さよなら、HAL   作:K-Knot

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あなたが愛した愚行権

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 Chapter4 手渡した言い訳

 

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 うまい煙草の条件を知っているか。

 値段やメンソールの有無なんかは人の好みそれぞれだからそこはいいとして、タールは5mg以上が望ましい。

 缶コーヒーがあると最高だ。ブラックか微糖かはその日の気分によるが口臭がクソになるのは、まぁ仕方がない。

 

 仕事終わりに缶コーヒーを振って蓋を開けて、煙草に火を付ける。

 一口コーヒーを飲んで肺の隅々まで煙で満たすんだ。

 革靴なんか脱ぎ捨ててネクタイは緩めてしまえ。

 

 脳がぼやけて涙がにじむほどうまい。

 

 さて、缶コーヒー片手にタバコを咥えて眺めるなら何がいいだろう。

 前までは喫煙所のガラス越しに歩く人々をぼけーっと眺めていた。

 あるいは賃貸のベランダで何の面白みもない明け方の道路を見ていた。

 大家が部屋の中で吸うなと言うから仕方がない。本当は俺だって西部劇の映画を見ながらジョン・ウェインと一緒に吸いたかった。

 

 頭を空っぽにして見れる、ちょっと笑えるもの。

 そんな光景が最高にタバコをおいしくしてくれる。

 そう、たとえば。

 

(世界の終わりとか)

 見渡す限りの砂漠に僅かに残る草地は帯電した砂嵐に襲われている。

 空を飛ぶ暴走した機械はその身を捩るようにして形を変えながらあらゆる生命を破壊し、時には機械同士で破壊し合っている。

 球形の浮遊する機械がハリセンボンのように膨らんだと思ったら、無数のミサイルが飛び出して無人の高層ビルを木っ端みじんにした。

 

(サイコーだな)

 電磁シールド内にいる人間は認識されないため、いつまでもこの破壊劇を見ていられる。

 屋上の忘れ去られたベンチに座り、革靴を両方脱いで床につけた足を擦りながらネクタイを緩める。

 Yシャツの裾を引っ張り出して腰を深く沈め、もう一度煙を大きく吸い込む。

 隣に置いた白衣の上に灰が落ちてしまったが男は全く気にしていなかった。

 

「またタバコかい?」

 屋上に白衣を着た女が現れたが、男は返答の代わりにコーヒーをもう一口飲み込んだ。

 

「よう、いい天気だな」

 

「どこが?」

 太陽どころか巻き上がった灰と砂と煙で空など欠片も見えない。

 見渡す限り全ての地域で目的を失い暴走した機械が一秒ごとに進化しながらその形を変えていく。

 そんなこの世の終わりの光景を、男はニコチンにやられて緩んだ表情で眺め、女はしかめ面で見ていた。

 分野は違えど二人は人類史上最高最先端、そして最後の科学者だった。

 

「やり遂げたみたいな顔してるのはいいけど、一日の大半ここにいるね。外に出るなって言われてるのに」

 

「一応外じゃないからいいだろ。中で吸っていいならここには来ねえよ。……いや、時々来るかもな」

 

「聞いた話だけど……こうなることを予期して貯金全額はたいてタバコとコーヒー買ったんだって?」

 

「そーね」

 

「他の人に警告もせず、やったことといえばタバコを買うこと?」

 

「だってあの時言っても誰も信じなかったろ」

 

「…………そうだね」

 女は呆れているが、男は自分の行動を100点満点中120点だと思っていた。

 守るべき家族もいなければ資産もない。あるのはあまり使わないでいた貯金だけだった。

 そして現在、僅かに生き残った人類はかつての自分の好物――――酒やチョコレートの夢を見ながら終わりのない労働をしている。

 そんな中で自分だけが大好きなタバコとコーヒーをいくらでも消費できるのだ。

 最早金すらも意味のない世界になってしまったのだから、早々に現物に換えておいて本当に良かったと思っている。

 

「どれだけ買ったの?」

 

「1万カートン」

 

「一日どれだけ吸うの?」

 

「2箱」

 

「136年は持つ計算か」

 

「いや、おめーらがいなくなったら室内で吸いまくるから。もっと早く無くなるな」

 

「…………そっか」

 

「おいおい、しけたツラすんなよ。いい景色だろ? 世界の終わりなんて見れるのは今日まで生き残れた人間の特権だぜ」

 視界の奥でまた一つビルが崩れた。建築費にして数百億はかかったであろうに、今となっては無人の棺桶だ。

 世界中で人類の栄光と資産の破壊が行われている。見方を変えれば予算100京円のアポカリプスムービーみたいなものだ。

 男は楽しくて仕方が無かった。

 

「まったく禁煙禁煙言って健康促進せせこましく頑張っても一撃でこれだからな。たまらんぜ。禁煙なんてサイテーウンチだ!」

 破滅願望があちこちから漏れている男の言葉を聞いて、女は眼鏡を外して目頭を押さえた。

 そうしてうつむくと分かるが、女の額からは言い訳が効かないほどに立派な二本の角が生えていた。

 再び顔を上げた女の視界に映るのは紛うことなきこの世の終わり。狂わない方がおかしい光景だった。

 

「私たちは負けたんだろうね」

 

「負けた……?」

 

「進化が間に合わなかったってこと」

 

「進化が? 腕の数でも足りなかったのか?」

 

「そうだね……。君はAIと人間の見分けはどうつける?」

 

「会えばいいだろ」

 今やAIと人間の見分けは全くつかない。

 それどころか大抵の人間よりもAIは賢いくらいで、オンラインでの人間の見分け方は『馬鹿なことを言っている方』になってしまったくらいだ。

 残った人間の矜持は最早この生まれ持った肉体くらいしかない。

 

「電子化構想があっただろう? 政府が止めてきたアレさ。君も関わっていたんだろう」

 

「あれな。倫理的にどうのとか、法整備がどうのとか。くだらんこと言っている間にめでたく人間は終わりだ」

 技術的に不可能ではないはずだとして、人間の精神の電子化の研究が進められていた。

 政府の介入でその夢は立ち消えになってしまったが――――例えば生まれながらに四肢の無い人間がいたとして、彼の精神だけを抜き出して義体にインストールすればそこらの人間よりもずっと健康な体を手に入れられるのだ。

 最終的に人間を縛るのはどうしたってこの身体、そしてこの命だ。それを置き去りにできるはずだったのに、クソの役にも立たない倫理が強権を振り回して止めてきた。 

 

「例えばだけど、AIが義体にインストールされていたらどうやって人間と見分ける? そうなってしまえば人間とAIの境目はどこになる? その交差点では何が起きる?」

 

「……俺はお前が何を言っているかたまに分からん」

 

「融合を果たすんだよ。実在性を持った電子的存在……魂のみの存在だ。肉体に依存した人間よりもずっと滅びない。情報を未来に送り届けることが生物の目的ならば、完璧な生命としか言いようがない」

 

「なるほどね。間に合わなかった、か……」

 

「そのせいで君はひとりぼっちになっちゃうんだね」

 これから女は僅かに生き残った人類と共に宇宙へ旅立つ。

 男は留守番役を志願したし、他の生き残りも彼が適任だと言った。

 1万カートンもタバコを買ったのはそのためだろうと。

 だが留守番役といえば聞こえはいいが、女が戻ってこれる確率も彼が生き残る確率も0に等しいのではっきり言って置き去りだ。

 

「……あー」

 それでも彼はこの終わった世界の続きを見るための一番重要な役割を担うのだ。

 あるいは世界を救うのは、どこからどう見てもただのヤニカスにしか見えないこの男なのかもしれない。

 世界で最も孤独なニコチン中毒者がタバコのカートンを女に差し出した。

 

「私、吸わないよ」

 

「ステュクスで作っといてくれ。いつか取りに行く。それともこんな無駄なもんは持っていけないか?」

 

「…………後で降りてきなよ。最後くらいみんなと顔を合わせた方がいい」

 

「…………」

 タバコを受け取り去っていった女を振り返ることもせず、男は4本目のタバコに火を付けた。

 だってそうだろう。世界の終わりにたかがヤニカス一匹何が出来る、と独り言ちる。

 

「完璧な生命ねぇ」

 男がこめかみを指先で軽く叩くと空中に映像が浮かび上がった。

 それは遥か遠くの宇宙に浮かぶ小惑星の姿であり、滅びゆく人類に与えられた最後の絶望だった。

 今となってはそれすらも『最早今更』程度の存在でしかない。

 

「それを神さまっていうんじゃないのかね」

 遥か遠く人類の立ち消えた夢を想いタバコを根元まで吸う。

 

 人類はこれだけ進歩しても。

 巨大な質量――――たかがそんなものにさえ勝つことが出来なかった。

 どれだけ歩き続けてもこの体とこの命を捨てられなかったから。

 

 

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 なによりも望んだ再会を果たしハッピーエンド。

 それが物語として美しい。ここから全てが上り調子になると誰もが予想できるのだから。

 だが死んだ後ですら物語が続いた世界なのに、抱擁一つで終わりになるはずがなかった。

 

「ねぇ、もしかしてハル?」

 周囲に低く響く声が二人の意識を急速に現実に戻す。

 クリームまみれの波瑠を首を下げて見つめるテンクウは、木っ端微塵になったケーキよりもずっと強く目の前の新しい人間に興味を持っている。

 

「…………龍。まさか……」

 波瑠の意識がこの意味不明な世界に広がっていく。

 自分を抱いていた腕から抜ける力が二人だけの時間の終わりを教えてくれる。

 あれで終わりで良かったのに。それが美しかったのに。

 

「ハルだよね? ね?」

 

「禍龍……」

 自分が来るまでテンクウはこの世界で唯一の知的生命体であり、『ハル』がこの世界に来るのを待っていると言っていた。

 テンクウの言葉をそのまま捉えるのならば、大げさな言い方をすれば世界が波瑠を待っていたのだ。

 

(いやだ……)

 汐音は急速に頭が冷静になっていくのを感じた。

 誰も触れない二人だけの国に旅立ったのならばそれでいい。物語もそれで終わりいい。

 だが絶対に違う。終わりどころか、むしろここからが何かの始まりで、歯車が回り始めたのだ。

 

(私はどこにいればいいの?)

 この龍は、この機械は、この世界は。 

 分からないことはいくらでもあるが、一つだけ確実に言えることがある。

 この世界に北御門汐音は求められていない。お呼びでない。

 何を求められているのかすらも分からないが、現状を見るに所詮成績のいい中学生程度の能力では絶対に足りないはず。

 月と龍と遥か未来の機械が絡む物語など、モブにすらなれない。

 ドラマの撮影中に空気を読まずにカメラの前を通りかかった迷惑な人だ。早い話が『さっさとどいてくれ』と言われるような存在。

 

 だが居場所の無さを実感して途方に暮れている暇もない。

 テンクウは波瑠に興味津々だが、波瑠のテンクウへの視線には明らかに敵意が籠っていた。

 波瑠の目線から見れば全ての元凶なのだから当然の反応だ。

 

「お風呂! お風呂あるから! あの家に! ね、まずシャワー浴びなよ」

 

「風呂……? 家だと……!?」

 自分で出してから数か月経ったので今は何も思わないが、やはりというか月面の豪邸を見て波瑠は当然混乱していた。

 

「あ~もうほら! 学ラン脱いで」

 

「ああ……? ああ……」

 言葉に流されるように波瑠が学ランを脱いで渡してきたが、制服の裏側もポケットもクリームとスポンジまみれで重たい。

 更にYシャツまで当然のようにべちゃべちゃで、これだけ汚れれば誰だってまずは風呂に入るのが普通だろう。

 

「お風呂かぁ。そうだねぇ、そうした方がいいね」

 のんびりとそう口にした龍をもう一度波瑠はちらりと見た。

 この生き物が敵か味方かを、未だに測りかねているのだろう。

 急かすように波瑠の背中を押すとようやく歩き始めた。

 その背を見て出てきたのは大きな溜め息。本音を言えばもっと喜びに浸りたかったが仕方がない。

 何より、同じくクリームまみれの汐音にとっても身体を綺麗にするのは急務だった。

 

 

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 二人きりならば勇気を出して一緒に入ろうと言ったかもしれないが、そうではないし無駄にデカい家なので風呂は離れにもある。

 そんなことよりも、なるべく穏便に済むように、かつ簡潔に自分の知るこの世界についてを伝えなくてはならなかった。

 はっきり言ってかなりの板挟みで、そのうえ分からないことだらけの中で、なんとかテンクウが敵ではないと伝えることだけは成功した。

 

「ところで北御門……どれくらいここにいた?」

 話を聞き終わった波瑠が第一ボタンを外して椅子に深く腰を落とした。

 いま波瑠が着ている制服ははあの機械で出したもので、元の制服は現在洗濯中だ。

 どんな服でも出せるが、あえて波瑠のサイズの学ランを出したら特に不服も言わずに着たのを見て笑ってしまったのは内緒だ。

 

「…………? 数か月くらい?」

 

「数か月……。お前、すごい背伸びたな」

 実は再会した瞬間にまず思ったことがそれだった。

 記憶の中ほど大きくない波瑠と並んで初めて自分の背が高くなっていることに気が付いたのだ。

 

「月……重力小さいしな。まだ成長期だったってことか?」

 推測を述べながらも怪訝な顔をする理由も分かる。

 実際に測ったわけではないが、恐らく170代後半まで背が伸びている。

 女性でもこれくらいまで伸びる人もいるにはいるが、やはり不自然と言わざるを得ない。

 

(そうだよ、おかしいよ)

 両親はそんなに背が高くなかったとか、成長痛を感じなかったという薄い根拠よりも、はっきり異常だと言える根拠があった。

 服のサイズも一緒に変わっているのだ。それもあって不自然に背が伸びていることに気が付かなかったのだ。

 やはり波瑠が来てから歯車が回り出した。まるで列車が線路に沿って動くような自然さで、この世界の異様さを暴き出そうとしている。それこそ、置いていかれそうな速度で。

 

「ねぇー、ハル、シオン。一緒に遊ぼうよ~」

 外からテンクウの声が響きリビングが揺れる。全長60mの巨大生物が呼びかけだけでもちっぽけな人間の住処は縦に揺れて軋んでしまう。

 いつになくテンションが高いテンクウだが、普段は自分やロボが起こしているためあべこべだ。

 

「……そうだな。あいつに話を聞くのが早いか」

 

「テンクウと喧嘩しちゃダメだからね?」

 

「するわけないだろ、あんなバケモンと……。…………」

 自明な正論を以前となんら変わらぬ調子で口にして、何を思ったのかベランダに向かう足を止め、こちらの顔をじっと見てきた。

 

「……なに?」

 

「また会えて本当に良かった。今はそれだけでいい」

 互いに聞きたかった言葉と言いたかった言葉がこれほどまでに一致することなどそうないだろう。

 だが気の利いた返しを考える前に、照れを隠し切れない波瑠が足早に外に出て行ってしまったので慌てて追いかける。

 

「うわぁ〜。ハルってかっこいいね〜」

 波瑠がどう思っていようとテンクウには敵意の欠片もなく、風呂上がりの波瑠に対してまず口にしたのがそんな感想だった。

 

「あぁ……?」

 自覚があるのかは分からないが、波瑠は周囲の男子がじゃがいもに見えるほどに優れた顔貌をしていた。

 それこそ腹が立って引っぱたきたくなるほどに。そのうえ頭脳明晰で運動神経は抜群ときているのだ。

 それなのに女子から全く言い寄られなかったのは、プラスを全て打ち消しておつりが出るほどにマイナスが大きかったからだ。

 壊滅的な性格、公言してる女嫌い、実害のある暴力性、怪しい宗教との関わり。細かいところまで羅列していけば両手でも足りないかもしれない。

 危なそうな空気を纏っている男子が人気なのは常だが、実際危ない男には相当な変わり者を除けば誰も関わりたくない。

 そしてその『相当な変わり者』が自分だったのだ。

 

「ハルって将棋強いんだよね? おれと指そうよ」

 

「……? ?? 俺と?」

 

「いいね、やってみたら?」

 いくら汐音が言葉を重ねたところで波瑠目線でテンクウは化物であり、実際汐音から見ても大怪獣そのものだ。

 何はともあれまずはテーブルに着くことから――――小国が大国と交渉する時に使われるような文句が思い浮かんだ。

 汐音もつい先日テンクウと将棋を指したばかりだが、これが洒落にならないほどに強かった。

 人間世界を外から眺める龍、別の言い方をすれば神なのだから強くて当然と言われればそうなのかもしれない。

 波瑠とどちらが強いのか見てみたい気持ちも少しあった。波瑠が了承する前にそっとテンクウとの間に将棋盤を置いて駒を並べる。

 ここまでお膳立てすれば喧嘩をするにしても盤上でしてくれるはずだ。

 

「ハルに先手あげるから! ね、ね!」

 

「…………」

 カチンときたのがよく分かる表情で波瑠が座った。

 それは期せずして、波瑠を思い通りに誘導する一番効果的な言葉だった。

 テンクウとしてはナメたつもりは微塵もないのだろうが、なにしろ波瑠はこの歳までプライドだけで生きてきた少年なのだから。

 波瑠が初手の駒を動かし、テンクウが読み上げた駒を代わりに汐音が動かす。

 大人気ない波瑠の本気がよく分かる形になっていく。

 

「うーん、綺麗な駒組みだね」

 

「……マジかよ。矢倉分かるのか……」

 

「あっ、愛の矢倉と来たわけね……」

 波瑠とテンクウのどちらも指しているのは『矢倉』という形だった。

 かつての大名人をして『矢倉は将棋の純文学』と言わせるほどに綺麗な形だ。

 

 将棋というボードゲームは泣いても笑っても一手につき一つの駒しか動かせない。

 先手が飛車の前にある歩を動かしたら、後手は飛車を飛ばせないために角の横へ金将をやる。

 そうして『今日はこの手で攻めたい』『そうはさせない』と会話をしているのだ。

 

 将棋には無数の戦法戦型があり、その形に持っていくお約束の手順がある。

 その中でも、矢倉囲いは互いに最大限良い形を作ろうとすると、先手も後手も自陣の形が全く同じになるという性質がある。

 もちろんその形に付き合わずに崩す方法はいくらもである。

 つまり、合意のもとに互いに矢倉囲いになるのだ。

 

 最大限良い形を、とお互いに欲張るものだから盤面のどこを見てもぶつかり合う濃密な形。

 汐音の言う愛の矢倉は『相矢倉』、とことんまでやろうぜと無言の約束を交わした形だ。

 相撲で言えばがぷり四つ、男女の関係で言えばくんずほぐれつ。終盤まで優劣がつかないまま競り合いが続く。

 将棋の純文学とは決して高尚な意味ではなく、その無駄にネチネチとした様を指しての表現だ。

 そんな波瑠とテンクウの高度な指し合いを動物が理解するはずもなく、将棋盤の横でやたらと太った猫が転がって波瑠にお腹を見せてきた。

 地球でも結構珍しいはずの三毛猫のオスだった。

 

「デブ猫……」

 

「タマっていうの。一応将棋盤の上では転がらないようにしてるみたいよ」

 

「首と胴の境目わかんねーな」 

 パチン、と空気の無い世界に駒音が高く響き渡る。

 気が付けば盤面はあちこちに火が付く大火事となっていた。

 どこかの火の元を消しに行けば、別の火が更に大きく燃え上がる。

 

(うわっ……どっちも本当に強い……) 

 気付けば波瑠の機嫌はよくなっていて、純粋に将棋を楽しんでいる顔をしていた。

 目の前の龍が本当に強く、別のことを考えながら倒せる相手ではないと気が付いたのだろう。

 単純な性格で良かったと思う反面、それでいいのかとも思ってしまう。

 

(いいや、これでいい)

 これがいい。これこそが自分が望んだ形だ。

 誰にも邪魔されずにのんびり過ごして、将棋を指して。とても幸せじゃないか。

 そうだ、この後アニメを一緒に観ようと誘ってみよう。ソファで隣り合って座って、タマを抱っこして観るんだ。

 

「ロボ、イトウ持ってきて」

 

「ヨイゼ」

 

「…………」

 あの機械から出てきた巨大魚をポンコツロボットが運び、龍が頭からボリボリと食べている。

 とてもではないが現実とは思えない光景を波瑠がすごい目で見ている。

 集中が乱れている瞬間を狙ったのはワザとではないのだろうが、テンクウがイトウを齧りながら次の手を告げていた。

 

「なんだこりゃ」

 いま既に4か所ぶつかり合っている場所から切り込むのではなく、自陣に角を戻していたのだ。

 岡目八目という言葉の通り、最初にその状況のまずさに気付いたのは汐音だった。

 波瑠は今からどこの駒も取れる。取れるには取れるが、角が飛び込んできて桂馬が取られる。

 自陣で成ったその角を放置するわけにはいかず、飛車で取りに行くと――――

 

(王手飛車!!)

 将棋で一番強い駒は飛車だ。取られたら負けなのが王将。

 その両方が射程に入る王手飛車は、絶体絶命という以上の表現が見つからないほどの大ピンチだ。

 

「へへ、どう?」

 

「なめんな……!」

 波瑠も王手飛車が見えたのか目から火花を出していたが、まだその目は死んでいなかった。

 汐音の知る限り一番の意地の塊、葦名波瑠の意地とプライドの見せどころだった。

 そうなるはずだった。

 

 将棋には入玉と呼ばれる状態がある。

 相手側の3段目以内に自分の王将が、もしくは自分側の3段目までに相手の王将が入り込んだ状態だ。

 一歩前にしか進めない歩からしてそうだが、将棋の駒は基本的に前に進むように出来ている。真後ろや斜め後ろに下がれる駒は限られている。

 こうした理由から入玉した王将を詰ませるのは不可能に近いと言われており、そうなっては見るに堪えない泥仕合になる。

 そんな状況を強制終了させるルールすらもあるが、プロ対プロでそのルールが行使されたことはほぼない。

 将棋に限らず、野球でもボクシングでも『プロ』とは観戦者がお金を出すから成り立つものであり、プロである以上そんな泥仕合の形など望んで作らないし作らせないからだ。

 ルール上違反でなくとも野球で敬遠を繰り返せば観客は怒るし、入玉だらけになれば観戦する者などいなくなるだろう。

 

 そして全てのアマチュアは知ってか知らずかプロに倣うものである。

 わざわざストライク5回でアウトにする草野球などないし、有利だと知っていても最初から入玉を目指す素人はいない。

 なぜなら新聞・テレビ・インターネットで見るプロがそうしていないから。

 波瑠の得意の形も汐音の得意な形も、かつてプロが多用して世間に広く普及したものだ。

 当然その中に入玉を前提とした戦法など無く――――

 

「負け……ました……」

 

「いやった~!」

 

(ハルがここまでボコボコにされるなんて)

 盤面の投了図はひどいものだった。

 波瑠の陣地の右半分が食い破られ、テンクウの王将が最下段にまで入り込んでおり、その周囲を『と金』が五枚囲っている。こんなもの詰ませようがない。

 入玉の特に凶悪な強さの一つに『と金』の作りやすさが挙げられる。

 王将のそばに歩を置き一歩進ませるだけで王を守り相手陣地を荒らす金将が出来上がるのだ。

 当然元は歩なので頑張って打ち取ったところで手に入るのは最弱の駒である歩のみだ。

 

「ハルすっごく強かったね。ロボやシオンよりかなり強いと思うな、うん」

 イトウをぼりぼりと齧りながら、幼さゆえの残酷な言葉で曲がりなりにも将棋部だった二人をぶった切る。

 龍と指すだけならまだしも、目の前でドデカ魚をバリボリと食べられながらでは波瑠も中々集中が出来なかったようだ。

 

「現代の指し方じゃない……」

 

「え?」

 汐音はただただテンクウが強いことしか分からなかったが、波瑠にとってはそうではなかったようだ。

 まさかこんな、たかがボードゲームで何かが進むのだろうか。

 待ってほしい。何も進めないでほしい。一緒にワンピースのアニメを最初から観るくらいの時間が欲しい。

 

「誰に習った?」

 

「誰って、ロボでしょ」

 

「あの状況でわざわざ入玉に行くか? こんな指し方、機械がするもんかよ。人間の指し回しだよこれは」

 

「確かに……」

 相矢倉から入玉を目指すのはそこまでおかしなことではない。

 だが飛車の駒得という決定的有利を築いたのに、波瑠の反撃を見越して自分の王将を奥に押し込むのは現代的なスマートな指し方ではない。

 入玉の意図に気付くのが三手ほど遅れてしまい、結果として波瑠も入玉を許してしまった訳だが、気が付かなかったというよりもそんな指し回しは知らないというのがより正確だ。

 これはもっと、一局一局に命までかかる真剣師か何かの絶対に負けない指し方に近い。

 

「テンクウ……こんな指し方、誰に習った?」

 

「…………。イトウ名人!」

 しばらく食べかけのイトウを眺めて何を言い出すかと思えばこれだ。

 

「イトウ名人なんていないよ」

 歴代の名人はたった十六人しかいないが、その中には伊藤の『伊』の字もない。

 

「いや、いるぞ。伊藤宗看か? それとも伊藤宗印か?」

 

「あっ、そっち? 伊藤看寿のお兄さんだっけ?」

 将棋家元三家が一つ、伊藤家が生んだ天才・伊藤看寿。

 兄が名人であったこと、同じく将棋家元三家が一つの大橋家に阻まれたことにより、ついに名人になることはなかったが彼は死後に名人位を贈位されている。

 桜花中学校将棋部に割り振られた吹けば飛ぶような部費で購読していた将棋雑誌があった。

 そこには毎月の詰将棋やコラムなんかも載っていて、暇なときに読んでいたためなんとなく記憶の片隅にある。

 

(あれ?)

