「おうどんが食べたい」
塾の古い机は滑らかとはいえませんが、頬にひんやりしていました。私の言葉はぽつりと塾を漂っていましたが、響きは自分で聞いても真面目で悲しげでした。風邪の日に食べたうどんが、私の中に寂しい幽霊のごとく居座っているからです。
「学校の食堂はともかく寮の食堂にうどんくらいねえの?」
「まあ“うどん”はあるわ。けど、なあ」
奥村くんの当然の疑問に坊が答えました。奥村くんはまた首を傾げるので、志摩さんが笑ってねたばらしします。
「関東風の味付けに嫌気が差したんやろ?」
「うん……」
「こっち味濃いですもんね。僕もそろそろ京都のうどんが恋しいわ」
子猫さんがそう言いながら自分のお腹をさすりました。塾も終わって、いい加減夕飯が気にかかる時間です。
「何、京都のうどんって違うの?」
「まあこっちと違って出汁メインやなぁ。ホームシックみたいなもんやろ」
志摩さんが答えたのに、奥村くんはなぁんだと言わんばかりに鞄を置いて腕を組みます。
「じゃあ作りゃいいじゃん、うどんくらい。材料ならこっちでもあるだろ? 台所なら俺んとこの旧寮の使えばいいし」
「いやでも、奥村くんとこガス火やろ?」
頭の中を透明なお出汁の幻覚に浸されながら、机から顔を上げて奥村くんにダメ元で聞きます。
「ガス火だなあ。古い建物だし、カマドほど古くねえし。いやでも俺はあれがいいと思うぜ? 火力的に。IHとか使ったことねえけど信用できねえ」
奥村くんが料理人みたいなコメントをしていますが、私にとっての問題はそこまでハイレベルではないのです。
「あてなあ、ガス火……っていうか、青い火駄目なんよ。怖あてかなわん」
「そっ、そーなのか」
「何でやろなあ、怖い青い火なんて記憶にはないんに」
胎内の記憶があるという人も居るそうですから、乳児の頃の記憶だってあるのでしょうか。ガスの火を見ると、ぞわっと鳥肌が立ちます。お鍋を乗せてつまみを調節すれば炎は見えなくなるのですが、どうにもそわそわして手が震えて、火を消してしまいたくなるのです。赤ん坊の頃も、ガスの火が着いたお勝手に入ると泣き出したと聞いています。震えた手で包丁を繰るのは危ないため、厨房のお手伝いも私は免除されて電話番をやっていました。しかし、そんなことでは私は料理が覚えられません。家では包丁とまな板を火の見えない居間へ持ち込んで使いましたし、祖母は私のために電気コンロを買って料理を教えてくれました。
「でも僕らも食べたいし、奥村くんところ貸してもらえるんなら鶯花さん見学で僕らが作ればええやないですか」
子猫さんが提案するのに志摩さんが乗りました。志摩さんはこういうイベントが好きですから。場が乗り気になってきたところで坊が予定をまとめようと奥村くんに予定を聞きましたが、奥村くんは何時でもいいという助かるように見えて微妙に困る返事をします。しかし坊かて伊達に人を取りまとめる座主を志してはいません。
「じゃあ明日からの林間合宿終わった後、打ち上げ兼ねてはどうや」
「京都うどん会かぁ、楽しそうだな」
「鶯花さん他の女の子も誘ってや」
「ええ、志摩さんが誘えば」
「鶯花、おまえまだ女子と打ち解けとらんのか」
「今ちぃと気まずいだけです」
「今て」
「いや、ほんまに、今きまずいんです。杜山さんと」
ぱたん、と顔を机に伏せます。塾の机と私の関係は五分前に始まったばかりですが彼は私を天板のように広い心で受け止めてくれるのです。……なんて。
ぎし、と音がして、さっきまで立っていた坊が私の前の席に座りました。奥村くんは、夕飯の準備をすると断って帰っていき、教室には私達だけになります。
「なんや、話してみい」
「プハ、坊なんや先生みたい」
「志摩さん」
子猫さんが志摩さんを咎めます。こういう、いつも通りの関係は、楽で大好きです。人間関係で楽をしちゃいけないんでしょうか。
「杜山さんとはお前、一時期よう話しとったやないか」
「杜山さん、あてとお友達になりたいんですって。あても、杜山さんは素敵な人やから、お友達になれたらええなって思ったんです。でもあて、火傷のこと知らん人とお友達になれる気ぃせんし、杜山さんは火傷見ても何とも言わんやろうなあ思ても、言えへんやろなあって思っとったんです」
