「うっわマジでいるじゃん。」
時刻は草木も眠る丑三つ時。辺りには見渡す限り誰もいない国立魔法大学付属第一高校の校舎で、1人の白衣を着た長身の男が呆れたように呟いた。
「これだから冬は嫌なんだよねぇ。…あれ、カレンダー的にはもう春かな?」
ため息混じりにそう言った男の前には、なんとも形容しがたい『なにか』がいた。それは人の形こそしているが、人とも、この世に存在するありとあらゆる動物のいずれとも特徴を異にする、一目でヤバい存在と
『あ゛そ゛ほ゛…』
ベチョ、ベチョ、と足音を立てながら2メートルをゆうに超える大きさのその異形が男の方へと近づいてくる。それを見た男はわずかに眉を顰めて掛けていた眼鏡を外して胸ポケットにしまい、前髪を掻き上げた。明るい茶髪の、癖の一つもない髪がその動きに合わせて揺れる。
「やだよ。」
『あ゛そ゛ほ゛お゛お゛お゛お!!!』
男がすげなく言葉を返すと、異形はなんとも耳に障る声で吠えた。あまりの大声に、廊下の窓ガラスが一斉にビリビリと震える。その声質と音量の不快さたるや、常人ならばまず耐えきれないほどであった。
「活きのいい
『あ゛そ゛ほ゛お゛お゛お゛お゛お゛!!』
不快な音を撒き散らしながら、その図体からは想像もできない程の速度で異形─呪霊は男の方へと駆け出した。一歩を踏み出すごとに強烈な振動が奔り、ガラスを揺らす。その状況下でも、男は極めて冷静だった。彼は白衣のポケットに手を突っ込むと、その中で両手をゴソリと動かし、何かを取り出した。
「嫌になる。」
男がそうぼやきながらポケットから引き抜いた手に握られていたのは、『金槌』と『釘』。その2つを取り出した男は、右手に金槌を、左手に3本の釘を持つと真正面から迫り来る呪霊を見据えた。
『あ゛そ゛ほ゛ほ゛ほ゛ほ゛ほ゛ほ゛ほ゛ほ゛!!!!』
校舎内とは思えないほどの速度で迫っていた呪霊は、とうとう男へと猛然と飛びかかった。男も長身とはいえど、2メートルを超える大きさのこの怪物に襲い掛かられたらひとたまりもないだろう。だというのに、男は金槌を構えたままピクリとも動かず─
「あまり動かないでよね。」
『…… お゛?』
一瞬。一瞬のうちに男は呪霊の
「ほら、狙いが逸れるからさ。結構難しいんだよ?狙い通りに釘を打つのってさ。」
『あ゛…お゛ぁ゛……』
平然とそう言った男の左手からは、先程まで持っていた釘の姿が消え失せ、そして─呪霊の体にはその釘が突き刺さっていた。つまり、両者が交差した一瞬の間に、男は呪霊へと持っていた全ての釘を打ち込んでいたのだ。
「【芻霊呪法】。」
眉間と脳天、そして心臓の真上。急所である3箇所に釘を撃ち込まれた苦痛に呪霊がのたうち回る中、男はその呪霊に背を向けた。そのまま2、3歩進んで、右手の金槌を軽く振った。
「【簪】。」
その言葉と同時に、呪霊が内側から弾け飛んだ。そしてその起点は複数箇所あり─その全てが先程撃ち込まれた釘であった。これこそがこの男の持つ術式、【芻霊呪法】の基本技の一つ。
「やっぱ雑魚だねえ。等級は…3級あるかどうかってところかな?これなら見えさえすればウチの古式使いの生徒でも祓えそうだね。」
呪霊─いや、さっきまで呪霊だったものが黒煙をあげて消え失せていくのを眺めながら、男は大欠伸を1つした。なにせ時間が時間だ。ただでさえ日頃から忙しいのに、夜中にこんなことをしていたら身体がもたない。もう彼も(認めたくはないが)無茶をできる年齢ではないのだ。
「ふわぁぁぁ…。帰って寝よ。明日の授業は…一発目は2時間目だっけなあ。」
人知れず一仕事を済ませた彼は、独り言を呟きながら誰もいない廊下を歩いて行く。その後ろには、真っ暗な廊下と、痛いほどの静寂だけが広がっていた。
