ガラスの靴   作:後菊院

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第二話

 

 

    1 明神先生の研究室にて

 

 

 その部屋は本だらけだった。

 灯の背後の壁も灯の対面に座る男の背後の壁も、余すところなく本棚が敷き詰められていた。

 どこを見ても目に飛び込んでくるのは文字の羅列だ。書籍のタイトル、著者名、出版社名。タイトル、著者名、出版社名。そして灯には読むことのできないアルファベットのタイトル、著者名、出版社名。扉のある方の壁と、それに向かい合った壁——大窓のついた壁には本棚はないが、窓際にはデスクトップの置かれた机が鎮座していた。

 灯は、部屋の真ん中に置いてある応接テーブルに着いている。椅子は灯の側に二つ、対面に一つ。灯は隣の空席に自分の鞄を置いていた。

 典型的な大学教授の研究室の間取りだった。

 ただ、灯の対面に座る男は、専任教授にしてはいささか若い面持ちだ。染めた茶髪を放置したプリン頭に大縁の眼鏡、その奥に見える柔和な細い目からは、実年齢を読み取るのが難しいが、それでも四十に達してはいないだろう。着物の襟から覗く喉元にも、老いの気配は見えない。

 着物——彼の最も大きな外見的特徴は、着物を纏っている点にあった。

 大学教授というより、明治の文豪のような出で立ちである。男の名前は明神月彦。この大学の教員だった。ただ灯は彼の細かい所属学部や役職を覚えておらず、単に「明神先生」と呼んでいる。

「礼条さんの小説は、昔話や伝説になぞらえているみたいだけど——」

 明神はコーヒーの入ったグラスを二つ応接テーブルに置くと、灯を見て口を開いた。

「ああいうミステリーってよくあるの?」

「まあ、よくあると言われればよくありますけど」灯は小首をかしげながら答える。「『不思議の国のアリス』や『白雪姫』をモチーフにしたミステリーもありますし、古くは『マザー・グース』の歌になぞらえて人が殺されていく話もありますよ」

「童謡、昔話、創作昔話……。ふうん、わりとあるんだね」

「有名な『そして誰もいなくなった』にも、『十人のインディアン』の歌が使われていますね。子供っぽい感じが、却って不気味さを煽るんですよ」

「なるほどなあ」

 納得するように首を縦に振る明神。対して灯は、首を横に傾げた。

「でもなんでそんなこと訊くんですか?」

「いや、学生時代の友達で、ミステリー研究会の奴がいたんだけど、そいつも昔話を元ネタにしたミステリーを書いていたんだよね」

「へえ」と灯。初耳だった。まさかそんな友達がいるとは。「それは、あれですか。明神先生が昔話の研究をしているつながりですか?」

「そうだね」

 明神は頷いた。

 彼は民間伝承の研究者である。

「そいつとつるんでたから、多少は謎解きに強くなったよ」

「『多少』で済むレベルじゃないですよ、先生は」

 灯の両親と旧くから親交のある明神は、灯にとっても気心の知れた間柄だ。明神さんは知恵者で、困ったことや難しい問題でもたちどころに解き明かしてしまう名探偵なんだよ——とは、彼を称賛する灯の両親の言葉である。昔、灯の両親は彼に助けてもらったことがあるらしい。

 これまでに何度か、灯も明神の知恵を借りた経験がある。名探偵かどうかはわからないが、明神が非常に賢い人だということは灯も知っている。「先生」という呼称も、彼が教員だからそう呼んでいるのではなく、灯に色々なことを教えてくれるから、という理由の方が強い。

「そうかな。だったら嬉しいけど——ごめん、話の腰を折ったね」明神はそう言って謝り、「続きを話してくれよ。ガラスの靴の盗難事件のことをさ」と灯に促した。

「ああ、いえ、はい——」

 灯は、途中になっていた「ガラスの靴盗難事件」の顛末をまた語り出す。

「それで、みんなで靴を探したんです。先生方にも手伝ってもらって。そうしたら、北側校舎裏の目立たないとこで見つかったんですだけど、粉々だったんですよ」

「へえ、粉々」

「はい、粉々。ガラスの欠片があたり一面に散らばっていて。盗んだ人が落としたんだと思うんですけど」

「だとすると、それを見たり聞いたりした人がいそうだね」

「うーん、私たちもそう考えているのですが、今のところそういう情報はないんですよ。まあ夏休みですし、そもそも人が少ないからというのもあるのでしょうけど」

「なるほど。そのあたりはウチと同じか」

 明神は窓の方に目を向ける。灯もそちらを見た。ちょっとした広場が眼下に見えたが、人影は全く見えなかった。大学生は夏休みバイトに明け暮れる生物だと聞いていた灯だが、どうやらそれは正しいらしい。

 灯は明神に視線を戻して言う。

「でもうちの高校は、部活とか、文化祭準備で来てる人が結構いるんですよ。ですので、誰かが見ててもおかしくはないんです」

「まあ、それは実際に証言が出てきてから検討した方が良さそうだ。靴の紛失に礼条さんが気づいたのはいつ?」

「あ、えっと……」

 灯は答えに窮した。

 それ以上のことを詳しく知らないのだ。

 灯は病人ということで、靴の捜索などには加えられずにそのまままっすぐ帰宅させられた。靴が壊れた状態で見つかったというような情報は、クラスのグループチャットから得られたものである。

 昨日からずっと、グループチャットは大混乱だ。真っ先に教室に帰ってきたのは誰だとか校内に残っていたのは誰と誰だとか、誰が怪しいとか誰々はアリバイがあるから怪しくないとか、犯人を見つけたら即刻退学にしてやれとか、いやもう警察に突き出せとか、様々な情報が錯綜してわけがわからなかった。その上、次から次へとどんどん更新されていく。

