第一話 不死の異邦人
■西暦1万2043年
重苦しくしめった闇が、泥のようにあたりを覆っている。吸い込んだら
それを押し退けるように、するどい
「お待ちしておりました」
金属の壁に、しわがれた声がこだました。
「
あかりの持ち主、口髭を蓄えた老博士が、拳を合わせて深々と頭を下げる。
「出迎えご苦労、
それへ向かって、大佐と呼ばれた男は、黒い革のコートを羽織りながら目を細めた。頬骨の陰が濃く揺らいだ。
「冷えるな」
「地下でございますから」
「このような場所では身体に毒だろう」
電燈はか弱く、かすかにあたりの壁を照らし出しているだけだった。堅固で冷たい金属と、雑多に這い回る配管の束を。
「足元もろくに見えないとあってはな。太陽が恋しくなりそうだ」
「僕なら一日で御免ですね。ここはもう海抜より下なのでしょう?」
そばに控えていた若者が呟いた。その金髪に、電燈が柔らかく反射している。若者――
「大佐も大佐ですよ、ご自分の目で見ておきたいなどと仰って」
「生憎、私は前時代的な人間でね」
「それで、報告にあったものはどこかね?」
「こちらです」
老人は矍鑠とした足取りで歩き始めた。
金属の通路は次第に狭くなっていった。錆びついた配管や、ごわついた樹脂で覆われた電源有線も数が減ってゆく。空気の冷たさは、長らく人の立ち入っていない場所だと肌でわかるほどだった。
「つい最近発見されたばかりの区画でして」
博士は言った。
「大気成分に問題はないはずですが、海水が侵入していることもありえますので、どうかご注意の程を。防護服などは?」
「問題ない」
大佐ははっきりと言った。
「彼がいるからな」
「そう言って、あまり頼りにされすぎるのも困りものですけれどね……僕の
年若い中佐は、そう言って徐ろに、左手の甲を見せた。
その手首から甲にかけてには、“螺子”の紋章が刻まれていた。
博士は黙って一礼した。
足音だけが通路に響いていた。それは電燈の外で暗闇に吸い込まれ、くぐもった音になって鏡のように磨かれた壁に消えていった。
「この壁が何からできているかすら判らぬのです」
博士は皺だらけの唇を舐めた。
「未知の金属類による複雑な化合物でしょうか。我々の技術は、火も薬品も通じませなんだ。先だって新たに発見されたこの通路も、機能の掌握など夢のまた夢といったところで」
「だからこそ、上は都市船深部への探査を重く見ている。未知で結構、それだけ調べる価値がある……だそうだ」
大佐は言った。
「理には適っていよう」
「ええ、我らが曳航連邦の栄華のためです」
中佐は明朗に言った。
「それに、あなたからの報告書は読ませていただきましたよ。今回
「“未知”という意味ではそうでしょうな。勿論あなたこそ、きっとよくご存知の通り」
中佐の左手を見、そう言って博士は突然立ち止まった。
通路は途切れていた。巨大な縦穴に突き当たって、口を開けているのだ。冷たい風が微かにだが動き、三人の顔を撫でた。
「そう、あれが“何”なのか。どのような仕組みか、果たして生命なのか物質なのか……何百年という時間を使っても、人類は未だになお手掛かりすら得られておらんのですよ。判っているのはただ、その偉大さだけ」
老人が壁際の配電盤を操作した途端、強すぎる白色光が縦穴をまばゆく照らし出した。視界がいっときだけ塗り潰され、やがて目が感覚を取り戻す。
そして、彼らはそこにあるものを目の当たりにした。
「<
金属の壁面に埋まっているそれは、巨大なヒトの輪郭をしていた。
その石の像のざらついた珊瑚のような表面は、精密に加工された壁面の滑らかさとは明らかに異質のものだ。
それは沈黙していた。現在の人間の技術ではサンプルすら採集できないはずの壁を砕いて。
「あれが第78
「実に、壮観だな」
大佐は、僅かながらに驚きを隠せぬ口ぶりで言った。
眼の前の<天使>は顔の前で両手を組み、跪くような格好で静止している。その背には紛れもなく、屹立する翼のかたちがあった。
身体の細かな造形はざらついた石の表面にうずもれている。鎧のような、硬質の鋭角がその端々に覗いていた。指の一本が、大人の腕よりも太いほどだった。