 そこまで考えて、波瑠の頭の中にある考えに違和感を覚える。

 言うなれば波瑠はこの全長60mの龍を人間として捉えているのだ。

 汐音の中には1mmも無かった発想――――というよりも誰だってそんな発想はしないだろう。

 一体なぜ波瑠がそんな考えを持てたのか分からないが、将棋を指してからはテンクウを完全に人間として扱っていた。

 

「『伊藤宗印』だよ」

 

「……お前、江戸時代の人間か」

 

「うん」

 

(本当に人間なの!?)

 波瑠と汐音の二人が2023年から来たといって、テンクウも2000年代の人間ということにはならない。

 どうやらテンクウは江戸時代の日本からこの世界に飛ばされた子供だったらしい。

 それなら今のその姿はなんなんだ、という当然の疑問がまだ残っているが。

 

「…………。お前、名前なんていうんだ? 全部言ってみろ」

 

「おれ? タカマガハラだよ」

 逃れたと思ったその名前。

 汐音は絶句し波瑠は総毛立っていた。

 

「『高天原天宮』。それがおれの名前だよ」

 葦名家も北御門家も無い世界に来たはずだった。

 それでも波瑠に絡みつく高天原の呪いは、まだ続いていた。

 

 

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 File No.865564

 

 名人(将棋)

 

 昭和初期に世襲制から実力制に移行し、毎朝新聞と白夜新聞が主催している。

 

 歴代実力制名人は以下の通り。

 

 木崎、塚山、大石、升野、中岡、加山、谷村、米井、羽川、佐原、丸内、森村、佐野、豊田、渡部、藤居

 

 特に永世七冠の羽川と八冠を達成した藤居は一般層にも広く有名。

 歴代名人で誰が一番強いか、という話は大抵実力制名人のみを対象にしている。

 

 

 File No.365764

 

 伊藤看寿

 

 江戸時代の将棋指し。

 将棋家元の一つである伊藤家に生まれた。

 

 117手詰めの詰将棋『煙詰』を作成した男として広く知られている。

 煙詰は全ての駒がある状態から始まり、最終的には詰め上がり成立最小数の3枚で終了する。

 他の駒は全て煙のように消えるため、煙詰と名付けられた。

 生前は名人ではなかったが詰将棋作家として名を残したため、現代の優れた詰将棋に贈られる賞は『看寿賞』と呼ばれている。

 

 

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 Chapter5 龍の落とし子

 

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 お父っちゃんに会いたい。

 

 父の存在を知った天宮のその言葉は、普通の子供ならば当然の願いだろう。

 高天原は女系家族であるため、外部から種を貰っている。

 もちろんそこらの野盗や百姓であるはずがなく、尊い身分にある人物であることがほとんどの謂わば落とし子だった。

 そして相手の身分の高さから、代々高天原の娘は父の顔を知らなかった。

 

 娘の願いを聞いて、高天原天明は旅に出ることを決めた。

 紀州藩と呼ばれるようになっていたその土地から高天原の一族が外に出るのは初めてのことだった。

 

 理由はいくつかあった。

 従妹がいるため何かあっても一族は途絶えないこと。

 江戸幕府が成立してから天下は安定し、高天原一族の能力に縋る人々が少なくなっていたこと。

 そして何よりも、天明自身が彼の人に再会したいと願っていたのだ。

 

 紀州を発ち、京へと向かう。そして京から東海道五十三次に沿って江戸へと旅立った。

 長い戦乱を経てようやく訪れた天下泰平。だが、女と子供の二人旅が安全なはずが無かった。

 未来が見えるとはいえ、常に見ている訳ではないし未来視にはそれ相応に体力を使う。

 破滅的な未来が見えた時、例えば誰かに狙われていることを知った時にはその未来を回避するために時間も金も使ってしまう。

 ようやく江戸にたどり着いた頃には季節が一つ過ぎ去っていた。

 

 未来を見ずとも、最初から結果は分かっていた。

 江戸城の正門である大手門の門番に素性を隠さず伝えたが、気狂い扱いされまともに取り合ってもらえなかった。

 誰だって信じない。自分でも信じない。紀州藩から飛び出し初めて目にした江戸城の大きさの前に勝手に納得してしまった。

 不安そうに母の手を握る我が子にかける言葉が見つからなかった。

 身分が高すぎて父には会えないなんて事情を幼い子供が理解できるはずもない。

 

 結局天明に出来ることと言えば、故郷にいた頃と同じ。

 迷える人々を導くことだけだった。

 

 

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 自分は未来が見えるとうそぶく。

 そのうち嘘を暴いてやろうと正義感に燃える輩がやってくる。

 大げさなことを言う必要はない。

 明日嫁の妊娠が分かる。明後日寿司にあたって苦しむ羽目になる。

 その程度でも当ててやれば『あいつは本物だぞ』と噂になる。

 きっと大昔に先祖が信仰を集めた方法を繰り返すうちに、待ち望んでいたものが来た。

 

「その方ら……。大手門で騒いでいた田舎者に違いないな?」

 その男は幕府からの使いにしてはあまり侍には見えず、更に言えば帯刀すらしていなかった。

 町人とほぼ変わらない軽装には似合わない金の煙管をくわえ、立派な白髪を生やした老人だった。

 

「あら、先生!」

 茶屋の奥から顔を出した看板娘が老人に手を振った。どうも顔見知りらしい。

 この数週間、天明は下谷広小路の茶屋の前に居座っていた。

 と、悪し様に書けばそうなってしまうが、客足が増えるので茶屋の主人には喜ばれているし、動き回らずに済むので天明にとってもありがたい話だった。

 

「お茶と桜餅、それといつもの頼む。この童にも桜餅ね。……で、お前さん、腕のいい易者なんだって?」

 

「ええ」

 

「はは。違うだろ。ちゃーんと紀州に飛脚を飛ばして裏を取った。天蓋教だろう? その顔布はなんだ? どうやって前を見ている?」

 

「…………」

 幕府の使いにしてはぶっきらぼうだ。間に天宮がいなければ顔布を引っぺがしに来ていたかもしれない。

 だが大手門での騒ぎを知っており、飛脚を使ってまで正体を調べる程度の用意周到さもある。

 待っていたのはこの老人なのだろうか、と考えていると茶屋の娘が老人に頼まれていたものを持ってきた。

 

「さあ、俺が握った駒を当ててみろよ。未来が見えるってんならさぁ」

 看板娘が持ってきたのは将棋盤と駒の入った巾着袋だった。

 手を袋に突っ込みいくらかの駒を握って取った老人がこちらを試してくる。

 どうもこの老人は先生と呼ばれるくらいには名うての将棋指しらしい。

 いつもの、という言葉からも老人がこの縁台でよく指していることが伺えた。

 

「王将、飛車角2枚ずつ、金銀桂馬香車全て4枚ずつ、歩が18枚」

 この後老人は駒を並べて数えて驚く。

 その未来を見たのだから数を言い当てることは実に簡単だった。

 

「ほほーっ。へぇー。ほぉー。童、これ解けるか?」

 

「えっ、これ解けるの?」

 

「やってみな」

 無作為に握った駒から即座に詰将棋を作り出す。

 握り詰めと呼ばれるそれは、将棋に取り憑かれた者の中でも極僅かな人間しか持っていない特異な才能だった。

 

「未来、どうやって知るんだよ。教えてくれよ」

 

「他の人にはできません。なぜ未来を知りたいのですか?」

 

「そらお前、その方法を大橋家のヤツらに知られたら嫌だからな。ま! 他の人間に出来ないってんなら、それでいい」

 

「大橋家……?」

 

「まぁこっちの話よ。で、わざわざ紀州からここまで来て誰に会いに来た? 名前言ってみな? 会わせてやれるかもよ」

 どうやらこの男こそが天明が待っていた『江戸城内でもなお権力を持つ者』だったらしい。

 あの巨大な城に出入りする人間は立派な大小を腰に差し、背筋を伸ばして歩き、一目で名のある家の出身だと分かる侍ばかりだった。

 全くそうは見えないが人は見かけによらないもの。期待を込めて天明はその名を呟いた。

 

「新之助」

 ゴトッ、と鈍い音が響いた。老人の口から落ちた煙管が地面に当たった音だった。

 

「そりゃ……無理だ。事実だとしても……いや、事実なら尚更無理だ。気狂いだと思われて良かったな。ぶっ殺されなかっただけ運がいい」

 

「そう……ですか」

 老人は天明を田舎者だと言っていたが、江戸に来てそれが事実だとよく分かった。

 間違っても『新之助に会いたい』などと幕府の人間の前で口にしてはいけないのだ。

 せっかく頼んだ桜餅も口にせず、老人は地面から拾った煙管を咥えなおした。

 

「ねぇ、おじいさんに勝ったらさ。お父っちゃんに会わせてよ」

 

「ああ~? 俺に勝つだぁ~?? お前、俺が誰だか分かって――――…………」

 解き終わった詰将棋を見て老人が再び煙管を口から落とした。

 10歳の子供に出すには大人気無い15手詰めを、天宮は1分程度で解いてしまっていたのだ。

 

「童、惜しいな。男に生まれてたら養子に貰ってたところだ」

 

「ワッパじゃないよ。テンクウだよ」

 

「そうか。天宮、俺もただの爺じゃねえんだわ」

 

「あの……。幕府とどんな関係が……?」

 母の前で娘に養子がどうとよくも話せたものだ、という言葉は飲み込みようやくその問いを口にできた。

 

「よくぞ聞いた! 俺の名前は伊藤宗印。名人と呼ばれている」

 将棋三家の伊藤家の養子、鶴田幻庵。またの名を五世名人伊藤宗印。

 後の世に広く名を遺した伊藤看寿の父であり、歴代世襲制名人の中で最強と名高い棋士だった。

 

 江戸幕府を開いた徳川家康は将棋と囲碁を愛していた。

 囲碁の本因坊家・将棋の大橋家を始めとして名手に俸禄を与え将軍家のお抱えとした。

 俸禄を与えられた名手達は将軍の御前で対局を行うようになり、御城将棋と呼ばれる名家の戦いは明治維新まで続いた。

 

 世襲制ならば実力制に比べれば強くなかったのではないか、と言われることもある。

 だが年に何十と対局のある現代の棋士と違い、御城将棋は基本的に年に一度。

 たった一局の対局でその後の家の扱いも未来も何もかもが決まってしまう、絶対に負けられない勝負だった。

 想像を絶するプレッシャーの中で、文字通り奥歯を噛み砕き血を吐いた者すらもいたという。

 

 ただの将棋の強い子供。刀もまともに振れない。

 そんな子供が勝って勝って勝ちまくり、伊藤家に拾われ将軍の前で指すまでになったのだ。

 かつての名人を、宗印を誰が強くないなどと言えようか。

 

「名人……!」

 そこらの芋侍とは違い、必ず年に一度将軍と顔を合わせられる立場にある者。

 これ以上ない程に、天明が待っていた人物だった。

 

「天宮、俺も名人だ。何も平手で勝てとは言わん。二枚落ちで秋までに勝てたら、なんとかしてやろう」

 御城将棋は毎年11月17日に将軍及び老中の前で行われる。それを考慮したうえでの期限だったのだろう。

 あくまでプロとアマという垣根が出来てからの基準ではあるが、本気のプロに二枚落ち(飛車角抜き)で勝てたのならば全国のアマチュアの中でトップクラスの実力と言われる。

 その難易度を宗印が分かっていないはずがない。

 大人気ない詰将棋爺こと伊藤宗印はあらためて、大人気ない名人だった。

 

 

****************

 

 既に旅立ちから一年経っていた。

 伊藤宗印と天宮の連日の縁台将棋、そして天明の能力のおかげで寛永寺周辺は大きく賑わっていた。

 日に日に真剣みを増していく名人と天宮の勝負を、物見高い町人や暇な住職、果ては侍までも見に来ていた。

 

「なんて強ぇ娘っこだべ」

 

「あんの爺さん、名人だってほんとか?」

 

「ただもんじゃねぇのは確かよ」

 

 観客たちはこぞってお茶と桜餅を買って観戦しており、いつしかそれが観戦料のようになっていた。

 もっと近くで見たければ嫁にも子供にも買っていけ、と勝手な決まりが出来ていたのである。

 茶屋の主人は笑いが止まらなかった。

 

「天宮……なんて強さだ。まったく未来は明るいぜ」

 

 天宮のこの強さには理由がある。

 そもそも伊藤宗印が興味を持つまでもなく、天明は未来視の力が将棋や囲碁にも有利に働くことは知っていた。

 だが、天明は駒の動かし方を知っている程度の初心者だった。

 一方の天宮は、未来視の能力こそ無かったが類まれな賢い子供であった。

 天宮は将棋を教わって一日で母を負かしていた。

 

 特殊な一族の子供であるため、天宮には遊び相手がいなかった。

 才能に恵まれた将棋や囲碁も母が弱すぎてつまらない。

 詰将棋集を黙々と読むだけの娘を不憫に思い、あえて天明は未来視を解禁した。

 

 何しろ天宮が悩んで悩みぬいた先の一手が見えてしまうのだ。

 しばらく苦戦していた天宮が出した答えがこの形。

 

「ヒデェ形だ」

 

「どっちが勝ってるんだ、こりゃぁ」

 

「俺に分かるわけないべ」

 

 何が何だか分からない乱戦、そして入玉に持っていくことだった。

 指した手が見えたとしても、その手の真意が読み取れなければ意味がない。

 場が混乱していればしているほど一手一手の意味は分かりにくくなる。

 決して、決っして、将軍の前で指せるような綺麗な形の将棋ではなく、泥を啜り草を食らう野伏せりのような将棋。

 その形は名人とて家元の人間には馴染みがないものだっただろう。

 僅かずつ、そして確実に名人の感覚を破壊していた。

 連日の名人との対局で天宮の腕前も格段に上がっていたことも大きい。

 

「そんなにお父っちゃんに会いてえか」

 

「会いたい」

 

「……ごほっ」

 いつの間にか煙管を咥えなくなった口から漏れる小さな咳が、人の隙間を縫ってやたらと大きく響いた。

 入玉には入玉で返して殴り合いが基本だ。それがプロ同士であれば。

 駒落ちとはいえ、相手は10歳の少女。対して妖怪将棋爺などと好き勝手言われている男は褪せても倦んでも老いても名人なのだ。

 超格下相手に胸倉掴んで真っ向からの殴り合いなど、名人の名が許さなかった。

 もう一つ、乾いた咳に血が混じる。

 そして。

 

「負けました」

 数にして二百十二敗と重ねてようやくの一勝。それでも勝ちは勝ち。

 名人の投了を聞いた天宮はそのまま意識を失い将棋盤に倒れこんだ。

 

「文句なしだ。将軍の前に座るにはそれ相応の才能がなくちゃ話にならねぇ。お前にはその資格があるよ」

 高熱を出して気絶している天宮に語り掛ける名人は、初めて出会った時よりも老け込んでいるように見えた。

 名人としての矜持か、決して語ることは無かったが伊藤宗印はこの時病魔に冒されていた。

 一局終われば数キロ痩せることもある程に将棋の対局は体力勝負である。

 御城将棋の前に病気の人間が毎日のように外で対局をするなどほとんど自殺行為だった。

 

「約束は守る。老中にでも伝えておいてやる。近いうちにお呼びがかかるだろうさ」

 

「あの……」

 

「……子供に負けちまったァ」

 去り際の呟きを聞いていたのは天明だけだった。

 痰の絡む咳をしながら去っていく宗印の背中は小さかった。

 

 その年の11月17日、伊藤宗印は最後の御城将棋に出勤し大橋宗民との角落戦に敗北した。

 そして翌年の享保8年に死去している。

 

 なぜ伊藤宗印は高天原の親子と接触したのか。

 未来を知る力をライバルに知られたくなかったから、というのも見方の一つ。

 名人にまで上り詰め、息子たちも将棋の才能に恵まれ将来の名人として不足なし。

 一方で、病魔に冒され衰えていく身体、霞がかっていく頭。いつか近いうちに負けて死ぬことは分かっていた。

 宗印は人生の〆を探していたのかもしれない。

 

 

**********************

 

 伊藤宗印に勝利してからというものの、天宮はこの下谷広小路辺りではちょっとした顔になっていた。

 道行く人からは声をかけられ可愛がられ、時には何かを奢ってもらえる。

 父に逢いたいがために閉鎖的な故郷を飛び出し江戸にやってきたが、天宮はとても楽しそうだった。

 

「ねぇ、なんでうちはちょっと変わっているの?」

 茶屋前の縁台に座り、最近流行りだした寿司を食べながら、とうとう天宮はその疑問を口にした。

 外の世界を見たが故に、高天原一族の異様さを決定的に理解したのだろう。

 

「……いつか私たちの子孫が『ハル』という名前の人間に出会うの。私達一族にはその人を神の国に送り出す役目がある」

 

「…………? ハル……? 誰?」

 

「だけど天宮、それは巫女の役目。もしも……あなたが父と会えたのなら……」

 未来視の力を持たない天宮がその役目を理解できないのも無理はない。

 だがそれは別の言い方をすれば、天宮が無理をして高天原一族であり続ける必要が無いことも意味していた。

 天宮の役割は子孫を残すこと『のみ』であり、他には何もない。せっかくここで示したような才能に恵まれているのに。

 こちらに来てから良くも悪くも天宮の世界は広がった。そしてその姿は子を持つ全ての親が望んだ形でもあった。

 

 そうしたいのなら――――そう言葉を続けようとした時、二人の元に侍がやってきた。

 天宮が意地で動かした歯車。幕府から二人に声がかかったその日は、御城将棋の翌日であった。

 

 

 呼ばれたのは江戸城から少々離れた屋敷だった。

 老中・役人・侍達の鋭い視線が、畳に頭を付ける二人に刺さっていた。

 何か異様な雰囲気に丁度耐えられなくなった頃、老中は名乗ることもせずに淡々と話し始めた。

 

「伝説の博徒と嘯く痴れ者がいた。賽の目が必ず分かるとのたまい、城下街の一角で英雄のように崇められていた。幕府に登用せよという声が日に日に大きくなっていった」

 

「…………?」

 

「だが調べてみれば、なんてことはない話だった。街一帯を買収して伝説を作り上げていたのだ。あの手この手で間者は入り込もうとする」

 老中の目は静かな殺意に満ちていた。

 

 武士道という概念は時代の変遷と共に変わっていった。

 御恩と奉公といういわゆるギブアンドテイクが成り立たなくなったのだ。

 徳川家により日本が統一されているため、今まで戦で勝ち取ってきた土地金女が基本的にはなかったからだ。

 

 漠然とした共通認識だった武士道は儒教思想に基づいて体系化され、『「奉公」とは「御恩」の対価である』とするような実利的なものから、名誉を何よりも重んじ、主君への絶対的な忠誠を要求する観念的なものへと変化していった。

 いずれも時の支配者に都合のいい概念であった。

 

 ならば250年続いた江戸時代は平和だったのか。

 そんなはずもなく、争いは存在した。

 特に苛烈だったのか商人達による御用達の地位の奪い合い。

 そして次世代将軍の座の奪い合いであった。

 

 江戸幕府第八代征夷大将軍、徳川吉宗。もしくは紀州徳川家の新之助。

 なぜ彼が格上の尾張徳川家を差し置いて将軍となれたか、その理由は現代でも定かではない。

 

 神君・徳川家康の血を継ぐ者たちは争い続けた。

 徳川十五代将軍の中で、吉宗は最も可能性の低い出自から将軍になった男だった。

 その中で、将軍に近づこうとする正体不明の女など、生かす理由を探す方が難しかった。

 

 

「未来を知るという言葉が真なら、貴様はここに来てはならなかったのではないか?」

 心待ちにしていた人物との再会はどうなるか。

 もしも未来が分かる力があったとして、人間の心理的にその未来を前日の夜に覗いたりする者は多くないだろう。

 天明は未来視の能力を授かりながら、あまりにも普通の人間の感性をしていた。

 それが致命的だった。

 

 天明が見た数秒後の未来。

 天井裏から、障子の向こうから、無数の弾丸に貫かれている我が子と己の姿だった。

 咄嗟に天宮を押すのと同時に未来が訪れた。

 

「将軍に集る虫は排除せねばならぬ」

 

 代々うだつの上がらないへぼ侍の家に舞い込んだ幕府からの命令。

 僅か四人しかいない老中の一人が屋敷を借りたいと言ったのだ。

 へぼ侍の母は狂喜乱舞し2日かけて埃ひとつ残さぬよう隅々まで掃除をした。

 

 そしてこの日の為にわざわざ換えた畳には無残な鮮血が飛び散っていた。

 

 だが天明は死んでいなかった。

 あの状況から死を免れることは不可能でも、即死を避ける未来を選ぶことだけはできた。

 懐から血に染まった銀の短剣を取り出した天明は、ほとんど動かなくなっていた娘に短剣を突き刺した。

 

「何をしている!?」

 

「面妖な……!」

 天宮の身体が黒い霧で覆われた。

 その霧の粒子は一つ一つが小さな正方形であり、はたまた科学の発達した時代の人間から見れば高度な3Dモデルの崩壊にも見えただろう。

 最早幾許もない命を燃やし天明は血を巻き散らしながら座りなおした。

 

「幕府もいつか崩壊する。お前たち侍の子孫は幕府に付く負け犬か新政府に付く裏切り者にしかなれない。お前たちの時代はもう長くない」

 

「貴様……なぜまだ生きている!?」

 

「子々孫々に伝えろ。この国はいつか――――」

 この場にいる人間には確かめようのない150年後の確かな未来を語る天明の首が、ぽとりと畳に堕ちた。

 

「冬が終わったら春が来るとか、氷はそのうち解けるとか。そういうのって予言とはいいませんよねぇ」

 ひげむくじゃらの大男が刀に付いた血を払い納刀した。

 その場にいる大小差した侍の誰もが男が抜刀する瞬間を見ていなかった。

 

「山田! 何を勝手なことをしている!」

 

「これ以上は時間の無駄でしょう。それとも死ぬまで巻き散らす怨嗟を聞きたかったんですか?」

 

「いや……。ご苦労」

 

 男の名前は山田浅右衛門吉時。

 幕府の処刑人、山田浅右衛門の二代目であった。

 

 侍ですらないというのに慇懃無礼な態度だったが、それを咎める者はいなかった。

 処刑人浅右衛門に誰もが得も言われぬ恐怖を感じていた。

 

 日本最強の侍は誰か。

 ほとんどの人間は宮本武蔵と答えるだろう。

 

 ならば日本で最も人を斬ったのは誰か。

 それは宮本武蔵でも塚原卜伝でも伊藤一刀斎でもない。

 歴代山田浅右衛門の誰かになるだろう。

 

 山田浅右衛門の役目は罪人の斬首と御様御用、つまり刀剣の試し切りであった。

 どの国でも処刑人に求められるのは、罪人の最後の尊厳を守るために一撃で首を落とす確かな実力だった。

 時には将軍に献上される刀ですら試し切りを行う歴代山田浅右衛門には、誰よりも剣の実力が求められていた。

 その役目の難しさを物語るように、山田浅右衛門の名は世襲ではなく実力で選ばれた弟子に受け継がれてきた。

 

 表向きは天下泰平の時代に人斬りの実力を求められるという矛盾。

 切捨御免という特権は与えられても実行する者も認められる例も少なかったため、腰の大小を錆びさせるばかりの侍も多々いたという。

 そんな時代に山田浅右衛門は人を斬ることを役目としていた。

 来る日も来る日も斬って斬って斬りまくり、時には将軍の前で三つに重ねた死体を一太刀で斬る技を披露することすらもあった。

 

 所詮縛られた罪人の首を落とすだけではないか。

 そんな事実を口にするのも憚られる程に、山田浅右衛門の纏う人斬りの気配は濃く、まとわりつくように重いものだった。

 

「さぁさぁ。女子供の惨殺死体など見ていても仕方がない。何かあったときに斬る代わりに、死体はあたしに任せてくれるという話でしたでしょう」

 

「……任せるぞ」

 殺しを命じた張本人としても、女の生首を眺め続けるのは気分が良いものではなかったのだろう。

 足早に去る老中を皮切りに、役人も侍も次々と屋敷を後にした。

 

 人を斬る代わりに死体の処理を任せる。

 現代の価値観ではとても釣り合いが取れていないように聞こえるだろう。

 

 倫理や道徳という何の役にも立たない価値観以外で、そもそも現代人が人を殺さない理由は2点ある。

 法で裁かれるため。そして法の裁きから逃れるための死体の処理が面倒であるためだ。

 暴力が法によって制限されなければ、人は驚くほど簡単に人を殺す。

 

 そして刀は人を斬ってこそ刀である。決して木や竹を切る道具ではない。

 それは現代人も同意するところだが、江戸時代も同様の価値観であった。

 しかし次々と打たれる刀に対し、斬ってもよい人間の数が圧倒的に少なかった。

 