 最初は必死で読んでいた灯だったが、読んでも読んでもきりがないので、一旦諦めた。そして明神を頼ってはるばるこのキャンパスへとやってきたのだ。

 はるばるといっても、灯の実家から自転車で十五分ほどの距離なのだが。

「すみません、詳しいことはまだわからないんです」

「——そうか。まあそうだろうね。昨日の今日だし」

 明神はそう言って、グラスに口をつけた。

 彼はその後しばらく沈黙したが、やがて突然、「とりあえず、現時点で俺から言えるのは三つかな」と喋り出す。

「まず前提として、犯人は灯ちゃんのクラスメイトか、あるいは二組の人たちの中にいる可能性が高い」

「え、どうしてですか」

 いきなり名探偵仕草を見せてくる明神に、灯は置いていかれそうになる。飲んでいたコーヒーを机に置き、大慌てでメモ帳を取り出した。

「礼条さんの鞄からガラスの靴を盗み出すためには、ガラスの靴の存在を知っていなくちゃいけない。でも礼条さんが靴を持ってきたのは昨日が初めてなんだよね。じゃあ、靴の存在を知っている人は限られる。八組の人と、灯ちゃんが靴をしまいに戻る時にすれ違った二組の人たちだけだ」

「ああ、なるほど。確かに」

 説明されれば、納得できる話だった。灯はメモ帳に「犯人は八組か二組」と書き込みながらうんうんと頷く。

 礼条がガラスの靴を持ってきたのは昨日が初めてだ。あの靴の存在を知っている人間がそもそも限られる。

「次に、犯行は突発的であるということ。手の込んだ仕掛けとかはなさそうだね」

 明神は二本指を立てて言った。

「ガラスの靴のお披露目が昨日だったからですね?」

「それもそうだし、礼条さんが灯ちゃんに靴を預けたのも偶々だろうから。ついでに言えば、灯ちゃんが体調を崩したのもね。計算できないことが多すぎて、前もって計画しとくのは無理だ。そして、最後に」

 明神は三本指を立てた。

「動機が不明であるということ」

「……え?」

 灯は首を傾げた。

 メモを取る手が止まる。

「どういう意味ですか?」

「言葉のままだよ。なぜ犯人は靴を盗み、壊したのか。これがさっぱりわからないんだよね。最大の謎と言っていい」

「私は、礼条さんを恨んでいる人の仕業じゃないかと思っているんですけど」

 礼条はあんな性格だから、どこかに敵を作っていたとしても不思議はない。実際、熱中症でダウンしたのを礼条のせいだと思うことにした灯にとっても彼女は敵である。ガラスの靴が壊れて見つかった以上、動機は怨恨というのが灯の中での大本命だったのだが。

「んん、そうかもしれないけど……あんまりしっくり来ないんだよね」

「どうしてですか?」

 灯がそう訊くと、明神は「もし俺が礼条さんに恨みを持つ犯人だったなら」と仮定した上で、次のように言った。

「ガラスの靴を壊すにしても、今この時期はやらないかな。俺なら文化祭の前日に壊すよ。それなら劇も台無しになって、礼条さんへのダメージがより大きいでしょ」

「えぐいこと言いますね……」

 平然と言い放つ明神に対して、灯は若干身を引く。やはり大学の教員なんてまともな精神ではやっていけないのか——とはいえその意見には納得させられるものがあった。確かに、壊されたガラスの靴の代わりは、道具係によって作成されるという話に(混沌としたグループチャットの中で)なっていた。演劇自体には大した影響がない。

 礼条は売れっ子作家である。経済力は一般の高校生を遥かに凌ぐ。ガラスの靴の損失は、痛くないといえば大袈裟だろうが、それでも致命的ではないだろう。恨みを晴らす悪事としては、なんとも微妙な所業に思えてきた。もちろん、恨みの大きさがそもそも微妙だという可能性はあるのだが。

 たとえば自分が犯人なら、と考えかけた灯だが、灯が礼条に恨みを持っていても何のアクションも起こさないだろうと思考を打ち切る。せいぜいがお母さんに礼条の愚痴を言うくらいだ。

「でもそう言われてみると、確かに動機がよくわかりませんね。なんで壊したんでしょうか……」

「それに『盗んで』『壊した』理由も謎なんだよなぁ」またまた鋭いことを言う明神。何でもないことのように言い放つが、灯にとっては含蓄溢れるお言葉である。「壊すだけなら、わざわざ校舎裏まで靴を持っていかなくてもいいでしょ」

「確かにそうですね。壊す際の音を気にしたとかですか?」

「音を気にするのなら、そもそも学校内で壊さない方がいいと思うんだよね。河川敷の藪にでも捨てた方がずっと確実なのに」

 明神の疑問はもっともだ。「あー……確かに」と灯はおでこに手を当てる。なぜ今までそのことに考えが及ばなかったのだろうか。

「バラバラで見つかった靴が、実は偽物でしたーなんてオチだったらすっきりするんだけどね」

 明神は冗談めかして言った。

「ガラス片の正体は理科室の実験器具だったとか、そんなことあったりしない?」

「はっはっは」

 灯は大袈裟に笑った。

「しませんよ。そんな馬鹿な間違い。そうだとしたらお笑い種です。あの破片群が靴じゃないなんてそんなまさか……あの、ちょっと電話してきていいですか?」

 へへへと笑いながら扉を指差した灯に対して、吊橋は微笑を浮かべたまま黙って頷き、テーブルに置いてあるグラスを再び持ち上げた。

 

 

    2 ガラスの靴は本物か?

