□【契約論】
――天使学者トルバトス(10200?)
◇
■交差都市ユディト
アゲハは目を開けた。
傷は鋭い激痛から、鈍く粘りつくような痛みへと変わっていた。治り切るまではまだかかるだろう。熱で喉が渇く。傷を受けた腕と脚はやはり腫れ上がっていた。
(その指は戻りませんよ)
眠る前に言われた言葉を、アゲハは思い出した。
アゲハは少しだけ短くなった小指を、傷口を覆う布越しに見た。
「……指か」
未熟さの代償としては、安いのだろうか。
窓越しの夜空には、美しいレイラインが横切っていた。
星々の光が撚り合わされたような白銀の線は、月の、そして昼間は太陽の動く軌道に沿って空を走っている。窓から注ぐ冷たい金属質の光を、アゲハは面白がるでもなくただ眺めていた。
アゲハは左手を伸ばした。掌に刻まれた髑髏の
アゲハはその指先に奇跡を灯した。なにを灰化させるでもなく。
そして、月光がその形を変えた。
空気が揺れているのだ。アゲハの吐息、吸気、身動ぎ、扉の隙間から動く夜風。その穏やかな循環が、アゲハの掌の上でだけ歪んでいた。まるで、掌中に珠を握るように。
(そういえば……風は、奇跡で壊せるんだろうか?)
それは既にさんざんやったこと、鉄や石を灰に変えて砕くのとは、また違うように思えた。
形のない風、輪郭を持たない風、そのイメージは、どこか奇跡のそれとも似ている。
(そうだ。破壊や崩壊じゃない。おれの、ハルヴァヤーの奇跡は“葬送”……それって、何なんだろう)
壊すこと、崩すこと、砕くこと。葬ることは、それらとどう違うのだろう。
掌の上で歪む風を見つめ、アゲハはじっと考え込んでいた。考えることはなにより大切だ。アゲハはまだ自分の奇跡についても何一つ解っていない。
(なぜ、<
自分のような人間を。取るに足らない人間を。
けれど、だからといって失いたくはなかった。ただ唯々諾々と流されているだけなら、死人と同じだ。
生命がほしい。己の意志で、世界に存在し続ける力がほしい。それが、身の程知らずの驕り高ぶりだとしても。
もうすぐ夜明けだ。
アゲハは物思いから覚め、顔を上げた。大して眠れなかったのに、頭は冴えていた。身体からは鼻を突く薬と血の匂いがしている。
風に当たろうとして、アゲハは窓に手をかけた。蝶番は軋みながらゆっくりと開いた。
そして、窓から飛び込んできた真っ白ななにかがアゲハの顔を正面から張り飛ばした。
口を開けることすらままならず、瞼や唇が封じられていく。部屋の壁まで吹き飛ばされながら、アゲハは顔に張り付くそれを毟り、必死に目を開けた。
無数の紙人形が窓から飛び込み、アゲハを絡め捕らえていた。
ぶんぶんと虫の唸る音を百倍にしたようなものが轟いている。それらは次第に数を増し、また圧力を増していた。
(奇跡か!)
アゲハは知っていた。これは“硫黄”と連んでいた誰かの奇跡、“紙”の天使と契約した<人間イカリ>だ。
(襲撃?でも、なんで今になって!)
