<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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霧の予言院・下

 ■都市船ポラリス 予言院(ナビゲータ)

 

 その次の日には、倉の食べ物が食い荒らされているのが見つかった。貴重な畜肉が歯型まみれになったのを蔵番の女は嘆いたが、氾濫(ヘルムラム)大佐は意気揚々と言った。

『血の匂いが残っている。やはり端女殺しですな』

 人が一人無惨に死んだというのに、誰も大して悲しんでやっているようには見えなかった。仲の良かった官女がひとり、女部屋に引きこもって塞いでいたくらいだった。

 赤髭の氾濫(ヘルムラム)はといえば一昼夜変身しっぱなしで、専ら屋根の上にいた。その事がより一層予言院の女達を怯えさせた。足音が埃を落とすたびに倒れる女が出た。

 こんなものだろうか、と桔梗(クィンクス)は思った。人が亡くなっても、実のところはこんなものだ。やることは山ほどあって、自分の心配のほうをもしなければならないとなれば尚更だった。人殺しの彷徨く中、慌ただしい葬儀を済ませると、(キヤ)はすっかり人を悼むどころではなくなってしまった。

 桔梗(クィンクス)はそのことに少しばかりの罪悪感を覚えたが、かと言ってしてやれることは何もなかった。

「あたしは心配です。姉様に何かあったら」

 そう目を潤ませる(クロイ)に、桔梗(クィンクス)は優しく首を振った。

「大丈夫よ。私だってただやられるだけじゃないわ。いっそ返り討ちにしてやるんだから」

 だが、(クロイ)は納得などしなかったのだった。

 

 既に夜は更けていた。

 星読の宮(シンデ・キヤ)からの空はやはり白い霧に覆われていたが、それでも月の輪郭とそれを運ぶレイラインの光は、朧にだが確りと見て取れる。

 桔梗(クィンクス)は自分の小部屋で月光を眺めていた。霧をかき分けて差し込むそれは、宮より外のものだったからだ。

 桔梗(クィンクス)は外を知らない。ここに連れてこられたのは、五つのときだったと聞いている。故郷の名前も、風景も、僅か12000ゼータの献礼金(シグ)で娘を売り払ったという親の顔も覚えていない。

 (キヤ)は閉じた場所だった。だが、今やそこに入り込むものがいる。

(あの月には……月にも海はあるのかしら。船はあるのかしら。それとも、霧の塊みたいな曖昧な光に過ぎないのかしら)

 桔梗(クィンクス)は霧に翳り始めた月光を追うように手を伸ばし、溜息をついた。外に出てみたかった。だが、出たところで行く宛もないのだ。ここは暖かく、優しい檻であった。

 

 そのとき、微かな物音に桔梗(クィンクス)ははっと我に返った。

 足音だ。いつもなら気にも留めないが、こんな状況では否応なしに気にかかる。厨に盗み食いに行くようなものがいるはずがない。人殺しが彷徨いているというのに。

 桔梗(クィンクス)は自分もゆっくり立ち上がると、文机の上の懐剣を掴み、扉を薄く開いて隙間から外の廊下を覗いた。

 歩き去っていく人影が見えた。桔梗(クィンクス)は息を呑んだ。あの後ろ姿は、間違いなく(クロイ)だ。

「こんな夜更けに……」

 その歩き方がどこかおかしいような気がして、桔梗(クィンクス)は扉を音がしないように開けると、自分もそろそろと歩み出た。

 (クロイ)は角を曲がり、(キヤ)の外へと歩いていっていた。桔梗(クィンクス)はひたひたと後をつけると、その小さな肩を掴んだ。

(クロイ)。何をしているの」

 少女はゆっくりと振り向いた。

 その眼はぼうっと曇っていて、桔梗(クィンクス)のことなど見てはいなかった。桔梗(クィンクス)は恐ろしくなって、肩を掴んでガタガタゆすぶった。

「どうしたの?どうしたの、貴女!」

 (クロイ)はただされるがままになっていたが、やがて静かに目を閉じると桔梗(クィンクス)の腕の中に倒れ込んだ。その喉が穏やかな寝息を立てているのが、逆に不気味だった。

 