『呪霊』とは人の負の感情が凝縮したもの。恨みや後悔、恥辱、恐怖、畏れなど、人から流れ落ちた負の感情が具現化した異形の存在。即ち、意思を持つ『呪い』。
そしてこの世界に『魔法』が広く知られるようになる遥か昔から、人類は人知れずこの呪いと戦い続けてきた。それも、こちらも『呪い』を使うことによって。
呪霊を祓うために呪いを使う者たち。彼らは『
「おはよーございまーす!」
「はいおはよう。」
翌日─というよりかはその日の朝。件の男は欠伸を噛み殺しながら職場である第一高校の校舎を歩いていた。部活の朝練にでもいくのだろう生徒と挨拶を交わし、職員室へと向かう。
「
その途中、彼─釘崎侘助にとって随分と馴染みのある声が聞こえてきた。のそりとそちらの方を向き、彼女に合わせて目線を下に向けると、そこには1人の女生徒がいる。
「おはようございます、釘崎先生。」
「はいおはよう
七草真由美。侘助の勤める第一高校に所属する生徒であり、生徒会長を務める生徒である。そして侘助は校内の様々な思惑の下、生徒会顧問という若干面倒な役割を割り振られていた。
「はい。卒業式も近いですから。」
「卒業式。そっか、もう来週だもんねえ。」
そう言って膨らみ始めた桜の蕾に目をやった。仕事や呪霊討伐のせいで気づかなかったが、いつのまにか今にも咲きださんばかりになっている。
「てことはあれかい?今日はそれの準備?」
「そうですね。放課後に回してもいいんですけど、この時期はどうしてもすることが多いのでできることは済ませておきたくて。」
「真面目だねえ。感心感心。」
そう言ってひゅーう、と下手くそな口笛を吹いた侘助に、七草は苦笑いで返した。かと思えば、何かに気がついたのかずいっとその身を侘助の方に寄せる。
「…釘崎先生。」
「なに?」
「夜更かししました?」
「…なんでわかるのさ。」
ジト目で見てくる七草に侘助は肩をすくめて返すと、両手を白衣のポケットに突っ込んだ。そこには傍目にはわからないようにした上で、自身の呪具である金槌などが入っている。
「まあ、見てる感じ普段より眠そうですから。」
「…バレちゃったか。まあ私は大人だからね。寝てなくてもどうでもなるのさ。」
「…私には『ちゃんと寝ろ』って言ってくるのに。」
「七草は未だ子どもだからね。」
まだジト目で見つめてくる七草から目を逸らしつつしゃあしゃあとそう言い放って廊下を歩き始めた。そのあとを七草もまた着いていく。
「ま、その話は置いといて。七草のお目当ては生徒会室の鍵だろう?今持ってないから悪いけど職員室まで取りに来てくれない?」
「わかりました。ていうか先生、その調子で授業は大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫。正直この時期の一般教養なんてやることないからほぼ自習だしね。」
「先生が言ってはいけない発言じゃないですかそれ?」
「この時期はいいんだよ、この時期は。」
くだらないことを話しながら2人は職員室までの廊下を歩き始めた。窓から差し込む朝の光と、遠くから聞こえてくる生徒の声が2人を包んでいる。
「にしても君らももう3年か。早いもんだねえ。」
「…本当に、そうですね。次の1年生はどんな子が入ってくるんでしょうか。」
「さあねえ。ま、君らより濃い面子は集まらないでしょ。」
てしてしと足音を立てながら侘助はそう言った。
だが─この発言から1ヶ月後には入学してきた色々と途轍もなく濃い新入生の相手をすることになることを、彼はまだ知らない。
釘崎侘助
東北出身の元呪術師にして現教師。担当科目は地理。白衣は趣味、眼鏡は呪術師時代の名残。生得術式は【芻霊呪法】。
迫り来る婚期と年波には怯える28歳独身。