花に嵐   作:上枝あかり

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少女地獄 4

 隠れ家に戻ったら、というか和尚(おっさま)の存在を思い出したら、一気に落ち着いて自己嫌悪が来ました。あて何やっとるんやろう。……ほんま何やっとるんやろう。乾いた指先みたいに遠のいた興奮を暗い部屋で見れば、残るは自己嫌悪だけです。ソファにつっぷして散々うーうー唸ります。偉そうに何言うてたんやろう。っていうか、はしたないのはあてのほうだったのでは? 言うてたことちゃんと筋通っとったやろか。あかん思い出せん思い出したくない。それどんだけ調子のっとったん。……ひとしきり考えてから顔を上げて言いました。

「……しゃあないやん、好きなんやもん」

 全部それで済ます気やろか。……ええやん、その方が楽やし。間違ってへんし。振袖を脱いで化粧を落とします。外から新聞でも配達してそうなバイクの音が聞こえて、もう未明を過ぎて早朝です。寝支度を整えて、そういえば坊のことまだ縛っていましたっけ。……このままにしときましょうか。私が坊にあんな口聞けるほどの実力がなかったなら、きっと眠ったら自由の身でしょう。そのまま、夢を見る余裕もなく眠りました。

 起きたら、もうバーの小さい窓から日差しが入り込んでいました。何か小さな音がすると思ったら、和尚(おっさま)が出てきていて、掃除しきれていなかった床を掃いていました。巻き上がる細かい埃が光できらきらしながらゆっくり床に落ちていくのが、なんだかきれいでした。

「おはようございます……」

「おはよぉさん。ほな私は引っ込んどるから、支度できたら呼んでな」

 和尚(おっさま)はにこにこしながらバックヤードに戻りました。体を起こします。8時でした。そんなに横になっていたわけではないのに、ソファの寝心地の悪さが体に張り付くみたいにごわついていました。今日は少し動きそうなので、正十字の制服を着ます。4月から八ヶ月、切った張ったみたいなのは、このプリーツスカートの制服でやってきました。布が案外丈夫だったり、ポケットが多かったり、結構便利な服ではありましたね。まだ少し仮眠すると思ったので化粧は後にして、和尚(おっさま)を呼んで朝ごはんにします。

「ええと、今日も動くのは夕方からになりそうなので、食後にフェレス卿に連絡したら、私は少し寝ますね。今日は志摩と宝生に会いに行きます。あと、塾生……廉造さんとか、奥村くんとか皆が今日来るみたいです。昼頃でしょうか」

「忙しそうやなあ、無理はせんどいてや。私は今日は掃除しとるわ。ちょお暮らすには汚いさかいなあ」

「まさに悪の隠れ家って感じですよねえ」

 ふふ、と笑うと、和尚(おっさま)は目を伏せてカロリーメイトを食べながら言いました。

「せやけど、鶯花は悪い子やないからなあ」

「……」

 昨日、というか今日ですけど、坊と言っていた、“冬隣鶯花は和尚(おっさま)を拉致したいか”を思い出しました。多分、私そんなにいい子ではないです。でも、いい子であろうとしていました。それを和尚(おっさま)が悪い子でないと評価されるなら、私は和尚(おっさま)を拉致したいけどしない、いい子だったんでしょう。したいとするの間には、確かに違いがあります。

 食後、フェレス卿に昨夜のことを連絡しました。フェレス卿からは連絡事項として、15時に吉田山で宝くんと落ち合って内部情報のリークを受け、ついでに支援物資をもらうように言われました。欲しいものがあれば今のうちに言うよう言われましたが、特に思いつきませんでした。いくらか気になっていたことを聞いて、それだけでした。

