<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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第十三話 手

 □【偽リベリウス記】新ヤペテ写本

 

 なにかを得るためには、なにかを捨てなくてはならない。

 

 ――第32章第6節より

 

 ◇

 

 圧縮の本質のひとつは……あくまでもひとつはだが、棄却にある。狭めることによって強め、余分を捨てる。矮小なヒトの器では、何もかもを得ることはできないからだ。それはなかば常識だった。

 

 なぜ思いつかなかったのだろう。

 もっと大胆に、もっとあからさまに。いっそ、はじめから持っていたものさえも捨てたなら、一体、何が起こるのかということを。

 

 ◆

 

 ■ユディト・郊外 帆都(ヴェルヴェット)

 

 紙吹雪はアゲハを覆っていた。一枚一枚は紙のひとひら、薄く軽いものだったとしても、それが積み重なれば毛布のように人を縛る。

「《葬送(ハルヴァヤー)》!」

 顔すら塞がれ、息を詰まらせながらアゲハは叫んだ。呼んだ名に従って、定めた奇跡の力の型が半ば自ずと発現する。右手から灰化の奇跡が膨れ上がり、紙切れたちとぶつかってつんざくような音を立てた。

「失せろ!」

 アゲハは紙人形たちに向かって腕を振りかざし、吠えた。薄っぺらな紙だというのに、それはなぜか灰に変わることもなく、しかしハルヴァヤーの奇跡に拒絶されて吹き飛んでいく。奇跡が触れ合うたびに、金属片が削り取られるような、女の叫び声のような黄色い音が耳朶を突き刺した。

「紙の……紙人形を遠隔操作する主天使(ドミニヨン)系統か」

 砕可(サイカ)から聞いた主天使のことを思い出しながら、アゲハは呟いてみた。紙人形たちは特段の反応を返すこともなく、ただざわめいている。

  

 部屋のなかはひどい有り様だった。紙が貼り付いて、すべてに覆いかぶさっている。アゲハを閉じ込める気なのだろうか。

 アゲハは右腕を背後にあった扉に向け、構えた。今度は本気だ。紙人形ごと、消し飛ぶ扉をはっきりとイメージする。

 奇跡が炸裂した。

 扉は灰化こそしなかったが、灰の粒を撒き散らしながら一瞬耐え、とうとうひしゃげて割れた。それを覆っていた紙が舞い、漏れ出した奇跡が廊下をも削り取りながら屋敷を突き破る。

 アゲハは扉を踏んで壁の外に転がり出た。とにかく、場所を移さなくては。

 

「《鎖せ(クラウデ)》」

 そして、その全身を金属の籠が取り囲んだ。

 下草の隙間から金属が伸び、あっという間に頭上で結び合わさってしまう。アゲハは舌打ちしながらそれを蹴りつけたが、籠はびくともしなかった。

 その鈍い輝きに、なんとなく違和感がある。実物じゃない。まっとうな物質じゃない感じがする。

「奇跡か」

「そうさ、第一級異物(プライマリ)だ」

 そして、その籠の上に長身の男が降り立った。後ろ頭を殴られたような衝撃に、アゲハは顔をしかめた。

「やぁ、君が神話級か。意外と小さいんだな、もっと粗野なやつかと思ってたよ。俺は、(ニア)だ」

「お前が“紙”の……!」

「あぁ、察しが良いね。悪くないよ。話がしやすいからね」

 アゲハは話をする気なんかなかった。金属製の檻越しにとはいえ、頭を踏みつけにされる趣味はない。

 右手に奇跡を圧縮し、解放する。

「《葬送(ハルヴァヤー)》!」

「無駄だけどね」

 けれど、破壊する奇跡は遮断されていた。触れるものを分解するハルヴァヤーが、金属の籠は壊せなかったのだ。

「さっきの紙と同じ……」

「ん?あぁ、《紙人形(ニヤロト)》か。違うよ。この籠は第一級だからね、単なる拘束とは違うってだけだよ」

 (ニア)は足元の少年を覗き込み、割けるように笑った。

力天使(デュナミス)系統だろう?なにか、奇跡を予め外に出してあればともかくねえ。中から、一からじゃあその籠は絶対に超えられない」

 力天使(デュナミス)、に侮蔑的な響きを込めて、(ニア)は言った。

「これは“時間”の籠。時間的な絶縁なんだ。ものを壊すのとはわけが違う。この籠は物質らしく具現化されていても物性とは別のところにある。君が俺の《紙人形》を壊せなかったのとはまた別の……」