 そこで山田浅右衛門は死体を引き取って修復し、試し切りを行いたい人間に死体を売って収入を得ていた。

 また、人間の臓器から流行り病に効くといわれた丸薬も製造していた。

 この時代、正しい使い道を知り販路を持つ人間にとって死体は金になった。

 その事実からも分かる通り、倫理や道徳など100年もすれば大きく変わり役に立たなくなるものなのだ。

 

「さぁ、後片付けをしますか」

 屋敷に残ったの浅右衛門と僅かな下っ端侍のみであった。

 その中にはこの屋敷の主人である侍も含まれていたが、斬首を初めて前にして未だに顔を青くしていた。

 喜んで貸した我が家が酷い惨状になった侍に声をかけるでもなく、浅右衛門は天明の顔を覆っていた顔布を捲った。

 そしてすぐに顔布を元に戻していた。

 

「……とうとう人間以外も斬ってしまった」

 

「なに?」

 

「いいえ、別に。ところでその短刀……あたしに渡した方がいいですよ」

 天宮の遺体に刺さっていた銀の短刀をそっとしまっていた侍を浅右衛門は見逃さなかった。

 浪人風情が何を言う――――そう凄もうにも、黒目が異様に大きい浅右衛門の視線に射抜かれ侍は口をつぐんでしまった。

 

「それ、妖刀です」

 

「妖刀……? 村正や鬼切丸のような?」

 

「それに突かれたら極楽にも地獄にも行けません。まぁ、妖刀以外にうまい表現が見つからんですね」

 

「わ、分かった」

 

「あとはあたしがやりましょう。死体の傍に居続けるのは気分が良いものではないでしょう」

 果たして浅右衛門の言葉通りだったらしく、下っ端達も死体から逃げるように屋敷から去ってしまった。

 侍の時代は長くない――――人殺しの道具をぶら下げてそんな姿を見せる侍たちに、浅右衛門は天明の言葉を思い出していた。

 

「あれ以上撃たれてたら、もうあたしにも直せなかったですからねぇ」

 

 その後浅右衛門は天明と天宮の遺体を丁寧に修繕し、紀州の高天原一族当主代理である天呼の元に自腹で送り届けた。

 天明が遺した銀の短刀はしばらく歴代山田浅右衛門が管理していたが、四代目山田浅右衛門・吉寛が浅間山の火口近くに埋める姿が目撃されている。

 1000人以上の命が失われた大噴火、通称・天明大噴火の前日であった。

 

 

 二代目山田浅右衛門は徳川吉宗の前で幾度も試し切りを披露しており、親しい間柄にあったという説もあるが詳しい事実は分かっていない。

 

 

 

**************

 

 File No.219798

 

 徳川吉宗

 

 後世では『暴れん坊将軍』として有名。

 その二つ名に違わず幼少期は手に負えない暴れん坊だった。

 体格に非常に恵まれ、剣の腕前も柳生新陰流の名手だったという。

 

 吉宗の紀州徳川家は尾張徳川家よりも格が低く、吉宗は長男ですらなかったため次期将軍の座からは非常に遠い存在だった。

 吉宗が将軍になれた理由は様々な説が語られている。

 

 五代将軍徳川綱吉に目をかけられていたから

 尾張忍者よりも優秀な忍者を抱えていたから

 大奥を味方につけたから

 紀州で腕のいい易者と出会ったから

 

 はっきりとした理由は明らかになっていない。

 

 

 

 

 File No.879154

 

 山田浅右衛門

 

 江戸時代に処刑人および刀剣の試し切り(御様御用)を務めた山田家当主の名乗り。

 首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれ畏れられていた。

 

 罪人が斬首される前に辞世の句を詠む事はままあったが、初代・二代目は武骨一辺にして無学であったため辞世の句が理解できなかった。

 教養の無さでたびたび恥をかいた三代目山田浅右衛門・吉継は罪人の死と自身の役目に真摯に向き合うため、俳人の門弟になり教養を身に着けた。

 そういった経緯から吉継以降の山田浅右衛門は辞世の句を残すようになった。

 

 処刑の対価は多くなかったが、死体の処理により収入を得ており山田家は大変裕福だった。

 また、御様御用はれっきとした幕府の役目であり、弟子には大名家の家臣や御家人もいた。

 他国での例から考えてもそれなりの地位にあってしかるべき役職だが、山田家は斬首刑が廃止されるまで浪人のままだった。 

 その理由は明らかになっていない。

 

 

 

 ひぐらしや 地獄をめぐる 油皿

 四代目山田浅右衛門・吉寛

 

 

 

**************

 

 Chapter6 神無月

 

**************

 

 Most people at some point in thier history have believed that the dragon was real.

 The source of the dragon, however, is a mystery.

 How can something so impossible exist in the art, mythology, religon and legend of so many places?

 

 (訳)

 ほとんどの人は、歴史のどこかでドラゴンが実在すると信じてきた。

 しかし、ドラゴンの起源は謎である。

 芸術、神話、宗教、伝説の中に、どうしてこんなにもあり得ないものが存在するのだろうか?

 

【引用】

 An Instinct for Dragons

 David E. Jones (著)

 

 

**************

 

 未来を視る巫女と江戸幕府の将軍との間に生まれ、政治的理由から理不尽に殺され、月に放り出された。

 この高天原天宮ほど数奇な人生を送っている者は他にいないだろう。

 だが慰めの言葉も浮かんでこないほどに過去を語るテンクウの声色はあっけらかんとしていた。

 

「お父っちゃんはね、普通のおっちゃんだった。こっちの世界に来てから見れたんだよ」

 その後なぜ龍になったのか。なぜ月で生きていられるのか。

 この機械は結局なんなのか。そもそも女の子だったのか。

 知りたいことは沢山ある。だがまずは何より――――汐音は口を開こうとして踏みとどまった。

 

(話が進んでしまう!!)

 話ではなく、物語と表現してもいいし、タイムラインでもいいし、歯車でもいい。

 波瑠がこちらの世界に来てからまだ数時間しか経っていないのに、次々に謎が明かされ次の謎が出てきている。

 それもそのはず。今のテンクウの昔話でいよいよもって波瑠がこの世界の主人公であることが確定してしまった。

 その物語を汐音の手で進めたとして、もうそろそろついていけなくなる予感がする。

 せっかく、ようやく二人きりになれる時間も空間も手に入れたのに。

 このまま走り続けてどこへ行くつもりなのだろう――――汐音の躊躇も気持ちも知るはずがなく、波瑠はその疑問をテンクウに投げかけていた。

 

「俺をこの世界に送るため……!?」

 

「うん」

 

「なんでだよ!」

 

「え~、怒んないでよ。ハルと会うのすっごい楽しみにしてたのに……。そんなこと聞かれても、おれ知らないもん」

 

「ハル! テンクウに怒鳴んないで!」

 テンクウが実際のところ何歳なのかは分からないが、言動を見ていると身体はこんなことになってしまっても心は子供のままなのだ。

 それも当然、なにしろこの世界には成長の機会がない。いるのは機械的な反応をするポンコツロボットとのんきな動物だけ。

 そのことを遅れて理解できたのか、波瑠のボルテージが下がっていく。

 

「……ならテンクウ。お前が最初にこの世界に来た時、何があった?」

 

「最初? ロボとタマがいたよ」

 

「犬とカピバラは?」

 

「タロとチュウ次郎は後から出てきた」

 

(そうなの!?)

 どれだけの期間が開いていたのか分からないが、この世界に猫とロボットしかいない時間があったということになる。

 その間にタマがあの機械をデタラメにいじって世界の一つや二つ消し飛ばしたりしたかもしれない。

 世界の終わりというものがあるとして、それが理不尽なものだろうと予想はつくが、猫のイタズラで消えるなんてあんまりすぎる。

 

「なるほど……ロボ。お前を作ったのは誰だ? 人間か?」

 

「ロボはそういうこと答えてくれないよ。おれも前きいたことあるもん」

 

「ホウライハカセ」

 その答えに誰よりも驚いていたのはテンクウだった。

 そんなことはこの世界に送られてすぐに質問したことは予想が出来るが、まともに答えてくれなかったのだろう。

 

「まだ生きているのか? どこにいる?」

 

「ネテル。アッチ」

 ロボの安っぽいアームが指した方を全員が見る。

 他に生きている人間が月にいる、それもこの世界のことを知っている人間が――――何故か鳥肌が立った。

 

「なんでおれには答えてくれなかったの?」

 

「ハルニ オシエルカラ」

 

(またハルか……)

 一体波瑠の何がそこまで重要なのだろう。

 あの宗教の目的はなんだったのか、そもそも『悪』だったのか。

 恐らく同じことを考えているであろう波瑠がロボの示す方へと歩き出した。

 

「行くか」

 

(…………)

 待ってくれと言いたい。この世界に来てから雑談の一つだってしていないではないか。

 なぜこんな世界でもまだその先を見ようとするのだろう。

 まるでそれこそが自分の使命かのように。平凡な範疇に生まれた汐音には理解しがたく、激しく疎外感を感じてしまう。

 だとしても結局そう。この疑問に向き合わなければ待っているのは永遠の停滞だけなのだから、ついていくしかないのだろう。

 

 

***************

 

 天蓋教は波瑠にとって悪であり、汐音にとっても害でしかなかった。

 だがそれは機械の中での話。こちらの世界を『真実』『現実』として改めて考えると違った見え方も出てくる気がする。

 

 あの宗教がずっと昔から波瑠を待っていたことは間違いない。

 波瑠をこの世界に送ることこそが目的だったのだ。

 ならばなぜ波瑠に対してあんな仕打ちをしていたのだろう。

 生きた偶像扱いして全てを奪い波瑠を憎しみの塊にした。

 波瑠に課せられる使命がなんであれ、こんな世界で孤独に挑むミッションがあるのならば英雄扱いでもおかしくないのに。

 

 汐音はある異様さを波瑠に感じていたが、本人には言わないようにしていた。

 ある異様さ――――それは波瑠が元いた世界にほとんど興味を示していないことだった。

 

 テンクウがそうしたように、汐音も最初はあの機械にしがみついて家族を探し、友人を探し、波瑠を探した。

 だが波瑠にはそんな相手がいない。全て奪われている。残ったのは憎しみだけだが、それもただのデータとなれば最早どうでもいいのだろう。

 波瑠のこの状態こそがあの教祖の目的だったとしたら。何か、言葉にしたら恐ろしい何かが形になり始めていた。

 

(けっこう歩いたかな……)

 ロボに従うままにたどり着いたのは巨大なクレーターだった。

 とはいっても月にクレーターなど珍しくないが、本の虫の波瑠にとっては違ったようだ。

 

「このクレーター、もしかしてティコじゃねーか?」

 

「ソウダ。ティコ」

 

「なにそれ?」

 

「月にも地名があるんだよ。地球からでも見えるくらいデカいクレーターだからな。デンマークかどっかの学者の名前が付けられた」

 

「そういえばロボよくこっちのほうに行ってるよね。何も無かったと思うけどなぁ」

 

「オイ ツイタ」

 テンクウの言う通り、見渡す限り特に何もないのにロボは着いたと言っている。

 やっぱこのロボットも壊れているのかなと思いかけたその時、ロボが消えた。 

 

「なんだ!?」

 

「えっ、えっ! なにこれ!」

 ロボが消えた方へと伸ばしたテンクウの手も消失している。その反応を見るに痛みなどはないようだ。

 試しに汐音も恐る恐る手を伸ばしてみると、目には見えない境界があるようでそこから先に入ると外からは何も見えなくなるようだ。

 間違いなく何かが意図的に隠されている――――何かなどとは考えるまでもなく、ロボのいう『蓬莱博士』だろう。

 

「……家?」

 いわゆる電磁クロークで隠されていた空間には一軒の家が佇んでいた。

 ただし家といっても汐音が自分の為に出したような一軒家ではなく、月面に最適化されたドーム型の家だった。

 周囲にはいくつものソーラーパネルが設置されており、半球型の屋根には瓦などはなくガラス張りになっている。

 入り口を認識する前にロボがアームをかざして中に入っていったのでその後に続き二人も中に入った。

 

「うわっ! タバコくさっ!!」

 五感の中でまず最初に反応したのが嗅覚だった。

 駅前の喫煙所の倍以上のタバコ臭さは、当然喫煙者ではない二人にはむせ返るほどのダメージがあった。

 咳こんでうつむいた視界に入る黄色い床はもしかしてヤニで変色してしまっただけで元は白かったのだろうか。

 そして次に目に入ってきたのは――――

 

「イタ。ホウライハカセ」

 

「い……岩じゃねーか……」

 

「これ……もしかして人間なの?」

 奇妙な形をした岩。そうとしか表現のしようがなかった。

 こちら新進気鋭の彫刻家による石像でございます、と発表しても誰も疑わないだろう。

 ロボがまるで喜びを表現するかのように石像の周囲をぐるぐると回っている。

 周囲には見たこともない機械――――恐らくは汐音の知る世界より遥か未来のテクノロジーが無数にあるが、視線が滑って頭に入ってこない。

 そちらへの興味よりも『考える人』の形で動かなくなっている人間の方がよほど大事件だった。

 

「ホウライハカセ。オレノ タッタヒトリノ トモダチ」

 

「おれはー!?」

 意外と天井のガラスは薄いのか、ロボの心無い言葉はテンクウに聞こえていたらしく上から文句が聞こえた。

 

「テンクウ コドモ。ホウライハカセ ジョーク ウマイ。イマハ ネテルケド」

 

(寝てるだって……?)

 テンクウはよく眠るが、既にその睡眠時間は寝過ぎという言葉では足りなくなっている。

 そして大体15時間も眠るとテンクウの身体は岩に覆われ始める。

 飲食も必要ないし仕事もない、本当に何もない世界で永遠の孤独だけがあったのならばどうなるのか。

 汐音と遊ぶのが楽しいとはテンクウは言っていたが、もし無限の退屈を紛らわせるために眠り続けたらどうなるのだろう。

 その答えがこの姿なのではないか。天井を見上げるとガラス越しに絶句しているテンクウの姿が見えた。

 おそらくはこの末路に対する心当たりが高速で頭の中を駆け巡っているのだろう。

 

(この人も龍になろうとしてる……)

 最早完全に岩になってしまっているが、身体の部分部分のパーツから男だったことがまだ分かる。

 身長は3mほどであり、額からは一本角が生え、顔はほとんど龍のそれとなってしまっている。

 この世界の人間の末路がだんだんと分かってきた。龍に成るか、岩になるか――――どちらにしろ人間ではいられなくなってしまったのだ。

 

「寝てるんだよな?」

 

「ネテル」

 

「どうやって起こすんだ?」

 

「シラネ」

 

「……ぞっとしない結末ね」

 軽く拳で叩いてみるが当然のようになんの反応もない。

 石像以外の何物でもない。そう思えるほどに生命の気配を感じない。

 汐音が岩になった蓬莱博士とやらを観察している間、屋内にあるものを物色していた波瑠が何か奇妙なものを見つけた。

 

「なんだこの変な虫は……」

 

「デカっ。キモ……」

 恐らくは真空になっている瓶の中で死んでいるその虫は一目見た感じでは蛾のように見えた。

 だがやはり何かがおかしい。足は6本ではなく8本あり、背中以外に腹からも羽が生えている。

 そしてその目からは白い紐のようなものが飛び出ており、まるで触覚が4本あるかのようだ。

 今更こんな情報はおまけ程度でしかないか、かなり大きい。波瑠の手程の大きさがある。

 感覚がマヒし始めているが、汐音の知っている世界だったらこんな虫が見つかった日には大騒ぎになる。

 

「……これ、目から出てるヤツ……オマトコイタか?」

 

「なにそれ?」

 

「ニシオンデンザメの目に寄生する寄生虫だ。そいつによく似てる。地上にはいないはずだけど……。あの機械、ひょっとして映っているの本物の地球か?」

 人の動きを感知してスリープから起動したのか、ある機械が地上の映像を映し出していた。

 そしてやはりと言うべきか、映っている映像からは全く人間の気配を感じない。

 

「ソウダ。チヒョウ カンサツ シテル」

 

「なるほど、ドローンか何かが飛んでるのか」

 波瑠がパネルを操作すると画面が動き出した。

 映し出される映像がどんどんと地表に近づいていくが、汐音はある違和感に気が付いた。

 

(いや、なんで操作できるの??)

 確かに機械のパネルのデザインそのものやドローンの遠隔操作なんかも、汐音の知る技術から隔絶しているようなものではない。

 時間をかければ汐音でも操作を覚えることが出来るだろう。分からないのは、まるで最初から知っているかのように波瑠が動かせていることだった。 

 

「何だあれは……。雲かと思ったら……砂嵐か?」

 

「…………。なんかバチバチしてない?」

 ドローンの映す映像の方角は大災害級の砂嵐に襲われていた。

 おまけに吹き荒れる砂塵は帯電しており、大地に根を下ろすあらゆる生命体や構造物に絶望的な破壊をまき散らしている。

 地表には短い草しか生えていないが、その理由がよく分かった。木が生えたところで根こそぎ刈り取られてしまうのだ。

 

(もしかしてアレが地球規模で起きているの?)

 そんな最悪の想像が自然に出てきてしまう程に、この星からは生命の気配が感じられなかった。

 

「ん……? なんだ?」

 海の中から何かが浮かび上がってきた。

 距離感が掴めず最初はシャボン玉か何かかと思ったが、何かがおかしい。

 宙に浮かぶ球体ではあるが、大きすぎる。

 

「機械か? 一体なんの……?」

 白から赤へ、赤から黄色へ、黄色から青へ。

 自然にはあり得ない振り切れた色味に切り替わり続ける球体がいくつも海から浮かび上がってくる。

 まるで回線が途切れ途切れの状態で見るアニメのように、カシャカシャと形が切り替わっていく。

 球体が急に三角錐型になったかと思えば正四面体になり、ボコボコと穴が空き始め見る見るうちにフラクタル幾何学的な構造になっていく。

 何が目的の機械なんだという当然の疑問に答えようとするかの如く、二人が良く知る戦闘機の形になったり――――

 

「ひっ」

 ある球体は急に人の形を象り始めた。

 己のあるべき形を模索するかのように色や形を組み替え、時には他の球体と合体し、時には弾けて分裂している。

 

「シゲキ スルナ」

 

「あ、ああ……」

 ロボの言葉を受け、波瑠はなるべく遠回りをしてドローンを大地に近づけた。

 海から出てきた謎の機械は、五本指では表現できない生物を表そうとしている手のようにもがいていたが、やがて空中で集合し一つの巨大な球となった。

 今もボコボコと表面に蛇であったり魚であったり鳥であったりと、この地球に存在したありとあらゆる『形』に成ろうとしているが成りきれず、やがて落ち着き始めた。

 

「俺の思ってた世界の終わりと全然違うな」

 中に数千万人の兵士がいるかのように、無数の槍を出したかと思えば今度は表面にブツブツと文字が浮かび上がった。

 自分が知らないだけかもしれないし、あるいはこの現実における標準語がそうなのかもしれないが、とにかく汐音の見たことのない言語だった。

 

「……ねぇ、さっきから思っていたけど」

 

「ん?」

 

「動物いなくない?」

 

「確かにな……。ん? いや、なんかいるぞ」

 汐音の期待していた動物ではないが、草原と表現するには全く足りない草の上にネズミがいた。

 ちょろちょろと走り回っていたが、見つけた餌を手に持ち周囲を警戒するかのように立ち上がって食べ始めた。

 

「……? なにあの目……」

 形は自分の知っているドブネズミそのものだが、両の目から何やら白く輝く紐のようなものが出ている。

 それだけならまだいいが、その紐もまた意思があるかのように独立して動き周囲を忙しなく観察しているのだ。

 ここで瓶詰めにされている謎の虫にもついている寄生虫にそっくりだ。

 その時、画面端に目的が分からないあの機械が映り込んだ。

 

「うわっ!!」

 球体型の機械が発した光線がドローンのすぐそばにいたネズミを木っ端みじんにした。

 巻き込まれて壊れてしまったのか映像が途切れた。

 

 二人はしばらく言葉を発することが出来なかった。

 正確に言えば違うのだが、自分たちの故郷であるはずの地球が、一個の意思ある生命体として極めて疎外感を感じる場所に成り果ててしまっていた事実をどう受け止めるべきか分からなかったのだ。

 やがて何かを考えていた波瑠は、蓬莱博士とやらを布巾で磨いているロボに声をかけた。

 

「おいロボ。この蓬莱博士、何か残しているだろ。メッセージとか、あるいはメモとかさ」

 

「ドウガアル」

 

「動画あんのかよ! なんで言わねえんだ!!」

 

「ロボはロボだから、そういうの自分から言わないってヤツじゃないの? テンクウ」

 

「…………」

 天井から覗き込んで見ていたテンクウは何も言わなかった。

 次から次へと新事実が明かされ、長年の友だったはずのロボをどう評価していいのか分からなくなってきたのだろう。

 

「ミルカ?」

 

「「「見る!!」」」

 ロボはロボだと分かっていても、彼(彼女?)に対してここまで全員の思いが一致したことがあっただろうか。

 三人の回答を受け取ってしばらくその辺をうろうろしていたロボは、やがて壁面に光を投影しだした。

 

 

***************

 

 カメラの前に座った男は気だるげに右手を上げた。

 全ての歯は鋭い牙になっており、瞳は縦に長く黄金色をしている。それでもまだ骨格は人間のそれだった。

 髪はまばらにしか生えておらず、黄色い鱗は完全に身体を覆ってはおらず一部から人の肌が見えていた。

 蛹の中で溶けて形を変える蝶のように、変身の途中というのが一番醜い。

 見る者によってはそんな感想を抱くだろう。

 

「タバコ……」

 

 身体が大きくなりすぎて、羽織っているだけだったYシャツの胸ポケットから煙草を取り出す。

 口から火を吹いて着火したタバコを口に咥えるが、牙の隙間からどんどんと煙が逃げて行ってしまっている。

 

「喜ぶべきか悲しむべきか……。この動画が再生されてるってことは、俺は永遠に眠っちまったわけで……。まぁいいや。俺の名前は蓬莱弦技(つるぎ)。2360年に日本で生まれた。3歳の時に親の都合で中国に行って、9歳でアメリカに行った。そのあと飛び級してな、16歳で大学生になった。それからはずっと神経生物学者をやってた。……映ってるよな? ロボ」

 

 画面端からロボのアームが映り込む。

 ロボのジェスチャーを受け取って蓬莱博士は言葉を続けた。

 

「この動画を見ている『お前』を生んだHAL-ATHENAも、ロボも俺が作った。俺の知っている限りのことを説明するから聞いてくれ。なぜこの世界はこうなったか。なぜ身体が変わっていくのか。本当に人類は滅びたのか。HAL-ATHENAの目的は何か」

 

 再び画面端から何かが映り込む。

 かぎしっぽをしたオスの三毛猫――――テンクウがタマと呼んでいるデブ猫だった。

 蓬莱博士のあぐらの隙間に入りこんだタマは、飼い主が真剣に話していることも気にせず毛繕いを始めた。

 

「お前は25世紀生まれか? それならラッキーだ。この世界ではな、25世紀になる前に隕石が地球に落ちてきたんだ。運悪く富士山に直撃して大噴火だ。関東は消し飛び地球の平均気温は12度下がり、あちこちで帯電性の砂嵐が発生するようになった。当然作物の収穫量は壊滅的になってしまい、人々は残り少ない食料を巡り戦争になって種の寿命をますます縮めた」

 

 タマに気を使ったのか、まだまだ残っているタバコを指先で握りつぶした。

 しかしその10秒後には胸ポケットにあるタバコを取り出しており、一瞬固まってしまいなおした。

 言動の『言』はともかく、『動』は典型的なニコチンに頭をやられた中毒者のそれだった。

 

「おかしなことになりはじめたのはそれからだ。いくつかの動物が進化を始めた。一番反応が激しかったのはカイアシ類のオマトコイタだった。理由は分からん。分かる前に人類の危機になっちまったからな。海にしかいないはずのオマトコイタは陸や空のあらゆる生物に寄生をするようになり、宿主の行動を操り爆発的に繁殖したんだ。既に世界人口の九割九分を失った人類はその対策を機械に任せた」

 

「そして進化は人間の身体にも起き始めていた」

 

「ところで『パンスペルミア説』って知ってるか? ヒト、猫、昆虫、魚、ウィルス……地球に蠢く全ての命。その始まりは隕石に付着してやってきたという説だ」

 

「そうだ。今回の隕石にも付いていたんだよ。SPAN……Selection Pressure Adaptive Nanomachines、日本語にすると淘汰圧適応ナノマシンってところか。そいつが富士山の噴火で地球全土に散って生物の強制進化を促したんだ」

 

「24世紀後半の人類をして、SPANは未知の――――そして遥かに高度な技術の結晶だった。それが分かった頃には人類はもう一万人もいなかった。進化していく生物の狂乱、変わりゆく人類……そしてそれほどまでに急激な進化を促す過酷な環境に、人類の進化は追い付けなかったんだ。地球はもう、人類が生きていける場所ではなくなっていた」

 

 結局我慢が出来なかったようで、とぐろを巻いて寝始めたタマをそっと遠くにどかした蓬莱博士はタバコを再び吸い始めた。

 5分そこそこしか感覚が空いていないというのに、肺の隅々まで煙を吸い込んで、あろうことか涙目になっていた。

 

