1 明神先生のシンデレラ談義
教室後ろの扉を開けて中に入ると、扉付近の席に座っている人々から視線を向けられる。一瞬緊張する灯だったが、彼らはすぐに灯への興味を失ったらしい。灯の着ている学生服は、大学構内では目立つ格好のはずだが、見ると聴講している者の内、三分の一ほどが高校生らしき学生服姿の少年少女だった。どうやらこの講義は、オープンキャンパスの体験授業も兼ねているらしい。
灯はそそくさと手近な席に座った。
「——とまあ巷では、身分の低い主人公が高貴な結婚相手を獲得して、一夜にして高貴な身分に成り上がる話がシンデレラ・ストーリーだとされているようだけれど」
巨大なプロジェクタースクリーンの前ですらすらと説明しているのは明神だ。聞き取りやすい温和な声が、マイクを通して部屋全体に響いている。
「しかしそれは違う。『シンデレラ』はシンデレラ・ストーリーではないという話が、今回の肝になる」
言葉の意味を理解できず、灯は首を傾げた。灯だけでなく、教室全体が少しざわめく。そのリアクションは吊橋にとって想定できていたものだったらしく、彼は微笑を浮かべながら説明を続ける。
「グリム童話のお話に『Aschenputtel』というのがあるけれど、これは『灰かぶり』と訳される。『シンデレラ』と大体同じ意味で、グリム版の『シンデレラ』と言って良いお話だね。さて、この話の冒頭はこう始まる。『お金もちの男なのですが、その妻が病気になりました。妻はじぶんの最後が近よったのをさとると、としのいかない一人娘をねどこへ呼びよせて、言いきかせました』……。この一人娘が、後で灰かぶりと呼ばれるようになる娘だね。彼女は裕福な家の一人娘だったってことだ。
ペロー童話の『サンドリヨン』——これはフランスのお話だね、英語の『シンデレラ』の直接の元になったとされているお話ってさっき言ったと思うけど、この話でもサンドリヨン——灰かぶりと呼ばれることになる少女は、元々お金持ちの娘とされていたよね。さて、グリム童話で使われている金持ちという単語、つまりは『reich』だけど——」
「——いや、でも、シンデレラは、いつも家事仕事をやらされているじゃないですか。あれは身分の低い人がする仕事ですよね?」
教室の最前列付近に座っていた学生が手を挙げて言った。突然の発言だったが、明神はにこやかに頷いて「うん、鋭い」と言った。
「確かにそういう描写はあるね。だけど、シンデレラは元から家事労働をしていたわけじゃないよ。辛い仕事をやるようになるのは、実母が死んで、継母とその連れ子が家を牛耳るようになってからだ。継母たちは先妻の子の綺麗な服を剥ぎ取って、汚い上っ張りを着せ、木の靴を履かせ、寝床を奪って暖炉のそばの灰の中へ追いやった。だからシンデレラ——灰かぶり、灰だらけの子なんて呼ばれるようになるけれど、それは元の名じゃない。仮の名だ。
美しく正しい心を持つ子が、実母の言いつけを守り、継母からの責苦に耐える。一度は灰まみれの身分まで堕とされるけど、結局は本当の姿を取り戻す。『シンデレラ』はそういう話なんじゃないかな」
その後も講義は続いたが、灯の記憶に最も深く刻まれたのは、教室に入ってすぐ聞いた部分だった。
2 なぜ真実を求めるのか?
講義を終えた明神に灯が挨拶しにいくと、彼は灯を快く迎えてくれた。それどころか、「あの事件はどうなった?」と、向こうから盗難の話題を振ってくれたので、灯は恐縮しながらも、事件の話を切り出すことができた。
それから後、明神の研究室に移動しながら——研究室に到着してからもしばらく時間をかけて、今日まで得てきた情報を全て明神に伝え聞かせた。
すると彼は優しい笑顔でこう言った。
「やっぱり俺も片鍋くんが犯人だと思うな」
「う、ええ、そ、そうですか……」
灯は打ちひしがれた。
「そんな絶望しないでくれよ。俺だって別に疑いたくて疑ってるわけじゃないんだからさ」
「は、はい……」
灯は大きく肩を落とす。最後の頼みである明神大先生にも、片鍋犯人説を覆すことはできないようだ。彼なら灯の思いもよらない推理を語り聞かせてくれると思ったのだが。
まあ、元々が無理難題なのかもしれない。本当に片鍋が犯人なのだとすれば、礼条の推理に破綻など出るはずもないのだから。
全ては、あの時吐き気にかまけてそっぽをむいた、灯自身の責任なのだ……と、反省する灯の内心を知ってか知らずか、明神は「でも、礼条さんの質問じゃないけれど、俺もちょっと不思議に思えるんだよね」と言った。
「灯ちゃん、なんでそんなに片鍋くんを信じられるの?」
明神は灯に、そう問いかけてきた。
「片鍋くんが犯人じゃないっていう、絶対の証拠があるわけじゃないんでしょ? 話を聞く限りじゃ、片鍋くんとの間にそこまで深い関係がある風にも思えないし」
確かに、明神の言う通りだ。
