花に嵐   作:上枝あかり

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少女地獄 12

 目が覚めたら、枕元で兄が本を読んでいました。

「……お兄ちゃん何やっとんの」

「お? おはよう」

「おはようございます。で、朝から何の用なん」

「取り次ぎ兼看病」

 あぐらで何か読んでいますが、傍らには確かにお盆に乗ったかなり薄いお粥と水差しがありました。体を起こします。

「朝ごはん食べられそうなら食べよし。それとも先顔洗う?」

「洗う……」

 顔を洗いに行って帰るまで、誰とも会いませんでした。しかしどこかでは人の気配がします。誰かいるのに誰もいない。嫌いで、それでも馴染んだ感覚です。部屋に戻ってお粥をいただきます。確かめられませんが胃炎は塞がっているはずですし、ストレスも大部分なくなったので、こんな薄いお粥では足らないくらいです。でもそれを女将さんに説明できませんから、しばらくはこういう食事になってしまうでしょう。食後は、兄が器を戻しに行ってくれました。その間に寝巻きの浴衣から服に着替えておきます。本調子ではありませんが、布団に寝ているような体調でもありません。布団を畳んでいると兄が戻ってきましたが、少し部屋の前で話していたような。

「……外に人おらへん?」

「お前に会いに来た連中やな。療養中やさかい一人ずつ順番守らせとる。もう入れてええか?」

「……あにさま、あて紙と書くものが欲しい」

「何に使うやつ」

「謹慎って書く」

「自主謹慎するん?」

「する」

「地袋に旅館の便箋入っとるはずやで」

 便箋の補充のお仕事任されたこともありましたね。うっかり忘れてました。出した便箋に大きく謹慎中と書きます。それを渡せば兄は表に貼って、外にいたらしい人を散らしてくれます。

「というかお前、寝とらんと治らんぞ。お正月に間に合わせんとごちそう食べられへんで」

「あのね、その件に関係して……話さなあかんことあるん」

「何や?」

 兄は何でも無いように聞き返しました。一度きちんと座布団に座って、一つ息を吸ってから、順序よく話します。上手に説明できるか不安でしたが、エリクサーについて話していいことだけ、きれいに説明できました。そういえば私はこの3ヶ月、兄と連絡を取るたびに何と言えばいいのか考えていたのです。

 全部話し終わると、兄はあぐらのまま口元に手をやって下を向いて、少ししてからそのまま言いました。

「……そうか。わかった。坊はご存知なんか?」

「うん」

「そうか。……そうかぁ……」

 そして顎を上げて天井を見上げます。

「……おまえも、大きなったなぁ……」

「……ん」

 兄はしばらく、天井を仰いだままでした。何を言うでもなくただ上を見て、それから疲れたようにかくんと首を下げて、首筋を揉みます。

「……まあ、お前が元気なら、兄ちゃんはそれでええよ。僕はほんま、それだけやから」

 さみしい響きでした。何か悲しい事情で聞き分けの良い子供のような言葉でした。でもきっと、兄は青い夜からずっとそういう聞き分けの良い子供だったのでしょう。私にとってはマイペースで傍若無人よりの泰然自若でしたが、もし兄が私のために生活していたら、きっとこんなに息のしやすい兄妹ではいられませんでした。

 ああ、それで私と坊は、あんなに息がしづらかったのか。

 ふと気づいて、兄の賢さに感謝します。うつむく兄の焼けた手に、十六年前、爛れた妹を抱えて、焦げた母を背にして、冷たい池の中で救急車のサイレンを待つ少年の姿を幻視しました。青くこごえる冬の夜に、それでも頑張らなくちゃいけなかった一人のこども。

「……おおきに」

「何がや。僕は、自分の好きなことしとっただけや」

「……女装とか?」

「女装やないねん。別に女になりたいわけやのぉて、スカートも僕には似合うってだけの話や。でも爺ちゃんには内緒やで」

 まだ女のズボンほど時代が追いついてへんからな。いたずらっぽく笑った兄は、今度は私が兄の結界を破った方法についての話題を振ってきました。やりかたは単純でしたが、そこまでの火力はどこから調達したのか? など。そのまま結界についての意見交換もします。たとえば、日本支部のフェレス卿の結界の話とか。外ではどうやらお正月と結婚式のために志摩と宝生の親族がどんどん集まって、お餅をついたりしているようです。金造兄さんの威勢よい掛け声など聞こえてきます。そっちは私が病人になっていて兄が看病していることになっている以上、あまり出ていくわけにはいきませんが、昼前には一度和尚(おっさま)のお部屋に改めてお詫びとお礼を言いに行きました。和尚(おっさま)は私の顔を見てから一つ笑って「これで柳も安心やな」と言いました。

