「ねえ」
「起きて」
「おきて」
「人が来るわ」
振袖から声がして、眠たい目をこすりました。
まだ暗いですが、お寺の朝が早いのはよく知っています。何時間寝れたんでしょう。振袖の中は体温がこもっていましたが、空気に触れている顔は酷く冷たく、乾燥した唇は少し広げれば割れそうです。かすかにうなりながら起き上がり、仏前で手を合わせて一晩の宿を感謝してからそっとお堂を抜け出します。ベールの上から無理やり被った振袖は少しだけ温かく、熱を逃さないように前をかきあわせます。はあ、と吐いた息はベールを抜けて白く曇りました。手水のところで顔だけ洗わせてもらうと、指先はじんじん赤くなるくらい冷たくなります。静かな静かな冬の夜明け前。門は閉まっていたので、行きと同じに影で駐車場の木の裏に出ます。思わず独り言がもれました。
「さむ……」
「もっとかきよせて」
「もっとかきよせて」
「もっと強くよ」
「そしたら少しは暖かいわ」
返事をするように振袖から声が四つ。……四つ?
「……多ない?」
「うふふ」
「ふふふ」
「ふふふ」
「うふふ」
「やっぱ多い!」
昨夜まで声は三つだったはずです。というか、一つは振袖ではないところから聞こえます。“何か”います。何か、振袖ではない悪魔が憑いている!
しまった、だってそうです。私は今魔除けも持っていないし、心に隙だってつくりまくりです。目をつけられないはずがありません。ここまで近づかれているのなら無視するとかそんな段階ではありません。もはや撃退なりなんなり、祓魔するしかない。身を固めて杭を探ると、声は言います。
「ああ、待って待って、そんなにおびえないで。そんなじゃないの。ところであなた、蛇は苦手?」
「いいえ、全然。ねえさまみたいなものや」
「それは素敵。わたしたち気が合うかも。なんてね、ふふ」
ぼとりと小さな影が落ちました。最初は小指ほどの細さだったのに、どんどん大きくなっていく蛇の姿。体は緑色で、頭には髪のような毛と鹿のような一本角が見えます。目元にまつげがあるのが印象的なその蛇体の悪魔は、普通の蛇の大きさになるととぐろを巻いて私を見上げました。
「あなたの名前は……」
表立って敵対的ではありませんが、それでも一人で対処できる気はしません。先に名前をあてることで主導権を握ろうと考えます。角の生えた蛇。少女のような声。今の私に声をかける、お寺で拾うような悪魔。そして、このお寺は妙満寺。
「あなたの名前は清姫。片恋の末のうらぎりに、焦がれた男を殺した蛇!」
安珍清姫伝説で知られる名前。片思いをしていた僧・安珍のその場しのぎの嘘に絶望して死んだ娘の
「ええ、そうよ。お見知りおきありがとう。わたしは清姫。好物の匂いがしたから出てきたの。だいたいのことは振袖のお姉さんから聞いてるわ」
「!」
振袖を脱ぎ捨てました。何が『悪さ出来るほどの力は残ってない』ですか。声だけで十分致命的なことをしてくれます。途端寒さに震えながら振袖を清姫に投げかけ、同時に仕込んだ杭を取り出します。
「やめてったら、そんなじゃないって言ったでしょ? どうかするなら寝てる時にしてる」
清姫はもぞもぞと振袖の下から出ようとしています。その隙に杭で結界を張って閉じ込めました。
「あのね、わたしはあなたと契約をしに来たの。欲しいものをくれたら、炎を貸してあげるわ」
振袖から顔を出した清姫はそう言うと、寒いでしょうと言って小さく炎を吐いて落ち葉に火をおこしました。……契約?
地団駄踏む勢いで影を三回一回二回叩きました。
「フェレス卿ー!! 起きてはるんでしょフェレス卿ーーッ!!」
もう私の判断できる範囲ではありません。影はすぐに形を変えて、腹立つくらい冷静な声であいさつをしてきました。
「おはようございます、お早いですね」
「おはようございますフェレス卿、すみませんちょっと予想外な事態が起きてこちらで判断できないのでお願いしたいんです!」
「私は予測してたと思いますけど、一体何が?」
「悪魔に契約を持ちかけられてます! たぶん中級以上です!」
「おや予想外。しかしマナー違反ですよ。口説かれてるのに他の
「悪魔側のマナーとか知りませんよ! こっちは不審者声かけ案件みたいもんなんですから!!」
叫んだら唇が切れました。滲んだ血を手の甲で拭います。
「だってその悪魔はあなたに話を持ちかけてるんですから、私に連絡されても。あなたが契約したいかしたくないかでしょう」
「せやけどあて今任務中ですし……」
いらだち紛れに上げた大声が早朝に響くのでトーンを落としました。そしていよいよ寒くて、しゃがんで清姫の吐いた火にあたります。清姫と振袖は黙って私たちの話を聞いていました。
「まあ、その悪魔が契約するまで離さない、とか言ってきたなら話は違うかもしれませんね。どうしても祓魔するなら宝くんを向かわせますし。そうしたいんですか?」
そうしたいんですか。言われて一瞬考えます。
――あなたに何が出来ると?
