霧の予言院・上
■曳航連邦北方 ポラリス
都市船ポラリスはいつも白い霧に覆われている。大昔の<人間イカリ>が術をかけたのだ、と大ババが言っていたのを彼女は思い出し、ため息をついた。
どうせ遺すなら、もっと面白い奇跡だったら良かったのに。
「姉様!」
後ろから霧を追い払うような明るい声がして、
「姉様、やっぱり
青白い燐光を掲げて白い濃霧を退ける
「ババさまたちがお怒りですよ。まさか街の外にまで出ていたなんて思いもしないでしょうけれど」
「出られるなら山の外にだって行くわよ」
「そんなこと言わないで下さい。あたしが淋しいですから。それに、姉様は姉様じゃないですか」
「あたしは誰の姉様でもないわ」
「きれいなお着物だって貰えるのに」
「そうね」
「何をしていたのですか?」
「霧を見てたの」
「ううん、違うわね。霧の向こう側を見たかったのよ。でも、この山からはなにも見えないわ。知ってる?霧の向こうには海があるって」
「毒の海でしょう」
「恐ろしい!きっと世にもおぞましい色をしているのですわ」
「……違うわ。本当の海は、綺麗で、透き通っていて、きらきら輝いているのよ」
「でも、本には毒だと書いてありましたよ」
「あらゆる有機物を溶かす猛毒。人も、けものも木々も等しく、触れれば爛れて溶け消えるのでしょう。なら、きっと血や臓物でいっぱいなのですわ」
「あなたはまだ小さかったものね」
「ここに来たとき」
そのとき、霧の中に黒い影が映った。
「灯を貸して」
「誰だ!」
「なにものだ。霧払いも持たずに街へ踏み入ろうとするとは、こんな場所に狼藉なら無駄足だぞ」
奥にはさらに動くものがあった。一人ではないらしい。やがて、その先頭が一歩、ゆっくりと歩み出た。
「いや、すまないすまない。決まりを忘れていた。どうか収めてくれ」
霧の中から現れたのは、紺の軍服を着た男だった。
軍人だ。筋骨隆々の身体に刈り上げられた髪、口には赤い髭を生やしている。それが軽やかに持ち上がった。
「曳航連邦軍所属、
その大佐は
「おっと」
「……霧払いの灯が無くては、街に入れないわ」
「すまないが、部下もいるのでね。開けてはくれんか」
「《
オレンジの光が線になってそれをなぞった。男たちは頭を下げると、杖を突きながら山道を登り始めた。およそ六人程度だった。岩棚にぶつかって向きを変える霧を見て、
「
「助言どうも。では、助かったよ、勇ましき門番さん」
軍人たちはぞろぞろと道を登っていく。先頭の大佐の外は、誰も口を利かなかった。その中の幾人かが、まだ幼い子供を抱きかかえているのが見えた。
「通してよかったのですか?」
「証は本物みたいだったもの」
「軍人ですよね?何をしに来たのでしょう。いつもなら、こんな時期に来ることはないのに」
「そりゃあ決まってるわよ。軍はいつだって予言が欲しいのだもの。この間だって、“滅びの予言”のことでババさまも大騒ぎだったわ。あれもきっとそれ絡みで……」
「戻るわよ」
「ど、どうしたのですか姉様」
「“予言”絡みなら、
「《
再び四角い光が組み合わさって結界を閉じた。
二人は裾をたくし上げ、山道を駆け上がった。その姿はやがて道を外れ、白い霧の中に薄らいで消えていった。霧払いが去って安心したように、濃霧がまたゆっくりと渦巻き始めていた。
◆
■
老人たちの坐す板の間は、本物の木材が敷かれていた。宮の柱や梁、垂木もだ。
「先触れもなく来られるとは」
老婆の一人が口を開いた。
「困りましたな。大した饗しも出来ませんで」
「いや結構。態々この山の峰まで登ってきたのはそんな期待をしてのことではないのでね」
大佐は言った。
「だが、ここは静かでいい。霧が音をすべて吸い込んでしまうからか」