 仮眠をとって昼に起きて、今度は昼食をとってから、昼過ぎに吉田山に向かいます。

 少し見渡して見つけた宝くんは帽子をかぶって変装のようなことをしていました。山奥に入って、茂みの奥、木の根に腰を下ろして落ち着きます。

 宝くんはまず手の中の包を寄越しました。中は食料のようです。保存の効くものの他に、惣菜パンなどもありました。わあ、カルネ入っとる。私がまだ中を見ている間に、宝くんは切り出しました。

「話を聞いた杜山が、任務中にお前に精神影響を及ぼした振袖を証言した。東京にも振袖の所在を問い合わせた結果、お前の着ているそれが東京の振袖と認定された。お前は今後、悪魔堕ちとして扱われる」

「予定通りやね」

 振袖の任務は志摩さんと子猫さんも受けていましたが、実際にどんな振袖か見て、私が影響されていたのを知っているのはしえみちゃんだけです。嫌な役を押し付けました。宝くんは続けます。

「塾生では神木だけが悪魔堕ちを否定しているが、バックの組織の気配がないことや日頃の言動との乖離から、悪魔を利用しているわけではなく意識を乗っ取られているという見方がほとんどだ」

「順調で何より。……神木さんには、悪いけど」

 もう中は見たのに、袋に視線を落としたまま言いました。神木さんは私の悪魔落ちについて、ずっと気にしていました。私だってそんなことになったら思い出すのは真っ先に神木さんなのに、まさか神木さん相手に悪魔に憑かれたふりをする羽目になるなんて。しかも、ここまで状況証拠が揃ってるのに、私のこと、信じてくれてるらしいのです。私は悪魔に憑かれたりしないって。……深夜徘徊だってばれてたのに。まさか、あの時のしくじらないなんて台詞、信じてくれてるんでしょうか。

 他に最新版のシフト情報についての内部リークを聞いていると、急に私の影がどろりと動いて、フェレス卿が喋りました。

「お話中申し訳ないんですけどね、今志摩廉造くんが虎屋で一人になっているらしくて。少しお話聞いてきてください」

「オレの話は以上だ。とっとと行ってこい」

 宝くんはいつもどおりパペットの腹話術で言います。頷いて、振袖を制服の上から羽織りました。包みは振袖の袂に入れて、「ちょっと持っとって」と言うと、返事がありました。詳しい場所を聞いてからベールも被って、「行ってきます」と一応言ってから影に飛び込みます。宝くんから返事はありませんでした。

 情報どおりに虎屋の誰もいない部屋に行きます。ひとまず音を通さない結界を張って、少し待つと前の廊下を志摩さんが通りました。開けた障子の隙間から志摩さんの口を塞いで部屋に連れ込み、そのまま体を縛ります。ごろんと横向きに畳に転がして、痛そうだなと気がついて頭の下に座布団を入れました。志摩さんは転がされた衝撃でうう、と唸って眉をひそめて、でも口元は笑いながら言いました。

「通り魔かいな……」

「ずいぶん余裕やねえ」

「殺しにはきいひんやろうし。坊や子猫さんにもこうやっていけずしはったんやて?」

「あら、聞いた?」

 冬の午後の冷たい色の太陽が、障子越しにもっと冷たい色で志摩さんの顔を照らしていました。志摩さんの横に腰を下ろしながら、それを眺めます。

「そりゃあ。坊が起きてきいひんから、子猫さんが起こしに行って、慌てて柳兄さん呼んだんやって」

「へえ、結局破れんかったんや」

「せやからそうやって言うとるやん。俺トイレ行きたいさかい、あんまいけずせんどいてよ」

 志摩さんの腹から胸のあたりに腕を乗せて、それを枕にしながら志摩さんの顔を覗きました。腕の下から、心臓だとか消化器とか、志摩さんの柔らかい内臓がうごめくのが伝わってきます。

