オリ主の容姿描写を最低限にしているシリーズなので、髪型などの描写はほぼこのお話にしかありません。番外なので読まなくても影響のない回です。
目を覚ませば、目に入る天井は暗く、すっかり宵の口だった。少し障子が開いたままらしく、ぬるい風が吹き込んでくる。ほんのりと花の香りがした。頭を上げずとも、横になった原因の頭痛が去っていないのは分かった。ひょっとしたら、頭痛がぶりかえしたので目が覚めたのかもしれない。
「水でも飲みますか。薬は、そろそろ飲める頃ですけども」
小さく、でも聞かせるつもりのある通る声がした。顔を向ければ、障子の横に鶯花が、正座を崩してこちらを見ていた。
「水だけ、頼めるか」
「はいな、ただいま」
鶯花は手に持った文庫本を置いて、音もなく出ていった。家具のような女だった。どうしても人目を引く容貌とは裏腹に、もしくはそれを補うように、黙っていれば存在感が部屋に溶け、そのまま役目だけをこなしてみせる女だった。西日が文庫の表紙を飴色に照らしていて、それを頼りに本を読んでいたことがわかる。最も、目を開けただけで身動ぎしない自分が起きたことを察したのだから、集中は出来ていなかっただろうが。このままここにいるつもりなら、灯りを点けさせなくてはいけない。目が悪くなる。いや、それより家に帰らせるべきか。直に東京に行ってしまうのだから、兄と過ごさせたほうがいい。もうじき夕飯時のはずだった。そっちの方がいい。自分は、一緒に東京に行くのだから。柳は、鶯花が家を出れば一人暮らしになってしまう。冬隣のじいさんは、つい先月病院から退院して、そのまま施設に入った。
冬隣の家の、柳と鶯花は、似た顔をしている。同じような、目の大きな童顔気味なのに、下まつ毛の長いのが妙なところ大人びている、くちびるの小さな顔だ。何でも、お父とお母を足して二で割ったような顔らしい。父親に男連中全員が似ている志摩の家とは違っている。髪の色も、染めていないからそっくりで、いわゆる緑の黒髪だ。対価としているので柳は長髪を無造作に切っては与えるざんばらだが、それでも様になっている。鶯花は、尼削ぎみたいに顎のあたりで切りそろえているが、やはり対価とするために、一房だけ伸ばしている。鶯花の髪はもっと根気よく梳かしてやればもっと大人しくまとまるのに、いつも一通り梳かしただけで出て来る。柳はそのあたり、きちんとしている。一通りの身だしなみ以上に着飾ることを、鶯花は苦手としていた。無意味だと思っているようだが、そんなことはないから、もっとしっかりすればいいのにと思う。どうにもふわふわしたやつで、同性の友達もおらず、目が離せない。不安である。東京でも、やっていけるのだろうか。いや、東京だからこそ、上手くやってもらわなくては困る。
あの、目が特にいけない。あの目は、同じ顔をしているのに、どうも柳とは違う。同じように、たっぷりと擦った墨の照るような色の、俺と違う大きくて愛嬌のある目をしているが、いつもどうやら、何も考えていないような、焦点の合っているかあやしい目をしている。目で語るということも少なくて、じっと見てこられても、何か言いたいことがあるのだろうな、としかわからない。しいて言えば、嬉しい時は、きらきら光るので、わかりやすいだろうか。だから、その時は好きである。それを、外で見ることもないが、なるべく、そんな目で暮らさせてやりたいと思う。
つらつら考えていたが、障子に人の影が写るのが見えた。影が動いて、やはり音もなく鶯花が入ってきた。持った盆の上には、グラスが載っている。
「どうぞ」
「おおきに」
ベッドの上で体を起こして、グラスを持てどひやりとはしない。水を汲むには遅いと思ったら、少しぬるめの湯冷ましのようだった。