灯と片鍋は、そこまで大した仲ではない。以前、学校外で起きたちょっとした出来事の折、たまたま居合わせただけの関係だ。普段は全く喋らないし、連絡先も知らない。友達とすら言えないかもしれない。
「仮に、片鍋くんを庇う気持ちの素が恋愛感情なのだとしたら、手を引いた方が良い」
明神は穏やかな口調のまま、わずかに声色を鎮めて言った。
「彼に騙されていたとしたら、笑えないよ」
「……別に、そういう感情はないですよ」
と言った灯だったが、それに関しては嘘だった。
灯は片鍋のことが好きだ。それはまだ仄かな思いに過ぎないが、このまま鎮火しないままにしておけばいずれ大きく燃え上がるだろうということは、今の灯にもわかっている。
とはいえ、その感情がそのまま今の灯を突き動かしているかと問われれば否だ。いや、元の元を辿ればそこなのかもしれないが——少なくとも、灯の意識下では、そこに明確な差がある。
恋ではなく、恩なのだ。
「片鍋くんは、私を助けてくれました」
灯はぽつりと呟いた。
「彼にとっては、大したことではなかったかもしれません。でもあの時、私は本当に助かったんです。嬉しかったんですよ。それはまあ、命の危機とかじゃないですけど、でも、助けてくれたのは、片鍋くんが助けてくれたのは確かなんです。それなのに私は、片鍋くんに何もお返ししていません。むしろ追いつめるようなことをしています。この状況が、なんといいますか……そう、心地が悪いんです。この感覚は、片鍋くんの無実を証明できるまで消えないと思うんですよ」
「その思いが、片鍋くんに利用されているかもとは考えない?」
「考えてますよ!」
灯は椅子から立ち上がった。
両こぶしを握り、ぐっと明神に顔を近づける。熱い気持ちが腹の底から湧き上がって、灯の腰を浮かせたのだ。
だが、その気持ちはすぐにさざなみのように引いてしまう。後にはただ、大きな大きな不安だけが残る。
「考えてます……怖いですよ。調子の悪そうな私に声をかけたのも、全部計算してのことだったんじゃないかって、何度も不安になりました。っていうか今も不安です。でも、でも、どうしてもそうは思えなくて……いや、違う。違います。そうじゃなくて、もっと怖いものがあるんです」
息が乱れていた。
運動をしたわけでもないのに鼓動が速まる。
落ち着こうとするが、うまくいかない。
「片鍋くんが無実だった時のことを考えると、怖くて、ほんとに怖くて……、あの人は、私に親切にしたせいで、そのせいで犯人にされて、退学とかになって、もしそうなったら、私は——私を、自分を、許せない」
そう言った後、灯はしばらく言葉を発することができなくなった。
精神と肉体が分割できるようなものではないことをつくづく思い知る——なんて、自分をどこかから俯瞰する。自嘲的で、破滅的な物言いだが、そうすることで心の均衡を保とうとしていることは自明だった。
ギリギリで堪えている感覚。
それが涙で発される感情なのか、嘔吐で発される反応なのかは判別できない。しかしこれ以上何か言葉を紡げば、灯はその瞬間に決壊する。
自己修復で手一杯——しかし、考えるべきは灯自身のことではなく、事件のことのはずだ。
礼条の推理には何かが足りない。
決定的な何かが欠けている気がするのだ。
だが残念ながら、灯にはそれが何かわからない。
わからない自分が、忌々しい。
許せなくなりそう。
「——なるほど」
明神が呟いた。
その言葉を境に、灯を襲っていた巨大な感覚が消失していく。意図していたものかどうかはわからないが、明神はその落ち着き払った言葉でもって、灯を現実に引き戻してくれた。
「灯ちゃんの思いはよくわかった。失礼なことを尋ねたね。こちらこそ謝る。ごめんなさい」
「いや、そんな」
沈黙の呪縛から逃れた灯は、しかしまだ今ひとつ回らない口で恐縮の意志を表現する。
「頭を上げてください——ほんとに、先生ぐらいしか頼れる人がいなくて……」
こうして話を聞いてくれるだけでもありがたいのだ。
明神の本職は大学教員であって、知り合いの小娘の泣き言に付き合う義理など微塵も無いのに、彼は嫌な顔ひとつせずに応対してくれる。奇特な人である。
ゆっくりと頭を上げた明神は、「頼ってくれるのは嬉しいよ」と口を開いた。
「でもね、俺はただの教員だ。捜査や推理に関しては素人だから、力になれるかどうかは怪しい」
「そう、ですか……」
「ただ一つ、できるアドバイスがあるとすれば」
明神は人差し指を立てた。
「そもそもの問いを見直した方が良いってことかな」
「問い、ですか」
「どれだけ考えても答えが出ない時はね、問いそのものが間違ってるんだよ。問いと答えは二つで一つだから。間違った問いを立てているといつまでたっても答えが出ないし——ちゃんとした問いを立てれば、ちゃんとした答えにたどり着く」
3 問いを見直せ!
