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Chapter1 あなたにまた逢いたい
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いつか必ずこの世界は消えてなくなる。
そんなことは誰だって分かってはいる。
きっと100万年後にはこの星に人類はいないし、そんなに首を長くして待たずとも、100年後に自分はきっちり確実にこの星にいないなんてことは。
頑張って宇宙に人類文化を保存したレコードを打ち上げて、人工衛星に遺伝子データを乗っけて、身体を凍らせて遠い未来まで生きようとして。
せせこましい努力をしている者もいるが、彼らだってなんとなく分かっている。限りなく0に近いことは。
遥か昔、母に手を引かれ歩いた上野の寛永寺で見上げた葉桜はもうとっくの昔になくなってしまった。
何百万人もの人々の歩みを見守って、毎回少しずつ違う花びらを付けていた桜の木も終わってしまった。
あの時あの通りを歩いていた人たちはもう誰もいない。
誰か自分以外に一人くらいはあの最後の葉桜を覚えていたのだろうか?
あの桜の下で桜餅を売っている茶屋があったことを覚えていただろうか?
もう自分しかいない。
「オキテ、オキテ」
「…………」
目を開くと景色が滲んでおり、目じりから涙が零れた。
夢見た原風景の葉桜にもたらされたのか、単に寝すぎなだけか。
「テンクウ、オキテ」
普通起こそうとするならば身体を揺するものだと思う。
だが『ロボ』は何を考えているのかテンクウの鼻に手を突っ込んでいた。
バキバキと音を立てる身体を起こし大あくびをすると大地が震え、そばで寝ていたペットの猫と犬もつられて起き出した。
「夢を見たよ」
「ドンナ ユメ?」
「みんないたころの夢」
「アッソ」
ロボはロボなのでこちらの反応に機械的に反応するだけで回答にはなんの感情もこもっていない。
少々口が悪いのも単にプログラムした人の性格がひん曲がっていただけだろう。
「どのくらい寝てたんだろ?」
「20ジカン」
「うわぁ、寝すぎた。今日の厄災は?」
「ホレ」
ロボの身体から文字が印刷された紙が眠たくなる速度で出てくる。
たかが印刷の機能ひとつとってもそうだが、ずんぐりむっくりのこけしに二本指の手がついた腕が生えているデザインといい、ロボは全体的に古臭い。
おまけに――――
「オウオウオウ」
ロボの腕がポロリと外れ、光る機械の目玉がびよよんと飛び出た。
古臭い、ではなく古いし文字通りポンコツなのだ。
残った一本の腕で目玉を押し込み、落ちた腕を取り付けたロボが紙を渡してくる。
またロボの腕が外れてしまわないように、爪の先でそっと紙をつまむ。
「ハナクソみたいに小っちゃくて読みにくいや」
「ワガママ イウナ」
「はいはい」
どすどすと足音を立てながら歩くとまだ寝ぼけている犬と猫がすっころんだ。
それでもついてくるのだから可愛いものだ。タマと名付けた猫に鼻を近づけると、タマは3回ほどこちらのにおいを嗅いで頬をテンクウの髭にこすり付けてきた。
やがてテンクウの存在を感知した『それ』は起動した。
「寝起きにこれはまぶしいなぁ」
テンクウの全身よりも遥かに巨大な機械から光が浮かび上がる。
六角形の小さなホログラムがいくつも連なり、半球型の光の玉を形成しあっという間に見慣れた地球の姿になった。
「えーと、どれどれ」
ロボが渡してきた本当にテンクウのハナクソサイズの紙に書かれた文字を読む。
「日本で震度6強の地震……また地震かぁ。よく地震起きる国だよね、ここ」
半球型の光のドームに映っていたのは南半球だったのでスライドして北半球を映す。
ロボの指示に書いてある震源地を探していく。
「ホカノ クニデモ イイゾ」
「うーん。じゃあ、たまには地震があんまりない国にでも起こしてあげようかな」
爪の先で適当にドームの描画をスライドさせ、更に適当に止める。
選ばれたのはプレートの関係で本当に滅多に地震の起こらない国、中東のバーレーンだった。
海のそばで震度6強マグニチュード7.4の地震を発生させる。
次々と建物が崩れていき、液状化現象が発生し、ひび割れた地面から水が溢れ出し人が流されていく。
「うわあ、なんだか凄いことになっちゃったぞ」
日本で同じくらいの地震を起こした時は、確かに何人か死者は出たがここまでの大災害にはならなかった。
次の日はみんな普通に仕事をしていたし、電車の遅延も最大で2時間ほどだったのに。
「ヤリナオスカ?」
「いいや、面倒だし。えーと、次は……隕石? えっ? もうこの世界は終わりってこと?」
「チガウ チッチャイノ オトス」
「あ、そう。じゃあ、隕石……これ?」
メニューから厄災一覧を探すとちゃんと隕石もあった。
場所の指定はないが誰かに当てろと書いてある。
しかしよく見ると人に当てる以外の指示が一切ない。
隕石に含まれる鉱物を適当に設定し、大きさも適度に設定する。
「デカスギ」
「え、100mくらいだよ」
「ダイサイガイ」
「じゃあ10mくらい?」
「マダ デカスギ。デモ ヤリタキャ ヤレ」
「じゃあ10cmくらいにしようかな。これでも死ぬの?」
「シヌ。ソレダト ヒトリダケ」
「ふーん」
宇宙から降り注いだ隕石は10cmよりも遥かに大きかった。
人間が避けようとしても避けられない速度で大気圏に突入していき、空気に削られて隕石が小さくなっていく。
通常ならばほとんどの隕石は大気圏で燃え尽きるが、ほとんど誤差のような小さな角度間でだけは燃え尽きずに地表に到達することがある。
更に極稀に、燃え尽きなかった隕石が人間に命中することがある。一枚だけ買った宝くじで1等を1年間毎日当てるような細い確率だ。
正しく厄災としかいいようがない不幸によって、家のソファで寝ていただけの少女の頭部に直径10cmの隕石が激突し即死した。
今日はこれで終わりなのか、ロボが頭部のビーコンを点滅させながら巨大な機械と何やら交信をし始めた。
「なんか食べようかな。でも面倒だな」
「ダシッパナシニ シテル」
「あ、そうだった!」
ぽちぽちとタッチしてはぼんやりと眺めていた機械から目を離し、隣に目をやると眠る前に作って放置していたイトウの丸焼きがあった。
テンクウの大好物で、パリパリに焼けた頭からかぶりつくのが大好きだった。
「……冷めちゃってる」
焼き立てのパリパリはたまらなく香ばしいのに、冷めてしまっただけでかぶりついた時のパリパリ音がどこまでも虚しく感じる。
「アタリマエダロ」
「うーん、これなら生の方がいいな」
止まったままになっていた画面にタッチし、北海道の猿払村を選ぶ。
淡水魚の項目からイトウを選択すると光るドームから無数のレーザーが飛び出た。
「でたでた」
七色に光るレーザーが空中に立体的な光の構造物を作り出し、徐々にイトウの形となっていく。
完成して落ちてきたイトウを地面に落ちる前に手のひらで受け止める。大きさの指定はしていなかったが、かなりの大物を出してくれて嬉しい。
「うまい! うまい!」
先ほどまで生きていたかのように表面がヌルついているイトウの皮に爪を食い込ませて手に持ち頭に噛り付く。
だが一番美味しいはずの腹にたどり着く前に口が止まった。
(前もイトウの丸かじりした気がする。いつだっけ?)
寝る前ではないはず。丸焼きを放置していたのだから。
だが一昨日かもしれないし、一年前と言われればそんな気もする。
同じことをずっと繰り返して過ごしているので、時間の感覚が希薄になっている。
退屈だ。ああ、本当に退屈だ。岩にでもなってしまいそうだ。
物の例えではなく、そう遠くないうちに今よりもずっと長い時間眠りこけるようになり、起きるのも億劫になり、本当に岩になってしまうのだろう。
残ったイトウを丸呑みにしてうなだれる。
主人の心の機微を感じ取ったのか、タロと呼んでいるペットの犬がテンクウの地面まで伸びたナマズ髭を舐めてくる。
いつもならここで彼らの大好物も出してやるところだが、そんな動きも面倒に感じていた。億劫で仕方がなかった。
岩になる。塊になって動かなくなってしまう。繰り返す日々になんの意味も感じられない。
葉桜を見上げた記憶。握った母の手、街道を走る飛脚、威勢のいい魚売り、昼から酔っている町人たち。
彼らが横目でしか捉えなかった葉桜は、来年も再来年も、きっとずっと永遠に咲くものだと思っていた。テンクウもそう思っていた。だがそうはならなかったんだ。
まだ瞳に涙は浮かぶが、いつかそんな記憶を思い出すことも――――半球型の地球が何かを生成し始めた。
「うわぁ! 動いた!!」
ロボと同じく、この超高性能な機械も壊れかけなのだろう。
今までも時々勝手に何かを生成することがあった。石ころだったり、ヤカンだったり、トイレットペーパーだったりと大体は役に立たないかどうでもいいものだ。
だがこの機械は極まれに生き物を出すのだ。それも先ほどのイトウとは違い、ちゃんと命を持って。
立派な尻尾をした土佐犬であるタロウはそうして出てきたものだ。
当たり来い、当たり来い、と眺めていると徐々に生み出されるものの形が分かってきた。
「人……間……」
どくん、と感覚的に数千年ぶりに心臓が跳ねた。
徐々に、しかし確実に。レーザーが宙に描く人間がおよそ十代半ばの人間の姿になっていく。
何かが動く気がしてならなかった。この全能で無能な繰り返す日々が変わる予感がしてならなかった。
やがて、生み出された人間が地面に落ちた。
「いたっ!!」
「あっ! 大丈夫!?」
眺めるのに夢中になりすぎて手で受け止めてあげるのを忘れていた。
そんなに高くはないため大丈夫だとは思いながらも覗き込むと、ぶつけた頭をさする人間に巨大な影が覆いかぶさり、こちらの存在に気が付いた。
「!?」
「あの、大丈夫?」
「うわぁああああああ!!」
絶叫が世界に響き渡る。
これはこの人間が小心者だからではないし、いま生み出されたばかりだからという訳でもない。
誰だって同じ状況になれば叫ぶか固まるかしかできないだろう。
混乱の真っただ中にあるその人間の目に映っているのは、真っ暗な星空、遠くに浮かぶ本物の地球、そして地球上のどんな生き物よりも巨大な龍の姿だった。
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File No.278068
イトウ
日本が誇る化物淡水魚。
北海道に生息し、最大で2mに達することもある。
サケ科の一種であり、味はびんちょう鮪に似て美味。
かつてアイヌはイトウを釣りあげたらその皮で服や靴を作ったという。
テンクウは丸焼きで食べるのが好き。
File No.568497
土佐犬
四国地方原産の中型の犬。
土佐闘犬との混同を避けるため、四国犬と呼ばれるのが一般的。
飼い主に非常に忠実で冷静かつ勇敢なので番犬として人気。
オスは特に闘争心が強い。
なお、タロはメスである。
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Chapter2 失うために生きてきた
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そよとの風もない真昼の13時。
八王子のおばあちゃん家の庭で家族と見た八重桜は、今でも記憶の中で永遠に綺麗に咲き誇っている。
一番古い記憶で、一番幸せだったころの記憶。
自分の未来は無限だと思っていて、実際その幼児的万能感を砕くような壁は世間一般的なレールの中には現れなかった。
この頃の自分は夢にも思わないだろう。
隣で発泡酒を飲む父親も、お皿に擬製豆腐を取り分けてくれる母親も殺すことになるなんて。
計画的に大量殺人を実行するなんて。
記憶を振り返らなくてはいけない。
自分だけが正しくて、両親も周囲の大人も国も何もかもイカれてしまったと思っていた自分の記憶を。
断っておくと、この追憶は同情を買うために行うものではないし、自己憐憫に浸るために行うものでもない。
否定だけを繰り返してきた短い人生で見聞きした中で、何が真実で何が虚構だったのかの仕分けを行わなければならないからだ。
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客観的に見て裕福な家庭だったように思う。
母はいくつもの有名小説を日本語に訳した翻訳家、父は大手企業子会社の役員で、数年後は親会社の役員となって、そのままうまくいけば社長にも手が届く人物だった。
自分は両親が40近くなってから生まれた一人息子で、宝物のように可愛がられた。同年代の子供に比べて極めて利発的だったことも理由として大きいだろう。
ワガママを言った記憶はあまりないが、それでも欲しいと言ったものはすぐに買ってもらえた。
その日までは。
まず家からテレビが消えた。当然DVDも全部消えた。
次に父の部屋からステレオが消え、リビングのノートパソコンが消えた。
理工学部出身の父は趣味で科学系の文庫本を買っては数ページだけ読んで書斎の棚に入れていたが、それもすべて消えた。
漫画も全て消えた。まだ読みかけだったスラムダンクも消えた。それに伴い母は翻訳家の仕事をやめた。
いわゆる俗物的なものは全て家から消えた。
おばあちゃんの仏壇も消えた。代わりに仰々しい龍の像が置かれ、何もないときは両親は寝室でずっとその像を拝んでいた。
まだ6歳だった自分には何が何だか分からなかった――――と、なるのが普通の6歳児なのだろう。
何かが原因で両親は変わってしまった。その原因を探し、取り除かねばならないとその時は考えていた。
そしてはじめてのおつかいのように、幼い『葦名波瑠(あしな はる)』の冒険が始まる前に、両親は自分を原因の元に連れて行った。
教会と神社の基本概念が混ざって作られたかのようなその建物は幼心にとても歪なものに見えた。
実際とても歪な造りをしていて、地上に出ている部分よりも地下の方が遥かに広かった。
今でもあえて『カルト宗教』という言葉を使うが、こんなカルト宗教がこの町に根城を構えているのはとても汚らわしい気分だった。
アリの巣のように広がる地下の一室に劇場があった。
いわゆるカルト宗教の教祖的なヤツがあそこでありがたい説教でもくれるのかと思ったが、両親と一緒に舞台の上にあげられた。
青果店に飾られているスイカにでもなったような気分だった。
その気分は間違っていない、商品ならば見に来る者がいるはずだ。
そう考えていたらその女は奥からやってきた。
敵、という言葉は下手したら毎日使っている人間もいるかもしれない。
だがその『敵』という言葉はせいぜいが『競り合う相手』という意味ではないだろうか。
ゲームの対戦相手でもいいし、部活動のライバルでもいいし、同期入社で時折一緒に飲みに行く相手にしたって使える。
本来の『敵』は恨みを持って立ち向かう相手に使う言葉なのだ。
そして自分はその女を表すのに『敵』以上に相応しい言葉を知らなかった。
舞台を照らす眩しいライトの輝きを反射するのは女の白装束だけではない。
女は髪にいくつもの白が混じっていた。白髪交じりなのではなく、黒と白が交差するように色が付いており、極めて不自然なのに不思議と染料を用いたとは思えなかった。
目を隠している顔布には爬虫類の目のような模様が描かれており、どうやってあれで真っすぐ歩けているのか不思議だった。
隠れていない部分から判別するに20歳前後にしか見えなかったが、纏っている気配が世間一般の若い女性のそれとは一線を画していた。
並んで気を付けをする両親を見て、敵は笑った。
その女、高天原天子(たかまがはら あまね)は葦名波瑠の不倶戴天の敵だった。
「名前は?」
「…………」
この女だ。この女が敵だ。こいつが現れたせいでうちはおかしくなってしまった。
幼いながらも全力で天子の顔布の向こうにある目を睨みつけると、母親に背中を小突かれた。
「名前は?」
「葦名波瑠」
「……うん……うん。間違いない」
眩い光を受けてか天子の顔布が透け、奥で妖しい光が揺らめいた。
異様に長い爪で己の唇をなぞる様子はB級ホラー映画に出てくる大蛇の舌なめずりのようで、臓腑の底から吐き気を感じたのをまるで昨日のことのように思い出せる。
「本当ですか!?」
名前を答えただけなのに天子は芸術品を目の前にしたかのように大きく息をしながら頷き、狂ってしまった母が口角泡を飛ばしながら喜びの声をあげた。
「ハル。今日から私と暮らそうね」
その日から波瑠の家はこのカルト宗教総本山の暗い地下室の一室になった。
小学校も中学校もここから通うことになってしまった。
両親はある目的のために息子を教祖に差し出した。
文字にしてもやはり気色が悪いし、とてもではないが正気とは思えない。
全員イカれていて、正気なのは自分だけだと思っていた。
こんな状況で10年近く自分を失わなかったのを褒めてやりたい。
だが、振り返ってみるとその言葉は自分自身のことなのに異様に感じてしまう。
『自分だけが正気で、周囲の人間全員が狂っている』
そういう風に感じてしまう精神障害の名前が頭に浮かんだだろう?