「ええ、心配かけましたから」

「なんや落ち着いたなあ。しっかり、前を見とる」

「……ふふ」

 少し照れて、うつむきます。その言葉は、今の私にはちょうどよい褒め言葉のようでした。正座の上にのせた手がちょっとだけもぞもぞします。そろそろ和尚(おっさま)のご都合もありますしお部屋を辞そうと腰を浮かしかけたときでした。

「竜士のこと、頼むで」

「……はい」

 顔を上げれば和尚(おっさま)は柔らかい視線を私にやっていました。重たい言葉のはずでしたが、ふわりと胸に落ちました。明陀宗僧正家系とか、そういうことではなくて、ただ、あの人に大事にされてる、あの人を大事にしている一人として。

 部屋に戻ってしばらくして、運んでもらったお昼はお餅のかけらを薄いお出汁でとろとろに煮たものでした。一緒の兄はつきたてのおろし餅です。

「ええなぁおろし餅……。あてもう平気やもん。一つちょうだい」

「あほぉ、塞がっとるからってすぐ普通の食事に戻れるか。もともとお前胃ぃ弱いんやし、正月までは養生せえ。ほんまにそれで医工騎士(ドクター)とる気なんかい」

 そのまま、食べられるかわからないまま食べて吐くという癖が昔から治らないと説教されました。昔の話やんと言うには昨日は最近です。調子悪いのがわかっててもなんかイケる気がするというか、まさか吐くと思ってないんですよねえ。おつゆも飲み終わって食後のお茶を頂いていると、携帯電話が鳴り出しました。見れば知らない番号です。えー、迷惑電話やろか。こわ。出んとこ。

 そのまま放置していると、電話が切れた後間髪入れずにもう一度同じ番号からかかってきます。それを無視しても、もう一度。流石に気になったら、兄が代わりに出てくれました。一度咳払いをしていつもよりうんと低い声をつくってから。

「もしもし。……はぁ? ……えっ」

 低音が崩れました。どうしたんでしょう。

「はい……、ご無沙汰してます……。いえ、もう僕も捕まえる方ですよ、はは……。はい、ほなかわります」

 そして携帯をこちらにさしだして。

「フェレス卿や」

「えっ」

 私に携帯を返してから、兄は部屋を出ます。

「もしもし……」

「はいもしもし、メフィストフェレスですっ。いやぁ、志摩くんに電話番号を伝えてもらえばよかったですねぇ。知らない番号には出ない。出る場合は大人に出てもらう。未成年を預かる身としてこの態度を責めることはできませんから。いや~それにしても近頃の技術の進歩は著しい。保護者の関与なく未成年とお話するのがこんなに楽になるなんて、進歩した技術を取り巻く人間には飽きることがなくて大変結構です」

「ええと、ご用件は?」

 このままでは通信手段の変遷について語り出しそうでしたので止めます。フェレス卿は口調を変えずに本題に入りました。

「ああ、失礼。ひとつだけ確認したいことがありまして。直前の情報が乱れているんですが、あなた、何故あの時焼身自殺しようとしたんですか?」

 あの時、とは一昨日の清水寺でしょう。理由は坊の問題発言を記録した影を消すためです。……でも、何故それを予想できないのでしょう。直前の情報が乱れている?

「ああ、あの時は取り乱していて。是が非でも捕まりたくないっていう強迫観念にとりつかれていたっていうか……。本当は鹿苑寺で捕まってよかったのに、飛び降りからの焼身未遂。みんなに心配かけすぎて、今は反省のため謹慎してます」

 一縷の望みにかけて、聞き返さずに嘘をつきました。しれっと言いながら考えます。――何があった?