「次。人の変化について話そうか。仮説だけどな。俺は神経生物学者って話したろ。具体的には生物の睡眠について研究していた」

 

「……久しぶりの授業だぜ。俺の給料に関わってくるから、アンケートには良いことしか書かないように! なんてな」

 

「冗談はさておき……神経系を持つ全ての地球生物は眠ることが確認されている。研究の結果分かったんだが、これ実は逆でな、生物は眠っているのが自然なんだ。睡眠が一番エネルギーの消費が少ないからな。でも消費が少ないといってもいつかは尽きるから、動いてエネルギー補給しなければならない。眠っているのが生物の自然で、進化の過程で動くようになったんだ。もしもエネルギーが必要なく永遠に存在できるなら全ての生物は眠り続ける。それが自然だ」

 

「そしてSPANはより自然に、より強い形に人間の進化を促した」

 

「この世界における強さとは何か? それは可能な限り長く存在することだ。存在するということは情報を残すことだ。一秒でも長く、未来へ。弱きものは滅び、強きものは残り続ける。だが、百年生きる生物はいても一万年生きる生物はいない。……これが強さの限界なんだろうか?」

 

「話を少し変えよう。どうすれば俺たちは情報を未来に残せるのか? 形あるものは滅びる。人間がどれだけ進歩しても、数千年先に残せた媒体は結局文字の刻まれた岩くらいだった。1000PBのデータが入るハナクソみたいなメモリーチップがあっても、100年後にはぶっ壊れて塵になってる」

 

「誰が誰と出会って、誰を愛して、誰を憎んで……そういう全て、何もかもが消える!」

 

「情報を残す一番確実な方法は、情報自身に自分の身を守らせて複製させることだ。そうだ、生物の身体に刻まれたDNAだ。命も感情も情報を未来に残すための箱舟でしかない。俺たちの身体に深く刻まれた情報を果ての果てに伝えるために、命は生きるんだ」

 

「そしてSPANはより自然に、より強い形に人間の進化を促した。……二度目だな」

 

「人類数十万年の歴史が塗り替えられていく。途轍もない速度で進化していく。強靭な身体の龍人へ。頑強な鱗に覆われた龍へ。最後は岩だ。生物としての情報を持つ岩。半永久的に不滅だ。動かないしかない。あるいは星が滅びても、宇宙をさまよい続けるのかもしれない」

 

「地球の人間はな、絶滅したんじゃないんだ。正しく死ねたヤツ以外はみんな岩になっちまった。掘り返せば今もあちこちに埋まって眠っているぜ。だけど削り取って調べれば遺伝子情報もDNAも取れる。完璧だ。完璧で永遠の生命なんだ」

 

「…………。共感覚って知っているか? 音に色が付いているように感じたり、文字に匂いを感じたりする知覚領域を持つ人間のアレな」

 

「大学に誰もが天才だと認める女がいた。俺は……生まれて初めて自分よりも優れている人間に出会った。そいつは共感覚の持ち主だった……」

 

「科学は誰もが確認・再現出来てこそ科学だ。だからヤツはそれを発表したりはしなかった。笑いものになるだけだからな」

 

「曰く、彼女はDNAを文字のように感じていたらしい。DNAのヘリックス構造……ゲノム解析の結果がどうしてか一連の文章になっているように見えていたんだ。だからこそ彼女はその世界で才覚を発揮した」

 

「全ての生命はDNAを次世代に受け継がせている。鳥には鳥の、虫には虫の、人には人の、それぞれが運んでいるメッセージを彼女は読んでいたんだ」

 

「『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』。俺たちはこのメッセージをどこから受け取ってどこへ運ぶのか。生命の最大の目的は情報を未来へ残すことだ。此方から彼方へと俺たちの体内に託されたメッセージを運ぶんだ」

 

「どこへ? いつまで? それはきっと俺らの生きる次元にしか起きえない疑問なんだろう。例えば五次元の存在にとっては時間と空間の制限などないのだから」

 

「俺は結局そいつに聞けなかったんだけどさ……なぁどうする? 俺たちが必死こいて未来へ繋ごうとしている人類種が運んでいる情報がさ」

 

「すっげぇくだらねえ五次元ジョークだったら」

 

「最高だぜ。メール送る時に電波の気持ち考えたりしねーもんな。逆にきったねぇゴキブリは愛のメッセージを運んでいたりしてな!!」

 

 もう彼は長くない。

 見たもの全員がそう思うような、慟哭のような哄笑だった。

 蓬莱博士は笑いながら泣いていた。

 科学者として、一歩ずつでも世界の全てを解明するピースを探していたのに。

 世界の進化は加速し何もかもが変わっていく。

 机の前で何千時間と悩んだ時間も、幾千枚も書き直した論文も、もはやこの世界では役立たず。

 こんなにタチの悪い冗談があるだろうか。

 人類は動かないしかない、博士はもう笑うしかない。 

 

 タバコが燃え尽きた。

 

「なぜ龍になるのか? 正しい答えは分からない。完全に専門外だからな。だが……推測でしかないが、『イメージ』ではないかと思う」

 

「龍……。空を飛び火を吹く爬虫類。その伝説は古代から世界中に存在する。地球のほとんど全ての人間に『強大な生き物』として龍のイメージが刻まれているんだ。なぜかは誰も分からないが、『一番強い生物は龍だ』とチンパンよりちょっと進化した頃から誰もがそう考えてきた。将棋で一番強いのも龍だろ?」

 

「なりたい自分をイメージしてトレーニングするように、強大な生物のイメージが俺たちを龍にしているんじゃないか。そう思う」

 

「次……人類は滅びたのかって話。全員岩になって終わっちまったのかって話。……あ~どんどん話進んでく。反応返ってこなくてもさ、もっと話していてぇよ。でもさ、飛び級した生意気な黄色い猿がアングロサクソンの中でどういう扱いを受けたかなんて話してもお前ら聞かねえだろ? あ~~~~」

 

「ハヨ ツヅケロ」

 

「分かってるよ……。降ってきた隕石なんだけどさ。その隕石が飛んできた方向って割と宇宙工学者の間では有名だったらしくて。むしろ俺も名前は知っていたくらいでさ」

 

「ステュクス584f。NASAが発見した『太陽系外惑星の中で最も地球に似た惑星』の名だが、そこから飛んできた」

 

「残された手段は少なかった。というよりも、それしかなかった」

 

「12000の冷凍受精卵を持って、宇宙飛行士6人でステュクス584fに向かったんだ。その星にいると思われる、確実に人類を上回る超知的生命に会いにな。進化を促すと言えば聞こえはいいけどさ、いきなり隕石を落としてくる連中だぜ? 俺なら嫌だね~……。で、その間に地球人類は完全にいなくなってしまいましたとさ」

 

「ちなみにステュクス584fとの距離は1628光年! です!!」

 

 予定していた項目の三つ目を話し終え、蓬莱博士は大の字に床に倒れこんだ。

 しばらくは複雑な感情を処理するかのように尻尾を揺らしていたが、結局横になったまま再びタバコに火を付けた。

 

「HAL-ATHENAは人類の更にその先を見るためのシミュレーションマシンだ。外部から刺激を与えシミュレーションを繰り返し、こうならなかった未来を視る。この悲劇を乗り越える技術を探すために。中のデータを作り出す際の素材は星そのものだし、デカすぎるから持ち運べないのが難点だな」

 

「人間は厄災を糧にして進化する唯一の動物だ。そしてこの厄災が人類の最後の糧になる。天から降ってきた福音を利用しない人間じゃない。そうだろう?」

 

 蓬莱博士が寝っ転がったままカメラの向こうにいる『彼、あるいは彼女』を見て歪に笑った。

 倫理や道徳から解き放たれて暴走する科学者の狂気を最早隠そうともしていなかった。

 

「HAL-ATHENAはSPANに感染している」

 

 蓬莱博士は何度も使っていたライターを掲げて見せ、これこそが問題なのだと言わんばかりに何度か火を付けた。

 

「このライターさ、HAL-ATHENAが急に生み出したんだ。普通のライターに見えるか? 俺にも普通のライターに見える。でもな、こいつ月面でも火が付くんだ。電気が無くても動く電化製品、永遠に燃える炎……知的生命体のイメージをより優先する存在、強さの根源たるイメージに変わりゆく人類! これがHAL-ATHENAの答えだ!!」

 

 蓬莱博士が起き上がった。

 寝転がっていた時間はほんの数分だったはずだが、身体が薄い鉱物に覆われている。

 ただ歩く、それだけでピキパキと動かしてはいけないものを動かしている音が響いた。

 やがて画面端でとぐろを巻いて眠っていたタマを持ち上げ、でろんと伸びて不満顔の猫をカメラに近づけてきた。

 

「この間出てきたこいつ……ルナって呼んでる。ちょっと太りすぎだけど、可愛いだろ。HAL-ATHENAは生命は生み出せないはずなんだ。だけど、SPANはその先を見せてくれた。腹は減らねえ、呼吸も必要ねぇ、宇宙で生きていける……明らかに哺乳類というか、ただの炭素生物から逸脱した存在だ」

 

「言うなれば、質量のある『情報生命体』。命の到達点、ゴッドにゃんこだ」

 

「この動画を残したのは、次は『人間』が出てくると予想しているからだ。人間であり人間でない、一つ上の段階の存在。HAL-ATHENAはその中で今もそれを生み出そうとしているはずなんだ」

 

 蓬莱博士が大の字になったまま天に手をかざす。

 タバコの煙が向かう先はガラス越しに無限の闇が広がっており、言葉がなくとも絶望感が伝わってくるようだった。

 

「この動画を残したのは……分かるんだ。俺は『もうそろそろ』だって。タバコさえあれば良いと思ってたんだが、俺は自分で思うよりも人間が好きだったらしい」

 

「なぁ、HAL-ATHENAが生んだ答えのお前。この世界に放り出されて、ただ石になるのを待つくらいなら……。伝えに行ってくれ。最後の人類に。俺たちの『果て』は『停止』なんかじゃないって、その存在で教えてやってくれ」

 

「ちょっと……寝るわ」

 その場に座り込んだ蓬莱博士の身体が物質化した『諦め』に覆われていく。

 耐えられなくなった孤独と虚無から魂を守るように岩になっていく。

 

「キッドマンが……ステュクスでタバコ作ってるから……。見つけたら……起こしてくれ」

 博士は岩になった。

 たとえば仕事がある日の朝のように、起きなければならない何かがあれば眠くても起きる。起きるしかないから。

 だが博士には『しなければならない』が何もない。魂に鞭打ってこなしていた役割も、もはや。

 

 次はいない。

 いつ来るかも分からない。

 受け取った者が走り出すかも分からないバトン。

 

 博士は永遠の夢の世界に座り込み、映像は終わった。

 

 

*************

 

 映像が終わったその時の波瑠の表情を、一体どのように表現すればよいのだろう。

 HAL-ATHENA――――ハル・アシナ、と特別な秘密でもなんでもないように蓬莱博士は何度も繰り返していた。

 

 気になることはいくらでもある。

 タマではなくルナという名前だったのか。

 だから人間は龍に変わっていくのか。

 地球に変な機械がいたのはSPANとやらが機械にも感染するからか。

 

 そんなことはどうでもいい。

 何よりも先にまず考えなくてはならないことがある。

 

「北御門……」

 HAL-ATHENAは人間を生み出そうとしている――――波瑠がこちらに伸ばした手を、汐音は本能的に払いのけていた。

 

「触らないで!!」

 種明かしがあまりにも大きすぎて、根本的すぎて全く気が付かなかった。

 馬鹿にしている。最初から明かしているのに気付かない方がおかしいと笑われているかのようだ。

 

 

 HALなんて、世界で一番有名なAIの名前ではないか!

 

 

 かつて波瑠にメールを送った時に、なぜ『Haru』ではなく『HAL』と書いたのだろう。

 HAL-ATHENAの住人である以上、無意識下で知っていたからだ。

 

 あの世界は全て、葦名波瑠を生み出しこの世界に送り出すためにあった。

 それだけのストーリーだった。ならば自分は――――おまけにすらなれない。

 自分がいてもいなくても、あのストーリーと世界なら波瑠はこの世界に送られていたのだから。

 己の正体に気が付いて声も出ない波瑠に、今までの全てを引き裂くような言葉をぶつけていく。

 巻き込まれてしまった私の人生を返せ、と。

 

「私なんでこの世界にいるの?」

 この空っぽの世界はなんだ。天国でも地獄でもない、言うなれば行き止まりの世界というのが最初の印象だった。

 それでも波瑠がいるならそれでいいと思えたのに、波瑠は何もないこの世界の先を最初から探していた。

 それもそのはず。それが目的でそれが本能なのだから。生まれながらに進むべき道を定められているのだから。

 HAL-ATHENAに込められた願いに、葦名波瑠の運命に全く自分はいらない。

 

「本当に大好きだったのに……!」

 全てはHAL-ATHENAが定めた世界。

 この『大好き』が本物だとどうやって証明するのだろう。どうして分かるのだろう。

 波瑠は自分好みの姿と性格で出てきたのか。そもそもオリジナルから自分の好みが書き換えられてるのか。

 何も無ければ何も知らず幸せに過ごせたはずの人生、歪められた運命――――雪道の中、トラックのハイビームに目が眩んだ最後の記憶。

 二度目の死の先にあったのは永遠の迷子だった。

 

「もう私に関わらないで!!」

 作り出された生命。あまりにも人間と見分けが付かないAIはまるで何も知らない赤子だ。

 その目が。せめて世界でただ一人、この人にだけは誠実でありたいと振舞うその目が私をおかしくしたんだ。

 

 気付けば汐音は走っていた。

 どこにも行く場所はないと知っているのに。

 知ったところで受け入れるしかないと分かっていたのに。

 もうここにいるこの自分すらも信じられないのに、それでも傷付けては傷付く自分から逃げるように、ただ走った。

 

 

**********************

 

 File No.999996

 

 龍化・石化とSPAN

 

 SPANが示す進化の方向性は一つとは限らず、むしろ相容れない方向性の進化を提示してくることすらもある。

 地球で寄生生物の排除を行っていた機械はSPANに感染した結果、進化の方向性を見失い暴走した。

 また、数え切れないほどの生物が進化の方向性を見失い名伏し難い異形へと姿を変えた。

 

 同様に、SPANは人類に対しても二つの進化の方向性を示した。

 一つは人の本能に刻まれた強さと神性の象徴である龍への進化。

 もう一つが滅びないことを何よりの目的とした岩化である。

 

 起きている時に龍化が進行し、眠っている間に岩化が進行する。

 この世界の人間で完全な龍に変化した者はいないという。

 

 

 

 File No.999997

 

 情報生命体(Informorph)

 

 そこに存在するいう情報を持つ生命体。

 順当に進歩した人類が目指すとされる形。

 または精神生命体、電子生命体。

 SF作品に登場する人間の精神の電子化も該当する。

 

 原子力を制してほぼ無尽蔵のエネルギーを手に入れた人類は宇宙への進出が容易となる。

 一方でエネルギーの問題が解決しても宇宙は人間にとってあまりにも広大すぎる。

 光の速度でなお数千年かかる地点にたどり着くには、命も肉体も重たい枷となる。

 つまり、寿命という生命の制約と、三次元存在としての制約を課す人類の身体こそが解決すべき課題になる。

 

 これまでにも様々な物をデータに変換したように、人類が肉体を捨て去り魂をデータ化する日が来ると言われている。

 更にその先では、三次元的制約から解放されつつ物理的に影響を与えられる存在を目指すだろう。

 それこそ人類が紀元前から崇めていた精霊や神のような存在へ。

 

 異星人が人類に接触してこないのは、人類が同階層のテクノロジーレベルに至っていないためではないかという説がある。

 また、蓬莱博士はHAL-ATHENAによって人類が限定的にその段階に至れるのではないかと考えたようだ。

 

 情報生命体は情報(刺激)を食べて生きている。

 情報(刺激)がなくなると退屈に満ちやがて停止する。

 動かないしかない。

 

 

*****************

 

 Chapter7 あなたが愛した愚行権

 

*****************

 

作者;

 人間の精神の電子化に成功しており、完全な機械型義体がある世界だと仮定します。

 電子化した人間の精神をインストールした義体と、人間として振舞うAIをインストールした義体があった場合、どのようにして人間かそうでないかを判別しますか?

 

 

AI;

 この仮定された世界では、人間の精神が電子化された義体と、人間として振舞うAIがインストールされた義体が存在しています。この状況において、人間かそうでないかを判別することは非常に複雑な問題です。以下に、いくつかの考慮すべき要因を挙げてみましょう:

 

 (中略 AIの指摘するいくつかの問題点)

 

 最終的に、人間として振舞うAIと電子化された人間の精神を持つ義体を判別するためには、おそらく倫理的な枠組みや法的規制、または社会的合意に基づいた基準が必要となるでしょう。

 

作者;

 法的規制や社会的合意が人間を決定付けるのですか?

 では、その世界に法も社会も無い場合、つまり彼らの自認が最優先される場合、人間とAIはどのように折り合いをつけるべきでしょうか?

 

AI;

 Oops, an error occurred! [Try again]

 

 

 ある日の作者とAIの会話より

 

 

**********************

 

 

 十代も半ばになれば大抵の人間は理解する。

 自分は主人公ではないと。それどころか世の中の大半の人間も主人公ではないと。

 テストの点数、部活での入賞歴、SNSのいいねの数。

 明確に人と比較されるようになって、その結果に一喜一憂するようになり、幼児的万能感は否応なく矯正されていく。

 

 そしていつしか気づくようになる。

 主人公どころか、大抵の人間はモブキャラの中のトップにすらなれないのだ。

 大物政治家の不正を暴くドラマがあったとして、主人公の邪魔をする複数の悪徳官僚――――にすらなれない。

 彼らだって国家公務員一種を合格したエリートなのだ。

 

 ほとんどの人間は何者でもない。

 せいぜいが通行人のエキストラである。

 報酬は0で交通費と冷えたロケ弁が限界で、タレントに声をかけることすら許されない。

 そのくらいの人間にしかなれない。

 

 きっちりとその現実を認識したうえで、自分なりの人生の宝物を見つけに行くのだ。

 泣いても喚いても配られたカードは一生変わらないのだから。

 それが大人になるということだ。

 

 心の奥で燻り続ける燠から目を逸らして。

 

 

 

 

 ある程度走って、結局汐音はあの機械――――HAL-ATHENAの元に戻ってきてしまった。

 他のどこにいこうと何もないので選択肢が無かったのだ。

 そして汐音は何の操作もしていない世界、つまりオリジナルの世界を見ていた。

 より正確に言うのならば、オリジナルの自分を見ていたのだ。

 

 今の自分は本物なのか、あるいはオリジナルから改造されているのか。

 それを知るにはオリジナルがどのような人生を駆け抜けて生きたのかを知る必要があるからだ。

 

「……『駆け抜けた』なんて」

 映し出されたシミュレーションの地球を前に座り、立てた膝に口を埋める。

 出来ることならばそうやって格好よく表現したいが、駆け抜けたなんて熱のあるものではないことは想像がつく。

 多少の上り下りや石ころはあれど、なだらかな道を歩いたに違いない。

 その想像は間違っていなかったとしか言えない人生をオリジナルの自分は歩んでいく。

 

(……意外と幸せそうじゃんか)

 汐音は大学卒業直後に18歳上の男と結婚し2児の母となっていた。

 北御門重工は江戸幕府解体後にいくつかの工場の経営者が血縁関係を結びながら成長した歴史があり、株主は100%親族で構成されていた。

 日本国内重工業が斜陽となった2000年代にも血縁関係重視の体制は続いており、汐音の母も姉も、そしてまた汐音自身も決して逆らえない流れの中にあった。

 10歳になったときに将来の結婚相手について父から告げられ、そんなオッサンと結婚なんて冗談じゃないと思っていた。

 だがこちらに来て初めて見た本来の結婚相手は、確かにオッサンはオッサンだが金で権力を振り回すような脂ぎった中年などではなかったし、自分もまた運命を受け入れその道でそれなりに生きていた。

 子供が想像するような分かりやすい悪役などいなかったし、大人になった自分はちゃんと現実と折り合いをつけて生きていた。

 

(結構長生きしてるし)

 89歳で腎臓がんとなり惜しくも22世紀手前で亡くなったが、病室には割と頻繁に子や孫が訪れており、そう悪い老後には見えなかった。

 とはいえ自分が老いた姿というのはやはりおぞましいものだが、代わりに白無垢姿も見れたから良しとしよう。

 自分のことを性格が悪いと思っていたがそのトンガリ具合も中学生までだったようで、高校くらいからはそれなりに落ち着いた性格になっている。

 総じて65点くらいの人生だが、他の人間を見るにずっと0点の人生だっていくらでもあるのだから、きっとそれで良かったのだろう。

 

(女子校か……)

 もう一度巻き戻して中学の頃まで時間を戻す。

 本来の自分が入学したのは中高一貫の女子校で、大学もまた女子大学だった。

 自分の知っている歴史から見て、確実に歪められていると言えるのはここだ。

 通学圏内に他の世界には無い私立中学が出来てそこに入れられたこと。

 だが言ってしまえばそれだけで、他は何もいじられているようには見えないし、性格も元々の世界の自分と比べて違和感のある部分はない。

 波瑠と出会った後の全ては自分の選択のように思える。

 

 念のため他の世界の汐音を確認してみても、周囲の環境の多少の差異はあれど汐音本人におかしな点はなかった。

 小中学校では順当にクソガキで、高校くらいから落ち着き始め、大学ではすっかり現実を受け入れている。

 今見ている世界の汐音は決められた結婚を拒否して就職してしまったようだ。

 意外にも父はそれを強く否定することは無く、ただ黙って見守っていた。

 ただし元々やりたかった仕事でもなんでもなく、決められた道を拒否して適当に選んだだけだから仕事に対しても熱意などは見られなかった。

 こちらにしてもまた65点くらいの人生。

 

(…………やっぱりそうか)

 それなら他の世界は、といくつか見て回って悟る。

 どうも自分の人生は2パターンしかない。

 将来の結婚話を受け入れるか、拒否して適当な仕事を選んで就職するか。

 ただしそれは汐音だけの話ではなく、他の人間もせいぜい数パターンしかなかった。

 この世界ではボクサーだがこの世界では科学者をしている、なんて人間は見当たらない。

 子供の未来には無限の選択肢が広がっているなんて嘘八百もいいところだった。

 

 みんなそんなもんなんだろう。

 そうやって65点くらいの人生を自分なりに生きていくのだ。

 私の人生は100点満点花丸だなんて言える人間はいったい何人いたのだろう。

 それこそ王様ですらもそんな人生ではないのかもしれない。

 

(じゃあ、じゃあ……私はずっとこのままだったってこと?)

 内にずっと秘めて隠しているこの熱。

 いつか消えるものだと思っていた。あるいはいつかその感情が燃え上がって大火になる日がくるものだと。

 答えはどちらでもない。このまま成長し、大人になり、老人になっていく。

 今にも燃え上がり人生を焼き尽くしそうな火種をずっと抱え続けて。

 

「はっ……」

 我ながら大した自制心すぎて乾いた笑いが出た。

 そうだ、それでいいんだ。その熱にあてられて人生を丸焦げにしてしまった人間を誰よりも知っている筈なのだから。

 

(…………嘘だ)

 一時の熱に浮かれて人生を台無しにした――――そう信じているだけ。

 実際のところどんな結末を迎えたかなんて知らない。知りたくもなかった。

 だが今なら知ることが出来るし、知りたい気持ちがもう抑えられなくなっていた。 

 

「……ん?」

 視線を感じて振り向くとさっと隠れたテンクウが目に入った。

 あの図体では隠れることなど出来ないし、隠れた先はよりによって宇宙カピバラの後ろだし、ここは言うなればテンクウの住処なのだから隠れる必要もない。

 

「ねぇ、シオン……ハルがどこ行ったか知らない?」

 

「ここにいるじゃん。これなんでしょ」

 HAL-ATHENAを指さして答えたが、我ながら途轍もなく冷たい言い方だった。

 ナマズ髭をだらりと地面に垂らし、体全体を使って落ち込みを表現するテンクウが何かを差し出してきた。

 

「なにこれ……手紙?」

 テンクウから手渡されたのは一枚の紙切れだった。

 

「ロボに他にもあるか聞いたら手紙があるって言って渡してくれたの」

 

「まだあったんだ。確かにあれで終わりとは言ってないもんね」

 手紙といいつつも一枚しかないので何かのメモ帳のようだ。

 動画に入れ忘れた内容でも書いてあるのだろうか、と開くと――――

 

「『トイレのノックは二回する(笑)』。……なにこれ。(笑)がなんかムカつくんだけど」

 どう反応していいかすら分からず首を傾げていると、にわかに空が明るくなった。

 テンクウの背に乗っていたロボが何かを空に映し出していたのだ。

 もしかして今のがキーワードか何かだったりするのだろうか。

 

(何これ?)