 アゲハはそれを無視して見せるようにまた奇跡を撃った。それは籠の表面で滑るように消え、解けて消えた。

「効かないったらさぁ」

 (ニア)は物知らずを馬鹿にするために鼻を鳴らしたが、同時に興味深げな眼差しを向けもした。

「だが、そんなレベルの<人間イカリ>でも、術が洗練されつつあるのは面白い。力への名付け、発射点の限定、放つ前に少しだけ溜めて解き放つその仕草も。無意識かな?既に基本的な圧縮術や、引き金(トリガー)の萌芽は出来ているようだ」

 へらへらと、男は身をくねらせて笑む。だが、その目は酷く冷たい。

 

「やはり、早めに始末するべきかな」

「抵抗しないとでも?」

「できるとでも?最弱種の力天使(デュナミス)系統ごときが!君らは所詮インファイターだ、切り離してやれば羽根をもがれた鳥、鰭のない魚!……おっと、蟻洞(ギリアード)には内緒だぜ」

 (ニア)は両手を仰々しく振り上げた。その背後では、無数の紙人形が渦巻き、魚群のように天へと昇っては地へ降りるのを繰り返す。

「俺の伝説級。主天使系統。【紙片奇跡 ニヤロト】は君をいとも容易く仕留める」

 だが、と(ニア)は気炎を収めた。

「今は屋敷の封鎖が大事だ。聖異物だけじゃあ心許ないからね。一緒にしばらく見物しようか。君のお友達が、君のせいで踏み躙られるとこを」

「おれの、せい?」

 アゲハは馬鹿みたいに、言葉を繰り返した。(ニア)はそれを喜ぶように舌を舐めずった。

 

「君のせいだよ」

 そう言うと、(ニア)は両手の間に連ねた紙の短冊を重ね、広げて見せた。それらがゆらゆらと震え、紙越しにくぐもった音を伝える。

『姉さま!』

『……彼を引き渡せば我々を見逃すと?』

『政府が懸賞金を掛けた人間を匿ったんだ』

『あれを売るのならね』

『俺達と同じドブネズミだ!』

 

「お前のせいさ。お前のせいで、関わった人間はみんな不幸になったんだ。お前が生きていることそのものが罪だ」

「そうまでして……<天使>が欲しいのかよ」

 言いたいことは見通していると精一杯主張するつもりで、アゲハは言った。だが、(ニア)は特段狼狽えもしなかった。

「さぁね?確かに、<天使>を差し出せば俺達も止まるかもねぇ」

 (ニア)は乾いた声で言った。

「でもさぁ、俺達って元々あの……知ってるんだっけ、【偽リベリウス記】の断片が欲しいんだよ。元々からそうなの。それを覆すのにはさぁ、相応の態度ってものがあるよね。そうやって、何を気取っているんだ?」

 (ニア)は己の滑らかな前髪をくるくると弄んだ。

 

「自惚れるなよ神話級。お前如きが一丁前に交渉なぞできると思ったのかい?できるのは、俺達のご機嫌を取ることだけさ。みんな無事だといいなぁってただ願うことだけさ」

 (ニア)は凄んだ。人を暴力で動かすことに慣れ親しんだ者の振る舞いだった。

「這いつくばれ。足を舐めろ」

 なおも気丈になにか言おうとするアゲハを、意味のない罵倒で牽制しながら、(ニア)蟻洞(ギリアード)の言ったことを思い出していた。

 蟻洞(ギリアード)がここにいないのは、彼が既にアゲハの敵だからだ。人は人を選んで動く。下手にアゲハの意地を刺激するつもりはない。欲しいのは<天使>だ。

 

 (ニア)は……より正確には蟻洞(ギリアード)の思いつきだが、二人はアゲハに<天使(マラーク)>を呼び出させるつもりだった。それは、<人間イカリ>本人にしか出来ないのだから。