だから。いまから俺の人生を振り返るから、ついでに判断してほしい。
狂っているのはどっちだったのかって。
俺だけは、俺だけは狂わない。
正気のまま抜け出してやる。
そう思っていた。
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それからの生活をどのように表現するべきか。
365日フル出勤の雛人形のお内裏様とでも言えばよいか。
天子と似た装いの白装束を着せられ、就寝時間までは常に強化プラスチック板で仕切られた部屋の中にいることを強制された。
就寝時間まで、とは書いても学校が終わってから食事や風呂を除いた22時までの時間だから、ただの囚人生活のようなもので慣れれば死ぬほど厳しいというものでもなかった。
気色悪かったのは、飾りにされている間に全国津々浦々から天子の狂気に感染した信者たちがやってきては拝み倒されることだった。
住まいと名前を告げられ、どうかどうかよろしくお願いいたしますと、まるで人生のどん詰まりの果てに神社仏閣に神頼みをする貧乏人のような必死さで祈られる。
知るかそんなものと叫んでも、強化プラスチック板の向こうでありがたがるだけ。
気味が悪くて仕方がなかった。
「それはね、ハル。他のどんな神様も指紋が無くなるほど拝んだとしても反応してくれないけど、君は反応してくれるからだよ」
「…………」
まだ小学校に上がったばかりの年齢だったが、幼いながらそれが『洗脳』の初期段階だと理解できたので何も言葉を返さなかった。
心を強固に保たねばならない。少しでも気を緩めれば今までの全てが否定され、空っぽになった心に役割が注ぎ込まれてしまう。
「わかりましたって答えてあげるだけでも、きっと彼らはすごく喜ぶからね」
舞台を照らすスポットライトの強烈な光の下で会話をしていて気付いたことだが、この女は極端に呼吸が少なかった。
生物は呼吸をして心臓の鼓動を刻むたびに老いていくが、天子の場合は1分に1度息を吸うか吸わないか程度だった。
マイクを手に持ち、口に近づけ、自分は真っ当な生き物だとアピールするように大きく息を吸い、信者への講演を始めた。
月一の集会では必ず天子の横で置物にされた。何かを話せと命じられている訳ではないが、喜色満面の信者達の笑顔を見続け、隣で垂れ流される戯言を聞き続けなければならないのは耐えがたい苦痛だった。
「――――色即是空という言葉を聞いたことがあるでしょう。『色』は宇宙に存在するすべての形ある物質や現象を意味し、『空』は恒常な実体がないという意味です」
幼く、知識のない子供でも天子の言う言葉の大半は仏教から流用したものなのだろうということは分かっていた。
祖母の家の隣が大規模な寺で、坊さんの読み上げる般若心経をそれとなく聞いて覚えていたからだ。
問題はそこからだった。
「なぜこの世は空なのか? それはこの世界がある種の箱の中にあるからです。私たち人間も、動物も、箱の中でぶつかり交わり流転しているだけに過ぎない。そしてその箱を外から見ている者がいます。一匹の巨大な龍です。彼は空のこの世を眺め、退屈しのぎに厄災をもたらす。ゆえに禍龍(まがつみずち)と呼ばれています。今この場も見ているのかもしれない」
(本気かよこいつ)
まったく、我ながら7歳児が頭の中で言うセリフではないと感じるが、本当に心の底からそう感じたのだ。
ここまでを読んだ者に、客観的に判断してもらいたい。間違っているのはどちらなのか。
子供向けの映画のような設定を語る教祖と、それを大学入試試験一週間前の集中講義よりも真剣に聞く大人たちか。
まともなのは自分だけだと思い込む子供か。
「ハルがいつの日か禍龍を従え、あらゆる厄災からあなた方を救ってくれます」
(早くここから抜け出したい)
行動・思想・感情の3つを操った時マインドコントロールは完成する。
そしてそのうち1つでも操れば他の2つも変わっていく傾向にある。
既に波瑠は行動を掌握され、思想を毎日のように流し込まれていた。
波瑠は自身を強靭な意志の持ち主だと評価している。
幼い子供がこの環境で自分の考えを変えなかったのだから。
抜けた乳歯や風呂に入った後の残り湯を、いい年こいた大人がありがたがって買っていくのを『気持ち悪い』と思い続けられたのだから。
学校で学ぶことが全てだとは思わない。
だが少なくとも理科の授業や、休み時間に図書館で読んだ本に書いてあったことと天子の言葉は相容れないものだった。
帰り道に見る世界も理路整然としていて、あの狂った宗教の主張が入り込む余地などないと思っていた。
ならあそこに見えるビルは龍が粘土でもこねて建てたとでも言うのか。違うだろう。
それなりの規模の株式会社が財閥系金融機関子会社の住宅デベロッパーから依頼を受け、土地の地質調査を行い、基礎を造り、足場を組み立て、一歩ずつ科学的に肉体的に作り上げたものだろう。
それなのに。
「この人……」
世間一般の感性と違い、金曜日の帰りはいつも憂鬱だった。
土日は何も許されずに監禁されるのみだからだ。
とぼとぼと歩く帰り道で目にしたのはなんてことはない選挙ポスターだった。
すぐに思い出した。
あの日、強化プラスチック板の前に立ったのは大学生くらいの男だった。
他の大多数の壮年夫婦と違い、若く一般的な感性をしていたのであろう。
見世物のように監禁されている子供を見て、その青年は分かりやすく『マジかよ』という顔をして――――隣の父親に頭を引っぱたかれた。
そしてそのまま頭を掴まれ、青年は親と一緒に頭を下げてきた。
その時の父親が、ポスターの中で笑っている。
「民政党……」
書道の時間に生徒たちが家から持ってきた新聞を読むのが好きだった。
極端な不自由を強いられている波瑠に許された、正常な世界を垣間見る権利。
大抵の子供にとっては左上の4コマ漫画だけが興味の中心だったが、波瑠は隅々まで読んでいた。
民政党は新聞の中でいくらでも登場してきた名だ。
現日本の与党であり目の前のポスターで真っ白な歯を見せているのはその幹事長だった。
(この国もう終わりなんじゃないか)
政治家のトップ中のトップがあんな笑えないジョークを信じて幼い子供に心から頭を下げていた。
いま振り返ってみれば、この時感じた絶望が良くも悪くも選択肢を狭めたのだと思う。
例えば、公衆電話から警察に助けを求めるという一般的な選択とか。
やらなかったため推測でしかないが、警察の介入により2,3日逃れられたとしても、結局は頭がおかしくなってしまった両親の元へ戻され、両親は自分を天子の元へ戻していただろう。
一刻も早く成長し、自分の力によってのみ立つ――――自立する必要があった。
狂ってしまう前に。信者たちに優しい笑みなんかを与え始める前に。
「ハル!」
「!!」
声をかけてきたのは同級生だった。
学校の外でクラスメートから声をかけられたのは初めてのことだった。
天子は直接的な言葉で何かを波瑠に禁じることは無かった。その前に周囲から奪い取っていたからだ。
だが学校には通わなければならなかった。今はおかしくなってしまったが、昔はまともだった両親は波瑠の出生届を役所に出しており、戸籍があったからだ。
戸籍があるならば、国が認識している国民の一人ならば、教育・納税・勤労の義務を果たさなければならない。
『すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する』
『すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする』
手にした権力で捻じ曲げられることとそのコストを天秤にかけてか、波瑠は学校に行くことを許可されていた。
天子の本音としては行かせたくなかったのだろう。今までの行動からも、とにかく波瑠を世俗的な物事から遠ざけようとしていた。
学校での友人との関りも天子は『やめておいたほうがいい』と言っていた。
「なー、うちに遊びにこない?」
天子が恐れていたのはこういった世俗との繋がりなのだろう。
だからあいつに嫌がらせをするために――――なんて考えは一切なく、席替えで近くの席になって少し話しただけなのに、帰り道に追いかけて来てまで遊びたいと言ってくれたことが嬉しくて、その子の家に遊びに行った。
元々自分が住んでいた一軒家に比べて、彼の住んでいる団地はごちゃごちゃしていて、あちこちから色んな声が聞こえて。
開けっ放しにした窓から両隣の家の料理のにおいがする中で彼と遊んだ対戦型ゲームはとても楽しかった。
偶然にも彼の兄が買っていた漫画の中にスラムダンクがあって、豊玉戦まで読むことが出来た。
そうだ、中学生になったらバスケ部に入ろう。カリメロみたいな髪型にしよう。
そんなことが許されるはずがないと少し考えれば分かることも分からなくなってしまう程に、楽しかった。
「おかあさんが、ハルと遊んじゃダメって……」
週明けに学校で彼に話しかけられたとき、何よりも目立ったのはこれ見よがしの痛々しい眼帯だった。
かりそめの自由は本当にかりそめで、学校に行っている間も信者がどこからか見張っているのだろう。
あるいはその家の父が信者なのかもしれない。天子が『やめておいたほうがいい』と言ったのはこういうことだったのだ。
「ごめん」
目をそらして謝罪の言葉を呟きながらこの先のことを考えていた。
繰り返していけば、いや、そう何度も繰り返さずとも『あの子と関わるのは危ない』と周囲に知られるようになるだろう。
孤独と孤立が訪れることは避けられない。そして一旦施設に戻れば、自分を歓迎してくれる信者たちがいるのだ。
彼らの望むようにふるまえばあの施設も居心地のよいものになるだろう。
それこそが天子の目的であり、カルト宗教の常套手段だ。日常生活や通常の社会から疎外させ、自分たちの集団だけに帰属させる。
気が付けばその泥沼の安寧から抜けられなくなる――――波瑠に与えられた才能は正確に未来を見通していた。
(許さねぇ)
波瑠は自身を強靭な意志の持ち主だと評価している。
それは別の言葉では執念深いとも言い換えられる。
この宗教を壊滅させてやると誓ったのはこの時だった。
自分だけが被害者ならただ逃げればよいと考えていただろう。
周囲にまで害を及ぼすのなら、潰すしかない。
そう考えていた。
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中学校の話をしようと思う。
今までの流れからなんとなく予想できたかもしれないが、高校には行くことがなかった。
だから最後の学び舎が中学だし、最終学歴に至っては中卒にすらなれなかった。
小学校は公立だったのに中学は私立を受けさせられた。
そこの校長か理事長か、あるいは管理者といえる誰かが信者なのだろうということは察しがついていた。
だから入試の答案は滅茶苦茶書いてやった。名前だってまともに書かなかった。
それなのに合格していた。私立に合格を捻じ込むなんて本当にあるものなのかと驚いた。
地元の難関私立だったので、自分の代わりに不合格になった子供がいたのだろう。
難しいだろうから勉強はしなくてもいいよ、と天子に言われてむしろやる気になった。
というよりも、自分に許された自由は学校での勉強くらいしかなかったのだから。
勉強しかない灰色の青春。
そうはならなかった。ならなかったんだ。
もしそんなたった一行で表せるようなつまらない三年間だったら、あんな結末にはならなかっただろうに。
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私立桜花中学校はその名の通り、正門から校舎までの桜並木がとても綺麗な中学校だった。
春に校舎の三階から校庭を眺めると、桜色の花びらの向こうで運動部の生徒たちが走り回っているのがよく見えた。
(……バスケ部入りてぇな)
何をせずとも体格に恵まれた子というのは時折いるが、自分はまさしくそれだった。
中学入学時点で身長は170後半まで伸びており、おまけに小学校の体力測定では周囲の子供たちに比べて明確に優れた結果が出ていた。
未経験者ではあるが、この身体を思い切り動かしてエースになってみたかった。
(くそっ)
校庭から目を逸らし舌打ちをする。
部活動入部は必須とはいえ、まともな部活が許されるはずがなかった。
団体競技の運動部に入ろうものならば部員全員に迷惑をかける。
関わってしまった人間が傷付くことは小学校の頃に幾度もあった。
親身になってくれた先生なんて、何がどうなってそうなったのか、児童ポルノ禁止法でしょっぴかれてしまった。
本当にそうだったのか、あのカルト宗教が裏で手を回したのか。真実は分からない。
関わった人間が不幸になるということだけが真実だった。
「おいお前」
「?」
廊下を歩いていたらガラの悪い生徒にいきなり絡まれた。
襟足を伸ばし散らかして学ランの第二ボタンまで外している見るからに不良だ。
難関私立のはずなのに。馬鹿親が馬鹿息子に馬鹿ほど金かけて塾に行かせまくっていたんだろうな――――と考えていると馴れ馴れしく肩を組んできた。
「カルト王子ってんだろ。あの城に住んでんだろ?」
関わった人間が不幸になるという真実は自分だけのモノではなく、周囲の人間にも知られていた。
小学校では最早アンタッチャブルな存在として扱われていたが、私立ということが災いして中途半端に情報が伝わってしまったようだ。
いつの間にか複数人の生徒に囲まれていた。
「みんな知ってるよ。ねぇ、何してんの? 白い服着てお祈りでもしてんの?」
絡んできた生徒の一人、いかにも性格の悪そうな女子が嗤う。
肩より長い髪は結べという校則なのに一切守る気がないどころか毛先を巻いており、ただでさえキツい印象を与える釣り目を細めて新しいオモチャを発見して、本当に心から嬉しそうに笑っていた。
周囲の男子生徒もそれに合わせてへらへらと笑っている。
クイーンビーそのものだ。現実にこんなヤツいるんだな、という感想だった。
なんとなくこの女子生徒がアンテナであり司令塔だろうと分かった。
「なー、教えてくれよ。アレ、なんていうの? なんだっけ、忘れた」
耳元で必要以上にでかい声で戯言を唱えられるのを無視し、すぐそばにあった水道の蛇口を上に向けた。
「おい」
「え?」
肩に腕を回していた生徒の頭を掴み、蛇口めがけてダンクする。
歯が折れる嫌な感触が手に伝わってきたが、無視してそのまま水を出す。
「俺に関わると良くないことが起きるぞ」
顔中の穴という穴から水を出す生徒の顔を持ち上げ、腹に蹴りを叩き込むと血の混じった吐瀉物を大量に床にぶちまけた。
「あと暴力も良くない」
いきなり流血沙汰になるとは思っていなかったのだろう。
完全に怯んでいる生徒たちの中で一番近くにいた不幸な少年の頭を掴み窓ガラスに叩きつける。
「な、なっ、自分はどうなの自分は!!」
女性生徒が後ずさりをしながら正論のように聞こえる暴論を叫ぶ。
「俺がお前らを殴るのはいい。お前らが俺を殴るのはダメだ」
まったく、サイコな事を口にしているが心から本気で言っていた。
小学校の頃、一緒に家で遊んだ友達は気が付いたら転校していた。
なんでも父親が事業に失敗して蒸発してしまったらしい――――なんて信じるほど敬虔な信者ではない。
いまボコボコにされようと、それで済むなら『無事』なのだ。
波瑠の身体に傷ひとつでもついたら天子は直ちに彼らを破滅させるだろう。
「いっ、ひっ」
絡む相手を思い切り間違えた女子生徒が言葉にならない言葉を口から漏らす。
何をするつもりだったのか、スマホを握っていた右手を掴み思い切り握る。
先月までランドセルを背負っていたくせにマニキュアまでしている――――落ちたスマホにはまだ何も映っていなかったので踏みつぶすのは勘弁してやることにした。
「どけ。女嫌いなんだよ。窓から放り投げるぞ」
「せっ、先生に怒られるからね!?」
「あっそ」
歩き出すと、絡んできた不良軍団だけではなく遠くから様子を見ていた生徒も蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
入学して一週間もしていないのにこうなってしまった。だがこうするしかなかった。
他の生徒が無事に誰一人欠けることなく三年後卒業するには、『怪しいカルト宗教の関係者』で『とんでもない乱暴者』になるべきだったのだ。
そして予想通りここまで大暴れしたのに教師に呼び出されることすらもなかった。
暴れて怒られて、それでもなお暴れて捕まった果てに少年院行きになるなら喜んで大暴れしてやるというのに。
***************
本当は運動部に入りたかった。
恵まれた体格をフルに使ってみたかった。
それか情報収集のためにコンピューター部に入りたかった。
何しろ携帯どころかゲーム機の一つだって持っていない。
部活動入部必須の中で許されたのは、学校関係者からほぼ忘れられている将棋部だけだった。
たしかにこの部活なら遅くならないし、団体競技でもないし、余計な情報を手に入れられることもない。
そのはずだった。
誰かを傷付けるくらいなら独りになりたかったのに。
世界は少年の孤独をおせっかいにも放っておいてはくれなかった。
「なんでいるんだよ」
「はぁー? 最初から入りたかったんですけど?」
将棋盤を挟んで座ったのは以前絡んできた女子生徒だった。
(絶対違うだろ。絶対違うだろ)
どう見たって吹奏楽部とかダンス部とか、偏見だらけな意見だが女子女子した部活に行くだろう。
心の底から誓って言えるが、この時感じていたのは怒りだけだった。
いや、その執念深さに少しだけ感動もしていたかもしれない。
「葦名くん初心者ってことなんで、北御門さんに教えてもらってね」
部長も彼女のとげとげしい雰囲気がどうも苦手なようで、それだけ言って自分の将棋盤の元に駆け足で戻っていった。
「きたみかど」
「北御門汐音(しおん)。あんた名前は?」
「俺に関わるな」
「はぁ?」
「ろくなことにならないぞ」
「いーや。関わるね、俄然」
改めて将棋盤を挟んで座る汐音に目をやる。
髪を巻いて爪を伸ばして、というだけではない。
肌つやも良く頬は健康的な桜色で、唇も高級和菓子のように潤っていた。
育ちがいいのだろう。印象通りにお嬢様なのだろう。今までワガママが通らなかったことなどないのだろう。
自分と関われば全てを失うことになる。
振り返ると、この時考えていたことは全て正しかった。
この時の正解は、ぶん殴ってでも追い出すことだったのだ。
もう全てが遅い。手遅れだ。
「名前。名前名前名前!!」
「うるさい。どっか行け」
「私を負かしたらどっか行ってあげるよ」
「…………」
「その代わり、私が勝ったらそんな口利かせない!! あと名前!!」
「なんでお前だけ二個条件あるの」
「いーから指しなよ。先手」
初心者といっても駒の動かし方くらいは分かっている初心者と、本当に何も知らない初心者がある。
自分は後者だった。人生でやったことはないし興味もなかったから、王様を取られたら負けということしか知らなかった。
そしてまず飛車を歩に重ねてしまった。
「はぁ?」
「…………」
「駒の動かし方も知らないの? 教えてって言えばいいじゃん」
「うるさい」
汐音も汐音で初心者だったが、少なくとも駒の動かし方くらいは知っていた。
当然といえば当然だが、10分後にはボコボコにされていた。
ただ詰まされただけではなく、全ての駒をぶんどられる全駒という完敗にまで追い込まれた。
「名前! あと負けたら負けましたって言え!!」
「葦名波瑠」
「ハル! ハルハル! 女の子みたいな名前!!」
弱みを握ってやったぜと言わんばかりにハルハルと何度も繰り返される。
そうか、考えたことも無かった。ちょっと女っぽい名前なんだ。
人との関わりが薄い人生だから気にしたことも無かった――――。
この時点で、既に少し汐音は自分の人生に踏み込んでいた。
もしも人生をやり直せるならばと思う。
思い切り顔面を殴るべきだったと。
本当に意地っ張りで執念深い、鬱陶しいヤツだったから。
************
自販機の下にはよく小銭が落ちている。
駐車場にもよく落ちている。車の鍵を取り出すときにポケットから小銭を落として気が付かない者が結構いるからだ。
小銭集めを繰り返していくうちにそこそこな額が手に入ったが、それで駄菓子の一つだって買ったことはない。
学校から出る際にどこかから見られていることを考え、正門からも裏門からも一番遠い塀を乗り越える。
目的地はどんな街にでもありそうな古いプラモデル屋だった。
買ったのはFRP用ポリエステル樹脂と離散剤となるシリコンバリアーだった。
忌々しくも自分にとっては家としか呼べない総本山施設にはガードマンがいる。
政治家や成金が集まる以上はそこに金をかける必要があったのだろう。
近所には宗教施設だと知られているため、こうでもしないと不良や酔っ払った大学生が夜間に侵入してくるのだ。
大事なのは彼らが配備される守衛室があること、そこには施設内全ての鍵があることだった。
守衛室においてある鍵の型を油粘土に取ることはそう難しくはなかった。
月いくらで雇っているのかは分からないが、制服だけ着て居眠りをすることも多い還暦過ぎの爺さん警備員は、外から来る人間には最低限注意を向けても内側から何かをされるとは全く思っていなかったようだ。
ポリエステル樹脂で作った合鍵は当然金属製の鍵に比べれば脆いが、型を取れたということが重要だった。
あとは少しの金さえあればいくらでも合鍵を作れる。
そうして波瑠は小学校を卒業する前には、全ての部屋の合鍵と施設内地図を手に入れていたのだ。
施設の大半が地下にある都合上、アリの巣のように通気口と換気ダクトが張り巡らされていた。
どのようにしてこの宗教を壊滅させ、天子を破滅させるか。
この時点ではまだ何も思いつかなかったが何はともあれ情報が必要だと考えており、年齢が二桁になってからは天子の動きを天井裏から忍者のように探る日々だった。
そんなある日、外部からある客がやってきた。
「お前は形のあるものには興味はないと思っていたんだがね。まさかこんな城を作っているとは」
「そうだね。でもやっていることがやっていることだから、お金が集まってくるのは仕方がない」
天子が一対一で対応していたのは、もうすぐ腰が曲がり始めるであろう年齢の男だった。
首に巻いた黄ばんだタオル、伸ばしっぱなしの無精ひげ、懐から取り出したのはシケモク。
言葉は悪いがほとんどホームレスにしか見えない。この施設に来る者は大抵は小金持ち以上なのに。
天子からの扱いも信者に対する接待ではなく、旧友に対するそれに近かった。
二人がいる部屋は応接間と呼ぶにはかなり質素で、机と椅子しかなく、ペットボトルのお茶しか出されていない。
「霊験、頼みがあるんだ」
「あー。あー、500万だぞ」
「分かっている」
「ならいいんだ」
天子が出した500万円を霊験と呼ばれた男はポケットから出したしわくちゃのビニール袋に適当に放り込んだ。
コンビニバイト一週間目の在日外国人でももっとまともな入れ方をするだろうというのが素直な感想だった。
「で、誰に会いたい?」
「高天原天明」
「ほー。親か? 祖父母か? ……ん? こりゃ先祖か? というかこいつ、女か?」
「女だと問題が?」
「身体が変わっちまうんだよ。半年は戻らねえんだぞ」
「500万だと割に合わないね。もっと出そうか」
「いや、いい。どうせあっても碌なことに使わねえんだから、俺は」
その言葉を最後に霊験は動かなくなり、天子は目の前で動かなくなった霊験の顔に布をかけた。
天子自身も使用している顔布のスペアだ。
動かないといっても『だるまさんが転んだ』に引っかからない程度の停止とは比べ物にならない、本物の不動だ。
呼吸をしている様子もなく、身じろぎひとつしない。
(なんだ? 何の音だ?)
排気ダクトから見ていた波瑠の耳に届いたのは、指の関節を鳴らすような音だった。
後から知ったが、その現象をラップ音と言うのだという。
次に気が付いたのは、霊験の前に置かれているペットボトルのお茶が容器の中で波立っていることだった。
それと同時に霊験の様子が少しずつ変わっていく。まず無精ひげが抜け落ちた。次に顔の皺が徐々に消えていき、それと同時に髪が伸び始めた。
ラップ音が霊験の身体から鳴り始め、少しずつ霊験の顔貌が変化していく。
(小さくなっている……?)
人間が膨らむことならばあるだろう。だが霊験の身体は徐々に小さくなっていっているのだ。
徐々に、だが確実に。言うなれば男の体格から女の体格へ。
気が付けば先ほどまでいた小汚いおっさんはどこにもなく、その席にはおよそ20代半ばの女がいた。
波瑠の気のせいでなければ、その女は天子とうり二つだった。
「お前は……?」
「高天原天子だ」
その会話だけで、霊験だった物体に先ほどまでの記憶がないことが分かった。
そしてここまで見てようやく分かった。霊験が行ったのは世界でも類を見ないレベルの降霊術だったのだと。
あまりにも科学的ではない現象だが、目の前で見せられては信じるしかなかった。
「…………幕府はどうなった?」
「そんなものはもうない。なんなら藩もないし侍もいない。刀も剣も持って歩いている人間なんて日本のどこにもいない」
「そうか……。ふふっ、ふふふふふ……」
「『剣』がないんだよ、天明。もう一度作らなくてはならない」
「…………。必要なのはしろがねと百人分の命。生きたまま鉢を開き、腦の一部を切除し、つなぎ合わせ、新たに一つの腦を形作る。百人分の重さを持った腦を溶けたしろがねに沈め、剣の形にする」
(何の話してんだ?)
