「で、いつの間にか絶雲の間の近くに着いてしまってね。気づかなければ仙人にやられていたかもしれないな」
「仙人はそんなに野蛮じゃないと思うけどね」
璃月でのトラブルの話を聞きながら、フリーナ・ドゥ・フォンテーヌはジャネットが持ち帰った翹英荘の茶を啜っていた。過去最高に香り高く、味も天を穿つ。正に最高品質。流石璃月だ。難点としては価格の高さだが……客人用として経費で落とせないものだろうか?
「どうだい最近の調子は。ヌヴィレットが来てから大分経った、そろそろメリュジーヌ達も受け入れられただろう?」
「あんな事件があったんだ。世間の目は必然とヌヴィレットに向く。そうなれば後は時間の問題だったよ」
カップを置きながら、百年前の大事件に思いを馳せる。保守派による陰謀、カロレの自害、ヴォートランの収監。確かに言った通り彼らのお陰でメリュジーヌがフォンテーヌに溶け込むのにはさほど難しい事は要らなかった。でも、だからといって犠牲が必要だったとは到底思えない。あの事件はヌヴィレットに暗い影を落としてしまった。今でも彼は引きずっているのだろう、自分は無力だと思っているに違いない。でも実際はそうじゃない。ヌヴィレットが変わらず公正を貫いたからこそ、第二の事件は起きなかったのだ。……なぜだかカップの水面に映る自分の顔が忌々しく思えてくる。自分は一体何が出来ただろうか?
「惜しい者を亡くしたよ……。私が少しでもに残っていれば、保守派全員をここから叩き落とす事も出来たかもしれないのに」
「そうしたら、益々評判が悪くなってしまうよ。どうしようもないんだ、これだけは」
「ふむ……」
ジャネットは何処か遠くを見つめながら、静かに茶を飲み干した。今更だが、彼女の目を見たことは一回もない。何度か頼んでみたが、その度はぐらかされてしまうのだ。
「話を変えよう、璃月にも劇団があってね。知っていたかい?」
「雲翰社だろ?話には聞いた事があるよ」
最近出来た劇団で、急速に力をつけ始めているという事は噂で耳にした事はある。なんでも他の劇団より優雅さと荘厳さを重視しているのが特徴らしい。
「今回は運良く目にすることが出来てね。演目は確か……岩神モラクスについてだったな。彼に纏わる話は多い。どこまで真実かは分からないけどね」
「で、それがどうしたんだい?僕に槍を投げて島を作れって?」
「そんな事望んじゃいないさ。ただ、それを見ていたら君の演劇が気になってきてね」
エピクレシス歌劇場は審判の場であると同時に、文字通り歌劇を楽しむ場所だ。そこで僕は偶に演劇をやらせて貰う事がある。一応得意分野だからね。でもやる度に……消しきれない何かが少しづつ蓄積していくのが分かる。
「君のやる演目は、踊る事が多いだろう?折角だから踊りを教えて貰おうと思ってね」
なんて?
「君という友人がいるんだ。教えて貰わなきゃ損というものだろう?」
「待て待て、キミに踊る機会があったのかい?」
「失礼だな、ただの好奇心だよ」
「ああ、そういう……」
改めてジャネットの服装を見てみるが……。うん、やっぱり不審者だな。舞踏会にこんな仮面した奴が来てみろ、速攻守衛達と楽しいワルツの始まりだ。
「駄目かい?」
若干上目遣いでこちらを見てくるな、目が見えないから怖いんだよ。
「駄目って訳じゃないよ。でも時間はいいとして、場所はどうするんだい?水神である僕に教わるならそれ相応の場所じゃなくちゃ」
「場所?ならここで良いじゃないか」
人差し指で床を指しながら彼女は不思議そうに答えた。
「えぇ……」
「それにね、水神だから教わりたいんじゃない。少女フリーナの踊りだから教わりたいのさ。ならここ以外に適切な場所なんてないだろ?」
両手を広げ、部屋中を見回すと彼女はじっくりとこちらを見つめてきた。
別に教えられない訳じゃないし、僕が教えるからにはそれ相応に上手くなってもらう必要がある。でも、友人相手にも神は踊りを教えたりするのだろうか?……いや無粋か。彼女は知ってか知らずか、神ではなく僕自身を望んでくれた。それがなんだか、スっと胸の奥に心地よく入ってきた。多分僕が一番欲しかった言葉なんだろう。
数分熟考し、ならばその思いに応えようと、残った茶を飲み干し僕は言う。
「分かったよ。じゃあ次キミが来た日に備えて僕も準備を進めておこう」
「よし、約束だ。じゃあこれ」
彼女が取り出したのは1枚のハンカチと、手のひらサイズの小さな木箱だった。
「このハンカチは霓裳花から作られていてね、水のように滑らかであると説明を受けた。君に合っているよ」
ふむ、指で擦ってみると引っかかりひとつ無い。それに何処かヒンヤリしている。
「そうそう、そのハンカチを買った所ではドレスの方も受け付けていてね。機会があれば君にもきて欲しいな」
「多分それは遠く先になるよ。僕はしばらくこの国から出る事は無いだろうしね」
「いつまでも待てるさ。他にも猫が沢山集まっている場所があったな。そこもいつか行こう」
「猫か……どうせキミは逃げられるだろうね」
「外で話そうか?」
猫は好きだ。あのモフモフとした触り心地に鈴の様な鳴き声。一挙手一投足全てが愛おしい。
「……それでこっちの方はオルゴールだ。何の曲が入ってるかは分からない」
木箱を開けてみると、起動用のゼンマイの他に歯車やネジがギッシリと緻密に詰め込まれていた。
「知っているかい?楽器には音の精霊が住んでいてね、いつも演奏する人の心を見ているんだよ。寝る時にでもかければいい夢が見られるかもね」
「フフッ、なんだいその話」
「相席になったやつが言っていたのさ。それじゃ、私はもう戻るよ。おやすみフリーナ」
「おやすみ、ジャネット」
窓に手をかけ、開けようとすると彼女は一瞬硬直した。何か忘れ物だろうか?
「今度の君の舞台。是非観させてもらおう」
振り返ってそう告げられた。
「なら気は抜けないね」
その後、窓から消えたのを確認し鍵をかける。傍の小さなテーブルにオルゴールを置き、ゼンマイを幾らか回し終えるとゆったりとしたメロディーが脳を落ち着かせる。それに身を任せながらフリーナの意識はベッドへと沈んでいった。