 今、アゲハはそれを見越したうえで堪えている。<天使>本体を呼んでしまえば、あとはどうとでもされることを分かっている。

 その損得勘定に帆都(ヴェルヴェット)の者たちを、他人を絡め、更にそんな足し引きが頭から吹っ飛ぶほど追い詰める。そうすれば、きっと<天使(マラーク)>を呼び出だす。

 

 リスクはある。

 <天使(マラーク)>は弱点であると同時に力の本体だ。ひょっとすると、()()だからこそ()()なのかもしれない。弱みを晒すことや、敗れる可能性を背負うこと、それは一種の公正さとしてより大きな力に通じている。

 “同化”すれば奇跡の出力は跳ね上がる。肉体もまた、ヒトのそれとは違う超常のものになる。

 けれど、ふたりには十分な策があった。

(同化はできない。力天使系統にはこの籠は絶対に突破できない。はじめからあった繋がり……契約の繋がりや、主天使系統のような遠隔操作を予め放っていればまだしも。絶縁だ。単なるエネルギーの多寡ではこの檻は破れない、どれほどの“時間”を費やしても)

 

 それに、この計略はアゲハを精神的に追い詰めることが前提だった。意思が敗北していれば既に打ち負かしたも同然だ。

(奇跡は<人間イカリ>の意思そのもの。折れた意思、屈辱の精神ではどんな強大な奇跡も無意味!)

 

 そのためには、もう少し心を踏み荒らしておきたい。

 そうだ、と思い出したように(ニア)は尋ねた。

「お前、アシタ人なんだって?」

 だからどうした、とでも言いたげなアゲハの顔を、ここぞとばかりに覗き込む。

「可哀想になぁ。あれは後にも先にも最悪の戦争だった。アシタ人は殆ど根絶やしになったんだから。お仲間の後を追い損ねたってわけだ」

「何が言いたい」

「解らない?お前」

 (ニア)は鳥のように首を傾げた。

「故郷も無い、家族もいない。お前を必要とする人々はいない。お前は永遠に孤独で、無価値だ。誰ひとり、お前を望まない。生きていてほしいだなんて思っちゃいないんだ」

 アゲハは顔を歪めた。

「……違う」

「違わない」

「違う!」

 

 必死にそう断じるアゲハの顔が蒼白になるのを見ながら、(ニア)は成功を確信した。あと少しだ。このあたりに、心の罅が入っている。

(そら、絶望しろ!自棄になれ!希望など棄てろ!)

 頭の中で言葉を慎重に選びながら、(ニア)は続けた。世間知らずの未熟な子供の心を巧く抉れるように、心を込めて。

「お前なんか、死んだほうが世の中のためなんだよ。皆がそう願ってる。お前の死体が、他人を喜ばせるんだ」

「違う、おれは……おれだって、生きたいんだ!」

 アゲハは些か支離滅裂に云った。(ニア)は哄笑のように叫んだ。

「違わないさ!見渡せよ、考えてみろ!そう思っているのは……お前の幸せなんか祈ってる馬鹿は誰だ?そんなのは、どこを見たってお前ひとりだけじゃないか!」

 

 そこから数秒ほど、どちらも口を開かなかった。

「……ハルヴァヤー」

 雷でも落ちたように、晴れ渡る空が強く光った。

 

 ◆

 

(ついに呼びやがった!馬鹿が!)

 空に光の環が現れたのを仰ぎ、(ニア)は心中で喝采した。

 か細い白色光が宙を引き裂き、波打って広がり、どこか暗い場所へ通じるその内側から巨大なものが降りてくる。押し退けられた風がゆっくりと動いていく。

(人間なんて脆いものだ。人が生きるためには、驚くほど多くのものが要る。心に多くのものがある!へし折ってやった、こいつの、“意思”を!)