伏せていた顔を横に向けると、志摩さんと子猫さんも通路を挟んだ向かいに座っていました。視線を床の埃に移して続けます。
「でも、そんなん全部あての都合で、杜山さんには関係あらしまへんやん。やから杜山さんはあてが腹で友達になれんとか思とるのに仲良うしてくれて、にこにこ笑うんです。ほんまかわええ顔で、杜山さんちょっと神木さんにいじわるされとったから、こうやって普通に話して笑てくれるのはええなって思うし、それに、杜山さんと喋っとるのは楽しいんです」
……そういえば坊は、杜山さんと神木さんを見てああいう遊びだと思ってた人です。ちゃんと通じとるやろうか。
「でも、こないだ一緒やった任務で、あて、転んだんです。ほんま、魔障とか関係なくただ転んだんですけど、肘だいぶ強う打ってまって。傍から見てもヤバそうやったんでしょうね、杜山さん、
実は、あの日弟切草を包んでくれたハンカチ、まだ持っているのです。熱を出したり洗濯したり話せなかったりで渡せないままに。
「よぉ考えたら、あてが勝手に壁作って杜山さんが壁にあたって、そんな杜山さん見てかわいそうやって言って、でも壁壊す気ないてあて最低ですやん。そもそも杜山さんが神木さんに意地悪されてかわいそうやから哀れみでお友達になってやっとる気やないやろかとか、考えだしたらどんどん杜山さんに合わせる顔のうなってって。もう、どうしたらいいか」
私がもう一度顔を伏せると、坊はふう、と息をつきました。
「……なんや、安心したわ」
「坊?」
首だけで坊を見上げると、坊は軽く笑って私の伏せている机に頬杖つきました。
「入学した頃はどうなることか思っとったけど、まともに人付き合い出来とるやん」
「もう先生言うよりお父の発想やん」
「志摩さん、シッ」
志摩さんの茶々を子猫さんが黙らせます。
「そりゃ、訳も話さんと突き放したお前が悪いわ。でも、突き放せる距離まで人間入れとるんは、お前、今までからしたら大分進歩やぞ。そんで、杜山さんに合わす顔無い言うんは、合わせたいけど合わせられんってことやろ」
「……はい」
「なら大丈夫やろ。カワイソウとかそんな、現に上から目線とかも無しで普通に付き合うとるのに言う方があほらしいわ。別に合わす顔くらいあるからとっとと仲直りしてきい」
「僕もそう思いますわ。単に仲のいい子がいじわるされて、止められへんけど嫌やって思っとった罪悪感から変なこと考えとっただけのような気ぃしますよ」
「……はい」
坊と子猫さんが言うと、なんとなくそんな気がしてきます。我ながら単純です。まだ火傷について言える気こそしませんが、肌を見られたくない事情があると言うくらいならきっと。むくりと体を起こします。志摩さんが手を頭の後ろで組んで言いました。
「俺は坊が言うほどウェットな付き合いせんでもええと思うけどなあ。見とった感じ鶯花さんがなんと言おうともう普通に友達やったし。ていうかそもそもただの打撲やったんやろ? それでええって言うとる人の袖めくるんはちょお距離感狂っとるわ。杜山さん人なれしてへんみたいやし、これただ友達おらへん女の子二人が距離感測りそこねとるだけやん」
「せやろか」
「まあ友達付き合いなん人それぞれですし、火傷のこと言えんうちは志摩さん参考にしたらええと思います」
朴さんも私の壁に当たった人だと思いますが、あれ以来も適度に話しかけてくれて、それこそ志摩さんの言うような距離感の上手い子だと思います。流石神木さんのお友達と言うと、神木さんに失礼でしょうか。それに甘えていられるのは嬉しいですが、適切な距離というのを保てるように私も成長しなくては。私がお友達と呼べずとも、仲良くしてくれる良い人たちに誠実にあれるように。それから、わりと変な人に好かれやすいのでこっちを防ぐためにも。
「なんや元気出てきました。ちょお頑張ります」
私が立ち上がってそういった後、誰からと言わずそのまま教室を出て寮に帰ります。もうお腹ぺこぺこです。明日からの林間合宿に備えて、今日は早めに寝たいところでした。