◆
■
「何事ですか」
賊にしては奇妙な音だった。ぶんぶんと低く唸るようなものが寄せては返し、家を取り囲んでいる。
老執事はもう起きていた。不寝番でもしていたのかもしれない。服装はいつも通りで、しかしその顔は酷く厳しいものだった。
そして鍵が嫌な音を立てて弾け飛び、扉が蹴破られた。
「朝早くに失礼」
ぞろぞろと、黒服の男たちが踏み込んでくる。泥塗れの靴が敷物を踏みつけた。決して安物ではないというのに。
「まったくだ」
老執事は後ろ手に自らの主を制し、
「何用だ。うぬらのような下臈がこの屋敷の床を容易く踏めると思うてか」
「用件はおわかりのはず」
あの蜥蜴のような男が、ギョロ目を瞬く。
「この屋敷と土地を、財産をお売りください。対価の用意はある」
「……だそうですが」
執事は
「いかがなさいますか?」
「千金を積まれても手放さない、と」
「だ、そうだ。やはり失せ給え。貴様らの下劣なカネで、価値のあるものが何一つ買えるなどと思うな」
「仕方ありませんな。しかしねぇ、うちの下働きどもは血の気が多くてねぇ」
男の言葉に、一行はぞろぞろと歩を進め始めた。
「“失せろ”などと言われては、いやはや、気分を害する余り、些か向こう見ずな行いに走るやもしれませんなぁ。まったく嘆かわしい」
そして、男達は変形し始めた。
肌が膨らみ、歪んでいく。髪が逆立ちながら伸び、身の内で骨と肉が作り変わっていく音がしていた。見るからに異常な有り様だった。
「お下がりください、奥へ、お早く」
眼の前では、もはや人間を辞めた男たちが涎を垂らし、牙を向いていた。一握りで老人の枯れた腕など折ってしまえそうだ。怪物たちは無造作に間合いを詰め、老人の貧相な体つきを見て笑い合っていた。毛むくじゃらで、動物的だった。
「
男達は手に持っていたものを捨てた。その丸い筒は機械に挿し込む電力ドライブにも似ていたが、先端には刺針が付いていて、中の液体を注入できるようになっていた。
「【獣化薬】……ハザードドラッグか」
拍子抜けしたように言うと、執事はステッキを床に勢いよく突いた。その持ち手がきらりと鈍く光り、老人は力ある言葉を唱える。
「《
そのとき、狼藉者たちの歩みが引っ張られたように止まった。
今にも飛びかかろうとして地を踏んだまま、その足の裏が床に張り付けられていた。とんでもない接着剤を踏んだみたいに。けれど、それを成したのは接着剤なんかよりもっと奇跡的なものだ。
「第二級異物【聖棹カスティガートル】」
老人はステッキを撫でた。
「さて、諸君、全員私がよいと言うまで動くことを禁ずる」
『爺め、聖異物使イか』
顔面がめくれ上がったようなひとりが、牙を鳴らして呟いた。
執事は眉を上げた。
「<天使>だけが力ではあるまい」
『ほざケ、老い耄レが!』
毛むくじゃらが腰から長いものを引き抜き、老執事に構える。引き金が動き、運動エネルギーが射出される。だが、その一瞬に先んじて、執事は左手を掲げた。
「《
言葉とともに、その指に嵌められた指環から、黒い光が飛び出した。それは固くどろどろしたタールのように変わって銃口を押し包み、行き場をなくした衝撃波は銃身を破壊して男の指と手のひらをも吹っ飛ばした。
「銃なんぞ持っているとは。獣じみたさまには似合わんな。軍から盗んだのか?貴様らマフィアごときでは開発どころか、メンテナンスさえできるまい、不勉強だったな。銃口を塞げば、定義された軌跡を遮断された運動はよそへ向かう」
手を失って泣きわめく怪物を冷たく見やり、老執事は吐き捨てた。
「身の丈に合わぬ武器など使うからだ」
『【聖棹】に【聖環】。
指環を見つめながら、一番前で飛びかかる寸前のまま足を貼り付けられた哀れな獣が呟いた。イヌとネコを混ぜたような、よくわからない肉食獣のような。
『流石は物持ちダ。市民権ヲ買うカネは無いと言うのニ』
「口は閉じておれ」
次の瞬間、執事の裏拳がその顎を打ち、意識を刈り取った。哀れなマフィアは獣に変じたまま、また足裏だけをそのままに膝を折って仰向けに崩れ落ちた。後頭部から嫌な音がした。
「急に勢いづいたものだ。貴様ら
老人は蔑みを込めて言った。
「それほどに、
「ええ、ええ、家もほしい、土地もほしい。なによりあのお宝もほしい。しかしながら、もう一つばかり欲しいものがありましてな」
