都立月野坂高校の文化祭は、九月の第一週末に催される。
本当は第二週にしたいのだが、そうすると競合他校の文化祭と被って閑古鳥が鳴くためである。良くも悪くも月野坂高校は地味であり、文化祭もそれ相応のものなのだ。
まあまあな賑わいを見せる校内には、食事処もいくつか開かれている。三年生が全クラス演劇をやるために、フード関連は二年生の役回りだ。カレー屋、ピザ屋、ホットケーキ屋などが建つのだが、大抵は需要に対して供給が追いつかず、どこも混雑する。
そんな祭りの日の昼前。
クラスTシャツに身を包んだ灯は、二年一組が出しているカレー屋(「ここ一組屋」というギリギリな店名である)の片隅で、対面に座る明神月彦を相手に、事件のあらましを説明していた。
「——明神先生のおっしゃっていた通り、そもそもの問いが間違っていたんですよ。『誰がガラスの靴を盗んだのか』と考えても答えはでません。だってあれ、狂言泥棒だったんですから」
どう見ても市販の冷凍品を解凍しただけのナンに、これまたレトルトのカレーをつけながら、灯は得意げに言った。
「本当に、迷惑な話です」
「でも、礼条さんはどうしてそんなことをしたの?」
明神の問いかけに対して灯は「そこなんですよ〜」と嬉しそうに飛びつき、ついでにナンにも食いついた。
「あのですね」ナンを飲み込み、説明を続ける灯。「カギは時間の矛盾です。私がいる保健室に礼条さんが来たのが十二時十五分。一方、靴の紛失に気づいた礼条さんが八組の教室に戻って来たのが十二時十六分です。この二つが事実なら、礼条さんは保健室で私を見つけた後、教室に私を探しに行っていることになります」
「そうだね——ああ、なるほど。そういうことか」
何かを察したらしい明神を見て、灯は慌てる。ちょっと待ったのジェスチャーをしながら、口に入れたばかりのナンを塊のまま急いで呑み込み、セットのお茶で喉の奥へおしやった。
「待って、待ってください! まだわからないでいてください」
「無茶言うねえ……」
明神は笑いながら言った。「じゃあ質問。それってつまり、教室の時計が弄られていたってこと?」
「違いますよ。全然違います」
ぶんぶんと首を横に振る灯を見て、明神は苦笑する。
「時計をいじるとか、そういう話じゃありません。『十二時の鐘』とかもどうでもいいんです」
「ふうん。まあメルヒェンの『シンデレラ』でも十二時の鐘のモチーフは後付けっぽい気がするしね」
「それはちょっとよくわかりませんけど……」
明神の眼が一瞬だけ研究者の眼になったのにビビりつつ、灯は説明を続ける。
「あれは順番通りなんです。礼条さんは保健室で私と会った後、私を探していたふりをするために、わざわざ教室に顔を出したんですよ」
「そうかそうなんだそうだったのか。でもどうして礼条さんは保健室にいる灯ちゃんに『ガラスの靴が盗まれた』なんて言ったの?」
「違いますよ。礼条さんはそんなこと言ってません。彼女はこう言ったんです——『おいっ、何度確認してもガラスの靴が届いていないぞ! どうなってるんだ?』と」
明神は静かに微笑む。対して灯は、にやにや笑いが止まる所を知らなかった。
「いやあ全然わからないなあ」
明神が言った。「本当に全くわからない。それが果たして灯ちゃんに向けられた言葉なのかどうかもわからないし、礼条先生の一作目が『藁の館』で、二作目が『選定の聖剣』で、三作目も『○○の××』ってタイトルになる気がするのと、近いうちに今回の劇のノベライズを刊行する予定だったってことしかわからない」
「わかってんじゃないですか」
流石の灯もツッコんだ。
「もうそれ答えじゃないですか。そうですよ、その通りです。礼条さんは自分のゴーストライターに向けて言っていたんですよ。『ガラスの靴』がまだ届いていない。どうなっているんだ——って」
ガラスの靴ではなく、『ガラスの靴』。
その勘違いが、今回の事件の発端だった。
「考えてみれば、明らかにおかしいんですよ。礼条さんは保健室の扉を開けた時点で怒鳴っていました。でもあの時点ではまだ私が保健室にいるかなんてわからないはずなんですよ。だって私の寝ていたベッドには、カーテンがかかっていたんですから」
あの時、礼条の怒号で跳ね起きた灯は、カーテンを自分で開けてベッドから降りた。礼条は灯の姿を見るより前に怒鳴ったことになる。
「礼条さんも軽率だったね。そんな大声で怒鳴っちゃって、第三者に聞かれるって考えなかったのかな」