「そうですか。フーン。フ~~ン。そうなんですか~。あなたが飛び降りて勝呂くんに受け止められて、『いや、悪魔が泣くか。お前が泣いとるんやろ』って言われて。その後展開的に勝呂くんは何か言ってると思うのですが、それはあなたの逃走本能を刺激するだけの言葉であったと。へえ~~」

「はい、そんな感じです」

 どうやら、何らかの理由で問題発言部分が抜けているようです。それで確認しにきたということでしょうか。でも、口調がまったく安心できません。この悪魔、何を知ってて、何に勘付いてて、何を企んでるんでしょう。

 しかし私の疑念と裏腹に、フェレス卿はあっさり引き下がりました。

「……ま、肝心の証拠がありませんからね。ヴァチカンにそこまでする義理もありませんし、彼にやってもらいたいことも多いですし、そういうふうに報告しておきます。でも一応、彼にあんまり滅多なことしないように釘指しといてくださいね。それでもって貴女の任務は完了です」

「はい、承知しました」

 どうやら、嘘には気づかれているようですが見過ごされたようでした。ため息を飲み込んで考えていると、フェレス卿は続けます。

「それと、嘘をつくときには言葉を多くしすぎないと注意したでしょう? 足らないと思うくらいにして、相手から聞かれるのを待ちなさいと。仮にも私の教え子なんですから、それくらいは守りなさい。他はまあ、及第点です。よいお年を!」

「……は~い、よいお年を」

 電話が切れて、今度こそ肩の力を抜きます。まあ、ヴァチカンには何もなかったと報告してくれそうです。そういうところで嘘をつくほどせせこましいタイプではありませんし、何か思惑もあるようですし。そもそも証拠の坊の問題発言がどうやら記録されていませんでした。……なぜ?

 原因があるはずです。あの時何がありましたっけ。手すりの上に登って後ろに倒れて、フェレス卿の影でスピードがゆるくなったあたりで坊にキャッチされて。悪魔が泣くかって言われたところまでは聞かれてたのに、その後……?

「あ」

 その後、振袖が遅れて落ちてきて、私と坊を覆いました。

 その前日、不動峯寺跡で塾生を相手取った時に、声を遮ってくれるベールの内に入れてしまった志摩さんへ真言が聞こえないようにするのを振袖ができないかと思ったのは私です。志摩さんが特に疑問に思っていなかった以上、振袖は確かに声を遮ってくれていました。振袖はそういうことが出来るのです。そしてあの時、振袖は長身の坊と抱えられた私を頭から覆って、影の這う地面に至ることなく帳を閉じた。

 あの二人きりの暗闇は、私達ふたりだけのものだった。

 ため息ついて脱力します。握った携帯を放り出して。なんや。なーんや。ほな、もう何も心配することないやん!

 気が抜けて笑っちゃいます。ふふ。んふふ。まるで天下泰平、何もかも終わったようなつもりになって。はー。振袖にも、お礼、言わんと。脱力していたら唐突の着信音、SMSがさっきの番号から来ました。

『振袖の返却はあなたが東京に戻る際にご自分でお願いします。新年着用してもらってもかまいませんよ☆』

「や、流石に無理やろ……」

 振袖はそれを望むかもしれませんが、ブラックジョークが過ぎます。謹慎を全て台無しにして関係各位、つまりだいたい皆に冷や水ぶっかけるようなものです。

 そのあたりでなんとなく、外……というか、坊が気になりました。スマホを握ったまま障子を開けて外を覗くと、やけに静かです。不審に思って半分身を乗り出すと、唐突に大声が上がって、さらにものすごい勢いの足音がこちらに向かってきます。子猫さんでした。

「鶯花さん! 今出張所から連絡きて……出張所の職員も塾生も全員問題なしやって!」

「あー、今あてもフェレス卿からそんなようなこと聞いたところ……」

 ふにゃふにゃ笑って言うと、向こうから金造兄さんの大声で「やっっぱ流石坊やあああ」と聞こえてきます。みんなそこを心配していたのです。

「鶯花さんも向こう行かへん?」

「んー、あては今年中は謹慎しとるね。ほんま、お兄の結界破る必要とかあらへんのに面倒かけたから……」

「みんな会いたがっとるのに……」

「あと、あんまり元気なのバレると面倒になるし」

「ほなしゃあないねえ。でも一応、お大事に」

 手を振って別れます。そう、私謹慎中なんですからそうそう人とお喋りできません。部屋に戻って、昼ごはんの時にもらった私宛で虎屋に届いた封筒を開封します。なんで放置してたかって、去年学校紹介を取り寄せた時に届いたのと同じ正十字学園のA4封筒で、差出人がヨハン・ファウスト五世だったあたりでうっすら中身を察したからです。