「近頃はどうです、外の様子は」
老婆は尋ねた。大佐は湯呑みを持ち上げたが、口をつけただけで飲まずに置いた。
「酷いものですよ。どこもかしこも戦争でね。それに、沈黙病も増えた。生まれる子も減るばかりで、先日も西の……ダビーという都市から移民船がテーバに二ヶ月かけて来たのです。航海の途中で半分が死んでいた。
ダビーは放棄されたのですよ。捨てられた都市は死にゆくだけだ。軍事施設は一応まだ維持されていますが、時間の問題でしょうな。いずれ近隣都市の哨戒域へと組み込まれる」
大佐は髭を触った。
「東の戦争もそうです。東海域も広いですからな。東部戦線はなかば膠着状態にあるようです。東の民が抵抗を続けていて、なかなか攻略が進んでいないとか。それでも、遠からず連邦が勝利するでしょう。そうなったら次は……」大佐は指を指した。「……北海域か、あるいはいよいよ南のアクシズか」
自分で言っておいて恐れをなしたかのように大佐は身震いした。
「ま、先ずは東の平定が最優先ですが。凶猛で知られる蛮族どもだ。先日も小さな戦艦が一隻、国境を突破して侵入してきたとかで、なかなか油断のならん状況ですよ。セムの直属艦隊を大慌てで動かして、どうにかね。なによりこの機に乗じて連邦内の分裂主義者どもも勢い付いておって……」
そのとき、小さく鈴の音がした。
「すみません、遅くなりました」
入ってきたのは
「どこで油を売っておれば遅れられるのか」
「日がな
「まさか!」
「おや、これはこれは……」
「……美しいお嬢さんだ。こんな辺境には珍しいですなあ。おっと、いや、失敬。気に障ったかな」
「
その名乗りに、赤髭の大佐は居住まいを正した。
「では、貴女があの……」
「正式な襲名はまだでありますがね」
「左様。教育の必要も」
口を挟む老婆に、
「そうですわね。もうちょっと皺くちゃになれるよう努めますわ」
「減らず口を」
老婆が呻く。大佐は困惑したように言った。
「いや、まぁまぁ。名高きあの大姫どのにお会いできて誠に恐縮だ。聞くところによれば、先の……あの予言も貴女が下したものだとか」
老婆が咳払いをした。大佐は瞬きをした。
「あぁ、そうですな。では、先ず仕来りに従うとしましょう。……おい。あれらを連れてこい」
軍人たちが踵を返す。赤髭の大佐は自慢気に髭を捻った。
「ささやかながら、私からの奏上品ですよ。来る途中でもひとり見つけましてね」
「それは……」
連れられて来たのは、あの子どもたちだった。いずれも幼い。まだ七つにもなっていまい。
「予言の素質を持つ児らです」
大佐は言った。
子どもたちはひどく怯えていた。無理もない、と
「いずれも三回以上の予言が確認されている。才能は確かですよ」
男がひとり、女が三人だった。
予言院の予言者たちはみな、こうして拐かされたものたちだった。尤も、ここで五年も暮らせばお互いに情が生まれる。そうでなくても、外の厳しい暮らしに比べてここが必ずしも苦界であるとは言えなかった。外で飢え死ぬより、ここで腹一杯食えるほうが幸せかもしれないのだ。少なくとも、
「予言院の益々の発展を願って」
「その敬意に感謝を。
「はい、ババ様」
「ここに来たからには、お前たちの親はあたしらだよ。今日からはここが本当の家だ。里心は捨てなさい……行きな」
板戸が動く。大佐もまた部下たちに目配せをし、宮の中央には
「さて、話しやすくなったねえ」
大ババが言った。大佐もまた頷くと、真剣な顔で口火を切った。
「単刀直入に申し上げますが。本日宮に参ったのは件の“滅びの予言”のことだ」
「“最も新しき神話級が、曳航連邦に滅びを齎す”……」
「そう。そこの
老婆たちは身を震わせた。
「見つかったのかえ」
「残念ながら」
