1 武道場にて
夏休みにもかかわらず
そもそも今、灯がいるのは武道場である。座学をやる場所ではない。
灯は部活動に身を打ち込んでいるのだ——というわけでもない。灯は一年のころから三年生の現在に渡ってずっと帰宅部を貫いている。武道場などという施設にはとんと縁がなく、さきほどクラスメイトから「扇風機出してきてくれない?」と頼まれた時も、どこに扇風機があるのかさっぱりわからなかったし、武道場や体育館用の巨大扇風機を間近で見たのも今日が初めてだった。
では、灯は何のために武道場にいるのか。正直、灯自身もよくわからない。
一応、理由はある。来たる九月に催される文化祭の準備のために学校に来たのだという理由が。だが実際のところ、灯はクラスの文化祭の準備にほとんど関わってこなかったし、今も全然関わっていない。灯はただ、そこにいるだけでしかなかった。
灯の在籍する都立月野坂高校の三年生は、文化祭で演劇を披露するという慣例がある。「なんでそんな慣例に従わなくちゃいけないんだ。月野坂高校はリバティーな学校なんだろ!? 焼きそば屋をやらせろ焼きそば屋を!」などと言い出す革命的な生徒は今年も現れず、慣例通り、三年生の全てのクラスの出し物は「演劇」に決定した。
演劇といっても、クラスメイト全員が役者として舞台に出張るわけではない。演目によって多少のばらつきがあるが、文化祭でやるような劇の役の数は七、八人分だ。文化祭は週末の二日間に開催されるので、一日ごとに演者を総入れ替えしても十五人前後。灯の在籍する三年八組の構成人数は四十人なので、最低でも二五人は否応なく裏方に回る。
照明が二人、音響が二人。脚本を自作したとして脚本家が一人。あとは全員道具係である。演出はたいていクラスに一人か二人いる演劇部の主導によって行われるが、演劇部は役者もやることが多いので裏方にはカウントされない。
灯は道具係である。十人以上いる道具係の中に身を潜めてしまえば大した仕事を回される心配はほとんどないという魂胆で道具係になった。演劇はこのポジションがあるから楽なのだと、文化祭に全く燃えていない灯は当初、ほくそ笑んでいた。
だが、誤算があった。
灯の在籍する三年八組全体が、予想以上にやる気を出し始めたのだ。八組の演劇全体を取り仕切るボスの熱が周りに伝染したらしい。それによって、灯もまた夏休み中、毎日とはいかないまでも、ちょくちょく学校に来なければいけなくなってしまった。今日は武道場を使っての「本格練習」なるものをやるらしく、「来られる奴は役者じゃなくても観に来い」と招集を受け、猛暑の中、死ぬ思いをして登校した。
最寄駅から月野坂高校までの道のりは、ほぼ炎天下なのに加えて、それはそれは長い坂があるのだ。坂道登りは、灯にとって苦行である。単純に登るのが辛い上、道が狭いので、後続の韋駄天たちの圧にあてられてスローペースで登れないという意味でも嫌だった。
「——よし、では王子が『議論は無用。このガラスの靴こそが真の姫を見つけるでしょう』と言うとこから、もう一回」
そんな灯の苦しみなんて全く知らないであろう一人のクラスメイトが、ポン、と丸めた台本をてのひらに軽く当てて、音を武道場に響かせる。
空間の中央に立っている少女、礼条由紀。
彼女の指示によって、即席の舞台に立つ役者たちが芝居を始めた。
「議論は無用。ガラスの靴こそが真の姫を見つけるでしょう」
「そうはいっても王子、靴のサイズが同じ人なんて腐る程いると思いますよ」
「というか王子、足の大きさを比べるだけなら、わざわざガラスの靴を履かせる必要なんてないじゃないですか」
「王子、そもそもそのガラスの靴がどこにも見当たらないわけなのですが」
「う、うるさいっ! いいからさっさとガラスの靴を見つけるのだ! あれが無ければ何も始まらん! 探せ!」