「まあ、部外者にしてみれば『ガラスの靴』なんてなんのこっちゃって感じですからね。怒りで我を忘れたんじゃないですか? だって彼女、天才でもなんでもなかったんですから」
得意げに言う灯。
「礼条さんは偽物でした。『ガラスの靴』の正統な持ち主じゃなかったんですよ」
「礼条さんの言っていた『ガラスの靴』っていうのは、小説のタイトルだったわけだね」
「そうですそうです。礼条さんは図書室でメールを開けようとしていたんですよ。原稿の添付されたメールを。あの日が送られてくる期日だったんでしょうね。でも何度メールボックスを確認しても送られてこない。痺れを切れして、直接保健室に乗り込んだんです」
「それで灯ちゃんに勘違いされたわけだ」
「はい。盗まれてもいないガラスの靴が、何者かに盗まれてしまったことになったんです。あの時はさすがの礼条さんも取り乱したようですね。必要以上に完璧な『天才作家』キャラを演じてしまって、『すまない勘違いだったようだ』と言えず、誤解が取り返しのつかないところまでいっちゃったみたいです」
冷静さを取り繕うあまり、礼条は墓穴を掘ったのだ。
「だから盗み、破壊せざるを得なくなったんだね。礼条さんがガラスの靴を持っていてはいたらおかしいから」
「はい。で、そのゴーストライターっていうのが、保健室の先生だったんです」
「びっくりだね」
礼条と灯の最終対決の最中、礼条のスマホを鳴らした差出人の欄には、月野坂高校の養護教諭の名前が記されていた。
内容はもちろん『ガラスの靴』だ。あのメールには、『ガラスの靴』の文書ファイルが添付されていた。つまりあれは、礼条からあらゆる言い逃れを奪った死の宣告だったのだ。
「びっくりですよ。私とあの先生以外、保健室に人はいませんでしたから、礼条さんが話しかけた相手はあの人以外ありえないんですけど……まさかあの人があんな重要人物だったなんて、本当に。でもそう考えると一つ腑に落ちることがあるんですよね」
そう言って灯は挑発的な目で明神を見る。この謎がわかるか? の意を込めた視線だったが、明神は灯の視線に気づかないまま、
「礼条さんの豹変した日が、保健室に運び込まれた日と重なるってこと?」
と、言った。
演劇部の練習中に、礼条は頭を打ったという。救急車などは呼ばなかったようだが、校内で怪我をしておいて保健室に行かないはずがない。礼条が「天才作家」になった日、彼女は保健室を訪ねていたのだ。
「ああ、もうっ!」
灯はベシベシとテーブルを叩いた。
「どうしてそんなに察しがいいんですか! 私が気持ちよくなれないじゃないですか!」
「ははは。それ、前に他の人にも言われたことがあるよ」
「自慢ですかっ!」
「自虐でもあるけどね……それで? 礼条さんと保健室の先生はどういう経緯でそんな関係になったの?」
「詳しくは聞いてないですけど……なんでもあの先生、盗撮癖があったとかで」
「へえ。そりゃあまたセンシティブな話だね」
「男女問わず標的にしてたらしいです」
「多様性だね」
「はい——あ、いや、多様性かどうかは知らないですけど。ともかくそれで、鈴木さんに突き飛ばされて頭をぶつけた日、保健室を訪れた礼条さんも標的にされたらしくて。でもそれに気づいた礼条さんが、逆に先生の弱みを握ったことになって、それであの共犯関係ができたそうです」
「ふうん……」
目を細め、真顔で頷く明神。「まあ、ありえなくはないかな……」
「なんですかその、推理小説評論家みたいな感想は」
「いやいや、そんなつもりはないけどさ」
明神はすぐに笑って言った。
「事情が事情だから、関係者の君に伝えられる情報にも多少のフィクションが混じってるだろうなと思ってね」
「ああ、まあ、それはあるかもしれません。そのあたりの事情は、あとで担任の先生から聞いたので。口外しないことを条件に」
「駄目じゃないか。俺みたいな部外者に教えたら」
「明神先生はまあ、セーフですよ。口堅いでしょうし」
「秘密はこうやって広まっていくんだなぁ……。それで? 今回のトリックを礼条さんに授けたのも、どうせその養護教諭なんだろうね」
「あ、はい。らしいです。頭良いですよねー。『ガラスの靴』が小説であることに私が気づかないように、靴の方のガラスの靴を壊してしまうって。嘘から出た真とはこのことです」
「どうかな……『ちゃんと探したらあった。私の勘違いだったようだ』って礼条さんに言わせた方が、よっぽど賢いと思うけど」