寒さとは違うものに身を震わせながら、大佐は白く曇る息を吐き出した。
「等級の測定は確かなのか?」
「不活性化状態では確実とまでは言えませんが、スペクトル測定の結果は“青”、神話級を示しております」
「神話級……青の第4位」
「“王の器”というわけですか」
「この情報を知っているものは?」
大佐は低く、鋭く尋ねた。博士は恭しく回答した。
「これを発見した私率いる
「人の口に戸は建てられん」
大佐は吐き捨てた。
「これは火種になるぞ。新たな神話級の発見など、ここ十数年は無かったことだ。他国に嗅ぎつけられれば最悪、この上の都市も戦場になりかねん」
「……ご存知とは思いますが」
博士は禿げ上がった頭を揺らして言った。
「活性化してからでなくては、奇跡の詳細は判りませぬ。契約者はあくまでも<
「あぁ。一刻も早く首都へ移送せねばな。民間か敵国に流れでもしたら、いささか有り難くない事態になる」
大佐は厳しい顔で言った。
<天使>はこの上ない資源だ。特に、不活性化状態の<天使>は。まだ、誰のものでもないのだから。
「いえ、移送は待っていただきたい」
だが、そのとき横から中佐が口を挟んだ。
「動かすべきではないでしょう、今はまだ」
その顔には、傲慢な自信が浮かんでいた。
「遠からず連邦本国から契約候補者が来ます。その時までこの<
大佐は眉一つ動かさず、中佐に視線を向けた。
「現場では私の指揮下で動いてもらおう、中佐。それとも、私の命令には従えないとでも言うつもりか?」
「僕は正しいと思うことに従っているだけです。あなたこそ、僕の意向に敬意を払ったら如何ですか」
「それは、中央軍情報部からの出向としての言葉か?」
渋面の
「上の意向は絶対だ。あなたの方が階級で上だとしても、僕の指揮系統は本国情報部の直属下にある。キャリアが違うのですよ。お忘れなく」
中佐は振り向きもせず、その生真面目さに違わない四角四面な足取りで、来た道をさっさと戻っていってしまった。慌てて、博士がその後を追う。
大佐はそれに続こうとしたが、ふと足を止め、名残を惜しむかのように<天使>を振り向いた。
それは相も変わらず沈黙していた。石と同じことだ。
「神話級<
大佐は呟いた。
「……我らの手の内に収まればいいがな」
そして、明かりは音を立てて消えた。
◆◆◆
<Infinite Apocrypha>
◆◆◆
■曳航連邦・南部辺境イザール市
その浜辺の砂は、錆と珪素の破片だった。
白と褐色の混じった穏やかな色だ。その上では
真昼に白く照らされた物寂しいその浜で、人影が怒声をあげる。
『
連邦の
『この、役立たずが!』
その男は
『おい、俺はなんて言った?3日前になんて言ったかお前覚えてるか?』
陰険そうな顔だ。何一つ特別なところのない、平凡な顔だった。
『カネを持って来いと言ったんだ』
『だがお前は約束を破ったわけだ。なんで俺を悲しませるんだ?なぁ、アゲハ』
アゲハと呼ばれた少年は、砂まみれで横たわっていた。
白い合成樹脂の服は薄汚れ、ぶかぶかの袖から指の先が覗いている。伸び過ぎた褐色の髪が眼差しを隠していた。
逃げることはたぶん、やろうと思えばできたのだし、逆らってみることだってできた。けれど、それをしてもどうにもならないということをアゲハはよく分かっていた。彼は今、自分が人を殴れるような立場なのだと確認したいだけだ。
流れに任せるべきだ。そうすれば、早く終わるのだから。
『立て』
アゲハは腹を押えながらおずおずと従い、
『……仕方なかったんだ、稼げなかったものはどうしようもないし、
『お前の事情なんざ関係ないんだよ』
よろめくアゲハの胸倉を掴み、その懐に手を突っ込むと、
『卑しい
ちゃりちゃりと硬貨が音を立てる。
『いい加減理解しろ。この街でお前みたいなのが生きていきたきゃあ義理を通さなきゃいけないってことをだ』
勝手な理屈だな、とアゲハは思った。この手の人間は大概がそうだ。
『これは迷惑料として貰ってくぞ』
アゲハの訛りを嘲笑いながら、
『も一度言っておく。今日中に10000ゼータ稼いで持って来い。さもなきゃ、お前を海に放り込んでやる』