 

 

「校舎裏で見つかったガラス片は、確かにガラスの靴の破片だった」

 礼条由紀は灯の質問を聞くなり、いつもの芝居がかった口調でそう言った。

「君と同じことは、私も考えたさ。だからこそあのガラス片が見つかった時、念入りに調べた。しかしあれはガラスの靴だったよ。捜索に参加していた教員やクラスメイトたちも、私が破片を検分する様子を見ていたと思うが、同じ意見だろう」

「どうやって調べたんですか?」

「どうやって、とは」

「あ、えっと、調べ方です」聞き返すのもいちいちかっこいいなと思いながら、灯は言葉足らずだった箇所を補足する。「ガラスの靴には、どこかにシンボルマークみたいなのがついていて、それが破片の中にないか探したとか、そういう感じですかね」

「いや。比較的大きな破片を組み合わせて、靴の形を再現したんだ」

「あー、なるほど……」

 それなら疑いの余地はない、と灯は残念がった。細工のしようもない。校舎裏に散らばっていたガラス片は、まごうことなくガラスの靴だったのだろう。

 それでも何か、礼条の目を欺けるようなトリックがないだろうか。何かこう……奇跡的にガラスの靴に組み替えることができる他のガラス器具を割ったとか。恐竜の化石なんかは昔は組み方がよくわからなくて、ヘンテコな恐竜ができていたなんて話を聞いたことがある。それと同じように、組み替え方次第で実は別のものができあがるなんてことないだろうか。

 そんなふうに灯が往生際悪く考えていると「それにしても——」と、礼条が喋り出す。

「電話をかけてきたのには驚いたよ。何事かと思った」

「えっ、あ、すみません」

 灯は通話越しに頭を下げる。これは嫌味か? 確か礼条は今日も稽古をしていたはずだが、サボって探偵ごっこに明け暮れている灯に、礼条は憤りを覚えていたりするのだろうか。

「お邪魔でしたよね……。稽古中ですか?」

「ああ、まあそうだが」

 そう答える礼条の声の後ろからは、クラスメイトのセリフらしきノイズが時折聞こえてくる。礼条と演者たちは今日も今日とて学校で芝居を練り上げているらしい。

 たらりと、灯の喉元を汗が伝う。取り繕うように、

「ガラスの靴が失くなったとはいえ、『死んでれらあ』そのものを中止にするわけにはいきませんからね」と言った。

「ああそうだな……ふん、何度聞いても忌々しい題名だな」

 由紀がさらに不機嫌になったので、灯は「えっ、あっ、すみません!」と頭を下げた。

「気にするな。別に倉敷さんのせいじゃない……ガラスの靴の紛失に関してもな。あれは象徴的な存在だったが、しかしたかが小道具だ。あれが無くなって、劇自体がたちゆかなくなるわけではない」

「そ、そうですよね……へへ、すみませんほんと」

 へへと笑う灯だったが、これは決して礼条を馬鹿にする意図はなく、灯の癖である。真面目な空気に耐えられなくなると、灯は変な笑い声をあげてしまうのだ。悪い癖だと灯自身思っているが、体に染み付いてしまったものはなかなか拭えない。本格的に礼条の不興を買う前に、一刻も早く通話を切らなければ。

「お邪魔しました。質問に答えてくださってありがとうございました。失礼します——」

「ああ待て待て、倉敷さん」

「え、は、えっと、なん、なんでしょう」

 まずい。怒られるか? 逃げようとしたのがバレた? どうしよう。

 顔を青くする灯だったが、礼条の声色からは怒っている様子がなかった。彼女は灯に対して、全く予想外の問いをぶつけてきた。

「ひとつ聞きたいんだが——君はなぜ犯人を捜す?」

 灯は答えに窮する。

 怒っていないにしても、礼条は常に独特の雰囲気を纏っている。灯はその雰囲気に呑まれて固まってしまった。面と向かっていない電話越しにも関わらず——いや、礼条の声が直接耳元で囁くので、通話越しの方が礼条ワールドに引き込まれやすいのかもしれないが。

「今回の事件の被害者は私だ。だから私が犯人探しをするのは、まあ、自然なことだ」

「……そう、ですね。へへへ……」

 灯の同意を取るような間が空いたので、灯はそう答える。

 にやつく口元は焦っている証拠だ。

「一方、君は事件の関係者であるものの、積極的に真相を探るような立場の人間ではないはずだ。勿論、真相を明らかにしてはいけないなどというつもりはない。ないのだが、ただ……少し不思議でね。倉敷さんはこういうものに熱中するような性格でもないと思っていたのだが」

「……」

 まずい。怒られるよりも、事態は深刻である。

 そこを突かれると、灯は非常に困るのだ。

「これは私の杞憂かもしれないが……汚名返上のために動いているのなら、そんな必要はないと言っておくよ。私は君が靴を盗んだとは思っていないからな」

「ああ、そう、そうですか? それは本当、ありがとうございます……」

 しどろもどろになりながら、灯は礼を言った。

 隠し事を悟られないように、努めて平静を装おうとするが、却って変なことを口走ってしまう。

「あ、いや。その、なんといいますか、やっぱりちょっと気になるんですよね。私」

「気になる?」

「え、はい、そうです」

 突っ込まれて、ギクリと身を強張らせる灯。やっちまったと後悔するが、時すでに遅し。もう突っ走るしかない。

「はい……ちょっと、じゃないですね、だいぶ気になっています。単純に、誰がどうやってガラスの靴を盗んだのか知りたいんですよ。不真面目な理由で、礼条さんには申し訳ないんですけど……へへ」

「私のことは気にしなくて構わないよ」

 灯につられたのか、それとも合わせていただけたのか、礼条も少し笑いながらそう言った。

「実際私も、真相究明のための動機の半分は好奇心だ」

 なんだかにこやかなムードに変わったのを敏感に察知して、灯は「あ、へえ〜。そうなんですか?」と、さも興味ありげに訊く。

「あれにかけた金額を考えると少々頭が痛むがね。まあ、致命的な損害ではない。芝居そのものにも大した影響はないからな」

 売れっ子作家は言うことが違う。灯は「ほえー」と感心するしかなかった。

「時に君、明日の午後は空いているか?」

「え、明日ですか?」

 これまた予想外の質問が来て、灯は狼狽え、「暇ですけど……」とどうにか答えた。

「そうか。ならば君も参加したまえ。明日の一時半から、『ローザ』で推理談義があるんだ」

 

 

    3 ローザでの推理談義

 

 

 ローザとは、月野坂の中腹あたりに居を構える喫茶店の名前である。マスターが月野坂高校OBということもあり、月野坂高校の生徒は割安(一杯三五〇円)でコーヒーを頼めて居座れる。試験前などは教科書ノート参考書を広げた生徒で混雑するのだが、夏休み中は高校生の姿などほとんど見ない。