 さて、首尾よく<天使(マラーク)>を喚ばせたわけだが、【聖籠】が間を隔てている以上、戦力としては無意味なままだ。その第一級異物の展開時間もまだ残っている。あとはアゲハを始末するなり、なんとでもなる。

 

「あれ?」

 そのとき、アゲハを囲む【聖籠】が震えたのを、(ニア)は怪訝そうに見つめた。引きずることすらできないはずだと聞いていたのに。

 突然、首にかけたペンダントが触れられないほど熱くなった。籠を象ったそれを、(ニア)は息を呑んで掻きむしった。

 そして、アゲハを捕らえていた檻が灰の粒を落としながらひび割れ、崩れて真っ二つになった。裂け目からアゲハが灰まみれの手を伸ばし、そしてその指が光の塵になって舞い上がっていく。

 

「同化しているのか」

 眼の前でリソースに変わっていく少年を、融合する<天使(マラーク)>とヒトを見つめながら、(ニア)は立ち尽くした。

「あり得ない、なぜ!なぜ、これが壊せる?第一級の、時間停止の聖異物だぞ!起動するためだけに昨日からどれほどのエネルギーを注いだと思ってる!」

 

 朝の海のように明るく透き通る燐光が、眼窩に灯る。ハルヴァヤーは背を曲げ、首を傾げ、(ニア)を見下ろした。そこにあった、憎しみや嫌悪よりももっと無味乾燥で冷たい敵意が、(ニア)の全身を震わせた。足元では、灰の山が吹き散らされて消えていくところだった。

 

「《紙人形》……“鳥”」

 (ニア)は側を漂っていた一枚の紙を乱暴に掴み取ると、飛び退りながら強く息を吹きかけ、それに乗せて離した。引かれた引き金(トリガー)に従って奇跡が発動し、紙の群れにさざ波が走る。

 紙人形達がうねり、寄せ集まって一条の筋へと変わり、そして地上へと注いで塊を作る。紙が交差しながら、輪郭を伸ばしていく。

 そうして、大きな鳥の形を真似た人形が翼を広げたその背に、(ニア)は飛び乗った。

「飛べ!」

 言葉に従って、紙人形が舞い上がる。小さな余剰の紙切れたちが、航跡を辿るように後を追って飛び、はためいた。

 一秒ほどの後、さっきまで(ニア)がいた場所に、ハルヴァヤーが巨大な拳を突き降ろした。

 

 腹を揺らす轟音が響いた。ハルヴァヤーが屋敷の端を踏みながら立ち上がり、(ニア)を追って首だけを回す。その周りでは、触れたものが次第に灰へと変わり始めていた。

「やはり同化状態では圧縮も甘いか」

 鳥の背の(ニア)は、唸る風に耳を塞がれぬよう、顔を背けて呟いた。

 奇跡は使わないことのほうも難しいものだ。それは力を使うこと、強めることと表裏一体の行いだから。 

「出力でのごり押しか、やつの奇跡か、企みは狂ったけど。それでも、まだ大丈夫だ。ただ素の奇跡を垂れ流すだけのデカブツなら、いくらでも手球に取れる」

 精々奇跡を無駄遣いしたところをもう一度囚えてやる、と(ニア)は首に掛けた【聖籠】の片割れを握った。

 ハルヴァヤーが右腕を力任せに振り抜く。風を吹き飛ばす音がして、紙人形の群れを裂きながら迫るそれを(ニア)を乗せた鳥はさらに舞い上がることで躱した。

 

 飛び交う紙切れは震えていた。ハルヴァヤーに近づくたびに甲高い嫌な音が鳴る。紙を強め操る奇跡と、それを破壊しようとする奇跡のふたつが矛盾し、せめぎ合っている音だ。

「紙ども、従え!主人は俺だ!《紙刃の空域(ニヤロト・エゾール)》!」

 (ニア)は叫び、胸と肺腑を膨らませると、埃を飛ばすときのように鋭い息を吹いた。

 途端に紙切れが荒れ狂った。螺旋を描いて、ハルヴァヤーの頭めがけて飛んでいく。相手が<天使(マラーク)>の肉体とはいえ、ただで済むはずがない。

「斬り裂け」

 ハルヴァヤーの纏う灰化の奇跡に、花びらのような紙切れが突き刺さった。体表すれすれで震えながら、少しずつ間合いを詰めていく。

 屋敷を覆っていた紙は力を失ってくたりと落ちていた。注がれる奇跡が減じたからだ。その分だけ、ハルヴァヤーを襲う紙の鋭さも増している。

 

