第一話 不死の異邦人
■【偽リベリウス記】
――この書物を誰かが読むのか、私にはわからない。
海の藻屑と消え去るやもしれない。全てが無意味に終わるかもしれない。私のことを、誰一人記憶しないかもしれない。
それでも、これは記しておかなければならない。
知識は糧だ。生きる力になる。混乱の霧に覆われた人々の眼を、私は晴らさねばならない。奇跡を得た私の使命として。
ああ、懐かしき故郷!叶うなら、もう一度故郷の土を踏みたい。あの人に会いたい!
けれど、私には許されない。それは抱いてはならない願い、叶えてはならない望み。
私は契約を交わしたのだから。戒律を受け入れたのだから。
人類は滅びた。
旧き大陸はおしなべて猛毒の海に没し、いまや船舶と都市は同義になった。多くの動植物が失われ、多くの知識と手わざが失伝した。かの三柱の<
だが、私は知っている。
かつては乾いた大地があり、山並みがあり、波打ち際があり、諸国がそれを治めていたのを。海は我らを蝕みはせず、空の外側でさえ我らが領域であったことを。
願わくば、再びヒトが広き大地を踏み、高き天に届かんことを。
たとえそれが、罪深き願いだとしても。
私はノア。
私はデューカリオン。
私はクシストロス。
私はべーゲルミア。
私はマヌ。
私はアトラ・ハシス。
私はジウスドラ。
――私は、リベリウス。
10100. 7. 15
◆◆◆
<Infinite Apocrypha>
◆◆◆
■西暦1万2043年
海鳥の群れ――
それがぱあっと飛び立った。白すぎる真昼の岸辺からは、深い青色をした海と、同じほど青い空がどこまでも見渡せる。
静かだった。
ぞっとするほどだった。まるで世界に自分一人になってしまったような。この空の下に誰もいないような。
だが、もちろん、そんなはずはなかったのだ。
アゲハはため息をつくと、砂の中から
『
後ろから
殴られたのだとすぐに分かった。頭を抑えてうずくまるアゲハを、背の高い男が卑しむ顔で見下ろしていた。
手にはセラミックでできた杖を持っている。それでアゲハを殴りつけたのだ、と思った次の瞬間には、その石突がアゲハの喉を突いていた。
『
周りには他にも幾人かの人間たちがいた。彼らを見渡しながら、
『ことにお前だ、
アゲハは砂の上を転がった。殴られるのには慣れていた。勢いを殺してみせる腕前には自負さえある。うまく殴られることに慣れきっている。
『
「くそったれ」
アゲハは口元の血を舐めながら呟いた。
見せしめにされている。周りの残骸拾いに、アゲハをいたぶるさまを見せて楽しんでいる。
「誰がお前なんかに働かせてくれって頼んだ――」
杖が飛んできた。
今度のやつは本気だった。アゲハは思わず呻きながら、腹を抑えてうずくまった。昨日から吐けるようなものは食べていない。
『薄汚い亜人の唸り声だ』
『ここでは人間の言葉で話せ。口もきけぬ
アゲハは砂を噛みながら苦痛を吐き出そうとした。
母語で呟いたのは失敗だった。見せしめではなく、
『――仕事はしてる』
アゲハは連邦共通語で言った。
『だけど、明日までに一万ゼータ持ってこいなんて無茶だ。そんな大物がおちおち流れ着くはずないだろ』
『なんだって?聞こえないな。きちんと話せ』
アゲハの訛りを笑っているのだとすぐに分かった。
『なあ?まったく、聞き取りづらいったらない』
他の残骸拾い達がどっと笑った。アゲハは屈辱を噛み潰していた。
同じ、虐げられる側の貧民のはずなのに、 彼らはアゲハを嗤っている。自分より下のものがいることが心地よくてならないのだろう。貧しい者たちのなかにさえれっきとした序列がある。それが不快だった。
嘲笑の渦中で、アゲハは黙ってまた砂を掘った。少しでも使えるものが流れ着いていることを祈って。
その手が何かに触れた。大きい。
アゲハは期待を込めてそれを引っ張り上げた。
そして、息を呑んで手を離した。
埋まっていたのは人間だったのだ。
肌触りの良さそうな白いシャツに、黒く長い髪が腰まで束ねられている。若い男だ。だが、死んだように動かなかった。
だからアゲハは一瞬、これで一万ゼータにはなる、と思ってしまった。そんな自分が嫌でならなかった。骨の髄まで、他人の都合が染み付いているおのれが。