 店の扉を開けると、エアコンの快適な冷気が灯を迎えた。カランカランと小さなベルが鳴り、カウンター席の客と談笑していたヒゲのマスターがこちらに気づいた。彼が「いらっしゃい」と挨拶してきたので、灯は「どうも」と言って軽く会釈する。

「よう、倉敷」

 奥のテーブルから、灯を呼ぶ声がした。

 クラスメイトの立川紗香だった。見ると、他にも知った顔が二人ほど卓についている。

「月野坂ブレンドひとつください」

 灯は人差し指を立ててマスターにそう頼むと、立川たちのいる六人テーブルまで歩いていく。その途上で、ちらりと壁にかかった時計を見た。時刻は午後一時二六分。約束の時間にはまだ少し早い。

 六人テーブルには、立川以外に白河瀬奈と鹿嶋賢悟がいた。全員が灯のクラスメイトである。灯を誘った当の礼条はまだ来ていなかった。

「立川さんもいたんですね」

 そう言いながら、灯は空いた三つの席のうちの一つを引く。立川の隣だ。

「なんだよ、意外か? 失礼だな」

「ああいえ、そういうのではなくて。昨日礼条さんからお誘いを受けた時、立川さんの名前は出てこなかったので」

「今日集まろうって言い出したのはね、紗香なんだよ」

 のほほんとした口調でそう言ったのは、灯の対面に座っている白河だ。「すごい推理を思いついたんだって」

「あ、そうだったんですね」

 灯はさらに意外そうな目で立川を見た。極めて失礼なことだが、立川に企画の主催なんてものは似合わなかったし、推理なんて言葉はもっと似合わなかった。灯にとって立川は、たまにいるオヤジっぽい女子の典型だ。頼りになり、男子にも全く臆さず自然体で当たれる一方で、粗野粗暴なんて言葉も付随してしまう人。喧嘩になったら勝てなさそうなキャラクターだが、同じ女子だしやりようによっては私でも勝てるでしょうと、灯が勝手に脳内で戦ったことがあるうちの一人である。

「そうなんだよ」

 そんな灯の心中など知る由もない立川は、得意げな顔を灯に向けた。

「すげえトリックを思いついたんだよ。で、今ちょうどこいつらに話そうとしてたとこでな。お前も聞きたいか?」

「え、まあ、はい」

 聞きたいことは別にあるのだが、とりあえず灯は頷いた。トリックを思いついたとはどういうことだろう。

「でも、まだ礼条さんが来てないよ?」

 白河が立川に待ったをかけるが、「大丈夫だって。何遍でも喋ってやるよ」と立川は言った。思いついたことを誰かに喋りたくてうずうずしているらしい。子供ですね、と内心、灯は鼻で笑った。

「犯人はな、放送委員だ」

 立川はテーブルに身を乗り出し、声をひそめて喋り出した。

「……放送委員?」

 灯は首を傾げる。内心ですまし顔をしていたミニ灯も困惑しているようだ。わけがわからない。もしかして自分が馬鹿だから理解できていないなんじゃないかと不安に駆られた灯は、白河、鹿嶋ペアの方を見た。すると彼らも怪訝な顔をしている。よかった、最悪の事態は回避された。

 そして、立川が得意げに説明をし始める。

「倉敷がガラスの靴を礼条の鞄にしまって、教室を出たのが『十二時の鐘』の始まる時。んでもってアタシが教室に戻ってきたのが、ちょうど『十二時の鐘』の終わるタイミングだ。倉敷以外で教室一番乗りはアタシ。だから靴が盗まれたのは『十二時の鐘』が鳴ってる間——ってのが昨日の結論だっただろ?」

「え、そうなんですか?」

 知らない話を振られて、灯は困惑する。確かに灯は『十二時の鐘』が鳴り始めたタイミングで教室を出た。そのことはグループチャットで訊かれた折に、書きこんだ気がする。だが立川が教室一番乗りという情報は初耳だ。

「それ、初出し情報でしょ」

 灯が一人で焦っていたところ、横から鹿嶋が落ち着き払った声でそう言った。「昨日のグループチャットでは、結論なんてなんも出てなかったと思うけど」

 見ると白河も首を傾げている。初耳だったのは灯だけではなかったらしい。なんだ、おどかしやがって。灯は非難の意を込めた視線を立川の横顔に突き刺した。

「あれ、そうだっけ?」

 と言う立川だったが、「まあでも今言ったからわかっただろ」と適当に誤魔化して喋り続ける。灯の視線にはそもそも気づいていないようだった。

「アタシは『十二時の鐘』が終わるタイミングで教室に着いたんだよ。で、その後はずっと教室の自分の席に座ってた。アタシの席がどこかは知ってるよな?」

「由紀の後ろでしょ?」

 白河が言った。由紀とは礼条の下の名前だ。灯も、礼条と立川の席が前後で並んでいたことは覚えている。神童と不良娘が雁首揃えて座っているあの領域は、七組有数の危険地帯なのだ。

「そうだ。だからアタシには礼条の鞄がずっと見えてたんだよ。礼条が持ってくまでずっとな。だからアタシの目を盗んでガラスの靴を盗むのは無理だ」

 そんなことないんじゃないですかと突っ込みたかったが、灯は訊くタイミングを逸した。

「となると必然的に、ガラスの靴が盗まれたのは教室が無人だった時間に限られるわけだ」

「『十二時の鐘』が流れている間か」

 鹿嶋がつぶやく。立川は満足げに頷いた。

「けどさ、『十二時の鐘』ってそんな長いことかかってないだろ。昨日調べたんだけど、学校でかかるフレーズは一分二〇秒ってとこだったな」

「え、そんなに短いんですか?」

 灯が思わずそう尋ねると、立川は鬼の首を取ったような顔で

「そこよ」と言った。

 しまった、引き立て役になってしまった。

 灯はものすごく後悔した。

「ガラスの靴は礼条の鞄の中の、さらにそのまたケースの中だって話じゃねえか。たった一分ちょいで盗み出せるかってったら微妙なところだ。けどな、『十二時の鐘』の流されていた時間がそれよりもっと長かったら、もっと余裕をもって盗めるだろ?」

