<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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第二章 追走曲(カノン)
第十五話 港の傷痕


 ■交差都市ユディト 協商(クシュ)

 

 (レン)大佐はわざと踵で音を立てながら歩いた。

 ユディトの街並みは、横にではなく上下に広がっている。まるで虫の巣だ。金のあるやつがどんどんと上に建て増すのだから、来るたびに景色が様変わりしていた。その高さは、ユディト非正規市民たちの権力構造をよく現していた。

「お着きでしたか」

「あぁ。報告自体は軍港のほうで受けた。現場は?」

「こちらです」

 ユディト軍の港湾管理者は、人好きのする顔で朗らかに言った。明らかに面白がっている。

「いや、困りましたよ。電源管が幾つか寸断されまして、幸い末梢系だったので被害はそうでもないんですが、破壊時のノイズで付近の有線接続中だった通信機器が軒並みイカれましてね」

 男は通行禁止の看板をずらし、その向こう側へ進んだ。

「現場は港湾マフィアの所有する区画でした。表向きは商業用の格納庫ということで記録されていたようですが、実態は彼等の根城ですよ。まぁ非正規市民相手になにをやろうと自由なんですが」

 暗がりが晴れた。大佐は思わず目を細めた。

 

 そこには、抜けるような青空が広がっていた。

 都市構造体が上から下まで、大きく円形に抉り取られている。重なり合った都市の層がよく見て取れた。

「最上層から基礎構造体近くの深度まで、完全に崩壊しています。さらに近隣区で構造の脆弱だった部分にまで崩落が伝播しまして、まだ予断を許さない状況です」

 向こう岸とこちらを繋ぐように作業用の索道が吊ってあった。大佐は崩れた壁の切り口を撫でた。 

 硬い石や金属のはずだ。だが、その断面はひどく滑らかだった。細かな灰があたりを薄く覆っている。

(やはり同じか……あの少年の奇跡と)

「これをやったのは?」

 答えは分かりきっていたが、大佐は尋ねた。

「未知の<天使(マラーク)>の出現が確認されています。然しながら、海中に沈降する姿を最期に情報は途切れておりまして」

「ユディト近隣の水深は極めて浅いはずだが」

「それでも、海中にまではなかなか捜査の手が及ばないのです。最悪、他の都市へ逃げた可能性も」

「目撃者は?」

「いたとしても名乗り出ては来ないでしょう。今回のことで、港湾マフィアの悪事の数々がついでに明るみに出まして。官憲に関わるのは自分の首を絞めるようなものですからね」

「悪事?」

 錬大佐の問いに、男は曖昧に頷いた。

「復旧時にゴロゴロと非合法の代物(ハザードドラッグ)が。ようやく尻尾を出したという形で」

(よく言う。知っていて見逃していたのだろう)

 だが大佐は疑わしく思いこそすれ、なにも言わなかった。ユディトの監査は特務兵(イレギュラー)の任務ではない。管轄外のことに首を突っ込むとろくなことにならない。特務兵はただでさえ嫌われものだ。

 男は気にした様子もなく続けた。

「港湾マフィアは壊滅状態ですよ。本拠地を残らず消し飛ばされてしまってはね。おまけに中枢の機能が死んだものだから、傘下のならず者が残らず反旗を翻したようです。上部組織からの、ハザードドラッグの裏ルートを取り合って抗争が頻発してますよ」

 お陰で正規の港湾業務にまで支障が出てまして、商会から早いとこ解決しろとせっつかれてまして、と男は冗談めかして笑ったが、大佐の顔が薄笑いのまま微動だにしていないのを見て、慌てて話を戻した。

「その上部組織の<(ホン)商会>は、昨日正式に絶縁の通達を回してきました。あくまでも、今回見つかった犯罪行為は下部組織……ユディトの港湾マフィアが勝手に行ったこと、という主張です」

「叩いて出る埃はあるまい」

 大佐はため息交じりに返した。

「あれは“諸王(アーセリング)”の治める組織だからな。内政干渉の建前で、肝心のところにまでは曳航連邦の捜査権も及ばない。どちらにせよ私の職務を逸脱している。そのあたりは現地軍の君たちに任せるよ」