問いが間違っているとは、どういうことだろうか。
これまでずっと灯が考えて来たのは、「誰がガラスの靴を盗んだのか」という問いだった。この問いが間違っているというのだろうか?
しかし現にガラスの靴は盗まれて、壊されている。それは覆ることのない大前提だ。たとえ間違えたくとも間違えようがない。
「どうやって盗んだか」「なぜ盗んだか」という問いについてはどうだろう? 灯はずっと、「どうやって盗んだか」ばかり考えていて「なぜ盗んだか」をあまり重視していなかった。こちらについて真剣に考えた方が良いのだろうか。
しかし動機に関しては、いくら考えても決定的な答えが出ない気がする。結局は犯人に聞いてみるしかないだろう。
……わからない。
明神の言っていた意味が、灯にはまだわからなかった。
思考を切り替えよう。幸いにして、次なる調査対象は決まっている。
調べるべきは、礼条が演劇部を辞めるきっかけになったという事故についてだ。
灯の勘が反応している。何か、重要な何かがそこあるという予感がするのだ。具体的に何なのかはわからないが、誰に話を聞けばいいのかはわかっていた。
鈴木こころだ。
礼条に怪我を負わせた張本人。
そんな思考を経た末に、翌日灯は再び三年二組を訪れることにした。
鈴木には二組に来るなと言われ、礼条からも怪しまれているようだが、そういうのはこの際、無視する。鈴木以外の演劇部員から話を聞く手もあるとは思ったが、それは後にとっておく。まずは鈴木だ。彼女から話を聞く。
意を決して二組の扉を開けようとした灯だったが——誰かと誰かが言い争っているのが中から聞こえてきたことで、扉を開く手を止める。
そしてそっと耳をあてた。
「——だからぁ、片鍋を呼んでこいって言ってんだろーが。したらすぐ帰ってやるっつってんだよ」
「はあ? なんでそんなことしなきゃいけねーのよ。あんた何様のつもり?」
「被害者様だよ。ガラスの靴を盗まれた八組の生徒だ。そのせいでアタシが作らなきゃいけない小道具が増えたんだよわかったか? 被害者。ひーがーいーしゃ。わかったらさっさと犯人を出せ」
「何が被害者よ、ただの部外者じゃん。片鍋になんて会わせませーん」
「てめえ……こっちが下手に出てりゃ調子に乗りやがって」
「下手!? アンタ下手の意味わかってる? ヘタクソって意味じゃないんだよ大丈夫?」
「はいーライン超えたーキレましたー最低一発殴らせろー」
非常に聞き覚えのある声だった。
間違いない、立川紗香と鈴木こころだ。接触すれば間違いなく喧嘩になるであろう組み合わせの二人が、今まさに扉の向こうで接触し、喧嘩を始めようとしている。灯は慌てて扉を開き、「待った、待ったぁ!」と大声を張り上げた。
「ああ?」
「なに?」
立川と鈴木の両名が、寸前まで互いにぶつけていた敵意込み込みの視線をそのまま灯に向けてくる。鈴木は余裕の仁王立ちで腕を組んで立っていた。立川は二組の生徒らしき女子数名に腕を拘束されながらも、それを引っ張って鈴木に近づこうとしているところだった。
「おお倉敷! いいところに来た、手伝え! こいつらひっぺがしてくれ!」
「ああ、あんた。何で顔見せてんの? 二組出禁っつったよね」
笑顔になる立川と険悪な表情になる鈴木。どちらにどう対応したら良いものか困り、灯は「えーっと……」と、首を捻った。
「あの、まずですね、暴力はやめましょう? 立川さん。ややこしいことになりますから」
「はあ!? オメー八組のくせにこいつらの味方すんのかよ! ふざけんじゃねーぞコラ!」
さらにややこしいことになったかもしれない。
立川はまた暴れ始め、周りの者たちが必死で抑えつけた。
「何の用よ。こいつを回収しに来たってんなら、特別見逃してやってもいいけど」
鈴木が立川を顎で指し示して言った。
「あ、いや、そういうわけではなく……」と灯が言いかけると、「じゃ、帰れ」と鈴木は灯から視線を切った。
「いや、そういうわけにはいかないんです。鈴木さん、今日はあなたにお話があって来ました——」
「キモい」
直球の悪口を言い放たれ、灯はフリーズする。
「大体なにその敬語口調。キャラ付け? 痛いんだけど。まめっちかよ」
「まめっちの何が悪いんですか!? 格好いいでしょう!」
灯は激昂した。
灯が激昂すると、鈴木は得体の知れない物を見るような目をした。立川も、立川を押さえている二組の女子生徒たちも、同じ目で灯を見ていた。
「まあ……とにかくさ」
気を取り直すように眼鏡の縁に触れながら、鈴木が口を開く。
「あんたと話すことなんて何も無いのよ。だから帰って」
「いえ、帰りません。演劇部で起こった事故の話を聞けるまで、ここに居座ります」