 だがそのとき、ハルヴァヤーの《円環》がカッと光を強めた。走り出したように速さを大きくし、その眼光が燃え上がる。

 次の瞬間、灰化の奇跡を食い破ろうとしていた紙が残らず弾け飛んだ。剣で鎧を叩いたような響きが高鳴って、その紙切れたちがとうとう端から灰に変わっていく。崩れて消えていく。

 

「なんて野蛮な」

 (ニア)は空中で吐き捨てた。

「力業で押し勝つだなんて。俺の紙なのに、そこから、人の奇跡を追い出したりしてさぁ!」

 (ニア)は休ませていた紙に再び奇跡を注ぎながら、不満げに言った。力を使うと眠気で苛々する。(ニア)の戒律は、力の代償に睡眠を求めるからだ。“安眠”の戒律とでも呼ぼうか。

 そう、<人間イカリ>は誰しも自分だけの戒律を持っている。

「……知ってるよ、“不殺”の戒律は」

 眼下に見える。薬で獣化した賊のひとりが、ハルヴァヤーに踏み潰された屋敷の跡から這い出し、怪訝そうな顔で己を確かめていた。間違いなく圧死したと思ったのだろうに、骨の一本さえ折れてはいない。

(戒律は絶対だ。やつの一挙手一投足すべてが“不殺”。世界の法則さえ部分的に捻じ曲げる個人的な法なんだ。なにをされようが、やつの手では絶対に死ぬことはない)

「悲しいよね。もう誰も、お前を一人前の人間としては見ない。割の良い獲物としてしか見ない」

 (ニア)はまったく悲しげなどではない顔で宣わった。

「静かだなぁ!我を失ったか?」

 ハルヴァヤーは沈黙していた。その巨躯を、囀る紙切れたちが取り囲んでいる。大枚をはたいて掻き集めた紙はまだ沢山ある。

「使わせ続ければ、あんなに重くて無駄の多い奇跡、同化だって長く持つはずは……」

 

 (ニア)はしかし、口を噤んだ。

 その双腕を、ハルヴァヤーはゆっくりと重たげに持ち上げた。右腕は真っ直ぐに伸ばしたまま、その上に、弦を引き絞るように左手を這わせる。

 奇跡が渦巻き出した。不可視のエネルギーがちかちかと瞬きながら集まり、指先で揺らめいた。まるで、蠟燭の火のその輪郭だけに白く色を塗ったようなさまだった。

 それは四つに分かれ、腕を中心にぴんと張った。大弓を互い違いに重ね、無理やり番えているように。

「遠距離で……!?」

 

『《葬送(ハルヴァヤー)》』

 解き放たれたそれは、螺旋を描いて空を貫いた。

 (ニア)には躱すことさえできなかった。命ずるよりも遥かに素早く、待機させていた紙の三分の一が即座に灰になって消し飛ぶ。大鳥を象った紙人形もまた、右の翼をえぐり取られてぐらりと傾いた。

 

 背後では、地よりやや上に向けて放たれたその《葬送(ハルヴァヤー)》が、都市を飛び越えて空を衝いていた。気流が膨らみ、瞬きひとつの間に雲が生まれて雨を吐き出してから、ちぎれて消えていく。

「なんだ?なんだよこれ。なんだよこれは!」

 明らかにもう一歩進んだ奇跡の発現に、(ニア)は悲鳴を上げながら自分の右腕を見下ろした。

 射られた奇跡の端に触れたのだ。皮膚はたるみ、染みと皺が増え、青い血管が怒張してから急激に萎んでいく。爪が樹木のように枝分かれして太陽を目指し、力尽きて根本から落ちた。黒っぽい毛がよじれながら伸び、毛穴から這い出して、風に乗って蛇のように飛んでいく。肉がどくどくと脈打ち、どす黒い血を吐き出した。

 

 そして、すべてが突然終わった。怒濤のようにやって来た変異は一秒足らずで静止し、真っ白な灰になって崩れ落ちていく。(ニア)は呆然と、肩から無くなった己の腕を眺めていた。

 

「腕が……俺の腕が!そんな!」

 戒律は、<人間イカリ>の行動に付き纏う絶対の法だ。だから、アゲハが何をしようとその結果で人が死ぬことはない。

 絶対に、死ぬことはない。ただし、無害であるはずもない。  

 