 そう言い置いて、大佐は立ち去った。

 砂埃にまみれた通路を踏むたびに靴がじゃりじゃりと言った。

 

 ひとりきりになった大佐は、歩きながら独り言のように呟いた。

「それで、状況は?」

『……この都市にいることは間違いないようです』

 足元の石の中から声がした。

『目撃証言も取れました。ただ、時系列が時系列ですから信用に足らん、と言われたらそれまでですけど』

「簒奪者の少年の動きは限られている」

 大佐は目も落とさずに答えた。

「西へは向かうまい。あちらには首都テーバがある。中央軍の怖さが分からないほど愚かではないはずだ。辺境を逃げ回るにしても、一度追われた南方へふたたび戻るとは心理的に考えにくい」

『東の海は、大海流を渡るのが難しすぎますね。北方へ向かった可能性は?』

「今は排除していい。(ハーヴン)の奇跡を使って得られたデータからの結論だ。お前の言う通り、その方向で捜索を進めよう」

『了解』

 水音がして、声が聞こえなくなった。大佐は足を早め、そして軽く溜息をついた。神経質な中佐どのの顔を思い出したからだった。

 

 ◆

 

 柚子(ユーリス)中佐閣下にあらせられてはそのとき、大変優雅な手つきで茶の一服を嗜んでおられたが、極めて残念ながらそれに口を付けることはとうとう叶わなかった。

「やっほおユーちゃん。一人で飲んでるなんて酷いなあ。あたしにも頂戴?」

「その呼び方は止めて頂けますか」

 柚子(ユーリス)は引き攣った笑顔で言った。

「因みにこれで5回目です」

「えぇ?だって、可愛いじゃない。仲良く行こうよ、しばらくおんなじ艦の上なんだからさ」

 現在の飛空艦(カルラ)は軍港に停泊していた。

 どうせ港は空いていたのだ。軍艦の半数は東へと既に発っていた。良くも悪くも普通の船とは違う、やたら場所を取る飛空艦が羽を伸ばせるほどに。

「僕は貴方方とは違います。キャリアが違うのです。馴れ合うつもりなどない。解ったらさっさと失せなさい」

 柚子(ユーリス)は窓の外に広がる港口を眺めながら言った。特に面白い風景でもなかった。

 だが、虫でも追い払うような彼の言葉にも、その女は動じなかった。

「そんなこと言ってさあ。ホントは話しかけてほしいくせに」

 桃色の女は不満げに言った。

 軍服を改造したのだろう、ふわふわした綿みたいなものが袖口や襟を包んでいる。生来の黒髪も赤味がかった色に染められ、手足の首には丸い金属の環が嵌めてあった。下半身に至っては、左の裾だけが太ももまで切り取られていた。

「愛と平和だよ、中佐くん、愛と平和。人と人は手を取り合って生きなきゃあ。はい、あたしのことは(メイ)で良いからね?」

「知りませんよ。僕の手を触らないでくれませんか()()()()?」

 柚子(ユーリス)(メイ)のことを見もしなかった。

「まったく……いつからこんなのが尉官になれるような仕組みになったのか。僕は情報部付きの中佐ですよ。君、軍内の秩序ってものをなんだと考えてるんです?」

「わかんない。あたし馬鹿だもん。ねえ、それより遊ぼうよ。暇だしさぁ、指遊び(シシアット)でもどう?」

 柚子(ユーリス)はとうとう自分に抱きつき始めた(メイ)にぞっとするような表情を浮かべながら唇を引き結んだ。

 甲高い音がした。軍靴が壁を蹴りつけた音だ。

 頭巾を被った少年が水の入った水差しを持ち、大きな舌打ちをしながら通り過ぎた。顔は見えない。ちらりと見えた口元は意地悪そうにひん曲がっていた。

 柚子(ユーリス)は椅子から腰を浮かせながら叫んだ。

「いい加減にしろ毎度毎度!僕のせいなのか?」

「あれ、感じ悪いよねえ。まぁ(ハーヴン)はいっつもあぁだからさ。気に病むことないよ」

「誰のせいだと思ってるんです?」

 柚子(ユーリス)はものすごく疲れた顔で言った。

「もうたくさんだ。ここは仮にも軍艦だぞ?どいつもこいつも、協調性ってものはないのか?自分の都合ばかり主張して!」

 その大声に呼応して、また壁を蹴る音がした。さらに頭を抱えたくなることに、子供の泣き喚く声が壁に反響して聞こえてきた。

「あぁ、泣いちゃったの……」

 (メイ)が奥の部屋にいる双子をあやしに行くのを見送りながら、柚子(ユーリス)中佐は文字通り頭を抱えて椅子にもたれ掛かった。まるで託児所だ。

 