役者と礼条以外の者は全員、腰を床につけて、高校生の素人芸を眺めている。その中に灯の顔もあった。
演目は『死んでれらあ』。童話「シンデレラ」をベースにしたミステリーである。ダサすぎる気がするが、これはこの前クラスで長々と話し合った末、なぜか採用されしまった悲惨なタイトルである。船頭多くして船山に上るとはこのことかと学ぶことのできる、絶好の機会だった。
「でも王子ぃ、もう城の中はくまなく探しましたよ。これ以上どこ探せっていうんですか」
「確かにな……。城にないとすると、これはもう昨夜の客の誰かが盗み出したとしか考えられん。大臣」
「は」
「昨夜の客のリストはあるか?」
「こちらに、王子」
「これか。さすが大臣、手際が良いな」
「光栄でございます」
脚本はあり物ではなく、自作である。礼条由紀によって書かれた物だ。素人の書いた脚本で大丈夫なのかと不安がる者は存在しない。なぜなら、礼条由紀は素人ではないからだ。
彼女は去年、とある推理小説の新人賞を受賞し、鮮烈なデビューを果たした。デビュー作『藁の館』はどなたでもお近くの書店でお買い求めいただける新感覚ミステリー作品だ。それ以外にも、雑誌上で短編小説を発表したりもしている。なんなら今回の脚本もノベライズしてどこかの雑誌に載り、いずれは単行本化を目論んでいるらしい。脚本家ではなく小説家だが、間違いなくプロの物書きだ。
「むむむ……しかし客の数が多いな。一人一人調べると時間がかかってしまう」
「ちんたら調べていたら、ガラスの靴なんて売られるか捨てられちまいますぜ、王子」
「確かに。誰か、何か妙案はないか」
「おそれながら、王子。あの美しき姫がガラスの靴を遺していったことを知っていた方は、お客様の中にどれほどおられたのでしょうか」
「む、そ、そうか。やるな衛兵。確かに、ガラスの靴が遺されたことを知っている客は数えるほどしかいない。ええと、誰と誰と誰だったか」
「姫が逃げ去るのを間近で見ていたハルトマン公、ガラスの靴を王子に届けるまで私と一緒におられましたフリードリヒ夫人、そしてガラス職人のギルベルト氏の三人です」
「——よし、カット」
礼条がそう言うと、演者が一斉に演技をやめて劇中世界が雲散霧消する。ただの武道場に戻った。
「まずまずだな。ここまでは問題ない。うん、皆、私の意図をよく理解してくれているみたいでなによりだ」
礼条が言うと、演者たちは嬉しそうになった。頬を緩ませる者、顔を赤くする者。頭をかく者もいる。由紀も満足げにうんうんと何度か頷き——次の瞬間、表情を冷たく変えて突き放すように言った。
「だが、進行度が悪い」
演者たちがびくりと体を震わせる。演者だけでなく、礼条の後ろで演技を観ているだけの灯たちにまでピリついた空気が届いた。エアコンのない古い武道場だが、気温が二度ぐらい下がった気がした。
「もう八月も半ばだが……完成したのは全体の何割だ? いくらなんでも遅すぎないか?」
礼条が睨んでいるのは演者たちだ。彼らは先ほどとは打って変わって、一様に青い顔をしている。灯は彼らを気の毒に思ったが、助け舟を出せるほどの精神力は持ち合わせていなかった。
「一体いつになったら、このガラスの靴が見つかるのかな」
礼条はため息混じりにそう言いながら、足元に置いてあった小道具を拾いあげる。それはまごうことなくガラスの靴だった。印税によって得た財力にあかせて、礼条がプロのガラス工に注文したらしい、一足の「ガラスの靴」。値段は怖くて聞けなかったが、一介の高校生が購入していい代物でないのは確かである。
ちなみに、実物を見るのは礼条以外、今日が初めてだ。今日、初めて礼条が学校に持ってきたのだから当然である。礼条は前々から道具係に「ガラスの靴は作らなくても大丈夫だ」と言っていて、皆を不思議がらせていたのだが、まさか自前で本物のガラス製の靴を用意してくるとは、灯も他のクラスメイトも予想だにしなかった。