どうやら天子は先祖を降霊したようだが、話の内容がどうにも理解しがたい。
キーワードだけをつなぎ合わせると、どう解釈しても人の命を何かに使おうとしている。
天子の先祖はカルト宗教どころか邪教の教祖か何かだったらしい。
話は終わったらしいが、身体の形までは戻らず若い女性のままだった。
「霊験、これは忠告なんだが」
「あんだよ……パチンコ行きてえんだが」
「二か月後、君は殺される。心当たりは?」
「……一番依頼が多いのがさぁ、殺された人を降ろして犯人を知りたいってことなんだよな。心当たりなんていくらでもある」
「高飛びした方がいい」
「無理だねーっ。なんせ顔も性別も変わっているから飛行機ひとつ乗るのも難しいんだわ。ま、そんときゃ天運だと思って諦めるわ」
その後、霊験と呼ばれたその男がどうなったかは知らない。
気になるのは霊を呼んでまで行った会話の意味と、天子の断定的な未来の話だった。
同級生が青い春を過ごす中、こうしてゴキブリのように排気ダクトを這い回る日々だった。
この宗教を潰してやると誓ったのはいいものの、具体的な手段は何も思いつかなかった――――というのは言い訳だ。
まだこの頃には良心が残っていて、無意識のうちにブレーキをかけていたのだろう。
今となってはそう思う。
**********
憂鬱なイベントがやってきた。体育祭だ。
運動が苦手だからではない。むしろ身体を動かすことは大の得意で才能にも恵まれていたようだ。
それこそクラスメイトがビビりながらリレーのアンカーを頼みに来るくらいには。
嫌なのは頭がおかしくなってしまった両親が見に来ることだ。
カルトをキメすぎてラリ公になったはずの父親は何故か会社で出世しまくり、今は本社の役員となって単身赴任しているがわざわざ見に来るのだという。
時折施設に面会に来る母親も連れて。どの面下げて、と叫べるものなら叫びたい。
奇声をあげながら学校を飛び出して家に火を付けに行かないだけ自制心を保っている方だと思うが、自分はこれ以上耐えられるだろうか。
誰もが競技に集中している中で自分だけが集中していない。
もうすぐ背後からバトンを持った生徒が来るのを音で感じるが顔を上げたくない。
前を見れば喜色満面の表情で息子を応援する両親の姿が目に入るからだ。
リレーのアンカーになった自慢の息子を応援しているのだ。何もおかしいところはない。自分だけがおかしい。
自分だけがおかしい。自分だけがおかしい。
何年も何年もイカれた教えを隣で聞かされ続け、信者に拝まれ続け、頭の中にそんな言葉が繰り返し響くようになった。
バトンを手に取る、現時点で二着、両手をあげて応援する両親の姿が目に入る。
怒りが心臓から太ももを突き抜けてつま先まで満ちた。
「ぬぁあああああ!!」
ゴール直前ならまだしも初っ端からこの絶叫はシャウト効果を狙うにしてもおかしいだろう。
分かっていても雑念だらけの頭を空っぽにするにはこうするしかなくて、あっという間にコーナーにさしかかり両親は視界から消えた。
体力の配分を間違えているので、目前まで迫っていた一位の背中が遠ざかり始める。
本音を言えばビリッけつになろうがどうでもいいので、身体から力を抜こうとした時、白線の向こう側にいる汐音と目が合った。
(……あいつ、なんで部活やめないんだろ)
季節はすっかり秋で、競技に参加していない生徒はジャージを着ている。
今だからこそ分かるが、彼女だってルールを知っている程度で別に将棋に興味など無かった。
極限まで少ない部員数で1年生は自分と彼女の二人しかおらず、二年生はなんと0で三年生は三人いたが引退してしまった。
つまり今は汐音と波瑠しか将棋部にはいないため、来年には廃部になることがほぼ確定している。というよりもその辺も見越して天子に部活を選ばれたのかもしれない。
それなのに汐音は何故かやめていないし、何故か見ているのは一番前で走る彼女のクラスメートではなく波瑠のことだった。
指で髪をくるくると遊びながら退屈そうにではあるが、どうしてか少しだけやる気が出た。
(雑魚がなんで俺の前走ってんだ!!)
あんな環境でそうならない方がおかしいが、波瑠の性格はかなり歪んでいた。
事実その通りなのだが――――自分はあらゆる才能に恵まれているのに環境のせいでそれを活かせないと考えており、
その反動で周囲でのん気に過ごしているお坊ちゃんお嬢ちゃん達をうっすら嫌い見下している。
ただその怒りが全ての原動力になっていることは確かだった。
高校など行けるはずもないと分かっているのに定期試験ではずっと一位を取り続け、楽しく部活をしている同級生に負けるのが許せずに強化プラスチック板で透けた部屋の中で周囲の目も気にせず身体を鍛え続けていた。
俺を見ろ。
それはどんな子供だって持っている感情で、それを最初に満たしてくれる愛情に溢れた両親がいる。
憎悪と嫉妬だけが、身体の中で燃え続けるどす黒い炎に薪をくべ続けていた。
(ちくしょう……ちくしょう!!)
ゴールテープを切って最初に頭に浮かんだのがそんな言葉だった。
逆転したのに、陸上部の生徒に勝ったのに。クラスメートは喜んでいるのに。
素直に喜べない。
あの時、天子は何を見て波瑠を選んだのだろうか。
もしかしてあの場で波瑠の才能を見抜き、それで選ばれたのだろうか。
だったらこんな才能などいらなかった。体格に恵まれずとも運動部で出来ることを精一杯やりたかった、愚鈍でも低い点数のテストを友達に見せて笑い合いたかった。
あの女が人生に入り込んできたせいでそんな普通すらも願えなくなってしまった。
ぶっ殺してやりたい。
体格的には問題なく素手で殺せる程に成長したが、天子と会うときは必ず周囲に信者がいる。
既に世間一般的にかなり大きい部類に入る身体であるため、これ以上の成長は期待できない。
自分にできることはせいぜい寝るまでの間に監禁された部屋の中で身体を鍛えることだけだった。
いつか一撃で殴り殺せるように。
頭の中で怒りを弾けさせていると放送席から昼食の時間だとアナウンスが入った。
各々生徒は両親の広げたシートに向かっていったり友人とお弁当を食べている。
当然、波瑠の昼食は両親が持っている。嫌々でも彼らの元に向かうしかなかった。
「波瑠、すごかったじゃない!」
「昔お母さん陸上選手だったからな。母親に似たんだろうな」
「…………」
小学校に上がる前に施設に閉じ込められたせいで、普通の家庭なら知っているであろうそんなことも知らなかった。
どうやら自分の運動神経の良さは母親譲りらしい。しかもよく見ると自分は学年でも一番大きいのに、父はそんな自分よりもまだ大きいデカいオッサンだった。
「いやぁ波瑠も大きくなった」
「ほんとに、天子様も喜んでくださるわ」
一気に目の前が真っ赤になった。おそらく、その時の自分の目は真っ赤に充血していたと思う。
手から液体が滴る感覚がしたと思ったら、拳を握りしめすぎて血が出ていた。
「さ、お弁当食べよう」
「そうね。波瑠の好きなもの沢山入れてきたから」
「いらねぇよ!!」
声変わりして野太くなった罵声が周囲に響き、両隣の一家の空気が凍った。
俺が殺したいのはお前らもなんだ――――両親への愛情というものをこうまでもさっぱり失えるなんて。
自分が薄情な人間なのか。それとも親にカルト宗教に売られたとなれば誰だってこうなるのか。
そんなことは一切興味が無かった。とにかくこの場から一刻も早く離れたくて、気が付けば校舎裏まで走って逃げていた。
(…………)
鉢巻を頭から外すが、血の付いた手の方で外してしまった。
やってしまったと思ったのも一瞬、もう知らねぇなんも知らねえ、と鉢巻で血を拭い顔を手で覆う。
もう1ポイント怒りが追加されていたら弁当箱を蹴り飛ばしていただろう。
あんな女が自分の人生に表れなければ。あんな宗教がこの街に根付かなければ。
今頃は両親に褒めちぎられながら一緒に好物だらけのお弁当を食べていただろうに。
「うわぁ~ヒーローなのにこんなところで一人でうずくまってる~」
校舎の影と太陽の光の境目から汐音がこちらを見ていた。
最初の半年は彼女を見るたびに怒りのボルテージが上がっていたが、今は何故かそんなことはない。
そうは言ってもこんな状況でからかわれれば話は別だ。
「どっか行け」
「はいそれ100回目」
「数えてたのかよ」
「いや、適当だけど」
そう言った汐音は何故か波瑠の隣に座った。
ジャージの袖で手の甲まで隠しているのを見てようやく少し肌寒いことを思い出した。
そして同時に弁当をその手に持っていることにも気が付く。
「親のところに行けよ」
「来てない」
彼女の父親は車や航空機のパーツを主に作成している北御門重工のCEOだった。
知っているのがそれくらいなのは、何故か彼女が母親の話をしないからだ。
そして波瑠も親の話はしたくないためそれ以上何かを聞くこともなかった。
「他のヤツのところに行け」
「行くよ。でもあんたお昼食べてないでしょ」
「は?」
「少し分けてあげる」
「いらねえ」
ぐぅ、と隠し切れない音量で腹が鳴った。
食べ盛りの成長期がずっと運動していたのだから当たり前だった。
「あはははは!」
「…………」
「あはははは!」
「うるせえ! そんなに面白いかよ!」
「はい、から揚げ」
がーっと叫んだ口に器用にから揚げを投げ入れられた。
性格は歪んで心の中は取っ散らかっている波瑠だが、これを吐き出すまでには壊れていなかった。
「おいしい?」
「…………」
しかしそこで『おいしい』と言えるほどには素直ではなく、ただ頷くことしかできなかった。
「ほんとー? よかった」
(…………)
結局その後、汐音から半分も弁当を分けてもらってしまった。
そのおかげなのかどうかは知らないが、午後も気持ち悪い笑顔で見てくる両親の前でお元気で大変よろしい姿を見せることが出来た。
会話の端からあのお弁当は汐音が作ったものなのではないかと思ったが、本人に訊いたりはしなかった。
そして汐音もそれを恩に着せるようなことはなかった。
普段はトイレの回数にすら茶々を入れてくるような鬱陶しいヤツなのに、本当に痛いところにはそれ以上触れないのが不思議だった。
**************
もうここまで振り返れば誰だって察しが付きそうなものだが、その通り。
葦名波瑠の青春は北御門汐音がずっと付きまとっていた。
お互いがお互いのことを『性格最悪』と思っていながら唯一の接点である部活をやめることはないという奇妙な関係だった。
確かに汐音は性格が悪い。
ずっと別のクラスだったため全て見ていた訳ではないが、周囲に常に誰かを従えている明確なカースト最上位の人間で、いつも誰かに何かを命じていた。
不思議なのはその命令を受ける側(特に男子)が喜んでいるように見えたことだ。
これは一つの発見だが、彼女は強そうに見える男を連れ歩き命令するのが好きなのだ。
その発見と同時に、本当に100回はやめろと言っているのに何故彼女がまだ部活をやめないのか少し分かった気がする。
典型的ないじめを行っているのかどうかは知らないが、自分との出会いが出会いだしクラス内でそういうことをしていても全くおかしくない。
ならば自分のように360度全方位に性格が歪み切っているのかと言えばそんなことはなかった。
全く嬉しくないが性格終了ランキングは僅差で自分が学校で一番なんだろう。そんなところでも一番なんだろう。
そう思い知らされる出来事があった。
中学二年生のある日の帰り道で、道路で何か棒状のようなものを掲げている人がいた。
変質者かな、と思ったのも一瞬だった。掲げられているものが白杖だと気が付いたからだ。
目に障害のある人が何か困っていて、周囲に助けを求めるサインだと波瑠は知っていた。
「……っ」
駆け寄ろうとして立ち止まる。
ここは忌々しい我が家である総本山施設から近い。
どこかで信者が見ているかも、今から行う親切を天子に報告されるかも――――そう考えているうちに別の曲がり角から誰かが飛び出した。
(北御門……)
学校では常に刺々しい雰囲気なのに、その欠片もない口調で盲目の男に困りごとを聞いている。
そして自分は何故か物陰に隠れてそんな様子を見ている。
昨日も将棋に負けて将棋盤を派手にひっくり返していたのに。
動き始めた二人をこっそりと追跡すると、交番に辿り着いた。
(迷子だったのか)
三分ほどして二人が出てきた。汐音は盲人の手を引きどこかへと歩いていく。
なんと警察に任せて終わりと思いきや、目的地まで連れていく気らしい。
(帰ろ)
信者に見られているかもなんて考えていた自分が少し情けなくなった。
そしてあんなところに『帰る』と考えている自分が少し嫌になった。
性格が悪いばかりではないんだな、と見直した次の日のことだった。
「ストーカー! ストーカーストーカー!!」
「うるさい。してない」
次の手を考えている真っ最中だというのに、将棋盤を挟んでギャンギャンと甲高い声で喚き散らかしてくる。
どうもどこかの段階でこっそり追跡していたことを気が付かれていたらしい。
この図体だ、隠れているつもりでもうまく隠れられていなかったのだろう。
「してたもん! 私のことねっとりとストーキングしてた!」
「うるせぇ!! これで終わりだ!!」
駒台から取った銀将を駒が割れんばかりの勢いで将棋盤に叩きつける。
「はぁ~~? は…………。…………」
その手で急転直下負け確定となったことに気が付いたのか急に無口になった。
いまその脳はフル回転して決して生き残れない五手詰めを解いていることだろう。
「ない……負けた。もう全然勝てない……。ハルってちょっと信じらんないくらい頭良いよね」
「お前が口ほどにもないだけだろ。いつもいつも馬鹿の一つ覚えの右四間飛車ばっか」
褒めたはずが暴言で返されて汐音は分かりやすく口をパクパクさせて言葉を失っていた。
「でっ、でも友達一人もいないから~? 勉強教えてあげる相手もいないんだ!」
「そーだな。俺もついでに教えて欲しいよ。時間もあって環境も整っているのにどうやったら義務教育の内容すらまともに覚えられないのかとかさ、そのコツとか」
「ほんと宇宙一性格悪いよ」
「だったら関わらなきゃいいだろ。あとお前にだけは言われたくねーんだよ」
「もうほんとっ、ムカつくムカつくムカつく!!」
口喧嘩では勝てないと察したのか、汐音は駒を滅茶苦茶に投げつけてきた。いつもの流れである。
自分で散らかす癖に片付けることのない汐音の代わりに駒を拾い置きなおす。
対局が終わったら感想戦と流れが決まっているので勝負が決したからと崩してはいけないのだ。
元通りに並べられた駒を見て再び汐音は青筋を額に浮かべていたが再度散らかすことはなかった。
「…………。王様って周り全部動けるし、一人だけなら凄い強いんだね」
「そうだな。周りに兵士がいると雁字搦めで動けなくなるしな」
「なんだか私みたい」
どちらが強いということでもなく単なる癖の話なのだが、波瑠は王将の周りになるべく駒をおかずに最初から逃げ道を作っておくタイプだ。
一方の汐音は王将の周囲を味方で囲んで引きこもるタイプだが、最初は有利に見えても後々味方に逃げ道を塞がれ詰んでしまうことが多い。
囲いを作れるくらいには勉強をしたのは偉いが、やることのない施設に帰って頭の中でずっと駒を動かしている波瑠とはどうしても練度の差が出てしまっていた。
「…………」
「私、将来結婚する相手も決まっているんだって。お姉ちゃんも大学出たら結婚するの」
「だとしてお前、それが嫌なら優等生なんだし、普通に生きる道があるだろ」
その道を選べば親の協力を得られないという意味では、ハードな人生になるだろう。
たとえそうだとしても波瑠の人生よりも厳しいものではないはずだ。
「もちろんそうする。将来はこの身一つで生きていく。丸の内とかでバリバリっと仕事して朝はピシッと起きてコーヒー買って出社するの」
「…………?」
ずいぶんとふわふわとしていてプランのない将来設計だ。
中学二年生ならばそんなもんだと言えばそうなのかもしれない。
だが普段汐音と関わってきた波瑠には汐音の言葉がどこか響いてこなかった。
欲望に忠実なタイプの人間である汐音の言葉は善かれ悪しかれ普段から気持ちが詰まっていたからだ。
(嘘ついてるな)
嘘というよりも、本気ではない。
ただ一方で、将来決まった相手とのお見合い結婚とやらを嫌がっているのは本気だと表情や言葉から分かった。
つまり汐音は将来やりたいことを隠しているということになる。あるいは、自分のやりたいことがまだ見つかっていないだけか。
「将来どうするの? 逃げるの?」
こんなズケズケと踏み込んでくる性格だから、こんな性格だからこそ、汐音は外部の人間で唯一波瑠の置かれている状況を知っている人間だった。
そして認めたくないことだが、彼女が波瑠の置かれた状況を異常だと言ってくれるからこそ自分は正常だと認識できる。
「逃げない。あの宗教を潰さなくちゃならない。俺にしか出来ない」
「ふーん……お言葉ですけど! そっちこそ逃げて普通に生きる道探せるでしょ」
「うちの親は5歳の俺をあの宗教に売った。それからの人生はずっとお前らが俺に絡んできたみたいに、どこに行っても影が付き纏ってきて俺の人生が無い」
聞かれなければ言わないし、聞かれても答えないことも多い中で初めて波瑠から開示した情報だった。
あまりにも生きる世界が違う事実を明かされて汐音が口をつぐむ。
それが一番犠牲が少ない形で、自身が望んだ形でもあるが、既に波瑠は学校でも街でも腫物扱いだ。
かといって別の街へ逃げようと、大物政治家すらも何人も抱き込んでいる宗教から逃れてどんな人生が待っていると言うのだろう。
「逃げろだと? どこへ? ホームレス中学生か? お前なんかに俺の気持ちが分かるもんかよ!」
「お母さんは私が5歳の時に男作って家の金盗んで出ていった!! そのときの私の気持ち、ハルに分かる!? 世界中の不幸が全部自分に集まっているみたいな顔しないで!!」
売り言葉に買い言葉、せっかく直した盤面を拳で叩いて汐音が怒鳴った。
汐音も怒りに我を忘れたのだろう、普段決して語らない母のことを口にしていた。
しまった、と分かりやすく表情に表れているのを見るに不幸自慢にすら使いたくない過去なのだろう。
「…………。俺を辛気臭いと思うなら関わるな。何度も言ってきた」
「どこの部活に入ろうが私の勝手でしょ」
波瑠は一応一線を超えないようにしている。人を殴っても極力後遺症が残らないようにしているし、殺そうともしていない。
関わってほしくないが、クラスメートに教室から出ていけとは言わない。他人の部活選びへの干渉もそれらと同じ『一線』だ。
かといって『俺がいるからここにいるんだろ』なんて汐音に言えば揚げ足を取られることは目に見えていた。
「母親のこと、好きだったのか」
「好き!? 好きどころか大嫌いだった……あんな人……。いなくなってせいせいした! 私だけじゃない。お父さんもお姉ちゃんも、あの人がいなくなってほっとしていたよ。あんな人にならないために勉強するの!!」
「なら別にいいだろ」
「…………。それでも親なの……」
(……そうだよな)
嫌いだった奴が消えてラッキー、では済まされないのが親だ。
憎もうが恨もうが親は親で、どうしたって血は繋がっている。
今の自分がここまで捻じ曲がっている理由を本当は分かっている。
それでも親からの愛情と関心が欲しかったからだ。
「…………。お父さんに言ってなんとかしてあげよっか?」
「やめとけ。いきなり会社倒産して貧乏暮らししたくないだろ」
「う…………」
ばつの悪そうな顔をしているのは、どれだけ口喧嘩しようが結局のところ波瑠の言葉を信じているからだろう。
汐音自身で調べたのか、あるいは何かを見たのかは分からない。
だが波瑠の親との関係や実際に置かれている環境を見れば、金持ち父さん一人でなんとか出来るものではないということはなんとなく分かるのだろう。
「なんだかんだ金持ちの家に生まれて良かったって思うだろ」
「まーね! 見てこれほら! 新しいケータイ買ってもらっちゃった!」
校内に携帯は持ち込み禁止なのに新しいスマホとやらを自慢げに見せてくる。
そうはいってもそんな校則はほぼ形骸化しており、守っている生徒など自分しかいないが。
だって持っていないし――――と、そこまで考えてあるアイデアが頭に浮かんだ。
「古いケータイってどうしてる?」
「どうって……持ってるけど。でも使わないし、そのうち捨てるかもね」
「それ、貰っていいか?」
時代が時代なので、持っていなくともフリーWi-Fi等のインフラの存在は知っている。
うまく帰り道で強めのWi-Fi電波が垂れ流しになっている所を見つけられれば情報収集も出来るかもしれない。
逃げるにしろ戦うにしろ今の自分には何よりも情報が足りないのだ。
かなり不躾なお願いだということは分かっている。
ここぞとばかりに汐音に何を言われるか分からないがそれでも――――汐音は笑っていた。
その表情をどのように表現するべきか。まるで試験で山を張っていた部分がそのまま出た時のような得意げな笑顔だった。
「はい、どーぞ」
「えっ」
汐音がカバンから取り出して渡してきたのは先週まで彼女がいじり倒していたスマホだった。
しかも充電器とイヤホンまでセットで付いてきている。
「将棋指しだからね。先を読まないと」
「…………」
心に満たされた驚きにほんの少しの『イラっ』がスパイスされて何も言えなかった。
「でっっっ? 親切にされたらなんて言うんだっけ? 友達いないから分からない?」
「…………。ありがとう」
「よし。帰る!」
性格的にドヤ顔を隠しもせずに講義を押し付けてくるものだと思ったのに、汐音は今日の用事は全て済んだとばかりに帰ってしまった。
後片付けをしないことすらもいつも通りだが、今日くらいは怒りゲージを溜めずに片付けてやろう。
***********
スマホを受け取った瞬間から候補地は頭に浮かんでいた。
帰り道にあるパチンコ屋とその隣にあるコンビニだ。
パチンコ屋から垂れ流されるフリーWi-Fiはコンビニの壁を貫通して届いていたお陰で、コンビニのトイレを借りてしばらくスマホを触る時間が出来た。
「ん?」
ネットに接続した瞬間にメールが届いた。
これって見ていいものなんだろうか、と考える前に『To HAL』と書かれたタイトルが目に入りタップしてしまった。
『メールアドレス作っておいてあげたから、何か聞きたいことがあったらこのメールに返信してね』
『使いそうなアプリも入れておいた』
『音楽とか入れっぱなしだから、聴けるなら聴いていいよ』
つらつらとその他もろもろ聞きたかったことが先回りして書かれている汐音からのメールだった。
送信日時は昨日の夜となっており、本当に今日の流れを読み切っていたのだ。
静音カメラや自動録音アプリに紛れて将棋アプリなんかも入っている。
アイコンを長押しするとインストール日時が見れることが分かった。
将棋アプリのインストール日時は去年の春となっていた。
この日のことは覚えている。汐音が理解しがたい執念だけで将棋部に入ってきた日ではないか。
音楽アプリを起動すると最後に汐音が聴いていたであろう音楽が再生された。
ものすごく勝手な印象だが、クラスの女子がダンスを撮影しながら流しているキャンキャンやかましい曲が流行っているので、当然彼女もそれを聴いているものだと思っていた。
机とトイレと布団しかない三畳間。
早い話が死刑囚の独居房のような部屋が、もう長いこと夜の波瑠に許された狭い世界だった。
時折月が見える窓は八本の鉄格子で塞がれている。
八本の鉛筆を手と手に持って窓にかざし、月に将棋盤を浮かべる。そんな夜を過ごしていた。
昨日までは。
「銀河鉄道スリーナイン……」
コンビニの狭くて汚くて小便臭いトイレで聴いた曲が数時間経ってもまだ頭の中で流れている。
遥か昔幼い頃にテレビから流れてくるのを聞いたことがある古いアニソンで、わざわざスマホに音源を入れてまで聴いている今時の中学生など絶滅危惧種だろう。
それでも波瑠には久しぶりの能動的な娑婆っ気だった。
早く自由になりたい、何もかもから。
いつか鉄格子越しではない月夜の空を見るんだ。
***********
三年生になった。
色々あったからか、ほんの少しだけ汐音への態度が軟化したと自分でも分かった。
波瑠の態度が一つ軟化すると汐音の態度は五つは軟化した。
だが訊ねれば『嫌い』と言うだろう。『本当は?』と訊くと『大嫌い』と言うだろう。
その繰り返しだし、当然だと思う。
だが、『嫌い』は『嫌い』だが、『大大大嫌い』は少し好きなのかもしれない。
そんなある日のこと。
それは偶然を遥かに超えた回数で起こっていた。
(なんで今更?)