『どうされたのです?』

 桔梗(クィンクス)は今度こそ飛び上がった。眼の前の薄闇には、あの赤い毛並みの獣が牙を剥き出して口を利いていた。

「軍の……大佐」

『如何にも』

 氾濫(ヘルムラム)大佐は灯も持たずに言った。

『この身体なら夜目が利くのでね。寝ずの番には慣れております。残念ながら、賊は未だに見つからんが』

「心臓に悪いんだけど」

 桔梗(クィンクス)(クロイ)を抱きながら言った。

「この子、夢遊病にでもなったみたいだわ。無理もないわよ。心労が祟ったんでしょう。私が傷つくんじゃないかって心配していたし」

『さて。どうですかな。本当に眠っていたので?』

 大佐の言葉に、桔梗(クィンクス)は眉をひそめた。

「どういう意味よ?」

『これだけ探し回っても見つからないのは、内部のものが手引しているからではないか、ということですよ』

 大佐は見かけに反して理知的に言った。

『自分の意思で、とは限らない。<人間イカリ>や聖異物には精神干渉系の奇跡とてあり得る。少しでも怪しいものは疑うべきですな』

(クロイ)は、そんなんじゃないわよ」

『その物言いに証拠がないことはお分かりでしょう』

 なおも言い募る大佐に、桔梗(クィンクス)は首を振った。

「そんなんじゃないったら。この子は大丈夫よ。精神に細工なんかないわ。あなたこそ、大見得を切ったのだからさっさと賊を捕まえてきなさいよ」

『しかし……』

 大佐は言い淀み、桔梗(クィンクス)の硬い顔つきを見て首を振った。

『よいでしょう。だが、このことは心に留めておきますよ』

 

 ◆

 

 だが、肝心の賊は見つからなかった。

「なんだかとってもお腹が空くんです」

 朝餉を2人前頬張りながら、(クロイ)は言った。その肌艶は健康そうで、血色も良かった。

「貴女、最近良く眠れてないんじゃない?」

「いいえ?あたしは元気ですよ?」

 不思議そうに首を傾げる(クロイ)に、桔梗(クィンクス)は肩の力が抜ける思いだった。昨晩のあれはきっと、偶々のことだったのだろう。気味の悪い偶然というのは実際、あるものだから。

(クロイ)、でもどこか悪いところがあったらすぐに言うのよ。今じゃ難しいかもしれないけど」

 桔梗(クィンクス)は現状を思い浮かべて付け加えた。しょっちゅう誰かが心労で倒れるので、気付けの薬はどんどん目減りしていると薬師がぼやいていた。この霧深い山の峰では、行商も滅多に来ない。ましてや、都市船ポラリス自体が外海からは半ば忘れ去られた都市でもあった。

「姉様こそ、気をつけてくださいね。あたしみたいなのとは違って、姉様は大姫(おおひめ)なんですから。なにか障りがあれば、ババさまたちが大騒ぎになります」

 桔梗(クィンクス)は、あのババさまたちも少しくらい騒いだほうが人間味があっていいと思ったが、言わずにおいた。

 丁度そのときババさまの一人が朝餉の間に入ってきたので、桔梗(クィンクス)は胸を撫で下ろした。陰口など聞かれた日には半日説教されかねない。ババさまは裾を引きながら桔梗(クィンクス)の傍に近づいたが、声をかけたのは(クロイ)だった。

(クロイ)。あぁ、それと桔梗(クィンクス)もだ。食べ終えたら宮の本堂へおいで」

「何の用です?ババさま」

 尋ねた桔梗(クィンクス)は、思わず目を細めた。ババさまの声が異様に優しかったからだ。

「お前たちの安全の為だよ。やはり大姫だからねぇ。寝所をもっと奥へ移してもらおうかと思ってねえ」

 いつもならそんな猫なで声など出さないのに。桔梗(クィンクス)は気味の悪い思いで盆を下げると、(クロイ)を連れて本堂へと足を進めた。

桔梗(クィンクス)です」

「お入り」 

 その声音もやはり優しかった。桔梗(クィンクス)は腹落ちしない気持ちで戸を開け、(クロイ)と一緒に中へと踏み入った。本当なら戸の開け締めなど(クロイ)がすることだったが、嫌な感じがしたからだ。(クロイ)は後ろを向いて戸を閉め、膝を曲げて座ろうとした。

 その瞬きひとつの後、変身したままの氾濫(ヘルムラム)が天井から飛び降り、(クロイ)を勢いよく板の間へ叩きつけた。

 桔梗(クィンクス)は息を呑んだ。

「なんの真似ですか!」

「静かにおし桔梗(クィンクス)。これは仕方のないことなんだよ」

 大ババが言った。

「今朝方、(ソーヴェ)が夢を見たと言うのでな。あの子は予言を夢で見る口だから。それで、その(クロイ)が、何やら文を飛ばす姿が映っていたと、こういう訳さね」

『敵方への密通。軍法会議ものだ、軍人ならだが。どのような内容であったにせよ疑いが濃すぎる。悪いが、拘束させてもらう』

(ソーヴェ)がなんだと言うのです!」

 桔梗(クィンクス)は床で怯え竦んでいる(クロイ)を見下ろした。

「あんな子、いつだって予言の解釈を間違うんだから。そんなことで、(クロイ)を囚えるというのですか!」

「仮にも予言院(ナビゲータ)の大姫が、予言(ナビ)の是非を疑おうと云うのか」

 大ババは有無を言わせぬ口調で言った。

「予言は決して覆らぬ。今、その娘が文を飛ばすことは既に確定した未来だ。予言に逆らおうというつもりはない。

 だがそれ以外は未だ定まらぬこと。その中でよりよき可能性を掬うためにも、その娘の一挙手一投足は監視下に置かせてもらう。

 お前をここに呼んだのは、ことの成り行きを知りたかろうというせめてもの温情だ。それを汲めんと云うのなら、愚かしい真似をせぬよう桔梗(クィンクス)、お前にも枷をかけねばならんな」