だが、男の手がかすかに動いた。
胸が上下した。息をしている。
そう気づいた瞬間、また殴り飛ばされた。
まるで邪魔な路傍の石でも蹴飛ばすかのように、
空が青すぎる。
さざなみが遠くで鳴っている。電気に走るノイズみたいに。
その青色のうえに、小さく、風に乗って都市塔へと舞い上がっていく海鳥の影が見えた。
もし自分にもあんな翼があれば、向かい風にそれを広げ、地を蹴って、きっとどこまででも飛んでいけるのだろうか。ここではないどこか、なんのしがらみもない場所へ、誰に咎められることもなく、自由に――
だが、アゲハの背中には何もない。
あるのは二本の足だけだった。翼なんか、どこを探してもありはしないのだった。
◆◆◆
■都市船イザール沿岸
海に近い場所ほど、貧しいものが住んでいる。
海水は猛毒だからだ。触れれば人の身体は簡単に溶け落ちる。こんな海岸線にまで、忌まわしくも美しい海が見えるところにまで出てくるのは、本当に最下層の非正規市民だけだった。
その中でも、アゲハは最低だ。
アゲハは掘っ立て小屋とすら呼べぬような、崩れかけた都市構造体のかけらに帆布を引っ掛けた、その縁に座っていた。
目の前には、砂に埋まっていたあの青年が縛られて転がされていた。
アゲハはそれを見張っておけ、と言いつかったのだった。
従う義理なんかなかった。
そうとも、賢くない。アゲハは賢いから、あえて従ってやっているのだ。
「仕方がないんだ」
誰もいないその場所で、甘い大気を吸い込んで、少年は言った。
「港には近づけないし、
アゲハは力いっぱい叫んだ。
「人を脅して金を盗み取るだけのごろつきのくせに!勘違いして思い上がって!逃げ出そうと思えば逃げ出せたんだ、殴らせたほうが早く終わるからしたいようにさせてやっただけで!ただ憂さ晴らしがしたいだけのお前なんか、それに、それに、それに――」
アゲハは褐色の髪を振り乱し、肩で息をしながら、砂丘を見つめた。
がたん、と発電帆が軋んだ。
「それに――」
惨めだった。
誰もいなくなった浜辺でしかものも言えない自分のことが。
殴らせてやったなんていうのは嘘だ。本当はされるがままになっていただけで、アゲハの自由意思なんてそこには欠片もなかった。そう気づいた途端に、腹の底から眉間まで震えるような屈辱が電気のように走り抜けてきた。
殴り返してやりたかった。理由もなく金銭を取り上げられるなんてまっぴらだと言い返してやればよかった。異国の生まれだからといって蔑まれるいわれなどありはしないと。だが、そんなことを口走った日には本当に殺されかねない。
そのことが堪らなく嫌だった。
屈辱的な扱いそれそのものではない。受け入れてしまっている自分自身のことが嫌で仕方なかったのだ。
あさましい。
「本当に殴り殺されればよかったんだ、いっそ」
アゲハは呟いた。
言いきればよかった。最後まで言い返して殴り殺されればよかったのだ。けれど、そう思ったとたんに足が竦み、口が動かなくなった。屈辱に身を震わせていながら、腹の底では我が身がかわいいのだ。
そんなおのれがとてつもなく恥ずかしかった。
誇り高くもなく、また割り切ってへつらうこともできない、そんな中途半端で浅ましいおのれのことが。
「くそっ、くそっ、くそ!」
アゲハはその悪態を噛み潰すように唸ると、ため息をついた。潮が引くように怒りが消え、あとには苦いあきらめだけが残っている。浜の
けれど、浜には価値のありそうなものは何も転がっていなかった。
錆と砂だけだ。
アゲハはため息をつくかわりに、砂を蹴りつけた。どうしようもなく惨めだった。
そして、エメラルドのようなみどり色がそれを見つめていた。
アゲハは身をすくめた。
青年が目を開いていたのだ。透き通っていて深いみどりだった。どこか海に似ていた。のぞき込むと、引きずり込まれそうな奥行きのある色合いだった。
だが、今の独り言は分からないはずだった。
「――アシタ人か」
青年はしかし、穏やかにそう言った。
「まだ生き残りがいたとはね。久しぶりだよ、アシタ語を話すのは」
アゲハは信じられない思いでそれを見返していた。連邦に来てからこっち、自分の母語を耳にしたのは初めてだった。青年はいらえを待つように黙っていたが、それがないと分かると、また口を開いた。