帰りのホームルームを聞きながら手にした紙を見ながら疑問に思う。
そこには眉をしかめたくなるような悪口が書かれていた。間抜けにも半日この紙を背中に付けて過ごしていたのだ。
15歳になった波瑠は昔読んだスラムダンクの主人公と同じ身長になっていた。
成績優秀で運動神経抜群とくれば普通に生きていればクラスの人気者だっただろう。
だがその未来は訪れなかった。
周囲からの評価は勉強がべらぼうに出来る優等生でもなく、運動部のエースでもなく、ただのバケモノである。
それは分かっていた。誰にも関わってほしくなかったから望んでそうなった。
それがなぜ今更。
背中に貼り紙をつけられたり、授業中に消しカスを投げられたりしているのだろう。
怪しいカルト宗教の施設で日々過ごしている少年なんてそうなる要素しかないのは分かる。
だがこの中学は全国でも珍しい中高一貫ではない私立であるため、三年生は全員必死こいて勉強しているはずなのに。
シャープペンの消しゴムが頭に当たり、これ以上理由を考えるのはやめた。
「葦名……?」
ホームルーム中に突然立ち上がった生徒に対し、教師が当然の言葉を投げかけてくる。
どうせ何をしても怒ることも出来ない教師を無視して後ろの席の女子生徒に声をかける。
「どけ」
「えっ?」
「いや、もうどかなくていい」
女子生徒が状況を理解する頃には、彼女の机は更に後ろの男子生徒に投げつけられていた。
思ったよりもジャストミートしてしまった男子生徒を持ち上げるとぐったりとしていた。
「あれ……」
鼻がぺったんこになり前歯が全て無くなっており、見事に気絶している。
シャープペンの消しゴムが1万倍になって返ってきた男子を捨てて、もう一人の心当たりの元へと向かう。
壁際の席にいた男子は次は自分だと察したのか、全速力で逃げようとしていたが一足遅く波瑠に頭を掴まれていた。
「逃げるならやるべきじゃなかったな」
次は気絶させないように。
そこにだけ注意をしながら、学級新聞や県内高校偏差値一覧表が貼ってある壁に頭を押し付けて思い切りこすり付けた。
「いっぎゃぁあああ!?」
「理由言え。刺すぞ」
そう言いながら床に落ちていた画鋲を少々平たくなった生徒の顔に刺す。
「やめっ、やめてっ」
「早く言え。刺すぞ」
床にぶちまけられていた筆記用具の中からマジックペンを選び耳に突っ込む。
もう少し力を入れれば一生悲惨な人生になるか、人生ここで終わりのどちらかだった。
「御子柴! 御子柴がやれって言ったんだ!!」
「なるほど御子柴……」
力加減を間違えて少し血が付いてしまっているマジックペンを抜く。
理由を言ってくれたのはいいが、次の疑問が湧いてきた。
(マジで誰?)
記憶力は相当いい方だと思うが、誓ってそんな名前の人間と関わったことは今まで一度もない。
無関係の人間をイジメのターゲットにするものだろうか。こうなることを分かっていたのなら、むしろイジメられていたのはこの二人なのではなかろうか。
なるほど、よく見てみれば典型的なパシリ顔だ。
「何組?」
「さっ……三組」
顔が一部平たくなったパシリ顔を持ち上げすぐそばにあった掃除用具入れのロッカーを開く。
「分かった」
パシリ顔と言いつつ、クラスメートなので吉岡という苗字くらいは知っていた。
吉岡をロッカーに押し込め扉を閉じ、思い切りロッカーに蹴りを叩き込む。
形が歪んでしまったロッカーは内側からの力ではどうやっても開かなくなった。
後で気が向いたらロッカーにマジックペンで『吉岡』と書いておいてやろう。
「さてと」
突然の暴力の嵐に巻き込まれ、ライオンを前にした草食獣のように固まる生徒達の詰まった教室から出る。
どうやら他のクラスはホームルームが終わったようで各々部活に向かっている。
たまたま三年三組になってしまい、たまたま三組からたった今出てきた不運な女子生徒の首根っこを掴む。
「御子柴って誰?」
「えっ、えっ……」
「指させ」
女子生徒が指さした『御子柴』は本当に今まで一度も関わったことのない少年だった。
推定無罪という言葉があるが、こちらを見て『ヤバい』と考えていることが分かる表情をしたことで波瑠の中で推定有罪となった。
「土の中でずっと過ごしている虫ってのもいてさぁ」
「待て! 待て待て!」
そして迫ってくる波瑠に対し状況に対しての疑問ではなく『待て』と言ったことで有罪が確定した。
「でも交尾の為に地上に出るから鳥に食われるんだ」
「ちょっと話を――――」
「虫は虫らしく地中を這い回ってりゃいいのに」
捕まえた御子柴を壁際に思い切り押し付ける。
力の強さ的に彼は運動部のようだが、90kg近い波瑠はビクとも動かない。
まだ手に持っていたマジックペンで御子柴の顔に大きく『蟲』と書く。
懐をまさぐるとスマホが出てきたので、施設で忍者をしている時のようにスムーズに虫面を撮影した。
「話していいぞ」
「いやっ、俺御子柴! お前の、お前に、その」
「これってSNSアカウントってヤツか?」
テンパリまくって何が言いたいのか分からない御子柴にスマホの画面を見せる。
ちょうど彼の虫顔が全世界に公開投稿されたところだった。
「喧嘩売る相手間違えたな」
「お前に喧嘩で勝てたら付き合ってくれるって! でも俺一人じゃ勝てねえから!」
「は? 誰が誰と付き合うって?」
「北御門が!」
七十年の歴史があるこの学校の床が突如抜けて一階まで落下した。そんな気分だった。
気が付けば彼女の名前を聞けば浮かんでくるのは笑顔ばかりになっていて、ちょっと幸せな気持ちになっていたりもした。
だって結局、性格が悪いのどうの言ったって本当に波瑠が嫌がることはしないようにしていたから。
世界で唯一の理解者だと思っていた。開いてはいけない心をほんの少しだけ開いていたのに。
だが違った。女王蜂のように兵隊をぶつけてきたあの最悪の出会いから彼女は何も変わっていなかったのだ。
「ふざけんなよ……」
「待てっ、待て! やめろやめろ!!」
「なんだよこれ……なんなんだよ」
「やめ――――」
わめき続ける虫を窓から落とす。
じくじくとうるさい蝉の声が開け放たれた窓から飛び込んでくる。
そうだ、もうすぐ最後の夏休みだったっけ。
「死っ、死ぃ……」
不運にも巻き込まれてしまった女子生徒が腰を抜かして何かを言っている。
別に何も悪いことはしていないがついでに落としてやりたい気分だった。
「うるせぇなぁ、三階ぐらいじゃ死なねーよ。多分」
そういえば汐音も三組だった。信じたくないのに、また一つ事実に近づくパーツが出てきてしまった。
ここにいないのはもう部室に向かったからなのだろうか。
気が付けば波瑠は全速力で廊下を走り部室棟に向かっていた。
最後の夏休みが近い。全く勧誘なんかしていなかったから、将棋部には波瑠と汐音しかおらずきっと来年は部員0だろう。
正しい未来は運動部のエースで学年一の秀才でクラスの人気者だと思っていた。将棋なんか汐音と同じくこれっぽっちも興味はなかった。
だけど、最後の夏休みに二人でかび臭いエアコンのきいた部屋で延々と指し続けるのも、それはそれで悪くない。
そう思うようになっていたのに。
「北御門!!」
「ハル――――」
本気で手加減なしで胸倉を掴んだせいでリボンは千切れボタンは弾け飛びつま先立ちになっていた。
「アレが俺に勝てると思ったのか?」
「いっ、痛っ……」
「ふざけた真似しやがって……!」
「か……勝てたでしょ?」
仕事人間で堅物の父親にいたずらをして想像以上に叱られた。そんな表情だった。
好意を寄せられたなら可能な限り玩具にして楽しみたい。それはどうしようもない彼女の性癖なのだ。
別に彼は暴力に抵抗はないし、これくらいはなんてこと無いはず――――そう思ってしまったのだろう。
なぜ波瑠が関わってはいけない乱暴者であり続けたのか、その理由を知っているくせに真には理解していなかったのだ。
「お前はもうそういうことしないと思っていた」
「だって、だってぇ……」
何の話だと最初からとぼけてくれたのなら、嘘だと分かっていても受け入れたのに。
もうダメだった。本当に何もかもダメだった。
「消えろ」
「えっ?」
「消え失せろ! 二度と俺に関わるんじゃねえ!!」
手を放してそばにあった汐音のカバンを押し付け出口に追いやる。
今の今まで泣き出しそうな顔をしていたのに、生来の気の強さと刺々しさが汐音の目じりに戻ってきた。
それは強がりだと分かっていた。
「いいよ。もう来ない。一人で駒磨いていれば!!」
自分が悪いと分かっているのだろう。
だが汐音は謝れない。それが間違いだと分かっていても、相手が強く出れば同じだけ強く出てしまう。
波瑠と同じく後悔だらけのはずなのに、汐音は走り去ってしまった。
(最初からこうするべきだった)
今思えば本当にそうだった。
学校の外では決して関わらないようにしているとはいえ、『こんなの』とずっと二人で同じ部活にいたのだ。
変な噂が立ってもおかしくないし、今日と似たようなことがいつ起きても不思議ではなかったし、天子が何かを察して汐音に危害を加えていたかもしれない。
これにて終わりが正しかったのだ。
もうこれで終わりにするべきだった。
どうせあと数か月もしたら一生交わらない道へとそれぞれ行くのだから。
そうあるべきだった。
そうするべきだった。
******************
窓の外では雪がちらついている。
いつもは外から将棋部の部室にまで届く運動部の掛け声も聞こえない。
ここ数か月は実につまらないものだった。
何しろ高校受験をしないため、中学三年生の大抵のイベントは自分には関係ない。
ほぼ全ての中学生が体験するであろう修学旅行も行かず、教室で一人で自習させられた。
同級生を一方的に叩きのめして病院送りにしたせいで教師からも声をかけられることが無くなってしまった。
失うものがない人間が一番怖いということを上辺ではなく肌で実感したようだ。
周囲の人間が進み続ける中一人だけ停滞しているような感覚すらあったが、一方で進んだこともある。
長い忍者生活の果てに、自分の人生を狂わせたカルト宗教――――天蓋教を潰せる証拠を手に入れたのだ。
この宗教がどれだけ政治家を抱き込んでいようと、どれだけ影響力があろうと、確実に消し飛ぶと言い切れるものだった。
写真・動画で記録を残してはいるが、吐き気を催すとしか言いようがないものだったのであまり思い出したくはない。
(……その先のことも考えなくては)
対面に誰もいない将棋盤の前に座り未来の事を考える。
その証拠をバラ撒けば刑事事件として大量の逮捕者が出る。そしてその中には波瑠の両親もいる。
独りで生きていかなければならない。働いて金を稼ぎ、数年遅れて高校に行くか、高卒認定だけ取って大学に行くか。
自分の人生を取り戻さなければならい。いや、ようやく取り戻せるのだ――――顔を上げると入り口が少しだけ開いているのが見えた。
誰かが隙間から部室を覗いていた。
「……まだ怒ってる?」
「…………。いや」
愚かなことに、自分から消えろと言ったくせに、久しぶりに汐音と触れ合って最初に感じたのは喜びだった。
そんなプラスの感情自体を感じるのが久々過ぎて戸惑っている間に、対面に汐音が座り先手を指した。
「いま読んでる漫画にさぁ、ハルって名前のキャラがいてね」
「……? 何の話?」
「小っちゃいウサギの女の子だった! もう完全に真逆って感じ!」
「お前さぁ……勉強しなくていいのか?」
「私、推薦でもう受かっているからね。翠心高校、制服可愛いんだよね~」
「女子高だろ? 制服なんか知らん」
偏差値73の超進学校であり女子高ということまでは知っている。
性格が悪いくせに、性格が悪いからこそなのか、汐音の成績は完璧で通知表上では波瑠を上回るオール5だった。
割と運動音痴のくせに体育も5なのは個人的に納得がいってない。
小論文も面接もさぞかし面接官からのウケは良かったことだろう。ちなみに波瑠は授業態度が最悪なので5ではない教科が結構ある。
「うわっ……相変わらずつまんないヤツ」
「高校で勉強して、行きたい大学とかもうあるのか? したい仕事とか……前聞いたとき随分ふわふわした感じだったけど」
「うるさいな! まだ決まってないよ! 15歳なんだから普通でしょ!!」
(まぁそうかも)
これからどうするべきかを延々と考えている自分の方がおかしいというのは流石に分かる。
ましてやここはお坊ちゃまお嬢様が集まる私立中学。
親から注がれる潤沢な教育リソースに流されるままに勉強してきた子が大半で、制服を脱げばただの15歳の子供なのだ。
確固たる将来のビジョンなど固まっていないのが普通で、なんなら徐々に近づいてきた『大人』に漠然とした不安を覚えている生徒が大半なのかもしれない。
「……はい、これ」
「なにこれ?」
渡されたのは今の今まで口喧嘩をしていたとは思えない程に丁寧に包装された箱だった。
「お菓子。こういうのって普段食べられないんでしょ」
「……後で食べるよ」
「…………」
それで、こういう時はなんて言うんだっけ?
一言も発していないのにそう空耳してしまうほどにうざったい表情。耳に手を当てて『聞こえない』と示すジェスチャー。
「ありがとう」
「ふん」
セリフとは裏腹にどことなく嬉しそうに次の手を指している。
駒音も高く、冬の乾燥した空気に響き渡るかのようだ。
玲瓏とはまさしくこのことを言うのだろう――――と思っていたら汐音がとんでもないことをし始めた。
王将を手に持ちその裏に何かラクガキをしているのだ。しかもマジックペンで。
「お前何してんだ!!」
「別にいいでしょ。来年廃部なんだし」
「廃部じゃねーよ。部員0になるだけだ」
「部員0の部活に入る一年生がどこにいるっての?」
暴論のような正論のような。しかも将棋は相手が必要なボードゲームなのだ。
入ったところでここ数カ月の自分のようになるだけ――――
「……あのさぁ。1年の時なんで俺のとこ来たの?」
「えー? なんか怪しいシューキョーの施設から来てるヤツいるって聞いて。イジめてやろうかなって」
仲直りの印に、贈り物を選んで渡す。
そういう感性があるのにここまで歪んでしまったのが不思議で仕方がない。
今の発言はどこを切り取っても擁護しようがない紛うことなきクソガキだった。
「……で、なんでそのあとこの部活に来たの?」
「だってさ、イジめてやろうって思ったヤツがアレなんだよ? ありえなくない? 暴力沙汰起こすし」
「お前のせいだろうが」
「いや、意味わかんないじゃん。フツーもっとこう、ああいうアレ想像するじゃん。しかも女嫌いとか女子に面と向かって言う? だからもうなんとかこうっっ……してやりたくて」
「想像以上に想像以下だった。お前ほんと最悪だな」
しかしその駒組みは一年生の頃とは比べ物にならない程に綺麗だった。
最悪な性格をしていても、汐音は自分だけの価値基準を持っており、そこに到達するための努力を惜しまない。それが遊びで入った部活であってもだ。
嫌い嫌いと思いつつも汐音を嫌いになりきれなかった理由の一つだ。
「あのねえ、『こんな人生だから俺の性格は歪んだ』って自分の性格が悪いことに言い訳してる分ハルの方がタチ悪いからね」
「あぁ?」
「自分のせいで傷付いてほしくないから他人を遠ざけているって思ってるんでしょ。違うから。それ絶対違うから。自分のせいで傷付いたら気分が悪いからだから! 自分のため! 自分のため!!」
「てめー俺と喧嘩しに戻ってきたのか?」
「普通の環境でも絶対性格最悪だったから!! ボクチン1番だけど〜〜? なんで理解出来ないのか理解出来ませんね〜〜って素で言ってたもん! なんなら今よりムカつく性格だったかも!!」
「あ〜〜〜〜だから女は嫌いなんだよ!! キャンキャンうるせーし群れるし弱えーくせに偉そうだし!!」
「一日一善とか死んでも言わないタイプだから!!」
「おめーにだきゃ言われたくね――――んだよ性悪女!! 何しに戻って来やがった!!」
「うぬあぁ〜〜〜〜!!」
ヒートアップの果てに脳がオーバーヒートし、とうとう語彙がなくなってしまった。
しかしその熱を示すかのように将棋盤に叩きつけられた駒が波瑠の急所にザクッと刺さる。
(あれ?)