 桔梗(クィンクス)は言いたいことが山ほどあったが、押し黙っていた。足元では(クロイ)がか細く助けを求めていた。

「姉様……姉様!あたしは、あたしはそのようなこと、賊党のはらからなどではありません!姉様!大ババさま!」

「一ノ宮に座敷牢がある。連れて行きなさい」

『あぁ。丁度良い』

 氾濫(ヘルムラム)はまだ声を上げる(クロイ)の口を抑えると、なにやら薬のようなものを嗅がせて大人しくさせた。ぐったりと力を失った少女が荷物のように抱え上げられ、運ばれていくさまを、桔梗(クィンクス)はなにも言わずに眺めていた。

 

 ◆

 

 ■星読の宮(シンデ・キヤ) 一ノ宮

 

 格子の向こうで眠る(クロイ)を、桔梗(クィンクス)は静かに眺めていた。さっきまで半泣きでおろおろしていたから、せめてゆっくりと寝かせてやりたかった。

 椅子に座る桔梗(クィンクス)は、毛布を肩まで持ち上げ直した。牢は少しだけ冷える。(クロイ)の傍に居たいと無理を言った彼女を大ババは止めなかったが、火の電源を貸してまではくれなかったのだ。

 隣では氾濫(ヘルムラム)が熱い湯を飲んでいた。この男が冷めたものを口にしているのを見たことがない、と桔梗(クィンクス)は思った。もしかすると、彼の戒律なのかもしれない。勿論、それを口に出して尋ねるほど桔梗(クィンクス)は無作法ではなかった。

「それで、いつまでそのままなの?軍人さん」

 桔梗(クィンクス)は代わりに尋ねた。(クロイ)から目を離さぬまま。

「ずっと変身しっぱなしで、疲れたりしないのかしら。<人間イカリ>の力だって無尽蔵じゃないんでしょう?」

『これはこれは、お気遣いに感謝しますよ』

 大佐は毛むくじゃらの肩をすくめた。

『だが、能天使(エクスシア)系統は、“変身する奇跡”であって、“変身し続ける奇跡”ではないのでね』

「疲れたりはしないってこと?」

『奇跡の消耗がない、ということです。能天使の中には日頃から変身し続けているものも多いくらいなのですよ。尤も、そこまで行くとあまりにも剣呑ですからな。抜き身の剣を持って歩き回るようなものだ』

 桔梗(クィンクス)は獣じみた大佐の容姿を眺めた。確かに、危険そうだ。<人間イカリ>をこうもまじまじと見られる機会などそうない。

「<天使(マラーク)>にも色々とあるのね」

 桔梗(クィンクス)は知的好奇心を刺激されて言った。氾濫(ヘルムラム)はなんの気もないふうに返した。

『確かに秘術の類には事欠きませんな。奇跡の使い方は千差万別だ。そして、素のままを振り回すだけでは驚くほど弱い。さりとて鍛錬しようにも我流では限界がありますから。

 だから、知識には価値がある。【偽リベリウス記】は多くが失われ、遺っている知識も高度なものは独占されている。1ページ読むだけで、<人間イカリ>の強さは別物になると言われるほどなのですよ。さて……』

 氾濫(ヘルムラム)は立ち上がり、肩を回した。その形がヒトに戻っていく。毛皮が吸い込まれていき、膨らんでいた体躯が萎んだ。

「では失礼して、少々用足しに。すぐ戻ります」

 彼の人間の顔を久々に見たような気がする、と桔梗(クィンクス)は思った。氾濫(ヘルムラム)は大股で歩き去ると、衛士の一人に交替するよう肩を叩き、部屋を出ていった。

 桔梗(クィンクス)も立ち上がったが、その途端小さくお腹が鳴った。

 夕餉の時間はとうに過ぎていたが、温かいものを腹に入れたかった。(クロイ)も何か食べたがるかもしれない。戸を後ろ手に閉めるとき、わずかに衛士が会釈したのが恥ずかしかった。

 

