死神に、愛を囀る青い鳥   作:タナゴコロ

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☆39☆ 彼女のお城。

 

 至極当たり前のことながら一月半ばの朝はとても寒い。髪の守りから出てしまった耳殻が冬の室内の空気に触れ、そのあまりの冷たさにまだ眠くて重い目蓋が勝手に持ち上がってしまう。

 

 はみ出した耳殻を掌で覆おうと身動ぎかけ、けれど自身の身体が包み込むように抱きしめられていることに気付いた彼女は、そうっと目の前にある胸板に温かい方の耳を押し付けた。

 

 ドクッ、ドクッ、と規則正しい音がこめかみに伝わってきて、思わず口許が綻ぶ。そうして顔を少しだけ傾け、上目遣いでうなじから顎、顎から頬、頬から閉じた目蓋を縁取る睫毛の長さを見つめ、今日もまだこの腕の中にいられる幸福に安堵の吐息をついた。

 

 一日中こうしていられたらいいと思うのが我儘なのは分かっている。しかし彼女は隣で眠っている夫の寝顔が健やかであることの方が重要なので、自身の方が早く目を覚まそうとも彼が自力で目覚めるまで起こさない。

 

 それに毎日決まった時間に起きる彼には、毎日気まぐれな目覚め方をする妻の手助けなど必要ないのだ。だからルネは思う存分その胸に甘えるのだが……。

 

 残念ながら今日はもう目覚める時間が近かったらしく、頬を寄せた胸の上、喉が僅かに上下して小さく呻く声が聞こえる。がっかりしたルネはそれでもせめて目覚めてしまうまではと、寝たふりをしながら自身の脚をトリスタンの脚に絡めた。

 

 微かに身動ぐトリスタンの気配――……と、剥き出しになっていた冷たい耳殻に温かいものが添えられる。それがするりと耳殻を撫で、包み込んだ。それがトリスタンの手であることに気付いたルネは、無自覚に頬を擦り寄せてしまう。

 

 だが、そこでふと撫でてくれていた手が止まった。寝たふりがバレたのだろうかと思い慌てて擦り寄るのを止めたルネの頭上から、喉の奥で笑うような気配が降りてきて。優しく耳を摘ままれたかと思うと、ギュッと抱きしめられた。

 

「また後で起こしに来た方が良いか?」

 

「……いや。トリスがいないなら、いっしょにおきる」

 

「分かった。でもルネの耳が温まるまで、あともう少しだけこうしていよう」

 

 そう言って抱きしめる腕の力が強さを増す。ルネはまだこの幸せから覚めなくても良いことに微笑み、耳に添えられた掌に思う存分擦り寄る。結局それから二十分ほどルネが「まだ、みみがさむいわ」とごねたので、トリスタンは朝食のパンと昨夜のシチューを急いで食べる羽目になった。

 

 朝の冷えきった玄関ホールで見送りの抱擁と口付けを交わし、ルネの頬と額にも口付けてくれたトリスタンはドアを出る前に一度振り返ると……この三週間ほど毎朝口にしている言葉は忘れずに告げて出かけて行った。

 

 ――それが。

 

 

『私が戻るまで戸締りはしっかりするように。何か物音がしたら隠れる場所は一緒に決めたところへ。襲われそうになったら持たせた薬品をかけて逃げなさい。片付けは私が帰ってきたらするから触らないように』

 

 

 ――という、少し足りないルネにはやや長い伝言である。

 

 けれど毎朝大好きなあの声で聞いていると流石に憶えるもので、ルネはトリスタンが出かけて行ったあとは、屋敷中の窓という窓の鍵を確認して回り、隠れ場所として教わった幾つかの暖炉の中を覗いて隠しドアが開くかを確認し、薬品の小瓶を入れた胸ポケットをポンと叩く。

 

 それから一昨日から部屋干しをしたままのシーツの乾き具合を確かめて、トリスタンの私室に舞い戻った。

 

 以前までルネの退屈をまぎらわせてくれていた植物図鑑はもうない。マリオンに貸して(・・・)しまったからだ。本棚はその箇所だけ抜けたままになっていて、斜めに倒れた本の隙間が寂しく映るが、代わりに誕生日にもらった本を本棚から抜き出す。

 

 先の分かっている物語に胸を踊らせながらしばらくベッドに寝転がって読んでいたものの、それもすぐに読みきってしまう。ルネは白い脚をパタパタとさせて思案してから、スカートがめくれ上がるのも気にせずガバッと勢いをつけて起き上がり、古びた裁縫箱を取りにクローゼットに向かった。

 

 今度の新作は大物のベッドカバーである。ザクザクと豪快に針を動かし、ビッと勢いよく糸を引く。その光景はどこからどう見ても刺繍に勤しむ女性のものではない。どちらかと言えば、食材の鶏の首を絞め落とす農家の娘だ。

 

 当然時々針でグッサリと指を刺すが、痛みを感じないルネは何事もないように血の玉が膨らんだ指先を咥えた。

 

 ベッドカバーに血がついていないことを確認したのち、トリスタンからもらった薬入れを取り出し、傷口に塗りつけて適当に清潔そうな布を巻き、またザクザクと針を進める。

 

 そんな風に午前中はほぼ下手の横好きである刺繍に時間を費やし、昼頃に台所に下りていって固くなったパンとゆで玉子と牛乳の簡単な食事をとった。

 

 その後は配達時間でもないのにポストに投函される、あるもの(・・・・)の回収に人目を避けて庭先に出向き、回収後は封を切らずに暖炉の火にくべる。今までそれ(・・)が自分宛に届くということを考えたこともなかった。けれどこの差出人の名をトリスタンが嫌っているのは明らかで。

 

 だからルネが初めて自分宛のそれ(・・)を手に感じたことは、トリスタンの目に触れる前に処分しなくてはということだけだった。自分宛なのだから、それ(・・)をどうするかはルネの勝手である。

 

 一応最初の数通は封を開けた。その書き出しは決まっていつも【愛しい娘】で始まっていて。もしもその書き出しでさえなければ、ルネもトリスタンに見せたかもしれない。

 

 けれど人よりも少し足りない彼女ですら知っている。知っているから以降は封が切られなくなった。今日も投げ込まれたそれ(・・)は暖炉の炎に食まれて燃え尽きていく。その様子をぼんやりと眺めながら、彼女はポツリと「おとうさまは、うそがへたね」と呟いた。

 

 でもあの部屋に閉じ込められたままでは、嘘でも一生【愛しい娘】と呼ばれる存在になれなかったことくらい、何となくだが分かっている。殴られることも、蹴られることも、痛みがないから平気だった。父親の求めるようにできない自分が悪いのだと。納得していたはずだったのに。

 

 ただそれでもあの頃は、独りぼっちの暗闇で薬入れをくれた男の子を思い出すと、不思議と何かが軋む気がした。

 

『“……君の怪我の方が酷い。薬を塗ろう”』

 

 抑揚のない平淡な声だったものの、初めて怪我をしていると指摘され、心配されたあの日から、ルネの世界で一番大切なものはトリスタンの他にはいない。瑠璃色の双眸が見つめる先で瞬く間に燃え尽きたそれ(・・)の残骸を、火掻き棒で灰の中に混ぜ込んで。

 

「あら……もうこんなじかん。トリスがかえってくるまえに、あったかいごはん、つくらないと」

 

 火の前にいたせいで窓の外が暗く陰ったことに気付かなかったルネは、慌ただしく椅子から立ち上がり、暖炉の前から立ち去った。

 

 ここは彼女のお城。

 暖かで嘘のない、大切な家庭(・・)だ。

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