「ね、志摩さん。一緒に逃げよ。騎士團なんおったら、志摩さんいつか、殺されてまう」

「それ、俺が逃げるって言うた時の約束やろ?」

「そんな悠長なこと言うとれんよ。知っとるでしょ、死ぬときは一瞬や。逃げる隙もない……」

 志摩さんの体のほとんどは私が縛っていて、それは首も同じです。志摩さんは私の顔を見ない横向きのまま言います。

「でも、抜けたらイルミナティから騎士團が守ってくれへんようになるしなぁ。それに、俺、今の仕事好きやねん」

「そうなん?」

「そうなん」

「はー、つれない。もっとこう、明陀愛とかないん?」

「俺にそういうの期待せんどいてよ。こらほんまに中身鶯花さんやないな……」

「あてがあて以外誰に見えとるんやろ。ねー志摩さん、ちょっとくらいええでしょ? 手伝ってぇや」

「手伝うも何も、俺今以上の綱渡りする気ないわぁ。鶯花さんかて大概綱渡りやろにこんな……、あ゛」

「ん?」

「いや、あれ……、いやまさか……」

 志摩さんは首が動かないので、目をあちこちきょろきょろさせていました。そしてしまいには、むりやり口の端を引き上げて言います。

「前に俺が、帰る場所ないて言うなら、自分で作ればええんちゃうっていうたの、関係ある……?」

 ああ、そんな話、ありましたね。

「……ないと思いたいんやったら、それでもええよ。あてはあてやないらしいし?」

「出雲ちゃんはそう思っとるらしいけど、……なんだかなぁ。それやったら、鶯花さんがこれ考えとったことになるのに」

「んー、ひとが何をどう思っとるのかってのは、むつか」

「オン」

「しぃー……」

 大声で真言を唱えた口を塞ぎました。

「油断も隙もない。魔除けは張ってあるけど、流石に夜魔徳(ヤマンタカ)はこわいわ。ほなね、無理はせんでね、いつでも頼ってくれてええからね」

 そう言って部屋を出ました。そのまま影に潜って隠れ家に帰って、志摩さんの拘束や部屋の結界全部を解きます。そして袂から食べ物の包みを出しました。持っててと言った言葉通り、わりと動いたのに袂から包みは落ちないでいました。そもそも、袖とか裾とかいかにも邪魔っけなのに全然気になりませんでしたね。人目で力を蓄える悪魔の性質からして、今の状態はタンスなんかに死蔵されているよりずっといいのでしょう。着て見せびらかしたくなる心理とは都合が良く出来ています。

和尚(おっさま)、柔らかいっていうか水気のあるご飯、もらってきましたよ。ちゃんと二人分あるんで、今晩は美味しいもの食べられますね」

「おかえり鶯花。何や急なもんやさかいびっくりするなあ」

「すみません、前兆があったら使いもんにならんのでしゃあないんです。ほなあて、この後二軒行ってきますから、帰ったら一緒に食べましょうね。ご飯くらいしかご一緒できなくて申し訳ない」

「ええてええて、仕事なんやろ? 私ももう少しで掃除終わりそうや。行ってらしゃい」

 手を軽く振って、また影に潜り込みます。

 一軒目、宝生家です。庭に立ってまず中の様子を伺おうとすると、蝮ねえさまが外を見ているのと片目が合いました。うわ。

「鶯花……?」

「はい」

 ええい、やるしかありません。一歩出て、素敵に微笑むと、先に蝮ねえさまが切り出しました。

「雨が降りそうやと思って見とったら、驚いたわ。用事があるなら(てて)様か錦やろ。(てて)様はおらんけど、錦呼んで来たるから、待っとり」

 開け放したまま、あねさまはすっと家の中に消えます。家の中から吹いた風が、ふわりと暖かく頬をなでました。暖房の気配すら優しい。……それは、単に非文明的に凍えてるだけですね。確かに雨でも来そうな曇り空で、寒いったらありません。振袖のあるところは温かいのですが、前を開けているのでどうしても風が。

 しかし、蝮ねえさまに見つかったのはもうしょうがなかったとしても、蝮ねえさまの態度は気になります。ちょっと、落ち着きすぎと言うか。いえ取り乱されてるよりはずっといいんですけど。体に障りますし。