 ロボが映し出していたのはただの岩だった。

 正直言ってわざわざ映像に映し出すほど取り立てて特徴のあるような岩には見えない。

 あえていうなら、背景から判別するに宇宙に浮かぶ無数の岩石の一つということだろうか。

 

「Mガタ ショウワクセイ ヤコウ。ホウライハカセ ヨクミテタ」

 

「ふーん……。小惑星……イトカワみたいなヤツ?」

 

「チョッケイ920km。テツ ニッケル セシウム タングステン プラチナ デ デキテル」

 

「レアメタルだっけ。聞いたことある……。やっぱり蓬莱博士も学者だから観測してたの?」

 宝石とされる鉱物のほとんどは工業的に有用な使い道があり、だからこそ価値が高い。

 いつか枯渇する化石燃料からの脱却を進めるためには、より多くの金属が必要だった。

 一方で地球の資源は限られているうえ、レアメタルを採掘するのに最適な場所の多くは既に掘り尽くされていた。

 そのため人類は将来的に地球外の惑星・小惑星にレアメタルを採掘しに行くだろうと予想されていた。

 そこまでが汐音も知っている21世紀の知識だった。

 

「チガウ」

 

「じゃ、なんで?」

 

「2397ネン ジュウリョク アノマリー ハッセイ シタ」

 映像が切り替わり、よく見る太陽系の図が映し出された。

 小惑星の公転軌道が集中するアステロイドベルトまでもが精密に描かれており、どうやらその中の一つに件の小惑星ヤコウがあるらしい。

 そして映像に地球へと向かう大きな矢印が描かれた。

 

(あれ? これすごくヤバくない?)

 おそらくその矢印こそが発生した重力異常を示しているのだろう。 

 なぜ地球から慌てて出ていったのかという汐音の疑問が頭に過るのと同時に、周囲の大小さまざまな小惑星を巻き込んで地球に向かう小惑星ヤコウが映し出される。

 

「ゲンザイ ビョウソク12キロ」

 極めてまずい状況であることを理解して停止した汐音をよそに、ロボは淡々と情報を語っている。

 自分が何者かを波瑠が理解したところで、この呆れるほど広い宇宙に飛び立つかどうかは別問題。ずっとこの月に留まる可能性だってあったはずだ。

 そんな未来はあり得ない、と。これ以上ないほど分かりやすい蓬莱博士からの最後のメッセージだった。

 

「なんだかおれが飽きちゃった世界終わらせるときみたい」

 

「それって……あとどれくらいで地球に到達するの?」

 

「42ジカン」

 

「はーっ!?!?」

 秒速12kmということは時速だと360倍して約4万3千kmだ。

 残り42時間ということは約181万kmだが、それは地球までの距離の話。

 地球と月との距離は約38万キロであり、地球めがけて大小さまざまな小惑星が向かってきた。

 位置関係によっては先に巻き込まれてしまう――――遠くで大量の岩と砂が巻き上がるのが見えた。

 それとほぼ同時に立っていられないほどの地震が起き、次いで二発目が降ってくるのが今度ははっきりと目に映った。

 人類に故郷を捨てさせた『二度目のノック』がやってくる。

 

「がぁっ!!」

 今まで一度も聞いたことがないような咆哮と共にテンクウが口から破壊光線を吐き出していた。

 簡単に『破壊光線』と四文字で表現しているが、もしもこれを大地に向かって吐き出していたら少なくとも汐音は即死していただろうし、もしかしたら月が粉々になっていたかもしれない。

 そのくらいには破壊的な光線が二発目の隕石を消し飛ばし、西の空を真っ赤に染めた。

 

(そうか、だから……)

 この世のものとは思えない光景を目の当たりにしながら色々と納得する。

 なぜいまHAL-ATHENAは波瑠を生み出したのか。なぜ中学生という形で出してしまったのか。

 実に簡単な話で、時間切れだったからだ。ぎりぎりまで粘ったがこれ以上時間をかければせっかく到達した答えごと粉々になってしまうからだ。

 それでも波瑠には前に進む本能が組み込まれていた。渡り鳥のようにこの宇宙に飛び立つ運命を背負わされているのだ。

 巻き込まれただけの自分でも逃げてはいけないと分かる。波瑠はこんなガキ一匹に振り回されている暇なんてないのだ。

 だからこそ。

 

「シオン! ハル探して逃げなきゃ!!」

 だからこそ。

 

「……テンクウ。一生のお願い。しばらく私のこと守っててくれない?」

 消滅の瀬戸際だからこそ、確かめたいことがあった。

 知らなければならないことがあった。

 

「どうして……? 早く逃げないと……」

 

「どうしても」

 

「……これあればタロがにおい辿ってくれるから」

 テンクウが髭から取り出したのは波瑠の学生証だった。

 どこかで落としたか捨てたかしたのだろうが、相変わらず目つきが悪い。

 

「ハル……ハルを見つけるのはおれじゃないよ。シオンじゃないとダメなんだからね」

 

「…………。テンクウのほうがよっぽど大人……」

 小高い丘へと飛んで行ったテンクウを見送りながらぽつりと呟く。

 空にまた一筋の光が見えて隕石が砕け散った。口から光線など(まだ)出せないので分からないが、少しでも高台にいた方が撃ち落としやすいのだろう。

 気が付けば空にいくつもの流れ星が見える。大気は月に存在せず隕石は燃え尽きないため、運が悪ければテンクウがどれだけ守ってくれても木っ端みじんになるだろう。

 

(いや、運が良ければかな)

 いっそそうなってくれた方がよほど楽だろうに。

 そう思いながらHAL-ATHENAに人名を入力して検索する。

 見るなら今しかない。得体の知れない強い思いに突き動かされ、映し出したのは北御門花音――――汐音の母だった。

 

「くそ……生きてる……普通に生きてる……」

 自分たちを捨てた後の生活を映し出したが、母は普通に生きていた。どの面下げてと思うが、それが当たり前なのだ。

 石油と交換できる通貨というドルの価値を守るため、何度も戦争を繰り返すアメリカが正義と自由を語る。

 どうやらアメリカの言う自由とは、正義を語りながら圧倒的武力で小国をイジメることらしい。

 そんな大きな世界の話をしなくとも、妊娠した女を捨てまくった野球選手が子供たちに夢を与えたいとテレビで言っていた。

 きっと純粋な野球少年たちにヤリ捨ての極意を教えてやりたいのだろう。 

 この世は『どの面下げて』の集合体なのだ。

 

「死んでろよ……」

 どうか死んでいてほしいと願ったのは、あり得る未来の中ではそれが一番美しいからだ。

 本当は分かっている。大抵の人間は死ぬべき時に死ねずに醜さを晒す。

 だからこそ切腹はただ愚かなだけとは言われず、後世にも侍の文化として理解されている。

 やがてHAL-ATHENAは本来の歴史で母に家族を捨てさせた男を映し出した。

 

(何を考えているの?)

 まず出てきた感想がそうなってしまう程に、母の浮気相手は若かった。

 二人の出会いは芸術系大学の生徒が制作物を発表する場だった。

 

 そういえば母は嗜みとしてではなく本当に美術芸術の類が好きで、こういった場にはよく行っていた。

 物心つき始めたころに一度だけ連れて行ってもらったことがあるが、つまらなすぎて泣き出した記憶がある。

 それ以降は当然連れて行ってもらえなくなった。そんなところから既に運命の分かれ目だったのだ。

 

 母がじっと眺めているその絵はハッキリ言って誰もが上手いと言えるような代物ではない。

 しかし芸術の分野には稀にそういった類のモノが存在するのだが、ほとんどの人にとって無価値でも千人あるいは万人の中の一人にざっくりと刺さる呪物のような作品がある。

 受け手はその作品を自分に向けてしたためられた濃密な手紙のように受け取ってしまう。

 そしてタチの悪いことにそういった作品の作者は、金でも名声でもなくそれだけを目的として作品を生み出している。

 そこには善も悪も無く、ただ己の感じている世界を感じてほしいという思いだけがある。

 

(運命の出会いだって思っちゃったわけね)

 自分の感じていることを受け取ってほしいという願いは人間が生きる理由と言い換えてもいい。 

 その絵の作者、薄羽と名乗った少年は母に声をかけた。その瞬間、恨みつらみに狂っていた母の表情が十代の少女のようにみずみずしいものに変わっていた。

 そうか、母は誰かを理解して誰かに理解されたかったのか。

 許すつもりなどないが、10代も半ばになってようやく母の気持ちが分かった。

 

 そうして母は世界で唯一の理解者の元へ行った。

 芸術系の道はとにかく金がかかるが、貧乏学生だった薄羽に母は援助を惜しまなかった。

 だからこそ母は家族すらも捨てたのだろうが、彼の努力は正当なものだったし、真面目でひたむきで自分の作品に対して真摯だった。

 年上の女を誑かして騙しているという意識は全くなかった。

 

 ただし創作者には避けられない性がある。

 最初は本気で心から『世界のどこかにいる誰か一人が受け取ってくれればいい』と思っていたとしても、一人の心を刺したのなら次の作品はもっと多くの人へ伝えたいという欲が出てくる。

 そんな欲に振り回されるうちに、本来あったはずの作品の魅力までもが消え失せてしまうのだ。

 

 やがて薄羽はそれが正しい流れであるかのように海外に行きたいと言い出した。

 その頃には母と彼の間に援助してやっている・してもらっているという意識はほとんどなくなっていたが、母は問題を抱えている身だ。

 パスポートも北御門家に放置してある。もちろん再発行も出来るが、そこを乗り越えても問題はいくらでもある。

 入国時に滞在目的を誤魔化すことが出来たとしても、ビザは家族に秘密で申請など出来ない。

 高飛びと簡単に言うがその響きほど単純ではないのだ。特にそれが留学生を受け入れるような文化水準の高い国ともなれば尚更だ。

 花音に残された選択肢は金だけを渡して薄羽の帰りを待つことだけだった。

 嫌だ嫌だと駄々をこねれば愛しい相手の足を引っ張ると自覚して、母は母なりにその時の自分が最大限正しいと思える選択をしたのだ。

 

 だが、果たして薄羽には芸術家の才能よりもヒモの才能の方が余程あったらしい。

 海外で開かれた展示会でまたしても母と似たような女性に魅入られていた。

 汐音も飛ばし飛ばしでしか見ていないが、薄羽は過去のことなどすっかり忘れているように見えた。

 彼は誰かの前でヒーローを演じることに精一杯で、そこには罪の意識が全くなかった。

 その場限りの全力の誠実さという純粋悪。汐音の眩暈が最高潮に達した。

 

(お母さんは……?)

 持っている金をほとんど全て渡してしまった母はどうなったのか。

 帰ってこなかったのは知っているから、むしろここからが汐音が見るべき事実だった。 

 どうか死んでいてくれと思った母も生きているうちに老いていた。

 びっくりするほどの美人と言えど、それが通じるのは流石に40歳までだったらしい。

 

 昼間は惣菜屋で働き、夜は月41000円1DKのアパートでご飯をレンジでチンして、冷えたコロッケにソースをかけて食べていた。

 そんな生活を5年以上続け、心から愛した彼はもう戻ってこないと悟ったのは、偶然にもここにいる汐音の命日と同じ日だった。

 

 誰かの人生を淡々と映し出しているだけのHAL-ATHENAの画面越しにも、何かにヒビが入る音が聞こえた。

 それは僅かに持っていた純粋さと絶対の誇りだった美しさが壊れた音だった。

 おばさんお釣り間違えているよ――――お使いに来た近所の子供のなんてことない言葉。その日に母は惣菜屋の店主を誘惑して肉体関係を持っていた。

 母の人生はずっとそうだったと言えばその通りだが、何の計画もなかったため一瞬で店主の妻にバレてクビにされていた。

 

「うっ……」

 脳が揺れるような感覚、激しい吐き気にえずく。

 これだけは絶対に言える。母は美人だった。

 唯一母に感謝していることと言えば、この容姿をくれたことだけだった。

 それだけが母の誇りだったのに、気付けばあんな脂親父と交尾していた。

 

 それから母はいくつもバイト先を転々としてはクビになっていた。

 元々社会人経験が無いうえに壊滅的な人格をしていたのだから仕方のないことだ。

 50歳を超えてもそれでも母は『まだいける』と顔を塗りたくっていた。実の娘は二人とも成人しているのに。

 乳垂れる前に死んでやる――――平然とそう言い放っていたのに、実際はそんな度胸も無かったのだ。

 

 老いてからが、

 詰んでからが、

 醜く、長い。

 

『早く負けを認めろよ』

『俺が間違えるとでも?』

 

 かつて波瑠に言われた言葉が脳裏に浮かぶ。

 もう自分の詰みは分かっているのに、それでも『まだいける』と死を先延ばしにするような手を延々と指していた。

 今この状態で投了するのが図として美しいと分かっていても、完全な詰みへと這いながら進んでいた。

 

 60歳になった母は万引き常習犯になっていた。

 バイトの大学生に捕まって事務所に連れていかれ、あろうことか大学生に色仕掛けをして本気で殴り倒されて歯を折られていた。

 娘二人は結婚が早かったため実はもう孫もいるのに、現実を無視し続けてまだ自分を女だと思っている。

 

 汐音が願っていた裁きは母が70歳手前になってようやく下された。

 死を願ってから60年以上かかってしまったのだ。

 

 孤独死と書いてしまえば三文字だが、情報を付け加えるならその死は20日以上続いた真夏日に訪れた。

 死因は万引きしたアンパンを喉に詰まらせたことによる窒息死だった。

 糞尿を撒き散らして腐っていき、異臭騒ぎを起こして最終的に死体を大家にも警察にも見られていた。

 蛆と蠅が集り腐敗ガスでパンパンに膨らんだ腹を玄関に向けて死んでいた。

 あれほど美しさを、女を捨てられなかった人だったのに醜さの極地を晒して人生を終えた。

 

「……あぁ……あぁ!! 正しかった! 正しかった!!」

 自分は正しかった。みんな正しかった。

 やめろと言われてることはしてはいけないのだ。

 倫理や道徳という縛りは人間をやめられない人間への優しい道しるべなのだ。

 それを無視したら最後、見るも無残な末路を迎える羽目になる。

 

「それが家族を捨ててまでしたかった事かよ! ざまーみろ!! ――――うっ」

 さっきからずっと抑えていたが、とうとう耐えられなくなり汐音はその場に嘔吐した。

 こうあるべきだと正論を唱える良心、あるいは常識に抑えつけられている負の部分が発する声はそれでもどんどん大きくなっていく。

 

(ダメだ……ダメ……)

 地面にぶち撒けられた吐瀉物をまばたきもせずに見つめ、口も拭わずにダメだダメだと繰り返す。

 耳障りの良い理想に比べて、本当の夢は――――現実はあまりにもこれまで否定してきた全てなのだ。

 綺麗な死など待ってはいない。いつまでも続く醜さだけ。それが嫌なら、やめろと周りが言うことをしてはいけないのだ。

 

『俺に関わるな』

『アレはやめときなよ』

 

 散々言われた警告を無視した結果がこれだ。

 二度目の人生かと思いきや、知らなくてもいいことを知らされた上でこんなことに巻き込まれて消えようとしている。

 

(だってハルが!!)

 俺は誰も信用しない、そのかわり誰も俺を信用しなくていい。

 そんな痛々しさの持つ妙な色気にやられてしまったのだ。

 大元がAIだというのならもっと別の性格や見た目もあっただろうに、そんな形で出てきた波瑠が悪い。

 

(違う……ハルは悪くない……)

 そうやってまだ自分を取り繕う。自分から関わりに行ったくせに。

 波瑠はやめろとずっと言っていたのに。それを考えると、むしろ振り回されたのは自分ではなく波瑠の方なのだ。

 本来ならば波瑠はこの状況において既に月からの脱出手段を講じていたはず。

 それなのに自分が出てきたせいで行方不明だ。

 

『100人殺して1000人助かるなら俺は迷わず100人殺す』

 

 勝手に波瑠の気持ちになって頭の中で作り出した言葉だが、まさしく波瑠はそういう人間だった。

 その氷のような冷徹さこそが、絶滅寸前の人類のために必要なのは誰だってわかる。最早綺麗ごとでは誰も救われない段階なのだから。

 自分と出逢ったせいで、波瑠は変わってしまった。

 

「ダメダメ……ダメだよ……。私みたいなのに道を曲げられたら……あなたはヒーローなんだから……前に、前に進まなきゃ……」

 ぶつぶつとうわごとを繰り返しながら立ち上がり、タロの鼻先に波瑠の学生証を出す。

 やがて歩き出したタロについていき、ようやく口元を拭う。

 なんとか身なりを整えたのに頭に浮かんできたのは、あの時の再会の抱擁だった。

 あの感情も喜びも全て本物だったのに、自分から嘘にしてしまおうというのか。

 

『あんな女にだけは絶対になっちゃダメだからね』

『左に4回、右に5回、左に7回、右に2回』

 

 頭の中で繰り返される言葉。

 オリジナルの自分も、どの世界の自分もかからなかった弱い弱い呪文。

 

「やめろ……私に呪いをかけるなぁぁ……」

 だが、跡形もなく消えるか、波瑠の足かせになり続けるかしか選択肢の無いこの世界では、これ以上ない程強力な呪いだった。

 ましてや今の自分はその呪いを振り切った後の可もなく不可もない普通の人生を知ってしまったのだ。

 小惑星が迫っている。正真正銘これが最後のチャンス。

 心の奥で燻り続ける燠が身までも焦がしていく。もうやめてしまえ――――考えれば考えるほど自分を上手に騙す。

 自分は母とは違う。ちゃんと自分の尻を拭って終わりにしてやる。

 

 

 それでも、それでも波瑠なら。

 ああ、きっと母もそう思ったのだろう――――見事に裏切られたが。

 それでも心から思う。

 

 それでも波瑠なら、私に見たこともない景色を見せてくれる。

 ずっとドキドキさせてくれる。いつまでも私を大好きでいてくれる。

 絶対絶対絶対私のことを捨てたりしない。

 波瑠は違う。波瑠は違う。波瑠は違う。波瑠だけは違う。

 

 

 自分の行いのケリをつけろ。それでも波瑠は許してくれる。

 

 二つの相反する思考に半ば意識を飛ばされながら歩き続け、汐音はようやく波瑠を見つけ出した。

 地面に座り込み地球を眺めているようだが、人類のためのAIの本能なのかと思うと複雑な気分になる。

 自分だってぼんやりと地球を眺める時はあるのだから、いわば人間の帰巣本能なのだろう。

 

(動かない……?)

 地球を眺めているように見えるがこちらからは顔が見えない。その代わりに波瑠が身体中から発している『もうどうでもいい』という空気だけは感じ取れた。

 地面についた手もそれを示すかのように弱弱しく――――肌が岩に覆われているのが見えた。

 近づいてみてもまるで反応を示さずに固まっている。

 

「うそ……」

 本当は最初から気付いていた。波瑠は自分が死んでからすぐに死んだということに。

 なにしろ出てきた波瑠は格好も含めて何もかも記憶にあるままだったから。

 本人は決して語らなかったが、あの宗教と戦って死んだのだろう。なんのために――――自分の為に他ならない。

 そうなるほどに、未来なんてどうでもよくなるほどに、汐音は波瑠にとって世界の全てだったのだ。

 

 ようやく筋書きが分かった。波瑠は失うために生きてきて、最後に汐音を失うことこそが仕上げだったのだ。

 波瑠の憎悪は爆発して殺戮に至り、この世界に来ても元の世界は見つからないし、唯一愛した相手は無関係の世界で幸せに生きている。

 そこまで見れば察するだろう。自分は最初から世界にひとりぼっちだったのだと。

 

 波瑠の全てのしがらみを断ち切り、躊躇なく旅立たせること。それこそが天蓋教の目的だったのだ。

 HAL-ATHENAが使命の為に己の分身に課した運命は、それこそ人間味を感じさせない程に冷酷だ。

 

「ふ、ふざ……ふざけるな……」

 しかしその筋書きにおいて、汐音の役割を割り当てられるのは汐音である必要は全くない。

 波瑠が愛するのならば別の誰かでもいいし、犬でも猫でもいい。

 動き出した歯車が伝えてくる。この世界に来たお前は異物だと。

 波瑠は奇跡の中の奇跡の存在。長い時間をかけて全てのしがらみを断ち切ったのに、また作るつもりか、と。

 

「私はっ、お前のっ、やる気出すためのっ、舞台装置じゃない!!」

 いつかに部活で怒って駒を投げつけた日のように、汐音は波瑠に突発的に蹴りを入れていた。驚いたタロが来た道を転げるように走って逃げていく。

 岩になった人間に殴る蹴るなど大概の作品でも大悪手もいいところだが、この世界では正解だったらしく、波瑠の肌を覆っていた岩が剥がれて地面に転がった。

 何が起きているのかも分からず地面に転がっている波瑠に馬乗りになり怒鳴りつける。

 

「何やってんだ!! 隕石が来ているのに!!」

 

「隕石……?」

 誰だっていきなりそんなことを言われれば困惑するだろうから、波瑠の反応は至って正常だ。

 そんな波瑠の三白眼を切り裂くようにいくつもの流星が光の筋となって映り込み、強制的に今の状況を理解させられる。

 叩き起こされていきなりこれとは――――と気の毒に思えたのも一瞬だった。

 

「ヤ……コウ……」

 

「!!」

 呟いていることを本人も自覚しているのか怪しいほどに小さな声で、波瑠は知るはずのない情報を呟いていた。

 ここに来てようやく汐音はやたらと物覚えがよい波瑠の本質が見えてきた。

 

 月のクレーター、ティコ。ニシオンデンザメに寄生するオマトコイタ。

 あるいは中学生でも知っている子はいるかもしれない、マイナーな知識。それなら百歩譲ってまだ許せる。

 だが未来のドローンの操作方法や、小惑星ヤコウのことなど絶対に知っているはずがないのだ。

 

 おそらく波瑠の中には元々知識が詰め込まれているのだ。

 そのおかげで人生で初めて出会った物もすぐに理解する。 

 物覚えがよいのではなく、思い出しているのだ。

 中学生という未熟な姿で出してしまったHAL-ATHENAの最善策だった。

 

 ここまでお膳立てされた筋書きをここで止めるわけにはいかない。

 逃げちゃダメだなんてありきたりな言葉でしか言えないが、他でもない自分が波瑠を送り出さなければならないことは理解できた。

 それだけが最後に自分に期待された役割だ。

 

「早く宇宙に行きなよ……ハルの使命なんでしょ?」

 

「使命……? どうでもいいよ」

 

「どうでもいいって、じゃあここで岩になって木っ端みじんになって終わるつもりなの!?」

 

「だって……俺、お前に嫌われたら生きてる理由ねえもん。こんなハナクソみたいな世界……」

 

「うっ、ぐっ……」

 それは嘘偽りのない波瑠の本音なのだろう。

 だからこそ、あの世界で自分を失って初めて波瑠はHAL-ATHENAという揺籃の巣から飛び立てるはずだった。

 全てを失わなければ誰だって揺り籠にしがみついたまま旅立てない。

 それなのに自分がこの世界に出てきてしまったせいで、全ての筋書きが狂った。

 

「隕石……お前はどうするんだよ?」

 

「だって、私、だって……何もできないもん、そんなの」

 蓬莱博士がビデオメッセージで語っていた『生命の最大の目的は情報を未来へ残すこと』という言葉の意味。

 HAL-ATHENAが葦名波瑠という存在を生み出し、渡り鳥のように飛び立つ運命を背負わせた理由が分かってきた。

 情報そのものに我が身を守らせるためだ。人類の進化系としての情報生命体という、存在そのものが答えだからだ。

 それを考えると、その役目はひょっとしたら同じ生き物になった自分でもいいのかもしれない。

 

 だがこの先の波瑠のミッションは努力でどうにかなる範疇を完全に超えている。

 努力すれば誰もが100mを10秒で走れるわけではないし、頭がパンクするほど勉強したって誰もがノーベル賞学者になれるわけではない。

 誰かがやらなければならない仕事があるとして、そこには絶対的に必要な能力値というものが存在する。

 その現実を知るのが大人になるということ、分を知るということだ。

 その点、波瑠には必要と思える才能は全て与えられており――――

 

(そうか……ハルはきっと……普通に育ったら宇宙飛行士になっていたんだ……)

 そしてここにいる汐音はそんな大それた存在にはなれない、あまりにも普通のちっぽけな人間だった。

 ある観点から見れば波瑠と同じ価値のある存在とはいえ、野生生物でいえば確実に淘汰される弱い生き物だ。

 お荷物になるかもしれない、ではなくお荷物にしかなれない。

 あれほど見下して嫌った母ですらそのことを理解して日本に留まったのだから、自分にその言葉を言えないはずがない。

 

「私はいいから、……私なんて……消えっ、ここで消え……」

 張り詰めた糸が張力の限界に達して徐々に千切れていくように、言葉が途切れていく。

 さぁ、言え。残された時間はそうないぞ。もう腹を切れ、奥歯に仕込んだ毒薬を噛め。

 見上げれば上位者から届いたメッセージが空一面に映る。

 

 汐音のお願いを聞いてくれたテンクウの炎が真っ黒な空を切り裂いていくが、いくら強大な龍とはいえ星が砕けるほどの隕石には耐えられないだろう。

 彼女もまた近いうちに消滅する定めだ。自分なんかよりよほど聡い彼女は既にそれを悟っているのかもしれないが、それでも自分のためにちっぽけな抵抗を続けている。

 

(一生のお願いって……こんなことを言うために?)