(神話級、そうだ。ただ物質を破壊したり分解したりが神話級で済む筈がなかった。相手は青の第四位だぞ。もっと乱暴で、好き放題で、信じられないような奇跡であってもいいはずなんだ)

 <天使(マラーク)>の持つ奇跡は位階が上がるほどその質を増す。ものを破壊するだなんて、なんて現実的でつまらない、誰にでもできる行いなのだろう。

「葬送!凍結させた時間さえ破壊する奇跡!万物に等しく下される滅び!」

 (ニア)は脳裏に浮かぶものに任せて口走った。

「お前の、“葬送”の正体は……」

 

 ハルヴァヤーは……アゲハは答えなかった。透明に燃え上がる葬りの奇跡を灯しながら、<天使(マラーク)>は地から浮き上がり、赤ん坊のするように、紙の鳥へとゆっくり指を伸ばした。

蟻洞(ギリアード)

 (ニア)は引き裂かれるような声音を上げた。紙を伝わって届くはずだ。

「どうしたらいい?」

 わけが分からなかった。痛みさえもなく、ただどうしようもない喪失感だけが右腕のあったところから響いていた。

 

蟻洞(ギリアード)!ねぇ蟻洞(ギリアード)!返事をしてよ、助けてよ、俺を助けてよ!蟻洞(ギリアード)!」

 応えはなかった。

 

 ◆

 

「“我、此処に唯一の至宝を捧ぐ”」

 (ページ)はふらふらと、不安定な口調で呟いた。

 

「“我が身を糧に、力を我に”」

 熱に浮かされているようなその顔を、蟻洞(ギリアード)は知っていた。力に呑まれたものの顔だ。<人間イカリ>は往々にして、その奇跡の全能感に溺れることがある。強すぎる力を振るうことは、ヒトの心にとってはとても甘い。

 

「“高みより来れ”」

 蟻洞(ギリアード)はリソースに対して感じる方の<人間イカリ>ではない。それでも、彼のその鈍い感覚でもはっきりと判った。なにかただならぬことが起きていると。

 

「“終わりなき奇跡”」

 数えるのも馬鹿らしくなるほどの扉が、小指の爪ほどしかない扉が、(ページ)の右腕に突然湧き出した。扉の音が幾重にも重なり合って、(ページ)が腕を抑える。

 

 次の瞬間、その右腕が落ちた。

 まるでただのモノみたいに床に転がったその断面を、びっしりと鱗のような扉が覆っていた。小さな扉が開閉を繰り返し、あっという間に指先まで食い尽くす。血は一滴も流れなかった。ただ同化するときと同じ、あのリソースの光が隙間から漏れ輝いていた。

 

「《開扉(ダルト)》」

 右腕を失った(ページ)が吐き捨てた。

 【聖籠】がひしぎ、歪んだ。無理やり扉の形に変えられたそれを左手で押し開けて、(ページ)は籠の外へと出ると、その捩じ切れた残骸を踵で蹴り飛ばした。

 

「なるほど、これはひどい」

 蟻洞(ギリアード)は当て擦るように言った。

「増していやがる。力の量も、質も」

「それが遺言ですか」

 (ページ)が掠れた声で言った。右腕のあった場所には、ただ袖だけがはためいていた。

 (ページ)はまた、扉を呼ぼうとして、なぜか戸惑ったように口を噤んだ。代わって、その眼差しだけが蟻洞(ギリアード)を見る。

 

 次の瞬間、地面から生えた十枚足らずの扉が床を突き破った。

 蟻洞(ギリアード)は武装を振り回した。重たげな金属だというのに、相手は木製の古びた扉にしか見えないのに、鳴ったのは硬い鐘を打ち合わせたような衝撃音だった。

 蟻洞(ギリアード)は自分の右腕に引きずられるように吹き飛ばされ、屋敷の崩れ残った壁に背を叩きつけられた。息が残らず肺から追い出され、喉が笛のように鳴る。

「《黄蝕(ガフリート)……(カドゥール)》!」

 艤装の撃鉄がごとりと動いた。文字通りの引き金(トリガー)を引きながら、蟻洞(ギリアード)は右手の指を揃えて手首をへし折った。それは蓋のようになっていたのだ。

「くた、ばれァ!」

 砲身に早変わりした右腕から、螺子を刻まれた砲弾が、黄色い硫黄の奇跡を纏って飛び出した。電気の火花が散り、艤腕が白い煙を吐く。

 

