ここは山海経の中心に程近い中華料理屋。
昼時ともなればここは戦場と化し、流れてくる客たちの舌を満足させながら切っては投げ切っては投げの超肉体労働の究極形態。
厨房は暑く、熱気と湿気が人の理性を狂わせる。
ホールは目まぐるしく回る客脚に目が回る。
そんな所に、彼女……調月リオはいた。
それも、客では無い。ここで働く一人の従業員としてだった。
「新入り! ホール見に行け! いつまで皿洗ってる!」
「は、はい!」
「笑顔!」
「はい!」
「3番テーブルチャーハンセット大盛りニンニク大しょうが大ワカメスープ!」
「6番テーブルお会計でーす!ありがとうございまーす!」
「おい新入り、6番お会計。行けるな?」
「はい!」
慌ただしく動く三十畳の戦場。
その真っ只中でリオは思う。やはり世界は広かった、と。
リオは、こんな世界を知らなかった。
今までこういったところに立ち寄ったこともなければ、生まれてこの方静かな場所で電子機器を触る事が常だった。
しかし、だからこそリオは自分からこの世界に足を踏み入れた。
自分の知らない価値観から、彼女は目を背けたから。
そのせいで大きな間違いを起こしてしまい、自分の居場所を失ったから。
だからこそ、彼女は一度、全知の目の届く電子の海を離れて、現実世界で肉体労働という手段をとった。
それは自身への罰でもあり、前へ進むための布石でもあった。
「お会計2460円になります」
「カードで」
「お預かりします……、こちらカードお返しします。レシートはご入用ですか?」
「ああ、いいよ。ごっそさん」
「ありがとうごいました!」
「「「ありがとうございましたー!」」」
これが、日常である。
リオは目眩がしてきて、慌てて頭を降って意識を取り戻した。
正直いってしまえば、辛かった。
今まで椅子に座っての作業が多かったゆえに、一日中立ち続けてかつ笑顔を保ち、ホールから厨房まで駆け巡る。
リオは持ち前の器用さからなんだってすぐにこなせた。
問題があるならば、それこそ体力だった。
これでもまだマシな方で、最初の方なんか十五分も働けば貧血で座り込んでしまうほどだった。
故に、リオはそれでも働かせてくれたこの中華料理店に恩義を感じており、それに自身への罰でもある為どんなに追い詰められようとも諦めることはしなかった。
「ご来店でーす!」
「6番テーブル案内して!」
「はい!」
「いらっしゃいませお客様、何名…………」
”え……、リオ…………?”
だからこそ、この結果は必然だった。
日中の忙しい時間帯は毎日でも出勤しているリオ。
そして様々な自治区を右へ左へと飛び回っている先生。
二人の邂逅は、時間はかかれどそれは必然だった。
しかし、リオは心のどこかでそれを良しとしていたのかもしれなかった。
山海経まで来たのは確かにミレニアムの生徒から身を隠すためだった。
しかし、いつかはこういう日が来るのかも……そう思いながらも、彼女は別段これといった対策はしなかった。
だから、これは心のどこかではリオが望んだ結果なのかもしれなかった。
”えっと……げ、元気?”
「え、えっと……先生、これはその……」
とは言え、心構えができていたわけでは決して無い。
リオはしどろもどろになりながらも、ああついにこの日が来たかとか、なんて説明しようとか、なんというかこう、本当はバイトダメなのにこっそり働いていたところを先生に見つかったしまった非行生徒の様な気持ちになった。
「おい新入りィッ! ボサっとすんな!」
「ッ……すいません! ……ごめんなさい、先生。話は後で……」
”ああ、うん。……仕事、いつ終わるかな?”
「その……後でモモトークで伝えるわ」
───────────────────
”はい。コーヒーでいい?”
