1 片鍋安彦は犯人か?
片鍋が犯人のはずがない。
そう言おうとした灯だったが、声を上げることはできなかった。込み上がる言葉が喉元でつっかえた。
あの時、片鍋は礼条の鞄にガラスの靴をしまってくれた。吐き気に苦しんでいた灯に代わって。
……灯が実際にその瞬間を見たわけではない。灯はあの時吐き気の波に襲われていて、片鍋を気にかけていられなかった。
教室を出る時、片鍋はガラスの靴なんて持っていなかった。彼が持っていたのは、体育館履きが入っている靴袋だけだ。
……あの靴袋なら、ガラスの靴を隠し持てる。
だが、片鍋には動機がない。
ガラスの靴を盗み、破壊することで、片鍋に一体何の得があるというのだろう。機会があっても動機がなければ犯行は起こらない。片鍋は犯人などではない。
あの片鍋が、そんなことをするはずがない。
「そんなわけないですよ、片鍋くんは私を助けてくれたのであって利用なんかしていない——していないはずです」
灯は口に出して言うが、周囲には誰もいなかった。
そこは喫茶店ローザではない。無人の教室である。礼条たちとの推理談義の翌日、灯はまた学校にやってきた。とはいえ、演劇の稽古に立ち会うためではない。今いる場所は武道場ではなく、灯の教室でもない。三年二組の教室だ。
つまり、片鍋安彦の教室である。
他人の教室で一人、ぶつぶつと独り言を言っていると、やがてガラガラと扉が開く。灯は顔を上げた。
現実世界に戻ってくる灯——扉を開けた者と目が合う。
それは灯の知らない女子生徒だった。
彼女は灯を見るなり、「え、誰」と不審そうに言って眼鏡の位置を直した。だがそれは彼女が礼儀知らずの不良少女だからではない。むしろ自分の教室に一人佇む見知らぬ女を見て、不審に思わない方が不自然だ。
灯と相対する彼女は、このクラスの人間なのだろう。
「あ、えっと……すみません」灯は彼女に向かってぺこりと頭を下げた。そして前々からあらかじめ考えておいた自己紹介のセリフを唱える。
「私、八組の倉敷という者なのですが」
「八組?」
「はい。ええと、片鍋くんに話があるんですけど、彼、今日は学校来ますかね」
「片鍋? さあ、来ないと思うけど」
所属と用件がわかり、灯への警戒心が一段和らいだらしい。二組の女子生徒はすたすたと机の合間を歩き、自らのものと思しき机の中に手を突っ込む。そしてそこから冊子を一つ取り出した。劇の脚本だろう。
「あいつ、あんまりやる気ないから。先週の金曜は来たけど、遅刻したし」
彼女は脚本をめくりつつ、ため息まじりに言った。
「遅刻ですか」
「うん。あ、もしかして礼条から聞いてる? 一昨日あいつに教えてやったんだよね、片鍋が遅刻したこと」
そこまで言った時、彼女は何かに気づいたらしく脚本をめくる手を止め、改めて灯に視線を向けた。「……っていうか、礼条の話と同じ用件?」
「同じ用件、というのは、ガラスの靴の件ということですかね」
「そう。盗まれたんでしょ」
手で空中に靴の形を描きながら、彼女は言った。
「片鍋を疑ってんの?」
どきりとする灯。「……いえ、あの」どう答えようか迷っていると、女子生徒は「ふふっ」と笑い声を漏らした。
「はははっ、ありえないよ。だってあいつが靴壊したって何の得もないじゃん」
「あはは、そうですよね。それはそうなんですけど……」
そう言い切れないからここにいるんだと言えない後ろめたさを噛み締めながら、灯は女子生徒に合わせて笑う。
「あんたはさ、礼条の使いっ走りかなんかなの?」
予想外の問いかけを受けて、灯は「え?」と首を傾げる。
「礼条の推理なら聞いたよ」
女子生徒が言った。
「靴を盗めるのは靴の存在を知り得る奴だけ。物理的に靴を盗めたのは『十二時の鐘』がかかってる間だけ。その間、靴の存在を知り得る奴の中でアリバイがないのは片鍋だけ……だっけ?」
「あ、え、はい」
女子生徒の眼鏡の奥で光る挑戦的な瞳にあてられ、灯は頷くことしかできなくなる。
わかりやすくまとめられているが、確かにそれは先日礼条が灯たちに語り聞かせてくれた推理だ。改めて聞いてみても、単純かつ明快な推理である。間違えようもない推理に思えるのだが、しかしこの女子生徒は先ほど片鍋安彦犯人説を「ありえない」と一笑に付した。どういうことだろう。
「礼条らしいよね。狭い世界で完結してるっていうかさ。与えられた情報をそのまま飲み込んでるとこが真面目って感じ」
「真面目、ですか」