「意外そうだね。まあ、無理もないのか。シャーン人は異国語を禁じているからね。ところで、なぜ僕は縛られているのかな?」
最後のひと言は、自身を戒めている、海藻の繊維を撚り合わせた縄をみて言ったのだった。アゲハはつばを飲み込んだ。
「どうして」
「君の独り言は聞こえていたさ」
青年は長くたばねた髪を揺すりながら笑った。アゲハは唸った。
「違う。なんで話せるのかって聞いてるんだ」
「昔、南を旅していたことがあってね。そのときに覚えたんだ。あの頃はまだ国境も楽に通れた。これでも記憶力はいいほうだと自負しているんだよ」
青年はニヤッと笑うと、肩をすくめた。
「ところで君、これを解いてはくれないかな?」
アゲハは油断なく青年を見つめていた。
「解けば殺される」
アゲハは言った。
「おれはあんたを見張れって言われてるんだ。目の前でみすみす逃がすことはできない――」
「――命ぜられたから」
青年は口を挟んだ。
「そうしろと言われたから。ああ、そうか。くだらない理由だ。憎んですらいる相手に隷属している。“ごろつき”と呼んでいる相手に」
アゲハは顔を真っ赤にして立ち尽くした。独り言を聞かれるだなんてこの上ない恥だ。それも、自分の惨めさを慰める粋がりをだなんて。
「それでは鎖に繋がれた
アゲハは青年を睨みつけた。
「言いたきゃ言えばいいさ。おれはあんたを助けられない。自分が大事だからね。自分を犠牲にして他人を助けるほどお人好しでも馬鹿でもないんだ」
アゲハはそう言って、砂の上に座り込んだ。青年はつまらなさそうに揺れていた。縛られたままで。
「――なんで、あんなところに埋まってたの?」
アゲハは不意に尋ねた。青年は冷たい目を向けた。
アシタ語を耳にするのは本当に久しぶりだった。久しく忘れかけていた故郷のことばに、少しでも触れていたいと思ったのだ。
「探し物をしていたんだ」
暇そうに、青年は言った。
「このイザールにそれがあると思って、来た。たまには船でと思ったんだが、うっかり残骸海域に入り込んでデブリに難破してね。しょうがないから生身で流されてきたんだけど、思ったより波が強くて、砂の中に――」
「面白い冗談だね」
アゲハは言った。
ヒトは海に触れれば溶けてしまう。生身で海に落ちるというのは、死と同じだ。だからどんな命知らずでも海を恐れ、遠ざける。それに流されてきただなんて、冗談にしてもバカげている。
「――で、君に掘り出されたというわけだね」
青年は言った。全く笑っていなかった。
「今度は僕の番だ」
青年は身じろぎをすると、硬く縛られた縄を厭わしげに揺すった。
「なぜ君はこんなところにいる?」
アゲハはどういう意味なのか分からずに黙っていた。青年は続けた。
「アシタ皇国は滅んだ。滅ぼされたんだ、連邦に。今ではもうあそこには何も残っていない……曳航連邦は決してやってはならないことをしたんだ。あれは最低で最悪の戦争だった。戦だからといってやっていいことと悪いことがある。だが、その破滅と運命を共にせず、生き残ることに成功した君が――」
「死んでいればよかったと言いたいのか?」
アゲハは青年を睨んだ。
「あそこで、あの戦争でおれが死んでいないのはおかしいって言いたいのか」
「そうだね。だけど君は生き残った。どうしてだい?」
「決まってるだろ」
アゲハは吐き捨てた。
「生きたいんだ。おれは生きていたいんだよ。痛くて、苦しくて、自分が消えてなくなってしまうだなんて、まっぴらごめんなんだ。おれは死にたくない。絶対に死にたくない」
「だが、ここでごろつきに飼われている」
青年は冷たく言った。
「他人の望みに従って、やりたくもないことをやらされ、それに甘んじている。それこそが賢いやり方だと自分に嘘をついて。見下げ果てた生き方だ。死よりもなお悪い。生きることは欲することだ。欲せざるところに繋がれているそんなのを、生きているとは呼ばない」
「そんなの――」
アゲハは立ち上がって叫んだ。そんなことなど分かりきっている。言われずとも毎日、自分に問うていたことだ。
「でも、おれにできるのはこれだけなんだ。やりたいこと何でもやれだなんて、そんなのは――」