 そんなに待たないうちに、錦ねえさまが来ました。連れてきた蝮ねえさまはお茶を淹れると言ってもう一度中に引っ込みます。青ねえさまもちらりと顔をのぞかせて、蝮ねえさまを手伝うか迷うように蝮ねえさまの背中を見てからこちらにいることにしたらしく留まりました。

「夏以来ですけど、蝮ねえさまの目、どうにもならんかったんですね。……あては騎士團を信頼できません。騎士團なんかにおったから、あねさまは騙されて、目も仕事も……。奥村くんの友人であったあてが言うことやないですけど、上層部の動きはあねさまの言うた通り不自然であることに回答はなくて、末端には藤堂なんぞがいて……! ねえ、宝生は、あてと一緒に来てくれるでしょう」

 半分泣き落としでした。しかし錦ねえさまは言います。

和尚(おっさま)はどこにおるん?」

「あてと同じところに」

和尚(おっさま)の意思なんか」

「同意は得てます」

「ほな、なんで和尚(おっさま)は一緒やないの」

「こんな寒い日に、そうそう連れ出せません」

 あまり、焦れるのはよくありません。しかし時間をかけても怖い。何せ、僧正で一番の心配と言ってもいいのが、宝生家でしたから。

 ふと、覗いていた青ねえさまの姿がいつの間にか見えないことに気が付きました。蝮ねえさまについてったわけでは、……?

 大蛇が、青ねえさまの覗いていた死角から飛び出してきました。慌てて被甲護身、はまずい!

 とっさに影で避けて、さっきまで自分がいたところを大きな口で一呑みにする(ナーガ)を見ます。ぎゅっと拳を握って家の方を見れば、蝮ねえさまがお盆を手にこちらに来ていました。仕込んだ金剛杭を出そうとすると、蝮ねえさまはお盆の上の湯呑を錦ねえさまと青ねえさまに配り、そして私にも差し出します。

「……まあ、こういうわけや。次なんか言うたら、三人がかりで食うてまうさかい、お茶飲んだらなんにも言わずに帰り。ここであんた捕まえても、和尚(おっさま)がどうなるかわからん」

「……なんで」

「……誰にも相談もなしにこんなことしても、どうもならんよ」

 それは、優しく諭すような口調でした。いいえ、不出来な妹を、まさしく諭していました。あねさま自身の経験で持って。いまさら同じような道を歩もうとする、私を。なんだか居ても立ってもいられなくなって、庭に降りていた蝮ねえさまの手から湯呑を奪うように受け取って熱いそれを一気に飲み、口の中を火傷しました。すぐに治った舌で言います。

「蝮ねえさまは、牙が抜けてしまわれた。あてはあの毒牙が好きやったのに。あの、正しさだけ信じてる牙……」

「……もうじき雨が降りそうや。和尚(おっさま)もあんたも、温かいところで寝とるん? ……そろそろ頭も冷えとるやろ。あんたが正気なら、こっちおいで」

 牙が抜けたから、見えづらかったやさしさがひどく目立って、私の憎まれ口も気にしない。その表に見える優しさには、牙と同じくらい憧れてしまいます。差し出された手をとらず、代わりに湯呑を返して言いました。

「ごちそうさまでした。……あては正気ですよ。最初から、最後まで」

 一軒目の目標は終わりました。影の中に落ちて消えます。そして……そうですね、ニ軒目の最低目標は、殺されないことですかね。

 ということでニ軒目、志摩家の庭につきました。植木の影から様子をうかがって、中の人気を伺います。この時間は柔造兄さんが家にいるはずなんですが。奥からなんとなく人の気配がするような気がするものの、私こういう気配を読むとかは一般人レベルですのでちょっとよくわかりません。仕込んでおいた金剛杭の小さい方をいつでも出せるように振袖の袖の中に隠して上がり込みました。帰りも無事にここから帰れると限りませんので、脱いだ靴はまとめて砂を払って振袖の袖の中に入れます。なまじ面積があって落ちないと来ているので便利袋扱いしているところはありますね。玄関からでなくとも土足で上がらないあたり、私の悪い子もなんだか箔がつきません。