灯は礼条に対して「真面目」という印象を抱いたことがなかった。そりゃ灯に比べればはるかに真面目なお人なのだろうが、彼女には真面目属性なんてもの以外に際立つ性質が多くありすぎる。しかしこの女子生徒は「うん。真面目。クソ真面目」と言い切って、大きめに頷いた。
「あれであんなふざけた小説書いてるのがおかしい。ほんとムカつくよね」
「はあ……」
「ほんとムカつく」のは本当らしいことが、彼女の態度からありありとわかった。返事に困る灯——そんな灯に構わず、彼女は
「でさ、あんたは礼条の手先として、片鍋犯人説を証明するために来たパシリってことでいいんだよね」と言った。
「え! あ、いや。違いますよ!」
慌てて否定する灯。しかしいまいち言葉に力が入らなかった。女子生徒にも、それが伝わってしまったらしい。彼女はすっと目を細め、疑うように灯を見る。
「へえ違うの? 嘘っぽいけど」
「嘘じゃないですよ! そもそも私、礼条さんのパシリじゃありません!」
ひとまず灯は自分にかけられた「パシリ」の称号を剥ぎ取ろうと声を張り上げた。絶対に違うのかと言われたら一瞬自信を失うかもしれないが、灯は礼条のパシリなどではないし、今日この教室に来たのも他ならぬ灯の意志だ。
「そうなの?」
だが、彼女は依然として訝しげな目つきをしていた。
「だって金曜だってあんた、礼条のパシリやってたじゃん? ガラスの靴を運ぶ役」
なぜそれを知っている。
灯は改めて女子生徒の顔を見た。
「え……もしかして」
女子生徒は組んでいた腕を解き、手のひらを開き、灯に全身を見せつけるように立った。
間違いない。
「あの時、階段の踊り場ですれ違った……」
「そうだよ」
言われてみれば確かに、記憶と同一人物だった。
「あの時すれ違った鈴木こころです。よろしく」
鈴木こころと名乗った女子生徒は、あからさまにうやうやしくお辞儀をした。
2 鈴木こころの見解
「——『十二時の鐘』が鳴った時点で、片鍋は武道場にいなかった。それは確かだよ」
鈴木と灯は場所を変え、武道場横の庇がある場所にやって来ていた。
あの後すぐ、二組の他の面々が教室にやってきて、騒がしくなってきたのだ。芝居の稽古のために集まってきた彼らに対して、鈴木は「私抜きでやってて」と言い残し、灯を連れてここまでやって来た。
蝉の声はうるさいが、会話を邪魔されることのない場所だ。屋外だが日陰であり、風の通り道になっているのでそれなりに涼しい。焼ける校庭で部活に勤しむサッカー部と野球部を眺めながら、二人はコンクリートのちょっとした段差に並んで腰掛けていた。
「二組の他の面々は全員武道場に揃ってた。それも確か。だから『十二時の鐘』が鳴ってる間、アリバイのない奴は二組の中には一人しかいない。それが片鍋なのも事実……でもさ、私はそれがなんなのって言いたいんだよね」
「……どういうことですか?」
「八組と二組に限らなければ、アリバイのない奴なんてごまんといたでしょって話」
空高く打ち上がる白球から視線を外し、鈴木は灯に顔を向けた。
「あんた、ガラスの靴のことを前から知ってた奴が校内にいないなんて、本当に言い切れんの?」
「え——」
「礼条がどこの誰にガラスの靴なんてヘンテコなものを発注したかは知らないけどさ、少なくともガラス細工の職人さんは靴のこと知ってたわけでしょ? その時点でガラスの靴は秘密でもなんでもないのよ。その職人の子供が同級生とか後輩とかにいてもおかしくないじゃん。靴を運送した人の知り合いが教員の中にいても全然不思議じゃない。『ガラスの靴の存在を前から知っていた人間』が、校内にいた可能性はある」
「いや、それは詭弁ですよ」
灯は負けじと言い返した。どちらかというと騙されやすい方に入る人種の灯だが、鈴木の言っていることが屁理屈だというのはわかる。
「現実的に考えて、そんな人が校内にいた可能性は低いです。まあ確かにゼロではないかもしれないですけど、でも——」
「私はさァ、可能性の話をしてるんだよ」
鈴木は灯の言葉を遮って言った。
「『ガラスの靴』を知ってた奴がいた可能性。共犯の可能性。誰かが意味もなく嘘を吐いてる可能性。そういうのを完全に潰さない限り、片鍋をクロ確にはできない。だって礼条は『他に可能性がない』から片鍋をクロって言ってるだけで、片鍋がやったって証拠はなんも出さないんだよ。あいつがガラスの靴を知ってたかすらわかんないんだ。ただ劇の練習に遅れて来たってだけで疑われてる。私は納得できないね」
ことの他説得力があった。
反論もちゃんと想定していたらしい。灯は言い淀む。
「で、ですが——」
「あんたらはさ、何で片鍋を疑ってんの?」
ずいっと、鈴木は灯に顔を近づけた。
