■交差都市ユディト・
アゲハは頭が熱くなるのを感じていた。血潮の音さえ聴こえるようだ。唇は嫌に乾いていて、胸は大袈裟に脈打っている。
「《
眼の前では、
アゲハは痛む脚に鞭打って、それをぎりぎりのところで躱した。大振りの攻撃は簡単に見切れるが、難しいのは、臆して引かないことだ。だからたじろぐのではなく、あえて懐に踏み込むことで抗う。
「生意気なんだよ、お前」
途端にあの鳥たちが暴れ出した。風を切る音で哭きながら、紙切れの群れが飛んでくる。ヒイヒイと、まるで本物の海鳥のようだ。
硫黄の奇跡ではない。あの【聖矛】でもない。飛翔する紙人形は、まったく別種の奇跡に基づいているものだ。
「また、別の<人間イカリ>かよ!」
アゲハは血に濡れた脚の滑るのに任せ、わざと体軸を倒した。耳元を鋭い紙片が掠め、横髪が寸断されて落ちる。その反対側から、
アゲハは軸足を刈られて倒れた。その髪を掴んで、
「その素早さには感服するがね」
アゲハの褐色の眼、褪せた写真のような髪、長い睫毛、薄汚れた頚筋、そして古傷によって欠けた耳。それら全てを眺めながら、
「そう、苦悶は漏らさない。命乞いもしない。意地っ張りもそこまで行くと大したものだ。感心すら覚えるよ」
「生命が惜しくはないのか?誇りのために死ぬことになってもか?俺達に頭を垂れて、首環を受け入れれば生きられるかもしれんのに」
「御免、だね」
アゲハは犬歯を剥き出して答えた。
「支配、支配、支配!おれを使うつもりなんだ。見下してるんだろ、ただの道具だって。生憎、おれは絶対に、お前らの奴隷にはならない!」
「それが傲慢だと言うんだ。“不殺”なんて面倒な戒律を背負った人間が、いい奴隷にさえなれると思うか?どこのお偉方も、“戦争兵器としてのお前”を欲しがってるんだぜ」
「お偉方?どこの誰だよ」
まだ皮肉を叫びさえするアゲハに、
「粋がるなよ。この世にはな、それこそ政府以外にもお前の知らない、思いも寄らないような偉い方々がいるんだ。権力や武力だってそうだ。奇跡だよ。王の二つ名を戴くお強い方々、“
だが武器は人を殺すものだ。
「人殺しが出来ないのでは武器失格だな。お前を始末しさえすれば契約は破棄され、神話級もただの石に戻る。皆、兵器としての<天使>が欲しいのさ」
「何が悪い」
アゲハは唸った。
「戦争なんて、やりたい奴等だけでやってればいいんだ」
「果たしてその願いが叶うほど、今のお前は自由かな?」
「王になりたいとか抜かしてたな。お前がか、小僧?お前ごときに、王の二つ名など手に入るものか!神話級だからといって調子に乗るもんじゃないぞ」
「そうやって凄んでも、<
アゲハは言った。
「お前らだって弱いくせに!おれを殺せないくせに!“不殺”はどっちだ、この間抜け!」
「……やはり、嫌いだな、お前は」
「あぁ、解ってたんだよな。そうだ、生命を狙いつつも殺さないように、<
この少年は聡いと、
そして
次の瞬間、紙の鳥の一羽がアゲハの小指の先を切断した。
アゲハは思わず息を吸い込んだ。叫びは出なかった。痛みとは違う、冷たさと熱さの綯い交ぜになったような喪失感が右手を走った。暴れ出しそうになる体を、
「さて、言ったはずだが。嬲り殺すと」
アゲハの右手を地に乱暴に押し付け、
「ガフリートの奇跡を使っても良いんだが、あれは大雑把だからな。これからお前の指を少しずつ輪切りにしていく。右手だけでも……喜べ、あと二十四、五回は猶予があるぞ。手が惜しければ<
アゲハは吹き出す血を掴みながら、掌を
「どうだろうな。お前の戒律は、殺人を禁じるものだ。“己の手で人を殺す”ことの禁なら、致命的であればあるほど悪い」
だから、と
「俺を殺し得る奇跡はもう使えない。この近さでお前の未熟な圧縮操作技術、どう頑張っても俺の頭やら腹やらに当たる。そうなりゃ致命傷で俺ァお陀仏だ。それとも、床でも崩してみるか?だがこの下は分厚い岩盤ブロックが海の上に直接被さってる。心中したいんなら別だが」
