■都市船ポラリス
その次の日には、倉の食べ物が食い荒らされているのが見つかった。貴重な畜肉が歯型まみれになったのを蔵番の女は嘆いたが、
『血の匂いが残っている。やはり端女殺しですな』
人が一人無惨に死んだというのに、誰も大して悲しんでやっているようには見えなかった。仲の良かった官女がひとり、女部屋に引きこもって塞いでいたくらいだった。
赤髭の
こんなものだろうか、と
「あたしは心配です。姉様に何かあったら」
そう目を潤ませる
「大丈夫よ。私だってただやられるだけじゃないわ。いっそ返り討ちにしてやるんだから」
だが、
既に夜は更けていた。
(あの月には……月にも海はあるのかしら。船はあるのかしら。それとも、霧の塊みたいな曖昧な光に過ぎないのかしら)
そのとき、微かな物音に
足音だ。いつもなら気にも留めないが、こんな状況では否応なしに気にかかる。厨に盗み食いに行くようなものがいるはずがない。人殺しが彷徨いているというのに。
歩き去っていく人影が見えた。
「こんな夜更けに……」
その歩き方がどこかおかしいような気がして、
「
少女はゆっくりと振り向いた。
その眼はぼうっと曇っていて、
「どうしたの?どうしたの、貴女!」
『どうされたのです?』
「軍の……大佐」
『如何にも』
『この身体なら夜目が利くのでね。寝ずの番には慣れております。残念ながら、賊は未だに見つからんが』
「心臓に悪いんだけど」
「この子、夢遊病にでもなったみたいだわ。無理もないわよ。心労が祟ったんでしょう。私が傷つくんじゃないかって心配していたし」
『さて。どうですかな。本当に眠っていたので?』
大佐の言葉に、
「どういう意味よ?」
『これだけ探し回っても見つからないのは、内部のものが手引しているからではないか、ということですよ』
大佐は見かけに反して理知的に言った。
『自分の意思で、とは限らない。<人間イカリ>や聖異物には精神干渉系の奇跡とてあり得る。少しでも怪しいものは疑うべきですな』
「
『その物言いに証拠がないことはお分かりでしょう』
なおも言い募る大佐に、
「そんなんじゃないったら。この子は大丈夫よ。精神に細工なんかないわ。あなたこそ、大見得を切ったのだからさっさと賊を捕まえてきなさいよ」
『しかし……』
大佐は言い淀み、
『よいでしょう。だが、このことは心に留めておきますよ』
◆
だが、肝心の賊は見つからなかった。
「なんだかとってもお腹が空くんです」
朝餉を2人前頬張りながら、
「貴女、最近良く眠れてないんじゃない?」
「いいえ?あたしは元気ですよ?」
不思議そうに首を傾げる
「
「姉様こそ、気をつけてくださいね。あたしみたいなのとは違って、姉様は
丁度そのときババさまの一人が朝餉の間に入ってきたので、
「
「何の用です?ババさま」
尋ねた
「お前たちの安全の為だよ。やはり大姫だからねぇ。寝所をもっと奥へ移してもらおうかと思ってねえ」
いつもならそんな猫なで声など出さないのに。
「
「お入り」
その声音もやはり優しかった。
その瞬きひとつの後、変身したままの
「なんの真似ですか!」
「静かにおし
大ババが言った。
「今朝方、
『敵方への密通。軍法会議ものだ、軍人ならだが。どのような内容であったにせよ疑いが濃すぎる。悪いが、拘束させてもらう』
「
「あんな子、いつだって予言の解釈を間違うんだから。そんなことで、
「仮にも
大ババは有無を言わせぬ口調で言った。
「予言は決して覆らぬ。今、その娘が文を飛ばすことは既に確定した未来だ。予言に逆らおうというつもりはない。
だがそれ以外は未だ定まらぬこと。その中でよりよき可能性を掬うためにも、その娘の一挙手一投足は監視下に置かせてもらう。
お前をここに呼んだのは、ことの成り行きを知りたかろうというせめてもの温情だ。それを汲めんと云うのなら、愚かしい真似をせぬよう
「姉様……姉様!あたしは、あたしはそのようなこと、賊党のはらからなどではありません!姉様!大ババさま!」
「一ノ宮に座敷牢がある。連れて行きなさい」
『あぁ。丁度良い』
◆
■
格子の向こうで眠る
椅子に座る
隣では
「それで、いつまでそのままなの?軍人さん」
「ずっと変身しっぱなしで、疲れたりしないのかしら。<人間イカリ>の力だって無尽蔵じゃないんでしょう?」