 もうそれなりに遅かったので、廊下には誰一人居なかった。遠くのほうで警邏の電燈がちかちか揺れているのが見えた。

 そのとき、ものが落ちるような音がした。

 桔梗(クィンクス)は振り向いた。が、なにも見えなかった。柱の角を曲がって、もと来た道を戻る。

 座敷牢に続く戸が開いていた。

 桔梗(クィンクス)は胸騒ぎに従って階段を降りた。静かだった。人の気配すらしないくらいに……

(クロイ)?」

 部屋の中では、相変わらず電燈が揺れていた。

 その陰で、あの衛士が死んでいた。

「な、なんで!」

 桔梗(クィンクス)はぞっとして立ち竦んだ。男は仰向けに倒れ、首を斬り裂かれて事切れていた。溢れ出す血から伝わる体温が、部屋の中に籠もっている。

 牢は切断されていた。やすやすと切れるはずのない格子が断ち切られ、閂が壊されていた。(クロイ)の姿はない。

「まさか、本当に……」

「どうした。何があった」 

 背後から戻ってきた大佐が、口元を押さえながら机を退かした。

「目を離すべきではなかったか……おっと、桔梗(クィンクス)どの!」

 氾濫(ヘルムラム)の呼ぶ声など無視して、桔梗(クィンクス)は階段を駆け上がった。

「どこへ行かれるのです!」

 そんなこと、桔梗(クィンクス)にも解らなかった。

 彼女の足は自然と、慣れ親しんだ道を通っていた。無心で走ってたどり着いたのは、桔梗(クィンクス)の自室の直ぐ側にある(クロイ)の部屋だ。戸は閉まっていて、開けられた形跡もまったく無かった。

(ここには戻っていない……どういうことなの?(クロイ)は本当に人殺しなの?)

 桔梗(クィンクス)は荒い息を吐きながら胸を抑えた。そんなはずはないと信じたかった。けれど予言は下り、当の本人は牢を破って逃げ出した。信じる余地はないのかもしれない。

 桔梗(クィンクス)は目を閉じると、深く息を吸った。考えるのだ。もし、(クロイ)がそうであるかは別として、予言院を荒らす人間が行きたがる場所はどこか。

「普通には行けない場所。禁じられた場所……」

 そう呟いて、桔梗(クィンクス)はまた走り出した。

 

 ◆

 

 ■“星読の庭(シンデ・タウ)

 

 “星読の宮(シンデ・キヤ)”は一から三までの宮に分かれている。桔梗(クィンクス)やババ様たちがいるのは一ノ宮だ。だが、その最奥、山の奥峰の端に、大姫とその候補以外には禁じられた庭が存在する。

 “星読の庭(シンデ・タウ)”。過去の汎ゆる予言を収めた書庫と、広い砂の庭があるだけの禁域だ。桔梗(クィンクス)でさえ普段は立ち入らない。限られた者達だけが踏み入ることを許される禁足地であった。

 

 桔梗(クィンクス)は幾重にもなった扉を抜け、庭へ急いだ。広い書庫を貫く大路に足音が響く。鍵はない。錠前もない。ここは立ち入らないのが当たり前であるからだった。

 やがて、屋根が切れた。 

 一面が白砂の海だった。そこに灰色の石で造られた像が点在し、その向こう側には霧越しに断崖が広がっている。かなり遠いが、ここはもう海に面しているはずだ。

 その石のひとつに、(クロイ)が立っていた。右手にはなにやら文のような厚い鯨皮紙を握り、ぼうっと霧の空を見つめている。朧な月明かりが煌々と輝いていた。

(クロイ)……?」

 桔梗(クィンクス)はおずおずと声をかけた。

「ねえ、どうしたの?あなた、おかしいわよ、ここのところ」

 (クロイ)はゆっくりと振り向いた。だが、その顔つきはとても正気とは思えなかった。虚ろな無表情だ。まるで沈黙病みたいに。

(クロイ)

 桔梗(クィンクス)はまた強く名前を呼ばわったが、いらえはなかった。(クロイ)はぱっくり口を開けると、ヴーヴー低い声で唸った。その焦点の合わない目つきに、思わず桔梗(クィンクス)は一歩下がってしまった。

(クロイ)!」 

 少女は応えることなく、がたがたと己の体を揺すぶった。やがてその開けた大口の奥から、黒っぽい小さな虫のようなものが這い出てきて、文を掴んで翅を伸ばした。細い腰に長い手足、本で読んだ“蜂”のような虫だ。その虫が文を抱えて飛び上がった。

 耳障りな羽音とともに、虫の影が霧の空めがけてどんどんと高くなっていく。結界に差し掛かろうというとき、(クロイ)が声を上げた。

『ア、アア……《開け(アペリー)》』

 あのときと同じ、喉の内側を触られたような怖気が桔梗(クィンクス)を襲った。オレンジの四角い光が空を走り回る。その真ん中で、虫はなかば無理矢理に結界を通り抜けると、すぐに見えなくなってしまった。

「解言を使って……結界を破ったのね」

 先日のあの感覚もこれと同じことか、と桔梗(クィンクス)は言った。

 (クロイ)は答えなかった。代わりに、少女はまたヴーヴーと唸りはじめた。その声が次第に桔梗(クィンクス)の知らない言葉を紡いでいるのを聞いて、彼女は震え上がった。

(共通(シャーン)語じゃ……人間の言葉じゃない。なによ、なんなのよこれは)