「片鍋が犯人だっつう証拠、出せんの?」
「……」
灯は身をのけぞらせ、鈴木から視線を外しかける。
どうやら鈴木は片鍋が鐘の鳴っている間に何をしていたのか、知らないようだ。だから灯を追い詰めている。だから余裕でいられる。しかし現実は鈴木の予想とは違う。もっと残酷だ。
灯はまた、鈴木の目を真っ向から見つめ返した。
「片鍋くんは、ガラスの靴を知っています」
そしてそう言った。
少しの間、沈黙が続く。やがて鈴木が「どうして、言い切れんのさ」と尋ねた。
「片鍋くんは、私を助けてくれました」
「……助けた?」
「介抱してくれたんです、片鍋くんは。気分が悪くて動けなくなっていた私を、保健室まで連れてってくれたんですよ」
喋りながら灯は、鈴木の表情を逐次観察する。予想外の事実を突きつけられたからか、鈴木は怪訝な顔で黙ったまま、しばらく灯を見つめていた。
気のせいかもしれないが、彼女は怒っているように見えた。
「……あいつが? あんたを?」
「はい。その途中、八組に寄ってガラスの靴を礼条さんの鞄にしまってくれたのも片鍋くんです。ですので、彼には靴を盗むチャンスがありました」
「チャンスって……あんた一緒にいたんでしょ? じゃあ盗む隙なんてないじゃん」
鈴木にそう言われて、灯の胸にずしんと重いものがのしかかるような圧がかかる。後悔の念が灯を苛んだ。「うう」と小さく声を出す。
過失だ。灯の過失なのだ。在らん限りの罵声を、あの時の自分に浴びせたい。今の灯がこんなにも悩んでいるのは、全てあの時の自分のせいなのだから。
灯は鈴木に対して、首をゆっくり横に振った。
「見てないんです。しまったところ」
「なんで——」焦ったように問いつめる鈴木。「なんでよ」
「吐き気に襲われて、そっぽを向いていたんです。だから片鍋くんが靴を鞄にしまうところを、私は直接確認していなくて——」
鈴木が立ち上がった。
無言で灯を睨みつける彼女に、灯は口をつぐまざるを得なくなる。灯は段差に座ったまま、じっと鈴木を見上げた。
「……ふざけんなよ」
呟くように、鈴木が言う。
「ふざけんなってマジで……。あいつが泥棒なんかするわけないじゃん。ありえないって……」
「も、もちろん私だってそう思っていますよ」
慌てて灯は言った。
鈴木が怒っているように見えたのは気のせいではなかったらしい。
「片鍋くんは私を助けてくれたんです。そんな人が泥棒なんてするはずがないと——」
「じゃあ何で片鍋探してんだよ」
鈴木に糾され、灯は何も言えなくなる。
眼鏡の奥の冷たい瞳に容赦なく射抜かれ、動けなくなった。
「疑ってるってことでしょ。あんた、片鍋に助けてもらっといてさ、恩を仇で返すわけだ」
「……」
「性格悪っ」
「……すみません」
ひたすら、鈴木の言葉を甘んじて受けた。
「人としてなってないよね。つーかそうじゃん、片鍋が遅れた理由ってそれじゃん。あんた助けてたからアリバイがない。うーわ害悪。あんたがへばったから片鍋が疑われてんだ。他人に迷惑かけまくり」
罵倒の言葉をまくしたてた鈴木は「今の話、黙っとけよ」と灯に釘を刺した。
「絶対誰にも喋るんじゃねーぞ。あんたにはそれくらいしかできねーんだからさ。わかった?」
「……はい」
力なく頷く灯。
「んで、お前もう二度と片鍋に近寄んないで。二組にも来るな」
「そ、それは——」
待って欲しい、と灯は顔を上げた。それは避けたい。片鍋に会って話をしたいのに、接触禁止にされたら灯はどうしようもなくなる。しかし鈴木は取り合ってくれなかった。どころか、灯の首根っこをぐいと掴み、顔を近づけてこう言ってきた。
「はあ? 片鍋疑ってる奴を近づけさすわけないじゃん」
「いや、でも——」
「そんなに疑いやがって、お前が片鍋の何を知ってるっつーんだよ!」
怒りの形相で怒鳴られ、灯の主張はかき消される。
「何も知らねーくせして、つっつき回すんじゃねーよ。クソ女」
鈴木は軽く灯を突き飛ばし——怒ったまま、足音荒く去っていった。
「……」
後に残されるのは、呆然と立ち尽くす灯だけ。
灯はしばらく動けなかった。
頭の中に反響する言葉が、灯の動きを縛り続けていたのだ。
言うまでもなく、「お前が片鍋の何を知ってるっつーんだよ!」という鈴木の言葉だ。それは他の罵倒よりも遥かに深く、灯に刺さった。
延々とこだまするそれは、いつしか灯自身の声色に変わっていた。
「——あなたは片鍋くんの何を知っているんですか?」
片鍋には動機がない。
だが、本当にそうだろうか。
なぜそんなことが言える?