『これはこれは、お気遣いに感謝しますよ』
大佐は毛むくじゃらの肩をすくめた。
『だが、
「疲れたりはしないってこと?」
『奇跡の消耗がない、ということです。能天使の中には日頃から変身し続けているものも多いくらいなのですよ。尤も、そこまで行くとあまりにも剣呑ですからな。抜き身の剣を持って歩き回るようなものだ』
「<
『確かに秘術の類には事欠きませんな。奇跡の使い方は千差万別だ。そして、素のままを振り回すだけでは驚くほど弱い。さりとて鍛錬しようにも我流では限界がありますから。
だから、知識には価値がある。【偽リベリウス記】は多くが失われ、遺っている知識も高度なものは独占されている。1ページ読むだけで、<人間イカリ>の強さは別物になると言われるほどなのですよ。さて……』
「では失礼して、少々用足しに。すぐ戻ります」
彼の人間の顔を久々に見たような気がする、と
夕餉の時間はとうに過ぎていたが、温かいものを腹に入れたかった。
もうそれなりに遅かったので、廊下には誰一人居なかった。遠くのほうで警邏の電燈がちかちか揺れているのが見えた。
そのとき、ものが落ちるような音がした。
座敷牢に続く戸が開いていた。
「
部屋の中では、相変わらず電燈が揺れていた。
その陰で、あの衛士が死んでいた。
「な、なんで!」
牢は切断されていた。やすやすと切れるはずのない格子が断ち切られ、閂が壊されていた。
「まさか、本当に……」
「どうした。何があった」
背後から戻ってきた大佐が、口元を押さえながら机を退かした。
「目を離すべきではなかったか……おっと、
「どこへ行かれるのです!」
そんなこと、
彼女の足は自然と、慣れ親しんだ道を通っていた。無心で走ってたどり着いたのは、
(ここには戻っていない……どういうことなの?
「普通には行けない場所。禁じられた場所……」
そう呟いて、
◆
■“
“
“
やがて、屋根が切れた。
一面が白砂の海だった。そこに灰色の石で造られた像が点在し、その向こう側には霧越しに断崖が広がっている。かなり遠いが、ここはもう海に面しているはずだ。
その石のひとつに、
「
「ねえ、どうしたの?あなた、おかしいわよ、ここのところ」
「
「
少女は応えることなく、がたがたと己の体を揺すぶった。やがてその開けた大口の奥から、黒っぽい小さな虫のようなものが這い出てきて、文を掴んで翅を伸ばした。細い腰に長い手足、本で読んだ“蜂”のような虫だ。その虫が文を抱えて飛び上がった。
耳障りな羽音とともに、虫の影が霧の空めがけてどんどんと高くなっていく。結界に差し掛かろうというとき、
『ア、アア……《
あのときと同じ、喉の内側を触られたような怖気が
「解言を使って……結界を破ったのね」
先日のあの感覚もこれと同じことか、と
(
何か意味ありげな音なのに意味が取れない、そのことは
(どこから出したのよ)
力を貯めるように、
そして、背後から飛び出した赤黒い獣が
「大佐!」
『禁域に踏み入ったことはご容赦願いたいな』
イヌ人間は喉の奥で言った。
『だが、いやはや。ついに当たりを引いたようだ』
『瞬間、身を反らして力を逃がしたか。空中でよくやるものだ。これほどの腕前とはな』
「
「走るのだって私より遅いのに」
『さて、今はそうでもないようですな。これは苦労するかもしれませんぞ。姫よ、そこを動かないで頂きたい』
「逃げろ、とは言わないのね」
『そんな余裕は無さそうですから』
ただし、今度は壺のようなものを掴んでいた。短剣同様、どこから取り出したかも知れぬものだ。その中身をぶち撒けると、
『《
今度は意味のある言葉だった、などと思う間もなく、不可視の熱が揺らいだ。飛び散った黒ずみに火がつき、真っ赤に燃え上がる。
『油壺か!』
大佐は叫んだ。
『熱の【聖環】まで持っているとはな』
炎がちろちろと二人を舐めながら包囲した。それを身軽に飛び越えて迫る
『なんという早業!』
そう驚いたときにはもう、
『私には火など効かんが……
「問題ないわ」
だが、実際には
「“
「“
「“
『
あたりの火は勢いを失っていた。水でもかけられたかのように萎み、色を失って夜に溶けていく。
『避火訣か。まさか、
大佐の毛皮が油に濡れ、指環の奇跡で燃え上がる。
だが、彼は気にせず立っていた。その体躯が焼けることはなかった。石を炙るように、ただ赤熱するだけだった。