 家の中は、どこも明かりがついていませんでした。勝手知ったる他人の家ですが、いよいよおかしい。何か予定と違うことがありそうだったら、……つまり、八百造さまや柔造兄さんがいないような状態だったら、連絡が入るはずなのに。嫌な予感がしてもう一度あたりを見渡したときでした。

 ぱちん、と音がして、古い蛍光灯のつくジーっという音とともに、すぐ先の一室が明るくなりました。仏間のそこの真ん中には、柔造兄さんがいて、部屋の明かりの紐を持っていました。

 さっと視線を走らせました。どうやら光量はベールが調整してくれているようで、目がくらむことはありません。部屋内に感じる違和感。

「坊や猫に会いに行った、て聞いたさかいなあ、俺にも会いに来るんやろうって思って、待っとったんや」

 違和感の正体。たとえば、仏間なのに、仏壇がないとか。冬なのに、建具がないとか。なのにこちら側、廊下に面した面だけ、襖があるとか。それらを悟らせないように、蛍光灯が一本外されて暗いとか。

 これ、あれやろなあ。柔造兄さんは部屋の真ん中であぐらをかきましたが、このまま踏み込んだら、襖の影から金造兄さんが出てきて殴られるやつ。

 自分の周りに袖から金剛杭を落としました。柔造兄さんが立ち上がろうとした瞬間、襖が倒れて外れて後ろから錫杖握った金造兄さんが出てきて、その前に真言が間に合ってまず結界を張れました。

「オン・ビソホラダラキシャ・バザラハンジャラ・ウンハッタ!」

「鶯花、とりあえず神妙にお縄にぃッ……硬!!」

 虚空網で結界を強化して、これでひとまずは大丈夫でしょう。向こうも壊れたらまずいものを片付けてあるということはそんなに本気出してこないと思いたいですし。金造兄さんが蹴倒した襖の穴と、私が金剛杭立たせて出来ただろう凹みの修理は、どうなるかちょっとわかんないですけど。

 錫杖フルスイングで殴りかかられた現実逃避をしている一瞬に、立ち上がって襖の影にあったもう一本の錫杖を握った柔造兄さんは、ジャッと遊環を鳴らして錫杖を金造兄さんの前に出し、構え直した金造兄さんを止めました。

「あーあー、ふすま……」

「うちの建具の話しにきたんやないやろ」

「はい。……志摩家は、私に賛同してくれるか聞きに来ました。騎士團なんて、もう信用出来ないでしょう。蝮ねえさまをたぶらかして、今度は廉造さんをスパイに仕立て上げて。なんで、まだ従ってるんですか?」

 嫌な仕事はとっとと片づけるに限ります。腹の前で手を組んで小首をかしげながら言うと、柔造兄さんは下を向いてため息を付きました。そして、顔を上げて言います。睨む金造兄さんと違い、笑顔でした。

「俺もな、残念や。こうやって目の前で、確認してまうとな」

 ただし、疲れたと表現するのに十分なそれでした。柔造兄さんは続けます。

「お父ともこの件については話がついとる。志摩家名代として断る。そして――」

 金造兄さんの前に出していた錫杖を持ち上げました。柔造兄さんが笑顔からころりと恐ろしい表情に変えるのは、わりと見慣れています。しかし、この表情は、少なくとも私が向けられた覚えはありません。でもいつか、夏に、見ました。

「これ以上ろくでもないこと言う前に、ここでお前を始末する――!」

 金造兄さんが飛びかかりました。柔造兄さんは真言を唱え始めました。セオリー通りに床の上に立つ杭を狙う金造兄さんの気勢や一言ずつに重みの増す真言に負けない声量で言います。