そして、アゲハの頭をセラミックの杖が殴り飛ばした。
少年は息を吸い込みながら倒れた。耳の上からがんがんという痛みが心の臓の鼓動に合わせて響いている。
『卑しい異国民めが』
背後で
『人間の言葉すら話せない亜人のくせに、喚き立てているからだ。見張りの仕事ひとつ静かにできんのか』
アゲハは反抗心を噛み潰しながら、よろよろ立ち上がった。
確かに、アゲハは彼らに逆らえない。それはちっぽけなひとりの異人だからだった。数が多く、身体が大きく、頭のよい者たちには勝てないのだから。逃げたこともある。海岸線を伝って違う浜へ移ったのは二度や三度ではない。けれど、どこでも起こることは同じだった。同じような連中がいて、同じようにアゲハを虐げるのだ。
『砂の中の男。
『だろうな。ずいぶん話し込んでいた。同じ亜人どうし通じるものでもあったのか。残念だが、人狩りには都合がつかなかったのでね。ばらばらにして有機物にするとしよう』
彼はそう言うと、アゲハにちっぽけなナイフを投げてよこした。魚の骨を削って作ったものだった。
『異国民。こいつを殺せ』
アゲハは呆然として
『殺すんだよ。魚だって捌く前に締めなきゃあならない。嫌なのか?』
彼は目を細めた。
『俺の言いつけに背くのか。いいご身分だな。だが俺は優しいから、選択肢を用意してやろう。こいつを刺し殺すか、それで自殺しろ。肉にするのはお前でも別に構わないんだ』
その声は明らかに面白がっていた。
残酷なからかいがその声音に乗っていた。彼はアゲハが憎いのではない。恐ろしいわけでもない。ただ何の気もなく気紛れでそんなことを言っている。
そう思った瞬間に、突き上げるような怒気が腹の底から沸いてきた。
「敵じゃない」
アゲハは骨のナイフを
傷ぐらい負わせてやる。自分を憎ませてやる。蹴散らすのではなく、憎らしい敵として――
少年は血の混じった何かを吐き散らしながら蹲った。
『無粋なけだものだ』
そして、すうっ、とそれを引いた。
よく研がれた刃は、青年の青白い頸をあっさりと切ってのけた。ひゅうっ、と鋭い音がして、まるで冗談みたいにたくさんの血が溢れ出した。真っ赤な水溜りが砂をしとどに濡らして固めていく。
『手が汚れたじゃないか』
アゲハは砂に額をつけながら、腹の痛みを押さえていた。
青年は死んでいた。さっきまでのあのエメラルドの瞳も輝きを失い、ぴくりとも動かない。ひゅうひゅうと鳴っていた喉笛もいつの間にか静かになり、血の雫も弱々しく垂れているだけだ。
アゲハは心底怯えながら、そしてその怯えを恥ずかしく思いながら、蹲っていた。自分もやがていつか簡単にこうなるのだと、ただの肉と骨の塊になってしまうのだと強く言われた気がした。
『いつまでそうしている気だ』
煙草をくゆらせていた
『ただの屍体くらいで怖気づきやがって。自分もこうなりたいのか?さっさと――』
その
ごろつきは咳き込みながらその指を外そうとした。だが、万力のような力で締め上げる一つ一つが、どんどんと首筋に食い込んでいく。
『痛いかい?』
あの青年が立ち上がっていた。喉笛から赤いものを垂らしながら、しかし生き生きとした動きで。
『僕はすごく痛かったよ。同じ目とはいかないが、せめて少しくらいは僕の気持ちを分かってほしいものだね』
死んでいたはずだ。
アゲハは信じられない思いでそれを見つめていた。目の錯覚だろうか、あるいはもうすでに死んでいて、幻でも見ているのだろうか。
けれど、これは紛うことなき現実なのだ。 死んだはずの青年が朗々と声を張って、大地を踏みしめている。
『――おまえ』
締め上げられながら、
『人間。話せるのか』
『まったく君たちのそれには飽き飽きするぜ。シャーン語くらい話せるさ。合わせてやる必要を感じなかっただけで』
そう宣う青年の腕へ
けれど青年はどこ吹く風だった。
アゲハは気づいた。
喉の傷がない。さっきすっぱりと切られたはずの赤い線がない。
血も止まっている。死んだから止まったのではない。治ったから血が出ないのだ。
「物理現象では僕を殺せない」
腕の傷も、指先も、あっという間に肉が盛り上がり、皮が閉じ、元のとおりに直っていく。