「……え、ごめん。どういうこと?」

 白河が首を傾げる。

「だから放送委員なんだよ。放送委員なら十二時にかける音楽を弄れるだろ」

「——ああ、なるほど!」

 立川の言わんとすることをようやく理解し、灯はポンと手を打った。なぜそんな芝居がかった真似をするのか——灯は、自分が引き立て役なんかに収まる人間じゃないですよと言うことを広く世に知らしめなければいけなかったからだ。

「長尺版ですね?」

 さも重要なことのように、灯は言った。

「『十二時の鐘』は短いですが、本来はもっと長い曲のはずです。フルでかけなくとも、いつもかかっているより長いバージョンをかければ、時間に余裕ができるはずだと、そういうトリックですね?」

「なるほどー!」

 白河もわかったようだった。その顔は晴れやかである。

「そういうこと。なっはっは、アタシって名探偵じゃね?」

「ええ。そうですね」

 灯は優雅に頷き、コーヒーを一口含んだ。「では早速、放送委員の名簿をもらいに生徒会にでも行きましょう——」

「いやぁ、駄目だろ」

 と。

 立川の推理を切って捨てる者がいた。

 鹿嶋である。

「え、だ、駄目ですか……?」

 立川と一緒に切られた灯は、狼狽しながらそう尋ねた。というのも、鹿嶋は見目麗しい美男子であり、サッカー部のエースであり、校内外の女子人気が絶大な男なのだ。今回の演劇では「王子」の役をやっている。勿論灯は普段彼とほとんど会話をしない。する機会がないのである。

 そんな鹿嶋にも臆さず、立川は「なんだ鹿嶋ゴラァ、アタシの推理に文句あんのか」と迫っていった。

「文句というかさ……」

 鹿嶋は困ったように頬をかきながら言った。

「倉敷さんも立川さんも、別に『十二時の鐘』に合わせて教室に出入りしたわけじゃないだろ? たまたまタイミングが合ったってだけでさ」

「それがどうしたんだよ」

 ガルルル、という擬音が聞こえてきそうな勢いで噛みつく立川。しかし鹿嶋に立川の威嚇は効いていないようだ。ある意味での「理論武装」を鹿嶋は纏っていた。

「『十二時の鐘』を長くしたところで、その始まりと終わりに人が出入りしてないと意味のないトリックは使えないってこと」

「わけわかんねーよ! アタシと倉敷が出入りしてんだろーが!」

「偶然出入りしたんでしょ? 『放送委員』はそれを予想なんかできねーでしょ」

「ああ? 何言ってんだよ……」

 と言いつつ、立川もようやく自分が分の悪い主張をしていることに気づいたらしい。目が泳いでいた。

「くそ、そうか。そういうことかよ」と、悔しそうに吐き捨てる。

 先ほどとは打って変わり、不機嫌極まった立川。どこかに手頃な怒りの噴出口を見つければ、そちらに全力で流れ込みそうな状態だった。話し相手としてははなはだ危なっかしく、物を尋ねる相手として最悪だったが、「あのぅ」と、灯は無謀にも彼女に声をかけた。

「立川さんは、教室に来てからずっと自分の席に座っていたんですよね」

 案の定、立川は「ああ?」と灯を睨んできた。

 いきなり何でそんなことを訊くんだ馬鹿野郎、と言わんばかりの態度である。まあ、馬鹿野郎は言い過ぎかもしれないが——しかし突然変なことを切り出す灯に対して、立川が怒りの目を向けているのは確かだ。

「あ、いや、すみません」

 灯はびくりと怯えてのけぞる。いきなり質問してきたと思ったら次の瞬間に謝り始める敬語口調のクラスメイトを前にして、立川の瞳は怒りから困惑の色へと移り変わった。

「……そーだよ、アタシはずっとあそこに座ってた」

 意外にも立川が素直に答えてくれたので、灯は改めて立川に視線を向ける。なぜかはわからなかったが、立川の怒りは先ほどより鎮まっていた。大丈夫、か? いけるか? と、おっかなびっくりしながらも、灯はもう一歩踏み込んだ質問をする。

「その間、怪しい人は見てないんですよね」

「見てねーよ」

 即答だった。

 この辺りで、灯以外の者たちも灯の意図を理解する。どうやら灯は、立川の証言の詳細が知りたいらしい。ずっと鞄が見える位置にいた、立川紗香の証言が。

 白河と鹿嶋も、揃って立川に注目する。

「鞄をゴソゴソしていなくとも、何か他の面で怪しい人物はいませんでしたかね」

「他の面?」

 立川に聞き返され、灯は考えをまとめながら答える。「ええとそうですね、鞄近くを通った人とか」

「そんなんたくさんいたよ。うちのクラスのやつらが。鹿嶋だってそーだ」

 倉敷がそう言ったので灯は鹿嶋を見る。鹿嶋はこくりと頷いた。

「そうですか……」

 通りすがっただけでは、ガラスの靴は盗めない。

 ガラスの靴は、鞄の中のケースの中に入っていたのだから。盗み出すにはどうやっても鞄を「ゴソゴソ」する必要がある。通りすがるだけで鞄の中の靴を盗めるようなトリックはないだろうか? 

「ああ……でも、こんなのどうでしょう」

 灯は斜め上を見ながら喋り出す。

「犯人はあらかじめ、礼条さんの鞄とそっくりな鞄を用意していて、それの中にガラスケースとそっくりなケースを用意しておくんです。そしてそれを、本物の鞄と一瞬で入れ替えるとか。これなら犯行は一瞬で済むので、立川さんが見過ごしている可能性だって……」

「それマジで言ってんのか?」

 立川に言われて、灯は視線を彼女に落とす。

 彼女は胡散臭いものを見る目で灯を見ていた。

「いや……ただの思いつきです」

 灯はいたたまれなくなって目をふせる。さすがに無理のある話だった。

「そんなことしたら、さすがに礼条さんが気付きますよね。自分のものがすり替わってるわけですから。少しの時間なら誤魔化せても、ずっと偽物を掴まされるはずがありません」