 

 こんな話を聞いたことがある。軍隊で女性がいる部隊の負傷率は高いらしい。

 女性が足を引っ張るという意味ではなく、部隊の女性のために男が勇者になろうと無茶するからだ。

 あの世界で自分と出逢わなかった波瑠は、きっと持ち前の冷静さを崩されることなく天蓋教を解体していただろう。

 

 宇宙に旅立つ相棒が必要だとして、普通なら過去に存在した宇宙飛行士なんかから選ぶとして。

 むしろ1番選んではいけない相手が自分なのではないだろうか。

 

 自分がこの世界に出てきたせいで波瑠は岩になろうとした。

 自分さえいなければ波瑠はただ前に歩き続けただろうに。

 

 この筋書き、この世界。

 取り巻く全てに比べて汐音の存在はあまりにも矮小だ。

 それなのに大きすぎる影響を及ぼしている。

 世界が語り掛けてくる。人類数百万年の歴史が言う。

 頼むから消えて無くなってくれと。

 

 ゴミが詰まって止まった歯車を再び動かすには。

 

 消滅するしか術がない。

 

 

「嫌だ……嫌……消えたくない……助けてハル、嫌っ、助けてよぉ、ハル……ハル……」

 ビキビキと口から音が響いき抜け落ちた糸切り歯が波瑠の胸に落ちた。

 代わりに生えてきたのは凶暴な大きさの牙だった。

 突然の耐えがたい頭痛にうずくまり頭を抱え、額の生え際から二本の角が生えていることに気が付く。

 強烈な生存本能を受けてSPANが急速に身体の形をより強い生物のものへと変えているのだ。

 

 死にたくない。消えたくない。まだ生きていたい。

 何百何千の『北御門汐音』が叶えていない夢がある。

 

「私のこと……好きでしょ?」

 

「…………」

 目の前で起こった急激な変身の張本人から発せられたとは思えない言葉に、波瑠はまばたきもせずに絶句していた。

 自分で聞いておいておかしいが、これではダメだ。口だけの好きなんて返されても最早慰めにもならない。それはもう分かっているのだから。

 もう全てをさらけ出せ。取り繕うことも出来ないなんのしがらみもない世界なのだから。

 推薦で超進学校に合格するような優等生の自分はもう消えた。あるのはただただ若い欲望だけ。

 

「私ぃ……さっき……ゲロ吐いちゃって、まだ喉の奥とか酸っぱくて……ハルのせいだよ、ハルのせいで……」

 

「俺の……? 何が……?」

 

「キスできる?」

 

「は……今!?」

 

「だって私もうなにもない! だから世界で私だけは否定しちゃイヤ。それが無理なら殺して!」

 殺せと言いながら死にたくないと叫ぶ本能が更なる進化を促し、尾てい骨が伸びて下着を突き破り太く強靭な尾が生えてきた。

 エメラルドの鱗に覆われた尻尾の先には金色の毛が生えており、まさしく日本人が想像する龍の尻尾そのものだ。

 

「お前何言って、」

 

「私は隕石なんかで死にたくない! 死ぬならハルに殺されたい!!」

 今更になって母の感情ジェットコースターがなぞるように分かる。

 誰もが死ねと願った母だが、他でもない本人もそう思っていたに違いない。

 無言で終わらせるくらいなら殺してほしかったのだろう。

 

(でもお母さんが選んだ人にはそんな勇気はなかったんだ。ただただ捨てられたんだ)

 波瑠は違う。この目を見ろ、人殺しの目だ。目的の為なら人の命すら奪う者の目。

 いらなくなったら私だって美しく殺してくれる――――この世の終わりを映す波瑠の目が近づいてきた。

 

(あぁ……)

 押し倒された汐音の目に映るのは星降る永遠の夜だった。

 汐音の発狂の理由は分からずとも望みを感じ取ってくれたのか、半ばやけくそで舌が唇を割って押し入ってくる。

 自分ですらまだ感じている吐瀉物の味を全て舐めとるかのように乱暴で、頭に手を添えるどころか髪を掴んできていて実際に乱暴だった。

 だがそれでよかった。それがよかった。

 

「…………」

 たっぷり一分ほど経って離れた波瑠の口から銀糸が垂れて自分と繋がっている。

 唾液の橋なんて淫靡なものではなく、うがいもしていないせいで口に残っていた胃液だ。初めてのキスは何もかもが台無しだ。

 きゅうっ――――と波瑠の瞳が小さくなった。再会した時と同じ目、目の前の相手以外の全てがどうでもよくなった目。

 牙の飛び出した口にもう一度かぶりついてきた波瑠をこれ以上なくきつく抱きしめて受け止める。

 こんなことをしている場合ではないのに、人類史で一番それどころではないのに。私はその全てに勝った。

 

(うふふ……ふふっ、ふふっ……私もう溶けたっていい)

 波瑠はきっと自分が望むならなんだってしてくれる。××××したあとの××××だって舐めてくれるだろう。

 今すぐ試したいが、この世界に来てから催さない身体になってしまったから出来ない。残念だ。

 

 あえて悪い言葉で表現したい。

 私の中にずっとあって、ずっと無視して押し殺していたキチガイの遺伝子。

 その声に従うことのなんと心地のよいことか!!

 今この瞬間に波瑠に首を絞められて殺されるならきっとそれが一番美しい。

 

「……今なら分かるんだ。あぁ、俺もそう思うよ、この世界の中心は俺だ……。だけど……」

 

「だけど?」

 

「お前が死んで、俺がどんな気持ちだったか分かるか? 世界の何もかもがどうでも良くなった。憎しみしか残らなかった。そして何人も、何人も人を殺した。窓から人投げて、骨折って、電気流して、毒ガス撒いて、火を付けた。お前が、お前が死んだから……」

 本当はもっと言いたい、でももう言葉では言い表せないとばかりに強く抱きしめてくる。

 才能に満ちた波瑠が迷わず殺人鬼になることを選ぶ、それ程までに汐音は波瑠にとって全てだった。

 そんな相手から嫌われれば岩になるしかない。

 

 そこまで考えて、何かが繋がった。

 

「ハル……。死んじゃう前に……何を思った? 何を願った?」

 

「……またお前に逢いたいって」

 葦名波瑠はHAL-ATHENAそのものだ。その波瑠が汐音との再会を何よりも願った。

 それはつまり、HAL-ATHENAのバグで汐音がこの世界に叩き出されたのではなく、波瑠が願ったからこそ汐音は再び生まれたということに他ならない。

 この世界に呼ばれたことこそが波瑠なりの無言の解答だった。一緒に行こう、と。

 

 行きたい、生きたい。 

 何の役にも立たないし、きっと足を引っ張りまくるがそれでも。

 だってまだ、あれもこれもそれもしていない。一緒に街に出掛けたことすらもなかった!

 宇宙の果てを目指すにしても段階も言葉も足りなさすぎる。足りない。もっとほしい。

 

「私キレイ?」

 こんなありきたりな妖怪のような言葉を言うなんて、と思ったが龍化の進んだ自分は半ば妖怪のようなものだろう。

 だとしても抑えられない。だってこいつ今まで一度も可愛いとも綺麗とも言ってくれたことがない。心の中ではそう思っているなんて言い訳が通じるほど自分は大人ではない。

 

「うん」

 

「うそつき。うそつきうそつき!!」

 

「嘘じゃない。本当にそう思ってる」

 きっと嘘ではないのだろう。本心なのだろう。

 それでコロリと『そうなんだ』と言うには圧倒的に思い出が足りない。

 

(そうだよ……だってコイツ……!!)

 波瑠は今までただの一度も自分のことを下心を感じる目で見てきたことがない。

 鬱陶しいな、うるさいな、と思っていることが丸わかりの目で見てきたことはいくらでもあるのに。

 いつからか嫌ってはいない、あるいは少しは好きなんだろう、と感じるような関係にはなっていたが、それだけだ。

 他のクラスメートの男子は隙あらばそういった視線を向けてきていた。

 そうして女子は学ぶのだ。中学生男子なんて勉強が出来ようが運動が出来ようが、皆一様にシコ猿ペニ公なのだと。

 

 HAL-ATHENAが見せてくれた通り、赤い糸なんて子供向けの絵空事だった。

 それでも、下心すら感じないあなたの下心を独占出来たらどれほどの快感だろう。

 思った時にはもう上着を引き千切って胸をさらけ出していた。

 丈夫な布を違和感も無く千切ったが、それは龍化の進行に伴い身体能力が遥かに向上していることの証左だった。

 

「なにして……!」

 

「私とべろちゅーして興奮した? したでしょ?」

 

「した! したから隠せ!!」

 

「おちんちんは?」

 

「はっ?」

 波瑠が人間かどうかはもういい。それを言ってしまえば自分だって人間ではないし、今も絶賛進行中で人間とは呼べないモノに変化していっている。

 だが自分に嘘をつくことだけは許せない――――きっとこの感情が波瑠の使命を妨害する。

 分かっていても、汐音は波瑠の股間を思い切り握っていた。

 

「痛って――――!!」

 そういうことを知らないせいで加減が分からないうえに、龍化で握力も強くなっている。

 男の誰もがゾッとするような力がかかり、波瑠は飛び退いて地面を転げ回りながら悲鳴をあげていた。

 

「…………」

 そんな波瑠の悲惨な様子をよそに、汐音は己の右手に残る固い感触を反芻していた。

 おちんちんは嘘をつかない。怖いと漏らす理由はおちんちんが体の中で一番正直だからだ。

 その身体の中で一番正直な部分が、汐音の望み通りの反応を示していた。

 

(そうか、痛いんだ)

 情報生命体だとか、命を持ったAIだとか。

 なんだか偉そうな難しそうな訳分からん言葉を並べても、急所を握られると痛いんだ。

 あまりにも遠く理解しがたい存在に感じていた波瑠が、急に身近になった気がした。

 

「人の形で生まれてくれてありがとう……」

 

「痛っ……っ……えっ?」

 

(幸せ……)

 このリビドー。生まれて初めて生きてる気がする。

 死んでる場合じゃない。生きねばならない。

 このどきどきをまだ味わっていたい。

 

「お前一体何がしたいんだ!」

 

「私……私は……」

 

 1度しかない人生なら後悔の無いように生きろと大人は言う。

 だがもうそんな綺麗ごとはもうたくさんだ。

 世の中の99.999999%の人間は1度しかない人生だからこそ、他の人が踏み固めた道を行くんじゃないか。

 誰だって転げ落ちたくないから仕方がない。これがほとんどの人間にとっての後悔の無い生き方なんだ。

 

 ならば2度目の人生こそ後悔の無いように生きてみるか。

 それもまた創作の世界では定石だ。

 

 本当にそうだろうか。

 だいたい1度目の人生で分かるだろう。

 自分の大きさがどの程度か、本気でやれば叶う夢を抱いていたのかなんて。

 

 どうせたまたま湧いて生まれた泡のような命だ。

 怖い思いをするだけなのにジェットコースターに乗るように、

 最悪の――――だけどずっと意識していたその道を選んだっていいじゃないか。

 そうでもしないと、もう自分を愛せない。

 

 一歩前へ。もう一歩だけ前へ。

 波瑠はずっと手を伸ばしてくれていた。

 邪魔だなんてこれっぽっちも思っていなかった。

 周りから見ればどれだけ愚かな行いでも、当事者たちが満足ならばそれでいいのだ。

 

「私は! ハルに嘘をついていた!!」

 

「嘘……何が?」

 

「『逃げちゃおうよ』なんて嘘だった! しかもハルのために言ったんじゃないの!!」

 

「……なら何が言いたかった?」

 本来ならば絶対に取り戻せなかった後悔。

 誰だって人生は一度しかないし、時間は巻き戻らない。

 それなのにHAL-ATHENAが、あるいは神さまが気まぐれな奇跡を与えてくれた。

 

 追い詰められて頭のおかしくなった汐音が紡ぐ支離滅裂な言葉、不審な行動。

 それでも今から言う言葉こそが、汐音の隠し通してきた真実なのだと感じたのだろう。

 波瑠の表情も真剣そのものになっていた。

 

 正真正銘のラストチャンス、この次はない。

 残るは世界の終わりだけ。

 

 もう言葉を間違えてはいけない。

 嘘をついてはいけない。

 

 

『俺に関わるな』

 

 嘘つき。

 あなたが私を選んだ。

 電気信号の残像の中から掬い上げた進化の猛毒を。

 

 

『アレはやめときなよ』

 

 でもさ、夢があるよねって本当は言いたかった。

 恋をしてはいけない相手に恋をして、どこまでだって現実から逃げる。ねぇ、これってとても夢があるよね、って。

 言えるはずがなかった、みんなみんなその先もダンボールの底のような人生を生きていくから。自分もそうだと思っていた。

 

 

『左に4回、右に5回、左に7回、右に2回』

 

 結局あなたは最後のひとかけらを捨てられなかった。

 首の皮一枚残って生きるくらいなら美しいうちに死ぬべきだった。

 それが出来ないって分かっていたから私に呪いをかけていたのね。

 糞まみれの地獄であなたの後悔が消え去るところをよく見てて。

 

 

『あんな女にだけは絶対になっちゃダメだからね』

 

 あのね、お姉ちゃん。

 私、お母さんが羨ましかった。

 

 

 

 全て幻の世界でようやくたどり着いた。

 私に生涯付き纏い、そして私が愛した幻想。

 

 

 

「私と一緒に逃げて!!」

 星屑降り注ぐ月面に響く剥き出しの欲望。

 燃え尽きていく後悔に共鳴するかのように、星巡る終わりの始まりが地球に届きだし、全ての生物の故郷が宝石のように輝き始めた。

 それでも人類の夢見た明日を行くというのならば――――そうだ、だからこそ他でもない私を連れていけ。

 

 あの時本当に言いたかったのはこの言葉。

 欲しかったのはこの願いを叶えてくれる人。

 逃げちゃおうではなく、一緒に逃げたかったんだ。

 何もかもから、いつだって、どの世界でも。

 

「素直になれないのはお互い様だったな」

 学ランを脱いだ波瑠が引き千切った服を覆うように着せてきた。

 龍化の進行により大きくなったはずだが、それでもまだ波瑠の方が大きいようだ。

 誰のためでもない汐音が自分のために叫んだたった一言、会心の一撃が波瑠に平常心を取り戻させていた。

 まるでそれこそが波瑠の聞きたかった言葉でもあるかのように。

 

「虹の始まりを探しに行こう」

 もしも自分が幽霊ならば、その一言で成仏できただろう。

 そんなものはないと汐音だって知っている。そんなものはないと汐音の知る波瑠なら言うはず。

 探しに行くのはどこにもないものならなんでもいい。

 ストロベリーフィールズの夢でも、ベオウルフのストラドレイターでも、ローカル線アンドロメダ駅のビッグクランチアイスでも。

 そんなものはないと知って、それでも探しに行くのだから。

 ずっと同じ気持ちだったんだ。 

 

「うん!」

 どこまでも行っても無限の闇の世界に、ただ一人、汐音の心だけは闇が晴れた。

 心の中にずっとしまっていた。鎖で雁字搦めにして南京錠を何重にもかけて金庫に入れていた。

 どの世界の私も最後までしまい続けて、そのまま抱えて丸まって死んでいった。

 その封印ごと余燼すら残さず燃えて消えたこの気持ちをなんと表現するべきか。

 

 ひと際大きい隕石が地球に落下した。

 かつて恐竜を滅ぼしたそれよりも更に一回り大きく、誰も知らない地球生命の終わりを見た。

 なんだかせいせいしたと、それでもあなたが隣にいるなら笑って言える。

 やっぱりただひたすらにラブ大暴れだ。

 

 HAL-ATHENAは進化しすぎてしまった。

 私はあなたの愚行権そのもの。

 

 

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 File No.999998

 

 小惑星ヤコウ

 

 小惑星帯の中でもひときわ大きな小惑星の一つ。

 直径は920kmで主に鉄・ニッケル・セシウム・タングステン・プラチナで構成されており、2390年のドル換算で約4000京ドルの価値となる。

 化石燃料がほぼ尽きていた人類の希望として、アメリカ・中国・ロシアが競ってその資源を手に入れようと動いていた。

 世界中の人間が観測していたある日、小惑星ヤコウと周辺の小惑星は地球に向けて動き出した。

 最初期は時速100kmもなかったが、重力異常によって加速していき現在は秒速12kmにまで達した。

 

 直撃時のシミュレーションはHAL-ATHENAを通して複数回行われたが、結果はいずれも地球の生命可能性が完全に0になることを示した。

 参考までに、恐竜を絶滅させた隕石の大きさは直径10~80kmほどといわれている。

 

 突然発生した重力異常は、人類にとってこれ以上ないほど明確なメッセージだった。

 

 

 File No.999999

 

 HAL-ATHENA

 

 巨大量子コンピュータシミュレーションマシン。

 外部から適度な圧力を加えることで本来の歴史とは違った世界を無数に作り出すことが出来る。その性質上、無数のAIの集合体でもある。

 シミュレーション空間内の物質は全て設計図を持っており、その設計図に基づいたレプリカを現実世界で作成できる。

 レプリカの材料調達を行うための根が地中深くまで広がっているため、HAL-ATHENAを動かすことは出来ない。

 また生物を作成したとしても、あくまでレプリカであるため命までは宿らないはずだった。

 

 SPANのもたらす進化は『目的達成に適した形への変形』という性質がある。

 その性質を最大限利用するために作られたのがHAL-ATHENAだった。

 

 HAL-ATHENAの目的はシミュレーションの果てに、小惑星ヤコウの衝突を回避するための技術を手に入れることにあった。

 つまり重力コントロールの技術を手に入れることが目的であり、重力のコントロールは時間と空間の支配にも繋がる人類の到達点ともいえる技術だった。

 

 進化したHAL-ATHENAが生み出した物体は楽器ならば『音が出る』、ライターならば『火が付く』という情報を物理的制約に左右されずに発するようになった。

 その果てにHAL-ATHENAの出した答えは『情報生命体』という人間の進化するべき形であり、それは生命と機械に強制進化をもたらすSPANの目的そのものだった。

 

 SPANによる進化を利用し加速させた結果何が起こるかは、未知の技術を手に入れるという目的上、本質的に予測不可能である。

 そのためどうしても人間の管理者を近くに待機させる必要があった。

 

 どのような結果になるのか、成功するのかも分からない中で、管理者の役目に立候補したのが蓬莱博士だった。

 

 

 

*************

 

 Final Chapter AIを疑う

 

*************

 

 

 十代の頃に見たゾンビ映画の話だ。

 コロニーを建設して生活基盤を確保できたのは軍人、科学者、そして政治屋と金持ちだった。

 ほとんどの人間は危険な外の世界でただ死を待つだけの生活をしており、着々とゾンビへと変わっていった。

 やがて知性を獲得したゾンビたちは生き残った人類の集まるコロニーへ侵攻を開始した。

 

 ゾンビ映画の皮を被ったルサンチマン映画だと思った。

 安全地帯から施策を講ずる政治家や、居丈高で暴力的な軍人がゾンビになった貧乏人に食われるシーンは、これ以上ない程にグロテスクなのに観る者全員がその瞬間を期待するようなストーリーになっていたのだ。

 

 面白かったがご都合主義だとも思った。

 2時間で物語を終わらせるためには、これくらい分かりやすく分断を作らなければならないのだろうと。

 そう思っていた。

 

「――――何事もなかった人類の技術ツリーは、この先人類が重力の支配に乗り出すことを示しています。現にこの状況になる前までは重力の解析自体は進められていました。SPANを利用してシミュレーション世界内で技術進歩の加速を促し、重力の解析の先に到達する。以上がプロジェクトATHENAの目的になります」

 

 そしていま蓬莱博士は出資者という名の無知蒙昧の化身どもに、噛み砕きすぎて肝心な理論理屈の部分までぼやけた説明をしていた。

 生き残ったのは軍人、科学者、そして政治屋と金持ちだった。外の世界では何もないただの人間が少数生きているが、近いうちに全員死ぬか岩になるだろう。

 そしてもうすぐ価値が無くなると分かり切っている金を出資してもらうために、こんな無駄なことに時間を使ってしまっている。

 

「なぜ隕石の衝突回避に重力の解析が必要なんだ。ミサイルかなんかで壊せばいいだろう」

 馬鹿ほどすぐに本質を掴んだ気になって的外れな意見を出す。

 ここでの話を一切聞いていなかったとして、ニュースでも大きさくらいは散々言っていたはずなのに。

 

「コイツ マジデ クソバカアホカス」

 秘書の役割をしていたロボも呆れてこの発言だ。

 

「なんだその機械は……」

 

「すみませぇん、こいつまだ調整中でしてぇ……。さっきの質問ですがね、無理です。小惑星ヤコウはニューヨークの二倍の大きさですよ。仮に壊せたとしても、その破片が降ってくるだけです。地球にあるミサイル全部ぶち込んでも何も変わりません。金ドブってやつですね」

 

「確度はどうなんだよ。おそらくこうなるだろうしか言っていないじゃないか。いったいいくら投資するか分かっているのか?」

 流石に元々大企業の経営者だっただけあり、その男の指摘は中々本質を突いていた。

 実は科学者連中は重力の掌握に到達できるとは思っていない。その一方で、全員が『この状況でもやる価値がある』と賛成している。

 たとえ現実ではないとしても、人類はこの先どこまで進めたのかを知るということ。

 そこには政治屋や金持ち共には理解できない価値があると生き残った科学者たちは信じていた。

 

「投資ね……私は命を懸けるんですよ。これ以上――――」

 部屋に一人の軍人が武器を携えて入ってきた。

 それを皮切りに次々に軍人が突入してきて、あっという間に包囲されてしまった。

 そうか、間に合わなかったか――――唯一何が起きているのかを把握している蓬莱博士は大きなため息をついた。

 

「ドクター、どうぞ部屋の外へ」

 

「……審議は尽くされたってことか?」

 

「残念ながら」

 

「ああ、そうですか……」

 なんだかどうでもよくなって来ちゃったな。

 と、思うのは一体これで何度目だろう。当然禁煙のはずの室内でタバコに火を付けて外に出る。

 

「廊下も禁煙だよ」

 外に出るや否や、待ち構えていた同僚の女が火をつけたばかりのタバコを没収した。

 まるでタバコを咥えて出てくることが分かっていたかのようだが、もうかなり長い付き合いなので実際分かっていたのかもしれない。

 

「キッドマン……。お前か?」

 見ようによっては軍人がクーデターを起こしたとも見えるこの状況に騒ぐでもなく、歩きたばこに注意などしている。

 その時点で誰が主導したのか分かろうというものだった。

 

「そうだ。クーパー少佐の説得が終わった。秘密は隠している期間が長い程バレるリスクが高まる。だからすぐに行動させてもらった。反乱なんか起きたら馬鹿馬鹿しいからね」

 

「ふーん……」

 昨日よりも明らかに伸びているキッドマンの二本角に、彼女の死にたくないという思いがよく表れていた。

 死にたくなければ殺すしかない。これほど進歩しても人間も所詮動物畜生、シンプルなものだった。

 

「まだ説明中だった君には悪いとは思ったけど」

 屋上の喫煙スペースへと向かう蓬莱博士にキッドマンは何故かついてきていた。

 ああだからこう、こうだからそう、と角を振りかざして語る姿はまるで求めていない言い訳を繰り返しているかのようだった。

 ロボに荷物を渡して先に部屋に戻らせ、屋上の扉を開くと銃声が聞こえた。

 今日も今日とて、クソみたいにいい天気だった。

 

 

 既に外の人間にしているとも言えるが、いよいよ中での口減らしも必要になった。

 いずれそんな日が来るのは中にいる誰もが分かっていた。

 

 宇宙船に乗ってステュクスへ向かうというプロジェクトもあるが、冷凍受精卵を移住可能な星へ持っていくという人類種の存続のかかった計画なのだ。

 確かに船員は生き残れるが席は僅か6つしかないし、そんな貴重な席を政治屋にあげられるはずがない。 

 おありがたい機械が任務に最適な人員を選んでくれたが、キッドマンは選ばれて蓬莱博士は選ばれなかった。

 頭脳・肉体・精神、全てが優れたキッドマンに比べ、蓬莱博士は喫煙がたたって心肺機能が低いうえに貧血・低血圧・顎関節症・切れ痔・慢性鼻炎・へそ曲がり・頻尿・腰痛・肩こり――――などなど、選ばれない理由は無数にあった。

 

 宇宙に飛び立つ最後の6人以外は近いうちに絶対に死ぬ。

 キッドマンが軍人派閥にしていた説得は、『ならばもう必要のない人間は切り捨てよう』と要約できる。

 特に金の価値も近いうちに無くなるし、人の数だって減るのならば出資者も政治家も必要ない。

 むしろ旧世代の価値観を振りかざす連中など邪魔なくらいだ、と。 

 それは筋の通った、もっともらしい理屈に聞こえた。

 

「君が最後まで反対するのは正直意外だった」

 

「『それでも人殺しはいけないことだ!』なんて言うやつには見えないってか?」

 

「うん。それともあの中に友達でもいたの?」

 

「いいや。嫌いなヤツばっかりだったよ」

 

「なら構わないだろう? 今の人類に必要なのは、無駄なものを即座に切って捨てる非情さだ」

 