「……ありがとう、ございます……」
夕暮れ時の山海経にある公園。
先生とリオはブランコに座りながら、暮れゆく夕日と家へと帰っていく子供たちを見ながら並んで空を見上げた。
場には沈黙が流れて、何も話そうとしない先生にリオは少し気まずく感じた。けれど、何となく先生ならそうするだろうなと考えて、コーヒーを飲むうちにいつの間にか口角が上がっている事にはしかし彼女は気が付かなかった。
「その、先生が今日ウチの店に来たのは……」
”偶然だよ本当に。凄いびっくりしたよ”
「ええ、そうね……あの時の先生の顔は嘘をついている様なものではなかったわ……」
季節は秋も終盤と言った頃。少し肌寒く感じながらも、手の中で暖かい缶コーヒーを弄ぶ内に手も心も温まってきた。
そんな、久しぶりに感じた昔の知り合いの温かさに、リオは少しずつ心を絆されていった。
今まで話せなかった、そして話したかったこと。
先生なら、受け止めてくれる気がしたから。
「その、私は……あの後、ミレニアムを離れてここまで来たの」
”うん”
「ここなら……ミレニアムの生徒は誰も来ないだろうから。それに、電子機器に触れるとどうしてもヒマリには見つかるだろうから……」
”……リオは、皆の顔を見るのが辛い?”
「……」
リオは、黙ることしか出来なかった。
それは、正解であり不正解だったから。
辛いのは確かだった。けれど、自分が辛いだけならむしろそれが罰としてちょうどいいくらいだった。
けれど、私のような犯罪者予備軍があの輪の中に入れば、私以外の人が辛い思いをしてしまう。
それが、どうしても許せなかった。
私はあの物語の中で、間違いなく本物の魔王だった。
いくらあの空を飛んだ日にアリスとちゃんと話し合えたとしても……それでも、今更どんな顔をして戻れと言うのだろうか。
「先生は、私を呼び戻すのかしら……?」
”うーん、ユウカ達の事を考えればそうしたいんだけど……、リオに無理はさせられないかなぁ”
先生は二頭身の体でブランコの上に立ち上がり、キコキコとゆっくりと前後に漕いだ。
その姿を横目で見ながら、リオは思う。
先生は、相変わらず先生だった。きっと、私がいなくなったあとのミレニアムだって同じ。ユウカやノア、コユキや他のセミナーの仲間たちには申し訳ないけれど、今こうしてミレニアムが問題なく回っていることがその証明だった。
私とミレニアムの縁は、あの日、あの時に終わったのだ。
「そう……なら、先生。お願いがあるの」
”何かな?”
「今の私は……これは、私が選んだ道。だから、誰にも邪魔をされたくはないの……。私がここに居たことを、誰にも言わないで頂戴」
”…………、うん。分かったよ”
「そう……信じるわ。他でもない、先生の言葉だもの」
そしてリオは立ち上がり、空になった缶コーヒーを片手に先生へと向き直った。
「ありがとう。いい気分転換になったわ」
”また、食べに来るのは良いよね?”