 中身はやっぱり冬休みに出ていた宿題でした。戻る気がなかったので部屋に置いていったプリント類。戻ることになりましたのでちゃんとやらなきゃいけません。机上で広げていると、足音がまた部屋の前で止まりました。

「鶯花」

 ……あて謹慎中やって書いとるのにお客さん多過ぎひん?

 でも、出るべきでしょう。約束してしまったので。

 障子を開けると、坊が立っていました。まっすぐ見上げます。ふしぎと明るい気持ちでした。

「二人で話がしたい」

「ええ。約束でしたもんね。どうぞ、中に」

「いや、遠慮しとくわ。俺の部屋……もまずいな」

 ああ、昨夜言ったこと気にしてくれてるんですね。でも、その二つが駄目だと、虎屋に二人きりになれるところなんてないです。

「あー……、裏行くか。コートあるか?」

「あります。井戸のところですか?」

「そこや。俺もとってくる」

 お勝手の裏のところには、今はもう滅多に使われていない井戸があります。その近くは人通りがほとんどありません。押収品として保管されていたコートを着てからそちらに向かいました。

「何の話からします?」

 井戸のヘリに腰掛けながら言いました。坊も隣の辺に腰掛けます。肩だけ触れ合う距離で、小さい声で話しました。人通りもないわけではありませんので。

「せやな、まず……流石にあそこまで言うておいて、何もなしってのはおかしいわ。何や知っとるか」

「あれは結論から言うと向こうに伝わってません。振袖がうまいこと隠してくれたみたいで。フェレス卿はうすうす勘付いとったみたいですが、少なくともヴァチカンには何もなしと報告されたそうですし、証拠もないそうです」

「振袖が? 何にしろ、なんや不正したような気分やな……」

「振袖に気に入られてて、仕事中もいろいろ便宜をはかってもらっとったんです。フェレス卿からは、滅多なことせんようにあてから釘刺しとくように言われました。それで納得してください。そのためにも、滅多なことせんでくださいね」

「せんわ。……あー、うん、せんと思う……」

「なんですかその歯切れの悪さ」

「いや、ライトニングのもとでやっとることは、ライトニングの指示やしな……」

「あのオッサンほんま何させとるんです!?」

「いや、大したことやない」

 思わず振り返ったのを向き直します。自分の靴の爪先をぱたぱた動かすのを見ながら、次の言葉を待ちます。

「……おまえ、俺のこと嫌いなんか」

「!?」

 また坊の方見ちゃいました。坊は楽な格好で前を見ていました。

「いやいやいや……嫌いやないっていうか、……好きですよ。ご存知やと思ってました」

「せやけどお前、嘘つけへんやろ」

「それ言うたらフェレス卿泣きますえ、嘘泣きやろうけど。あんなに仕込んだのにって。嘘のつき方、本音の隠し方、男の捨て方、全部教わって精一杯があれやったんです」

 そう、嘘はよくよく教わりました。そしてあの悪魔のささやき。別れるフリをしてみませんか。なぁに、心配せずともだいじょうぶ。フリだけですから、お芝居の幕が降りたら元どおり。お仕事ですから、あなたが望んだわけではないんですから。結局フリをフリでなくしてくれと頼んだのはこちらからで、さすが悪魔の王様はやることがうまい。

「お前何教わっとるん……」

「いやあ、任務に必要ないことも混ざっとった気ぃしますわ……」

 ここまで冗談めかして、でも、少し真剣に。

「せやけどそうですね、坊もあるでしょう。思い通りにならなくて、憎らしくなっちゃうこと。その程度はありました」

「そう言うんやったら、俺はお前を思い通りにしとったんやろうな。お前のええようにしたりたいのに、お前に好きなところで勝手にせえとは言うたれへん。……その結果があのざまや」