 とりわけ最悪なのは、彼ら全員が<人間イカリ>だということだ。

 

 特務兵(イレギュラー)は、ともすれば扱いにくい<人間イカリ>を効果的に運用するため新設された部隊だ。奇跡はその人間の心を映す。同じ人格を持つ人間がいないように、画一的な奇跡を持つものもまたいない。大きな戦力になることは間違いないが、特別扱いはどうしても必要になる。

(多少、人間性に問題がある<人間イカリ>の集まりだと聞いてはいた。聞いてはいたが……“多少”だと?どこがだ)

 柚子(ユーリス)はそのままじっとしていた。(レン)大佐、特務兵の統括官が神話級追跡にと選んだ彼らは、蓋を開けてみればとても正規の軍人だとは思えなかった。ベタベタと距離の近すぎる馬鹿女、目も合わせず会話も出来ない癇癪持ち、直ぐに怯えて泣き喚く双子の子供、ときたものだ。これで全員ではないと言うから恐ろしい。

「おまけに、旧アシタ人ときた」

 シラヌイ。そう名乗っていた。

 柚子(ユーリス)は冷めてしまった茶の匂いを吸い込むと、一気に呷った。なにも美味くはなかった。

 曳航連邦に帰順した異国民(イリン)が軍人になることは少なくない。軍に入れば市民権を買わずとも最低限の権利が保証される。だが、そういうものは形だけでもシャーン語の名を付けるのが通例だ。

(頑なに野蛮人だったときの名を使い続けているとは、連邦に恭順しきっていない証拠だ。クーデターでも企てているんじゃないでしょうね。いずれにしろ分裂主義者予備軍ですよ。審問官は何をしている?)

 柚子(ユーリス)はゆっくりと立ち上がり、浅く息をついた。考え方を変えるべきだろう。

 これは使命なのだ。野蛮で粗雑で、規律と伝統を軽んじるこの連中に、正しい人間とはどうあるべきかを手本として叩き込む機会を与えられたのだ。そう思えば、彼等の欠点もまた付き合いやすいものに見えてきた。

「そう。この僕が彼らを導くのだ……!」

 

「中佐。なにをしている?」

 背後からの声に、中佐は余裕綽々で振り向いた。

「これは(レン)大佐どの。お早いお戻りで」

「現場の視察だけだったからな。やはり例の少年の奇跡だ。全て灰になっていた」

 大佐は上着を椅子に掛けると、どっかりと座り込んだ。その後ろからは、全身を魚の鱗に覆われたような怪物が入り込んできた。

「あれ、凄い奇跡ですよねぇ。普通の力天使(デュナミス)は力を行使できる対象がある程度決まってるもんなのに。それも粉々に破壊できるだなんて。文字通り最強じゃないですか」

「どうだかな。広すぎる力はうまく狭めないと使い物にならん……いい加減変身を解いたらどうだ、シラヌイ」

「おっと、これは失礼?」

 サカナ人間は身をひと揺すりした。途端に、白銀の鱗は肌に吸い込まれて見えなくなった。

「やっぱり完全変身しないと俺の奇跡は使いづらくてね」

 そこに立っていたのは、朗らかな顔つきの若者だった。

 さっきの異形とは似ても似つかない。大きな目は今にも笑みそうに見開かれ、長い睫毛がきらきらと光っている。その顔に、柚子(ユーリス)はどこかあのアゲハに似たものを見て取った。