大佐の言葉に、ババたちは皺くちゃの顔をしかめた。
「それでは、やはりあの予言は真実であったか」
「
「曳航連邦ほどの大事を云々する予言など」
狼狽えるババたちを他所に、大佐は続けた。
「南へ行った
大佐は淡々と言った。
「イザール。確か、最南端の都市よね」
「情報によれば、簒奪者は旧アシタの人間だそうです」
旧アシタ。その名前に一同はやや揺れた。七年前の南の戦争の恐ろしさは、この北の海にも遅ればせながら届いていた。
「曳航連邦の元老院は、簒奪者を指名手配。同時に二億ゼータの賞金を掛けました。死体と<
「懸賞金とは。悪手ではないかな?」
大ババが言った。
「秘密裏に捕らえるべきでは。神話級ともなれば多くのものが動きますぞ。二心ある“
だが、
「ご尤もだが、やはり貴女方は賢人であっても戦争屋ではないようだ」
「なぜ?」
「考えてもご覧なさい。敵国や、或いは分裂主義者が連邦軍内になんの伝手もないとお思いですか。現に
「なら……懸賞金で騒ぎを大きくしたほうが見失わずに済むと?」
「目先のカネに目の眩む、後先を考えない連中というのはどこにでもいるのですよ。彼らが鈴になってくれる」
「しかしね。
大佐は咳払いをした。
「とにかく、本日ここに参ったのはそのことです。あの“滅びの予言”は真実だった。なら、その予言を成した方に是非ともご協力願いたい」
「ご協力?」
「そうですとも。あの予言を下したのは貴女だ。なら、さらに未来を観ていただきたい。新たなる神話級が、どのように連邦を害するのか」
赤髭の大佐は爛々と眼を輝かせて迫ったが、
「出来な……出来ませんわ」
「そもそも、予言は観るものではありませんもの」
「予言はあくまで
大ババが後を引き取った。
「望むままに未来を見通せる
赤髭は唸りながら肯んじた。
「左様か。いや、しかし……」
「無論、もし関わりある予言が下されれば御知らせしましょう。それまでは……“滅びの予言”がどれほど先のことかすら解りませぬな」
「そう長くは待つまい。人一人の寿命などたかが知れている……不死の人間でもあれば話は別だが」
赤髭は呟いた。
「少なくとも例のアシタ人が生きているうちには……いや、しかし死んでから影響を残すものなどいくらでもいるな。いやはや、予言とはかくも曖昧ですな。どのように滅びを齎すのか、可能性が多すぎる」
「故に、我等は解釈を続けるのです、お客人」
大ババはそう言って、唇を湿した。
「だが、ご報告は有り難く頂戴した。より一層の解釈に励むと致しましょうぞ。
「はい、大ババさま」
そのとき、予言院の者たちに明らかな緊張が走った。
(何、今の……まるで、瞼の裏側を撫でられたような、気持ち悪い感じは)
「曲者か」
大ババが言った。
「何者か、結界を破ったようですな」
「破った……というより、すり抜けたという方が近いがね」
「出来るものか?そのようなことが。何かしらの不具合では?」
「さて、またお転婆がいらぬことをしたのではないかえ」
ババたちの刺すような視線に、
「なにもしやしないわ。私も
疑わしげな老婆がなおも言い募ろうとしたとき、板戸が勢いよく開かれた。悲鳴が聞こえる。
「何事じゃ」
「無礼であろうが。客人のおんもとであるぞ」
「申し訳ありませぬ」
女はそう言うと、頭を下げながら言った。
「然し乍ら……三ノ宮にて、端女がひとり、亡骸で見つかりましたゆえ」
◆
三ノ宮は騒然としていた。さっきの子どもたちが凍りついたように突っ立っていて、そのそばでは
「あ、姉様、あれ」
震える指先を包むように鎮めてから、
女がひとり、喉を斬り裂かれて死んでいた。吹き出る血を押さえようとしたのだろう、その掌は首にかかっていた。血みどろの水たまりが丸く広がっている。