片鍋は無実と、なぜ信じられる?
答えの見えない問いだけが、灯の視界を覆っていた。
3 下校路
「——あれ、倉敷さん」
とぼとぼと帰路についている灯——そう声をかけられて顔を上げると、正門の前の木陰に、鹿嶋が立っていた。
彼は手に持っていた本を鞄にしまいつつ、「今、帰り?」と訊いてくる。
「ああ、はい……帰りです」
鹿嶋のしまう本をなんとなく目で追いながら、灯はそう答えた。
「——礼条さんの、ですか」
「ん? ああ。うん」
灯が何を言っているのか、一瞬理解できなかったようだが、すぐにわかったらしい。鹿嶋はしまいかけていた本の表紙を灯に見せる。『藁の館』と題されたその書籍は、礼条由紀のデビュー作だった。
「礼条先生の芝居をやらせていただくからね。理解を深めるのにいいかな、みたいな」
鹿嶋は笑いながら言った。「まあ前にも読んだことあるんだけど」
「そうなんですか」
「クラスメイトが作家デビューだぜ。興味湧くでしょ」
鹿嶋がそう言ったので、灯は微妙な笑みを浮かべた。実を言うと、灯は礼条の作品を読んでいないのだ。
明神の研究室では偉そうに色々と講釈を垂れていたが、灯は推理小説をあまり読まない。あれはうわべだけの知識である。U. N. オーエンは彼女なのかも知らない。
「面白い、ですか?」
「うん。面白い」
迷いなく頷く鹿嶋。「『三匹の子豚』をテーマにした話なんだけど、わくわくするよ。藁葺き屋根の小屋、ログハウス、煉瓦造りの邸宅で順々に密室殺人が起こってくの」
「へえ……」
「まあ、俺は『選定の聖剣』の方が好きなんだけどね」
「あ、そうなんですか」
礼条が世に出した小説はこれまでに二作。『選定の聖剣』は二作目だ。タイトルは知っているが、やはりそちらも灯は読んでいない。
「英雄が犯行を自白するところから始まる展開が秀逸だな。あの構成は天才にしかできないと思うよ」
「天才ですか」
「礼条さんは天才だよ」
鹿嶋は言った。
「驚異的な精緻さを備える推理作家は、まあ、いる。ド派手な事件を描き切る作家も。でも、その両方を同時に持った小説を書ける作家はなかなかいない。礼条さんはそれだ。あるいは百年後にも読み継がれていておかしくない話を書く人だ」
「へえ……」
ベタ褒めである。
自分もいつか何かで誰かにベタ褒めされたいなあなんて思いながら、灯は相槌を打った。
「書店で平積みされてる本に、クラスメイトの名前がでっかく書いてあったのを見た時は、そりゃもうびっくりしてさ」
「それは、確かに」
「気分はグウェン・ステイシーかアンヌ隊員だよ——って言って、通じる?」
「ああ、まあ一応……」
深いことは大体知らない灯だが、にわか知識に関しては潤沢である。スパイダーマンもウルトラセブンもほとんど読んだことも観たこともないが、設定その他の情報は聞き齧っていた。
というかむしろ、鹿嶋がそれらを知っていることの方が驚きだった。文武両道なのは知っていたが、サブカルチャーへの造詣も深いのだろうか。
「その日のうちにサイン頼んだよ」
「行動力ありますね……」
灯ならきっと変なプライドと遠慮が邪魔をする。礼条がプロデビューしてから一年ほど経つが、たとえ灯が彼女のファンになったとしても、いまだに何も言い出せずにいたっておかしくない。
「したらさ、あの人かなりの推理小説マニアでさ、まあ当然なんだけど。それまで礼条さんと話したこととかあんまなかったのに、意気投合しちゃったよ」
あの人も、ということは鹿嶋も推理小説マニアなのだろうか。遠い存在だと思っていた鹿嶋賢悟だが、意外とそうでもないらしい。いや、推理小説にしたって灯は全然知らない世界なのだが。
「今回の劇もノベライズするらしいから、楽しみだよ」
「え、ネタ割れてるじゃないですか。それでも楽しみなんですか?」
「うん。推理小説の楽しみはトリックだけじゃないから」
「はあ、なるほど。確かに」
わかったような顔をして頷く灯。
「じゃあやっぱり買うんです? 小説版の『死んでれらあ』」
「うん……まあ、えっと、多分タイトルは変わると思うけど」
鹿嶋は苦笑いして言った。鹿嶋も、あのタイトルには思うところがあるらしい。灯も同感で、「まあそうでしょうね」と言った。
そんな風に鹿嶋と灯が話していると、校舎の方から白河瀬奈が姿を現した。
彼女は「おまたせしましたー!」と片手を挙げながら、軽やかな足取りで駆けてくる。最初は鹿嶋だけに視点が合っていたのだが、途中で灯にも気づいたようだ。
「あれ? 灯ちゃん。どうしたの?」
首を傾げて灯に尋ねてきた。
「ああ、えっと」
と言いかけて、灯は困った。鹿嶋と一緒にいるこの状況をなんと説明すれば良いのだろう? それも相手は白河だ。鹿嶋との関係が恋愛に発展していそうな(気がする)相手である。微妙にいたたまれない。
「今ちょっとそこで会ったんだよ」
言い淀む灯に代わり、鹿嶋が答えてくれた。