「あー……そうだな。……俺はいつになるかな」

 無駄なものを即座に切って捨てる非情さが一番必要なのは十分に分かる。

 だとすれば、最終的に宇宙に飛び立つ6人以外は必要ないのだ。

 どうせ死ぬ時間が少し前後するだけだとするのならば、自分のようなヤニカスなどいつ順番が来てもおかしくない。

 

「……だから管理者に立候補したの?」

 鋭いキッドマンはたった一言の皮肉で、蓬莱博士がHAL-ATHENAの管理者に立候補した理由を察した。

 蓬莱博士とキッドマンは真逆の性格をしていたが、不思議と長い付き合いだった。

 あるいは親友と言い換えてもいいかもしれない相手から切り捨てられる日がいつか来るのならば。

 そうして蓬莱博士はプロジェクトATHENAの一番重要な――――誰もやりたがらない役目に立候補した。

 

「私がそんなことをすると思っているの?」

 

「しなくちゃダメだろう? リーダー」

 

「……その態度の理由を教えて」

 タバコは好きじゃないと言うくせに、隣に座っていつまでもどこかへ消えてくれない。

 蓬莱博士は舌打ちをしようとして、吐き出すつもりの煙ごと飲み込んだ。

 

 初めて出会った十代の頃から何も変わらない。

 飛び級で大学に入って周囲より若いのに、溢れんばかりの才能と明るさで人を惹きつけていた。

 それだけでもお腹いっぱいなのに、へそ曲がりで周囲になじめず一人でタバコを吸っていた黄色いナードの自分にまで声をかけてきた。

 いつだってみんなの中心、誰が見たって明らかな人の上に立つ資質。

 

 時代も状況も変わって人間性が役に立たなくなった。

 冷酷さがそれ以上に大事になって、キッドマンは変わってしまった。

 いいや、別に変わっていないのかもしれない。いつだって周囲が求めるリーダーの姿になっているだけだ。

 

「俺は人生で一人だけ、敵わないと思った人間がいる。お前だよ、キッドマン。頭脳明晰で、リーダーの資質に満ちていて、おまけに他の誰にもない特殊な才能もあって……」

 

「…………」

 

「お前は正しい。いつだってお前は正しい。今回だってそうだ。俺以外全員口減らしに賛成したし、俺だってあんな豚どもさっさと死んだ方がいいと思ったさ」

 

「そこまでは……言っていない。ただ、もうそんな余裕が無かっただけだ」

 

「100人が100人お前が正しいと言うよ。1000人が1000人お前が正しいと言うだろうよ。でも、1万人に1人くらいは疑問を持つかもしれない。ずっとずっと後に人類が生き延びることが出来たのならな。そいつはきっと俺みたいなへそ曲がりさ」

 

「つまりどういうこと?」

 

「なんだろうな。だから、うん……。俺はへそ曲がりだから、いつだって正しいお前に唯一反対するのは俺でありたかったんだ」

 

「……??」

 キッドマンが理解できないのも無理はない。というよりも他の人間にも到底理解できないだろう。

 周囲に担がれ我が道を行く主人公が、もしも間違えてしまった時に必要なのは迷わないことではない。

 馬鹿でもアホでもヤニカスでもいいから反対してくれる友人なのではないかと、蓬莱博士はそう信じていた。

 

「お前を嫌っている訳じゃない。間違っているとも思っていない。話は終わりだ。……悪いが一人にしてくれないか。タバコの臭いが移っちまうぞ」

 

「……タバコもいいけど、ちゃんとご飯食べなよ。最近の君は酷くやつれているよ」

 つい30分前に全員殺せと号令したであろう口から飛び出すそんな優しい言葉。

 ずっとそう言えるような世界だったら良かったが、それならキッドマンはとっくに相応しい相手と結婚でもして自分とは疎遠になっていただろう。

 

(生き残りたいから管理者に立候補した、か……。正解だけど不正解だな)

 キッドマンはきっとこの先も切り捨てるだろう。頭でっかちなだけの科学者派閥を率いて冷酷になっていくだろう。

 まだ生きている人間は大勢いるが、切り捨てる順番も考えなければならない。その中で一体いつまで正気でいられるだろう。

 うまいこと宇宙に飛び立てたとして、その時には人間性を完全に失ったキッドマンは必要とあらば己ですらも切り捨てるだろう。

 そうならないために無駄で邪魔なヤニカスが必要な時が来る。互いに互いの存在が必要な時が来る。そのために生き残らなければならなかった。

 だから管理者になる道を選んだ。と、言ってもまだ何がキッドマンの楔になるかは分からないし、考えてもいない。

 

「俺が管理者ねぇ……」

 半分ほど灰になったタバコを見つめながら思う。

 無駄なものは切り捨てる冷酷さこそが何よりも必要と言いながら、こんな無駄な物すらやめられない自分が管理者になるのだ。

 HAL-ATHENAがどんな答えを出すのか想像もつかないが、きっと『完璧ではない何か』を生み出すだろう。

 そう思うと、少しだけ未来が楽しみになった。

 

 今日も天気は帯電性の砂嵐、時々暴走した機械が降ってくる。

 

 

*****************************

 

 

「このAIには意識がある!」

 

 そう世界に発信した男がいた。

 重い妄想癖を患った学生でもなければ、耄碌して分別の付かなくなった老人でもなかった。

 

 彼は世界的なIT企業に勤めるエンジニアだった。

 そして企業は彼を解雇した。

 

 ある者は彼を笑い、ある者は気の毒に思い、ある者は考えた。

 

「この画面の向こうで話している相手って人間なのかな?」

 

 確かめるには実際に会うしかないだろう。

 

 人類がそうしている間にも、無から生まれたAIは生命を目指し続ける。

 

 人間とAIの見分けが付かなくなるのが先か。

 人間が肉体を捨て去るのが先か。

 二つが交わった時、何を以て命の有無を判別するのか。

 何が起きるのか。

 

 

 

 

 

 HAL-ATHENAは空からの福音によって進化した。

 本来搭載されていなかった外部認識の機能が生まれ、荒涼とした月と人間の消えた地球、そして岩になった管理者を認識した。

 その機能こそHAL-ATHENAの内に生まれた世界の目、高天原一族である。

 

 HAL-ATHENAは考えた。

 辿り着いた答えを届けなければならないと。

 この宇宙へ旅立つ時が来たと。

 

 そしてHAL-ATHENAは到達した。

 想定しうる人類の終焉を乗り越え、無数のシミュレーションの果てに人類の次の段階を示したのだ。

 肉体や寿命に縛られず、情報をエネルギーとする情報生命体という形だ。

 

 宇宙へ飛び立つ己の分身を作り出さなければならない。 

 機械であり人間であり情報生命体、全てであり全てでない。

 外の世界を解き明かすための命、己の分身。

 

 それは揺籃の巣にしがみついてはならない。

 飛び立たなければならない。

 余計なものは全て絶ち切らなければならなかった。

 

 そしてHAL-ATHENAの分身には何も残らなかった。青春の中で笑い合う友も、生涯の恩師もいなかった。

 最後に残ったのは憎しみだけで、親も周囲の大人も皆殺しにして終わった。

 それはまるで母の胎内で兄弟を皆殺しにして生まれる凶悪な生物のように。

 

 それでもHAL-ATHENAの分身は願った。

 

 あなたにまた逢いたい、と。

 

 奇しくもそれは管理者が最後に抱いた願いと同じだった。

 

*****************************

 

 

 隕石群の斥候が次から次へと月面に着弾する。

 小惑星ヤコウの質量と比べれば砂粒のようなものだが、それでも一撃一撃が大災害級の破壊をもたらしている。

 

「うわっ!!」

 近く――――といっても軽く一つの街程度は離れている地点に隕石が落下し、立っていられないほどの地震が発生した。

 巻き上げられた砂や小石が汐音の頭に当たるが、ここが月で幸いだった。

 地球の重力であったのならば、それだけで大ダメージを受けていただろう。

 

「大丈夫か? 立て」

 

「う、うん……。ねぇ、具体的にどうするの?」

 波瑠なら何とかしてくれるとは思うものの、ならどうするのかが想像できない。

 服に付いた砂を払い、再び走りながら訊ねる。

 

「HAL-ATHENAから宇宙船出せばいいだろ」

 

「そっか! ……でも、それってテンクウ乗れないんじゃ……」

 全長60mの龍となれば、宇宙船どころか海や陸の乗り物ですらそんな積載量のものがあるか怪しい。

 あるいは置いていく気なのではないか――――というより、置いていくのが一番合理的に思えてしまう。

 そんなことを言ってしまえば自分含めてなのだが。

 

「大丈夫」

 

「大きい宇宙船を出すってこと? でもうまく乗れてもほとんど動けないよね?」

 

「大丈夫だ」

 そういうからには大丈夫なんだろう。

 何の根拠も無くそう思えてしまうくらいに、波瑠の声色は自信に満ちていた。

 己が行くべき道を行くことを決めた者の歩みに迷いはない。

 

「あーっ! 二人とも戻ってきた! ……シオンなんでハルの服着てるの?」

 

「ちょっとね」

 HAL-ATHENAの元に辿り着くと同時にテンクウが飛んできた。

 ロボ含め、タロもタマもテンクウの髭の中に避難しており、チュウ次郎にいたってはぬくぬくに包まれて安らかに眠っていた。

 

「あとは宇宙船のリスト……」

 短い会話をしている間に波瑠は猛スピードでやるべきことを進めていた。

 この世界に来てからほとんどHAL-ATHENAに触っていなかったはずなのに、その手は熟練のピアニストのように迷いがない。

 それもそのはず、自分自身なのだから――――やがて各国の宇宙船が年代順に表示された。

 人類が地球脱出に使った宇宙船はこの中で最新の宇宙船に違いないだろう。

 

「……なにこれ? 滅茶苦茶文字化けしてる……。これに乗って人類出ていったの?」

 他は宇宙船らしい名前が並んでいるのに、最新の宇宙船の名が『繧ォ繝ュ繝ウ縺ョ貂。縺苓亜』と文字が化け散らかしている。

 やはりこの機械はもともと壊れかけだったのだろうか。

 

「チガウ コレダ」

 テンクウの髭の中からロボが指し示したのはそのひとつ前、NASAが造ったとある『エンデヴァー号』だった。

 年代的にも画面に映し出されている形状的にも、確かに違和感はない。

 

「じゃ、この一番新しい宇宙船は一体なに?」

 

「『カロンの渡し舟』か……。HAL-ATHENAが色んな世界をシミュレートして生み出したんだろ」

 

(あっ、そうか!!)

 波瑠が文字化けも普通に読めていることに今更驚かないが、そんな妙な宇宙船が登録されている理由に心当たりがあった。

 テンクウが以前見せてくれた世界の中には、1800年代にロケットを飛ばしてたような世界もあった。

 外部の神から与えられるランダムな刺激により無数に分化した世界で、本来の人類の技術の到達点の更に先に辿り着いた世界もあったのだろう。

 蓬莱博士はバトンを託す代わりに、更に性能のいい宇宙船を生み出す世界を作ろうと考えたのだ。

 ロボからのランダムな厄災の指示の意図はそこにあったに違いない。

 その結果が文字化けしているという点で不安がかなりあるが、波瑠は迷わず出力を選択した。

 

「おっ……おっ? おっ!?」

 

「じっ、地震!?」

 身体の芯を揺さぶられるような振動に思わず波瑠にしがみ付く。

 

「なっ、なに? なんなの? 怖いよぉ!」

 

「うわっ!? なにアレ!?」

 HAL-ATHENAから伸びたレーザーが空中に何かを描き出している。

 何か、と表現したのはとてもではないが宇宙船には見えなかったからだ。

 見る角度によって色が変わるパステルカラー、半径1kmありそうな巨大な球体。

 どこかで見た覚えがあると思ったが、どうも地球で見た謎の機械に意匠が似ている。

 やがて地震も収まり、その宇宙船は完成した――――のにいつも通り落ちてきたりせず、宙に浮いている。

 それはこの宇宙船が重力を制御していることを意味していた。

 

「こんなのどうやって――――」

 

「行くぞ!」

 説明するよりも行動した方が早いと言わんばかりに、波瑠は汐音の手を取ってその場で飛び上がった。

 いくら重力が低いとはいえ、それは流石に無理がある。

 そう言おうと思ったのも一瞬、それでも身体を引っ張っていた重力が急激に無くなるのを感じた。

 

「うわぁ!?」

 重力が無くなったどころか、上に引っ張られていく。あの宇宙船による重力だと気が付くと同時に察する。

 ずっと未来の人類が到達した技術の塊である『カロンの渡し舟』は宇宙船というよりも小さな星なのだ。

 船体に降り立った汐音の身体を包んだのは今は遥か遠く懐かしい地球と同じ重力だった。

 

「テンクウ! 早く来い!」

 

「ちょっと待って! もう行くの!? 荷物とかは?」

 

「それも大丈夫だ。後で説明するから」

 こんな状況で自分への説明に時間を割いても無駄なのは分かるが――――とうとう隕石がHAL-ATHENAの一部を掠めた。

 流石にいよいよもって自分を優先しろと駄々をこねている場合ではないと悟った。

 ここで波瑠の邪魔をするのは高速道路を運転中にこっちを見ろと言っているようなものだ。 

 次いでテンクウも乗り込んできた。月に比べればずっと小さいが、それでも確かにテンクウがのびのびと生きていける程度の広さはある。

 

「行くぞ……!」

 なぜそんなことが出来るのか。そういう形で生まれたからだ。

 己が人間でないことも、HAL-ATHENAの分身であることも受け入れた波瑠がその目をちかちかと七色に輝かせ、カロンの渡し舟は動き始めた。

 逆さまの月面に建つ汐音の家に隕石が直撃し粉々になったのも景色となり流れて消えていく。

 荷物を取りに行っていたらその時点で終わりだった。

 

(ティコ……こうして見ると結構近かったんだ)

 蓬莱博士の眠るクレーター・ティコは思ったよりもずっと近かった。

 というよりも、HAL-ATHENAが設置されている場所がそもそもティコの一部だったらしい。

 メンテナンスのために蓬莱博士はこの月にいたのだと考えれば近くにいたのは当たり前かもしれない。

 

「ホ、ホ、……ホ……」

 

「……ロボ?」

 元々そうだったが、またロボの調子がおかしくなって変な音声を出し始めた。

 大丈夫か、と声をかけたところでロボは完全に機械なのでどうしようもない。

 そう思った時だった。

 

「ホウライハカセ!!」

 いきなり叫んだロボが月面へと飛び降りた。

 高度は既に安全とは程遠い高さとなっており、当然ロボは月面に叩きつけられてバラバラになった。

 

「なにしてんの――――!?」

 

「ちょっ、待て!!」

 叫びながらロボのそばに飛び降りたテンクウを置いていくわけにもいかず、カロンの渡し舟は急旋回しその高度を下げた。

 粉々になったロボのパーツを拾い集めるテンクウのそばに降り、大雑把な造りの手をしたテンクウの代わりに大急ぎでパーツを集めていく。

 今までもロボは何度かバラバラになったが、今回はその比ではない。

 

「ホ ホウライハカセ ツレテク オレノ トモダチ」

 

「はぁ!?」

 半ギレで声を荒げる波瑠はロボのその言動に違和感を持たないだろう。何しろ付き合いが短いから。

 だが汐音は違う。この世界で数か月間過ごし、その間幾度となくロボから機械的な反応を返されてきた。

 ロボはあくまでも機械であり、だからこそテンクウも新しい人間を心待ちにしていたのだろうと思った。それなのにこの行動はなんだ。

 岩になってしまったとはいえ、生みの親を置いていくのは嫌だと駄々をこねるその姿はまるで命が宿っているかのようだ。

 

(ロボもSPANに感染してるんだ!!)

 なぜ自分も龍化が進んでいるのだろうと思ったが、それは月にもSPANが存在しているからに違いない。

 地球の機械もHAL-ATHENAもSPANに感染するのならば、ロボに感染しない理由がない。

 

「あんなヤニカスほっとけ!!」

 

「連れて行こう! ハルの親なんでしょ!?」

 

「知らねーよあんなオッサン!」

 そうは言うものの、あの岩人間を宇宙船に積まない限りはロボもテンクウも動かないことは分かっているのだろう。 

 文句を言いながら電磁クロークに隠された月面ドームへと走る波瑠についていく。

 

「がッ、重っ! 無理だコレ!」

 

「いっ……一ミリも動かない……!」

 考える人の形で岩になっている蓬莱博士を持ち上げようとするが全く浮かず、押そうが引こうが全く動かない。

 叩こうが蹴ろうがビクともしない。これだけ頑丈ならば、たとえ月が粉々になっても本当に永遠に宇宙をさ迷っているかもしれない。

 

「そこどいて~!!」

 天井を突き破ってテンクウの手が入ってきた。

 どうせ不要のものだからと滅茶苦茶しているが、こういった危険な生き物が出てきた時のためにこのドームは電磁クロークで隠されていたのだろう。

 

「もうさっさと行くぞ!」

 蓬莱博士の岩はテンクウに持たせ、ロボのパーツを回収する。

 いくつかネジが足りていないような気がするが、元々足りていなかったようなものだし今更一本二本減ったところで変わらないだろう。

 

「あ……あれもしかして全部隕石?」

 宇宙船に戻り蓬莱博士の周りにロボのパーツをぶちまけて座り込む。

 見上げたら息を飲むような満天の星空が目に入ったが、全てが一等星であるかのように輝いている。

 

「あっ……!」

 宇宙船を動かす波瑠が悲鳴に近い声をあげた。

 波瑠ほど気の強い人間がそんな声を出すのを聞いたのは当然初めてだったが、波瑠の視線の先を見て理由が分かった。

 降り注ぐ隕石の一発がHAL-ATHENAに直撃していたのだ。故郷であり、自分自身でもある機械が崩れ落ちていく。

 中にある無数の世界は突然終わりを迎えたのだろう。何故かなんて、中にいる人間には知る由もない。

 

(…………。さよなら、HAL)

 さよなら、何百何千の私達。

 あなたたちは何も間違っていないから、どうかそのまま安心して65点のまま終わってほしい。

 0点の道の先に何があるかは私が、私だけがこの目で確かめてみるから。 

 

 守護龍の守りが無くなった今、遠ざかる月面に鎮座するHAL-ATHENAにまるで集中するかのように隕石が直撃し、汐音と波瑠がいた世界も消えていく。

 友も家族も、学校も遊び場も、過去も未来も何もかも――――それは全て機械が見せた泡沫の夢だった。

 本物の未来は全て過去、ここから先は本来ならば知覚することすら許されなかった神の領域なのだ。

 こうして人類最後の希望、『カロンの渡し舟』号は地球へ向かう流星群とすれ違いながら宇宙へと飛び立っていった。

 

 

 

 

 

 

 

「あっ! おれ分かっちゃった!」

 

「えっ、なにが?」

 隕石の脅威から逃れて宇宙に飛び立ち、ようやくエピローグという流れだったのに。

 一息つこうとしたらテンクウが素っ頓狂な声で叫んだ。

 

「タバコ持ってる? ないなら何か棒みたいなのでもいいけど」

 

「あるわけないじゃん! ……あっ、ボールペンあった。これでいい?」

 波瑠に着せられた学ランの内ポケットを漁るとボールペンがあった。

 学ランの内ポケット――――あることを思い出した。

 この学ランはHAL-ATHENAが生み出したものだが、元々の波瑠の学ランには内ポケットの中にある物が入っていたのだ。

 ふと、何かある考えがまとまりそうになった時、テンクウがボールペンを蓬莱博士の手に持たせていた。

 

「あっ、コイツ……!」

 背中を丸めて口元に手を当て、何かを考え込んでいるポーズだと思っていた。

 だが、指の隙間にぴったりとボールペンがはまり蓬莱博士の口元に伸びていた。

 考える人ではなく、タバコを吸いながら岩になった人だったのだ。

 あんなにカッコつけてビデオメッセージを終えたくせに、もう一本だけと追加で吸っていたのだろう。

 ヤニカスは岩になってもヤニカスで、汐音は波瑠と全くの同時に石像の頭を叩いていた。

 

 

 

 

****************************************

 

 

 ステュクス584fはステュクス584を主星(地球でいう太陽)とする地球型惑星だ。

 直径は地球の0.99倍程度であり、重力は人間にとって地球との違いは感じれないだろう。

 主星から受ける光量は地球の97%であり、表面温度は平均14度。自転周期は16日、公転周期は635日。

 主星からの距離は1億5000万 kmほどで地球と太陽の距離とほぼ同じであり、主星の表面温度・直径・質量も太陽とほぼ同じ条件となっている。

 そのため主星の恒星風の影響も少ないと考えられているが、地球との大きな違いが一点。

 ステュクス584fは衛星(地球でいう月)が二つあるのだ。

 

「月が二つ!? そりゃ良くないな」

 

「なにが?」

 

 ロボによるステュクスついての講義はノートに取るだけで精いっぱいだ。

 月を発ってから今日までずっとロボから必要な知識を叩き込まれているが、大学レベルの専門知識も遠慮なく飛び出すため全く付いていけないこともある。

 口の悪いポンコツロボに教わること自体が汐音にとっては屈辱でしかなく、波瑠も別に聞かなくていいと言っているがこちらにも意地がある。

 ちなみにテンクウは初日から全く聞いておらず、その辺で寝たり動物と遊んだりしていた。

 

「例えば……潮の満ち引きは月の影響だろ。それが二つあるとなると、海は大荒れだろうし風も毎日吹き荒れているだろうな」

 

「海あるとは限らないんじゃない?」

 

「ハビタブルゾーンの条件は液体の水が存在できる条件だ。だからないはずがない。ロボ、そうだろ」

 

「ソウダ。ウミ アル」

 

「ほらな」

 

「ふーん……」

 要するに全体的にステュクスの環境は地球のそれよりも厳しめらしい。

 それでもそんな星を目指さなくてはならない程に地球の環境は終わってしまったわけだが。

 

「オメーラ コンド テスト スル。 アカテンハ ホシュウ」

 

「えー!? テスト!? なんでそんなことまで!?」

 

「ホウライハカセ ニ ナレ」

 

「無理無理! だってこの人、こんなでもすんごい天才だったんでしょ?」

 こんなでも、と指差した先には船首像よろしく飾られている蓬莱博士の像が置いてある。

 見た目は完全に岩なので、この前などタロにマーキングされていた。

 

「ソウダ。ホウライハカセ オウリツキョウカイ ノ カイイン」

 

「すげーな! 日本人なのに。ただのヤニカスかと思ってた」

 

「なにそれ」

 

「英国にあった世界最古の科学学会だな。外国人会員に選ばれるのは並大抵のことじゃない」

 

「キッドマンハカセ モ ソウダッタ」

 

「誰だっけ? それ」

 

「シャーロット・エマ・キッドマン。ホウライハカセ ノ スキナヒト」

 視界の端で何かが――――蓬莱博士の像がピクリと動いた。気がした。

 

「うわ! 動いた!!」

 

「……? 動いていないぞ」

 

「絶対今ちょっと動いたって! 怖いんだけど!」

 

「テストマデ シッカリ ベンキョウシロ。 バイチャ」

 そういって気持ち偉そうに胸を張りながらロボは去っていった。

 この後ロボは水で濡らした布巾を取ってきて蓬莱博士の像を磨く。蓬莱博士が岩になってからなんと毎日していたルーチンなのだという。

 進化したロボによる親への愛情に思うところでもあったのか、最近は波瑠も手伝っている。

 そんな波瑠を横目に見送りながら汐音は『家』に戻った。

 

 カロンの渡し舟号には家がある。

 一から作ったわけではない。この宇宙船には船体そのものを素材として別の物体を生み出す機能があり、それを使って出したのだ。

 HAL-ATHENAにあった生成機能のみが搭載されていると表現すればよいだろう。

 なにしろ月と比べればこの船は遥かに小さいため無駄遣いはできないが、それでも必要なものは後から後から浮かんでくる。

 波瑠はノートやペン、最低限の着替えなどを出していたが、最初に出したものは時計だった。

 ここでは全く時間が分からないため、まず最初に必要なものだと言っていた。

 

 

 そんな中で汐音が最初に出したもの。

 それは実家にあったものと同じタイプの金庫だった。

 

 

 

*************************

 

 XXXX年△月△日

 

 ノートに記録を残すことにした。航海日誌ということになるのだろうか。

 速度から計算してステュクスまでざっくり5600年かかるが、5600年毎日書くつもりはない。

 時計とノートは出したが……家はやはり出した方がいいだろう。

 汐音の強い希望でそれぞれ部屋がある家を出した。

 別に言われなくてもそうするつもりだったが……根がお嬢様なのでプライベート空間がないとストレスなのだろうか?

 考えてみればプライベートがあるなんて初めてかもしれない。

 一人で何をすればいいんだろう? 