「さあ、さっさと選べ!服従を」
ここまでお膳立てしてやったのだ。
アゲハは黙っていた。時間にして一秒足らずの沈黙だった。
粘り気のある水音がして、アゲハの右手が自分からの血溜まりを叩いた。くれてやるとでも言わんばかりに、五指を広げて。
「いいから、手でもなんでも斬り落とせよ、この腰抜け!」
その燃えるような眼を、
「やれ、
鳥が羽ばたき、渦を巻いて飛び上がった。一羽どころか数十羽にもなる群集のひとつひとつが、紙片の刃となって降り注ぐ。目指すは、アゲハの右手そのものだ。
「斬り落とせ!【
その瞬間、蝶番の音がした。
「《
そして、アゲハが掻き消えた。
◆
■協商港
「やぁ、どうも、お兄さん」
眼前でそう言う子供に、アゲハは面食らって立ち尽くした。
そう、立ち尽くしたのだ。さっきまで、押さえつけられて地に伏せていたはずなのに。後ろを見ると、そこにはみどりの絵の具で描かれた扉があって、しかしゆっくりと薄れていくところだった。
眼の前は大通りだった。煤で薄汚れた壁の横を、人が大勢通り過ぎていく。さっきまでの地下通路とは違って、曇り空の光が差していた。話し声、怒鳴り声、足音。雑多な喧騒が耳に滑り込む。
アゲハは目を上げた。頭上に吊られた毒々しい看板が、そう告げていた。
「一緒に来てもらえますか?」
「……誰?」
自分よりかなり歳下の子供相手にしては、かなりぶっきらぼうにアゲハは尋ねた。可愛らしい巻き毛の子供は、仕立てのよい服の襟を引っ張って鎖骨をあらわにした。
そこには、左の鎖骨を跨ぐように、“半開きの扉”のしるしが刻まれていた。
「助太刀です」
「おや、この方が例のお客人ですかな?」
その後ろから、たっぷりの髭を蓄えた老人が顔を出した。ぴったりした黒服に痩躯を包み、足を引きずっている。その顔が、アゲハの有り様を見て驚きに歪んだ。
「手当が必要ですな。それも急ぎでだ。……坊ちゃま、お車の準備が」
「行きましょう。直線距離だとまだ大して離れてないですし。お兄さんの怪我はすぐに処置するべきです」
「質問に答えろよ、あんたらは誰だ」
アゲハは息を荒くしながら言った。右手からは鮮血がとめどなく溢れ、身体中が痛みを通り越して重い。まるで鉛を括りつけられたようだ。
「おれを助けたって?」
「そうですよ。あいつらは
「品性に欠ける連中だ」
老執事は吐き捨てた。
「できるなら関わり合いになりたくなんぞないが。なにせ時間がないのです。急ぎたまえ」
老人は真っ黒で大型の車両の扉を開け、アゲハを促した。
「早うせんか!それとも失血死したいのか?」
「爺や、そんな居丈高な物言いでは信用して頂けるものも頂けませんよ」
子供は丁寧に、しかし有無を言わさず念押しし、アゲハのほうを見た。
「用心深いのは判ります。ですが、“扉”の奇跡で貴方を助けたこと、お解りでしょう。僕は
アゲハは耳を疑った。
「さぁ!」
「……あぁ」
アゲハは一瞬逡巡してから頷き、車に飛び込んだ。
次の瞬間、扉の壁絵が爆発した。
緑の木くずが弾け、石に戻る。その裏にあったのはもう、剥がれた石壁の基礎と焼けた鉄鋼だけだった。
◆
全ては一瞬の出来事だったが、それでも見逃しはしなかった。古びた木造りの表面、塗装の剥げた板切れに紙の鳥たちが重い音を立てて突き刺さったが、それらは板を貫くことなくそこで止まった。
「おい、おい、おい」
「今のは、“扉”の<
「なんで
「
『聴こえているよ』
傍らにいたあの紙の鳥たちの一羽が舞い降りて、ふと人の声を発した。
紙の筒を口に当てたみたいに、震える紙片が振動を伝えていた。それは、紙越しにくぐもった声でだが、しかし明快に言った。
『
「今度は違う。邪魔が入った。あの“扉”の奇跡、間違いない。奴だ、あのいけ好かない高慢ちきだ!
