も恐れることも、恥じることもない。それに、あんな火遊びなんて、そう、生まれて初めてじゃないですか。きっと、きっと楽しむべきなのです。

 深呼吸をして、振袖と僧衣を脱ぎました。ちゃんと一言フェレス卿に報告もしました。昨日は遅くて今朝は早かったので、もう寝てしまうことにしました。




引用元
ふるさとは~→室生犀星 マッチ擦る~→寺山修司 お座敷小唄→作詞者不詳

 子猫さんと志摩さんは良い雰囲気だったら申し訳ないのでジングルベルでも歌いながら接近を知らせていたのだと思います。
 オリ主の家の施錠は、家族構成的に子供だけでお留守番というのが多そうなのでそういう習慣がついた感じです。
 結婚式の場で、金造さんらは僧衣なのに勝呂くんらはスーツに半袈裟だったので、明陀で僧として一人前になるのは(少なくとも今は)称号をとってからなのかな、と思い僧衣を“称号をとったら着ることになっている”としました。
 “マッチ擦る”の句にしろ、前出の“ふるさとは”にしろ、今の彼女にはその続きを読むことはおそらく難しいのだと思います。
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