「事故?」鈴木は一瞬視線を斜め上に挙げる。「……ああ、あれか。何でそんなこと聞きたいの?」
「今回の事件と関係があるからです」
「それ、礼条が言ったの?」
「いえ、私の推理です」
灯は毅然と言い張った。「あの事故と今回の事件は繋がっている可能性が高いです」
「何それ……」
乾いた笑いを漏らす鈴木だったが、眼鏡の奥の視線が一瞬泳いだのを、灯は見逃さなかった。やはり何かが隠されている。灯はそう確信した。
「本当に居座るつもり? 迷惑なんだけど。先生呼ぶよ?」
「どうぞお呼びください。そうしたら先生にも片鍋くんの話をさせていただきます」
それは灯にとって諸刃の剣だったが、鈴木にも効果があったらしい。鈴木は心底嫌そうな顔で灯を睨んでくる。かなりの迫力があったが、それに怯まずじっと耐えていると、とうとう鈴木が折れた。
彼女は露骨に舌打ちをすると、「わかったよ」と投げやりに言う。
そしてクラスメイトたちの方を向き、申し訳なさそうに「ごめん、またちょっと抜けさせてもらうわ」と謝った。
「それはいいけど……こころ、大丈夫?」
二組の生徒が心配そうに鈴木に訊く。
「大丈夫大丈夫。ちょっと話するだけだからさ」
快活に笑ってみせる鈴木。そして彼女は灯のそばまでやって来て、「前と同じ場所でいいよね」と確認してくる。
灯は頷き、共に二組の教室を出た。
4 鈴木こころの証言
「——で、どうして立川さんもいるんですかね……」
武道場の裏に到着した灯は、くるりと後ろを振り向いて言う。灯の見据える先には、何やら不敵な笑みを浮かべる立川の姿があった。
「なんだよ水くせーな。何かあったらアタシが守ってやろうってのに」
「いや立川さん、別に喧嘩とか強くないですよね? 文化系ですし……そもそも運動苦手でしょう」
「馬ッ鹿だなオメー。喧嘩ってのはよ、度胸でやるもんなんだぜ? フィジカルだの武器だのはな、飾りだ飾り——」
喋りながらひらひらと振り回す立川の手を、鈴木がバシリと叩き飛ばした。
「痛ったぁ!?」と絶叫する立川。彼女は涙目になりながら鈴木から五歩ほど距離を取り、叩かれた手をもう片方の手でさする。絵に描いたような情けなさだった。
「何すんだよ!? アタシは八組道具係の要だぞ!? 手ぇ使えなくなったらヤバいだろうが! 責任取れんのかお前! あ!?」
「じゃあさっさと失せなさいよ、お道具係」
「テメー、裏方馬鹿にしてやがんな……? 失せるわけねーだろ。アタシだって話聞きたいもんね。事件を追ってんのはアタシも同じだ」
「……もしかして、片鍋に会わせろってのもあんたの独断? 礼条は関わり無いの?」
「ったりめーだろ。誰かの指図で動くような器だと思ってもらっちゃ困るぜ」
「お道具係なのに?」
「それは別だ。アタシの腕に礼条が惚れ込んだんだよ。ヒエラルキーで言ったらむしろ、アタシの方が上だ」
「ふっ——ねえねえ見て? 馬鹿が礼条の手のひらで踊っているよ? かわいいね!」
立川が腕を振り上げて鈴木に殴りかかろうとしたので、灯は立川に抱きついて押し留めた。
「やめてください! 鈴木さんもっ! 煽るのやめてください! 話ができないじゃないですか!」
「まあ、それもそうか」
必死の立川と灯をよそに、鈴木は涼しげにため息をついた。
「立川、謝るよ。ごめんて。裏方は大切。馬鹿にして悪かった」
鈴木がそう言った後も、立川は無言で鈴木を睨みつけ続ける——が、殴りかかるのはやめたらしく、拳をほどいて腕を組んだ。
「——それで、あんたはどこまで知ってんの?」
「え?」
鈴木が自分に話しかけているのに気づかず、灯は再度聞き直した。
「演劇部の話よ。私は一体どっから話せばいいのか、知りたいんだけど」
「あ、ああ。はい、えっと……礼条さんが頭を打ったということ……事故を機に、礼条さんの性格が変わったということ。稽古中の喧嘩が原因だったということ——あと、鈴木さんが、その、何といいますか、関わっていること……ぐらいですかね」
鈴木が礼条を突き飛ばしたらしい点については言葉を濁した。これでも鈴木の気に触るかもしれないと不安だったが、彼女は至って平静に「そう」と呟く。
「ほぼ全貌じゃん。他に何聞きたいの? 情報はそれで出尽くしてると思うけど」
「あ、いえ。詳しい事情は全然知らないんですよ。いつぐらいの出来事なのかとか、どこで起こったのかとか、その場に誰がいたのかとか……」
「ふうん?」
鈴木は斜め上を見つめながら、顎に手を当てた。
「細かい日付は覚えてないけど……大体去年の今頃だよ。夕方四時前とかじゃなかったかな。文化祭のための芝居の稽古だった。脚本は私の担当したやつで——」