『そのはずはない』
何処か遠くから、紙人形を伝う声は言った。
『標的の少年、“アゲハ”はこの都市に伝手などないはずだ。旧アシタ人の非正規市民が客船に乗れるはずもないんだから……と、俺は思うよ』
「なら土壇場の親切だっていうのか?そんなふざけた水入りがあるか!あと少しで神話級を……」
『そうかな、俺はあまりそう思わないけれど。どうする?俺の奇跡はまだ保つよ?』
「当然追う……いや、少し待て」
「そうだ、少し待つ。それでいい。あのイカれたアシタ人は必ず仕留めるが、すぐにではない」
『俺はどうすればいい、
「探せ。お前の《
「いい気になってるらしいが。だが、
◆
「少々揺れますが」運転席の老執事は活き活きとしていた。「しかしこの【MT/2W】は優秀ですぞ。型は古くても故障知らずで――」そのとき、ひときわ大きな揺れとともになにかが壊れる音がした。「――少なくとも今日までは」
「追手はいないようです」
大通りは平和だった。いつも通り、酔っ払った荒くれ達が道端で殴り合い、店先では店主が勘定を催促して吠えている。蝕む硫黄も、斬り裂く紙人形も、奇跡の姿は影も形もない。
「妙ですね。あの“紙”の契約者がまだ居るはずですが」
アゲハは揉みくちゃになりながら、緩んでいたドアを爪先で引っ張った。
「右手はともかく、左腕は酷い有り様ですよ」
「別に……いいって」
「よくありません。お兄さん、あなただって腕は惜しいでしょう」
「惜しんだほうがよいですな!」運転席の老執事が叫んだ。「艤装ってのは金食い虫だ」
「傷薬はありますけど、あくまで気休めです」
「あの“硫黄”にやられた傷だ。そうでしょうな」
「爺や。昔気質も結構ですが、もう少し優しく運転してくれませんか?」
「速度のほうは?」
「落とさずに」
「はい、坊ちゃま」
「いい、あとは自分でやる」
「しかし……」
礼儀正しく気遣う
「あんた達、正規市民だろ」
アゲハは確信を持っていた。
「
「元、ですよ」
「だから、お高く止まったお偉方だなんて印象は捨ててほしいですね。僕はあくまで、ただの
「坊ちゃま」
「いいえ爺や、いいんですよ。このお兄さんは信用できる」
「僕の
執事は不承不承承服した。
「そうまで仰るのならば」
「……おれが正規市民にしてあげられることなんて、あんまりないと思うんだけど」
アゲハは傷を押さえながら言った。そこは明らかに熱を持ち、膨らみ始めていた。
「元、だと言ったはずです。それに、あなたはなにより得難いものをもう持っているじゃありませんか」
「
「単刀直入に申し上げる。<人間イカリ>としてのお力添えを、どうかお願いしたい。僕の、家族を守るために」
「家族……?」
アゲハは反芻した。
そのとき、車が急停車した。
「……着きましたぞ」
執事は言った。
「お話の続きは屋敷の中でなされては?」
「そうしましょう。爺や、もてなしの準備を。大したものは出せませんが」
そう言って、
「
そこにあったのは、大きな邸宅だった。
古び荒れてこそいるが、それでも屋敷の名に相応しい。門構えは厳しく、垣で区切られた庭には青々とした木々が背を伸ばしていた。本物の、作り物ではない本物の樹木だ!
アゲハは息を呑んで、
だから、気付けなかった。車を仕舞い、電源管に繋ぐ老執事もまた、気付けなかった。
奇跡の込もった紙人形は、張り付いていた車体から剥がれ落ちると、見つからないよう息を潜めて二人の後ろを浮遊していった。
◆
■???
「見つけたよ」
部屋の隅にうずくまった長身の男は、耳に当てた紙の筒を外した。
「
「メンテナンスが必要だな」
「それが追わない理由?」
「気が変わったのさ」
そう言って、彼は立ち上がった。
「お前も聞いてはいただろう。あの小僧はイカれている。狂っているんだ。俺は直にあいつの目を見たんだからな」
手を斬り落とせと叫んだ目をだ。
「拷問も脅迫も意味がない。あいつには意地がある。下らない個人的な信念とやらがある。だから折れない。<
「だから、諦めると?まさか」
「まさか!」
「方針を変えよう。神話級<天使>はやはり欲しい。なんとしてもあいつに<
「策はあるのかい?」
「あぁ。屈しないのなら、屈するための言い訳を作ってやればいい」
「少し待つんだ。長くはかからんさ」
「まずは、やつの
To be continued…