■交差都市ユディト 近海域外縁
日は暮れ、そしてまた昇ろうとしている。
レイラインが消えかけていた。白銀の光の道は、星々の浮かぶもう一つの黒い海に散逸して薄れていた。もうすぐに、その根から昇る太陽が朝を連れてくるだろう。
夜明け前の海は鏡のようだった。都市近海は波もなく、況してやユディトは広い浅瀬を持つことで有名だった。沿岸から沖合まで、海に沈んだ旧都市の上に栄える珊瑚礁が続いている。節くれだった老人の指がいくつも握り合わさったような、緩い起伏が砂泥と清水を湛えている。
その海を、毒々しい黄色の<
膝までを海に沈めて、それはユディトを目指していた。透き通った海水の下で、踏みつけにされた砂が揺れた。
その動きがふと止まった。
<天使>は胸元に掌を当て、苦しむように背を折り曲げた。光の塵が溢れて、掌の上に落ちていった。
「……最高の気分だ」
再構築された
「あの小僧、それにあの高慢ちきめ。絶対に目にもの見せてやるぞ、這いつくばらせて釈しを乞わせてやる」
その身体は欠けていた。艤装の腕は無事だが、生身が残っているところは海水を被ったのだろう、虫食いのように蝕まれている。両足は腿から無くなり、左腕は皮がずる剥けて、顔も右半分が削り取られたようになっていた。
「ガフリート!」
<人間イカリ>の意思に従って、<
背骨を砕き食い、腹の中の臓物をすすり、脂の少ない肉を飲み込む。左手の指からはその血がぼたぼたと零れ落ちていく。食い残しを海に放り捨てると、
飢えていた。夜中じゅう同化し通しだったからだ。幸い、<
だが、同化も限界だった。なにより人間の方の身体も保たない。
水が飲みたい。このままユディトに帰れなければ、洋上で力尽きる。或いは不幸にも流された船乗りたちのように、渇きに狂い、海水を飲み、身の内から溶かされて死ぬか。
遠くに霞む都市船の塔を睨み、
そのとき、ガフリートが大きく揺れた。
「なんだ」
下から飛ぶ波飛沫に身体を竦ませながら、
「畜生が、珊瑚礁の崩落か?」
ガフリートの脚を、なにかが掴んでいた。
ヒトのそれに似た五指と、腕と、なによりちらりとだが《円環》が見える。<
「珊瑚礁だぞ」
『どうもこうも、こういうわけなんだよ』
そして、青みがかった<
ガフリートが衝撃に揺れ、
見知らぬ<天使>はガフリートの腰を抑えて止まった。よく見れば、その下半身が珊瑚礁に埋まっているのがわかった。金属より硬いとさえ言われる珊瑚礁にだ。<天使>の青緑と白とが混じり合った体色、それに体表を覆う鱗模様は、どこか魚を思わせる。
『その黄色い外観。右手の艤装。登録済みの要注意<天使>だ。お前、“
「軍人か」
青緑の<
「ご明察。それが“硫黄”か?」
兵士は銃口をぶらすことなく、器用に<天使>の頭を踏んで
「酷い様だな。海水に触れたのか」
「手当でもしてくれるっていうのか?」
「珊瑚礁の浅瀬だぞ。なんで水面下を来られる」
「油断はそっちの責任だなぁ、俺のせいにしないでよ。ま、運が悪かったな。艦まで連行する。<
「ガフリートを奪うつもりか」
「当然だ、非正規市民。犯罪者に抗弁の権利はない。お前たちは都市船の外縁に寄生してるが、それはただ黙認されているに過ぎないってことを忘れるな。本来ならその身体の有機物の一片まで、曳航連邦に属するものだ」
それは挑発ではなかったが、
「は……馬鹿が、この近海域の水深で軍艦など来られるはずがないだろうが。どこに連行するってんだ、え?」
近くにあるのは都市船ユディトだけだ。ユディト軍なら鼻薬が効いている。
「艦が通れないって?」
その頭上から影が差した。海の真ん中で、
それは鋼鉄で造られ、金属版を繫ぎ合わせて出来ていた。左右に平たく伸びた部分からは青白く淡い光の波紋が空に漂っていた。途方もなく大きく、空を覆っている。
そこには、巨大ななにかが浮かんでいたのだった。
「……なんだあれは」
《円環》がない。背の翼もない。であれば、<