「ふん……能天使(エクスシア)系統か」

 中佐はぽつりと呟いた。

「いかにも()()()ですね。頭まで獣になる能無しが」

「いやぁ、首都出身のエリートさんに比べりゃ確かに知恵が足りないかもですね。失敬。小さい頃からよく言われましたよ、落ち着きのないやつだってね」

 シラヌイは怒る素振りなどかけらもなく、ただ頭を掻いた。中佐は拍子抜けしたように黙り込んだ。

「それで、状況ですが。例の神話級……【葬送奇跡 ハルヴァヤー】及び契約者“アゲハ”はまだこの都市にいると思われます。ですがユディトもそれなりに大きな都市ですからね。協商(クシュ)港だけでも本当に探すのなら時間がかかりますよ」

「わかり切ったことを」

 中佐は自分も椅子に腰掛けながら吐き捨てた。

「では、どうやって見つけるのです?」

「賢明なる中佐どのにおかれては」

 (レン)大佐が後を引き継いだ。

「航行中、部屋に引きこもるか(メイ)准尉と戯れるかだったのでご存じないだろうな」

「失敬な!」

「【呼称奇跡 バカーシャ】。人探しの奇跡を使う」

 大佐がそういったとき、部屋から出ていたシラヌイがあの頭巾の少年、(ハーヴン)を連れて戻ってきた。

「大佐……今日もか?」

 絶対に目は合わせないまま、(ハーヴン)は言った。

「連日だ。疲れているとは思うが、今日も頼む」

 大佐の言葉に、(ハーヴン)は頷くと、両手に持っていた大きな古めかしい石の水盤を抱えて床に座り込んだ。

 床に坐すのか。柚子(ユーリス)がそう思った途端に、(ハーヴン)は彼の方を向いて無言で舌打ちした。いっそ殴ってやろうかとする柚子(ユーリス)を、シラヌイが身振りだけで宥めた。

「では、始めてくれ。対象の名前は、“アゲハ”」

「“アゲハ”……」

 (ハーヴン)は座り込んだまま水盤に水を張ると、合成樹脂の細長いかけらをそこに浮かべた。

「“アゲハ”……」

 名前を呼びながら、(ハーヴン)は水盤の縁を小刻みに叩いていた。いつしかその声は眠たげなものに変わっていた。

「“アゲ、ハ”……」

 身体は前後に揺れていた。みなもに波紋が立ち、浮かべた欠片を動かしている。(ハーヴン)は顔を伏せたまま、それをじっと眺めていた。

 最後に、彼は呟いた。

「《歓呼(バカーシャ)》」

 欠片が大きく動いた。水面の揺れからすれば不自然なかたちで、尖った先がくるりと回った。

 それが指し示した方角へ、(ハーヴン)は指を持ち上げた。

「あっちだ」

(顔と名前だけで方角を探り当てるのか)

 中佐は顔にこそ出さないが驚いていた。

 かなり有用な奇跡だ。力の消耗は激しいようだが、方位を探査するだけでも戦略的には十分お釣りが来る。

 (レン)大佐はそんな中佐を、なにか意味ありげな表情で見つめていたが、直ぐにその目は(ハーヴン)へと向き直った。

「ご苦労。では、港から始めて都市の左舷方向へと向かおう。簒奪者は少なくとも港の周囲から移動したはずだからな」

「了解、大佐」

 (ハーヴン)は気だるげに言った。

「それじゃあ、僕は寝てくるよ。また用ができたら起こして」

 そう言って、重たげな石の水盤を抱えた少年は、最後に柚子(ユーリス)の爪先を踏みつけてから自室へ戻っていった。

 痛くなどなかった。軍靴は分厚い合皮で出来ていて、爪先には鉄が入っていた。だから、ただの嫌がらせだ。

「いずれ軍法会議にかけてやる」

 柚子(ユーリス)は聞こえるように言った。ややあって、壁を蹴り飛ばす音が聞こえてきた。

 大佐はなにも聞こえなかったような顔で、シラヌイを振り返った。

「おまえは(ハーヴン)の傍にいてくれ。あいつが目覚めたら調査を開始しろ。近づけばそれと判るはずだ」

「暫くかかりますよ。あいつ、なかなか起きないから」

 シラヌイは肩を竦めた。次いで、大佐は柚子(ユーリス)に目を遣った。

「中佐は(メイ)准尉と行動したまえ。丁度、親睦も深まったようだしな」

「聞き間違いでしょうか」

 柚子(ユーリス)は顔をしかめた。

「なぜ、僕があれと?だいたい、貴方の命令に従う義理などない」

「ここは東の国境に近い。単独行動は許可できん。君が付いて来たいと言うから飛空艦(カルラ)に<天使>まで載せたんだがね。簒奪者の捜索をするならば、私の指揮下で動いてもらう。これは命令だ」