足の裏を張付けられながら、蜥蜴のような男はぶつぶつと慇懃に言った。周りで立ち尽くす配下のことなど、目に入らないとでもいうふうに。
「旦那、ご存じないのですか?」
「何をだ」
「お客人のことですよ。いえ、惚けないで頂けますか、ここにいることは確かなはずだ……ふむ」
男は笑みさえ浮かべていた。
「そうですねえ、我らも業突張りだが、取引は好きですよ。事によると、お宅との御縁をどうにかほかで精算できるやもしれませんな」
「何が言いたい。勿体ぶるでないぞ」
猛禽のような眼で睨みつける老執事に、男はにやにやと言った。
「我々はこれでも
「何が言いたいと訊いている!」
老人は猛獣のように吠えた。それにも臆すことなく、文字通りの猛獣を従える彼は、静かに唇を捲り上げた。
「二億ゼータ。あれは、政府から懸賞金を掛けられているのですよ」
◆
「今までこんなことはなかったのに」
「正規市民の住まう家に不法侵入するなんて、どう考えてもやりすぎです。なんでそんな事ができる?」
嫌な予感がした。
こんな強硬手段は初めてだ。あいつらにできるのは屋敷の周りを怪しげに彷徨いてみせるくらいが関の山だったのに。
(とにかく、状況を把握しないと。お兄さんともすぐに合流して……)
そのとき、
屋敷の壁が歪んでいた。粘つく煙が立ち上り、しゅうしゅうと音を立てて溶け落ちていく。刺激臭が鼻を刺す。黄色い線が垂直に引かれ、次は横に、最後にまた地面へと降りていき、切り取られた壁を足が蹴り倒した。
「邪魔するぜ、お坊ちゃんよ」
「面と向かって会うのは久しいか?元気そうだな、すぐに元気じゃなくしてやるが」
足元で硫黄に変わっていく壁の残骸を踏みつけ、
「用件はふたつだ。ページを寄越せ。神話級の小僧もだ」
「断る。立ち去りなさい」
「貴方がたにはなにひとつ、なにひとつ正当性なんかありはしない。
「勇敢な台詞だ。勇敢なやつは早死するぞ。お前もそうなりたいのか?」
「《
そして、
硝子越しに見た窓の外みたいに、なにかが光を隔てていた。
丸い結界が、
「まぁ、妥当だが……結界の【聖環】か。だが、
指環型、それも結界系は、聖異物として最もありふれた下級のものだ。
「力尽きるまでそこで引きこもる気か?誰かが助けてくれると?」
「お忘れですか?」
「僕の《
次の瞬間、
扉の奇跡は、ただの描かれた絵を不思議な扉へと変える。簡素な線が浮き上がって木製の古びたアンティークに具現化されるのを、
ふと、その扉の向かう先を振り向いてみる。ガフリートの奇跡で斬り裂いてきた屋敷の穴越しに、積み重なった都市構造体の山が見えた。
「
「ダルトの奇跡はご存知でしたね」
ダルトは力天使だ。扉はその先の直線上にしか“出口”を作れない。方角くらいは定められるが、細かくどこに出るか、こんな使い方では
しかも一回ごとに奇跡を酷く消耗する。力の半分ほどが削り取られ、ごっそりと指先から出ていくのを感じ、
「開け、ダルト!」
「……それで?」
軋むような、低く這いずるような音が鳴って、その手と扉とを隔てている。柔らかいぶよぶよした皮に触れているような感触だった。
扉に近づくほど、指先が遅くなっているのだ。
「《
その手には、鳥籠を象った小さなペンダントのようなものが吊り下がっている。
空から金属のフレームが生まれ、球形の結界を取り囲んでいく。その檻に、ひん曲がった時計の意匠があるのを
「苦労したんだ。これを持ち出すのを承服させるのにはな」
「結界で時間を稼いで“扉”を開き、態勢を立て直す。結構な策だな、惜しむらくは俺達にそんなチンケな聖異物じゃあ及びもしなかったってことだが」
「これは……硫黄の奇跡じゃない」
「ご明察。【聖籠セラ】、
その言葉に、
よくある第二級までのものとはわけが違う。聖異物は第一級以上で大きくその力を変じさせる。より複雑に、より高度に、そしてより強力に。
「逃走は許さん。お前だって指環で自分を護ったんだ、それに倣ってやるよ。そこで籠に入ってろ」
「こんなものまで手に入れていたとは、驚きですね」
「港湾マフィアがそれほどのものを所有していたとは」
「苦労はした。金庫番をぶちのめして持ってきたんだからな。だが、力の強さは折り紙付きだ。この屋敷すべてがすでに効果領域内、籠の中も同然。お前のようにそこから“逃げようとした”やつには第二段階の拘束が下される」
「ちなみに、破壊は不可能だぞ。この籠は、“時間”だ。時間の凍結だ。
