確かに固い床のようなものの上に足がつきました。そのまま膝が崩れて座り込みます。集中の反動でばくばくする心臓を抱きしめて。
やった。やりました。兄の結界を抜けた。ハンデがあんなについてたとは言え、あの、冬隣柳の結界を抜けた。私の実力で! これでもう、何の心配も、思い残しもない!
そういえば、どこに来たんでしょう。また何にも考えずに潜ってしまった。荒い息のまま顔を上げると、きらめく夜景が見えました。眼前の輝ける京都市街。見渡せば、今度はここがどこかすぐにわかります。私がいるのは、せり出した舞台。後ろには扉を閉められたお堂。音羽山清水寺。
「ああ、……あはは」
何故、発信器を潰しても先回りされていたのかわかりました。塾生の誰かが気づいたのでしょう。東寺から、あの山はきっと伏見稲荷で、それから祇園を回って、さっきの場所はおそらく鹿苑寺……金閣だったのです。
みんなで夏に巡った観光ルート。楽しかったあの旅行。それを無意識になぞっていました。私は京都に行きたいところなんか無かった。だから、みんなが行きたかった場所を。
背中を丸めて、顔を覆いました。もう達成感なんてありません。凍える胸いっぱいの、どうしようもない郷愁。
人恋しい。誰かに会いたい。誰でもええわけやない。坊に会いたい。子猫さんに会いたい。廉造さんに会いたい。しえみちゃんに会いたい。神木さんに会いたい。奥村兄弟にも会いたい。お兄ちゃんや、おっさまや、あねさまたちや、志摩の兄さんたちや、漆野さんや、みんな、皆に会いたい。会って、今日何があったか話して、何があったか聞いて。一緒にご飯を食べて、おやすみなさいを言って眠る。そんな、ごくありきたりな、あたりまえのことがしたい。
たとえ実力に文句がなくたって、私が、どこでだってやっていけるはずがない。新しい友達ができたって、あの人たちのこと忘れられるわけない。
顔を上げて、立ち上がりました。ぼろぼろ泣けてしまって、本当に泣き虫で困ってしまいます。この後、どうしましょう。任務はもう終わったのに、せっかく捕まえてくれた兄の手を、得意顔ですり抜けてしまった。閉まったお堂の扉に一礼してから、舞台を街側に行って、手すりに手をついて街を見ました。今は遠き家の灯。夜風がやっぱり冷たくて、肩に乗せた振袖のあわせをぎゅっと寄せます。
「金襴緞子の帯締めながら、花嫁御寮は、何故泣くのだろ」
寂しくて口ずさみました。低いメロディに、振袖の姉さんたちも、清姫も、何も言いませんでした。思えば歌や独り言の多い数日間でした。誰かとずっと、話したかったのです。無意識で誰かを求め続けた旅でした。
「文金島田に髪結いながら……、花嫁御寮は、何故泣くのだろ」
そもそも、日本を離れてどこに行くとも決まってませんでした。どこにでも行けるけれど、私は、どこに行きたいわけではなかったのです。
「あーねさんごーっこの花嫁人形は……、赤い鹿ーの子の、振ーり袖着ーてる」
全部わかってるつもりでした。確かに分かっていました。寂しくなるだろうって、辛くなるだろうって。それでもきっと新しいところでどうにかなると思ってたのです。今やっと自信を得て、どこでもやっていけるってわかったうえで、そのうえで……、こんなのには、耐えられません。でも、あのままでも耐えられない。もうどうしたって耐えられない。何に? ……生きてることは、こんなに耐えがたい。止まらない涙をごしごし拭いました。別に腫れたって、ベールのおかげで見えませんし。
「泣ーけば鹿ーの子の、袂が切れる、涙で鹿ーの子の、赤い紅にーじむ」
走る足音が、近づいてきました。警備員でしょうか、それとも追手? 関係ない警備員さんやお坊さんなら、迷惑かけるわけにいきません。またどこかに行かないと。……京都タワーにでしょうか。奥村くんも、いないのに。