将棋では――――あるいはどんなボードゲームでも同じだが、慣れた者は手痛い一撃を食らった時、頭よりも先に本能で察する。これは致命傷だと。
本能が警告を告げてから頭が理屈を辿り始める。囲いをこじ開けた歩を取れば成桂が捻じ込まれ、蓋を開けられた囲いに銀が突入してくる。
波瑠が組み上げた雁木囲いはその一手でものの見事に崩壊していた。
「どう? 雁木潰し♡ 相居飛車だと馬鹿の一つ覚えみたいに雁木だもんね」
右四間飛車ばかり、と馬鹿にした日から汐音は飛車を振らなくなった。
そこで波瑠が好んで使っていたのが雁木囲いという戦法だった。
一朝一夕で身に付く崩し方ではない。波瑠の癖を読み、何度も何度も負けを思い返し、この筋を拾ってきたのだ。
中三のくせに、受験がないからと毎日毎晩。今日ここで勝つために。
「驚いた。強くなったな」
汐音から渡されたスマホに入っていた将棋アプリはレベル30で止まっていた。
今の汐音の手ごたえは明らかに80代後半はある。
「それ最初っから強かったヤツが言うセリフだから!」
「まだ足りない」
同レベルの棋士による将棋の終盤はラリーの応酬で速度が上がるテニスのように、手痛い一撃の返し合いだ。
波瑠が真ん中に置いた角は、攻めるために汐音が前に出した桂馬の隙間を抜けて本陣に突き刺さっており、攻め駒も照準に入っている。
先ほどの波瑠のように汐音も一瞬で致命傷を察し、脳がダメージを算出したのだろう。
ここから先の未来は汐音の囲いが消し飛ぶか、攻めに使った駒を全て刈り取られるかのどちらかしかない。
「ぐっ、くっ……」
「明確に山2つ分くらいな」
「くっそぉおおおおお」
ばちんばちんと駒を指し合うが最早その一手でほぼ勝敗は決していた。
だが波瑠は汐音の執念深さに心から感動していた。動機がなんであれ身に付けた強さは本物で、かけがえのないものだった。
「詰み。前みたいに盤ひっくり返して帰れ」
「…………」
攻め合いを選んだ結果、守りの駒を全て消し飛ばされ、王将の周囲は全て波瑠の駒に囲まれた。
これ以上ないくらい綺麗な詰みだ。だが汐音は今までのように駒を投げたり盤をひっくり返したりはしなかった。
「そういやなんか裏に落書きしてたな」
勝負は完全に決したのだから取ってもいいだろう、と汐音の王将を取って裏側を見て――――目に入ったのは綺麗な字で書かれた『好き』だった。
なんというふざけたセンスだ――――負ければ直球で伝わる『好き』が裏側に隠れていたのだ。
「あっ」
波瑠は今まで出したことの無いような間抜けな声を出した。
この『あっ』は、色んな事が一瞬で繋がった時の『あっ』だ。それ以上を考える前に、気が付けば先ほど汐音から受け取ったお菓子の包装を開けていた。
そこには手作りだと見た目で分かるチョコレートが入っており、今日は2月14日で、自分はこの対局中ずっと裏に隠された汐音の『好き』を追い回していて――――
「私、ハルのいいところ1個だけ知ってる」
「…………」
「正直なところ。いいよね、ウソつかなくたっていつも1人だし。1人でなんでもできるし。文句言うやつはしばきまわせるし」
「別に正直じゃねぇよ……」
「じゃあ嫌いって言って。私のこと」
「はぁ?」
「言ってよ」
「…………うっ……ぐっ、う……」
言えるわけがなかった。
どっか行けも本音。消え失せろも本音。二度と関わるなも本音。
自分の特殊過ぎる生い立ちから出てきた言葉。
それでも関わり続けてきた汐音は、自分にとって唯一の世間との繋がりだった。
本人には伝えられなかったから、せめてここには示しておきたい。
自分の人生を手に入れたいと強く願うようになったのは君に逢えたからだと。
丸ごとドブの中のような人生だったが、君に逢えて本当に良かったと。
関わってしまってごめんと心から思っている。
もうそうやって自分を下げ続けるのをやめたい。
何年かかっても、未来ではそう思いたくない。
自分の人生を手に入れる。働いて金を貯める。
狂ってしまった人生の軌道を修正しいつかあるべき道を歩む。
その時には彼女は彼女の人生を歩んでいるだろうし、自分のことなんて忘れているかもしれない。
だけど、独りよがりだとしても、何年かかっても直接伝えたいのだ。
心から愛している、ありがとう、と。
そう言えるようになりたい。
嫌いだなんて。
大嫌いなことだらけのこのくそったれの世界で、唯一の『好き』なのに。
嘘でも言えるわけがなかった。
「逃げちゃおうよ」
「…………!」
想いを寄せる異性に本音を伝えるという行為は、極めて自分勝手なものだ。
受け入れられれば勝手に喜び、断られれば勝手に傷付く。どうあっても相手の人生を揺さぶる自分本位な行動。
そんな行動をした直後なのに、その言葉には心から相手を思いやる気持ちが詰まっていた。
「やるしかないなんて、そんなことを言っても一人の思いじゃとても世界は変えられない。もしうまくいっても、ハルの人生はそのあと絶対に普通には戻らない。違う?」
汐音の好意は今だけのものだと分かっている。
犬を飼いたいと思っている時に捨て犬を道端で見つけただけ。裕福な汐音はペットショップで血統書付きの犬を買うべきなのだ。
高校に行けば、大学に行けば、汐音はその環境にうまく適応して楽しく過ごし、新しく好意を寄せる男も現れるだろう。
(絶対に嫌だ)
そんなことを言うのは今だけで、だからこそ自分が心を開く汐音も今しかいない。
未来なんて遠い言葉を使わずとも、1,2年後には汐音も波瑠が嫌いなその他大勢と同化しているだろう。
「うちにお父さんが隠しているお金があるから」
汐音が自分と一生交わることのない人生に進むのも嫌だ。
かといって何一つ得がないこちら側に来るのも嫌だ。
本音と本音のせめぎ合いだった。
「……ダメだ」
ぼろぼろという副詞が壊れかけた物の状態と涙の滴る様子に使われるのは、ぼろぼろの心から涙がぼろぼろと零れるからだろう。
将棋盤に涙が落ちる音がはっきり聞こえるほどに大きな涙が波瑠の瞳から止めどなく溢れていた。
濡れた駒を見るに、さっきからずっと涙を流していたらしい。
「一緒に遠くに行こう。すごくすごく遠く。誰も追いかけてこれない所まで」
普段ならからかうはずなのに、言い訳出来ないほどに泣きじゃくっている波瑠に対しては何も言わず言葉を続けている。
本人だって分かっているはずだ。今の自分の目の前には道が二つある。
一つはなだらかに上にあがっていく道。もう一つは奈落の底へと続く道とも呼べない道。
100人いれば100人が前者を選ぶ。誰だってこんな選択に悩んだりしない。
「遠くにっ、遠くに行って何するんだ」
「一緒に……虹の始まりとか、探しに行こうよ」
汐音自身もそれが地獄への道だと分かっているからこそ、夢のような夢の話をしている。
15歳にもなればそんなものはないと知っているはずなのに。
ああ、でも。空が鏡のように映る透明な湖なんかにたどり着いて、虹の始まりを二人で見つけられたのなら。
それから先の未来なんていらない。過去も現在も何もいらない。後悔無くそんな気分になれるだろう。
「ダメ――――」
「分かってる。ハルは一番強い一匹狼で誰にも従わない。だから、約束して」
「何を」
「私が勝ったら一緒に逃げるって」
不思議な感覚だった。
汐音はその未来を望んでいるのに、波瑠が手加減することは一切望んでいないと分かる。
そして、全くの本気で戦って負けたならば確かに自分はそこから振り返ることはないとも分かる。
「約束して」
「……分かった」
汐音が立ち上がったのと同時に波瑠も涙を拭って立ち上がった。
王将の裏に書かれたあの『好き』はもう消えないから、負かすたびに好きと言われることになる。
自分は絶対にそれに応えてはいけないのだ。
「また明日……」
出口まで見送りに来ていた波瑠を、廊下に出てからようやく振り返って漏らした歯切れの悪い別れの挨拶。
紅潮した頬に広がった瞳孔、目じりに滲む涙。本音を言えば、今もうここで何もかも取っ払って抱きしめてほしいと考えているのだろう。
10代の少年少女にだけ宿る熱い血潮が融合を果たす夢は、あまりにも尊く儚い。
そして波瑠はそんな儚い夢を追いかけるには現実を見すぎていた。
「また明日」
ありきたりな別れの挨拶を、波瑠は永遠に後悔することになる。
遠ざかっていく汐音の背中を見ているのが自分だけではないとは気付いていた。
いつだかに汐音がけしかけてきて波瑠に窓から落とされた同級生が、何故か全く無関係の将棋部の部室のそばにいて二人のやり取りを見ていたのだ。
推定有罪――――それは波瑠のあらゆる他人に対する評価を一言で表したものだ。
この時も何が何だか分からないが有罪判定して足腰立たなくなるまで殴り倒しておくべきだった。
降り始めた雪は本格的に積もっていた。
あまり雪の降らない地方だったから、誰もタイヤにチェーンなんか巻いていなかった。
「授業始める前に、もう聞いている人もいるかもしれないが――――」
言い訳みたいな天気だったと、雪を踏みしめながら翌日の登校中に思っていた。
「3組の北御門さんが昨日――――」
数十年に一度の規模の首都圏大雪警報。
実際事故の数も多かった。転んだ人や自動車が滑った人も合わせてケガ人は一晩で100人を超えており、中には死者もいた。
汐音はその中の一人だった。
4トントラックと壁に挟まれ、壁にはくっきりと赤い人型が残っていたらしい。
現実を見るなら出会ったその日に殴ってでも遠ざけておくべきだった。
夢を見るなら汐音を抱きしめてどこか遠くへ逃げるべきだった。
汐音は一人で虹の始まりを探しに行ってしまった。
授業開始のチャイムと同時に三組の引き戸に人生最大の怒りを込めて蹴りを叩き込む。
運悪く出入口そばにいた生徒を巻き込みながら吹き飛んだ扉を踏み越えて、昨日の夕方に見た御子柴の席へと向かう。
「葦名――――」
後の人生に確実に障害が残る。そう言い切れるハイキックが御子柴の後頭部に突き刺さった。
気絶した御子柴を持ち上げ、地面に叩きつけようとしたその時。
学年主任の社会教師が波瑠の腕を掴んで止めていた。
「やめろ葦名! お前っ、他の生徒の未来考えたこと――――っ」
それは今時プロレスでも中々見ないアイアンクローという技だった。
相手の頭を掴み握力に物を言わせて指の技だけで締め上げる。
圧倒的な体格差が無ければ成立しない暴力だった。
「他の生徒の未来だぁ? こいつら耳カスどもの未来に何があるってんだよ。クソ豚が」
「あっ、ああ゛っ」
ベランダへと出る引き戸に教師を押し付け指先に更に力を込めると血が流れ始めた。
それでも指の力と押し付ける力を止めることは無い。
「俺はな、偉そうな講釈垂れ流すだけでデケェ問題からは目を逸らす、口だけの大人が大嫌いなんだよ。少しでも俺の将来を考えたことあったか? あ? 言ってみろよ。あぁ!?」
ガラスが砕け引き戸が外れ、それでも前進をやめない。
ベランダの手すりに押し付けらた教師は身体を限界まで逆『く』の字に曲げていたが、それでも間に合わず足が浮いてしまっていた。
「死ねよ」
三年三組は一年のうちに二度も人が飛んだ呪われた教室として長いこと語り継がれるだろう。
うるさいのを消した波瑠は再び教室に戻った。
「巻き込むぞ」
邪魔な人間を退散させたいとして『巻き込まれるぞ』と言うのが普通なのだろう。
だが既に何人か巻き込んでいるし、全くの八つ当たりだと分かっていても正直それでもかまわない気分だった。
波瑠が耳カスと評した未来ある生徒たちが気絶した御子柴を置いて我先に逃げたした。
意識を失ったままの御子柴を床に座らせ、両腕を引っ張り背中に足を当てる。
このまま足と腕に力を込めれば受験どころではなくなるだろう――――知ったことではなかった。
「ぐぅあああああっ!?」
意識を取り戻したら両腕骨折というのはどんな気分なのだろう。
交通事故にでも遭わなければそんなことは分からないだろう。
交通事故。
既に怒りが毛先まで満ちていた状態だったのに、その四文字の単語で目から稲妻が弾け炎が出そうだった。
もう歩ける状態ではない御子柴の右脚を掴み、その膝を波瑠の太ももの上に乗せる。
真ん中で折れるアイスを太ももで折るための形というのが分かりやすいだろう。
「5秒後に折る」
「? ?? えっ!?」
「3、2、1」
「待っ――――」
肘を振り下ろすと、膝関節が外れ伸び切った靭帯がぶちぶちと切れる嫌な感触が肌に伝わってきた。
空っぽになった教室に甲高い悲鳴が響く。何を思ったのか逃げた生徒が火災報知機のボタンを押したようで、学校中がベルの音に包まれていた。
「5秒後に折る」
御子柴の首に腕を回し可動域の限界まで右に捻る。
それが脅しか5秒後の未来かどうかは本人が一番分かっていただろう。
「やめて……ごめん、ごめんなさい……」
「話せ」
「何っ、何を!?」
「4、3、2――――」
「親父に言われた!! お前が北御門と話してたら教えろって!!」
「…………」
いつからか、あるいは最初からか。偶然なのか、狙ったものなのか。
御子柴の親はあのカルトに取り込まれており、汐音を巡る波瑠とのトラブルを受けて、天子より指示を受けていたのだ。
関係が断絶したのならそれでよし。再び関わるようなら――――と。
もちろん御子柴本人はそんな事情など知らず、親に言われたままにしただけだろうが。
「でも、電話で話しただけだ……なんで北御門が死んでるのか、俺にも分からない……」
「サッカー部だっけ、お前」
答える前に四肢のうち最後まで無事だった左足を踏み砕いていた。
はっきり言って彼は完全に巻き込まれただけの飛び切り運の悪い少年というだけだ。
ここまでされる道理もする道理もない。だがもうどうでも良かった。
未来も明日も、周囲の人間の無事もいらなかった。
(殺す)
この時になってようやく波瑠は殺人を計画に入れた。
取り戻したい人生はもうどこにもなくなっていた。
************
授業中に大暴れして重傷者2名、軽傷者3名を出して失踪した波瑠は警察に追われることになった。
どうせ天子が裏で手を回してすぐに釈放されるのだろうが、被害の規模が規模だけに警察の介入は免れなかったらしい。
波瑠が行方不明になってから12時間。
天子は施設に幹部たちを集めて明日の方針について話していた。
かつて波瑠が天子と初めて出会ったその部屋は小さな体育館のような造りになっている。
信者たちに教えを説く時によく使われており、学校にあるものよりも遥かに高そうな演台が置かれている。
施設の地下三階にある部屋だが、二階のとある部屋からしか行けないという特殊な構造になっている。
その二階の部屋からはもう一つの部屋に行くことが出来るのだが、それはこの説法部屋の上に位置している。
スポットライトの操作をしたり、マイクの音声を切り替えるいわば裏方部屋だ。
(灯台下暗しってのは本当なんだな)
まさか探している対象が同じ施設内にいて、自分たちを見下ろしているとは夢にも思わないだろう。
正確には上の部屋ではなく、その部屋から行けるスポットライトが取り付けられた梁の上ではあるが、飛び降りれば天子の目の前に行けるので更に近いとも言える。
幹部は三つのタイプに分けられる。
一つ目は大金持ち。二つ目が権力者。三つ目が子供をこの宗教に差し出した親だ。
ここには数百億という金を動かせる金持ちも、指先ひとつで国の方針を決める政治家も、そして波瑠の両親もいる。
全員この宗教が何をしているか知っており、今から全員波瑠が殺すことになる。
全員有罪だ。
(じゃあな)
万引きしたライターに火を付け火災感知器に近づける。
たまたま今日学校で思い付いて計画に組み込んだのだ。
けたたましいベルが鳴りスプリンクラーから水が放出される。
室内の人間が呆然としたのも一瞬、火事だと気が付き我先にと出口へ駆け出した。
全員抹殺計画は1時間で出来上がった。
そして準備に10時間ほどかかり、戻ってくるのに1時間かかった。
最初の一手は火事を誤検知させてこの室内を水浸しにすることだった。
びしゃびしゃに濡れた人々が出口から外に出ようとするが中々出られない。
この部屋の開き戸は上下二か所に鍵が付いているが、始める前にわざと上の鍵だけ開けておいたのだ。
一人で冷静になればすぐに開けるのに、何人もの大人が命惜しさに騒ぐせいで簡単な仕掛けにも見事に引っかかる。
『患者から離れて下さい。電気ショックが必要です。患者から離れてください』
扉の外から聞こえた電子的な声に何人かは気付いたようだ。
だが、ここは出口が一つしかない地下空間。今は声の出どころを探るよりも火事から逃れることが優先だと判断したようだ。
余談だが、この部屋は中央がわずかに凹んでいる。
単に幾人もの人間が出入りしたり重たい搬入物を運んだせいで、木材の床が次第に歪んでしまったというだけだ。
普段使用する上で特に問題も無いので誰も何も気にしなかった。
そのことを知っているのは、信者が飲み物を零した時に水たまりが中央に寄ったのを見た波瑠だけだった。
そう。避難しようとしている人間全ての足が水たまりの中に入っていた。
『電流を流します。患者から離れてください』
50アンペア2000ボルトの電流が弾ける。
全ての医療器具に通じることだが、正しく使わなければ人殺しの道具にもなる。
一般的な家庭が使う最大電力の放出を受け、全員が気絶し何人かは心室細動を起こした。
『電気ショックが行われました。心肺蘇生を始めてください。患者に触れても大丈夫です』
「…………」
その声は確実に天子に届いたはず。そしてその電撃の正体がAEDによるもので、攻撃は終了したことも分かっているはず。
それなのに何故か天子は壇上から動かなかった。いや、そもそも火災感知器が鳴ってから一歩たりとも動いていない。
(どうした! なぜ動かない!?)
既に放電は終わっている。その声は聞こえていたはず。
人として助けに行けよとは思うが、そうでなかったとしても火事なのに出口に近づかないものだろうか。
ようやく動いた天子はステージから降りる代わりに腕につけていたブレスレットを外した。
(…………? まさか……)
気付いているのか。
ここからではよく分からないが、ブレスレットは銀製に見える――――ステージから天子が投げ落としたブレスレットはどす黒く変色した。
気付いているのか、ではなく気付いている。既にステージの下の人間は全員死んでいることに。
入り口の扉の隙間から硫化水素が入ってきていることに。
部屋が毒ガスに満たされつつあることを知った天子はステージ脇に向かい換気扇を切った。
硫化水素は空気より重いため下に溜まる性質があり、現段階では倒れ込みでもしない限りは吸い込まない程度にしか溜まっていない。
扉を開ければ上の階から硫化水素がなだれ込むし、そうしなくとも換気扇によって早かれ遅かれ硫化水素を吸い込むはずだった。
(まぁいい。支障はない)
他の人間の現在の生死は正直どうでもいい。
だが、元々どういう形であれ天子の首だけは切り落として確実に殺すつもりだったのだ。
万引きした防毒マスクを着け、梁にロープをかけ、ナイフを取り出し――――
「いっでぇ!」
ナイフを持った手に激痛が奔ったと感じた時にはステージに落下していた。
何が起きたのか分からない。いや、正確には入ってきた情報に対し『あり得ない』と判断を下しただけだ。
手には穴が開いており、ナイフもステージの下に落としてしまったが、天子はまだ向こうを向いている。
成長した今の体格差なら片手でも天子を絞め殺せる――――今度こそ、それが銃声だと分かった。
「あっ……えっ……?」
あちらを向いている天子が袖の下からこちらに向けているのは間違いなく拳銃だった。
新たに放たれた三発の弾丸は波瑠の両脚と腹を正確に打ち抜いていた。
日本で拳銃
見てすらもいないのに
なぜ全て看破された
腹に食らった 痛い 残り2発
こんなに上手く命中させられるものなのか
まだ笑ってやがる
情報が同時に頭の中で錯綜し動くことが出来なかった。
正確には、なんとか動こうとしたが身体に空いた穴から血が噴き出てそれどころではなかった。
立っているだけで精一杯の波瑠に向けて天子が演台を蹴って押し付けてくる。
踏ん張ることも出来ず壁際まで押され、壁と演台に挟まれる形で動きを止められてしまった。
「恋をしたんだね、ハル。君を学校に行かせてよかった」
「おまえっ、があっ!!」
無事だった右手も打たれて穴が空いた。
四肢と腹を撃たれ、最早逆転の可能性はほぼなくなった。
(あと一発……)
日本という国でこんな言葉を使うのは違和感しかないが、天子が持っているのは一般的な装弾数6発のリボルバー拳銃だった。
可能性があるとすればこの拳銃を奪い取り最後の一発を天子の頭にぶち込むことだけだった。
「見るんだ」
そんな波瑠の脳内を見透かしているかのように、天子は拳銃を掲げ最後の一発をアンロードしてしまった。
そして拳銃本体も毒ガスで満ちているステージ下に投げ捨てた。勝てる可能性はこれで完全に0になった。
「スプリンクラーを起動して改造したAEDで電撃を流し、倒れたところに毒ガスか。硫化水素はどうやって作ったのかな。洗剤でも混ぜた?」
「…………」
二年生の時、学校の体育倉庫である洗剤を見つけた。
何もしなければ普通に使える商品で、実際6年前までは普通に1000円以下で買えたものだった。だがある日、メーカーが生産停止と回収を発表した。
その洗剤は汚れを落とす効果は高かったものの、ある手を加えるだけで人体にとって猛毒の硫化水素を簡単に発生させることがネットを通じて広まったからだ。
メーカーの発表までに十人を超える自殺者を出していたため遅かったくらいだ。
だが、回収には限界があった。使ってしまったものはもうどうしようもないし、買ってそのまま忘れたものについても申告しようがない。
波瑠が見つけたのはそんな忘れ去られた殺人洗剤だったのだ。
「素晴らしい。意志が感じられるよ。絶対に私を殺すという意志が」
「そうだ……殺して……やる……」
どくどくと腹から血が流れ出ているのに天子が足で演台を押し付けてくるせいでなおのこと血が止まらない。
今の言葉だって本当は天子の鼓膜を突き破る勢いで叫びたかった。
「親まで殺したね」
「優しいお母さんとかっこいいお父さんはずっと前に死んだ……。殺人を見逃して子供を売る鬼畜なら今殺した」
言い訳にもならない波瑠の言い訳を聞いて天子は微笑んだ。
微笑という言葉にそんな印象を抱く人間はそう多くないと思うが、この世のあらゆる邪悪を孕んでいるかのような笑みだった。
「……まさしく君だよ。間違いない」
「お前が……俺の何をっ、知っている……」
「あのね、日本に限っても強い魂を持った人はそれなりにいる。将来この国の土台になる宝だ。彼らは幼い頃から自分の将来をじっと見つめ、訪れる困難を予想し、備え、乗り越え、強くなっていく」
「…………」
「ねぇ、思っていたでしょう? なんでこんなカルト宗教のインチキ教祖に心酔するんだって」
「自覚あったのかよ……」
「理由はハルと同じだよ。彼らは何が怖いと思う? 君は何が怖い?」
温かい家庭が突然異質な空間に変わった。
輝く未来がこの女によってねじ曲げられた。
好意を伝えてくれた女の子に未来の夢を見た途端、全て奪われた。
怖いのは。
怖いのは。
予想出来ない突然の厄災――――
「それだよ。親との死別とか受験戦争とか……そんな分かっているものはみんな乗り越えられるんだ。失敗は人間を強くするということも彼らは知っている。でも厄災は突然降り掛かってくる。予兆なく無作為に襲いかかってくる。富める者にも、貧する者にも。婚約者と歩いている時に突然車が突っ込んできたり、新しい家を建てた途端に大地震が起きたりね」
「何が言いたい……」
「『宗教』は『厄災』の為にある。厄災に襲われた時の心構えだったり、その解釈だったり、乗り越え方だったり……心を解きほぐして与えてあげるんだ。みんな救いを求めてるから。私は予測不能の厄災を避ける方法を教えてあげているの。だから優秀な人達は私に心酔するんだよ。厄災さえ避ければ彼らはずっと強いままだから」
(…………?)