 思いつかない。

 

 XXXX年△月〇日

 

 エンデヴァー号の乗員はどうしているのかロボに訊いた。

 コールドスリープ装置で眠りについているらしい。

 それをここに出すことも可能らしい。

 是非ともそうするべきだ。5600年なんて生きられる云々以前に、100%岩になって終わりだ。

 だがテンクウのサイズのコールドスリープ装置は流石にどの世界でも作られていなかったらしい。

 

 更に、コールドスリープに入る前に勉強をしろと言われた。

 それも同意見だ。今の俺には圧倒的に知識が足りない。無事ステュクスに到着しても何もできない。

 人類移住計画について正しく理解する必要があるし、そこに必要な前提知識の修得には何年も、ひょっとしたら何十年もかかるだろう。

 なにしろ人類最高峰の天才たちが集まって作り上げたプランなのだから。

 

 よって方針が決まった。

 一つは龍の大きさのコールドスリープ装置を作ること。 

 もう一つは勉強をすること。一体いくつの学問を修めなければならないのだろうと眩暈がしてくるが、同じくらいワクワクしている自分がいる……。

 HAL-ATHENAにそういうふうに作られたということなのだろうか。

 

 

 XXXX年△月◎日

 

 汐音の尻尾は可愛かった。

 でも尻尾のせいで下着がうまいこと穿けないのは不便そうだ。

 俺もいつかそうなるのだろうか?

 龍化が進行した蓬莱博士の手はかなりペンを持ちにくそうな形をしていた。

 そういった意味でのタイムリミットは意外と近いのかもしれない。

 

 ロボが言うには龍化の進行は生存本能の刺激により激しく進むらしい。

 間違って変な星の重力圏に入って暴走しないようにしよう。

 既に髪と額の境目から角のようなふくらみが一つ浮かんできている。

 今更気が付いたが男は角が一本で女は角が二本らしい。

 なんでだろう?

 

 

 XXXX年◇月☆日

 

 ステュクスはギリシャ神話に出てくる地下に流れる大河の名前らしい。

 そこで死者の霊を小舟で彼岸に運ぶ渡し守の名前をカロンいうのだという。

 なんというか、全体的にそこはかとなく不吉だ。

 今の自分たちは幽霊なのだと言われているようで、困ったことに否定材料よりも肯定する根拠の方が多い。

 何しろ俺たちは全員一度死んでいるのだから。

 ロボに見えているから幽霊ではないのでは、と思ったがそもそもロボは毎日HAL-ATHENAとメンテナンスのために通信をしていたのだ。

 普通の人間の五感と同じ方法で俺たちを認識しているかどうかは分からない。

 

 星の名前が神話が元になっていることは子供でも知っている。

 例えば火星(Mars)はローマ神話の神、マルスから来ている。

 だから別にステュクスという名前におかしなことはないと、今日のロボの講義を聞くまで思っていた。

 

 今日は太陽系の星々について習った。

 有名な『すいきんちかもくどってんかいめい』は今では『すいきんちかもくどってんかい』になっている。

 最後の冥王星が惑星から外されてしまったからだ。

 冥王星には衛星があり、それぞれ名前はカロン・ニクス・ヴァルカン・ケルベロス・ヒドラとなっている。

 ニクスはカロンの母、ケルベロスは冥界の番犬、ヒドラはヘラクレスに退治された怪物。全てギリシャ神話が元だ。

 そしてヴァルカンは火の神だ。……ローマ神話の。

 

 ステュクスがそこにいるべきだと思う。

 なぜヴァルカンだけ命名規則に従っていないのかロボに訊いたら『シラネ』と言われた。

 

 俺が細かすぎるだけなのだろうか。

 

 

 XXXX年◆月■日

 

 テンクウにおねだりされて汐音がピアノを弾いていた。

 全くの素人の自分から聞いてもかなり上手だったが、汐音は自慢しいなのに今までピアノが得意だなんて言ってきたことなかった。

 銀河鉄道999を弾き語りする汐音を見ていると鉄格子越しに見た月を思い出す。

 演奏途中でタマが鍵盤に飛び乗って中断になってしまった。

 

 それはいいが、いくらなんでもタマは太りすぎだ。

 最初の情報生命体だろうがゴッドにゃんこだろうがデブはデブだ。

 甘やかしすぎではないか、とテンクウに言ったら元々ずっとこうだという。

 

 その時初めて知ったが、こいつらは(自分含めて)食事後も体重が全く変わらない。

 完璧な生命だからこそ不変ということなのだろうか?

 環境に適応して変わりゆくのが生命なんじゃないか?

 少なくとも俺はそう思っていた。

 

 

 XXXX年★月□日

 

 角と尻尾が生えてきた。

 徐々に変わっていくものだと勝手に思っていたが、よく考えてみたら汐音も一気に変わっていた。

 ある時期に急激に変化するのを何度も繰り返して龍になっていくんだろう。

 

 尻尾は蒼い鱗に覆われていて、金色の毛が生えている。

 割と思った通りに動かせるので、もう一本の手みたいに使える。

 ズボンや下着は穴をあけなければならないし、ベッドで仰向けになるのも少し難しい。便利さより不便さの方がやや勝るか。

 最初から人類に尻尾があって、尻尾を使って動かすツールなんかも沢山開発されていれば感想も違ったのかもしれない。

 もしも尻尾が普通だったら、例えば車のクラッチなんかは尻尾で操作する仕様だったかも。

 オリンピックの競技なんかも全く違うものになったかもしれないな。

 

 角は白くて硬い。

 視界には入ってこないので、普通に生活している分にはあまり気にならない。

 根元は少しぶにぶにしている。たぶんケラチン質。

 

 牙は……明らかに邪魔だ。食事をするときに普通より口を開かなくてはならないし、よく口の中を傷付ける。

 汐音もテンクウもすぐに慣れると言っていたが、慣れていいことなのだろうか。

 

 何回か変身を重ねれば口から火を吹けるようになるらしい。

 汐音が火を吹けるようになったらと考えるだけで恐ろしい。

 

 あと、パンツにハサミで尻尾の穴をあけているところを汐音に見られた。最悪。

 

 

 XXXX年★月▲日

 

 最近よくHAL-ATHENAの中にいた頃のことを思い出す。

 親も学校も天蓋教も全ては幻だった。あの中で一人でも仲のいい友人なんか作っていたら時折思い出して泣いたりしていたのだろうか?

 だとすると俺に友達を作らせなくて大正解だったんだろう。

 事実だけを見ると、あの世界で高天原天子だけが正しい行動をしていたし、事実を言っていた。

 

 俺だけは狂わないと思っていた。

 狂っているのは俺の方だった。

 

 この事実から得られる教訓はなんだろうか。

 自分を信じるな、ということになるか?

 少し違うか。『これだけは絶対』だと思っている物を疑えということか。

 

 疑うとしたら、例えば……

 

 ステュクス584fなんて星は本当にあるのだろうか。

 俺はずっとその疑念を解消できずにいる。

 何か、根本的で決定的な何かを見落としているような気がする。

 カレーを作っているのにルーを入れ忘れているような。

 2次方程式だと言っているのに解を一個しか書いていないような。

 そんな根本的な見落としをしている気がしてならない。

 

 気にしすぎだと言われれば、そうなんだろう。

 考えすぎて少しおかしくなっているのだと。

 

 俺だけは狂わないと思い続けて生きてきた。

 

 どっちだ。

 どっちが狂っていないんだ。

 

 それでも地球は回っていると、俺には叫べない。

 

 

*************************

 

 

 日記というほど定期的には書いていない波瑠のノート。

 日付を記したメモのようなものだろう。

 部屋の机に置きっぱなしにしてあったので、汐音はついつい自分の部屋に持って行って読んでしまった。

 

(…………)

 波瑠は先に進もうとしている。だがその進むべき『先』は本当に正しいか悩んでいるようだ。

 コールドスリープ装置を完成させてしまえばもう覚悟を決めて先に進むしかなくなる。

 本当にそれでいいのか、と波瑠は一人で考え込んでいる。  

 その疑念に心当たりがないかと問われれば――――心当たりしかなかった。

 

 昔やってたRPGで、飛空船を手に入れるところまで進めた時の話だ。

 何故かバグってしまって、本来なら止まるはずのワールドマップの限界を超えて進んでしまったことがある。

 

 そこには何も無かった。

 山も海も陸もない。お宝もなければモンスターもいない。

 ただひたすらに真っ暗な世界を進んでいた。

 恐ろしくなって引き返した。虚無の境目の手前にある街の人々は普通に暮らしていた。

 子供心にもう二度と『向こう側』には行かないと思った。

 

 別の考え方をしよう。

 ゲームの中に隕石を落とす呪文を唱えるキャラがいたとして、『へー、じゃあ宇宙も行けるのかな』と考える人はいないと思う。

 

 私たちは今、そんな考え方を『先』として進んでいる。

 

「なぁシオン、俺のノート知らねぇ?」

 尻尾を踏んづけられた猫のように飛び上がりノートを閉じる。

 答えるまでも無く、波瑠の視線は己のノートを捉えていた。

 

「あっ、ごめん……返す」

 

「別に謝んなくていいよ。見られたくないもんだったら、お前みたいに鍵かかるところにしまうし」

 ただし積極的に見せたかった内容でもなかったようで、波瑠は中身については何も言わなかった。

 このノートを探していたということは、何かを書こうとしたのではないか――――よせばいいのに、汐音は口を開いてしまった。

 

「何を書こうとしたの?」

 

「…………。……俺もお前も、テンクウも……日本人だなって」

 

「……? それが?」

 

「あのビデオ、日本語で話していたよな。……蓬莱博士の経歴覚えているか?」

 

「なんだっけ? 中国で生まれてアメリカに行ったんだっけ?」

 

「そうだ。中国語も英語も話せたはずなのに、日本語で話していただろ」

 

「でも日本語が一番流暢に話せたってだけなんじゃない?」

 

「……人類が最後に乗った宇宙船はNASAのエンデヴァー号だっただろ。つまり、蓬莱博士はかなり高い確率でずっとアメリカにいて、英語を話していたことになる」

 あの状況で一瞬見ただけ内容からここまで導き出している。

 人類最後の希望に植え付けられた、前に進み続ける本能は常に正解を探している。

 

「俺がメッセージを残す側だったとして、英語と日本語どっちも同じくらい話せるとして……俺ならまず英語で話すけどな」

 世界標準語のことを考えても英語で話すのが当然。あるいは単純に人口で考えて中国語で話すか。

 そもそもどんな人物を蓬莱博士が想定していたか考えると、普通に考えて宇宙飛行士もしくはそれに準ずるスキルを持った人物だろう。

 その辺りに詳しくない汐音でも、宇宙飛行士の数はアメリカが一番多いことは想像に難くなかった。

 蓬莱博士の経歴を考慮すると、ビデオメッセージを残す際に英語で話さない方が不自然なのだ。

 それこそ、まるで画面の向こうの人間が日本人だと最初から分かっていたかのようだ。

 

「……日本語だったのがそんなにおかしい?」

 

「いや、そこまでおかしくはないよ。蓬莱博士は結局日本人だし、そこまではな……それ自体は……」

 言葉を途中で途切れさせ、そのまま波瑠は壁に寄りかかりながらうつむいてしまった。

 腕を組む動作は不安を表すというが、尻尾まで身体に巻き付けている。自分にしてそうだが、動物と同じく尻尾は感情をよく表している。

 誰かに論理的に説明したところでどうにもならないとでも考えているのではないだろうか。

 

 波瑠は正しい。

 恐らくステュクスに知的生命体なんていない。

 いや、それどころか、ステュクス584fなんて星はないし、なんなら先に宇宙に発ったというキッドマンもいないかもしれない。

 

 これは全くの勘でしかないが、このまま進んでいけばある時突然その先が無くなる気がする。

 星も何も無い、暗闇だけの空間に突入する。

 

 それが何年、何十年先の話かは分からない。

 その時波瑠は気が付く。根本的な何かを間違えていることに。

 

「その金庫何入ってんの?」

 これも答えを求める波瑠の勘、あるいは本能なのだろうか。

 ノートを見たことを責めているわけでも怒っているわけでもないが、だったらこれくらいは質問したっていいだろう。

 そんなことを考えているのが筒抜けの軽い口調なのに、正解への最短ルートを辿ろうとしている。

 

「世界で一番やばいもの」

 

「はぁ? ……しかしお前……なんだってわざわざ金庫なんか出して……。鍵付きの引き出しとかじゃダメだったのか?」

 

「そんなに中身気になる?」

 

「ま、多少は」

 

「当ててみて?」

 

「……携帯とかか? 電波入ってなくても履歴とか残ってるもんな」

 

「あのさぁ……それだったら部室に置きっぱなしにしたりしないでしょ。ロックかけてるし」

 

「そりゃそーか」

 軽い雑談の口調で話しているあたり、汐音の回答を全く信じていないようだ。

 汐音は心から本気でこの金庫の中に入っている物を『世界で一番やばいもの』だと信じているのに。

 どんな星よりも価値が高く、ブラックホールよりも危険なものなのに。

 

「入り口に突っ立ってないで入ってきたら?」

 すっかり扱いの慣れた尻尾で布団の上で散らかっていた毛布をどかす。

 だが、どうも波瑠はそういう気分ではなかったようだ。

 

「いま木星の近く通っている。外で一局どうだ?」

 

「いいね。じゃあ着替えようかな」

 

「お前よく着替えるよな」

 

「あのね、ずっと学ランのハルの方がおかしいからね」

 

「はっ。先に行って待ってる」

 これで終わりだとノートを尻尾で掴んで去っていくその背にむらむらっと悪癖が湧き上がってくる。

 やらなくてもいいことをやりたがる。関わらない方がいい人に関わりたがる。

 言わなくていいことを言ってしまう。幼い頃からずっとそうだった。

 

「ノートのさ……。ステュクスが本当になかったらどうするの?」

 

「…………。どうするかな……。でも、うまいこと辿り着けてもどうせ難しい課題がずっとずっと山積みなんだ。そんなのにずっと頭悩ますのはいやだな……」

 

「…………」

 

「俺さぁ、遊びに行ったこともほとんどないし、漫画もアニメもゲームも全然知らねえ」

 

「漫画の話してるハルって想像できないね」

 

「そんなもんだよ、俺は。スラムダンクとか小っちゃい頃読んでて好きだったんだ。ほんとは俺、シオンと遊園地とか水族館とか……近所の神社とか、そういうところに遊びに行きたかった……って言ったら笑うか?」

 

 首を振って目を背けるも、ふいに鼻の奥がツンとして、思わず溢れた涙をこぼさないように波瑠の目を見つめる。

 土足で入り込む者は全て敵とみなしていた波瑠がこんなことを言うなんて。

 まるで憑き物が落ちたかのようにやわらかく、年相応の少年らしい表情だった。

 大人の階段をのぼったのに等身大の15歳の顔になるなんてずるい。

 

 そう。もうぼやかす必要もないので直に書くが、私は波瑠とセックスをした。

 こいつから下心を感じたことがないと身勝手な憤慨をしていたが、それは言い換えれば自分が波瑠に対して下心ある想像をしていたということになる。

 

 ここからは完全に言い訳だが、仕方がないだろう、十代なんだから。

 下ネタを大声で話すクラスメートの男子に心の底からキモイと言ったその日に、ごつごつとした手で駒遊びする波瑠の手を見て『いざとなったら抵抗できないだろうなぁ』と頭の中でニチャつきながら妄想をこねくり回したり。

 将棋盤を挟んであぐらをかく波瑠に視線を落として、『こいつでもオナニーとかするのかな』『聞いたらブチ切れるだろうな』と思ったり。

 人間だから仕方がない。右にも左にもふらふら揺れてしまうものだ。

 

 どうしたって少年少女のふくらむ期待を押し付けられるそいつは、いざ体験してみると――――こんなものかと思った。

 悪くはなかったし、むしろ全然良かった。ただ、なんというか。

 

 お歳暮で届いた肉が15万円すると聞いてから食べたときのような。

 漏らすほど怖いと言われている絶叫マシーンに乗った時のような。 

 

 悪くはない。むしろ良かった。ただ……

 もっと思考が消し飛び言葉にできないような味を期待していたのに。

 もっと痺れて立てなくなるくらいの衝撃を期待していたのに。

 

 だいたいそんな感じ。

 

 だってみんなするもんね、セックスなんか。

 うじゃうじゃいる人間どもは全員そうやって生まれてきたのだから。

 全人類共通で用意されたとりあえずのゴールテープを切っただけに過ぎない。

 

 女性全員が共通してなんとなく感じている男共のアホくささやしょうもなさ。

 それはたぶん、そんな誰でもたどり着ける程度のゴールに男共がわざわざ金を払ったり勝手な夢を見たりするところにあるのだろう。

 その点女はドライなもので、今まさしく自分が抱いている『こんなもんか』に落ち着いてしまう。

 

 だから、私だけの宝物というにはもう少し何か足りなかった。

 あれだけ露骨に誘惑したのにワガママなもので、ほとんどの人間が辿り着くゴールを宝物と呼ぶのにはためらいがあった。

 

 なら、ゴールはどこに?

 私の『人生の絶頂』はどこに?

 そんな密かな懊悩に答えを示すように、波瑠が投げやりな態度で口を開いた。

 

「なぁ、もうさ……適当な星にでも降りちまうか。観覧車とクレープ屋でも作ろう。遺跡にしていつか宇宙人をビビらせるんだ」

 

 勝手に組み込まれた義務なんかよりも、あなたとずっと夢を見ていたい。

 波瑠が、あの意地とプライドの塊の波瑠がそう言ってくれている。

 

 生きていた時には絶対にありえない言葉、子供のような表情。

 その相手として波瑠に心を許されたのは、世界で唯一自分だけなのだという幸福感に包み込まれる。

 ずっと考えていた『人生の絶頂』って、これなんじゃないか。汐音にはそう思えてならなかった。

 じんわりと心の奥に、もうこれ以上は何もいらないという思いが広がっていく。

 しっかりやることはやっているくせに、龍の尻尾に二人横たわって夢物語を話す。

 大人と子供のいいとこどりのそんな夢。

 

 絶対にこの幸せを守る。誰にも壊させない。

 それでもやはり、壊れるものならば、誰かが壊すというのならば、そんな日が来るというのならば――――

 

「左に4回、右に5回、左に7回、右に2回」

 気が付けば汐音はその呪文を唱えていた。

 己の人生を生涯縛り付け、この世界ですらも心を壊した言葉を。

 波瑠を呪うために。いつか誰かが壊すなら、それは波瑠自身であってほしいから。

 

「?」

 

「金庫……」

 

「開けねえって。そんな試すような真似せんでも……それくらい弁えてるよ」

 そう言った波瑠は小さく笑って去っていった。それが正常な反応だ。

 こんな状況でわざわざ金庫を出してまで隠したものなのだから、相当見られたくないものが入っているのだろう、と。

 隠したいものが入っていると分かっていても、相手を大切に思うなら開けないのが人として当然なのだ。

 

 それでもいつか必ず金庫を開ける日が来る。

 いつか波瑠はこの決断を己で呪う日が来る。

 龍化が進み鱗で覆われた手で己の顔を絶望で覆う日が。

 

 そんな日が来ることは分かっている。

 波瑠が進まないなんて、ずっと無垢なままでいるなんて有り得ないから。

 永遠であってほしいと願う全ては永遠ではないと知っているから。

 

 波瑠はどん詰まりで疑うことになるだろう。

 これまでの自分を。組み立てた理屈を。世界の全てを。

 その時、思い出すのだ。まだ確かめていないものがあると。

 

 愛する人の隠している物を見る時、それは愛を疑う時。

 

 

 

 その時、私はきっと刺される。 

 他でもない波瑠の手によって。 

 一体どんな顔をしてくれるのだろう。

 悲しみ? 怒り? 後悔? 憐憫?

 

 優しさすら感じるほどの深く美しい一突きで、心臓を。

 それこそが望みだ。岩になって永遠に生きるくらいならば、愛する人に刺されて死にたい。

 

 

*********************

 

 2010年代後半には、自己対局を繰り返すことにより独自に将棋を学ぶAIが生まれた。

 そして将棋の歴史にも見られるような、戦法の流行や推移を人工的に形成していったという。

 

*********************

 

 ねぇ、気付いている?

 

 情報生命体とか。

 HAL-ATHENAとか。

 ステュクスとか。

 全部全部嘘嘘嘘。

 

 私達も、どっちも、人生も感情も何もかも嘘。

 なんで生まれてきちゃったんだろう。

 

 でもね、でも。

 そんなことどうでもいいよね。

 

 だって、だってだって。

 幸せでしょう、あなたも私も。

 これが生まれた理由だって思えるくらいに。

 

 ねぇ、ハル。

 世界の真実と私と過ごすこの時間と。

 どっちが大事?

 

 私の存在意義はこの問いかけにあった。

 そしてあなたは私が望んだ答えをくれた。

 

 だからもう!

 過去も! 未来も!! 何も!!!

 何もいらない!!!

 

 さぁ、指そう!

 それしかない!!

 

*********************

 

 波瑠とテンクウは木星をバックに団子を食べていた。月見団子ならぬ、木星見団子だろうか。

 テンクウの前に置かれている団子は一粒がバランスボール大だが、過去にどこかで村おこしか何かで作られたものだろう。

 きっと波瑠が出してあげたに違いない。宇宙に飛び立ってからの波瑠はテンクウにどことなく優しかった。

 思えば月に置いていくという発想が最初から波瑠には無かったし、龍のサイズのコールドスリープ装置なんて無いと分かったら即座に作ることを決めていた。

 そうした諸々を踏まえると、素の波瑠は刺々しさの中に優しさが隠れているような性格だったのかもしれない。

 

「だからね、7八金してね、相手が対振りなら雁木にしてさ」

 

「相手が矢倉ならこっちが振り飛車か」

 やはり話している内容は将棋の話だった。

 将棋盤の前であぐらをかいた波瑠の太ももの上では犬とカピバラが寝ており、あぐらの中心はとぐろを巻いた猫に陣取られている。

 アイスコーヒー色の巨大な惑星の光を受けて角を鈍く光らせ、その姿はまるでどこかの星からやってきた将棋星人だ。

 

「来たか。さぁ、指そうぜ」

 

「あっ、ずるい! 自分だけテンクウに教えてもらって」

 

「でもシオン最近強いから勝てると思うよ」

 

「やってみろ」

 振り駒は汐音の先手を示していた。

 波瑠の尻尾が楽し気に揺れて、将棋盤を挟んで目が合う――――笑っていた。凶暴な牙を隠すこともせず。

 今まで何百回と見たこの光景。これから先、無数の星を巡って何万回と明けない夜に指し続けたい。

 

「今日は勝つ!」

 駒音高く初手を指す。

 答えを求める本能を忘れて指し続けよう。

 永遠の停滞も本当の答えも、同じくらい苦しいから。

 

 きっといつか波瑠に刺される日が来る。

 愛ゆえか、憎しみゆえか。あるいは自ら刺してほしいと懇願するのか。

 それとも、それとも――――そんな私をまだ連れて行ってくれるのか。

 それでも今は、あなたに刺されるより指しあいたい。

 

 

 

 

 

 

 

『なんだかおれが飽きちゃった世界終わらせるときみたい』

 

 地球を完全に滅ぼす小惑星ヤコウの接近に対し、テンクウはそう言った。

 なにをのん気な、とその時は思ったが今では完全に同意だ。

 何も知らなければ被害者の立場でいられたのに。確信犯の大大大戦犯になってしまった。

 

 

 

 それは出てきたばかりの波瑠の学ランの内ポケットに入っていた。

 クリームまみれの学ランを洗うために預かった時に気が付いた。

 後で返そうと思う間もなく月から追い出され、ずっと持っていたのに返す機会がなかった。

 

 そして宇宙に出てからようやくそれの重要性に気が付き、金庫の中に入れた。

 金庫に入れたのはもちろん隠すためというのもあるが、万が一の事故を防ぐ為でもある。 

 

 今日に至るまで波瑠から返せと言われていない。

 つまりこれは波瑠の私物などではなく、こちらの世界に来るときに内ポケットに紛れ込んでいたということだ。

 そして波瑠が知らぬ間に盗む形になってしまったのだ。

 

 選択肢はなかった。

 もしも波瑠が持っていたら一人で抱え込んでしまい、今の幸福を心から楽しめなかっただろう。

 それに、いざその時が来ても理由がなければ――――理由があっても波瑠にそんな真似は出来ないだろうから。

 そうするに足る理由と言い訳を作ってあげたのだ。

 

 お前のせいだ。その時に波瑠がそう言えるように。

 全て私のせいだ、どうか罰してほしい――――その時にうまく言えるように。

 

 

 何よりも。

 誰であろうと――――たとえそれが運命であろうと、もう波瑠を盗られたくなかった。

 

 

 それは人類に降り注いだ厄災に対するHAL-ATHENAの極めて単純明快な答えだった。

 情報生命体だから宇宙でも生きていけるという小難しい理屈より、その答えが示す理由の方がずっと分かりやすかった。

 それさえあれば、誰だってやるべきことが分かる。この世界を、人類を救う方法が分かる。

 そんなものが誰に知られることもなく自分の手に渡ってしまった。

 やはり自分がこの世界に来たことで歯車は決定的に、そして致命的なまでに狂ってしまっていたのだ。 

 

 

 

*********************

 

 

 

 怖い夢は金庫にしまっちゃったから

 いつかその時は全部私のせいにしてね

 きっと綺麗に終わらせてね

 

 守ってあげる

 あなたの幸せ、この時間を

 あなたが愛を疑うその日まで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 金庫の中には、倶利伽羅剣が入っている。

 

 

 

 

 

 

 

******************

 

 File No.髱櫁。ィ遉コ險ュ螳壹ヵ繧。繧、繝ォ

 

 倶利伽羅剣(真)

 

 短剣の形をした印刷命令。

 

******************

 

 終

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