「それもそうだし、そもそもそれだってアタシは気づいてたと思うよ。すり替えの瞬間を見てなくたって、すり替えられた鞄と元の鞄のポジションが違うってのはわかるだろ」

「ずっと動いてなかったんですか、鞄の位置」

「当たり前じゃん。鞄が勝手に動くわけねーでしょ」

「ああ、まあ、それはそうなのですが。えーとつまり礼条さんの鞄は、立川さんが教室に入ってから礼条さんがやってくるまで、全く動かされていないということですね?」

「そう。アタシ、便所にも立ってないし、スマホいじってたわけでもないから」

 立川が首を縦に振る一方で、灯は頭を抱えたくなった。これで容疑者はさらに絞られる。立川より後に教室に入ってきたクラスメイトたちに、靴を盗めるチャンスはない。

 実際に立川紗香の証言を聞いてみるまでは、どこかに抜け穴があるのではないかと灯は考えていた。しかし立川は想像以上にしっかりと鞄を監視していたようだ。彼女はトイレにも立たず、スマホも見ずにいたという。

「……ん? じゃあ何をしていたんですか? 立川さんってたしか、礼条さんが鞄を取ってってからもずっと教室に残ってたんですよね」

「落書きだよ。なんか文句あんのか」

 立川はそう言って、鞄から一冊のノートを取り出した。ページをパラパラとめくり、ある箇所で止める。そしてそれを灯に見せた。

 そこには礼条由紀の鞄が描かれていた。

 精密画というにはいささか大雑把だが、上手な絵だった。

「お上手ですね……」

「だろ?」立川は嬉しそうに言った。「暇な時にこういうことすんのが、画力向上の秘訣よ。はじめは人待ちまでの手遊びだったんだけどさ、興が乗ってな。礼条が鞄を持ってった後も、仕上げのために残ってたんだ」

 そう言えば立川は美術部で、イラストや水彩画を趣味にしていたということを思い出す灯。落書きしながらの人待ちは、彼女らしい時間の潰し方と言える。

 これならば彼女の証言は信用できる——彼女が意図的に嘘を吐いていなければ。

 コーヒーに口をつけた後、灯ははあとため息をついた。

「……立川さんはどうして教室に残ってたんですか?」

 それでも何か手がかりはないかと、灯は質問を捻出した。「時間潰しのための落書きということですけど、練習が終わったんだから、もう帰ってもよかったはずですよね。誰か友達を待ってた、とかですか?」

「紗香はね、私を待ってたんだよ」

 その疑問には白河が答えた。

 白河は「ね」と言って立川を見る。立川は「おう」と頷いた。

「お二人って仲良かったんですか」

 灯が立川と白河の顔を交互に見比べながら言った。

「別に仲良くなんかねーよ」と立川。「中学が同じなだけだ」

「えーひどーい傷ついたー」

 白河はあまり傷ついてなさそうな口調で言った。

「……えっと」

 灯は頬をかく。「確認ですが、立川さんは白河さんと合流した後、ずっと一緒だったんですかね」

「うん。私は教室戻ってからずっと紗香といたよ。トイレも一緒に行ったし。ちなみにね、私は教室までは由紀と一緒だったよ。由紀に居残りって言われて、演技指導されちゃってたから」

 白河はぺろりと舌を出す。

 白河瀬奈は美少女である。校内外の男子人気も、ついでに言えば女子人気も高い。そういう意味で白河はモテ男の鹿嶋と双璧を為していて、今回の劇では「シンデレラ」の役を演じている。

 ただ、演技はあまり上手くない。要領の良いタイプではないので、礼条からの注文に応えきれていないようだ。先日も礼条に睨まれていた。

「由紀ってば凄いんだよー。演技のお手本見せてくれたんだけどね、もう完璧なの。由紀がシンデレラやればいいのにって思うくらい」

「まあ、あいつは元演劇部だからな」

 立川が言った。

「ああ、らしいね」と頷く鹿嶋。周知の事実のようだったが、灯にとっては初耳だった。

「え、そうなんですか?」

「なんだお前、そんなことも知らねーのか。あいつは演劇部の元エースだぜ。途中で辞めたらしいけどな」

 立川は呆れたような口ぶりでそう言った。立川のこういう無遠慮なところが、灯は苦手である。

「瀬奈が礼条と教室に戻ってきたのは何時?」

 鹿嶋が尋ねた。鹿嶋による「瀬奈」呼びが非常に気になったが、それでもここでは何も口を挟まず、灯も白河の方を見る。

「んとね、十二時……十分とかじゃなかったかな? あんまりよく覚えてないけど」

 白河は難しい顔で、中空を睨みながら言った。立川も「そんくらいだったと思うぜ」と同意する。

「じゃあその時ですね。礼条さんが靴の紛失に気がついたのは」

「いや、違うよ」

 灯の言葉を否定したのは白河である。

「え、違うんですか?」

「うん。その時は由紀、普通に鞄持って教室から出てったよ。盗まれてるって気づかなかったんじゃない?」

「そうですか、なるほど……。じゃあ、礼条さんは靴の紛失にいつ気がついたのでしょうか?」

 灯が疑問を誰にともなく投げかけると、鹿嶋が口を開いた。

「いつかはわかんないけど、場所は多分図書室だと思うよ。俺、図書室から出てくる礼条さんと入れ違いになったんだけどさ。その時あの人、やけに不機嫌そうな顔してたから。あれ多分、靴がないことに気づいて怒ってたんじゃないかな」

「オメー図書室なんかに何しに行ってたんだよ」

 立川がじっと鹿嶋を見ながらそう訊いた。

「何しにって、本借りにだけど」

「オメーサッカー部だろ。なんで本なんか借りんだよ」

「部活関係なくないか?」

「……まあそうだけどよ、なんかイメージ合わねえんだよな。お前と読書」

「ええ? そうかな?」

 そう言ったのは白河だ。「私はそうは思わないなー。鹿嶋くん頭良いし」

「いや別に、そんなことないけど……」

 鹿嶋は否定するが、彼の学業成績が優秀なのは事実である。

 ちなみに灯の成績は中の下だ。敬語口調ゆえに優等生と勘違いされるのだが、これは小さい頃に見たアニメのキャラクターからの影響であって、頭の良さとは何の関係もない。

「俺のことは別にどうでもよくてさ。問題は礼条さんがいつ靴がなくなってるのに気づいたかだろ」

 鹿嶋が話を本線に戻す。

「つっても、それは礼条が来ねえとわかんねえじゃんかよ」

 立川がそうぼやいた時、喫茶店の扉が開いた。

 皆、そちらに注目する。扉の向こうから姿を見せたのは、三人の期待通り、礼条由紀だった。

「いらっしゃい」というマスターの声。店内を見渡す礼条。彼女はすぐに灯たちを見つけ、いつもの不敵な笑みを浮かべる。

「やあ、お待たせしたかな」

  礼条は全く汗をかいていなかった。

 