劇中では、この靴が事件の犯人を指し示す最も重要な証拠となる。それゆえに、靴が見つかるのは最後の最後だ。
「そろそろギアを上げないと、いつまでたっても芝居が完成しない——」
「おい、八組! いつまでいるつもりだよ、もう五五分だぞ!」
武道場入口から怒声が飛ぶ。次の時間にここを使うらしい三年二組が、こちらを覗いていた。
礼条は彼らを一睨みする。だが言葉での反論はせず、「撤収」と灯たちに号令をかけた。
「今日はもう次のクラスに武道場を明け渡さないといけないようだから——お疲れ様でした」
礼条がそう言って礼をすると、演者たちは「お疲れ様でした!」と頭を下げる。
楽しそうなのは良いことだが、礼条のノリについていけない者は自分だけなのだろうかと灯は周りを見回してみる。流石に、非演者たちは演者ほどのやる気を見せてはいない。だが受験期の夏休みだというのにも関わらずもれなく全員顔を出しているあたり、皆ちゃんと文化祭を楽しむ気でいるらしい。
礼条の独裁は、ともすると反感を買ってもおかしくないようにも思えるが、しかし仮にそういった類いの不満を抱いている者がいたとしても、面と向かって礼条に「やりすぎだ」とは言えなそうだった。当然、灯にもそんな勇気はない。
現状、礼条はクラスのボスだった。
そんなクラスのボスが、灯の名前を呼ぶ。
「倉敷さん」
「はいっ——!?」
礼条に名前を呼ばれれば、三下の灯はすぐさま駆けつけなければいけないのだ。座っている状態を解いて立ちあがろうとした灯だったが、長く座りすぎていたのか、一歩目を踏み出す時にぐらっとバランスを崩して倒れかかる。
「うわっ、えっ、はい。なんでしょうか!」
「今倒れそうだったけど、大丈夫か?」
「全然大丈夫です!」
本当はまだめまいが止まっていないが、嘘をついた。
「そうか、なら良い。この靴、私の鞄にしまっておいてくれないか? それが済んだらそのまま帰ってもいいから」
「え、この、靴を?」
「ああ。鞄は教室なんだが。私はこの後すこし役者と——特にシンデレラと、進行具合について話さなきゃならんからな。体育館裏で」
礼条はシンデレラ役のクラスメイトを睨みながら言った。
「はは……そうなんですね……」と愛想笑いをする灯。
靴とは当然、ガラスの靴のことだ。一一〇円の水を買うことすら躊躇する灯にとって、こんな高価な物を取り扱うなんて畏れ多い。だが、礼条の「倉敷さん、道具係だろう? 頼んだ」という一言に、口答えなどできなかった。
「お預かりいたします……!」
ひょいと渡されたガラスの靴を、灯は両手で受け賜る。「頼んだぞ。さ、他の人は片付けをしてくれ。二組にここを明け渡さないといけないからな」という礼条の声を背中に受けながら、武道場をあとにした。
2 猛暑の運送
アブラゼミの絶叫に苛まれながら、灯はガラスの靴と、体育館履きの入った靴袋を抱え、武道場から校舎まで続く渡り廊下を歩く。武道場も暑かったが、外も変わらず暑かった。それほど伸ばしていない灯の髪もべっとべとになり、汗が喉を伝って顎から垂れる。胸元に抱えるガラスの靴に水滴が落ちてしまい、慌てて裾で拭き取った。
帰宅部であり、運動とは無縁の生活を送っている灯は、暑さに全く慣れていない。霞む視界やふらつく足取りから、なんとなく自分がまずい状態になっていることは自覚できていたが、礼条の指令をこなしてからでないと休憩する気にはなれなかった。運搬中にガラスの靴を失くしでもしたら、八組に灯の居場所はない。もしそうなったら不登校になって出席日数が足りなくなり、ダブりの烙印を押されてしまうのだ。背中とかに。