第一級なら、そのくらいの芸当はできる。
「
その後ろで、紙人形が震えて声を発する。
『しめて153万ゼータ』
「そりゃ大変だ、頑張って稼いで元を取らねえとな」
「《
そう呟いて、彼は壁をなぞった。黄色い線が煙を吹いて壁を焼き切っていく。
「まさか、貴様……」
「だからな、目当てのものはなんとしても頂くぜ」
その暗い部屋の隅では、いつも通りあの沈黙病の少女がぼうっと立ち尽くしていた。
「姉さま!」
叫ぶ
「さて、解りやすくしようか。こいつを無事生かしたままにしてほしいなら、俺達に従え。負けを認めろ。一切合切を差し出すんだよ、ほら、早くしろ」
「貴様ら……姉さまに指一本でも触れてみろ、僕が、僕が!」
「お前がどうするっていうんだよ、文句でもつけようってのか。あ?籠の中で、ろくな奇跡も持ち合わせてないお前に、何か意味のあることができるっていうのかよ」
言うなり、
「そぉら、考える時間は与えんぞ!」
重たげな金属の塊が、風を切って迫る。
「《
「奇跡の展開位置をずらすとは、それなりに使いこなしてるじゃあないか。だがどうも余力は少ないみたいだなぁ、その指環」
「姉さまに手を出したら……軍が黙ってないぞ」
「正規市民。あぁ、そうだな。お偉い正規市民だったんだものなぁ。え?」
だが、ならず者
「確かに、港湾マフィアの青瓢箪どもお得意の賄賂にだって限界はあるだろうな。市民権を持つ人間が害されたならユディトの軍も動くだろう。あぁ、そうだとも。だから、今までは大人しくしていたさ」
「お前、気づかなかったのか?政府が懸賞金を掛けた人間を匿ったんだ。そりゃあ……罪深いよなぁ」
「お前の姉貴の市民権は、今朝方剥奪されたんだよ!残念ながら、お前らもこれで完全に俺達と同じ。そう、
「馬鹿な、だって、監査も、証拠も……通告も、だいたい次の査定までまだあと半期は残って……」
市民権の剥奪だなんて、簡単にできるはずがない。ややこしい手続きと通達と、山程の処理が必要なはずなのに。
「そうだな、うん。それで?」
「口実を与えるべきじゃなかったな。どっちみち時間の問題ではあったが。お前が派手にやってくれたおかげで段取りを繰り上げられた」
「手を回したのですか」
「そこまで腐っていたのか……!」
「腐る?ご挨拶だな、これは純粋なビジネスの話だよ。親切にしてもらったから礼をするんだ。法律にへいこらしなきゃあ腐ってるのか?流石の高慢さだ」
「勘違いしていたんだよ、お前は」
「こうして向かい合って、殺し合いをしたら勝つのはどっちだ?一切合切がそうさ。塀で、屋敷で、カネで、知恵で、法律で、道徳で。それに隠れた気になってたのか?違うね、結局はここに集約されるんだ。面と向かっての勝ち負けに集約されるんだよ」
「策を弄して、知恵を使えば、暴力に劣っていても渡り合えると思っていたんだろう?違うな、敗北はいつだって己の内からやってくる……墓穴を掘ったなぁ、小僧。さて、出してもらおうか。
「僕を、殺す気ですか?」
「おいおいおい、まさか、まさか抵抗してみるだとかそういう頭の悪いことを考えてやしまいね。無理だろう?お前は“扉”で、逸話級だ。非戦闘型の最低級が、俺たちに敵うと思うか?お前だってそれを理解しているから、そんなつまらないものを持ってたんだろう?」
(考えろ……)
(考えろ……!)
けれど答えは出なかった。堂々巡りをしているだけだ。
それでも、考えを止めることだけはできない。
(なにか、なにかあるはずだ!あの神話級の彼を……いや、市民権を……いっそブラフに……)
「まだ……」
そして、
“愚鈍”の戒律は、すでに許容量を超えていた。頭脳を使いすぎたのだ。
やがて、
扉の開く音がして、その手がなにかを掴み出した。古びた紙だ。何世紀もの時を経た紙は、今にも崩れて埃になってしまいそうだった。
「ほぅ、それがか」
赤茶けた紙に
「かの【偽リベリウス記】、その断片か!」
それは知識の塊だ。二千年の昔から継がれてきた。
知識は力になる。それは広められなくてはならない。
だが、
掌の内側で、憎しみの熱を感じさせる荒々しさで、万力の如く力を込めてその紙切れをすり潰しながら、
「
「何を言っている」
「くれてやりますよ、欲しいものは、すべて」
「……“我、此処に唯一の至宝を捧ぐ”」
To be continued…