『堪え性のないやつめ』
大佐は顔の半分を燃え上がらせながら、口の端で言った。
『犬の<
大佐が名前を唱えるや否や、火が動き出した。赤黒い毛皮へと吸い込まれて消えていくのだ。全ての火を吸い取ったあと、灰色の煙を喉から吐きながら、大佐は吠えた。
『お返しだ!』
そして、その口から粘りつくような炎が吹き出した。
それは明らかにさっきの火と同じものだった。
「火を食べて、火を吐く奇跡?」
その炎は見た目こそ派手だが、あまり俊敏ではないようだった。
だが次の瞬間、彼女は空中で痙攣して倒れ伏した。
「何をしたの!」
『私じゃあないぞ』
大佐は静かに言った。
その背中が開いた。文字通り、戸棚のように開いたのである。
『なるほど』
大佐は髭を捻った。なにがなるほどなのかと
『寄生の<天使>と言うところかな?』
「あれは?」
『あなたの侍女は下手人ではなかったということですよ。取り憑かれていたのだ。<人間イカリ>に』
それがもぞもぞと動いた。
「“
そのたなごころが白く光った。薄闇を退けて、その下手人を顕にする。そこにいたのは、黒ずくめの小さな影だった。
頭巾の奥で茶色い目が鋭く
『ものに入り込む奇跡か。だが、人間に取り憑く時は相手が眠るかなにかしていないと身体を動かせんようだな。宿主が目覚めたからはじき出されたのだろう?』
「姉様?」
「
「なぜこのようなことを!」
黒衣はなにやら答えを返したが、それはやはり不気味な音の羅列にしか聞こえなかった。大佐は油断なく両の腕を広げながら言った。
『
黒衣の兵は肯んずるでもなく、ただ唸り声を上げて大佐に飛びかかった。その一挙手一投足が獣のように獰猛だった。
『あとがないという訳か。決着を急いたな、馬鹿が』
大佐は唸りを上げ、さらなる言葉を呟いた。
『《
その異形の身体が更に膨れ上がった。毛皮が硬く盛り上がり、両腕を中心に筋肉と鉤爪が肥大化する。
次の瞬間、振りかざされたその鉤爪が宙で敵の黒衣を刈り取った。
鎖帷子が断ち割られて吹っ飛び、ボロ切れになった黒衣が砂に落ちた。日に焼けた褐色の肌があらわになり、白い入れ墨が晒される。
とどめを刺そうとして、大佐は地に擦るほどその両腕を下げた。もう一撃で、頭をかち割れる。
「待って!」
だが、
「止めは待ちなさい。
大佐は渋々と言った様子で爪を収めた。だが、変身は解かない。
『なにゆえお止めになるのですかな』
「そのものはもう戦えないでしょう」
そこにいたのは少年だった。色の濃い肌に、白い装飾を施した子供だ。精緻な入れ墨の文様は、短剣にある意匠と同じものだった。少年はまだ戦意を滾らせるように立ち上がろうとしたが、どこかの骨が折れでもしたのだろう、砂地にくずおれて悔しげな息を吐いた。
「東の民が予言院に戦を仕掛けたのなら、尋問の必要もあるはずです」
『無駄なことだ。こいつ等はなにも吐きませんよ。人語を話せずに唸るだけの連中だ。それに直ぐ自死する。戦場では躊躇わず首を刎ねるのが普通です』
「それでもです。私の言葉に免じて、拘束だけにして」
「私は、予言院の大姫
「貴方が何を狙ってこたびの蛮行に及んだのか、それは知りません。でも、貴方だって人殺しなどしたくなかったはずよ。大人しくして、降りなさい。そして罪を償うの」
『姫、近づきすぎです』
大佐の言葉を無視して、
「私は貴方を害さない。だから貴方も、これ以上傷つけないで。私達と、なにより貴方自身を」
少年兵は唸るのをやめ、怪訝そうな顔で差し出された右手を眺めていた。その瞳が
そこにあったのは恐れだった。眼の前の女が何を考えているのか解らないことへの恐れだった。
「怖がらないで……」
少年兵は口の奥で何かを噛み潰した。途端に、目鼻から煙が上がった。肉の焼ける匂いが硫黄のように鼻を突いた。瞬きするより早く、その身体は焼け焦げ始めた。皮膚がたるみ、眼窩から目玉の汁が流れ出た。
「あぁ!」
大佐は舌打ちして飛び退いた。その腕と膝も、自害の毒に触れて焼け付いていた。
『言ったでしょう姫。だから、無駄だと』
「丁重に、葬ってあげて」
つま先が遠くなったようだった。身体は怯懦に震えていたのに、いつも通り歩ける自分がひどく冷酷な気がした。傍らの
「姉様?」
「大丈夫よ、大丈夫」
いつも通りそう嘘をつきながら、