「そうなんだ! 灯ちゃんも一緒に帰る?」
満面の笑みで訊いてくる白河に、灯はたじたじになる。この二人についていった場合、圧倒的な敗北感に襲われる危険を感じたが、「そうだね。電車でしょ?」と鹿嶋にも誘われてしまっては断れなかった。
「あ、では、ご一緒させていただきます……」と、灯は頭を下げた。
「ねえ、なんの話してたのー?」
白河が尋ねてきた。どう答えたものか、灯が考えをまとめるより早く、鹿嶋が「『死んでれらあ』はダサすぎるんじゃないかって話」と言った。
「えー? なんで? なんか面白いじゃん」
「そう思ってるの、瀬奈だけじゃないか?」
何を隠そう、『死んでれらあ』の発案者は白河である。一学期の中頃、礼条が脚本のプロットをクラスで発表した段階で、「じゃあタイトルは『死んでれらあ』だね!」と白河が言ったのが全ての始まりだった。
当時、礼条は「し、死んでれらあ……だと……?」と言葉をつまらせ、顔を青くし、具合を悪くして退室した。それによって白河の産んだ怪物は制御不能になった。
「えー、灯ちゃんはどう? ダサいって思ってる?」
「え、いやあ、私は……まあ、ダサ、くはないと思っていますけどどうですかね……客観的には」
灯はギリギリで息継ぎするように言葉を紡いだ。
「堅いなぁ倉敷さんは」
その横で苦笑する鹿嶋。「倉敷さんって、誰に対しても敬語だよね。それって昔からそうなの?」
「え、あ、はい。子供の頃からずっとこんな感じですね」
なぜか鹿嶋と白河に挟まれる形で道を歩きながら、灯は答えた。
「えーどうして?」右から白河が訊いてきた。「親が厳しいとか?」
「あ、いえ。別にそういうわけではないです。兄も妹も、私みたいな喋り方じゃないですし」
「へえ、三人兄姉妹なんだ」
鹿嶋が左隣で感心したように頷いた。「お兄さんいくつ?」
「二十歳です……。今、大学の二年生で」
「そうなの? 出身高校は?」
「月野坂です」
「え、マジで? 俺姉ちゃんいるんだけど、今二十歳の」
鹿嶋は驚いたように言った。「姉ちゃんも月野坂OGなんだよ」
「じゃあ、知り合いかもね!」
白河が興奮した調子で言う。「名前は? 名前!」
「あ、庵です。倉敷庵。アンて読む『庵』一文字なんですけど」
「お兄ちゃんが庵で、灯ちゃんが灯?」
何やら新発見をしたように顔を輝かせながら、白河が言った。「じゃあ妹さんは?」
「篝です。篝火の篝」
「イオリ、トモリ、カガリか」三兄姉妹の名を順に呟いていく鹿嶋。「お揃いだね」
「はい、お揃いです」
「なのに灯ちゃんだけ敬語なんだー! 面白いね!」
白河が笑う。つられて灯も「ははは」と笑った。
「ウチのクラス変な人多いよねー!」
灯の笑いは引き攣ったが、白河は気づかなかったようだ。
朗らかな笑い顔を見るに、どうやら彼女には全く悪意がないらしい——いや、どうだろう。実はあるかもしれない。灯には判断がつかなかった。
「瀬奈。それ失礼だろ」
「え? あ、そっか。ごめん!」
鹿嶋に窘められ、白河はすぐに謝る。彼女は頭を大きく倒した。あまりにも深く頭を下げるので、「ああ、いや、全然気にしてないですよ」と灯の方が慌ててしまう。
「そう? ごめんね? 私って馬鹿だからさー! デリカシーないことよく言っちゃうんだよ」
頭を上げた白河は、元の快活な笑顔を取り戻しつつ頭を掻く。一々アクションが大きい。わざとやっているわけでもなく、そういう動作が体に染み付いているようだ。人のことは言えないが、白河もなかなかヘンテコな人間だと灯は思った。
八組に変な人間が多いのは確かだ。白河然り、立川然り——そして何より、礼条由紀。
八組の変人代表は礼条だろう。
偉人代表でもあるのが、彼女の凄いところだが。
「そういえばさ、鹿嶋くんて由紀とずっと同じクラスだよね?」
灯の話はもう終わったらしく、白河は鹿嶋の方を見てそう言った。
「うん。そうだけど」
鹿嶋がそう言うと、白河は「じゃあさ、由紀って元からずっとああだったの?」と尋ねた。
「『ああ』って?」
「あの感じ。あの……こう、自信満々っていうか」
「芝居がかった、大層な感じですかね」
白河の言わんとすることを推測して灯が言うと、白河は「そう! それ! 大層!」と灯を指差し、嬉しそうに軽く飛び跳ねた。
「大層」が褒め言葉か貶し言葉かで、白河の印象が変わるなあと、灯は何となく思った。
「ああ、あの感じね」と、鹿嶋。「いやぁ、違うよ。前はもっとおとなしかったな」
「え、そうなんですか?」
灯は左右を交互に見ながら、驚きの言葉を口にする。あの礼条が、前はおとなしかった? ちょっと想像ができない。礼条由紀は生まれた時から高笑いして仁王立ちしててもおかしくないと思っていたくらいなのだが。
「えー! 面白っ!」
白河が言う。確かに、教室の隅で寝たふりをしている礼条を思い浮かべてみると、だいぶ面白い。いや、おとなしい性格だからといって、必ずしも昼食を一緒に食べる友達がいないわけではないのだが。