「嫌な奴」
聞かれても殴られないよう、アゲハは母国語で呟いた。最も、聞こえないようにとは思っていた。異人のことばなんて、それだけでぶん殴る口実になるのだから。
10000ゼータなんて1日で稼げないのは分かりきっていたし、それをあの男が知っていることも理解していた。あれは、盗みなりなんなりでもやって金を工面してこい、という意味なのだ。
「自分で手を汚す気もないんだから」
海に放り込んでやる、という言葉を思い出してアゲハは身震いした。浜辺ははるか遠くまで続き、波打ち際では波が白く泡立っていた。
海は美しかった。翡翠を砕いたような光が紺碧の波間に躍り、うねる水は驚くほどゆっくりと揺蕩っている。
この街で、異邦人にまともな生き方は無いのだ。
アゲハは反吐が出る思いで座り込んだ。
故郷から、この街に流れ着いてもう随分と経つ。言葉はかなり上手くなったし、街の歩き方も学んだ。近づいてはいけない場所や、意地を張ってはいけない場面を。けれどそうやって巧く立ち回ったところでアゲハに先はない。まともな職に就けない異人には、根の下ろしどころがないからだ。
(カネがあれば……いや)
自分が大金を拾ったらどうなるだろう?想像の中での1秒後、アゲハは殴られてカネを持ち去られ、路地に蹲っていた。アゲハはため息を噛み殺すように、苛立ちを込めて奥歯を咬み鳴らした。
そして、ふと顔を上げた。
立ち並ぶ帆の影のひとつに、人間が倒れていたからだ。
(死んでるのか?)
アゲハは唾を飲み込んだ。
若い男だ。腰まで伸ばした黒髪を束ね、堅牢な黒い
10000ゼータは大金だ。まともな手段ではとても稼げない。
死体から金を漁るのなら、少しは罪悪感もマシになるだろうか。
アゲハはゆっくりとその死体に近づいた。生気のない身体は、なかば砂にうずもれるように横たわっていた。
その懐に手を伸ばす。金はなくとも、せめて何か金に変えられるものがあれば――
「泥棒かい?」
突然の声に、アゲハは飛び上がった。
男は目を開けていた。砂に塗れた顔で、エメラルドのような深い緑の瞳が煌めいている。死んでいると思ったのに!
「……生きてたのか」
アゲハは妙に安堵しながらそう言った。
そして、目を見開いた。
男が話したのは、連邦の
「君の独り言は聞こえてたさ。君、連邦の人間じゃないね。戦争から逃げてきた異邦人、といったところかな?」
男はアゲハの母国語で言った。ふらふらと砂に手をついて立ち上がったその身体は、ひょろ長い
「アシタ語は久しぶりだよ」
アゲハは雷に打たれたような顔で突っ立っていた。まさか連邦に異国語を解し、あまつさえ口にして見せる人間がいるなどとは思いもしなかったからだ。
「昔ね、あちこち旅をする内に覚えたのさ。あの頃はまだ国境も楽に通れた。僕は
男はそう名乗ると、穏やかに眉を持ち上げた。
「さて、君の名前は?」
「あ、アゲハ」
アゲハは躊躇いながらも、思わず本名を馬鹿正直に答えていた。その名前だけで、連邦の人間なら眉をひそめられるのに。
けれど、
「戦争だろう?」
「連邦ときたら本当にずっと戦争をしているからね。東の方で、君みたいなのは沢山見たよ。故郷を喪って、他の都市船へとどうにか落ち延びる人間は……君の国は、特に酷かったけれど」
「で、食い詰めて死体を漁ろうってわけかい?どうせ後ろ暗い奴等に嵌められたんだろう?あの手の人間にとって、君みたいな繋がりのない余所者は格好の餌食だから」
「あの……悪かったよ」
アゲハは歯切れの悪い口ぶりで言った。
「あんたにはなんの関係もないことなのに、おれの事情で勝手なことをしようとして……」
「なら、そのお金を取り返しに行こうじゃないか」
「あの悪漢はどこにいるんだい?」
「に、
思わずアゲハは答え、そしてすぐに青くなった。
「いや、だめだ。殴り込みなんかに行ったらおれが後でひどい目に遭うんだから」
「あっちだね、解ったよ」
なにも解ってない!アゲハがそう言うより早く、
アゲハも一瞬遅れて、地面を蹴った。行かせるわけにはいかない。ますます面倒なことになりかねない。
(くそ、なんなんだあの足の速さ!)