「ええ。お得意様は歓迎よ」
そう言って、笑うリオの姿に先生は少なからず安心した。
リオの才能が力を発揮せずに埋もれるのは悲しいものだったが、リオの心と比べればそんな事はどうでもよかった。
先生はブランコから飛び降りて、去っていくリオの後ろ姿を見送った。
自分になにか出来ることは無いだろうかと考えながら……
──────────────────
「いらっしゃいませー! 10番テーブルご案内しまーす!」
「「「いらっしゃいませー!」」」
「お水如何ですか?」
「ありがとうございますー」
「おい新入り! 休憩入っていいぞ!」
「はい! 失礼致します」
「どうもー」
リオは髪をまとめていた三角巾を解いて、厨房の奥にある休憩室へと入った。
額を伝う汗をハンカチで拭いながら、今日も盛況である事に忙しさを感じながらもどこか充足を感じていた。
「ほら、賄い」
「ありがとうございます」
賄いを受け取り、食べながらリオは昨日の事を思い出した。
先生。相変わらずで、彼の事を考えるだけで少し元気が湧いてきた。しかし、それと同時に彼の顔を見たおかげで連鎖的に蓋をしていた記憶が蘇る。
アリス。ゲーム開発部。トキ。ヒマリ。セミナー……
自分が捨てた面々が、今どんな顔をしているのかと、つい考えてしまう。
と、そこでリオはモモトークに通知が来ていることに気がついた。
殆ど業務連絡にしか使われなくなったそれが、久しぶりにそれ以外の通知を知らせて思わず胸が勝手に高なった。
「先生……?」
名前は、予想通りの先生だった。昨日の今日で連絡をくれるなんて……もしかして、これから毎日送ってくるつもりだろうか、なんて少し笑いながら、忙しい身の先生にそんな余裕は無いと考えて直ぐにその可能性を消しさった。
しかして、その内容は少し不可思議なものだった。
『リオ、明日一日厨房に籠ったりできる?』
『それは相談してみないと分からないけれど……どうしたの?』
『それは秘密。けど約束は破らないし、悪いようにはしないよ……どうかな?』
『……一度相談してみるわ』
リオは立ち上がり、店主の元へと向かった。
休憩室から出て、厨房の奥で鍋を振るう柴犬の店主に恐る恐ると声をかける。
「あの、店主……」
「あ? どうしたリオ」
「その……明日、一日厨房に入る事はできないでしょうか……」
「あん? …………なんだ、わけアリか?」
「そ、その……」
リオは、何て説明すればいいのか分からなかった。なぜなら、リオ自身先生が何をするつもりなのか分からなかったからだ。
しかし、柴店主はしばらく考えたあと、再び鍋に視線を戻しながら言った。
「別に構わねぇよ」
「え……?」
「お前さんは器用だし、料理の腕も十分合格ラインだ。それにシフトも毎日入ってくれてるし、多少の融通は効かせてやる」
「あ、ありがとうございます!」
「はいよ」
リオは、何だか泣きそうになった。
過去を捨てたリオでも、むしろ過去を捨てたリオだからこそ今の自分を見て、認めてくれたようで凄く嬉しかった。
はやる気持ちを抑えながら、リオは休憩室に戻って少し興奮気味に先生へと連絡を返そうとした。
この気持ち、その発端を作った先生に感謝を伝えたかった。
……しかし、こんな事を言われても先生からすればなんのことか分からないだろうと迷った挙句、結局やめた。
『大丈夫そう』
『そっか! じゃあ明日、昼頃に食べに行くよ!』
『そう。楽しみにしているわ』
モモトークを閉じて、リオは一息ついた。
また明日先生に会える。この胸の高鳴りは、機会があれば明日伝えてもいいのかもしれない。
と、そこで少し冷静になる。
冷静になってしまう。
明日先生はこの店にくる。
しかし、一日厨房にこもっていて欲しい。
それって、ここのご飯は食べたいけれど、私の顔は見たくないってこと……?
「………………ぐすっ」
リオは泣いた。膝を抱えて、子供の頃のように。
──────────────────
次の日。
「いらっしゃいませー!」
「こちら本日のオススメとなっております!」
「チャーハンセットと──」
「オラ、二番テーブルキクラゲ丼持ってけ!」
「あいよー!」
騒がしい店内をBGMとして聞き流しながら、リオは暑い厨房で鍋を奮っていた。
天津飯、麻婆豆腐、油淋鶏。etc……
それらは初日に全てマスターした。簡単だ。レシピさえ渡されればそれ通りの調味料、具材、そしてそれ通りの火加減と時間。
料理は化学であり、だからこそリオにこなせない道理は無かった。
ただ、今日は少しばかりリオの調子は良くなかった。
目の下にたずさえた隈は不眠の証拠であり、少し厚めの化粧は流した涙を誤魔化すした跡あった。
「麻婆まだか!?」
「……っ、後二分掛かります!」
「先油淋鶏持っていけ! 後お会計待ってるぞ!」
「は、はいぃ!ただいま!」
「……やっぱまだホールからリオが抜けると慌ただしいな」
そんな、隣で鍋を振るう店主の言葉に少しばかり歓喜の感情が生まれる。
そうだ。先生は、みんなの先生。いくら私がその居場所を欲したとしても、直ぐにそこは埋まってしまう。
だから、私の居場所はここ。
それでいい。それがいいのだ。
「いらっしゃいませー! 何名さまでしょうか?」
”五人なんだけど、いける?”