「俺もちょっとあんまり詳しく知らないけどさ」と前置きしてから、鹿嶋は言った。
「礼条さんが演劇部だった時、なんか事故に遭ったらしいんだよね」
「えー、事故で頭打っておかしくなっちゃったとか?」
白河がそう言ったので、灯は「いや流石にそれは……」と首を傾げる。だが、意外にも鹿嶋がそれを肯定した。
「どうもそうじゃないかって話なんだよ」
「え、そうなんですか!?」
灯は先ほどよりも大きく驚いた。そんな漫画みたいなことが実際にあるのだろうか、なんて思った時、まさに白河が「漫画みたい」と言った。
「いやまあ流石にそんな単純な話じゃないとは思うんだけどさ」と付け加える鹿嶋。「その事故っていうのがなんか、喧嘩してる時に起こったらしくて」
「喧嘩? 誰かに殴られたとか?」
白河が言うと鹿嶋は首を横に振り、
「いや、突き飛ばされたんだって」と言った。
「あ、じゃあ部活仲間にそういうことをされた精神的ショックから、性格が変わったんですかね」
先ほど白河の立てたものよりも、幾分現実的な推論を灯が立てた。鹿嶋も「そうじゃないかと思うんだけどね」と、腕を組みながら言う。
「誰? 誰に突き飛ばされたの?」
白河が興味津々という様子で鹿嶋に尋ねる。すると鹿嶋は、「鈴木こころさんだよ」と答えた。
「知ってる? 二組の、眼鏡の。まだ演劇部の部長だと思うよ」
「うえええっ!?」
やけに戯画的な叫び声が響いたが、もちろんこれは灯の声である。
白河の挙動よりもさらに大袈裟に飛び上がり、片足を上げた状態のまま硬直している灯を、鹿嶋と白河は何ともいえない表情で見ていた。
「……どしたの、倉敷さん?」
おそるおそるといった調子で白河が尋ねてくる。心なしか、彼女は灯と距離を少し空けていた。
「あ、いえ……」
灯は慌てて姿勢を戻し、スカートを正し、高速で手を横に振る。「あはははは。ちょっと、あの、聞いたことのあるお名前だったもので」
そう言い繕いながら、灯の脳みそは高速で回転し始める。鈴木が演劇部で、脚本担当? 礼条と因縁あり? そしてあの時灯とすれ違っている? 関連する事象が脳内を飛び交うが、咄嗟には整理できない。
だが、何かがある気がした。
それについて考えたい——考えなければ。
「そういえばさ、倉敷さんって今日、何で学校来てたの?」
「え?」
しかし、あいにく今はクラスメイト二人と共に帰路を辿る途上だ。一人で考え込む時間ではない。鹿嶋からそう尋ねられ、灯の思考は打ち切られる。
「稽古には顔出してないよね。部活とか?」
「ああ、いえ、私は元々部活とかには入っていないので……」
「そうなんだ。じゃあ自習とか?」
「いや、そうではなく……あの、事件について調べたくて……」
あまり聞いてほしくないことを聞いてくるなあと思いながら、灯は言葉を濁すようにして答えた。
「ああ」
しかしその濁りきった答えでも鹿嶋には十分だったらしく、彼は頷いた。
「え! じゃあカタナベヤスヒコのところに突撃したの!?」
興奮した白河が反対側から訊いてくる。
先日の推理談義では、靴を盗んで壊したのは片鍋安彦であるというのが最終的な結論になってしまった。あの後灯は「そうですかねえ」とか「それは本当なんですかねえ」などといった、気弱で小癪な反論をちびちびと投げ込んだのだが、大して効果はなかった。
ゆえに、白河や鹿嶋にとって「事件の調査」とは、片鍋犯人説の裏を取る作業に他ならないのだろう。
「ああいえ、片鍋くんは今日学校来てないようでした」
「じゃあ、空振りだったんだ」
「ああ、まあはい。そうですね……」
「でもひどいよね。あんなことしちゃうなんてさ」
白河は口をとがらせた。
「由紀さ、バラバラになってた靴を見つけた時、相当悔しかったと思うよ。涙の跡があったもん」
目頭から口元までを指でなぞる白河。
「そうだったんですか?」と灯は少し驚いた。
先週の灯との通話では、大して気にしていないなどというようなことを言っていたが、あれは強がりだったのだろうか。
「被害届は出してないらしいけどね」と鹿嶋。「大ごとにしたくない学校側の意向を汲んだのかな」
「でも、カタナベヤスヒコは退学でしょ。さすがに」
そう言う白河の口調には、非難の気持ちが込められていた。
「まあ、そいつはね」と鹿島。当然ながら、片鍋への同情や憐憫の色など見えない。
「そう……ですよね……」
二人の言葉に、灯もぎこちなく頷く。
「まあ何にしても、事件に関して今後俺らの出張るとこはなさそうだな」
「そうだね。私たちは演技頑張らないと」
「特に瀬奈はね」
「そうなんだよー。もう由紀に怒られたくはないっ!」
はははと笑い合う白河と鹿島。灯もそれに合わせて笑ったが、うまく笑顔をつくれていたか、ひどく不安だった。
4 鈴木こころは犯人か?