「貴方の指揮権は僕に効かないと強調したはずですが」

「では、ここで共に待つかね?私はそれでも構わないぞ」

 柚子(ユーリス)はちらりと戸口に目を遣った。ひらひらと手を振るシラヌイの姿に、柚子(ユーリス)は黙って溜息をついた。

 

 ◆

 

 ■交差都市ユディト・叉路街(サロガイ)

 

 柚子(ユーリス)は反吐の出そうな顔でその街を眺めた。

 非正規市民の住む街は、どこも同じだ。品性に欠けた雑多な街並み、規則など知りもしないような住人、そして違法すれすれの品物が売られる大声。

「嫌な街だ」

「あっ。そんなこと言ったらいけないんだよ、ユーくん。失礼じゃない」

 柚子(ユーリス)は無視した。(メイ)准尉は愉しげにあたりを見回しながら、小声で言った。

「見られてるね」

(……最低限の訓練は受けているようですね)

 柚子(ユーリス)は意外に思いながら、無言で頷いた。

 景色の何処かに、二人を見ているものたちがいる。張り詰めた、刺々しい視線だった。非正規市民にとっての軍人は確かに嫌悪の対象だろうが、この視線にはどこか違うものを感じる。

「標的かな?」

「あれはこんなことをするようなタイプではないでしょう。もう少し直情的だ」

 柚子(ユーリス)は首を振って、なんでもないふうに歩き始めた。(メイ)もそれに続く。

「港湾マフィアの残党でしょうか。“あれ”が欲しい人間はごまんといるでしょうからね。あるいは別系の非合法組織かも。ただでさえ今、この都市の裏は不安定ですから」

 柚子(ユーリス)は心の中だけでほくそ笑んだ。好都合だった。探し回るはずの情報が向こうから来てくれるというのなら手間が省けるというものだ。

 簒奪者は港湾マフィアを壊滅させたあと、行方を晦ましている。けれど、何の訓練も受けていない素人が完全に足跡を断つことなどできるはずがない。こういう場所の人間は常に臆病だ。見知らぬものが身を隠そうとしていたらそれだけでむしろ目立つ。

「あたしたちが標的を追ってるってわかると思う?」

「この時期に外から訪れた軍人を見逃すほど、彼らも迂闊ではないでしょう。少なくとも監視は付けておきたい、と。ユディト軍は現地の組織と通じているはずですから、そちらから漏れた可能性もありますね」

「ユディト軍が?」

「辺境都市はどこもそんなものですよ」

 柚子(ユーリス)は角を曲がって、裏路地へと入った。視線の感覚が途切れた。ここならば、空間は前後と上にしかない。

「でも、確証はないんでしょ?」

「さて、どうせ賄賂で私兵代わりにでも……」

 柚子(ユーリス)は言葉を切った。

 