すばしっこさには自信があったのに、
(道は知らないはずだろ?なんであんなに速いんだ)
道は薄暗く、淫靡な香りのする方へと入っていった。アゲハは舌打ちした。入り組んだ路地を先回りしようにも、
アゲハは最後の角を曲がった。香料の匂いが、つんと鼻をついた。
『
扉の前に屯していた一党が
『見ねえ顔だな』
その一人、顔面にひきつれた傷のある男が、手の内の刃を弄びながらドスの効いた声で言った。
『ここはお前みたいなのが来るとこじゃあないぞ』
『へぇ?紹介がなきゃあ入れないだなんて、ここはそんなに格調高い店なのかい?』
やめろ!アゲハは叫びたいくらいだったが、顔を半分だけ出して様子を窺うくらいしかやりようがなかった。
『
『失せな』
そして、男は握手でもするような自然さで切っ先を突き出した。
よく研がれた刃はシャツを貫き、
『返事が遅いからだ』
ごろつきはため息交じりに、
アゲハは目を見開いた。自分の息遣いが嵐のように耳に響く。
『片付けとけ』
『なんだ、後始末は俺等かよ』
『またすぐに手を出しやがって、あぁ、店の前が汚れてるじゃないか』
飲み物でも零したような気軽さで事が進んでいくさまに、アゲハは目眩がするようだった。あぁいう連中なのだ。暴力に慣れていて、人を殺めても後悔すらない。
だから止めたのに。アゲハはじりじりと後ずさった。
『それで、そこの小僧は?』
次いでごろつきは、壁に隠れているはずのアゲハに視線を向けた。
逃げようとした瞬間、襟首を掴まれた感触がして、天地が回った。後ろにもごろつきの仲間がいたのだ、と分かったときにはもう遅かった。
気づけばアゲハは店の前に転がされていた。疵面が下卑た笑いを浮かべてアゲハを覗き込む。
『なんだお前、あれの連れか?』
アゲハは口を開こうとしたが、そのとき短刀がさっと振り抜かれた。ややあって、頬に冷たい金属の感触があった。突きつけられた刃が、アゲハの頬をからかうように叩いた。
『残念だなぁ、お友達は死んじまったぞ。お前はどうだ、希望はあるか?どこを刻んでほしい。ん?』
アゲハは茫然と座り込んでいた。尻の下には硬い地面の感触があった。
『おれは、
『
男は心底馬鹿にした顔で繰り返した。
『お前、さては
男は嘲るように言った。いつもこうだ。こいつらは蔑み得る人間を常に探している。どうせ同じ非正規市民のくせに。
アゲハは、
その身体がふと、動いたような気がした。
『聞いてるのか?』
それは見間違いではなかった。
『運のいいヤツだ。頭は悪いがな。大人しくそこで寝てりゃあ良かったものを』
悪趣味に飾り付けられたそのナイフを振り上げて、男は
『今度はしっかり顔面の肉を削ぎ落としてやろう』
言うなり、男は短刀を振り抜いた。刃が閃く。重いものがぶつかる鈍い音がして、ぱっと真紅の鮮血が飛び散った。
『それだけかい?』
短刀は、
硬い頬骨で上滑りしたのだろう、その切っ先はこめかみと眼窩を切り裂いて右目を掻き回し、額を深く抉っただけで止まっていた。血は噴水のように吹き出していた。
それでも、
『なんだお前』
ごろつきは言った。突き刺した側のごろつきがだ。
『なんなんだ、お前は』
『生憎、僕はそれくらいじゃあ死なないんだよ』
いつしか血は止まっていた。抉られた筈の傷も閉じていく。胸の致命傷さえも既に無かった。時計を逆回しにしたみたいに、身体が再生していく。
『それとも、試してみるかい?君ごときが、僕を殺せるかどうか』
ごろつきは素早かった。捨て台詞など吐かずにナイフを捨て、それが甲高い音を立てて落ちるより早く踵を返して逃げ出していく。悪友らしき仲間たちも慌ててそれに続いていった。
『なんだ、逃げるのか』