 何か意味ありげな音なのに意味が取れない、そのことは桔梗(クィンクス)にとって極めて不気味だった。まるで、悪霊か鬼の話す言語かと思えるほどだ。耳から入ってきて精神に悪い影響を与えるんじゃないかと思って、桔梗(クィンクス)は耳を塞いだ。

 (クロイ)は力無く立っていた。が、その右手が今度は短剣を握っているのを桔梗(クィンクス)は見た。

(どこから出したのよ)

 (クロイ)は刃を構えた。普段の手弱女ぶりが嘘のように、鋭く凛冽な構えだった。素人の桔梗(クィンクス)にだって、その腕前が伝わるほどだった。

 力を貯めるように、(クロイ)は足をたわめた。次の瞬間にはもう石を蹴り飛ばして、解き放たれたバネのように、その刃を持つ手が桔梗(クィンクス)の喉元めがけて迫っていた。

 

 そして、背後から飛び出した赤黒い獣が(クロイ)を殴り飛ばした。

「大佐!」

『禁域に踏み入ったことはご容赦願いたいな』

 イヌ人間は喉の奥で言った。

『だが、いやはや。ついに当たりを引いたようだ』

 (クロイ)は大して効いてもいないようだった。砂の上に転がりながら、少女は刃を軽々と弄んだ。

『瞬間、身を反らして力を逃がしたか。空中でよくやるものだ。これほどの腕前とはな』

(クロイ)のはずがないわ」

 桔梗(クィンクス)は言った。

「走るのだって私より遅いのに」

『さて、今はそうでもないようですな。これは苦労するかもしれませんぞ。姫よ、そこを動かないで頂きたい』

「逃げろ、とは言わないのね」

 桔梗(クィンクス)の言葉に、大佐は振り向きもせずに答えた。

『そんな余裕は無さそうですから』

 

 (クロイ)が吶喊した。

 ただし、今度は壺のようなものを掴んでいた。短剣同様、どこから取り出したかも知れぬものだ。その中身をぶち撒けると、(クロイ)はいつの間にか手に嵌めた指環に向かって叫んだ。

『《炙れ(アッサー)》!』

 今度は意味のある言葉だった、などと思う間もなく、不可視の熱が揺らいだ。飛び散った黒ずみに火がつき、真っ赤に燃え上がる。

『油壺か!』

 大佐は叫んだ。

『熱の【聖環】まで持っているとはな』

 炎がちろちろと二人を舐めながら包囲した。それを身軽に飛び越えて迫る(クロイ)から、桔梗(クィンクス)を庇うように大佐は立ちはだかったが、次の瞬間その太い腕には幾つもの切傷が開いていた。

『なんという早業!』

 そう驚いたときにはもう、(クロイ)は別の石に飛び移っていた。逃げる様子はなかった。二人をここで始末する気なのだ。この手練れ相手に、火に巻かれながら桔梗(クィンクス)を守るのは難しい。

『私には火など効かんが……桔梗(クィンクス)どの。大丈夫ですかな』

「問題ないわ」

 桔梗(クィンクス)は這い寄る火に火傷した指を舐めながら答えた。その手がすうっと持ち上がる。

 氾濫(ヘルムラム)、そして(クロイ)もまた彼女が何をする気かと身構えた。何もできるはずがないのだ。彼女は無力な予言者に過ぎないのだから。

 だが、実際には桔梗(クィンクス)はそれほど無防備でもなかった。息を吸い込んで、彼女は唱えた。

 

「“赤の鋭角(Et ruber acer)

「“青の俊敏(Et caelurus agilis)”」

「“鼓打ちに枷を下さん(Tympanatorem compede vincio)”。【022】“避火(Sine Igne)”」

 