「泣ーくに泣ーかれぬ花嫁人形は、赤い鹿の子の千代紙衣装」
歌いおわったところで、足音が止まりました。振り返れば、京都支部の
「ここに来たということは、冬隣さんを倒しはったんですね。……明陀とか寺とか、うちにはそういうことはわからん。せやけど、あれだけ心配してくれてるお兄はんを無碍にするのは、絶対間違っとる」
鉄扇を構えた、確か祓魔五班の
「でも、ここで張っとったのは、あてがここにくるて思っとったからでしょう?」
出した声は、まったく震えていませんでした。嘘を付くのも取り繕うのも、すっかり上手になりました。まだ、仕事は終わっていないのです。
「いいえ、ただの上からの指令で。ちょうど東山で祓魔があったから、その帰りに一応張っておけて。せやから、冬隣さんが漏らすのも、その上であんたがここに来るのも、予想外でしたわ。お友達と辿った観光ルートをなぞるような娘が、お兄はんを倒すなんて。……それとも、挑発なん? 逃げ場所のヒントはやるから、捕まえてみろていう?」
いいですね、その案。もらっておきましょう。
「せやったら、京都タワーにもどなたか控えてはるん? あそこ、戦いにくそうやし嫌やけど、折角やし遊びに行きたなって来ました」
どこにもいきたくないのに、どこかに行かなくてはなりませんでした。ここで戦意喪失はできません。
――本当にどうしようもなくなったら、この私が、かわいそうな
もたれていた手すりの基部に足を載せました。そのまま手すりの上に登り、後ろに重心をかけます。
「やめなさい!!」
落ちるのは二度目にして投げやりで、今回はなかなか意識が飛びません。落ちていく内臓の浮遊も、指が風を切っていく感覚も、全部わかります。でも今回は、フェレス卿に頼れば大丈夫。ほら、落下が緩やかになってぐるんと重心がひっくり返って、足が振り下ろすように頭の上から下に、
行く途中で、
何か、人間の、体温。
目を開ければ、ああ、わかってました。わかっていましたよ。思いつめた鋭い目つきと、いつもより深い眉間のしわ。こんな時に、私を受け止めてくれるのは、勝呂竜士、あなたしかいないって。あなたからは逃げられないって、私分かってたんです。
分かってましたけど、だからって、本当にしなくてもいいじゃないですか。私、あんなに、あなたから逃げようって頑張ってたのに。全部行き場をなくして、落ちてくしかない私を、受け止めてくれなくていいじゃないですか。寒くて凍えた身体には制服二枚越しの体温すら熱すぎました。なんでここにいるんですか。兄のほうが強いに決まってるのに、何で、私が勝つ可能性なんかに賭けたんですか。こんな、
だから私、あなたから逃げられない。
坊は少し傾いていた体勢を整えました。走ってきたのか息を切らしていましたが、顔面は蒼白と言ってよいほどでした。遅れたベールがふわりと私と坊を覆いました。坊は私の顔を――ベールの下の顔を直接見て、ほんの少し浮かべていた安堵を崩しました。
化粧は夕べ落としたきりでした。顔すらろくに洗えていません。眠りは短く浅く、きっとクマもできています。泣いた涙もまだ頬にあり、こすった瞼はきっと腫れています。唇はひび割れて血をこぼし、すぐに埋まってはまた喋るたびに裂けました。
そんな顔を見られてしまいました。
醜いとかそんな問題ではありません。この人に、あからさまに弱った顔を見せてしまった。全て水泡に帰すレベルの失態です。
坊は目を見開いて、唇をほとんど動かさずに言いました。
「鶯花か」
血の気が引くくらい頭が回りだしました。
今の私を、冬隣鶯花だと思わせるわけにはいきません。こんな顔した“私”に、この人が何を