当然だが、灯とすれ違った鈴木こころがあのタイミングでガラスの靴を盗んでいた——などという可能性はない。
鈴木が一流のスリ師だとしてもだ。なぜなら彼女とすれ違った後も、灯はちゃんとガラスの靴を握りしめていたのだから。
あのタイミングでは靴は盗めない。
しかしだからといって、彼女に犯行が不可能であったかというとそれは否である。彼女は灯の抱えていたガラスの靴に気づいていたのだから。
「ガラスの靴を盗めるのは、ガラスの靴を知っている者だけだ」という条件を、鈴木は満たしている。
そして彼女なら、灯の後をこっそりつけることもできたはずだ。その場合、彼女の姿は誰にも見られない。なぜなら、彼女より後から階段を降りてきた人間は片鍋安彦ただ一人であり、彼は灯を介抱して、保健室まで連れて行ってくれたのだから。
あの時の灯に、後方を確認する余裕などなかった。片鍋にしてもそれは同じだろう。二人の後をつけるのは容易だったはずである。
灯と片鍋が八組の教室を出た後、入れ替わるようにして教室に入り、靴を盗む。そして校舎北側の窓から校舎裏に投げ捨てて壊し、武道場へ戻る。
ネックとなるのはアリバイの問題だが、それにも説明はつけられる。
鈴木は「一昨日あいつに教えてやったんだよね、片鍋が遅刻したこと」と言っていた。礼条に二組のアリバイを教えたのは鈴木なのだ。
礼条の言っていた「二組の知り合い」というのは、鈴木だったのである。
つまり礼条の推理は鈴木の証言に基づいている。仮に鈴木が嘘をついていた場合、あの推理は破綻するのだ。
そう考えて、灯は再び礼条へと通話を繋いだのだが——
「一人の証言だけで二組のアリバイを決めてはいないよ。鈴木以外の生徒二人からも確認を取った。アリバイがないのは、片鍋安彦ただ一人だ」
礼条はそう言った。
灯の推理は、またしても撃沈した。
「鈴木は私に嘘を吐くかもしれないからね。私と彼女はそう——犬猿の仲なんだ」
「ああ……らしいですね」
昨日、鹿嶋から聞いたことを思い出す灯。
「知っているのか?」
「ああいえ……そんなに詳しくは。事故? に遭ったとかなんとかって聞いたぐらいです」
「事故、ね」
そう呟き、礼条はなぜか少し笑った。
「まあ、事故とも言えるか。鈴木にしても、まさか私があんなに吹っ飛ぶとは思わなかったのだろう。稽古中にな、私が頭を打って、ちょっとした騒ぎになったのだよ。救急車を呼ぶと誰かが言い出した時は、さすがに止めたがな。そこまで大した怪我ではなかった」
鈴木が礼条を突き飛ばしたというのは本当だったらしい。ならば事故ではなく、事件と言った方が適切じゃないかと思いつつ、灯は「鈴木さんに、悪意があったんですか?」と尋ねた。
「あった」
間髪入れずに答える礼条。「もっともあの時は、私の方にも問題があったがね」
「そうなんですか」
「そうだ。喧嘩だよ。よくある喧嘩さ。まだ何者にもなっていない小娘どもの、つまらない諍いだ」
達観した抽象的な物言いに対して、灯は反応に困る。「はあ」と言う他なかった。
「まあ、あれのおかげで今の私があるといっても過言ではないのでね。鈴木には感謝こそすれ、恨んでなどいないさ」
「今の礼条さん、ですか——」
そこまで言った後、灯は逡巡したが、結局は意を決して、「もうひとつお尋ねしても良いですか?」と、訊いてみた。
「構わないよ。なんだ?」
「——その日以来、人が変わってしまったようだと聞いたんですけど……本当なんですか?」
「……おっと、恥ずかしいことを知っているじゃないか」
礼条はふっふっふと通話口で笑った。「確かに、以前の私はもっと地味で、おとなしい奴だったよ。今の私とはかけ離れている。私はね、あの時に変身したのだ」
「変身?」
「そうだ。より正確に言うのなら、変身が解けなくなったと言った方が良いかな。『事故』があったのは稽古中だと言ったが、その時私がどんな役を演じていたのか、聞いているかい?」
「いえ……知りません」