聖歌(カントゥス)!』

 氾濫(ヘルムラム)大佐は心底驚いて叫んだ。

 あたりの火は勢いを失っていた。水でもかけられたかのように萎み、色を失って夜に溶けていく。桔梗(クィンクス)()()()()からだ。

『避火訣か。まさか、()の心得がお有りとは』

 (クロイ)はそのさまに歯噛みするように背を丸め、今度は油壺ごと力いっぱい投げつけた。

 大佐の毛皮が油に濡れ、指環の奇跡で燃え上がる。

 だが、彼は気にせず立っていた。その体躯が焼けることはなかった。石を炙るように、ただ赤熱するだけだった。

『堪え性のないやつめ』

 大佐は顔の半分を燃え上がらせながら、口の端で言った。

『犬の<天使(マラーク)>と契約した私に火など効くものか……《炎禍(ケレヴ)》』

 大佐が名前を唱えるや否や、火が動き出した。赤黒い毛皮へと吸い込まれて消えていくのだ。全ての火を吸い取ったあと、灰色の煙を喉から吐きながら、大佐は吠えた。

『お返しだ!』

 そして、その口から粘りつくような炎が吹き出した。

 それは明らかにさっきの火と同じものだった。桔梗(クィンクス)は背後にいてなお顔の産毛が焦げるような気がした。枯れ葉のような匂いが漂った。

「火を食べて、火を吐く奇跡?」

 その炎は見た目こそ派手だが、あまり俊敏ではないようだった。(クロイ)はその火を飛び上がって躱した。惚れ惚れするほどの見事さで、しなやかに身を捩って。

 だが次の瞬間、彼女は空中で痙攣して倒れ伏した。

「何をしたの!」

 桔梗(クィンクス)はこの期に及んで気が気でない思いで叫んだ。氾濫(ヘルムラム)の奇跡がなにか致命的な猛毒でも持っていて、(クロイ)を侵したのではないかと思ったからだ。

『私じゃあないぞ』

 大佐は静かに言った。

 (クロイ)は砂の上で藻掻きながら、癲癇でも起こしたかのように砂塵を蹴立てて暴れ回った。やがて、彼女は手を砂につき、上体を起こして背を伸ばした。

 その背中が開いた。文字通り、戸棚のように開いたのである。桔梗(クィンクス)は何が起きているのか分からずに呆然としていた。

『なるほど』

 大佐は髭を捻った。なにがなるほどなのかと桔梗(クィンクス)は大佐に向かって怪訝そうな顔を向けたが、彼は気づかずに独り言を続けた。

『寄生の<天使>と言うところかな?』

 (クロイ)の背中から、なにか黒っぽいものが弾き出されて砂の上に転がった。

「あれは?」

『あなたの侍女は下手人ではなかったということですよ。取り憑かれていたのだ。<人間イカリ>に』

 それがもぞもぞと動いた。桔梗(クィンクス)は黒っぽいもののほうへ、手を翳して叫んだ。

「“光あれ(Fiat lux)”」

 そのたなごころが白く光った。薄闇を退けて、その下手人を顕にする。そこにいたのは、黒ずくめの小さな影だった。

 頭巾の奥で茶色い目が鋭く桔梗(クィンクス)を睨んでいる。あの短剣も、指環も、(クロイ)の手からその本来の両手へと移っていた。

『ものに入り込む奇跡か。だが、人間に取り憑く時は相手が眠るかなにかしていないと身体を動かせんようだな。宿主が目覚めたからはじき出されたのだろう?』

 氾濫(ヘルムラム)の陰に隠れるように、桔梗(クィンクス)(クロイ)に駆け寄った。掌の明かりを掲げる。その背中にも傷一つなく、(クロイ)は眠たげにまぶたを擦った。

「姉様?」

(クロイ)、良かった……」

 桔梗(クィンクス)(クロイ)を抱き止めると、彼女に潜んでいた敵の方をキッと睨みつけた。

「なぜこのようなことを!」

 黒衣はなにやら答えを返したが、それはやはり不気味な音の羅列にしか聞こえなかった。大佐は油断なく両の腕を広げながら言った。

東の民(サーローク)か』

 黒衣の兵は肯んずるでもなく、ただ唸り声を上げて大佐に飛びかかった。その一挙手一投足が獣のように獰猛だった。

『あとがないという訳か。決着を急いたな、馬鹿が』

 大佐は唸りを上げ、さらなる言葉を呟いた。

『《変身・装甲態(エシュターネ・シュリオン)》!』

 その異形の身体が更に膨れ上がった。毛皮が硬く盛り上がり、両腕を中心に筋肉と鉤爪が肥大化する。

 次の瞬間、振りかざされたその鉤爪が宙で敵の黒衣を刈り取った。

 鎖帷子が断ち割られて吹っ飛び、ボロ切れになった黒衣が砂に落ちた。日に焼けた褐色の肌があらわになり、白い入れ墨が晒される。

 とどめを刺そうとして、大佐は地に擦るほどその両腕を下げた。もう一撃で、頭をかち割れる。

 

「待って!」

 だが、桔梗(クィンクス)が叫んだ。

「止めは待ちなさい。氾濫(ヘルムラム)大佐」

 大佐は渋々と言った様子で爪を収めた。だが、変身は解かない。

『なにゆえお止めになるのですかな』

「そのものはもう戦えないでしょう」

 桔梗(クィンクス)は敵を見据えながら言った。 

 そこにいたのは少年だった。色の濃い肌に、白い装飾を施した子供だ。精緻な入れ墨の文様は、短剣にある意匠と同じものだった。少年はまだ戦意を滾らせるように立ち上がろうとしたが、どこかの骨が折れでもしたのだろう、砂地にくずおれて悔しげな息を吐いた。