痛みにうずく脳で必死に考える。
狂ってしまった果てに息子に殺された両親は、天子が言うところの強い人間だった。
優秀で社会的地位があり恵まれていた。厄災さえ訪れなければ、未来にぽっかりと空いた穴すら避けられれば――――
未来。天子が霊験という男と話していた会話の内容が高速で脳内で展開される。あの『未来の出来事を断定』するかのような話し方。
「私はね、未来が少し見えるんだ。高天原の一族にはね、数世代にひとり未来が見える巫女が生まれてくるの」
「戯言を……!」
「君と初めて会った時、私は君の未来を見ていたの。私と出会わなかったハルの未来、知りたい?」
死体に囲まれて、死にかけの子供を壁に追いやって。天子はいつもよりもずっと饒舌だった。
その姿は天子がこの世界でまともに生きていてはいけない人間であることを暗に示していた。
「まずバスケットボール部で全国一位になっていたね。そのあと高校で特別指定選手になって、卒業後はアメリカの大学に行く」
(なぜ……)
将棋部は将棋部で楽しかったが、本当に入りたかった部活はバスケットボール部だった。だがそれを知る人間は絶対にいないはずだ。
小学校に入る前に途中までスラムダンクを読んで憧れたが、そこで波瑠の両親は狂ってしまったため誰にもそんな内心を話したことは無いからだ。
「でも君は特別頭がいいから、もっと高く跳びたくなったんだろうね。15年後の君は、30歳の君は。何をしていたと思う? 本当にすごいことなんだよ。お金持ちや社長はいくらでもいるし誰でもなれるけど、これはほんの一握りの選ばれた人しかなれない」
「知るかっ!!」
「君はね、月にいた。宇宙飛行士になっていたんだよ」
鉄格子越しの月を見た記憶ばかり脳裏に浮かぶ。
心身頭脳ともに最も優れた者だけがこの星の重力から解き放たれる。
身体に五発の弾丸をぶち込まれた今と比べて、あまりにも輝かしい未来――――
「でも今は大量殺人鬼」
「ぐっ、うっ……」
「君の未来は、私が握り潰した」
天子が未来を見えるという話について、信じる信じないの段階はもう終わっている。
信じる人間が沢山いたから天子は崇められていたのだし、撃たれるはずのない波瑠は撃たれた。
射撃の腕がいいのではなく、数瞬後に撃ちたい部分がある空間を撃っていたのだ。
未来が見えるという異能の極みがよりにもよってこんなサイコ女に宿ってしまったせいで、波瑠の未来は完全に壊れてしまった。
「私はものすごく集中すると世界の全てと繋がるんだ。その時少し先の未来が見えるんだ」
「ラプラスの悪魔……」
「別の言い方をすれば、世界の全てと繋がれるくらいこの世界は小さな匣の中なんだ」
「まだ……言うか……!」
「神の国とはその匣の外のことだよ。天国でも地獄でもない」
幼いころから何度も何度も聞かされて一言一句違わず完全に覚えてしまった。
毎日毎日天子と信者から言い聞かされ、それでも波瑠は自分だけは絶対に狂わないと誓いここまで生きてきた。
「神の国、信じてないんでしょう? 禍龍、信じてないんでしょう? 私は真実しか話していないのに」
「お前っ、何が目的だ!」
やたらと横に広い口を捻じ曲げて天子は笑った。
どう少なく見積もっても三十代のはずなのに、口周りには皺の一つもなく歯は真っ白で、そして相変わらず呼吸をほとんどしていない。
波瑠が無計画に天子を襲わなかったのは、無意識に天子を化物だと認識していたからだ。真っ当な手段では殺せないとなんとなく分かっていたからだ。
もはや『人』という形から半分はみ出した怪物が、懐から何かを取り出した。
(それは……!)
波瑠がおさえたこの宗教を潰せる確たる証拠。
龍の巻き付いた銀の短剣。
その名を『倶利伽羅剣』という。
親に差し出された子供100人の頭蓋を生きたまま開く。
殺さないように少しずつ脳を削り取り、100人分の脳の欠片から一つの脳を形作る。
まだ生きている子供たちの心臓を短剣で突いていき、最後は脳の集合体に突き刺す。
高温で溶かしておいた銀に脳と短剣を入れて、新たに銀の剣を鍛造する。
そうして出来上がったのがこの倶利伽羅剣だった。
完全に祭具の一線を越えた呪物の類であり、天蓋教もカルト宗教などではなく邪教だった。
こんなものを作っていた証拠が世間に出回ればどうあってもこの宗教の破滅は免れない。
そしてその製造過程を撮影したデータは汐音からもらったスマホに保存されている。
今は近所のコンビニのトイレに隠されており、予約投稿機能で淡々と証拠をSNSにアップロードしている。
もうこの宗教が壊滅することは確定している。
あとは生き残って見届けるだけなのだ。最早それだけが望みだ。
逆転の目を探すためにも、まず会話をしてその刃から自然と連想する最期を遠ざける必要があった。
だが。
「私の目的は、君を殺すことだよ」
既にほぼ致死量の出血だというのに、まさか全身が震えて鳥肌が立つとは思わなかった。
人のことを大量殺人鬼と言っておいて、自分は子供を大量に殺している。
その上波瑠のことを祀り上げたうえで殺すのが目的だなんて、イカれているとしかいいようがない。
呼吸のたびに口から血を噴き出しているが、更に吐瀉物もぶちまけそうな気分だった。
「ならなんでさっさと殺さなかった!!」
「君がしがらみを断ち切るのを待っていたんだ。もうこの世界に未練はないでしょう?」
体中に穴をあけられて冷静になるのは難しい。しかも今日までの行動が全て敵の手のひらの上だと知ったのなら尚更だろう。
波瑠にはもうしがらみと言えるものは何もない。唯一共に生きたいと願った相手も失い、肉親すらもこの手で殺した。
全てのしがらみは断ち切った。残るのはこのクソの役にも立たない命一つだけ。
「狂人が!!」
血まみれのガスマスクがむしり取られ喉元に倶利伽羅剣が突き付けられた。
この女さえ俺の人生に表れなければ。
だがそうなれば汐音と出逢うこともなかったのだろう。
そうあるべきだったのだ。これまでもこれからも互いに関わらない人生であるべきだった。
自分と交わったことで厄災の流れは汐音にまで届いてしまった。
出逢うべきではなかったのに、逢いたい。もう二度と逢えない。
「お前だけは殺す」
辞世の句には程遠い呪詛に合わせ扉が崩れ落ちた。
扉の向こうは波瑠の憎悪を表現するかのような業火に覆われていた。
全員抹殺計画を始める前、波瑠はガソリンを染み込ませた衣服を換気ダクトにいくつもぶら下げていた。
人間の目には見えないが、ガソリンからは可燃性蒸気が発生している。
つまりガソリンは極めて引火性が高く、離れた位置の火からも引火する可能性があるということだ。
そして可燃性蒸気は空気よりも重いため、換気が無ければ下へ下へと流れていく。
そこには波瑠が着火しておいた蝋燭があった。
既に備え付けのスプリンクラー程度ではどうにもならないほどの大火事となっている。
可燃性の硫化水素に火の手が及び爆発したせいだ。
煙は上にのぼっていく性質があり施設の形状的にこの部屋には煙は溜まりにくい。
一酸化炭素中毒での気絶も出来ず、はっきり意識を保ったまま焼かれて苦しみながら死ぬことになるだろう。
全ての失敗を織り込んでの最後の罠だった。逃げ道は無く最早波瑠が生き残る術もないが、たとえこの身を焼かれてもこの女だけは殺すと決めていた。
「ふっ、ふふ……ははは。そうだね。私は君の一番のしがらみだね」
先に火が付いたのは天子の方だった。
それなのに、こんな状況なのにまだ笑っている。
「何がおかしい!! 何が――――」
倶利伽羅剣が首に刺された。頸動脈と頸静脈を無慈悲に引き千切り、気管を絶ち逆側まで刃が貫通した。
致死量の出血のせいでもう痛みはほとんど感じていなかったが、とうとう何かが切れる音がした。運命が途切れる音、命の灯が消える音。
力が抜けて下を向く波瑠の視界に燃えゆく天子の姿が映る。消えゆく命の余燼を燃やし天子の腕を掴むと波瑠にも火が燃え移った。
「さよなら、ハル」
乱暴に引き抜かれた刃は赤一色で、B級映画のようにあたりに血が飛び散っていた。
天子の顔布にかかった血だけでも大騒ぎする出血量なのだ。
動けなくなって当然、死んで当然。力なく演台に頭が着地し、死の抱擁にまどろんできた。
視界がシンプルになっていく。まるで通信状態が悪い時の動画のように視界の画質が下がっていき、黒い四角形で塗りつぶされていく。
天子が波瑠の制服に手を入れ、身体をまさぐってきた。何かを探しているのだろうか。
だが残念ながらここから助かる手段は何も用意していない。どちらの運命も死で確定した。
(北御門……)
逢いたい。抱きしめたい。素直になりたい。
虹の始まりを探しに行ったのならば、一緒に行きたい。
だが大量殺人を犯し、親までも殺した自分は汐音と同じ場所には決して行けない。行けるはずがない。
それでも、他の全ての可能性を捨ててもこの女だけは一緒に地獄に連れていく。
何の意味も価値もない人生だった。
恵まれた才能も全て無意味。
得意なのは暴力だけで、今や日本一の殺人鬼だ。
このクソみたいな命、ゴミみたいな人生。
せめて汐音と会うために生まれたと思いたい。
文句を言い合いながら将棋を指し合う時間が何よりも幸せだった。
だが自分と出逢ったせいで全てを狂わせてしまった。
最初から生まれるべきではなかったのだ。
視界が真っ暗になった。
地獄に堕ちていくのが分かる。
それでも。もしそれでも、まだ願うことが許されているのならば。
真っ新に生まれ変わって、次の人生でもまた汐音と出逢いたい。
次こそ一緒に虹の始まりを探しに行こう。
**************
File No.498597
ラプラスの悪魔
もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、
かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力があれば、
過去と同様に未来も全て知ることが出来る。
その能力を持った知性を、提唱者の名前からとって『ラプラスの悪魔』という。
ラプラスの悪魔が世界の一部ならば、『未来を予測しているラプラスの悪魔の状態』を含めて解析が必要。
更に『『未来を予測しているラプラスの悪魔の状態』を含めて解析』していることも含めて解析が必要、となり無限後退を起こす。
ラプラスの悪魔が世界の外にいる存在ならば?
内側の未来なんかにそこまでの興味を示すだろうか。
File No.654014
倶利伽羅剣
不動明王が右手に持つ剣。
根源的な三つの煩悩を打ち破る力を持ち、倶利伽羅竜王と呼ばれる龍が巻き付いている。
愛知県にある熱田神宮は同名の刀剣を所蔵しており指定文化財に指定されているが、これとは別物。
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Chapter3 スーパースーパービッグムーンケーキ
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遠く時の輪の接する処で、また巡り会える
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天蓋教と呼ばれる宗教があった。
その発祥は7世紀に遡り、現在の和歌山県が木国と呼ばれていた時代にある女によって創られた。
高天原流天と名乗る女だったが、元々は呂天という名であり、生まれも遥か遠い大陸の国だったという。
その女の語る教えや概念、目的を信じる者は少なかったがそれでも彼女に従う者は多かった。
流天には未来が見えていたからだ。博打の出目や将来誰と出会いどんな病にかかりいつ死ぬのかなど、その全てを言い当てた。
その理由こそがこの教えにある、と伝え続け木国には天蓋教が根付いた。
しかしその繁栄も20年弱で終わりを告げる。流天の死である。
彼女が残したものは、ほとんどの人間には理解しがたい教えと一人娘だけだった。
だが、流天の娘は未来視の能力も無ければ人々を惹きつける魅力もない、あまりにも普通の人間だった。
それでも流天の気まぐれな未来視で絶対に避けられない厄災を回避した信者達が娘を守った。
五世代後に自分と同じく未来を知る巫女が生まれるという予言を信じたからだ。
当然、その言葉を直接聞いた信者は時間の経過についていけずに亡くなっていく。
我が子へと高天原の一族の保護を託すが、そもそもが戯言にしか聞こえない教えを信じる愚かな親の遺言を守る者は少なかった。
数千人いた信者は四世代後は両手の指が余るほどになっていた。
そして待望の巫女の誕生により再び天蓋教は隆盛を迎える。
信者の数を減らし、時には大きく増やし、そしてまた減らす。
数世代に一人の奇跡だけが天蓋教を生かし続けた。
江戸時代中期のことだった。
教えの中に異質なものが混ざり始めた。
理解しがたいながらも世界の成り立ちを説く教えとは明確に異なっていた。
高天原の一族を絶対視し暴力を肯定し支配を望むものだったのだ。
それと同時に信者の様子も変わり始める。
見えない未来の災いに対する救いでも、逃してはならない幸福の掴み時でもない。
高天原の一族による子々孫々の永遠の絶頂を夢見るようになった。
何が彼らをそこまで狂わせたのか、その核は外部の人間には伝わらなかった。
だが、ある種の笑い話として天蓋教が根付いた街でその与太話は人々に伝わった。
その与太話の中核をなす存在。
世界の外から厄災をもたらす巨大な龍。
その名も――――――
「禍龍」
ようやく落ち着きを取り戻した汐音はその名を口にした。
馬鹿みたいだろ。かつてそれを教えてくれた人はそう言ったし、自分も将棋盤を挟んで手を叩いて爆笑した記憶がある。
「ええっ!? おれ、そんな変な名前じゃないよ~!」
その牙は汐音が精いっぱい背伸びした長さよりもなお長く大きく、その爪は軽く振るうだけで数百人規模の死者を出せる程に鋭い。
縦に大きく裂けた金色の目が興味深そうに汐音を見つめ、まるで喜んでいるかのように尻尾と髭を揺らしている。
頭上に生えた二本の大きな角には鮮やかな桃色の桜が咲いており、いざ地球に届かんと言わんばかりに花びらを散らしている。
そう、地球だ。雪のように白い禍龍の奥には真っ暗な空があり、そこに地球が浮いていた。
(馬鹿みたい……なんて……)
世界の外で龍が見ている。
そんなことを全くの本気で言っている宗教なんて馬鹿にされて当然だ。そう思っていた。
だが、いま自分の目の前にいる龍をなんと説明すればよいのだろう。
「おれ、テンクウ。名前なぁに?」
「……いや、嘘。嘘嘘。絶対夢だもん、こんなの」
「えーっ。違うよ、夢じゃないよ」
「だってこんなの! どう信じろっていうの!?」
先ほどまで落ち着いていたのは気のせいだった。
というよりも取り乱し疲れて呆然としていただけだ。
いま目に入る情報を素直に受け取るならば、巨大な龍がいて、地球を模した半球型の機械があり、のん気そうな犬と猫がいて、ここは月だ。
なぜ月で生きていられるのか。なぜ会話が出来るのか。今まで培った常識が何一つ通用しない。
「わっ、わっ。えーっと、ほら。お茶でも飲んで落ち着いて」
おそらく分類上は爬虫類になるのだろう。それにしてはテンクウは表情豊かで、重く響く低い声にも感情が乗っている。
こちらをなんとか落ち着かせようとしていることがよく分かる動作で半球型の機械に爪先で触れた。
「お茶……」
機械か虹色のレーザーがいくつも伸びて空中にペットボトルのお茶を三次元的に描き出す。
完成して手のひらに落ちてきたお茶はどこからどう見ても普通のお茶で、味も普通のお茶だった。
(…………? どこのメーカーだろう?)