(
見覚えのある顔に、
予言の力が弱いものは、宮では端女になる。大姫候補だった
「死んでいる……」
誰かが甲高い声で叫んだ。
「誰だ、誰がやった!」
遺体のそばに刃は見当たらなかった。
「宮のものじゃないわ」
「姉様、それは」
「さっき感じたでしょう。結界がおかしかったもの。外から入ってきた人がやったんだわ」
その言葉に、腕を組んで部下に下知していた赤髭の大佐が目を剥いた。
「では、人殺しの賊党が忍び込んだというわけかな」
その厚い唇がわなわなと震えた。その面相がどこか獣じみているように、ふと
「でも、なんでこんなことを」
「さて。物盗りではないでしょう。このような場所にそんなものがいるわけもない」
「口封じだ。顔を見られたか何かしたのだ。黙らせるために殺したのでしょうな」
「そんなことで?」
「奸賊めが!」
その足が、どん、と床を踏み鳴らす。
「我がそばもとでこのようなこと、捨て置けぬ。許せよ」
次の瞬間、何もなかったはずのそこに真紅の紋章が浮き上がった。
「あなた、<人間イカリ>……!」
「ここは
「仕来りに従って、今までは紋を“伏せて”おりましたからな。だが、人が死んだとあれば話は別だ」
「《
一瞬にして赤髭が逆立った。
筋骨隆々の身体がはちきれんばかりに膨れ上がり、軍服を押しのける。背は曲がり、手足は曲がり、指環の嵌った手には鉤爪が生まれて鋭く光った。
鼻が突き出して黒ずみ、眉が張り出す。身体の内側で骨格が動いているのが見えるようだった。ひとしきりの変化が終わったとき、そこに立っていたのはもう純粋な人間などではなかった。
『血の匂いがするな』
髭と同じように赤く、毛むくじゃらの犬のようになった大佐は、鼻先を持ち上げて風の匂いを嗅いだ。その腕には、反転したような白褐色で“火を食らうイヌ”のしるしが刻まれていた。
「
『ええ。醜い姿を晒すことにはご容赦願いたい』
<
その奇跡は前段階として、異形への変身を伴う。人間の肉体から、より奇跡的な身体へと変化するのだ。見栄えこそ恐ろしいが、だからこそ、純粋な肉体の頑健さでは他の系統を凌ぐ。
『上だ。匂いは上に続いている。どうやら下手人は天井を伝って逃げたようですな』
ヒトのそれより何倍も強くなった嗅覚の示すまま、大佐は上を差した。
「まさか!」
あたりの柱は一抱えも二抱えもある巨木であった。それに油を塗ってよく磨いてある。登れるはずがない。上にしたって、梁には大した足の踏み場もない。
「人間技じゃないわよ」
『さぁ、訓練された人間は思ったより色々な事ができるものだ』
イヌ人間は言った。鉤爪のまま、口元を覆う赤い毛を漉く。
『傷口はひとつきり。綺麗なものだ。相手が手弱女とは言えど、一太刀で息の根を止めている。なかなかの手練れですよ。それに、ただの人間である保証もない』
「これをやったのが……<人間イカリ>だっていうの?」
『十分有り得ますとも。だが、それは同時にもう一つのことを意味する。ただのつまらない賊であるなら、<
『私は伝説級だ。相手の位階如何では負けの目もある。しかしながら、敵もまた弱みを見せた。
腕は確かだが、若い。女一人黙らせるのに態々刃物を使った。死体も遺した。よほど慌てていたと見える。戦場知らずの若造ひとり、すぐに捕えて引きずり出してみせましょう』
『すぐに捕らえてみせますぞ、姫よ!』
「お客人!そのようなところ、足蹴にしてはババ様方のお叱りが……」
傍らの女官がそう言うのを無視して、
そして、確かに、と
「姉様」
不安そうに歩み寄る
「大丈夫よ。大丈夫」
だが、その言葉が如何に虚しいものか、
深い霧の奥に沈む街。だが、戦争は霧を超えてここまでやって来たのだ。
To be continued…