「今回の件で、あてがろくでもないことすると坊は更にとんでもないことするってわかりましたから、あても滅多なことしないようにしますわ。そういうことでしょう」

「そういうことやのうて。そういうことやなくてやなぁ……」

 坊のすっかり低い声が、ぽつんと冬枯れの裏庭に落ちました。

「俺はお前を、自由にしたれんのや……」

 それは、前に言った殺すのより、よっぽど酷いから、お前も嫌いや言うたんやろ。

 そう続ける声音は何か恐ろしいものを見たようでいて、しかし落ち着いていました。……いやいや、でもですよ。

「いえ、あては好きなところに行きますよ。坊もあてが外にお友達作ったりして、自立してきたからああいう話したんでしょう。あては別にどこでも一人で行けますし、坊の許しも必要ありません。行くなと言われても行くときは行きます。今回新幹線乗ったのかてそうやったでしょう。……そのうえで、坊のところに、帰ります」

 冬の日はもう沈みかけて、夕暮れの赤が旅館の裏を照らします。中で電気がついて黄色い光が寒気の中に漏れてきました。次いで、横にある灯籠に明かりが入ります。後ろの廊下を誰かが通っていく足音。坊はなにか言いかけてそれが通り過ぎてから、小さな声で言いました。こちらを見て、なんだか子供みたいな顔で。

「せやな、せやったな……。……帰ってきてくれるんか」

「夕飯がいらないときには先に連絡しますよ」

 じんまり笑いながら言います。坊はそこで肘を膝の上について背を丸めて、でも前を見ながら言いました。

「俺はな、お前を好きなところに連れてってやりたかったんや」

「連れてく?」

「覚えとらんやろ、お前が寺の境内の桜を見たい言うて……。昨日のことみたいに覚えとるわ」

 曰く、それは私たちが幼稚園の年長の春でした。私は瘴気に中った後で寝かされていて、桜の花びらを持って見舞いにきた坊に、桜を一目でいいから見たいと訴えたそうでした。予定が聞こえつつあった青い夜犠牲者の七回忌の話まで頭によぎって、まるで枯れ木みたいに細かった私の手を握って、坊は言います。

『おれが連れてったるから。桜でもあじさいでも、ひまわりでももみじでも、その次の年の桜でも! おれが見せたるから、その次も次も見せたるから。行きたいところ、いつでもどこでも連れてったるから、せやから……せやから、死んだらあかん!』

 ……。

「死にませんよお」

「その時の俺はそう思ったんや。実際痩せて顔色悪いし、瘴気で何人も死んだって聞いとったし」

 あの時が瘴気に中ってまずい薬を飲まされたときでしたか。その後に坊が連れ出して桜を見せてくれたのは、私も覚えています。あの春の夢。その答え合わせでした。それでその後、私は体力が切れて桜の前でうとうとしだして。

「お前その時何ていうたか覚えとるか?」

「いいえ」

『ごくらくじょうどって、こんなかんじなんかなあ。ててさまやかかさまも、こんなところ、おるんかなぁ』

 坊がそれに返事をして隣を見れば、私は目を閉じていました。桜の花びらが、前髪に乗りました。火傷を覆う包帯に落ちました。色の悪い唇を隠しました。

 返事をしない私を、坊は起こそうとしました。息はしていたはずですが、死にそうに思ったのでしょう。桜の花びらが動かないまぶたの上に積もって、まるでどんどん花に埋もれていくようで。急に風が強く吹き出して、坊は誰か呼ぼうと叫ぶのに、誰もこないどころか私すら起きず、声は花嵐の中に消えるばかり。