「はあ!? お前が脚本だったのかよ?」
立川が素っ頓狂な声をあげた。
「礼条はどうしたんだよ、礼条は。書かなかったのか」
「ボツよボツ。その時は私のが選ばれたの。何か問題ある?」
鈴木は鬱陶しげに立川を睨むが、灯も立川と同じ気持ちだった。鈴木が礼条の作品を越える物を書き上げて来たのだろうか。
「当時は別に、あいつも私と同じただの女子高生だったんだよ。脚本のクオリティだって大差なかったし……っていうかむしろ、私の方が上手かったと思うよ? あいつが化けたのは、あの事件の後」
「あの、本当に、礼条さんに何があったんですか? そんな、たった一夜でそんなになるなんて——」
「『変身』って言ってたよ、あいつは」
遠い目をしながら、鈴木は言った。
「演劇部は少人数だからね、全員に配役があった。役をあてがう時は、脚本担当だった私が中心に決めていって、でも私があてた役に、あいつは不満だったらしくて」
「天才作家でしたっけ」
「そう。その通り」
灯の呟きに鈴木は頷く。
「『やっぱりこんな役やりたくない、こんなのできないよ』ってあいつが言い出して、『わがまま言わないでよ、あんたのために作ったキャラなんだから』って私が言って……、そんな感じで言い争いになって、それがヒートアップして、そしてそれから——私があいつを突き飛ばした」
鈴木は両方の手のひらを勢いよく前に突き出す。
今、その手は空を切ったが、当時は違ったらしい。
「あいつは簡単に吹っ飛んだ。スカートなのに一回転してね。そんで後頭部を床にゴンってぶつけて、バタってのびたんだよ。みんな駆け寄ってったけど、私はそれをずっと立って見てた」
はははと笑う鈴木。
偽悪的で、自嘲的な笑いだ。傍目に見ていて、少し不気味でもあった。
「……それで礼条はどうなったんだよ」先ほどの勢いはどこへいったのやら、神妙な顔をして立川が訊いた。「死んだのか」
「そんなわけないでしょ」
呆れたように鈴木が言った。
「すぐに起き上がったよ。まあなんかフラフラしてたから、それ相応の処置は受けてたけどね。後日病院にも行ったらしくて、でも大した怪我じゃなかったって。勿論後遺症もなし」
「他人事みてーに言うじゃねーか。加害者のくせしてよ」
「……謝ったに決まってんでしょ」
俯きながら、鈴木は言った。
「菓子折り持って、親同伴であいつの家まで謝罪しに行ったよ。でもあいつ、怒るどころか、なぜかすごい上機嫌で……。私に『ありがとう』とか言ってきて、なんだか別人みたいになってて……」
鈴木は思い詰めたような顔になっていた。
「あいつ、『天才作家』になってたんだよ。おかしいじゃん……あれは私が創ったキャラクターで、実在しない人間なのに、あいつはまるで、まるで私の脚本から抜け出したみたいな言動で……、言動だけじゃない、あいつ、あいつ小説の新人賞なんか獲りやがって! あれじゃあまるで、私があいつに、あの役をっ、押し付けて、そのせいで、礼条が、礼条が礼条じゃなくなったみたいじゃん……!」
突然頭を抱えて苦しみもがく鈴木を前に、灯は困惑する。何か声をかけようかとも思ったが、何と言えば良いのか思いつかなかった。
立川も同じようだった。
およそ現実とは思えない話だが、鈴木が嘘を吐いているようには見えない。
「でもさぁ、そんな、そんな馬鹿な話あるわけないでしょ……?」
自分に言い聞かせるように、鈴木は震えた声で言った。
「あれは演技なんだよ。ただの演技で、私への嫌がらせなんだよ。私がこんな風に苦しむのを狙ってんだ。そうだよ、そうに違いないって思って、気にしないようにしてきたんだ……あいつはまだ私を恨んでるんだって……! 私の彼氏への嫌がらせも……でも、でもさぁっ……! 夜、布団に入るとさ、『やりたくない』って礼条の声が聞こえるんだよ……! やりたくない、こんな役嫌だって……! もうわけわかんなくて……!」
涙ながらで訴える鈴木——彼女は突如として顔を上げると、灯の手をかたく握った。
「真犯人っ、真犯人を見つけてよ! 頼むからさぁ……! お願いだよ、こんなのもう、うんざりなんだ!」
「あ——はい、必ず見つけます」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした鈴木に、灯は「必ず、必ずです」と連呼することしかできなかった。
勢いに押され、話が微妙に繋がっていない気がしたが、そんなことを指摘できるような空気ではなくなっていた。
5 謎
「——いやあ、謎だな」
立川が呟く。
場所は武道場裏から校舎へと続く一階の渡り廊下。鈴木と別れた後、二人は八組の教室へと戻るための帰路についていた。鈴木はというと、気分を落ち着けて、顔を洗ってから戻るそうだ。