 

    4 礼条、参上

 

 

 「——そうだ。靴の紛失に気づいたのは図書室だった。教室で鞄を手に取った時点では、ガラスの靴が失くなっているなんて思いもしなかったよ」

 これまでの話を聞いた礼条は、三人が気になっていた疑問に関してそんな風に答えた。

「私は教室で鞄を手に取った後、そのまま図書室に移動した。そしてそこで靴の紛失に気づいた。まあ当時は盗まれたとは思っていなくて、倉敷さんがまだガラスの靴を持っていたままだと勘違いしていたよ。だから教室にとって帰り、『倉敷さんはいないか』と呼びかけたのだが……」

「灯ちゃんはいなかったよ」

 白河が言った。「由紀が教室に戻ってきた時もまだ何人か残ってたけど、灯ちゃんは帰っちゃってたんだよね」

「ああいえ、その時私は保健室にいました。気分が優れなかったので」

 灯が訂正すると、白河は「え、大丈夫だったの?」と心配してくれる。灯は「大丈夫です。大したものではありませんでしたから」と答えた。

 礼条の言葉は続く。

「いずれにせよ教室に倉敷さんはいなかった。しかし倉敷さんが職務を放棄して帰るような人間だとは思えなかったのでね。これはどういうことだろうと考えた。そこで私は武道場での倉敷さんの顔色が悪かったのを思い出し、保健室を訪ねたのだ」

「なるほど……」

 礼条の事件当時の行動を聞いて、灯はそう呟いた。

 礼条は灯の体調が悪いのに気づいていたらしい。気づいていながらガラスの靴なんてワレモノを託す彼女の神経には首を傾げざるをえないが……いや、体調が悪いと気づいていたからこそ、一人だけ早く帰れるような仕事を灯に与えたのだろうか。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。どちらもありえる話だった。

 なんにせよ、そこは大した問題ではない、と灯は思考を切り替える。

 問題は、礼条が靴の紛失に気づいたタイミングだ。

「それなら礼条さんが教室に戻ってきた時よりも後に盗まれた可能性もありますね」

 灯が言うと、礼条は「どうかな」と僅かに首を傾げる。

「図書室に移動するまでの間、私は肌身離さず鞄を抱えていた。図書室では読書席についた時に鞄を椅子の横に置いたが、私以外の利用者はいなかったのでね。盗まれるタイミングがあったとは思えないな」

「あ、そうですか……」

「じゃあやっぱり、盗みがあったのは『十二時の鐘』が鳴ってる間だな」

 立川が言った。

「でも、それって『十二時の鐘』が鳴ってる間は、誰にでも盗めたってことだよね? 犯人が誰かわかんないね」

 白河が残念そうに言う。

「いや、そんなことはないよ」

 しかし礼条がそれを否定した。

「はあ? どういうことだよ」と立川。

 立川だけでなく、鹿嶋と白河も、灯も怪訝な顔をした。すると礼条は

「アリバイだよ」

 と言って人差し指を立てた。

「『十二時の鐘』が流れている間、我々三年八組には全員アリバイがある。なにせ立川さんより早く武道場を出た者は、倉敷さんしかいないのだからな」

「……まあ、確かにそれはそうだけどよ」

 立川は頷く。が、礼条の言わんとすることはわかっていないようだった。

「本当にそう言い切れるんですか?」

「言い切れるとも」

 灯の問いに、礼条は即座に回答する。

「私は武道場全体を見ていたからな。私の証言だけで心許ないのなら、あの時武道場が空くのを出入口前で待っていた、二組の連中にでも確認してみるといい。そして立川さんを追い越すような者もいなかった。そうだろう?」

「まあ、そうだな」

 立川はまた頷く。「けどよ、アタシらにアリバイがあるから何なんだ? よくわかんないんだけど」

「知らない物は盗めない」

 礼条は言った。

「ガラスの靴が盗まれた時点で、そもそも靴の存在を知っていた人間はごくわずかだ。靴を持ってきたのが一昨日なのだから、当たり前だがな」

「……おい。それってつまり、犯人はアタシら八組の中にいるってことかよ」

 立川は青い顔をしてそう言った後、何かに気づいたかのようにはっと灯を見た。

「倉敷! お前が犯人か!」

「違いますよ! どうしてそうなるんですか」

 びっくりしながらも、灯は否認した。いきなり何を言い出すのかこの女は。

「だって今、礼条が言ったじゃねーか。犯人はガラスの靴を知ってる奴の中にいるって。そん中でアリバイが無い奴ってったら、お前しかいねーじゃんかよ!」

「いや、いやいやいや。違いますよ、そんなわけないじゃないですか。私、『十二時の鐘』が終わった直後に保健室に入ったんですよ? その後はずっと保健室にいました。よしんば、よしんば靴を盗んだとしても、校舎裏に捨てに行く時間がないじゃないですか」