部活動中の事故というのは鹿嶋から聞いていたが、それが稽古中、しかも礼条が役者として稽古をしている最中だということは知らなかった。
その役が、礼条のいう「変身」と何か関係があるのだろうか。
「天才作家だ」
礼条は言った。
「完璧な天才。ずば抜けたクオリティの作品を世に送り出す、稀代の天才作家だよ」
「……それは」
「ああ。まさに今の私そのものだ。不遜にして大胆、事故のせいなのかわからないが、役が降りなくなったんだよ。私はずっとあの役のまま……だが、不満はない。扱いにくいキャラクターだがね、かなり気に入っているんだ。この私でいるおかげで、どんな天才とも渡り合える」
「……」
嘘にしか思えない荒唐無稽な話だが、しかし他ならぬ礼条由紀の言葉だ。笑い飛ばすにしては、少々迫真の度合いが重かった。
嘘みたいな経歴の、嘘みたいな女子高生が礼条だ。彼女のオリジンにしたところで、およそ現実味のないエピソードがあって然るべきである。
「一夜にしての変身とは……まるで、シンデレラですね」
灯はそんな感想を口にする。
我ながら洒落くさい台詞回しだと、言い終わった後に思ったが、礼条の話にはこの上なくぴったりな返しにも思えた。
「そうだとも。私の人生はまさしくシンデレラ・ストーリーだ。ただの小娘でしかなかった私が、こんな高みにまで来てしまった。鈴木はさながら、私に服と靴を与えてくれた妖精だな」
はっはっはと笑う礼条。役者のように通る声を持つ礼条ならば、そんなわざとらしい所作でも様になる。
「ああそうだ、倉敷さん。私からもひとつ訊きたいのだが」
気後れしながら、灯はかろうじて「なんでしょうか」と尋ね返す。
「——もしかして君は、片鍋安彦が犯人だとは思っていないのか?」
「え?」
いきなり話題が変わって、灯は混乱する。いや、ただ話題が変わったからではない。この時灯が慌てたのには、もっと大きな理由が存在していた。
「こういう電話をかけてくるということは、先日の私の推理に納得していないのだろう?」
「ええ——いや、決してそんなことは……」
「なぜだ? 私の推理に、どこか不備でもあっただろうか」
「い、いえ。そんなことありませんでしたよ。ただ何と言いますか、他の可能性を潰しておきたいななんて思っていまして——」
「他の可能性なんて、ないだろう?」
不思議そうに、礼条は言った。
灯は、致命的な部分に踏み込まれた気がした。
「君の動きはなぜだかこう、片鍋を庇っているようにも見える。なぜかな。彼とは親しくしているのかい?」
「いえ、いえ。そんな」
そう答えながら、これは揺さぶりかもしれないと灯はひどく不安になる。片鍋と灯の友人関係を知っていながら、知らない風体を装って灯を試しているのではないだろうか。
片鍋との縁は、学外での出来事が発端だ。クラスが遠いということもあり、灯と片鍋は学校ではほとんど喋っていない。ゆえに、月野坂高校の人間が知るはずない人間関係なのだが——礼条ならあるいは、どこかから情報を得ているかもしれない。
そういう底知れなさが礼条にはある。
そんな不安を抱えながらも、灯はあくまでしらばっくれた。
「カタナベさんなんて喋ったこともありませんよ。ただちょっと、細かいことが気になる性分なだけです」
灯がそう言った後、礼条からのレスポンスはなかなか返って来なかった。嘘がバレたか? といよいよ腹を括り始めた時、「そうか」という礼条の声が灯の耳に届いた。
「では、これで謎は解消されたのだな?」
「はい! もうスッキリですとも。ガラスの靴盗難事件にもいよいよ終止符を打っちゃえますね」
その後ニコニコで通話を切った灯は、スマホをポケットにしまい、真顔ですーっと息を吐く。
「……よし」と呟いて顔を上げると、目の前にどっしりと建っている古い建物を見つめた。
それは白雉大学のキャンパス中心にある校舎である。ちょうど今、ここの一階の大教室で明神月彦による夏休み特別講義が行われているのだ。