 (ページ)は瞬きをしただけだった。足元からまた扉が飛び出し、盾のようにそれを遮る。急回転しながら黄色く蝕む弾丸も、何重にもなった扉はとうとう貫けなかった。

 蟻洞(ギリアード)はよろよろと立ち上がった。手首を嵌め直そうとしたが、その砲身は一発だけでもう歪んでしまっていた。

「小僧め」

 蟻洞(ギリアード)は犬歯を剥き出して言った。

 (ページ)はぼうっと立っていた。あの沈黙病の姉に似た、虚ろな表情を浮かべて。まだ小さな子供が、隻腕で無数の扉に囲まれているそのさまは、どこか異様だった。

(捨てたのか)

 制約は重いほど力の強さに繋がる。戒律もそうだ。

(そうか、根は(ニア)のニヤロトと同じか)

 紙を操る奇跡のために、大枚をはたいて紙片を買い集めることもそうだ。外からリソースを持ち込むために、その余分な手間は必要な制約だった。見方を変えれば、紙を<天使>に捧げることで奇跡を強めているのだ。

(供儀、というわけか、いわば。生贄の儀式(ホロ・コースト)なんだ。肉体を費やすという究極の制約(リスク)を……いや……)

 

 あらゆる人間には未来がある。

 戦士になったかもしれない。楽人になったかもしれない。王や、学者や、または奴隷でも、たとえどんなにつまらなくちっぽけなものでも、その生は等しく尊い。

 その手は誰かを癒やしたかもしれないし、傷つけたかもしれない。素晴らしい音楽、名画を創り上げたかもしれない。或いはなにも成せずに、無名のまま死んだかもしれない。最期に、かけがえのない一人だけには慈愛を伝えられたかもしれない。

 

 ヒトの手は無限の可能性に通じている。あらゆる技に繋がっている。為せぬことはない。為さないでいられることもない。

 だから、それを棄てることもまた、無意味であるはずもない。

 

「捧げたのか!可能性を!」

「姉さまの為なら、僕はそれでいい」

 曖昧に笑う(ページ)を、蟻洞(ギリアード)は狂気を孕んだ瞳を輝かせて尚も嘲った。

「得意の絵筆も二度と握れない癖に!お前は失ったんだ、右腕を!それに属するはずだった未来を!勝利も、敗北の可能性すらも等しく棄てて、愚かな振る舞いだとは思わないのか!」

蟻洞(ギリアード)

 (ページ)は呟いた。それを囲むように、地から伸びる扉たちが戦列を作って、立ち尽くす蟻洞(ギリアード)へと近づいた。

「もう、うんざりだ」

 それは錯覚だったかもしれない。だが、蟻洞(ギリアード)はそのとき確かに、幼気な少年の貌に老いた王のような威厳の片鱗を見ていた。

「貴様……姉貴を殺してやるぞ!」

 

「第16代帆都(ヴェルヴェット)家当主、(ページ)=帆都(ヴェルヴェット)。扉の<天使(マラーク)>と契りし我が名の下に命ずる」

「あの爺もだ!この卑しいかたわ、思い上がった正規市民の腕無しが……」

 扉がざわめき、蝶番が軋んだ。その隙間からは、微かにだが、海の遠鳴りが滲み出していた。

「汝、二度と我が血を引くものの庭を踏むことはまかりならん。子、孫、それに伴う者達を傷つけることも許されぬ」

「お前如き、逸話級の扉如きが!なにを費やしたところで……」

 

「去れ!蟻洞(ギリアード)!」

 

 その途端、無数の扉が潮のように膨れ上がって蟻洞(ギリアード)を呑み込んだ。

 獣の顎のように牙を立てる扉たちに身を引き裂かれながら、蟻洞(ギリアード)は反吐が出るような侮蔑の言葉を絶叫しようとしたが、声すらも押し流されて、開いた扉のどれかに吸い込まれていった。

 

 To be continued…

 

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