「廉造さんを攫われて、薄情なもんですね」

「攫われたも何も、アイツの希望やアホォ!」

 金造兄さんの反論。ど正論なんですよねえ。真言は幸い、金造兄さんを強化するもので、結界自体に絡むものではありません。柔造兄さん詠唱騎士(アリア)持っとるやろに。いえ、結界に絡まれたら、それはそれでお相手させていただくだけなんですが。金造兄さん――私がいじめられているときは、大暴れして、でも決してその拳で私を殴ったりはしなかった、あの金造兄さん――に、本気で錫杖を振るわれている事実。自分の結界です。どれくらい負荷がかけられてるかはわかります。その威力に、その敵意に、少し呼吸が荒くなって、それでも手を組んだまま、笑ったまま。

 もう仕事は終わりました。結界も、本職に破壊され続けて保たせるのは今の私には無理です。フェレス卿の影は、この結界の中では使えません。床の穴のことを考えていたら影を結界の“下”にしたようで、私は結界をすり抜けられませんから。一度解界しないと。袖を通していた振袖を、するりと脱いで。

 解界と同時に、金造兄さんの前に振袖を目くらましに広げました。広がる真っ黒の裏地、に滲む微かに血の錆色。自分の影を踏んで、影の中に落ちる途中で、ふわりと広がった振袖の一点が私の腹に突き刺さりました。

「ガッは……ッ!」

 一度靴を履くために選んだのは先程の吉田山でした。体から力が抜けて落ち葉の上に膝を付き、思わずお腹を抱えます。息が、できない。

「ぁ……ッ……あ゛……」

 金造兄さんへの目くらましは、そのまま私の目かくしにもなっていました。あれは、柔造兄さんの投げた錫杖。おそらく足を狙ったそれが、影に落ち行く私の腹に当たったわけで。

「う、う゛ーー……ぁ……げぇぇ」

 振袖を握ったまま、四つん這いになって吐きます。肩で息をして、涙が出てきたのは、きっと吐いたせい。暗い森の中に、私の息だけひびきます。

「ハァッ……ハァーー……あ……ハァ……」

「だいじょうぶ?」

「ごめんね」

「あんなするどいものは、防げなくて」

 振袖から声がしました。脂汗で寒気がぶるりときて、振袖を羽織ります。

「ううん……あてが油断しとった。きっと、痣にもならない」

 そのまま頭を上げて座ります。夕飯まだでよかった。うっかり振袖に返事をしたのは、あんまりよくないんでしょうけど。しばらく呼吸が整うまで大人しくしています。

「次は、次こそは」

「完璧な振袖の素敵な花嫁さん」

「次こそは……乱暴を守ってあげるのは無理でも」

 振袖の三つで一つの独り言を聞きます。あて、ここでも守られる子なんかなあ。……京都出張所を一人で相手できるとは、思ってませんけど。それにしても柔造兄さん、本気なんやから。まあ、夏の時からして、そうでしたもんねえ。

 隠れ家に帰ると、もうすっかり暗くなっていました。和尚(おっさま)にただいまと言って、でもご飯の前に、なんだか肌がピリピリするので、化粧をもう落としてしまうことにします。本当はこの後花巻や鬼頭の家にも行きたいのですが、そのあたりはベールにごまかしてもらうことにしましょう。さっぱりしてから、和尚(おっさま)と夕ごはんを食べます。

「お部屋きれいにしていただいて、申し訳ないです。だいぶ過ごしやすなりましたねえ」

「他やることもなかったさかいなあ。鶯花は今日はどこ行ったん?」

「フェレス卿のお使いの人に会って、廉造さんに会うてから、宝生と志摩に行きました」

「宝生と志摩?」

「はい、蝮ねえさまと錦ねえさまと青ねえさまは脅かしてきたけどお茶出してくれたんですけど、金造兄さんと柔造兄さんはちょっと物騒でしたねえ」

「あの子らも血の気多いさかいなあ」

 お腹は、もうなんともありません。せっかく頂いたお茶を吐いてしまったのだけが気がかりです。パンをかじると、和尚(おっさま)はちょっと困ったように笑いながら続けます。