「謎ですね」
並んで歩く立川の言葉に、灯も同調した。
「ああ、謎だ。鈴木の彼氏ってのは一体どこのどいつなんだ……」
「そんなのどうだっていいでしょう」
「ズッコケる」という動詞がこの上なく適切な動作をしながら、灯は言った。
「はあ? んじゃオメー、一体何が謎だってんだよ」
「礼条さんですよ礼条さん。礼条さんの『変身』は演技なのか、それとも本当に変わってしまったのか、じゃないですか。話の肝は」
「本当に変わったに決まってんだろ」
何を馬鹿なことを言っているんだという調子で、立川は言った。
「あいつが天才なのは揺るぎねえ事実だ。それにあいつ、ガラスの靴がなくなるなんてアクシデントに見舞われてもあのキャラのままなんだぜ。演技だったら、どこかしら絶対に崩れるだろ」
「それは、そうかもしれませんけど……」
「あるいは崩れないようにするために、過剰に完璧な演技をしちまうとかな。なんにせよ、あいつに不自然なとこはない。事件の日だって、あいつは天才作家・礼条由紀だったぜ」
「まあ、そうでしたね……」
灯は保健室での会話を思い返す。多少不機嫌にはなっていたが、ガラスの靴がないことに取り乱すような様子はなかった。
「鞄を取って出てった後、お前を探しに教室に戻って時だってそうだった。十二時十五分過ぎに、教室の扉開けて第一声『倉敷さん、いないかっ!』てな。ホント通る声だよなあいつ——」
「ちょっと待ってください。十五分過ぎ? それって正確には何分ですか?」
「いきなりどうしたお前」
食い気味に尋ねる灯に困惑しながらも、立川は「そうだな、十六分……十六分だったと思うぜ。この時間だし倉敷はもう帰ったんじゃないかって、教室の時計見ながら瀬奈と喋った記憶がある」と答えてくれた。
それは非常に重要な情報だった。
「十六分……それ確かですか?」
「確かだ。なんだよ、疑うんなら瀬奈とか他の奴にも聞いてみろって。あん時はまだ何人か教室に残ってたはずだぜ?」
「いえ、疑っているわけでは……。そうですか……」
おかしい。
灯の記憶と、明らかな矛盾がある。
だがどうしてそんな矛盾が生じるのか、よくわからない。
「おい、どうした。なんか気づいたのか?」
「いや……その」灯は首を捻りながら答える。「礼条さんが保健室に来たの、十二時十五分なんですよね」
「十五分? へえ」
立川は何もわかっていないらしい。「それの何が変なんだ?」
「いや、変でしょう。順番が逆になってますよ。礼条さんは保健室で私を見つけた後、教室に私を探しに行ったことになるじゃないですか」
「……あー、なるほど」
ようやく立川も気づいたようだ。
「確かにおかしいな」
礼条は教室に置いておいた鞄を取った後、図書室に移動したという。彼女は図書室でガラスの靴がないことに気づき、灯を探して教室に戻った。保健室に探しにきたのはその後だ。喫茶店での推理談義の中で、他ならぬ礼条本人がそう言っていた。
「保健室の時計が遅れてたんじゃねーの?」
「いや、スマホで確認したので……。保健室で見た十五分というのは正しいと思うんですよ」
「じゃあ教室の時計が進んでたのか」
「そうなんですかね? いや、でも……」
片鍋と共に、八組の教室に入った時のことを思い出す灯。あの時、時計は進んでいただろうか? 進んでいたような気もするし、そうでない気もする。
「おい、これ重要な手掛かりなんじゃねーか? 教室の時計が数分進んでたってのはよ」
「そうですね……んん〜……?」
少し興奮した様子の立川に同意しながら、灯は首を傾げる。
何かおかしい。
何かが違う。
根本的な何かが、間違っている。
——どれだけ考えても答えが出ない時はね、問いそのものが間違ってるんだよ。
思い出すのは、明神の言葉。
「問いが違う」とは、どういうことだろう。
灯と立川は、突如現れた謎についてあれこれと喋りながら、並んで廊下を歩き、階段を登り、また少し廊下を歩く。やがて八組の教室に辿り着き、灯がガラガラと扉を開けた。
「やあ、倉敷さん」
そこで、礼条由紀が待っていた。
「君、私に隠していることがあるだろう」
6 最終対決
当然ながら三年八組は本日もまた、来たる文化祭に上演する劇の準備のために、役者や道具係が登校してきている。それらを仕切る監督兼演出兼脚本家の立ち位置の、礼条由紀もまた学校に来ていた。芝居の稽古のため、皆の机椅子が教室後方へと追いやられている中、礼条は自分の椅子だけを引っ張ってきており、そこに足を組んで座っている。高校生とはいえ、彼女には他の者とは違う風格があり、物語のキャラクターのような不敵な笑みがこの上なく様になる。