 重たいものが落ちる音がした。

 眼の前に人影が飛び降りてきたのだ。そのなりが毛皮と鉤爪に覆われているのを見て、柚子(ユーリス)は呟いた。

「早速のお出ましですか」

「うわぁ、毛むくじゃら」

 その獣化人間はガチガチと牙を打ち鳴らし、白く泡立った涎を垂らした。明らかに正気ではなかった。

「哀れですね。ハザードドラッグの末期症状じゃないですか。自分の名前すら忘れたケダモノを捨て駒に使うとは」

 柚子(ユーリス)(メイ)に指を指した。

「では、お任せしますよ」 

「あたし?」

「僕はあの手の下品な相手には関わらないことにしているので」

「えぇ、あたしだってヤだよ。ユーくん、お願い」

 獣化人間は吠えた。手に携えた鉄の斧を振り回した。眼の前の二人組が自分を軽んじていることがわかったからだ。

 その裸足の鉤爪が地を抉り飛ばし、筋肉で装甲された身体を射出する。獣は十歩の間合いを一息に詰め、その得物が(メイ)准尉の側頭部に突き刺さった。

「はや……」

 重たげな衝撃が女ひとりを容易く殴り飛ばした。その鋭く研がれた刃は、人間の頭蓋なんていとも簡単に致命傷にできる。柚子(ユーリス)は瞬きした。

「死にました?」

 獣化人間は肯定するように喉を震わせた。その生臭い息に柚子(ユーリス)が顔をしかめた。

「獣化ですか。能天使(エクスシア)のまがいもの如きが、不躾な真似を」

 柚子(ユーリス)がそう言い終わるより早く、獣は斧を振り上げていた。人間の視覚で捉えるには、少々速すぎる動きだった。

 

「はッ!」

 そして、その手斧が蹴り飛ばされた。

 獣は驚いて飛び退いた。本能からそうしたのだ。わからないことがあれば逃げるのが動物というものだ。

 女が立ち上がっていた。

 鉄塊を頭に食らい、その身体は硬い石壁にめり込んだというのに。

「無様ですね」

「ごめん。ちょっと油断しちゃった」

 石壁にはヒビの一つも入っていなかった。(メイ)の横顔がそこにくっきりと残っている。まるで、柔らかな粘土に押し付けたみたいに。

 獣は足元に落ちている己の斧を見た。その刃も同じように歪んでいた。(メイ)の頭蓋や髪の一筋に至るまで、写し取ったようにくっきりとわかる。

「なるほど。“軟化”の<天使>」

 柚子(ユーリス)は探るように言った。

「……柔らかくする奇跡、といったところですか」

 (メイ)の切り詰められた裾から覗く、白い左の内腿には、“渦に溶ける雫”のしるしが刻まれていた。

「心配してくれてあんがとね、ユーくん。これが終わったらお礼に口づけしたげるぜ」

「謹んで、辞退します」

 柚子(ユーリス)に向かって肩をすくめてから、(メイ)は手袋を嵌めた自分の手に軽く接吻し、それに吹き込むように小さく息を吐いた。柚子(ユーリス)は眉を顰めた。

(あれが引き金(トリガー)か)

 その手が傍の壁を掴んだ。

 文字通り、平らな石へ指先を埋めたのだった。それはもう柔らかく溶け、引っ張られるままに伸びていた。

「《柔和(メイミィ)》!」

 石を掴んだまま、(メイ)は踏み込んだ。獣目掛けて両手を振り下ろす。引き伸ばされた石壁がリボンみたいにひらひら揺れた。

 獣は素手の鉤爪を振り回した。風を吹き飛ばすほどの膂力と俊敏さ、なによりその爪の鋭さが、常人を傷つけるのになによりの武器だと彼は本能で知っていた。

 だが、(メイ)はそれを容易く躱した。

 携えた石が波打って視界を塗りつぶした。その隙間を縫って、鋭い蹴りが毛皮を打つ。獣は激昂して唸った。女の蹴りなど効くものか!

 獣は顔を突き出し、涎を撒き散らしながら牙を使った。柔らかな腹の肉を、はらわたまで噛み裂いてやろうというつもりだった。

「そう来ると思ったよ」

 だが、(メイ)のその声は背後から聞こえた。

 (メイ)准尉は石壁を掴んだ手を交差させ、引き絞った。紐を結ぶように、柔らかくなった石が獣を巻き取った。

 獣は膂力に任せてそれを振り解こうとしたが、傍目にも柔らかいはずのそれは、獣にとっては硬い石の感触だった。

 (メイ)は足元の地面に石の端をくっつけた。柔らかなそれは膠のように張り付き、そこで一つになった。

「拘束完了……おっと」

 はちきれんばかりの獣の肉体は、石でさえ砕けそうな膂力を振り絞った。全身を固める石から嫌な音がした。

 次の瞬間、風を断ち割るような左脚の蹴りが獣の下顎を砕き、意識を刈り取った。

「どお?あたしだって結構やるでしょう」

 (メイ)は笑顔で振り向き、そして頬を膨らませた。

 そこには誰ひとりいなかった。ただ、(メイ)の奇跡で削り取られたような石壁に点々と螺子が打ってあった。それに注がれた奇跡が尽きたのだろう、下の方から次々と紙切れに戻っていく。