「少々お待ちください!今テーブル片付けますんで!」
完成したチャーハンを盛り付けながら、騒がしい店でもしっかりと聞こえたその声にリオの心臓は跳ねた。
危うく麻婆豆腐をこぼしそうになりながらも、気合いで耐えて盛り付けた皿をホール行きのカウンターへと運ぶ。
そして──見てしまった。
「わあぁ! 凄いです! アリス、中華料理屋さん初めて来ました!」
「私だって初めてだよ! ていうか、すごい活気だね! これはいいアイデアが浮かびそう!」
「お姉ちゃん、またそんな適当なこと言って……」
「う、うぅ……人がいっぱい……」
”ユズ、無理しないで私の背中に隠れていいよ”
「って、先生ユズの腰下よりちっちゃいじゃん!」
「先生はクソザコマスコットなので遮蔽物にすらなりません!」
”アリス!? どこでそんな言葉覚えたの!?”
「なっ!? なっ……!?」
リオは困惑した。先生が連れ歩くのは見間違うはずもなく、ゲーム開発部の面々勢揃いだった。
そこで、リオの天才的な頭脳は思い至る。目の前にあるこの光景が、先生が秘密にしたそれそのものだった。
リオは慌てて厨房へと姿を隠した。
そしてなるほどと思った。もし私が今日ホールに出て接客をしていれば、先生は私との約束を破ることになる。
だから今日1日私に姿を隠して欲しいと……ややこしい勘違いをしていた自分に少しばかり恥ずかしくなり、それでも変な事を画策している先生に若干の苛立ちも感じた。
「アリスは!アリスはっ! これとこれと、これも食べたいです!」
「アリスちゃん、そんなに食べられる……?」
「私はねー、これ!やっぱり中華料理と言えばチャーハンだよね!」
「も、モモイ、さっき中華料理初めてって言ってなかった……?」
「初めてなのは本格的な中華料理屋! チャーハンくらい食べた事あるよ!?
ほら、ユズも早く選んで! もー待ちきれないんだから!」
「え、えと、私は……!?」
”迷うなら、カニチャーハンセット美味しかったよ”
「そ、それにします……」
「あ! 私もそれにする!」
「アリスも! アリスもです!」
「えぇ?せっかく来たのにみんな同じの……? ま、まぁみんな一緒なら私も……」
”すいません、カニチャーハンセット五人前で。セットは──”
喧騒の中でも聞こえてくる懐かしい声に、リオは胸が暖かくなると同時に、締め付けられるような感覚を覚えた。
あれは、リオが本当は心から望んでいる世界で、そしてもう二度と手に入らないものだった。
先生は、きっと良かれと思って今日この日をセッティングしたのだろう。
他でもない先生の事だから、私はそう確信した。
だからこそ、その行為が本当は私を深く傷つけている事にきっと彼は気づかないんだろう。
本当に、罪作りな人。
リオは涙を堪えながら、ただ無心で鍋を奮った。
「カニチャー5! 大盛り3並2!セット麺1麻婆2油淋2!」
「はいよー!」
「それと、店主……」
「んだ! どうした!?」
「その、この注文とった男性のお客様が店主にこれを渡して欲しいと……」
「ああ? ほんとに何だ……?」
リオは訝しんだ。男性のお客様。そしてカニチャーハンセット5。
先生だ。ゲーム開発部の皆をここに呼ぶだけに飽き足らず、この期に及んでまだ何かをしようとしている?