「お夕飯まではまだありますから、寝とってください。お兄が呼びに来てくれるそうです」
「柳が?」
「はい、あてがこっちにいるから、今日は虎屋でご飯を頂こうってなって。今厨房手伝ってます」
す、と視線を厨房の在る方に流す。西日で照らされた頬は、よく見るとやや凸凹しているのが判る。化粧の下の爛れた顔を晒すのを、すっかり嫌がるようになった。そのかわり、外にはよく出るようになった。
幼い頃は出たくても出られないことも多かった。魔神に炙られた内臓が、度々不調をきたしていたからだ。熱っぽい瞳で布団に伏せて、蚊帳の中で外が羨ましいと言うことも多かった。皮膚移植のために入院して、外遊びどころか身じろぎすら許されないこともあった。昔は枯れ木のように細く、その上に張り付いた焼けた肌に、明日にもこいつは死んでしまうのではないかと思った夜も少なくない。小学校に入った頃から丈夫になりだした。中学に入って俺が鍛え始めた頃に「ほなあても」と言っていたが、いつの間にか密かに筋肉がついて、主張こそしないもののみっしりと存在を確立させている。筋肉だけではない。他も随分女らしい体になった。あの気安い柔造が体に触れるのを、ためらうほどである。まだ背の伸びない子猫丸は、なぜ同じ丈の鶯花を高い高いしないのかと聞いて、もう娘さんだからと答えられた時には、自分がまだ男でないと暗に言われて凹んでいた。そうやって、同い年の中では一番大人に近づいた体をしているのに、どうも中身はまだ子供っぽいところが抜けないから悪い。ひとりで電車に乗れるか、怪しいものである。
「春ですねえ」
鶯花が吐息のような声で言った。良い声をしている。迦陵頻伽は身内の贔屓目だろうが、顔が焼けたので、その分を授かったようですらある。俺達のように変声期も知らず、ずっと伸びやかで澄んだ声を響かせていたから、そのかすれたような声は、俺の頭を気遣ってのものである。
「せやなあ」
随分と空気がぬるくなった。随分と陽がのろくなった。直に京都を離れ、東京に行く。荷造りはもう出来ている。鶯花も、志摩も子猫丸も一緒だ。なのに、鶯花はまるでずっとそこにいるような、次の刹那に消えているような。境界は暗がりに溶けていた。全て曖昧になる春の宵。
「まだ、ここにおるか」
「おりますけど」
「もうちょお寄りぃ」
文庫本を持ってベッドの頭側に寄ってくるので、足元の明かりを点けさせた。何度もこうした気がする。こんなことは初めての気がする。時間の感覚すら線香の煙のようにあやふやだった。白檀の匂いがする。花の匂いがする。混ざって部屋の中が霞ががったような心地がする。傾いた日差しの色すら甘い。もうずっと臥せている気がする。たった今寝たばかりの気がする。自分がいるかいないかすらよくわからなくなってきて、色即是空空即是色。頭痛の為の浅い息。薄く伸ばされた靄のような宵の夢。
「坊、お薬は」
「ええ」
「ほな、しばらくおやすみに」
東京に行く。祓魔師になる。魔神を倒す。寺に人を呼び戻す。誰も欠けさせない。誰も泣かせない。誰にも後ろ指ささせない。とろりとした眠りがこずむのを痛みがかき回して邪魔をする。ひとなみに、幸せになりたいだけだった。ひとなみに、幸せにしたいだけだった。過去形ではないはずなのに。瞼の裏には己の吐き出した夢の泡沫。
「ねえ、ぼん」
「なんや」
「その痛いの、あてが代われたらよかったのに」
静かな声は傷みに触れるか触れないかのギリギリで撫ぜる。否応なしに時間は流れるはずなのに、まるで今、千年もここで伏せて、まどろんでいるような気がする。東京に、行くのに。冷えた手が額をなぞっていった。今こそまさに、泡沫の春。
タイトルは祇園小唄より。歌詞はPDになっています。