どこのコンビニでも売ってそうなお茶だが、見たことのない商品名だった。
今だけ100ml増量と書いているということは、そういうことが出来るくらいには売れている商品のはずだが。
(なんて大きい機械……)
巨大な機械と文字で書けば簡単だがとんでもない大きさだ。
昔一度東京に行ったことがある。東京といっても『東京駅丸の内口』のことで、真っすぐ行けば皇居があるという世界中の人がイメージする東京だ。
丸の内口を出れば皇居まで続く広い道路があり、その左右には巨大なオフィスビルが並んでいる。
そのビル群が一塊になったよりも大きい。地球が映し出されているが、その奥では精密な機械の塊がせわしなく光り輝いている。
半球型は半球型でも、それは馬鹿げたサイズのテンクウから見ればそう見えるだろうという話であり、汐音の目から見ればドームと言った方がより適切かもしれない。
この機械の周りを一周ぐるりと周るだけでも10分はかかるだろう。
「触ってもいいよ」
「いいの?」
「だって、おれのものでもないし」
「ふーん……」
映し出されている地球に触れると好きなようにスクロールすることが出来た。
ホログラムという言葉は知っているが、映し出されている映像には確かな触感があった。
触れようと思えば触れられるし、触れたくなければ触れられない。遥か遠い未来の技術、という言葉が頭に浮かぶ。
ああ、これもしかして――――と二本指でピンチアウトすると映像がたまたま日本列島で拡大して、道路を忙しなく走り回る車や人々が見えた。
たまたま画面中央にいた人間をタップすると映像が彼を追尾し始めた。と言っても普通に道を歩いてコンビニに入っておにぎりを買っているだけ。
画面の右側には名前から本籍地、誕生日から健康状態、何から何まで書いてある。
「なにか欲しいものある?」
「えっ?」
「ほら、おにぎりどう?」
コンビニが映っていたからなのか、ついでにおにぎりに触れたテンクウがメニューからプリントアウトを選んだ。
再び空中に描き出されたおにぎりが手に落ちてくる。
(物が落ちてくる速度が遅い……)
ペットボトルのお茶にしても鮭おにぎりにしてもナイスキャッチ出来たのではなく、落ちてくる速度が遅かっただけだ。
まさか、とその場で跳ねてみると思っているよりもずっと高く跳べてしまった。
6分の1の重力をこんな形で体感することになるなんて。
(なんで息苦しくないんだろう)
ここが月なのはもう疑いようがない。
月には空気がないはずなのに息苦しくない。というよりもさっきから呼吸をしていなかった。
我慢して息を止めている訳ではない。まるで眠る直前の呼気と吐気の間にずっといるかのような自然な感覚だった。
「私、ここから出てきたの?」
「うん」
無から空中に作り出されたお茶とおにぎりが手にある。脳が揺れる感覚がする。
この中で生きている人々はまさか天空からテンクウと名乗る龍が見ていて、気紛れに呼び出されるかもしれないなんて考えもしないだろう。
目の前に映し出されている地球に比べて遥か遠くに浮かぶ本物の地球が実際よりもずっと遠く感じる。
「帰りたい……」
「えっ、どこに?」
「ここ! この中に帰らせて!」
「……? ……?? あのね、これ機械だよ。ゲームの中に入りたいとか、テレビの中に入りたいとか言わないでしょ」
「何を言っているの……? 戻る方法は……!?」
「戻る? こういうこと?」
巨大な爪が決して汐音を傷つけないように丁寧におにぎりを持って行った。
何やらテンクウが画面を操作するとレーザーがおにぎりに伸びて映像の逆戻しのようにおにぎりが消えていった。
「それ! それ私にやって!」
「えー! 消えちゃうよ!」
テンクウが何を言いたいのか分かってきた。というよりもずっと前から分かっていたのに気づかないフリをしていた。
おにぎりを生み出しても、逆に消しても、映し出されているコンビニの陳列棚には変化がない。
取り出しているのではなく、映っているものをこの世界で作成しているだけ。
作成・削除はあっても『出す』『戻す』という概念がないのだ。
つまり――――
(ここが終着点……)
死んだら天国か地獄に行くものだと思っていた。
色んなことに恵まれていて、それに感謝することもなく沢山の人を傷つけてきた。
だから地獄に行くかもしれないとは思っていた。こちらに突っ込んでくるトラックを見て走馬灯の中でそんなことを考えていた。
クラスの男子が読んでいたライトノベルが机の上に放置されていたので、なんとなく手に取って読んだことがある。
いじめられっ子がトラックに轢かれて死ぬが、神が手違いだと謝罪して特殊な能力を与えて別世界に蘇らせるという内容だった。
本当に全くの心の底から何の感慨も抱かずに本を閉じた記憶。
時が前にしか進まないように、もう戻ることは出来ないとは本能で分かるが、戻れたのならあの男子に教えてやりたい。
トラックに轢かれても行きつくのはどこにも行くことが出来ない、終着点だったと。
「そうだ……ハル……」
「ハル?」
「ハルはどこ?」
画面をスクロールし自分たちがいた街を探す。
場所くらいは覚えていたので、すぐに生まれ育った街を見つけることは出来たが問題はそこからだった。
「『ハルはどこ?』??」
「桜花中学はどこ……?」
どれだけ探しても自分たちが通っていた中学校が見つからない。
何かおかしい雰囲気だ。街にいる人達が歩く姿に何か違和感を感じるが、すぐには上手く言語化出来なかった。
(歩きスマホしている人がいない……?)
それに服装を見るに夏だ。自分が死んだのは大雪が降る真冬だったというのに。
歩きスマホをしていないのではなく、そんなものが存在していないと気付いたのはそれから数分してからだった。
「今っていつ?」
「今?」
「えーとっ、だから! この中の時間!」
「1989年の8月21日だってさ」
テンクウが操作をするとすぐにカレンダーと時計が出てきた。
世界のどこでも見られることを暗に示すかのように、時計の下にはUTC+9と書かれていた。
「そんな……!? いやっ、でもおかしい! 桜花中がないのはおかしい!」
今年で開校70周年だったはず。2023年度で70周年なら1989年に無いのは理屈が通っていない。
「えー、でも……この街にはなさそうだよ」
検索機能もあるらしく、テンクウは巨大な指を使って器用に『桜花中学校』と正しい漢字で入力している。
いくつか同名の中学校は存在するが、この街にはなかった。
「……もっと先の時代なのかも」
「でもこれ、過去も未来もあわせて探しているよ」
テンクウが操作して出したカレンダーに自分が亡くなった日付を入力すると時がそこまでスキップした。
歩きスマホをしている人はたくさんいてなんだか安心したが雪は降っていない。
「ハル……どこにいるの?」
「んー、名前で探してみたら?」
先ほどの検索機能はモノに限らず人も探せるようだ。だが『葦名波瑠』と検索しても一人も出てこなかった。
自分の探し方が間違っているのではない。
適当にその辺を歩いていた人の名前を入力したらその人が出てきたし、同姓同名の人間も同時に出てきた。
そして。
(私だ……)
北御門汐音の名前で探したら自分が出てきた。
ただし、通っている中学校は桜花中学校とはまた別の、中高一貫の私立女子校だった。
確かに自分だが、今ここにいる自分とは何かが違う。
(なんでみんなマスクしてるんだろ……?)
コンビニに並んでいる商品が何か違う。
朝のニュース番組の名前が馴染みのないものだ。
道行く人は何故かマスクをしている人が多い。
よく似ているが、ここは自分がいた世界ではない。
それ以外の言い方が見つからない。何かが違うせいで波瑠もこの世界にはいないのだ。
「あれ? シオンって名前なんだね。やっぱりハルじゃないんだ。どうりでおかしいと思った」
あまりにも聞き捨てならない一言、何かが繋がる感覚と強烈な違和感。
のんびりと話す龍の言葉が引き起こすのは焦燥感だった。
「どういうこと?」
「この世界に来るの、ハルのはずなんだけどなぁ」
(…………?)
禍龍の存在を語っていた宗教は何らかの理由で波瑠を雁字搦めにしており、当の禍龍が待っていたのは波瑠だった。
感じた違和感と焦燥感をもっと分かりやすい言葉にすると、世界に置いてけぼりにされている感覚、とでもいうべきか。
この感覚は知っている。波瑠を見ている時にずっと感じていた。
勉強、部活、恋、明るい未来。そんな生徒たちの中で明らかに浮いた存在の生徒。
生きる世界が違う――――波瑠に対して何度もそう感じた。そしてその背中をどうしてか追ってしまう自分がいた。
理由は知らないし、役割も知らない。知るわけがない。
だが、生きる世界が違うと何度も感じた理由がようやく分かった。
この世界に来るのは波瑠の役目だったのだ。
それなのに何かが原因で歯車がズレて自分が出てきてしまった。
いるべきではない場所に来てしまったのだ。
「あのね~、ハルって人、頑張って探してるけど……見つけてどうするの?」
「だって、ハルは……ハルを幸せに……」
「幸せかー。どうするの?」
「…………」
具体的な策は何も考えていなかった。
ただ、とにかく彼の顔を見たかっただけだった。
家族よりも、友人たちよりも、何よりも先に見つけたかった。
「あのね、見ててね」
テンクウがその辺を歩いていた女性を適当に選んで何か操作をし始めた。
適当に、と言ったが本当に適当だった。そこを歩いていたのが男性でも子供でも誰でも良かったのだろう。
やがて操作を終えて時を三日後に進めると、その女性は宝くじで一等を当てていた。
(…………!)
神だ。本当にそうとしか言いようがない。
いきなり数億円が転がり込んでくるという幸運を気まぐれで降らせて、見返りの感謝すらも求めていない。
金に価値を見出しておらず、その操作になんの感慨も抱いていないからだ。
龍の表情をはっきり見分けられる自信はないが、いまのテンクウの表情は言うなれば『暇つぶし』だろうか。
そして時を三年後に進めた。
「あれ……?」
大金持ちになったはずなのに、女性は精神病院に入院していた。
右側に表示されている情報から過去を読んでいくと、仕事を辞めた後に結婚詐欺に遭い金を全て騙し取られ、重度の統合失調症になってしまったらしい。
「これも見ててね」
呆然としている汐音を置き去りにして、テンクウは更に操作を進める。
ぽちっとな、と押すと何の変哲もない平屋に強烈な雷が落ちて大火事になった。
先ほどと同様に時を進める。今度はカレンダーからのスキップではなく、時間の進みを一秒で一か月に変えていた。
全国でニュースになったのもほんの三日ほどで、1年もすればその土地は何の変哲もない駐車場になっていた。
「何を……見せたいの……?」
「ケセラセラ――――なるようになる。なるようにしかならない。人はね、突然幸せにはならないしなれないんだ。積み重ねて積み重ねて、その過程にある心内だけなんだよ、幸せなんて。突然の『幸福』なんて、ないんだよ。大抵は猛毒なんだ」
「…………」
「でも『厄災』は降り注ぐ。確率を超えて何度でも降り注ぐ。そして『厄災』に襲われても、人は受け入れるんだ。だって受け入れるしかないから。突然の『幸福』はみんな寄ってたかって持って行っちゃうけど、『厄災』は誰も持って行ってくれない」
「そんな……」
テンクウの言いたいことが分かってきた。
波瑠を見つけてどうやって幸せにするつもりなのかと言いたいのだ。
宗教施設に隕石でも落として、関係者全員事故にでも遭わせて、波瑠には金でも拾わせるか。
もし仮に全て上手くいっても波瑠がこちらを認識することは絶対に無いというのに。
「あとねぇ、見てて思うんだけどね。幸せな人ってつまんないよ。不幸な人の方が面白い動きするよ」
(…………)
物語を作るとして自分と波瑠ならどちらを主人公にするだろう。100人が100人波瑠を選ぶ。
たまたま大金持ちの家に生まれ、容姿と頭脳にまで恵まれたワガママ放題性悪娘の物語なんて見ていてつまらない。
あの飛び切りの才能とべらぼうな不幸を背負った少年の戦いの方がずっと面白い。
客観的に見て自分の人生に面白い点があったとしたら、波瑠と関わってしまったことだろう。
自分を失って少しは悲しんでくれたのだろうか。泣いてくれただろうか、取り乱してくれただろうか。
「でもね、おれもやっぱり可哀想だなって思ったことがあってね。何もないかわいそーな国があったから、砂の下を全部『金』にしてあげたことがあったんだよ」
(あれ……? 聞いたことがある……)
そこは仮にも優等生の汐音、すぐに答えが浮かんできた。ブレトンウッズ体制の崩壊だ。
世界の金の総量の70%を占めていたアメリカが、1940年代にドルを世界の基軸通貨にするべく打ち出した為替相場安定のメカニズム。
ドルと現物の金との交換比率を固定するという、ドルを間に挟んだ金本位制だ。
しかしその体制はある事件で崩壊する。それこそが1961年に起きた幻の黄金事件だ。
アヴリスという国があった。
縦に細長い多民族国家で常に内戦が絶えず、国土の9割が砂漠で輸出できる特産品もないという見捨てられた国。
ある日、その砂の下から大量の金が見つかったのだ。どこの砂を掘り返しても金が出てきた。
それも狙ったかのようにアヴリスの国境の内側の砂の下からだけだった。
列強各国が植民地時代に勝手に引いた国境は歴史の傷口でしかなかったはずなのに。
すぐに国連から調査員が派遣された。
アヴリスに埋蔵されている金の想定総量は60万トン。
それはそれまで判明していた金の総量の3倍以上だった。
世界中の国がアヴリスと取引をし、金を買いあさった。
その過程で金との兌換性という優位を失ったドルの一強体制は崩壊し、ニクソン大統領は金・ドルの交換停止を宣言せざるを得なかった。
事件と呼ばれる理由はここからだ。
アヴリスはメジャーな民族がマイナーな民族を奴隷扱いし安い賃金で金を掘らせていた。
その裏には強力な軍事力を背景に取引をしていたソ連の姿があったという。
国全体では裕福になっているはずなのに、米に並ぼうと兵器を買いあさり、民族同士の対立と格差は日に日に深まっていった。
そんなある日、アヴリスから輸出された金が全て消えたのだ。
突然の『幸福』を寄ってたかって持って行った国々は一斉にアヴリスの敵となった。これは国を挙げた詐欺だと。
まだ持っているだろうと近隣国からは侵略され、内戦は勃発し、一度崩壊した金とドル交換体制が元に戻ることは無かった。
結局アヴリスの砂をいくら掘っても金つぶの一つも出なかった。わずか10年あまりの『幻の黄金』だった。
ドルの優位を真似て金との交換をうたったアヴリスペソはインフレしすぎて最早使い物にならず、国の通貨が力を失ったことで国も力を失った。
現在、アヴリスは事実上の無政府状態に陥っている。日本の外務省の危険リストでは堂々のレベル4、即時退避勧告だ。
呪われし黄金、呪われし国。それが自分の知っているアヴリスという国とブレトンウッズ体制の崩壊の全てだった。
「――――でね、みんな欲しいと思ってた金をたくさん出してあげたのにね、なんかみんな不幸になっていくから消しちゃったの。ね、幸せにしてあげようとしても人間なるようにしかならないんだよ」
「してあげた?」
「そうだよ。おれが金を出してあげたの」
「…………」
本屋を探し参考書コーナーまで画面を移動させる。
高校受験の社会の参考書を出し、ページを乱暴に捲って目的の項目を探し出した。
「ブレトンウッズ体制……」
ベトナム戦争によるアメリカ経済への打撃と第2次世界大戦によるダメージから復活しつつあった世界中の国々の成長。
その結果、金の産出と保有量が追いつかなくなったことがブレトンウッズ体制崩壊の原因。そう書かれていた。
「ベトナム戦争……?? アヴリスは……?」
「あれっ、なんでおれが金出した国の名前知っているの?」
「そっ……その世界! 見たい! 見れる!? 私たぶんそこから来た!!」
今までの常識がひん曲がってしまい受け入れがたい。
だが、この参考書に書かれていることが本来の歴史であり、本来のブレトンウッズ体制の崩壊なのだろう。
幻の黄金事件はテンクウが手を加えて起こしたものだったのだ。
冷静になって二つの歴史を見ると、どう考えても本来の歴史の方が自然だ。
「うーん……いつだったっけ……。この中に無いなら消えてるよ」
(……一体……テンクウは何歳なの……?)
時間を進めたり戻したり、天災を発生させたりと取り返しのつかないことをしているのを見るに、あるだろうとは思った世界の保存機能。
この機能さえあれば例えば、何かの操作をした未来と何もしなかった未来を見比べることだってできる。
果たして、テンクウが出してくれた世界は数にして2997件あった。
こんなものとてもではないが一つ一つ見てはいられない。
「このデータを対象に検索ってのは?」
「できるよ。でも、さっきのハルって人はいないみたい」
検索画面から色々と条件を設定できるようで、時間区間や地域の指定は当然のこと、
表示されている世界以外にも保存されている世界全てを検索対象に含めることが出来るようだった。
テンクウは気を使ってわざわざ波瑠の名で検索してくれているが、ヒットは0件だった。
「ごめんね、お気に入りの世界だったら残してるんだけど」
「お気に入り……?」
それは裏を返せば、砂を金に変えるなんて滅茶苦茶なことをしておきながら大して面白くなかったと言っているのだ。
こっちはその大して面白くなかった世界を精一杯生きていたんだ――――と怒鳴っても仕方がないことは分かっている。
テンクウの目から見ればこれは世界ではなく機械であり、中で蠢いているのも命ではなくデータなのだ。
あまりにも自分と感覚が離れすぎている。
「うん、ほら。この世界とかすごいよ」
「…………?」
「1800年代で宇宙に行ってるんだよ。すっごい早いよね」
「それは――――」
世界中の人が手を取り合って未来に進む望むべき世界。
だなんて。そんな幼稚な考えを持つにはあまりにも色んなことを知りすぎてしまった。
大陸間弾道ミサイルと宇宙ロケットは技術的にはほぼ同じものなのに。
いい加減理解した方がいい。この世界は聖なるクソである。
「…………他の世界よりも争いを多くしたから?」
「えっ、すごい。なんでわかったの?」
その世界の人類は1841年にして宇宙に衛星を飛ばしていた。
自分の知る歴史ならばまだ江戸幕府があったはずだが、徳川家どころか日本そのものが無くなっており白人が黄色人種を完全に奴隷にしている。
フランスはルイジアナ州をアメリカに売却するどころか、周辺の州をも武力で実効支配しアメリカ大陸を完全に分断している。
欧州各国はアフリカ人をじゃんじゃか船に詰めて労働力として輸送しており、辞める気配が毛ほどもない。
白人以外は人扱いされず、白人でも女性には権利の欠片もない。世界中の国が世界中と仲が悪いか、既に消え去っているか。
技術は素晴らしく進歩しているが地獄としか言いようがない世界だった。だが見ている分には確かに面白い世界だし、お気に入りにもなるだろう。
「ねぇねぇ」
「…………」
「ねぇ、ハルってどんな人だったの? 男の子?」
「どんな……。なんだろ。狼みたいな男の子。ずっと一匹でいる狼」
「へぇ~。一匹狼ってこと? でも、群れから追い出されるのは、その狼に問題があるからなんだよ」
「知ってるよ! ハルは――――」
「ハル、HAL、ガガッガガガガ、ATHENA、ガガガガ」
陳腐な表現だが、本当に『ビクッ』となった。
機械の中から機械が何かをぶつぶつ言いながら出てきたのだ。
「な……何こいつ」
「ロボだよ」
「そりゃ……ロボでしょうよ。え、この中で何してたの?」
「メンテナンス 二 キマッテンダロ」
「えっ……口悪っ……」
自分が言えたことではないが――――と頭の中で自虐する。
たしかに、この巨大な機械は目を凝らして見ると一つ一つが精緻な部品の塊だ。
テンクウの大雑把な手では部品一つ外すのも難儀するだろう。
(ん? なんだろこれ)
とはいえ『ロボ』と呼ばれたこの機械もそこまで器用そうには見えない、と観察していたらロボの腕の関節からコードか何かが飛び出していた。
ついつい、人の身体に髪の毛がついているのと同じ感覚で引っ張ってしまった。
「アワワ アワワワ」
ちょっと引っ張っただけなのに、ドミノが連鎖するように色んな部品が外れてロボの腕が落ちてしまった。
「うわっ、ごめん」
「ロボはボロなんだよね」
自分が勝手に出力されたのを見るに、この巨大な機械は壊れかけだ。
そしてそれを外部からメンテナンスする役割のロボも既に壊れかけ。
(世界の終わりは意外と近かったのかな)
誰だって経験したことがあると思うが、暇で仕方がないときに世界の終わりについて考えたことがある。
急に隕石が降ってくるとか、いきなり太陽が爆発するとか。
それすらもない。ある日いきなり、停電するようにこの機械の中の世界はなくなるのだ。ブツッと。
その前に『外』に出てこられたことが幸運なのかどうかは判断しがたい。
「私、ここで何すればいいんだろ」
「何すればって?」
「何かやることある?」
「えっ……別に何もないけど」
(…………)
夢から覚めれば幸せが待っているとは限らない。
本来なら一生終わるはずの無かった夢が終わり、偶然にもたどり着いた外の世界。ここは天国でも地獄でもない。
ここは終着点。もうどこにも行けない。行くべきところがない。
なぜならこの世界には。
世界が待っていた『主人公』がいない。
*****************
母は恐ろしく不安定な人だった。
そして娘から見ても恐ろしく美しい人だった。
金持ちの親同士が決めた結婚だということを忘れそうになるほどに。
だが褒められるのは容姿だけ。性格は最低最悪の人格破綻者だった。
小学生にもなっていない娘を本気で殴ったかと思えば1秒後に号泣しながら謝るような人間。
夕食に嫌いな具材が入っていることを娘がぐずったら皿ごとゴミ箱にぶち込むような母親。
極めつけは毎日毎晩のように吹き込んでくる呪詛。
あんな家に生まれなければ、こんな結婚なんかしたくなかった、大好きな人と生きてみたかった。
そうやって、娘に呪いをかけるように。
そんな母を姉は蛇蝎のごとく嫌っていた。
当然の反応だと思う。