店主は紙を受け取り、しばらくそれとにらめっこした結果……リオを見た。
リオはその視線を受けてびくりと震え、一体何が始まるのかと厨房の熱気とはまた違う汗を流す。
「おいリオ」
「は、はい」
「……メインのカニチャー、お前が作れ」
「な……!?」
「なにィ、大将まじですか!?」
「こ、これは……!? この店一番の代表作であるカニチャーハン、それだけは店長以外作ることが許されていないというのに、新入りが……!?」
厨房は瞬く間にホールと同じくらいに大騒ぎとなった。
リオも内心の動揺を隠せなかった。カニチャーハンは店主の人生の起点と言ってもよく、その重要性は新入りのリオでも何となく理解するほどだった。
一体先生は何を吹き込んだのか……
リオは固まって動けなかった。しかし、それを許す店主では無い。
「おい、時間がねぇ、さっさと動け」
「本当に、私が……?」
「レシピは頭入ってんだろ」
「それは……そうですが……」
「なら充分だ。五人前、任せたぞ」
そう言って店主は私が奮っていた鍋を手に取り交代しろと合図した。
私は渋々ながらそれを了承し、まだ柴店主以外誰も立ったことの無い場所にわずかひと月でたってしまった。
周りの従業員達から羨望の視線が刺さる。
しかし、ここでこれ以上油を売っていれば本当にクビにでもなってしまうかもしれなかった。
先生の思惑も、店主の考えも私には分からない。
だから、せめてどんなところに出してもいいように、私は全力で中華鍋を高く、高く振り上げた。
─────────────────────
「へいお待ち! カニチャーハンセット五人前! 以上でよろしかったですか?」
”はい、ありがとうございます”
「やったー! キタキタおいしそーっ!」
「凄いいい匂い……!」
「モモイ! 先生! 私の麻婆豆腐と油淋鶏と中華麺、少し交換して下さい!」
「あ、ズルいよ! 先生私もちょっと麺食べたい!」
「もう、お姉ちゃん……急に立たないで……。せ、先生、その、私も少し……」
「うぅ、わ、私も、その……」
”うん、みんなでシェアしよっか”
額の汗を拭って、私は一息ついた。
緊張の一仕事を終えて、私は再び元の位置へと戻って麻婆豆腐を作りながらしかしどうしても集中しきれなかった。
私が作ったカニチャーハンが、今ゲーム開発部の前にある。
なんだか、無性にドキドキした。この感情は、初めてミレニアムプライスに自分の作品を出典した時の気持ちにとても似ている気がした。
自分の丹精込めた作品が、認められるのか、どうか。
見たくない。怖い。
けれど、何よりもミレニアムの最前線で戦ってきたリオのプライドが、そこから目を背けることをよしとしなかった。
運命の時はすぐそこに迫っている。
モモイが。ミドリが。ユズが。先生が。
──そして、アリスが。
私の料理を口にした時、何と言うだろう。
味見はした。十分な出来栄えだと思う。それでも、やっぱり不安だった。
もし不味いなんて言われたら、私はもう、この新しい居場所でも立ち直れないかもしれな───
「おいっっっし〜〜〜〜〜!!!」
「──!?」
「アリス、こんなに美味しいチャーハン初めて食べました!」
「ホントだ! 何これ!? レンジでチンした奴なんて足元にも及ばないよ!」
「お姉ちゃん、比べる対象が凄く失礼。……けど、本当に美味しい」
「こ、これなら毎日でも食べられちゃうかも……」
”……凄いね、想像以上だよ”
「え? 先生食べた事あるんじゃないの?」
”ああ、うん。カニチャーハンは前食べたんだけど、多分その時とは違う人というかなんと言うか……”
「? 変なの」
「アリス、これなら何杯でもいけちゃいます!」
「あ、アリスちゃん、そんなに急いで食べなくても……」
「アリス、暖かいうちに食べたいです! まるで作ってくれた人の心みたいに暖かいです! 美味しいです!」
「なにそれ! アリス、ほっぺにご飯着いてるよ?」
「ど、どこですか? 取ってください、先生!」
”わ、私!?”