渡り廊下を伝って校舎にたどり着いた灯だったが、すぐに中には入らない。八組の教室は二階にあるのだが、屋外階段を登ってから校舎に入った方が近道なのだ。遠回りでもして、その過程で靴を落としたりしてはたまらない。赤ずきんちゃんはなぜ狼に先回りされたのか? 回り道を通ったからだ。
無風の真夏日、バカ高いワレモノを抱えながら、灯は階段をえっちらおっちら昇っていく。この時ほど太陽を恨めしく思ったことはなかった。たった一階分の階段が、無限に続くように感じられる。
「うぅ、おっ——」
踊り場に来て、吐きそうになる。喉元まで来る流れを必死で飲み戻す。今ここで吐くのはだめだ。階段が汚れるとか制服が汚れるとか、そういうのは別にいい。ガラスの靴が台無しになる。それだけは阻止せねば。
耐えろ。
涙が目尻に滲む。「ぐぅ……」と変な声が出る。灯とすれ違った同級生がぎょっとしていたが、それを気にする余裕などなかった。
「ふう、ふう、ふう——」
「お、倉敷? 大丈夫?」
必死で吐き気を抑え込んでいると、聞いたことのある声が頭上から響いてくる。かろうじて顔をあげると、見知った男子が階上から灯を見下ろしていた。
「片鍋くん……」
片鍋安彦。人間関係の薄い灯にとって、クラス外で唯一といっていい、異性の知り合いだった。
「気分悪いか、保健室行く?」
「大丈夫です……」
「ええ、嘘でしょ。ゾンビみたいな顔してんぞ」
「失礼な……」
もうちょっと気の利いたことを言えないのか。だが、それが片鍋の偽らざる率直な感想だというのはわかった。どうやら自分の顔色は相当やばいらしい、と察する灯。
「これを……」
「え?」
「この……ガラスの靴を……」
「なに、ガラスの靴?」
「届けないといけないんですよ……。保健室は……その後で……」
「どうした倉敷。大丈夫か。お前は一般女子高生だよ。シンデレラなんかじゃないですけども」
「知ってますよ……!」
気が狂ったと思われたらしい。悔しいので、灯はなけなしの体力を振り絞って胸を張り、抱えているガラスの靴を安彦に見せる。
「うわぁ、なにこれ。本物?」
「本物の……ガラス製です……」
「へえすっげー。あ、なんか言ってたな。『死んでれらあ』とかいう変な劇やるところがあるって。あれ倉敷のクラスだったのか。それ、どこまで持ってかなきゃなの?」
「礼条さんの、鞄に……教室の……」
「なんだ教室か。礼条さんって小説家の人だよな確か。なるほど、劇の小道具かなんかなんだな? それ。倉敷は片付けを頼まれたと」
察しが良い。灯は頷いた。「だから……保健室は……」と言いかけた時、片鍋にガラスの靴を奪い取られる。
「なにを……!」
だが、片鍋は片手にガラスの靴と、元々持っていたらしい自分の靴袋と台本をまとめて抱える。そしてもう片方の腕を灯の脇に入れ、灯の体を支えた。
片鍋と——男子の体と密着する灯。
「自分の靴袋は持っててな。じゃ、行こう。八組だっけ? 倉敷の教室」
うろたえる灯を横目に、片鍋は踊り場からの一歩目を踏み出した。
知り合いとすれ違ったりしたらどうしようかとドギマギしたが、幸いなことに、その後は誰ともすれ違うことはなかった。八組の教室も無人で、放り出された鞄たちだけが机の上に残っているだけだった。礼条の鞄も、彼女の机の上で口を開けたまま動かずにいた。
その横に、透明な空のケースが放置されている。
「あ、これね。やっぱケースあるんだ。直に鞄に入れるしかなかったらどうしようかなって思ってたけど、よかったよかった」
「はい……。それをこれに入れて、閉じて、それに入れればOKですので……」
ガラスの靴、ケース、鞄の順に指差す灯。灯の指示に従って片鍋がケースを手に取ったあたりで、強烈な吐き気が灯を襲う。
頬の奥から嫌な唾液が急速供給された。
「う、うぷ——」
「大丈夫?」
思わず口を手で押さえ、灯は礼条の机から顔を逸らした。そっぽを向いて、必死で吐くのをこらえる。片鍋のいるであろう方向に「大丈夫」の意を示す手振りを置きながら。