船だ。普通の艦よりも横に長いが、間違いなく船だった。だが、落ちてくる様子もなく風に乗って停泊しているその様は、到底受け容れがたいものだった。重たげな鋼と鉄の塊が如何にして空を漂えるだろう。
「鉄の鳥……船が空を?奇跡か?」
「いいや、連邦の“技術”だよ。解ったか?これからお前はあれに乗るんだ。珍しい体験だ。精々楽しむといい」
「俺をどこに連れて行く」
「死刑台さ。運が良ければだが」
兵士は言った。
「連邦標準時間5:16、“
「
「舐めるな、小童がァ!」
だが、シラヌイはそれを容易く止めた。
まるで鉛を殴っているように重い。それに、なんて素早い動きだったのだろう。
艤腕を受け止めている前腕には、びっしりと魚の鱗が生え揃っていた。それは一分の隙もなく肉を鎧っていた。
「……《
もう片方の腕も変じさせながら、シラヌイは艤腕を掴み、力を込めた。分厚い鋼板はいとも容易くひん曲がってめくれ上がった。
指の力だけで拉げさせたのだ。電気系統が破損し、人工神経のフィードバックが途絶える。白い火花が隙間から弾けた。
人間技ではなかった。どこに素手で鋼を曲げられる人間がいるだろうか?
力を失った艤装を払いのけると、シラヌイは拳を構えた。
「お前、
「ちっと荒っぽいぞ」
次の瞬間、顔面を殴り飛ばされた
シラヌイは懐から四角い箱を取り出すと、上の取っ手を掴んでひねった。その手はいつの間にか、人間のそれに戻っていた。
『標的 回収 セリ』
箱の蓋を開け、チカチカと中の
ややあって、上空の
『即時 帰投 セヨ』
「せっかちだなぁ、大佐は……」
呟く口元が光に崩れた。<天使>の眼窩が燐光を取り戻す。
シラヌイは再び同化していた。青緑の<
◆
■同日 都市船シリウス近海域・洋上
「わざわざのご足労を」
その軍人は、巨艦の甲板上に作られた庭園に立っていた。
あたりには花が咲き乱れ、木々がそよいでいる。もっとも、そのすべてが作り物だった。いくら本物らしくとも、合成樹脂と砂の塊でしかない。仮に海に触れても溶けはしないだろう。
庭は白くアーチを描く柵に囲まれ、中心にはそれによく似た質感の小机が置かれている。それを挟んで、純白の紳士が軍人へ手を差し出した。
『久しいね』
“
「閣下が例の簒奪者を追って下さるとは予想外でした」
『そうかな?』
“
『いや、曳航連邦に仇をなすとあってはね。君たち政府筋には幾度も世話になっているのだから、たまには恩義を返さなくては。今後とも、仲良くやろうではないか』
「勿論です閣下。閣下のお力なら、<人間イカリ>ひとりなど一捻りでしょうとも」
『はは、過信はいけないよ。相手も同じ神話級だ。勝ち負けは五分五分だとも……素のリソースならばだが』
彼はそう言って、帽子を直しながらなんの気もないふうで尋ねた。
『それで、例のものは?』
「こちらに。肝心の要件ですからな」
軍人は見せびらかすように手を叩いた。部下らしき男が、その大仰さにいささか呆れたように、扉を開けて艦内へ入っていった。
『よく元老院が許可したものだね』
「閣下のご人徳があってのことですとも。“人形王”の雷名を出した途端、二つ返事で承認されましたよ」
軍人は言った。
「あれは上も対処に
『力の程は?』
「圧縮技術の習得は制限してあります。“銀”で縛らなければすぐにでも逃亡しかねない勢いだそうですから。しかしながら、素の奇跡でも出力は桁違いですよ」
扉が開いた。帰ってきた部下は、その後ろに誰か人影を伴っていた。軍人は高らかに言った。
「傷一つありませんよ、ご覧ください。世界に七つのみのものだ。これがかの“最新”で――」
“人形王”はまったくもって無視した。
そこに所在なげに立っていたのは、小柄な少女だった。豪奢な薄布を重ねて身に纏い、髪は油で磨かれ、可憐な空気を醸している。顔立ちもまだ幼さを残していた。
それらを断ち切るように、重厚な枷が少女の身を戒めていた。白銀を鋳て造られたそれは美しく造形されていたが、それでも枷だ。首と手足はゆとりある鎖で繋がれ、身じろぎのたびに乾いた音を立てていた。