礼条由紀は、灯をまっすぐ見据えていた。
その眼には、はっきりとした敵意があった。
「……隠してることって」
ごくりと生唾を呑んで、灯は口を開く。
「ええっと……何のことですかね? ちょっとよくわからないんですけど」
「君はガラスの靴を運んでくれた——」
礼条は灯から視線を外さない。
一挙一頭足、観察されている。
「——だが、一人で運んだとは、決して言っていなかったな」
「はは、そんな」
灯は笑ってみせる。
可笑しさを共有するべく、手近にいたクラスメイトに手当たり次第アイコンタクトを送ってみるが、彼ら彼女らはぎこちない表情を浮かべるだけで、共に笑ってくれる者はいなかった。
仕方がないので、また灯は礼条と目を合わせる。
「いちいち言わなくても良いことじゃないですか。だって私は一人で靴を運んだんですから」
「嘘だな」
灯の言葉は一瞬で切られた。
「君は体調を崩していた。気分が悪く、歩くのもやっとだったはずだ。とてもじゃないが、教室までたどり着くことはできなかった」
「そんなわけないですよ」
灯は口をとがらせる。
「私、普通に歩けましたから。確かに気分は良くなかったですけど、教室に戻るくらいなら楽勝でしたよ」
「それは介添人がいたからだ」
当時の灯の姿を見ていたかのように礼条が言う。
「教室へ向かう君の隣には、君を支える者がいた。違うか?」
「違いますよ!」
灯は憤慨した。
「なんでそう思うんですか!」
「そう考えれば現状の君の行動が理解できるのだよ」
不敵の表情を崩さずに、礼条は喋り続ける。
「それに、事件の謎にも解が生まれる。全てが繋がるんだ。介添人は片鍋安彦。君は彼を庇っているんだね?」
「——っ、違う!」
灯が叫んだ。
だが、礼条は止まらない。
「倉敷さん、君は片鍋安彦に助けられた。君はガラスの靴を私の鞄にしまっていない。その役を買って出たのは片鍋だ。だが片鍋は、ガラスの靴を鞄へはしまわなかった。彼は靴を自分の靴袋へと滑り込ませた。繰り返しになるが、君は体調が悪かった。吐き気に襲われることも多々あっただろう。吐き気を覚えた君には何度か俯いた瞬間があったはずだ。彼はその隙を突いた」
「ありえない! そんなの、狙ってできるわけがない!」
「総てがアドリブなのが今回の事件の特色だよ。私が靴を持ってきたのも偶然。君に靴を預けたのも偶然。君が体調を崩したのも偶然で、片鍋と君が出会ったのも偶然だ。うまくいかなければそこまで。おそらく片鍋は、犯行直前までそんな風に考えていたのだろう。隙がなければ、このままおとなしく靴をしまい、君を保健室まで送り届けてあげようと、そんな風にな。ああそうだ、保健室に連れて行く際、君と片鍋は部屋の中までは入らずに直前で別れたんじゃないか? 君と一緒にいる姿を養護教諭に見られては、偶然を利用した犯行がおじゃんだからね」
「ふざけるな、事実無根だ!」
「ならば指紋を採っても良いのかな? 倉敷さん」
「——っ、指紋?」
思わぬ変化球を喰らい、灯は窮した。
「ああ指紋だ。片鍋が捨てて、私たちが回収した、このガラスの靴の破片から指紋を採取しても構わないのだねと聞いたのだが」
そう言うと、礼条は椅子の後ろからビニール袋を取り出した。そこにはガラスの破片群が入っている。
その袋が、灯の前に投げ出された。
「それに触ったのは、私と、君と、あとは犯人だけだ。回収の際は皆、怪我をしないために軍手を嵌めていたからね」
「……なぜ」
灯はじっとビニール袋を見つめる。
その中に入っている、無数の破片を見ていた。
「……なぜ、今になってそんなことをするんですか」
「当然、今になって思いついてしまったからだよ。君が私の推理に納得したがらない理由を、考え続けた結果だ」
礼条は皮肉混じりに言った。
「……」
「君の気持ちはわかる」
先ほどよりも穏やかな声で、礼条が言う。
「片鍋に助けられた負い目があるのだろう。自分を助けてくれた者が悪者だったと信じたくないのもわかる。そして一方では、君は自分のせいで犯行が起きたとも考えているのだろう。君が体調を崩さなければ。彼の救いの手を断っていれば。あの時そっぽを向かなければ。片鍋は犯行に臨まなかったと考えている。だから君は彼を庇っているのだ。ああ、辛いところを助けられたが故の、恩義もあるのかもしれないな。もしかしたら恋慕の情に変わっているかもしれない。まあ、だとすれば待っているのは破滅しかないが」
「……」
「いずれにせよ彼は泥棒だ。薄汚い盗人だよ。君が庇う価値などない。だから……ほら、証言してくれよ。『私は片鍋安彦と一緒に教室へ入った』と」