「逃げたなユーくん。もう、我儘なんだから」

 

 ◆

 

 柚子(ユーリス)叉路街(サロガイ)の最上層に飛び乗った。

 無数の道が立体的に交差するような街並みは、その上で一つになっていた。砂と錆が降り積もったそこに、僅かな下草が生えては枯れていった跡が残っていた。

「たとえ軍人に手を出そうとも、末期中毒者の勝手にしたこと……だなんて、下手な言い訳ですよ。そんなものが通じるかどうか、少し考えればわかるでしょうに」

 柚子(ユーリス)は静かに言った。

「ユディト人の非正規市民に襲われた。建前としては十分だ。直接命令した証拠などいりませんよ、疑わしきは罰するだけですから。港湾マフィアもろとも、穢らわしい賊徒を掃討する理由になります」

 そこで、中佐は少し言葉を切った。

「だから、ユディトの組織がそんなことをするわけはない」

 彼の視線の先には、黒っぽい人影が佇んでいた。

「あの獣化人間を寄越したのは僕らと同じ、この都市の外から来たものだ。違いますか。君、誰です?」

 人影は答えなかった。柚子(ユーリス)は気さくに話しながら間合いを詰めた。懐には、充電済みの銃が入っている。

「東の野蛮人か?分裂主義者か?ずっと僕らを尾行していましたね。まぁ、観客は他にもいらっしゃったようですが」

 柚子(ユーリス)はちらりとあたりを見回した。誰かの視線、気配が厭わしい。

 とうとう彼は銃を取り出した。

「頭巾を取れ。顔を見せなさい」

 人影は黒い外套の中でごそごそと動いた。

 その隙間から出てきたのは、手首から斬り落とされた腕の断面だった。

 柚子(ユーリス)中佐は足を止めた。

「貴様、まさか」

 斬られた腕で掻きむしるように頭巾を外し、その人物は顔に付けた面を顕にした。白い平面に刻まれた赤黒いバツ印が、熱を持って光った。

『《燃え上がれ(フラグラー)》』 

 老いた女の声で言うのと同時に、その全身が炎に変わって膨らんだ。風が熱くなり、なにかを叩きつけたような音が一面に響く。次の瞬間、柚子(ユーリス)の全身を爆風が殴り飛ばした。

「《(オセル)》!」

 移動を禁じられた爆風が堰き止められ、轟音を上げて上下に分かれた。あたりの金属が砕けた砂が、焼けながら舞い上がって空を汚した。

 柚子(ユーリス)は砂の上に転がりながら頭を覆った。片耳はやられてしまったらしい、甲高い音が耳朶に響いている。

 焼け付いた砂が冷めるのを待って、柚子(ユーリス)は立ち上がった。爆心地にいた、いや、爆心地に成り果てたあの人間は欠片すら残さずに消滅していた。

「どうしたの?」

 柔らかくして壁や柱を登ってきたのだろう(メイ)が、驚き顔で這い上がってきた。

「物凄い音がしたよ」

「最悪だ。神話級の争奪戦に絡んでくるとは」

 柚子(ユーリス)は唾を吐いた。口の中で炭の味がした。それがあれの遺灰なのだと思って、気味悪げに彼は顔を歪めた。

「“諸王”や賊どもが簒奪者を追うくらいなら織り込み済みでしたが。最悪だ。面倒なことに……」

 柚子(ユーリス)はそこで始めて(メイ)に気づいた様子で、頭を振ってみせた。髪が焼け焦げていた。

()()()()()()に襲われました」

 ピンと来ていない(メイ)に苛立ちを隠そうともせず、柚子(ユーリス)は続けた。

「自爆されたんですよ。この手口までお決まりでしょう」

 柚子(ユーリス)は砂を蹴り飛ばした。手を切り落とす習俗に、自爆すら厭わない狂人ぶり、間違いはない。

 

「<黙示録(アポカリプス)>だ」

 

 To be continued…

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