「東の民が予言院に戦を仕掛けたのなら、尋問の必要もあるはずです」

『無駄なことだ。こいつ等はなにも吐きませんよ。人語を話せずに唸るだけの連中だ。それに直ぐ自死する。戦場では躊躇わず首を刎ねるのが普通です』

「それでもです。私の言葉に免じて、拘束だけにして」

 氾濫(ヘルムラム)は苦虫を噛み潰したような顔で頷くと、変身を薄め、萎んだ体躯で少年の腕をねじりあげて押えつけた。少年兵はなにやら呪詛のような声を上げ、つばを吐いた。

「私は、予言院の大姫桔梗(クィンクス)です」

 桔梗(クィンクス)は努めて丁寧に話しかけた。少年兵は歯を剥き出して唸っていた。

「貴方が何を狙ってこたびの蛮行に及んだのか、それは知りません。でも、貴方だって人殺しなどしたくなかったはずよ。大人しくして、降りなさい。そして罪を償うの」

『姫、近づきすぎです』

 大佐の言葉を無視して、桔梗(クィンクス)はしゃがみ込むと右手を差し出した。

「私は貴方を害さない。だから貴方も、これ以上傷つけないで。私達と、なにより貴方自身を」

 少年兵は唸るのをやめ、怪訝そうな顔で差し出された右手を眺めていた。その瞳が桔梗(クィンクス)の顔を見上げ、ふと揺らいだ。

 そこにあったのは恐れだった。眼の前の女が何を考えているのか解らないことへの恐れだった。

「怖がらないで……」 

 桔梗(クィンクス)は無理矢理に微笑んだ。だが、遅かったのだ。

 少年兵は口の奥で何かを噛み潰した。途端に、目鼻から煙が上がった。肉の焼ける匂いが硫黄のように鼻を突いた。瞬きするより早く、その身体は焼け焦げ始めた。皮膚がたるみ、眼窩から目玉の汁が流れ出た。

「あぁ!」

 桔梗(クィンクス)は弾かれたように立ち上がった。少年兵は最期に苦悶の叫びを遺して事切れた。その身体は見る見るうちに溶け落ちて、あとには焼けた骨だけが遺っていた。

 大佐は舌打ちして飛び退いた。その腕と膝も、自害の毒に触れて焼け付いていた。

『言ったでしょう姫。だから、無駄だと』

 桔梗(クィンクス)は深く息を吐き、その遺骸から目を逸らした。毒の飛沫に触れた指先がちくちくと痛んだ。

「丁重に、葬ってあげて」

 桔梗(クィンクス)は踵を返し、(クロイ)の手を引いて宮へと戻っていった。

 つま先が遠くなったようだった。身体は怯懦に震えていたのに、いつも通り歩ける自分がひどく冷酷な気がした。傍らの(クロイ)は心配そうに桔梗(クィンクス)の強張った顔を覗き込んだ。

「姉様?」

「大丈夫よ、大丈夫」

 いつも通りそう嘘をつきながら、桔梗(クィンクス)は歩いた。静かな夜の風は、通り過ぎるたびに頭を研ぎ澄ませていく。

(まだ、子供だった)

 歳の頃は(クロイ)とそう変わらなかっただろう。桔梗(クィンクス)自身とだって大して違わない。そんな少年兵が敵国で自死するのを見たという衝撃が、脳裏にこびり付いていた。

 

 ◆

 

 ■翌朝

 

 既に日は高い。夜更けまで騒ぎに巻き込まれていた桔梗(クィンクス)たちは、朝餉の時刻をとうに過ぎてから目覚めた。見舞いのため寝所に立ち入ろうとして女たちに叱られたのだろう、戸の外では仏頂面の氾濫(ヘルムラム)が棒立ちになっていた。

「顛末をお伝えしておこうと思いましてね」

 大佐は言った。

「貴女の侍女の疑いは当然晴れ申した。まだ眠りについております。幸い、私が与えた傷は僅かなもので、直ぐに癒えるでしょう。だが、必要なことであったとはいえ私が彼女を害したことには違いない。申し立てがあれば甘んじて受けましょう」

「いいえ、文句などないわ。(クロイ)だってそう言うでしょう」

 桔梗(クィンクス)は力無く首を振った。大佐は湯呑みを啜りながら続けた。

「やつの……東の民の奇跡は、“寄生”であったと思われます。見つからなかったのは宮の壁や柱へ潜り込んで移動していたからでしょう。そして、貴女の侍女を最終的な隠れ蓑にして、予言院を探っていた。初日の刃傷沙汰で懲りたものと思えますな」