「……」
「なあ、倉敷さん。黙ってばかりではいけないよ。せめて何か言ってくれたまえ」
「……」
「倉敷さん……聞いているか? 倉敷さん?」
「……」
「倉敷さん。このまま黙っていては、君も共犯ということになるかもしれないよ」
——なぜ。
なぜ矛盾があるのだろう。
灯は思考する。
目の前の光景から、遥か遠い彼方に移動して、思考の海に沈む。
なぜ。
「問いが間違っている」とは、何だろう——
——ピコン、と。
痺れを切らした礼条が椅子から立ち上がり、灯に向かって一歩踏み出した時、それは鳴った。
「……」
皆、なんとなく顔を見合わせる。自分のスマホを遠慮がちに確認する者もいた。その場にいる誰もがわかっていた——それは、何らかのメッセージの着信音だと。
「すまない、私だ」
そう言ったのは礼条だった。
彼女はいささか不機嫌な面持ちで、スカートのポケットからスマホを覗かせて画面をちらりと確認する。
「ふん、やっとか。しかしなんて間の悪い……」
吐き捨てるようにそう言うと、すぐにスマホをしまい、再び灯に向き直った。
「で、倉敷さん。まだだんまりか? 何も喋らない気なら、今日のところは帰ってもらって構わないよ。後日、学校から呼び出しがかかるだろうから、またその時に会おうじゃないか——」
「今の、誰からですか?」
灯が口を開いた。
灯は礼条を見ていた。
「……なんだ?」
礼条は怪訝な顔でそう訊いた。
そしてやれやれとため息を吐く。
「話を逸らす気か? 倉敷さん、往生際の悪さを見せるにしても、何かもうちょっとやりようがあるんじゃないか」
「逸らしてませんよ。続いてます」
灯は礼条を見つめ続ける。
心臓まで見透かしたような眼をしていた。
「……あのなあ、私のメールとこの話、どう考えても関係ないだろう。差出人は出版社だ。次の仕事の件でな」
「本当に出版社からですか? 違うと思いますけど」
「違う? なぜそう言える。何か根拠でもあるというのか?」
「根拠はありません。今のそれが本当に出版社からのメールだったら、諦めますよ」
「そうか。だったら諦めてくれ」
「いえ。確認させていただくまでは、諦めません」
「……」
今度は礼条の黙る番だった。
灯の視線が礼条を射抜く。周りのクラスメイトたちも、何やら事態が変わったことを察したらしく、不思議そうに礼条と灯を見比べていた。
「……なあ倉敷さん。追いつめるような真似をして、気に触ったのなら謝るよ。すまなかった。しかし私としても、事件をこのまま放置しておくわけにはいかないんだ」
「でしょうね。でも、私もここで退くわけにはいきませんから」
それだけ言うと、灯は左手を礼条に向けて差し出す。「スマホを寄越せ」という意思はちゃんと礼条にも伝わったらしい。礼条は落ち着きなく周りを見渡し、ビクビクと怯えるように肩をすくめた。
礼条にしてみれば、すでに逃げることなどできなかった。灯が気づいた時点で終わりだ。どこにも逃げ場などない。
ガクガクと震える手を、礼条はスカートのポケットに突っ込む。細かく息を吸っては吐き、吸っては吐き、ゴホゴホとむせるように咳き込んだ。もう片方の手で口元を押さえ、背中を丸める。どうにかスマホを取り出し、それを自分で食い入るように見つめていた。
絶望的な表情だった。顔色は悪く、汗が頬を伝う。涙こそ出ていないものの、泣き顔よりもよっぽど悲壮に見えた。
その表情の意味がわかっているのは、礼条本人と、灯だけのようだった。
礼条はしばらくそうしていたが、やがて決心をつけたようで、それを灯の手に渡す。手が震えすぎて、渡すというより投げ込むといったほうが正確かもしれなかった。
灯は無言でそれを受け取ると、画面を点ける。ロック画面が表示されたが、新着の通知を確認するだけならば、それで十分だった。
「……お願いだ、見逃してくれないか……」
消え入るような声で、礼条が言う。
天才作家・礼条由紀の姿は、もうどこにもなかった。
「いえ、できません」
メールの差出人の名前と、添付されているファイルの名前を見て、それが完全に自分の推理通りだったことを確認した灯は、礼条にスマホを返してこう言った。
「出版社では、ありませんでしたね」
「……」
礼条はもはや何も言わない。
ただ顔を俯かせ、固まっていた。
「差出人の名前に、聞き覚えがあるんですけど」
「……」
「学校の人ですよね」
「……」
「一瞬、誰だっけってなったんですけど、思い出しました」
「……」
「灯台下暗しって感じですけど、なるほどですね。全部繋がっちゃいましたよ」
「……」
「礼条さん——」
灯は改めて礼条の名前を呼ぶ。
「——あなたが犯人です」