(まだ、子供だった)
歳の頃は
◆
■翌朝
既に日は高い。夜更けまで騒ぎに巻き込まれていた
「顛末をお伝えしておこうと思いましてね」
大佐は言った。
「貴女の侍女の疑いは当然晴れ申した。まだ眠りについております。幸い、私が与えた傷は僅かなもので、直ぐに癒えるでしょう。だが、必要なことであったとはいえ私が彼女を害したことには違いない。申し立てがあれば甘んじて受けましょう」
「いいえ、文句などないわ。
「やつの……東の民の奇跡は、“寄生”であったと思われます。見つからなかったのは宮の壁や柱へ潜り込んで移動していたからでしょう。そして、貴女の侍女を最終的な隠れ蓑にして、予言院を探っていた。初日の刃傷沙汰で懲りたものと思えますな」
「侍女どのはご無事でしょう。貴女の言った通り、精神系の影響は無かった。人間の体内は一種の
外から取り憑かれていただけで、身の内は傷ついていない。後遺症もない。問題は……むしろ彼がここでやったことのほうにある」
「それは、殺人ではなく?」
大佐は頭を掻いた。
「いや失敬。軍人はどうも血に慣れすぎる」
「あの少年兵は、予言について調べていたのですよ。記録を漁った形跡が見つかりました。おそらくあの文もここで盗んだ情報を記したものでしょう。……狙いは、“滅びの予言”だ」
「“最も新しき神話級……”」
「あれが、東のものに漏れたと?」
「もともと噂のようなものは掴んでいたのでしょうな。強い予言だ。世界最大の超大国、その趨勢を予言できるのは貴女の力の程を示している。さすが大姫と言ったところか。
彼奴らが新しき神話級とアシタ人が曳航連邦を滅ぼす鍵になると知っていると、今や解った。これでますます油断ならなくなった。だがあの文に関しては、ひとまず心配いらんでしょう」
「それはどうして?“滅びの予言”の詳細は、もう漏れたのよね?」
「術者が死にましたからな」
「術者が死ねば奇跡も消える。あの文は海の藻屑になったはずです。予言院の細かな情報も。勿論、これで終わるはずはない。上に掛け合って軍をこちらへ回させます。ご安心下さい」
「……予言は覆らないわ」
「曳航連邦は必ず、“新しき契約者”によって滅ぶ。これは確定事項よ。貴方達はそれでも、戦争を続けるの?」
「ええ。滅びたくはないのでね」
大佐は明快に言った。
「それに、予言は常に曖昧なものだ。こんな話を聞いたことがありますよ。
ある昔の王が自分の焼死を予言され、震え上がって国中の火を禁じた。やがて予言の日になって、王はとうとう死ななかった。なんと、王城に飾ってあった肖像画がボヤで燃えただけだったのだ……
予言は覆らないが、どう当たるかは解らない。どんなこじつけであってもいい。逆に言えば、予言された文言以外のところは人の手で変える余地がある。未来は所詮、不確定なものですからな」
「逆なのかもしれないと、私は常々思っているのよ」
「
だが、
「やめておきましょう。ババ様にきっと叱られるわ」
「貴女の宜しいように」
「それでは、私は首都へ戻りましょう。長旅になるでしょうからな。もしまたお目にかかれることがあれば幸いです。我が名を心に留めておいて下されよ」
そう言って大股で歩き去る
◆
■数時間前 都市船ポラリス・洋上
主が死んだ。
奇跡が揺らめいて、消失する。風に乗って舞う黒っぽい虫は、身を捩り、最期に苦しんでから薄れて消えた。その携えていた鯨皮紙が高空の風に煽られて落ちていく。
奇跡は<人間イカリ>の意思の力だ。死人は意思を持たない。だから死者の使っていた奇跡は途絶える。
霧の海のすぐ外側、猛毒の美しい海にその紙切れは落ちた。そのままなら、外海へ向かう緩やかな海流に運ばれて海の藻屑になるだろう。
だが、黒っぽい手がそれを拾い上げた。
波の飛沫のその先に、人影が立っていた。あの少年兵と同じような黒衣に身を包んでいるが、大人の体格だった。まるで重さがないように沈みもせず、毒の海の上に立ち止まっている。人間なのに、海に溶かされもしない。
人影は紙を開き、その中身にざっと目を通すと満足げに頷いた。続いて、都市船ポラリスの方角を見るように顔を動かす。
男は誰かを悼むように顔を伏せた。続いて、
そして、男は鯨皮紙を細かく千切って海へと捨てた。
男の輪郭が薄れだした。その
To be continued…