「……先生、私も取ってほしいな……」
”ミドリまで!?”
「アリスはお代りを所望します!」
「もう食べたの!? っておかわり!?」
「はい! ここには滅多に来れないので、今のうちに一生分食べます!」
「それは無茶だよ!?」
「できることならこれを作った人にミレニアムに来て欲しいくらいです!」
「それはたしかに!」
「このカニチャーハンは世界一です! 異論は認めません!」
「う、うぅ──」
涙が、溢れて止まらなかった。
どう足掻いても、何度手を動かそうと思っても鍋を振る手が止まってしまって。
ぽたぽたと零れる涙が床を濡らして、誰にも見せたことの無いような恥ずかしい姿を晒して……それでも、私は動けなかった。
「……今日はもう上がれ」
ポンと肩に手を置いて、店主はフッと笑って元の位置へと戻った。
そんな店主の優しさに。
アリスの狙ったような言葉に。
私は、私は──。
──内心、私は一体何をしているんだろうと思っていた。
人を殺そうとした私が、セミナーのみんなを裏切って、私に尽くしてくれたトキも見捨てて……ひとり、誰も知らないところで中華鍋を奮って。
これでいいのかと思った。
何度も何度も思った。
本当にこれが、私のやりたいことなのかと。私のやるべき事なのかと。
将来、いつか死ぬ時に、今このときを後悔しないかと。
それでも私は戻れなかった。
新しく手に入れたこの居場所に縋るかのように、今まで経験のない世界でただ腕を磨いてきた。
これは結局のところ、逃避でしか無かった。
逃避でしか無かったのに……。
今日この日は、間違いなく”今の私”に意味が生まれた瞬間だった。
「うぁあああ………っ!!」
私は膝から崩れ落ちて、その場でみっともなく泣いた。
心配そうに見守っていた同僚が慌てて肩を貸してくれて、私は休憩所へと運ばれた。
嬉しい。嬉しかった。
本当はお礼を言いたかった。
美味しいって言ってくれてありがとうって。
暖かいって言ってくれてありがとうって。
けど、きっとまだその時じゃない。
私は、私は──
「──女の涙は、見て見ぬふりするもんさ」
今日から、確かな意志をもって前へと進むんだ──
─────────────────
キコキコと揺れるブランコ。
一昨日と同じ、夕暮れの公園。
そこでリオと先生は、また一昨日のように二人で並んで揺れていた。
先生はどこか不安そうな顔を浮かべていて。
しかし、それに比べてリオの顔はとてもスッキリとした表情だった。
まるで、一昨日と立場が逆になったような不思議な絵面にリオはクスリと笑った。
先生はあれだけ私を困らせたんだから、少しくらいは困った顔を見せてくれないと割に合わない。
”その、リオ……怒ってる?”
「あら? 怒られる様な事をした自覚があるのかしら?」
”え、えっと……やっぱり怒ってるよね……”
”ごめん! リオ!”
そう言って、先生はブランコを飛び降りて土下座した。
誰が見ても拍手を送りたくなるような完璧な土下座に、リオは思わず拍手を送りそうになって慌てて冷静になった。
「ち、ちょっと先生、やめて……! ……下は砂だから膝が痛むわ。大丈夫、本当は怒っていないから」
”ホント?”