明神は何とも言えない微妙な表情をして言った。
「まあまあ。彼女たちにとっては、私が事件解決に躍起になるのが、計算外だったみたいです」
「ふうん。まあ、灯ちゃんも嘘を吐いてたからね」
「はい。私と全く関係ない二組の男子生徒をスケープゴートに仕立て上げたつもりだったようですけど……まあ、その、ねえ」
「灯ちゃんは、片鍋くんの無実を証明したがっていた。なぜって、君は片鍋くんに助けられていたからだ」
「礼条さんたちとしては、なんで私が事件を追いたがるんだーって、焦ってたみたいですね」
「沈黙が功となり、人助けが自分のためになる、か……。全くもって寓話的だ」
「あ! 先生もそう思いますか!? そうなんですよ。この事件、まるで『シンデレラ』なんです。ガラスの靴が決め手となって偽物が暴かれ、本当の持ち主が現れるところなんてまさにって感じで。あとはもう、花嫁と花婿が結ばれるしかなくないですか!?」
「まあ、話の流れ的にはそうかもしれないけど——」
「うーっす。おっ、なんだ倉敷。こんなところにいたか」
そう言って顔を出したのは立川紗香だった。
彼女も灯と同じクラスTシャツを着ていて、なぜか頬に日本の国旗を描いている。髪も豪華に結われており、お祭り度合いが灯のそれより高かった。
「誰だこの人? パパ活相手か?」
立川は明神を一瞥するなり言った。
「違いますよ! いつもお世話になってる先生です」
「先生って、何の先生だよ。うちの教員じゃねーよな」
「えーっと……」
灯は答えに困ってしまった。明神が大学の先生であるのは確かなのだが、灯はまだ大学に通ってなどいないし、明神に民間伝承のいろはを教わっているわけでもない。困り果てた末、灯は「——推理です。明神先生からは推理の極意を伝授してもらっているんです」と、紹介した。
明神は非常に微妙な顔をしたが、訂正するのも面倒だと思ったらしく——あるいは灯と同じように名乗るべき肩書きが見つからなかったのか、
「あー、どうも。明神です」と、立川に挨拶した。
「こっちこそどうも。立川です」
初対面の成人男性にも全く臆する様子がなく、立川は挨拶を返す。「パパ活とか言ってすみません」
「ははは」明神は笑った。「噂に聞いてますよ、立川紗香さんは面白い人だって」
「はあ? こいつそんなこと言ってんすか!?」
立川は灯の首根っこを抑えた。
「いや、言ってない、言ってないです! 今のは完全に明神先生の主観ですぅ!」
「嘘だね。お前は絶対アタシのエピソードを面白おかしく盛って話している」
「盛ってない、盛ってないです! もはや盛りようがないですからぁ!」
「そういうとこだ!」
立川は灯を荒っぽく解放した。灯はべしゃっとテーブルに突っ伏す。ナンもカレーも飲み物も、もう食べ終わっていた。
「そろそろ出ようか。長居すると迷惑だろうし」
明神がそう言ったので、灯は「はいぃ……」と立ち上がる。会計は食事前に行うシステムなので、灯たち一行はそのままするりと廊下に出た。
混雑する廊下の途上で、
「そういえば立川さん、どうして私を探していたんですか?」
と灯が訊くと、立川は「ん?」と首を傾げ、「ああそうだ。そうだった、お前に伝言があるんだよ」と言ってポンと手を叩いた。
「片鍋からだ。『お礼が言いたい。武道場裏で待ってる』ってよ」
「え!」
突如として灯のテンションはマックスまで上がった。
灯は明神の方を振り向く。明神はなぜか引き攣った笑みのまま、「行ってきたら」と言ってくれた。なんでそんな顔をするのかは謎だったが、灯は「はい! 行ってきます!」と素晴らしく良い返事をして、立川と明神を尻目に廊下の人混みへと紛れていった。
そんな灯の消えた方角を明神が何となく見ていると、
「ミョージン先生さ」と、立川に名前を呼ばれる。
「ん?」
「あんたって、推理の先生なんだろ?」
「んー」明神は一瞬答えあぐねたが、結局は「まあ。うん。そうだよ」と肯定した。
「じゃあ今回の事件のこともあいつから聞いてんだろ。一個質問してもいいか? わからないことがあるんだ」
「何かな?」
「礼条たちは片鍋犯人説に、どういう理屈をつけるつもりだったんだ?」
「んー……」
「スケープゴートにも動機は必要だろ? 実際倉敷はそこに納得できなかったから、あんだけ事件を掘り下げたんだし。犯人側もなんか用意してたんじゃないのか?」
「そうだね……」
明神は何とも言えない微妙な笑みを浮かべながら言った。
「それは、言わぬが花かな」