「……怖くないです?」

「めちゃくちゃ怖かったわ。結局和尚(おとん)が来てくれたんやけど、桜は何や悪魔に憑かれとったっていうて伐られたし」

「あれそんな理由でした!?」

「お前は知らされとらんかもな。……とにかく、俺はそれが忘れられんで、お前のことはどっか連れてったらなあかんてずっとおもっとったわ」

 そう聞いて、どこか納得行くところがありました。坊は寺にいることではなく、どこか楽しいところに連れて行くことを考えていたのです。ほほえみながらうつむきます。

「逆ですね。……あては、坊がずっと寺におればええって言ったの、ずっと覚えてましたよ。せやから、もう寺には帰れへんって言われた時、それはもうショックで」

「ホンマか」

「ホンマに」

「すまんな。……そのうえで、俺のところに帰ってきてくれるんか」

「ええ。帰りますよ。だって、坊があてのこと待っててくれてるんですもん」

 一度裏切ったからこそ、二度目はごめんでした。私は魔性の女にはなれなかったのですから。魔性の狂気を遠ざけて、乱痴気の夜を過去にして、正気と自信だけが私がこの人との間で使えるものです。

「あてはね、もう好きなところ、自分で行けます。むしろそうやって、坊があての面倒みるばっかりで、あてのこと頼ってくれないのは、確かに嫌でした。あては坊に頼られたかったんです。坊も前に頼られないのが腹立つって言うてはったように、あても腹立ててたんです。……これは、ほんとうですよ?」

「……ん?」

「なんです」

「……聞き覚えあるような気がして。どこでや……?」

「あら、覚えてらしたんですか。クリスマス会のときに、坊が寝てまった時に言いました。酔ってはったから、てっきりなんにも覚えてへんかと」

「ああ、それでか。いや、覚えとるってほどやのうて引っかかった程度や。……なんか俺、その時まずいこと言うたか」

 ずいぶんかわいかったですよ、はやめておいて。

「いいえ、特に。……それにしても、あても坊も、お互いのためって頑張ったはずなのに、どうもうまくいかんもんですね」

 昨日のまとまらない思考の輪郭。私のためだと言った人。自分にかまうなと言った人。そして、あなたのためだと言った私。

 私は坊が好きで、そして坊を扶けたかった。本人が助けを求めてからじゃ遅いって、神木さんを見て知ってるつもりでした。でもそれは、同じようなことを考えて、全部裏目に出ていた山田くんとそう変わりません。誰かを助けてあげたいって願望は、きれいに聞こえますけど、きっとあの時の山田くんと同じです。相手を見て、自分の非を認めなかったら、ただの押しつけ。

「あては相手のために優しくされるの嫌でした。内申点目当てで言葉だけ優しい委員長や、自分がヒーローになりたくて優しい山田くんや。でも、坊のためって言ってたあては、どう違ったんでしょう。……そもそも、優しい人間になりたい人や、かっこいい人間になりたい人のことを否定できるほどのものが、あてにあったんでしょうか」

 問の形ではありましたが、坊の答えを待たずに続けました。きっと坊も、答えを持っていないでしょうから。

「ずっと考えてたんですが、わかりません。でも、あんまり『あなたのため』って言うのは、窮屈です。きっと自分のためって思ってるくらいが、丁度いい」

「おまえも、それを言うんか」

「……?」

 お前も、とは、坊は他に誰かに似たようなことを言われたのでしょうか。灯籠で照らされた横顔を見ると、気づいたように坊もこちらを見ます。

「ああ、お前あの時は聞いてへんか」

「えっ気になるんですけど。何なんですか」

「島根でお前が倒れた後、志摩がな。でも、せやな。確かにそうや。たぶんそれが自由で自立ってことや」

 志摩さんも同じ結論に至っていたのでしょうか。前は志摩さんの目を輝かせて語った『自由』を、家のないことだと思いましたが、今なら行動を誰か他人のためだと言わないことだとわかります。……志摩さんはわかっていたことにたどりつくまで、随分時間も迷惑もかけてしまいました。でも、遅すぎるということはないでしょう。今が一番早いのですから。これからを良くしていけばいいのです。これからの長くて、苦しいだろう時間を。

「あてらはきっと、もっと話すべきやったんです。連れてくのでも着いてくのでもなく、一緒に歩きましょう」

「俺の好きにしたら、お前のこと抱えてくぞ」

「いいですよ、あても坊を抱えていきますから。お互い様です」

 笑って右手を差し出すと、坊は穏やかに笑って握手をしてくれました。筋肉質な手は固く少しだけ冷えていて、私の手の小ささを知らされます。手をつないだことはたくさんあるはずなのに、こんなふうに向き合って握手をするのは初めてでした。

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