 必死で抗弁する灯。その内容にはちゃんと説得力があったようで、立川は「よしんば、そうか……?」と、首を捻る。だが、まだ灯への疑いは消えないようだった。

「——そうだ、共犯者だ共犯者! お前には共犯者がいたんだよ! そいつが靴を受け取って、お前の代わりに捨てたんだ!」

「あり得ませんよ!」絶妙にほじられたくない箇所をほじられ、灯は声を荒げる。「そんな都合よく共犯者なんて見つかるわけないじゃないですか!」

「保健室の先生! 保健室の先生が共犯だろ! あいつに体売って味方に引き込んだんだ! あいつ、なんか目つきヤらしいもんな!」

「やるわけないじゃないですかそんなこと! 怒りますよ!?」

 あることないことを並べ立てる立川——流石に様子がおかしかった。なぜそんなに慌てているのだろうか。

 灯はすぐにその理由に思い至った。

「もしかして立川さん……自分が疑われると思ってます? クラスの中に犯人がいるって、礼条さんに言われたから」

 灯がそう言った時、立川は「ギクリ」という擬音が聞こえてきそうな固まり方をした。灯も大概だが、立川もかなりわかりやすい奴である。

「は、はあ……? なんで、なんでだよ。なんでアタシが疑われんだよ……」

 前と打って変わって、立川の声は驚くほどか細かった。

「だって立川さん、立川さんにだってガラスの靴は盗めたじゃないですか。最初に教室に戻ってきた人なんですから、一人で教室にいる時間があったってことですよね?」

「……そりゃ、そうだけどよ……。でも、一人の時間ったって三十秒ぐらいで……」

「いや、一分ぐらいはあったでしょ」

 鹿嶋が言った。

「なんでそんなことわかんだよ……!」

「いやだって、二番目に教室戻ってきたの俺だし。『十二時の鐘』が終わってから、大体一分ぐらい後だったよ。俺が教室戻ったの」

 鹿嶋の無慈悲な証言を聞いて、立川は悲壮な顔をした。

「で、でで、ででででも、アタシにも靴を捨てることなんかできねーぞ!? だってアタシはその後ずっと、ずっとずっと瀬奈と一緒だったからな!」

「でも、トイレには行ったんですよね」

「そ、それがどーしたんだよ!」

「どこのトイレですか?」

 灯は容赦なく尋問する。同情の気持ちもなくはなかったが、疑われた恨みは忘れていなかった。

「場所によっては、窓からガラス片の散らばっていた位置に靴を投げ捨てられますけど」

 立川は助けを求めるような目で白河を見た。そして必死の形相で、「北! 北校舎のトイレだよな!」と訴えかける。

 白河は困った顔をした後、「え、南だよ。南の端っこの」と言った。

「…………南、ですか?」

 灯は白河に訊いた。

「北ではなくて?」

「うん。南。だって北のトイレなんて遠いじゃん」

 白河がそう言ったので、灯は緊張を解き、盛大にため息をついた。

「なんだ、全然関係ないところじゃないですか……!」

「紛らわしいな」

 礼条も苦笑する。「立川さん、いらない嘘をつかないでくれたまえよ。本当に犯人かと思ったぞ」

「え……? え……?」

 わけがわかっていないらしい立川に、鹿嶋が「靴の破片が散らばってたのは北側の校舎裏なんだよ」と教えた。「南のトイレにしか行ってないなら、立川には捨てられないね」

 立川は最初、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが、やがて理解できたらしく、自信を取り戻した。

「おう、そーだよ」

 胸を張る立川。

「アタシにゃ無理だ。当然、アタシとずっと一緒だった瀬奈も無理だ」

「そうだな」と礼条。「そして倉敷さんも犯人ではない。『十二時の鐘』の直後に保健室を訪ね、それからずっとベッドで寝ていたのなら、ガラスの靴を捨てられる余裕はなかっただろうな。共犯がいれば話は別だが……共犯説には現実味がない。これは立川さんにも言えることだが、倉敷さんにはガラスの靴を盗めむこと自体は可能だっただろう。しかし私が今日初めてあれを学校に持ってきた以上、それは突発的犯行だ。共犯説を採用した場合、倉敷さんは突発的にガラスの靴を盗んだ後で共犯を獲得している。そう都合よく共犯者を調達できるとは考えにくい。ゼロとは言いきれないものの、後回しにして良い問題だ」

「まあ、はい。そうですね」

 大して深く考えず、灯は頷いた。

 すると白河が疑問を口にする。

「ねえ、でもおかしいよ。犯人はクラスの中にいるんでしょ? なのに八組全員犯人じゃないってことになると、犯人がいなくなっちゃうよ?」

「そうとは限らないさ」

 礼条が言った。

「八組だけではない……二組の中にもガラスの靴の存在を知っている者はいたはずだ。倉敷さんが教室に戻る時、二組の人間とすれ違っているだろうからね」

「すれ違っただけじゃ、あの靴がどんな物なのかはわからないんじゃないか?」

 鹿嶋が言った。「そもそも、すれ違う人の持ち物なんか大して気にしないでしょ。もし目にとまったとしても、倉敷が持ってたなら倉敷の物だって思うかもしれないし、本物のガラス製かどうかだってパッと見じゃわからないし。盗もうとか思わないんじゃないか」

「まあ普通はそうだろうな」

 礼条は何やら自信ありげに頷く。灯はふと嫌な予感がした。まだ言葉にできないが、無意識が未来を予測演算しているあの感じ。何かを言おうとする灯だったが、礼条の言葉を阻むことはできなかった。

「だが、可能性は残る。倉敷さんの持っていたガラスの靴に興味を示した人が、倉敷さんの後をこっそりついていって、靴を私の鞄にしまったところを見ていた可能性は。だから私は先ほど、二組の知り合いに『十二時の鐘』が流れている間の、彼らのアリバイを聞いてみたんだ。そうしたら二組はその時武道場に集まっていて、ほぼ全員のアリバイを証明できると言われたよ」

「ほぼ全員って、半端な言い方だな。抜けがあるってことじゃねえかよ」

 立川が言った。

「ああ」と礼条。

「一人だけアリバイのない者がいるようだ。名前は確か、片鍋安彦」

 ぞくりと、灯の背筋に悪寒が走った。

「カタナベ……? 知ってる?」

 白河が皆を見渡す。鹿嶋と立川は「さあ」「知らねーな」と口々に言った。

「片鍋安彦は遅れて武道場にやってきたらしい。しかも遅れた理由は誰にも言っていないようだ。私の見立てでは、彼こそがガラスの靴を盗んだ犯人だと思うのだが——どうかな」

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