坊の胸を突き飛ばしました、が、坊はがっちり私を抱え込みました。影の力があってもしっかり要所を固められています。坊の頼もしい、たくましい体を敵に回すとこんなに厄介だなんて知らなかった。坊はぎゅっと唇を引き結び、私をそのまま胸に抱き寄せて、肩口で言いました。
「いや、悪魔が泣くか。お前が泣いとるんやろ」
未だバタつく私を、坊はますます強い力で抱きしめました。空中で別れた振袖がばさっ! と大きな音を立てて落ちてきて、闇が二人にまとわりつく中で坊が言いました。
「泣いとるお前を一人には出来ひん。お前の言うとることは全然理屈も通っとらん。俺といるのが嫌なのかもしれん。せやけど」
馬鹿やない。付き合いも長い。次の言葉はわかりました。言われなくてもわかりました。嬉しくないなんて嘘です。でも、それは、今一番聞いてはいけない。それはあなたの害になる。あなたにそれを言わせるわけにいかない! 頬に血が上りました。赤面したというより、涙が溢れそうでした。
「……俺も連れてけ。いや、着いてく。俺のこと嫌いでも何でも知らん。お前の目的が何であれ、一緒におる。何が嫌でも、俺がなんとかしたる。心配、いらん」
捕食されるような境地。あきらめ、確かな絶望と、どうしようもない身に余る恍惚。
「せやから、そんな、泣くなや……」
震えた声。ほんまは。ほんまは、嫌いとか好きとか頼られたいとか欲しがられたいとかそういうの全部どうでもよくて、ただ、ただあなたにそれを言わせる訳にいかなくて、ほんまはそれだけだったのにそれだけ叶うならあては何だって耐えられただろうっていうのに、あなたはあなたは他でもないあてのために!!
一瞬脱力しました。それで坊が腕の力を抜いたのを見計らって、振袖だけ掴んで走り出しました。あの言葉を公に残す訳にはいかない。それなら、それならどうすれば。血の気の下がった頭がぐるぐる回ります。フェレス卿の影は、フェレス卿から独立しているので、最早眷属に近い。わざわざ覗いていない限り、記録は回収するまでフェレス卿も見られない。なら、影を祓魔してしまえば中の記録もなくなるのでは。祓魔、致死説なんてわからないし、なら憑依体の破壊。私の影の破壊。私が死んでも、きっと私の死体の影に憑依する、なら、影自体を消す。どうやって、全方位の強い光。内ポケットに言いました。
「ひいさま、焼いて。あてのこと焼いて!」
「はあ?」
「ええから早く!」
「ええ、あなたが言うなら。でも、巻き込むわ」
舞台の下から小道を挟んだ正面に、子猫さんが私の前で両腕を広げて立ちはだかっていました。
「鶯花さん!」
「ぐぅ……ッ!」
進路を変えて小道の後ろ、音羽の滝の方に行こうとすれば、錫杖を構えた志摩さんがいました。
「そろそろ年貢の納め時やって!」
そして背後には坊。もう開けた小道を志摩さんとは逆の、銃で狙われやすい方向に走るしかなくて、響く銃声。
「離れなさい! こちらでどうにかする!」
「うあ゛っ」
実弾が膝にかすって転びました。多分すぐにふさがって、起き上がって再び走り出します。逃げなくちゃ、ひとまずどこかに逃げなくちゃいけない……どこへ!?
「こら! ……ああ、もう!」
一瞬射撃が止みました。振り返ると、坊が再び私を追っていました。あの人なんてことしとるん。そして射撃が再開します。
「麻酔弾だが当たれば痛い! うちの班にもう任せなさい! ああっくそ! 橋本! どうにかして!」
やまない銃声。足音は二人分より多い以上、誰も
ぐい、とベールを引っ張られて頭がのけぞりました。振り返れば坊がなびくベールを掴んでいました。しかしその背が崩れます。麻酔に当たったようでした。
――一言合言葉を言えば消えるようにしてあります。いいですか、よく覚えてくださいね。
「おーわるいっひにえげーぼれん!!」
引用元
勧酒→干武陵作・井伏鱒二訳 花嫁人形→蕗谷虹児(使用楽曲情報参照)