「——よし! 行けるぞ倉敷!」
片鍋は大急ぎで靴をしまってくれたらしい。再び灯が礼条の机に目を向けると、そこには礼条の鞄が置いてあるだけだった。片鍋は自身の靴袋だけを片手に提げていて、「トイレ行くか?」と灯に尋ねてくる。
灯は口を押さえながらも、身振り手振りで否定の意を示した。まだ油断ならないが、吐き気は幾分おさまっている。
「じゃあ保健室行こう」
「ありがとう、ございます……」
灯が礼を言うと、安彦は笑った。
片鍋に肩を借りながら教室を出て、ガラガラと扉を閉めた直後、灯にとって聴き慣れた鐘の音がスピーカーを通して学校中に響きわたる。
正午——十二時を告げる音楽だ。
有名なクラシックの曲なのだが、灯はいまだに曲名を知らない。皆がただ「十二時の鐘」と呼ぶので、灯もそれに倣っている。
「あー、鈴木にどやされるな〜」と、少し困ったように片鍋がつぶやいた。
片鍋は二組の生徒である。本来ならば武道場に集まっていなければならないのだろう。灯は「すみません」と謝った。
「気にすんなよ。これはしゃーなし案件だろ」
十二時の鐘が響く中、片鍋に連れ添ってもらい、灯は保健室が見えるあたりまでやってくる。そのまま保健室の扉を開けようとする片鍋だったが、灯は「もう、もう大丈夫です。ここからは一人で行けます」と、曲に掻き消されないために張った声で言った。
これ以上片鍋に迷惑をかけられないのに加えて、もう一つ理由があった。今までは誰に見られることもなかったが、この中には養護教諭がいることが確実なので、必然的に「片鍋に介抱される灯」の図を見られてしまうことになる。それが何とも恥ずかしかったのだ。
「そう? 大丈夫?」
曲が鳴り終わったので、片鍋は普通の声量で訊いてくる。
「は、はい。ありがとうございました。お世話になりました」
「いやいや別に、そこまでのことしてないけど……」
明らかにヘロヘロな状態の灯と、すぐそこの保健室を見比べる片鍋だったが、やがて「ま、倉敷がそう言うなら」と折れる。
「でもちゃんと保健室行けよ?」
「行きますよ!」
疑われている灯だった。「ほんとか〜? ちゃんと行けよ〜?」と念を押して、片鍋はその場から立ち去っていった。
灯はぐでぐでの状態のまま、去り行く片鍋に手を振って別れ、その後保健室の扉を叩いた。
灯から症状を聴いた養護教諭は「熱中症だね」と言い、適切な処置をして経口補水液を灯に与えた。廊下も無人の教室も蒸し暑いことこの上なかったが、保健室は冷房が効いていて快適だった。
「今ベッド空いてるから、しばらく横になってな」
スタイリッシュに白衣を着こなし、かつ面倒見が良いことで有名な養護教諭のお姉さん(名前はよく覚えていない)に言われるがまま、灯はベッドに寝転び、やがて眠りについてしまった。
3 発覚
カーテンが引かれてもちょっとは目を開けていたのだが、養護教諭の叩くパソコンのキーボードの打鍵音のみが響く静かな空間の中で、灯はすぐに眠りに落ちた。
カーテンに囲われた白い天井の中で、一箇所だけぽこっと出っ張っている変な突起を何となく見つめていた灯だったが、まもなく視界がぐにゃりとぼやけ、夢に変化していく。意識が完全に途絶えた後、夢の中で灯は、まだ廊下を片鍋に支えられて歩いていた。
「保健室、あとで行きますから、今は教室に、それを」
「はいはい、わかってるよ」
灯はガラスの靴を抱えている。なんとしてもこれを教室に届けなくてはいけないのだ。
しかし気がつくと、片鍋はどこか違う場所に行こうとしている。曲がらなくていい角を曲がって、下校路に灯を連れ出すのだ。
「片鍋くん、違いますよこっちは。こっちだと駅ですけど……」