「しかし、それにしてもちっぽけな刃だな。そんなもので僕を殺そうだなんて久しぶりの馬鹿だ。たとえ世界が滅んでも僕は死なないというのに」
青年は息を強く吐き出すと、
「さっきのは良かったよ」
青年はじわじわ逃げようとしている
「刃向かおうとした。蹴り殺されていたかもしれないのに。ただ危険なことをしたからって意味合いじゃあない、君はね、自分の意思に従ったんだ。つまらない現実の危険よりおのれの意思を取った。それは尊ばれるべきだ。生きることのまさに本質だから」
傷が塞がっていく。血が赤い蒸気を上げて消えていく。
「奇跡だ」
アゲハは思わず呟いていた。
奇跡が起きたのだ。そう思わざるを得なかった。ひとりでに傷が治るだなんて、死んだものが蘇るだなんて。
「あんたは、<人間イカリ>だったのか」
アゲハは重々しく言った。
青年はとうとう無様に走り出した
「僕の名前は
◆
◆
■同刻 同イザール 地下
きっともう何百年と太陽など知らないのだろう。重苦しくしめった闇が、泥のようにあたりを覆っていた。吸い込んだら
それを押し退けるように、するどい
「お待ちしておりました」
しわがれた声がこだました。
「
あかりの持ち主、口髭を蓄えた老博士が、拳を合わせて深々と頭を下げる。
「出迎えご苦労、
それへ向かって、大佐と呼ばれた男が、黒い革のコートを羽織りながら目を細めた。
頬骨の陰が濃く揺らいだ。
「冷えるな」
「地下でございますから」
「このような場所では身体に毒だろう」
電燈はか弱く、かすかにあたりの壁を照らし出しているだけだった。堅固で冷たい金属と、雑多に這い回る配管の束を。
「足元もろくに見えないとあってはな。太陽が恋しくなりそうだ」
「僕なら一日で御免ですね。ここはもう海抜より下なのでしょう?」
そばに控えていた若者が言った。
その金髪に、電燈が柔らかく反射している。若者――
「大佐も大佐ですよ、ご自分の目で見ておきたいなどと仰って」
「生憎、私は前時代的な人間でね。この目で見たものしか信用できないたちだ。特に、今回はことがことだからな」
「ええ。こちらです」
老人は矍鑠とした足取りで歩き始めた。
金属の通路は次第に狭くなっていった。錆びついた配管や、ごわついた樹脂で覆われた電源有線も数が減ってゆく。空気の冷たさは、長らく人の立ち入っていない場所だと肌でわかるほどだった。
「つい最近発見されたばかりの区画でして」
博士は言った。
「大気成分に問題はないはずですが、海水が侵入していることもありえますので、どうかご注意の程を。防護服などは?」
「問題ない」
大佐ははっきりと言った。
「彼がいるからな」
「そう言って、あまり頼りにされすぎるのも困りものですけれどね……僕の
年若い中佐は、そう言って徐ろに、左手の甲を見せた。
その手首から甲にかけてには、“螺子”の紋章が刻まれていた。
博士は黙って一礼した。
「この壁が何からできているかすら判らぬのです」
博士は皺だらけの唇を舐めた。
「未知の金属類による複雑な化合物でしょうか。我々の技術は、火も薬品も通じませなんだ。先だって新たに発見されたこの通路も、機能の掌握など夢のまた夢といったところで」
「だからこそ、上は都市船深部への探査を重く見ている。未知で結構、それだけ調べる価値がある……だそうだ」
「それに、あなたからの報告書は読ませていただきましたよ。今回
「まさしく。その意味は貴方もきっとよくご存じのはずだ」
中佐の左手を見、そう言って、それから博士は突然立ち止まった。
巨大な縦穴に突き当たって、途切れた通路がその口を開けているのだった。冷たい風が微かに動いて、三人の顔を撫でた。
「そう、あれが“何”なのか。どのような仕組みか、果たして生命なのか物質なのか。何百年という時間を使っても、人類は未だになお手掛かりすら得られておらんのですよ。判っているのはただ、その偉大さだけ」
老人が壁際の配電盤を操作した途端、強すぎる白色光が縦穴をまばゆく照らし出した。視界がいっときだけ塗り潰され、やがて目が感覚を取り戻す。
そして、彼らはそこにあるものを目の当たりにした。
三人のうち、誰かがその名前を呼んだ。
「……<
To be continued…