 氾濫(ヘルムラム)は目を細めた。

「侍女どのはご無事でしょう。貴女の言った通り、精神系の影響は無かった。人間の体内は一種の聖域(アサイラム)ですからな。

 外から取り憑かれていただけで、身の内は傷ついていない。後遺症もない。問題は……むしろ彼がここでやったことのほうにある」

「それは、殺人ではなく?」

 大佐は頭を掻いた。

「いや失敬。軍人はどうも血に慣れすぎる」

 桔梗(クィンクス)はそんなことを責めるつもりはなかった。ここが曳航連邦にとって要地であることはよく知っていた。

「あの少年兵は、予言について調べていたのですよ。記録を漁った形跡が見つかりました。おそらくあの文もここで盗んだ情報を記したものでしょう。……狙いは、“滅びの予言”だ」

「“最も新しき神話級……”」

 桔梗(クィンクス)は己が下した予言を思い返した。

「あれが、東のものに漏れたと?」

「もともと噂のようなものは掴んでいたのでしょうな。強い予言だ。世界最大の超大国、その趨勢を予言できるのは貴女の力の程を示している。さすが大姫と言ったところか。

 彼奴らが新しき神話級とアシタ人が曳航連邦を滅ぼす鍵になると知っていると、今や解った。これでますます油断ならなくなった。だがあの文に関しては、ひとまず心配いらんでしょう」

「それはどうして?“滅びの予言”の詳細は、もう漏れたのよね?」

「術者が死にましたからな」

 氾濫(ヘルムラム)は乾いた声で呟いた。

「術者が死ねば奇跡も消える。あの文は海の藻屑になったはずです。予言院の細かな情報も。勿論、これで終わるはずはない。上に掛け合って軍をこちらへ回させます。ご安心下さい」

 桔梗(クィンクス)はあの少年兵を思った。あれもきっと、誰かの命令でああやって襲撃を仕掛けたのだ。

「……予言は覆らないわ」

 桔梗(クィンクス)は言った。

「曳航連邦は必ず、“新しき契約者”によって滅ぶ。これは確定事項よ。貴方達はそれでも、戦争を続けるの?」

「ええ。滅びたくはないのでね」

 大佐は明快に言った。

「それに、予言は常に曖昧なものだ。こんな話を聞いたことがありますよ。

 ある昔の王が自分の焼死を予言され、震え上がって国中の火を禁じた。やがて予言の日になって、王はとうとう死ななかった。なんと、王城に飾ってあった肖像画がボヤで燃えただけだったのだ……

 予言は覆らないが、どう当たるかは解らない。どんなこじつけであってもいい。逆に言えば、予言された文言以外のところは人の手で変える余地がある。未来は所詮、不確定なものですからな」

 桔梗(クィンクス)は頷いた。それは真実だった。予言(ナビ)が告げる未来は限定的なその一点だけだ。それ以外は絶対に解らない。

「逆なのかもしれないと、私は常々思っているのよ」

 桔梗(クィンクス)は呟いた。

 

予言者(ナビ)は、未来を予言しているわけではないのかもしれない。むしろ、その逆なのかもしれないと。未来を知るのではなく、未来を……」

 

 だが、桔梗(クィンクス)は口を噤んだ。言葉にしないほうがいいこともあるのだ。

「やめておきましょう。ババ様にきっと叱られるわ」

「貴女の宜しいように」

 氾濫(ヘルムラム)は今ひとつピンと来ていない顔で肩をすくめた。

「それでは、私は首都へ戻りましょう。長旅になるでしょうからな。もしまたお目にかかれることがあれば幸いです。我が名を心に留めておいて下されよ」

 そう言って大股で歩き去る氾濫(ヘルムラム)大佐の後ろ姿に、桔梗(クィンクス)は黙って頭を下げた。

 

 ◆

 

 ■数時間前 都市船ポラリス・洋上 

 

 主が死んだ。

 奇跡が揺らめいて、消失する。風に乗って舞う黒っぽい虫は、身を捩り、最期に苦しんでから薄れて消えた。その携えていた鯨皮紙が高空の風に煽られて落ちていく。

 奇跡は<人間イカリ>の意思の力だ。死人は意思を持たない。だから死者の使っていた奇跡は途絶える。

 霧の海のすぐ外側、猛毒の美しい海にその紙切れは落ちた。そのままなら、外海へ向かう緩やかな海流に運ばれて海の藻屑になるだろう。

 

 だが、黒っぽい手がそれを拾い上げた。

 波の飛沫のその先に、人影が立っていた。あの少年兵と同じような黒衣に身を包んでいるが、大人の体格だった。まるで重さがないように沈みもせず、毒の海の上に立ち止まっている。人間なのに、海に溶かされもしない。

 人影は紙を開き、その中身にざっと目を通すと満足げに頷いた。続いて、都市船ポラリスの方角を見るように顔を動かす。

 男は誰かを悼むように顔を伏せた。続いて、共通(シャーン)語ではない言葉でなにかを朗々と述べた。

 そして、男は鯨皮紙を細かく千切って海へと捨てた。

 男の輪郭が薄れだした。その思念像(ソートフォーム)が消え失せたあとには、再び夜明け前のさざ波だけが残されていた。

 

 To be continued…

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