だが、悪い気はしなかった。灯は高揚感に満ちていた。片鍋は何も喋らず、しかし灯に恐怖を与えない。二人は切符を買って列車に乗り、どこか知らない場所へ行くのだ。
いつのまにか灯の気分は良好に戻り、片鍋の隣に並んで列車の座席に座っていた。灯が「どこ行くんですか?」と訊くと、
「そうなー、海とか?」と、片鍋が軽い調子で答える。海か。悪くないと思った。
灯にとっての海のイメージは、幼い頃に家族で行った伊豆の海水浴場が最も大きい。吹き抜ける海風、砂浜の至る所に張られたテント、波に合わせて上下する人の群れ。炎天下、灯は水着姿で海に浸かっていた。
——あれ、片鍋くんがいない——
不安になってあたりを見回す。ふと見ると、プカプカと透明な何かが灯のすぐそばを漂っていた。ビーチボール? クラゲ? カツオのエボシ? いや違う、これは、これは——まずい。
これは、ガラスの靴だ。
うわ、まずい。届けるの忘れて遊んでしまった。どうしよう、今から戻る? いやいやだめだ遅すぎる。というか塩水につけてしまって大丈夫か? いや、ガラスと塩気はあんまり関係なかったような。いやいやこんなこと考えている場合じゃない、なんとか、なんとかしてガラスの靴を鞄に入れないと——
がらがらっと保健室の扉が開く音で、灯は覚醒する。
「おいっ、何度確認してもガラスの靴が届いていないぞ! どうなってるんだ?」
明らかに怒っている礼条の声。来客は礼条らしい。その声にあてられて、灯はベッドから飛び起きる。
「す、す、す、すいませんでした! 海なんか行ってる場合じゃありませんでした!」
シャッとカーテンを開け、床に降りると一切躊躇わず礼条に土下座した。
「……海?」
「え、は、はいっ! ……あれ?」
戸惑ったような礼条の声がした。灯はおそるおそる顔を上げると、そこにはポカンと口を開けた礼条の姿があった。混濁した意識が急激に鮮明になるにつれて、海に行ったのは夢の中だったと思い出し、恥ずかしくなる。
「あ、いや、なんでもないです……すみません……」
「ふん、そうか。……で、ガラスの靴はどこだ? 鞄に入ってないのだが」
気を取り直したらしい礼条が、肩にかけている鞄をこれ見よがしに指し示して問い詰めてくる。
灯は焦った。届けていない? 嘘だろう? 片鍋の助けを借りて、確かに鞄に靴を入れたはずだが。
「そ、そんなはずは。私、ちゃんとガラスの靴届けました……よ……? ケースに入れて、礼条さんの鞄に入れたと思いますけど……」
灯は礼条が肩にかけている鞄を指差して言うが、もしかしてあれも夢か? と、だんだん自信を失っていく。確かに、朦朧とした記憶しか思い出せない。片鍋に支えてもらって廊下を歩いた記憶は、全部嘘か?
——いや、そんなはずはない。あれは現実だ。そこまで重度の熱中症にはなっていない。
灯の脳が急激に回転する。
礼条の勘違いという線はないだろうか?
可能性は低い。礼条由紀の鞄はメインのチャックの他にポケットが一個ついてるだけの単純なデザインだ。片鍋が鞄にケースを入れた時、鞄の中にもともと入っていた物は筆箱だけ。他の荷物の影になってケースが見えなかった、なんてことはありえない。現に今、礼条は改めて鞄の中を覗き、「やっぱりないぞ」とつぶやいている。
もしかして、盗まれた?
「靴だけないんですか? それともケースごとですか?」
灯の質問に、礼条は「靴だけだ」と答えた。
「そうですか……」
灯の脳内に、最悪の可能性が浮かぶ。
とりあえず教室に戻って考えようと、靴を履こうとした灯だが、「おっと、待て待て」と養護教諭がそれを制する。彼女は灯と礼条を見比べながら、「なんだか大変そうだが、あんたはまだ寝てなきゃ駄目だよ。病人なんだから」と言って、灯を寝かせた。
再びベッドに横になった灯は、ちらりとスマホを出して時刻を見る。
時刻は十二時十五分。
ガラスの靴を届けてから、十五分が経過していた。