そう、私馬鹿の一つ覚えで結界ばかりで、それだって兄には勝てないし大事なときに役立ったためしがないし、戦力はあればあるほど嬉しいに決まってます。元々キャリアを考えれば使い魔は欲しいところでした。今は関係なくても、今後を考えればなおさら。しかも、向こうから私がいいなんて言ってるのです。
「……いえ、契約しようと思います。でもいきなりの話で怖くて、何か注意しとくこととかありますか」
「契約時の注意ですか? ライトニングに習ったでしょう」
ライトニングに習いましたっけ? どうにも思い出せません。魔法円・印章術で習ったはずということなら。
「霧隠先生やないですかね?」
「あー、ネイガウス先生かもしれませんね」
「……たらい回しが元凶なのでは?」
「闇の魔術に対する防衛術みたいになってますねあの授業。とにかく習ったでしょう?」
「いざ本番となると緊張して……」
「しっかりしてくださいよ、試験もあるんですし。とりあえず人間への加害を禁じる項目は確認しなさい。それから加害の範疇も。それが最低限です。あとは契約によっては働かなくなるかもしれませんがまあご自分で言うこときかせてください。では、私まだ眠いのでこれで」
影はとぷんと形を戻しました。大きく息を吸って腹を決めてから清姫の方に向き直って、結界を解きます。
「契約は……ええと、欲しいもの? の話を聞いて考えます。その話の前に、あんたら!」
振袖をとりあげると、炎の上にぶら下げました。炎の上昇気流にしては激しめに振袖が揺れます。
「やめてやめて」
「あぶないわ」
「そんな怒らないでったら」
「怒るわ! 何やの人の話勝手によその悪魔にして!」
「違うの違うの!」
「夜中にひぃさまが来てこじれた恋の匂いがするとか言うから!」
「あなたのあの時あげたお経の話をしてあげただけ! それとあと、片思いがつらすぎてその相手から逃げようとしてるって話もしたけど」
「結構しとるやん!」
炎の上で振ってやると、「やーめーてー」と声が合唱します。次はないと言ってから振袖を羽織りました。いい加減寒かったのです。「あなたのため」とかまだぶつぶつ言ってますが、無視して炎にあたりながら清姫に話を振ります。
「で、欲しいものて何?」
「あなたの恋心!」
「……え」
まだ予想できる範疇ではありましたが、なんだか大変な問題です。ちょっと意味がわからない、という感じで聞き返すと、清姫は続けました。
「叶わない恋をこじらせたものってね、わたしだいすきなの。あなたのそれからは怒りの匂いすらする。そういうのが一番好き。身勝手でみんなが苦しくなる恋。だからわたし、あなたの恋が食べたくて。あなたの恋をわたしに食べさせてくれたら、わたしは炎を貸してあげる」
蛇にはないはずのまぶたでうっとりと目を細めて清姫は言いました。揺れる炎でうろこはとろりと光ります。ええ、私の恋は確かにもうそんな、きれいなだけがいいなんて、とてもじゃないけど言えない色をしています。だから私、ここにいるんですから。まだいまいちわからなくてもう少し聞いてみます。
「その……恋心を、食われる? と、あてはもう、思い煩ったりせんようになるん?」
「そんなことはないわ。ただ、その心の動きはわたしの物になるってだけ。それを味わうのは、わたしだけ。でもその感情は、あなたのものでしかないわ」
だからどうか、たっぷり苦しんでね。清姫はころころ笑いました。そういえば
それが本当なら、いつかみたいに恋で隙をつくって悪魔に寄ってこられるなんてのはなくなるんでしょう。あまり引きつけるものなら、どこかに契約として渡してしまえばいい。聞く限りいい条件の契約です。信頼できる使い魔と悪魔落ちしない精神、二つ同時に手に入ります。
「……ほな、あてとしてはあんたを信じるか否かって話になって……つまりそれが、契約内容の交渉やんなあ。あんた、他に何か寄越せとか言わんの、身体とか」
「身体は別にいいわ。ああ、でもね、わたしここに来てお経を聴くのも好きになったのよね。好きな時に呼び出そうっていうんだったら、時々は聞かせてほしいわ」
お経を聞きたいと聞いて少し驚きましたが、そもそも清姫の鐘は妙満寺で供養され、だから妙満寺では怪奇現象も起きず彼女自身がここにとどまっていたはずなのです。