少女は肩に届くかどうかの漆黒の髪を風になびかせ、恐れるでもなく、へつらうでもなく、ただ立っていた。切れ長の瞼から覗く瞳は、熾火のような深紅であった。
『……炎か』
“人形王”はそう言いながら無造作に少女の胸元を鷲掴みにすると、乱暴に薄布を引き千切った。甲高い音をあげて布地が裂ける。真っ白な肌が白日のもとに晒される。それでも、少女はぼうっと黙っていた。
その左胸には、青い炎のしるしが刻まれていた。
“人形王”はそれを疑うように指先で何度か擦った。やがて渋々信頼したのだろうか、彼は少女から目を離し、首に繋がる鎖を手綱のように掴んだ。
『いいだろう。確かに受領した。支払いは済んでいたね?現時刻を以て“これ”は私と、我が奇跡の管轄下に置かれるが、問題はないね』
「ございません、まったくございませんとも」
『ならいい』
“人形王”は小さく頷いた。
『君たちの、仕事の速さには満足している。急がねばならんのだ。国境付近にいた“
「流石、お耳が早い」
『私は知るべきことを知っている。私を憎むものもそれなりにいるのでね。だから、君たちのことは信頼していたいのだよ』
“人形王”は扉を開けた軍人に目を留めた。
『見ない顔の兵がいると思っていた』
軍人は驚いたように上官を見やり、その鋭い視線に慌てて姿勢を正した。
「はっ、先日こちらに配属されました」
若い軍人は隠しきれぬいたずらっぽい輝きを眼に光らせながら、素早く敬礼した。“人形王”は咎めるように言った。
『新参か?』
「しかし身元は確かです。<人間イカリ>でもないのですし。何者かの息が掛かっているはずなど」
「そんな保証が果たしてできるものかな」
「ええ、必ずや閣下の不利益になるようなことは……ほら、名乗れ」
「はっ、階級は軍曹であります」
上官に促されて、兵士は朗々と自己紹介を始めた。軍人にしては髪が長いな、と“人形王”は思った。
兵士はちらりと少女を見やって続けた。
「――名前は、
◆
◆
■曳航連邦首都テーバ 元老院評議会
暗い。
薄明かりを淡く覆い尽くすような暗闇の中で、温かな機械の駆動音が響いている。そのほかは時折の身じろぎと、ただ無数の掠れた息遣いだけだ。
『あの男に貸し与えること、果たして真に吉であったか』
やにわ、ひとりが口火を切った。
『“
『さりとて王だ。王は己がためにのみ在るもの。忠実など、本質的にあり得ない』
『青。神話級に軛は付けられぬ。況してや、やつは今“炎”の力を得た』
『戦火の力が我々に牙を剝かぬとどうして言える?』
『そうだ。なにより、あれは戦力として運用するべきものではないはずだ』
ぶつぶつと、不満げな呟きが続く。それに呼応するようにまた、声が上がった。
『かの炎の手綱としてこれ以上の人選はあるまいが』
『敗北はあり得ぬ。未熟な神話級ひとりがあれを脅かせるはずもない』
『疑いは常にあるが、我等は唯その危険の高さを鑑みればよい。今、あの小賢しい“王”に性急な企てを行う理由はない。反逆は杞憂というものだ』
『既に決断は下りた』
『左様。評議会の決は我々の総意だ』
囁き声が重なり合って鳴いた。
『たとえリスクが在ったとしても使わざるを得んのだよ』
誰かがひときわ高く言った。
『予言は下された。この世代にまで来て、計画をしくじるわけにはいかぬ。
『それは同時に希望をも知らせている』
一人が言った。
『なんにせよ、アシタ人の少年は始末せねばならない。どんな事態を招こうともそれは最優先事項だ』
『賛同する。いかなる犠牲を払うとも、至高なる真の目的を忘れてはならない』
その言葉に、元老たちは暗闇の中で肯んじた。
『
『東海域も遠からず落とせよう』
『既に“七つ”が明かされ、内“四つ”が我等の手にある』
『“
『【偽リベリウス記】は時を告げている。<
『我等が目指すは一つ』
彼等は口々に言った。それらを締めくくるように、中央の嗄れ声が呟いた。
『我等のすべては、
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