「ええ、本当よ。……むしろ、感謝しているくらい」
そう言ってリオは先生を立たせて、再びブランコに座り……その膝の上に先生を乗せた。
夕陽の公園で気になる人と二人きり。この状況はリオを少し大胆にさせるには十分すぎるほどの魔力を持っていた。
”リオ。皆にはリオのこと誓って何も言ってないから”
「本当? にしてはアリスは随分と芯を狙ったような発言が目立ったけれど」
”本当だよ。こればっかりは先生も驚いた。アリスは本当にいい子だね”
「……ええ、そうね。実際先生が約束を破る様な人だとは思えないわ」
だからこそ、あんなに純粋でいい子に手を出そうとした自分を心から恨めしく思う。
けれど、それも今日でおしまい。
私は私の道を歩んで、その上で彼女たちに恩返しをする。
”それで、これからどうするの?”
「……学園には、戻らないわ」
”そっか”
「私は中華の道を進む」
”何か……うん、凄く意外だね”
「……おかしいかしら」
”ううん。素敵な夢だと思うよ”
そう言って、先生は膝の上で立ち上がって私の頭をよしよししてくれた。
私は子供では無いけれど、とても心地のいいものだと思った。
「私は中華の道を進む。それは私が選んだ道。……けれど、彼女たちとの関係がこのままでいいとももう思わないわ」
”それは……”
「先生。その……、待ってて、くれる?」
容量を得ない質問に、逆の立場ならリオはただ困っただろう。
けど、目の前にいるのは先生だった。
全ての生徒たちの、そして私の──理解者。
”うん。待ってるよ”
「……ありがとう。先生……」
リオは、今日から前にしか進まない。
それは、夢があるから。
叶えたい夢ができたから。
今まで培ってきた全てをかけてもいいと思える願い。
今ここにいる調月リオは、ミレニアムに入学したばかりのあの頃のただ上を目指す純粋な心を思い出して……今はただこの幸せを抱きしめた。
────────────────────
「モモイ! ミドリ! ユズ! 早くして下さい! 全部売り切れちゃいます!」
「まっ、待ってよアリス! そんなに急がなくたって売り切れないよ!」
「どちらかと言うと店が混みすぎて入れないという事はあるかも……」
「き、今日が開店初日だから……うぅ、絶対人多いよね……」
ここはミレニアムの中心も中心、ミレニアムタワーの前に位置する大都会。
そんなところに、急遽ひとつの中華店舗が経つことになった。
こんな立地に経つ時点で、相当な味と腕前なのだろうと数々の美食家たちがこぞって情報を集めようとした。
ゲヘナの美食研究部達が。
クロノス報道部が。
その他にも様々な勢力が集まって、件の店舗の情報を集めようとして──尽くが失敗に終わった。
しかし、全ての情報を統制しきるまでには至らなかった。
一介の中華料理屋にしては明らかに高すぎる情報規制だが、それでも実際にその人を知る人達の噂話までは止めようがなかった。
そして、そんな中華店舗及びその店主には数々の伝説があった。
曰く、伝説の中華料理人の一番弟子だとか。
曰く、完璧な調合と完璧な手際に裏付けされた中華料理のマイスターだとか。
曰く、今まで食べたどの料理を凌駕するほどの”温かさ”があるとか。
そんな名物店主の作る代表作は──
「カニチャーハン! アリス久しぶりです!」
「もー、先生も来ればよかったのにぃ」
「先生は、忙しい人だから……」
「……まあ、とりあえず私たちでレビューしてあげて、また皆で来ようよ」
アリス達は、あの味を求めてここへとやってくる。
そこにどんな出会いが待っているのか、彼女たちはまだ知らない。
それでも、きっとそれは悪いものでは無いだろう。
あるものは、後悔に振り回され。
あるものは、自身の中に潜む存在に苦悩した。
けれどそれは、全部過去の話。
皆、もうとっくに前へと進んでいる。
それでも、時には迷って右へ左へ行くだろう。
「アリス! カニチャーハンを所望します!!」
「──いらっしゃい。……この日を待っていたわ──アリス」
けれど、だからこそ二人はまたどこかで交わるのだ。
そして、手を取り合って進むのだ──
リオ会長中華料理屋概念