「ああ、そっか、もう大人しいんや」
「そう、大人しいの。だから別に、心配しなくても人なんか襲わないわ。失礼しちゃう。……でもね、わたしの実体験、ここまでたどり着く前に、男の一人や二人燃やしちゃっても、しょうがないと思うの。だからあなたが好きな人を殺すときには、恋を燃やしてすごい炎にしてあげるからね!」
「いや殺さんし、やめて」
「わたしもそう思ってたわ」
冗談の混じらない清姫の声の落ち着きに、さっと背筋が冷えました。思い起こされるのは昨夜感じた物騒な甘さ。知ってしまった生殺与奪の味は動悸のように胸を締め付けます。急に声をかけてきた悪魔とこんなにすぐに契約しようとしていることも合わせて、やっと不安感が襲ってきました。でも、だからといって私に逃げ帰る場所はありません。それは昨日振り払ってしまって、もう行くところまで行くしかありません。
少し話し合えば、契約内容はすんなり決まりました。私は清姫に恋心の澱を食べさせる。恋心の澱のなくなった際は契約更新の話し合いをするものとする。――私はきっとずっと坊を好きですけど、ずっとはないので、一応。――それから、ときどきはお経もあげてあげる。清姫の方は、私が呼んだら現れて力を貸してくれる。これがおおまかなところです。そして、清姫の力ではないけれど協力するものとして、清姫の火種で私の恋心を燃やして大きな炎を使うことができると言われました。いらないって言ったんですけど、人を焼く以外にも使えるからと言われたら、結界破りとかに便利そうだなと思って頷いてしまいました。これも話を聞くところ
「わたしの名前は真砂の清姫。あなたの名前は?」
「明王陀羅尼宗僧正冬隣が長女、鶯花」
「ええ、それでは鶯花。あなたの恋の燃える限り、わたしはその炎を慈しみ、守りましょう。そしてどうか願わくは、あなたの炎がわたしのつめたい體をあたためてくれることを」
清姫の冷たい蛇体が私の左の足首に一度巻き付くと、左の小指の先に小さな火が灯りました。あかあかと燃えて触れれば火傷ですまなさそうなのに、私と同じ温度をした火でした。それはほんの一瞬でかき消えます。
「……もう終わり?」
「ええ、終わり。ああ、寒かった! 蛇の体に冬の夜明け前は堪えるわ。ねえちょっと、その服、内ポケットとかないの」
清姫はしっぽでさっと払うことで焚いていた炎を消すと、ジャンプして私の肩口に乗りました。蛇のジャンプってなんか妙な感じしてこわいんですよね。「狭いだろうけど」と既に
とりあえず話も終わったことですし、フェレス卿に連絡を取ります。ようやく昇り始めた朝日が山の端を遠くて暖かい赤に染めていました。
「おはようございます。お話まとまりました?」
「はいおはようございます。ええ、おかげさまでうまいこと。なんか私欲のために悪魔と契約したような気がして、ちょっと不安ですけど」
「何をいまさら。それより朝食と居所の用意ができましたよ。鞍馬の駅前に行ってくだされば、あとは宝くんが案内します」
「鞍馬!? ……ええ、わかりました」
宝くん、こんな冬の早朝にあんな山の方に行ってくれてるんですね……。お仕事とはいえ前に乱暴なことしたので会ったら改めて謝っておきましょう。最低限の連絡は終わったのに、フェレス卿はやさしい声で言いました。
「もう気分はよろしい?」
「はい」
「ならばよし。戦力が増えたといえ状況が明るくなったわけではありませんが、最初から私もライトニングも言ったでしょう。好きになさい。何をしようと貴女の全ては時の王が許します。望むままに見て欲するままに動きなさい。何も恐れるものも、憚るものもない。何から何まで全て貴女のお気に召すまま!」
そんなの今更言われるまでもありませんでした。
「ええ、わかってます。全部好きにしますとも。もう私、そうするしかないんですから」
好きにしすぎて今更誰に合わせる顔もありません。だから今はただ、この先を、私のできることを見てみたいのです。
清姫の伝承の色んなものを継ぎ接ぎして話を作っています。清姫の母親が蛇だったという青エク的には巨人にあたりそうな説も面白そうだったのですが、今回はこういう感じで。
闇の魔術に対する云々はハリポタネタです。毎年どころか数ヶ月で担任の変わる授業。