アゲハは呆然とそれを見ていた。眼の前の、不死身の人間を。
「……<人間イカリ>」
アゲハは平坦な声で言った。
ただの人間にこんなことが出来るはずがない。あんな深い傷があっという間に、ひとりでに治るなんて、まさに……
「羨ましいかい?」
「別に、恥じることじゃないよ。<
アゲハは黙っていた。
言葉を探していたからだ。ややあってその口から出てきたのは、思っていたこととは少しだけ違う気がした。
「奇跡が使えるって、どんな感じ?」
「さぁ。特別な力を手に入れた気持ちっていう意味なら……君が思うほど特別でもないさ」
その時、酒場の中から鈍い音がした。アゲハは
『
酒場の中では、知らない赤ら顔の大男が、あの
『足りんぞ、このろくでなしが!俺は今日の朝までに、10万ゼータ返せと命じたはずだぞ!』
『ま、待ってくれ、すぐに集めてくる。だから夜まで待ってくれないか、頼むよ』
その足元で情けなく唸っているのは、あれだけ傲慢そうにアゲハのカネを奪っていった
『なぁ、お願いだ。アテはあるんだ、へへ、あんたと俺の付き合いじゃないか、少し待ってくれ……』
アゲハは顔を背けた。なんのことはない、あいつがアゲハのカネを奪ったのは自分の借金のためだったのだ。弱いものが、更に弱いものを探していただけのことだったのだ。
「どうする?懲らしめたりしない?」
「いや、もういいよ」
アゲハは吐き捨てた。
あんなに横柄だったあいつも、誰かの下僕だった。支配し、支配され、暴力と権力は連なる鎖のようにどこまでも続く。金があっても、別の場所に逃げても、きっと次の支配が待っている。最悪の気分だった。
(そのいちばん上まで行ければ……きっと)
そんなのは無理だと、アゲハにはよく分かっていた。
◆
街の右舷側へ歩いていくアゲハのあとを、
「家へ帰るのかい?」
「家なんかないよ」
野宿には慣れていた。土地も、屋根も、そして持ち物を安心してひとところに置いておくことも、アゲハには高すぎる買い物だからだ。
路地は終わっていた。一段下になった町並みが、目の前に広がっている。旧市街を眼下に望む高台で、アゲハは手摺にもたれかかった。パイプを嵌めただけのそれの足元には、水道管と電源管がうねっていた。
今日はどこで眠ろうか、そんなことを考えるのも億劫だった。
町並みの向こうには海が見える。きらきら光るさざ波が見える。
右舷の街は、都市の北東の海に面している。水平線の向こうにはきっと別の都市船があり、その果てには別の国があるのだ、きっと。
けれど、アゲハはどこにも行けない。
そのとき、海のほうでなにかが光った。
「来たか」
ふと
つられて、アゲハもそちらを見た。眼下に広がる街、その向こうの都市船沿岸の荒野、そして、遥かに広大な大海原を。
その波の上に、滑るように動く小さな影があった。
「来るとは思ってたんだ。僕だって、あれの情報は耳にしてたんだからね。他の耳聡い誰かがあれを奪いに来てもおかしくはないよね」
「
船ではない。水を割くのではなく、躍る波の先を掠めながらそれは近づいていた。触れもしないのに、脚の下で波紋が後ろに拡がっていくのが見えた。
「血の気の多いやつらがさ」
そう、それは人の形をしていたのだ。両の足があり、手があり、背には翼のような構造体が突き出し、頭に当たる部分は都市船の方をじっと眼差していた。
影は大きさを増していた。近づいている。
アゲハは息を呑んだ。呼吸が早くなるのがわかった。腹の底に冷たいものが走った。
アゲハは知っていた。現れたそれが何なのか、よく知っていた。
「あれは……」
黒い影の頭上には、光の円環が回っていた。
「……<
to be continued……