「しかし、お茶もろたんか……。いや、それはええんや。怪我はなかったん?」

「あっ、えーと」

 あります、と言うのは気が引けます。しかし、結界で全部防げました! と言いきるには、私はそこまでの実力じゃないです。でも、“怪我”自体は。

「ないです。皆も。あてはあの人らに怪我おわすほどやないし」

「無理はしたらあかんで。鶯花はそういうの、得意やないんやから」

「冬隣の専門は結界ですからねえ」

「そういう意味やのうて。嘘ついたりするの、苦手やろ」

 一瞬、息がつまりました。迫ってきた(ナーガ)や、投げられた錫杖を思い出しました。

「嘘は得意になりましたよ。フェレス卿があてに色々コツを教えるんですもん。それにあて、今楽しいです。こんなでもなかったら、本気の兄さん姉さんなんて見られへんでしょう」

 自分で言って、なんだか空々しく聞こえました。こういうのがよくないって、フェレス卿、言ってた気がするんですけど、自分で言わないと、なんだかどうしようもなくなってしまいそうで。

「その調子で進むとええんやけどなあ」

「今晩花巻と鬼頭にも挨拶して、そうしたら後は捕まるのを待つだけですから。きっと上手くいきますよ」

 食後、金剛杭を制服に仕込み直します。袖を通していた振袖は脱いで、持ち込んでいた金剛杭を床に並べて、床に座ってそれらをせっせと収納します。見た目に出さないコツは分散させることです。あちこちから出せたほうが便利ですし。ポケットの中の白墨(チョーク)燐寸(マッチ)の様子も確認している時、ソファに座っていた和尚(おっさま)が言いました。

「それにしても、振袖はまだええとしても、ベールはなあ……」

「あても趣味悪いって言うたんですけど、色々ごまかすためにって押し切られてまって」

「確かにごまかせとるけど……」

 和尚(おっさま)は立ち上がってこちらに来ると、まるで飲み屋の暖簾でもめくるみたいにベールをめくって、上目遣いに顔を見ました。

「やっぱりこういうのは、本当の時にとっとくもんやろ」

「はは、あてはお嫁になんいきませんよ、……」

 ずっとお寺におります、と続けようとして、それがもう言えないことに気がついて。でも私、お嫁にもらってほしい人なんていませんし、今後出来る気もしません。和尚(おっさま)が口を開きかけた、その時。何か、ふつん、て。立ち上がりました。

「誰か来ます」

 入り口の結界に誰か入って破れました。片手で和尚(おっさま)の手をとって、もう片手でソファにかけていた振袖を引っ掴み、バックヤードに駆け込みます。足音が聞こえたのでしょう。様子を伺うなんてことしてくれないで、扉が蹴破られます。

「起きとるし!」

 金造兄さんの声、ということは警邏二番隊。誰にしろ、この状況で戦いたくありません。正面からやりあえばどういう観点から見ても負けるに決まってます。経典の包みを抱えたら振袖を持てなくなるので肩にひっかけました。詳しいこと考えるのはとりあえず後にして、とっとと和尚(おっさま)の手を握ったまま影の中に逃げ込みます。

 行き先は決まっていました。最初から決まっていて、準備だってしてあります。でも。

 ああもう、出来ることなら行きたない。なのにそこ以外、今の私には行く宛が思いつきません。だって絶対、誰かが私を待っているんです。きっとそこにいる人は、裏切り者でも悪魔落ちでもない、私を、冬隣鶯花を待っています。

 目指すは洛北。あの焼け跡の、あの懐かしき金剛深山。――不動峯寺は、焦げた夢。

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