ならば汐音はどうだったのか、というと。
「左に4回、右に5回、左に7回、右に2回」
古いアニメを見ながら幼い自分を抱え、耳元で意味不明の呪文を何度も繰り返す母の記憶ばかり思い出す。
その呪文の意味、そしてそれを汐音にだけ教えた理由を知るのはずっと後のことだった。
外に男を作っていることは家族に筒抜けだったが、本人は隠している様子も無かったし誰も止めなかった。
母が家にいない方がほっとしたし、いつの間にか食事も家政婦が作るようになっていた。
ある日とうとう母は男と蒸発した。
それだけではなく父の金庫から金を盗んで消えたのだ。
しかし父は警察に通報しなかった。
その金が裏金や脱税に関わる危ない金だったからというのもあるだろう。
だが、一番の理由は違ったはず。汐音には父の気持ちがよく分かった。
あの鬼女が出ていってくれて父は心底ほっとしていたのだ。
そしてもう二度と関わりたくなかったのだ。
あの人格破綻ぶりは容姿でカバーできる範疇を完全に超えていた。
汐音も同じ気持ちだった。
大人として、母親として完全に失格の人間だった母。
どこかずっと子供で、ずっと女を捨てられなかった。
絶対に幸せになれない性格をしていたのだからその先で間違いなく破滅している。
今頃死んでいるかもではなく、是非とも死んでいてほしい。
嫌いだった。
大嫌いだった。
「あんな女にだけは絶対になっちゃダメだからね」
姉はことあるごとに汐音にそう言ってきた。
言われなくても分かっているのに、警告するかのように何度もそう繰り返してきた理由。
「左に4回、右に5回、左に7回、右に2回」
それは母が汐音にだけその呪文を教えていた理由と同じだった。
そしてある日気が付いた。
母が何度も汐音に唱えていた呪文は、父の金庫の解錠方法だった。
家の鍵は換えても金庫は変えておらず、再びそこには金が入っていた。
繰り返される姉の警告と、自分にだけ金庫の開け方を教えた母。
いつしか鏡に映る自分はかつての母にそっくりになっていった。
似ているから。
それが理由だった。
大嫌いなのに。
「……はぁ」
この世界に来る前も来た後も、目覚めた後は大体最初に溜め息を吐く。
夢の内容は選べない。最早夢の中でしか逢えないあなたに逢うために眠るのに、そんな心の弱さを狙って悪夢は入り込んでくる。
(なんで好きになっちゃったんだろ)
ベッドから降りると一緒に寝ていた猫のタマも大きく伸びをしてついてきた。
寝室から一階に降り、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
そうして本を開くでもなく、テレビを付けるでもなく、ただマグカップを持ってリビングの椅子に座った。
あんな男の、波瑠のここが好きだと具体的に一つも言えない。今も言えない。
ただ、あの時の涙を見た時、ずっと長い間泣いていなかったんだろうなと思った。
どんな痛みにも不幸にも耐えて、流れなかった涙。
彼がどんな時に泣くのかを知って、『理由は言えないけれどなんだか好き』から『本当に大好き』になってしまった。
間違っていると分かっていても、破滅へ続く言葉を口にせずにはいられなかった。
あの時は自分でも驚いた。
誰がどう見たって地獄への道連れになろうとしていたのだから。
自分の恋慕は周囲にダダ漏れだったらしく、『アレはやめときなよ』『絶対ヤバいヤツだって』と友人から本気で言われた。
その言葉は全くの正論だと思ったので、反論もしなかった。
やはりあの時の自分はどうかしていたとしか言いようがない。
(ほんとにどうかしてたのかな)
波瑠とその先を生きたかったことは間違いない。大好きだったのも事実だ。認めるしかない。
逃げちゃおうよ――――その言葉に籠っていた波瑠への思いは本物だったし、誤解なく波瑠に伝わっていた。
だがあれは本当に波瑠のことを思って出た言葉だったのだろうか。
あの時本当に自分の言いたかった言葉を、内に秘めたぐちゃぐちゃを言葉に詰めることが出来たのだろうか。
どうかしていたどころか、それでもまだ自分は理性を少し保っていた。むしろ素直になりきれなかったぐらいなのではないだろうか。
言いたかった言葉、死ぬまで隠し通したかった本音。
自分は本当に波瑠のための言葉を言いたかったのだろうか。
(私があの時本当に言いたかった言葉……)
こちらの世界に来てからというもの、ずっと己の人生と最後に波瑠と交わした言葉を振り返っている。
時間を無駄にしているのは分かっている。停滞でしかないことも分かっている。
本当はこうなったからには二度目の人生をどう生きるか考えるのがよいのだろう。
とはいえこれは創作でよく見るような『二度目の人生』とは少し違う。
あの世界が一度目でこの世界が二度目というわけではないからだ。
自分はあの機械の中で幾度も人生を繰り返しており、そのループの記憶を持ちこしたりもしていない。
言うなれば、自分は神の寵愛を受けた奇跡の存在などでは全くないのだ。
更に付け加えるのならば、こんな世界じゃどう生きるもクソもない。
結局出来るのは考える事だけだ。自分という人間とその人生について。
(二度目の人生か……)
二度目の人生と言ったら何を求めるだろう。
よくある漫画やアニメの主人公は二度目の人生に『心からしたかったこと』を今度こそ追い求める。
あの言葉を言わなかったとして、その先をまともに生きたとして。依って
北御門家がずっとそうしてきたように、決められた相手と結婚をするか、あるいは我が身にのみ依って生きるか。
世間が――――それこそ波瑠も含めて、周りの人間が示した道はそれだけだった。
どちらを選んでも満たされないと分かり切っているのに。
どちらもそれなりに幸せではあるのだろう。点数にしたら65点くらいの可もなく不可もない人生。
だがそこに『人生の絶頂』は存在するのだろうか。そもそも『人生の絶頂』とはどういうものなのだろう。
そうやって人生について考えると、いつも母の顔を思い出す。
あんな最低の女――――実の母に向けて罵詈雑言を吐く姉の凛音に言えなかった本音。
世間一般に決して許されない意見を心の奥に封じ込めてきた。
自分は『それ』の被害者なのだから、思うことすらも許されない。
そしてイライラが最高潮に達して思考を止めてしまうのだ。
あの中の世界で生きていた頃から変わらない、いつもの流れだった。
(…………どれくらい寝たんだろ)
コーヒーを飲み干してリビングを見回す。
最初に作り出したのは世田谷区で約15億円で売りに出されていた家具付きの豪奢なモデルハウスだった。
どういう仕組みになっているのか、何故か家電は動くし蛇口をひねると水も出た。
しかし、それが当然なのだが、テレビは映っても何の電波も受信していなかったし、パソコンもスマホもネットに繋がっていなかった。
月でそんな表現が正しいのかは一旦置いておいて、今は朝から晩までひたすら映画を見ている。
そして飽きたら寝る。眠くはないがなんとなく寝てしまうのだ。
眠くはない。どれだけ何をしようと眠くない。
常に良く寝た次の日の午後二時半といった感じだ。
おまけに喉も乾かないし、腹も空かない。
眠くはないがなんとなく横になってうとうとしてしまう時があるだろう。
お腹が減っている訳ではないが、なんとなくだらだらと間食を続けてしまう時があるだろう。
終着点なので何をどうしようが何も進まないし変わらない。
横になっていようが起きて運動をしていようが同じ。エターナルスランバーとはこういうことを言うのだろう。
疲れていないからか、横になっても常にレム睡眠でずっと夢を見てしまう。既に夢を見ているような状態なのに。
波瑠とはもう夢の中でしか逢えない。日数を数えていないが、いったい何か月経ったのだろう。
月の一日は地球のそれとは別物だから分かりにくい――――そう思いながらベランダに置きっぱなしにしていた天体望遠鏡に向かう。
先日あの機械から出したもので、軽く100万円はする本格的な代物だった。
ただし、この望遠鏡で見るのは天体ではなく地球というあべこべなことをしている。
(たぶん人間いないんだろうなぁ)
高いだけあって鮮明に見える地球は現在、たまたまだが日本列島をこちらに向けている。
その日本が、真っ二つに割れているのだ。弓なりの形をしているはずが、関東一円が吹き飛ばされたかのように消えて海になっている。
火山の噴火か、隕石の直撃か、あるいはこの世界の日本は元々こういう形なのか。
シミュレーション仮説という言葉をたまたま知っていた汐音は、あの機械を作ったのは宇宙人なのかもしれないと考えた。
だがあれだけの大きさならば人間から発見されないはずがない。そうなっていないのは、人間がいないからとしか考えられない。
あるいはあの機械を作ったのが人間だからか、と考えても結局地球には人間がいないのだろうという結論になる。
機械の天敵は錆びだが、月には空気が無いため基本的には錆びない。
つまり、機械にとって過ごしやすいのはむしろ月や宇宙ということになる。
だがそれでもやはり管理を行うならば地球に置いておくべきだ。
そうしなかったのは管理する人間がもう地球にいないためか。
地球があまりにも機械に厳しい環境になってしまったためか。
あるいはその両方か。ここから見る限りはただ青いだけで何も分からない。
なによりも、ただの15歳の少女の汐音にはそこまで考えるのが限界だった。
「おいで、タマ」
ソファの上で毛づくろいをしていたタマを呼び、ベランダから外に出る。
べランダへと続く窓を開けっぱなしにしていたのは、泥棒もいなければ虫もいないし、暑くも寒くもないからだ。
最初は閉めていたが、タマもタロも開けてほしい時に窓をカリカリするので最近はずっと閉じていない。
丸まって寝ているテンクウがすぐに目に入った。
「ふわふわだぁー」
干したての布団にするように龍の髭を抱きしめる。
この龍の髭がほんのり温かくふわふわで、テンクウが寝ている時はよく自分もそこで横になりながら本を読んでいる。
自分たちがテンクウの身体で何をしようが、テンクウは全く気にしない。
全長60mを超えるこの龍にとって自分たちの行動など何も気にならないのだろう。
(昨日何したんだっけ)
この世界に来てから毎日が代わり映えしない。季節どころか天気すらも変わらず停滞感極まる世界だ。
周囲を見渡し、タロが将棋盤に顎を乗せて寝ているのを発見してようやく思い出した。昨日はテンクウと将棋を指していたのだ。
当然テンクウの大雑把な手では駒を掴むことも出来ないので、テンクウ側の駒を動かす役割も汐音だった。
「ねぇ、ロボ。テンクウどれくらい寝てる?」
「15ジカン」
「寝すぎだよ! テンクウ起きて!」
「……んー……」
山が動いたという表現が正しいか。
大あくびをしただけで大地が揺れ、びりびりと大気が震える。
それと同時にテンクウの鱗から砂や小石が落ちてきた。
(…………。これってなんだろ?)
落ちた小石は鱗のなりかけだった。
まるで眠っている人の目に目ヤニが溜まるように、テンクウは眠りこけていると身体が謎の鉱物に覆われていく。
このまま起きずにいたら本当に岩になってしまうのではないか。
「おはよー、シオン。今日は何するの?」
「うーん……どうしよ。……ん?」
最近は欲しいものがある時しか触らなくなった超高性能シミュレーションマシンが勝手に動き出す。
また何かを生み出している。結構な頻度で勝手に動き出すが、生み出すのは大抵ガラクタだ。
前に穴の空いたヤカンを生み出されたときは本当にどうしようかと思った。
「なにこれ」
出てきたのは糸のついた小さな木の板だった。
まーたガラクタかよと思いつつも一応ロボに訊いてみる。
「ムックリ ダ。アイヌ ノ ガッキ」
「へー……。くさっ!?」
そうなんだ、と口元に近づけると乾いた唾液のツンとした臭いがした。
「中古か!!」
またこんなのだと怒りのままにぶん投げると、想像よりも遥かに遠くに飛んで行ってしまった。
「えー! やめちゃうの!?」
「どうせ知らない楽器だし」
「知ってる楽器あるの?」
「まぁ、ピアノなら弾けるよ」
「ピアノ! あったよ、この前出てきたもん」
今更だが、その必要がないので滅多にしないだけでテンクウは空が飛べる。
巨大な爪の生えた手で本当に文字通り空を掴み、天を駆けそのままどこかへ行ってしまった。
と、思っている間に戻ってきた。その手にピアノを持って。
「ほら、ピアノ! なにか弾いてよ!」
目の前に置かれたピアノは見た感じ新品に見えるし、試しに鍵盤を叩いてみても調律は狂っていなかった。
なぜ月でピアノの音が響くのか、考え出したら頭が痛くなるので思考を停止してピアノの前に座る。
(…………?)
なんかこのピアノ小さい。最初の感想がそれだった。
たしか自分は手を広げても8度までしか届かなかったはずなのに、このピアノだと10度まで届く。
「なにかって、何?」
「えー……月っぽいの?」
ざっくりとしているが、月をテーマにしている曲などいくらでもある。
だが『月光』も『月の光』も落ち着いたしっとりとした曲なので、なんとなく今は弾きたくない。
弾き終えたら何が悲しい訳ではなくとも、こんな世界では泣いてしまうかもしれない。
「あっ。そうだ」
小学生の頃に習った曲があった。
月を題材にした曲ではないが、テーマ的にそう離れたものではないだろう。
椅子の位置を調整し、テンクウの方を見るとタロもタマもロボもこちらを見ていた。
観客は精神年齢子供の龍と犬と猫とポンコツロボット。
人間が一人もいやしない――――けれど悪くない、と力強く鍵盤をたたき始める。
「さぁ行くんだ その顔をあげて――――」
「歌がついてる!」
しまった、別に歌う必要はなかった。
だがピアノ教室の先生が歌いながら弾いていて、自分もそれに習ったものだからなんとなく歌った方が調子がよいのだ。
開き直ってがらんどうの月に声を響かせる。
「あの人はもう思い出だけど 君を遠くで見つめてる」
そうしたかったけど出来なかった。
見つけようとしたけれど、擦り切れるほどに探したけれど、見つけられなかったんだよ。
だから眠くもないのに夢で逢えたらと眠りにつくんだ。
いまのこの世界が夢で、あなたにとっては悪夢のあの世界で覚めることを願って。
「The Galaxy Express 999 will take you on a journey, the never ending journey――――A journey to the stars」
英語がまだ読めなかったときに、先生が日本語で歌ってくれたっけ。
小学生でも分かるような素朴に訳された歌詞が好きだった。
そうだ、今日は外にテレビを出してテンクウと一緒にアニメを見よう。
母に抱えられてこのアニメを見たあの日々の記憶が浮かぶ。どこかずっと子供だった母。
(やっぱり私、認めたくないけどお母さんに似ているね)
捨てられた身であったため、生きていた頃は決して言えなかったが、本当はずっと思っていた。
羨ましいと。自分もどこか遠くへ逃げてしまいたいと。
誰かと、一緒に逃げたくなるくらいの誰かと出会ってどこまでも遠くに行きたかったと。
だがこれは違う。こうではない。こんな世界にほっぽり出されることを望んでいた訳じゃない――――ずっと考えないようにしていた密かな憧れが漏れ出てきて、打鍵にも自然と感情が籠っていく。
(『遠く時の輪の接する処で、また巡り会える』、か……)
辿り着いた次の星は月だった。だが旅はどんどんと続いていくはずだ。
一緒に終わらない旅へと出たかった。虹の始まりを探しに行きたかった。
別れも愛のひとつだなんて言うには自分はまだまだ子供だったらしい。
演奏が終わる頃には、いつしか見た涙に負けず劣らずの大粒の涙が鍵盤に落ちていた。
「わっ、わっ! 泣いちゃった! えと、なにか食べる?」
「……ありがと。自分で出すよ」
食べたかった44アイスクリームの新作を生み出し、ピアノ前に座る。
口の中でぱちぱちと弾けて、なんだか空っぽの喉の奥にやけに響く気がしてうつむき――――ピアノの下に何かがいた。
「なっ! 何コイツ!?」
「あー! チュウ次郎だ! 戻ってきた!」
宇宙猫宇宙犬に続き現れたのは宇宙天竺鼠ことカピバラのチュウ次郎だった。
どうも長い間迷子になっていたのを自分の演奏で呼び戻せたらしい。
たしかにどこまでも広いので一度迷子になったら探し出すのは困難かもしれない。
食事は必要ないので死なないにしても、さぞかし寂しかったろうと思ったがのん気な顔をしてタロに顔を舐められていた。
シミュレーションマシンはなんでも生成出来るが、生物を生み出すときは命が無い状態で出てくる。
ただ何故か、勝手に生み出すときだけは生物なら生きたまま出てくるという。
だから大抵ガラクタが出てくると分かっていても、テンクウも自分もその誤動作を心待ちにしている。
ましてやテンクウの言葉を信じるなら、この龍は『ハル』がこの世界に来ると思っていたのだから。
(生き物出てきたの見たことないけど……)
なんて思いながらアイスを食べていると、ひとしきりチュウ次郎をかまい終えたテンクウと目が合った。
正確にはアイスをじっと見ている目と合ったと言うべきか。
「……食べたい? 食べなよ、いくらでも出せるし」
「うーん」
遠慮する意味が分からないので巨大な口の中に三段重ねのアイスを全部入れる。
一口目でかなり気に入った新作だというのに、テンクウは微妙な表情をしていた。
「おいしくない?」
「よくわかんない……」
考えてみたら当然だった。ただでさえ巨大な龍の口に、不況続きで小さくなり続けたアイスを放り込んでも味を感じるという段階にすら行かないだろう。
テンクウがよくイトウを食べている理由が分かった。大きさ的に味を感じれる魚がそれくらいしかないのだろう。
もちろんクジラなんかも出せるには出せるが、哺乳類感の強いクジラを生のまま丸かじりは流石に勇気がいる。
大きければ味も分かるんだよな――――と考えてナイスアイディアを思いつく。
「これならどう?」
汐音が選んだのは巨大なケーキだった。
巨大と一言でいっても、ただ大きいだけではない。
アメリカのセレブと大女優の結婚式で出た、一流パティシエを100人動員して作り出した総重量120kgの冗談のようなケーキ。
ケーキ入刀に使われたのであろう巨大なナイフと添えてあったフォークも出す。
ちょうどテンクウが握ってぴったりなサイズだった。
「うわぁ! これすっごい!」
(…………)
このケーキを食べたら外にテレビを運んで一緒に銀河鉄道999を見よう。それがいい。悪くない。
悪くないが、本当にそれを一緒にしたい相手は電子記憶の彼方に消えてしまった。
ケーキやアイスを一緒に食べるなんて有り得ない話だし、隣に座って一緒にアニメを見ている姿なんて想像すらも出来ない。
ああ、いつになれば『あの人はもう思い出』になるのだろう――――物質生成レーザーが再び勝手に動き出した。
「…………?」
レーザーの向かう先はケーキの中だった。生み出した物質の中に更に何かを生み出そうとしているのだ。
テンクウも初めて見る現象だったようで、ナイフとフォークを手に持ったまま巨大な口をあんぐりと開けて見ている。
(あれ? そしたらこれ、どうなるんだろ?)
たとえば機械の中に何かが生み出されるとしたらどちらかが壊れるのは想像に難くない。
だが、柔らかいケーキの中に生み出されたとしたら。
完成するまでは触れないし質量もないが、もしもあの中で完成したら――――結論が出るや否や汐音は逃げようとしたがやや遅かった。
「ケーキがっ!!」
超巨大なケーキが大爆発して周囲に大量のクリームが飛び散った。
お笑い芸人が顔面にクリームバズーカを受けるのは定番だが、大げさではなくその百倍のクリームを身体中に受けた。
ふざけている。一体何が――――爆発したケーキの中心がもぞもぞと動いていた。
それは明らかに人の形をしていて。寝ても覚めても終わらない夢の世界で、どくんと心臓が動いた。
「んだコレ……」
それだけで粗暴な性格をしていると分かるセリフ、低いのにまだ大人になりきれていないことが分かる少年の声。
立ち上がったそいつの上背は190cm近くあり、クリームだらけの顔を乱暴に拭った。
まだまだ真っ白だが、視界は確保できたようだ。
狼の目だった。
群れから追い出され、群れから追い出されることを選んだ一匹狼の目。厚ぼったい奥二重に白目の多い三白眼。
どこをどう切り取っても冷徹な印象を受けるのに、その瞳にはいつも隠し切れない熱と愁いを湛えていた。
「ハル……?」
「…………――――」
きゅうっ、と瞳が小さくなるのがやけにスローに見えた。
何もかもが異常なはずだ。
どう見ても地球ではない場所。巨大という言葉では全く足りないほどに巨大な機械。
食器を手にして固まっている紛うことなき本物の龍。クリームまみれの自分。
目に映るそれら全ての異常がどうでもよくなった『きゅうっ』だったのだ。
崩れたケーキをかき分けてクリームモンスターがこちらに走っていた。
「えーっ! また人出た!!」
相変わらず、本当に涙が出るほど相変わらずに。
手加減なしで腕を引っ張る無遠慮な力に身を任せるままに、龍の声をどこか遠くに聞いていた。
誰もが夢見て手に入れたい永遠を手に入れた。
きっと本当に宇宙が始まってから今日までで一番甘い、世界で一番甘い抱擁だった。
遠く輝く青い宝石の星に、今日はケーキの隕石を降らせてやろう。
理由は特にない。そういう気分になっただけ。ただひたすらにラブ大暴れだ。
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File No.536487
北御門汐音
頭脳◎
運動△
性格×
煽り耐性×
好きなタイプ:群れない人
実在性:あり
家庭内に不和があり、その影響で性格がやや不安定。
また、センスが少しズレている。
File No.XXXXXX - This number does not exist
葦名波瑠
頭脳◎
運動◎
性格×
煽り耐性×
好きなタイプ:努力家
実在性:なし
本当に最初から性格が悪く設定されている。
それでも環境や教育でどうとでもなる範疇だった。
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つづく