<Infinite Apocrypha>   作:N.O.

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第二話 愚者の螺旋

 ■都市船イザール

 

 <人間イカリ>。

 アゲハはそう呟いた。それは奇跡を使うものの名前なのだ。

 灯(ダーン)と名乗った青年は、砂丘を越えて都市構造体の隙間へ消えていく灰(ヘザー)の後ろ姿を見ていた。

「追わないのかい?」

 灯(ダーン)は言った。それは、彼が言うとひどく恐ろしげで冷徹な言葉に聞こえた。

「あれは仕返しに来るよ。放っとくとよくないんじゃないかな」

 アゲハはしかし、何も言わず、蹴られた腹を確かめていた。ひどい痣になっている。しばらくは痛むだろう。

「行こうか」

 灯(ダーン)はそう言って歩き出した。

 

 砂丘の上に登ると、黒い軍船が停泊しているのが見えた。

 軍港の寒々しい擁壁の端から、ちらりと鋼鉄の尻尾が覗いている。

「イザールの船じゃないな」

 灯(ダーン)は訝しむように言った。アゲハはその横顔を眺めながら尋ねた。

「そういえばさ」

 少し迷って、アゲハは続けた。

「探し物って、何を探してるの?」

 灯(ダーン)はじっと軍艦を睨んだまま、口の端で答えた。

 

「――<天使>を」

 

 ◆◆◆

 

 ■地下 

 

 <天使(マラーク)>。

 金属の壁面に埋まっているそれは、巨大なヒトの輪郭をしている。

 ざらつく珊瑚のような表面は、あたりの壁の精密に加工された滑らかさとは明らかに異質のものだ。そして沈黙していた。現在の人間の技術ではサンプルすら採集できないはずのそれを砕いて。

「あれが第78坑道(コリドー)のさらに奥、現状の最深到達層境界にて発見された、神話級<天使(マラーク)>です」

 博士(ダー)は重々しく告げた。大佐は雷に打たれたような顔で立ち尽くしていた。

「実に壮観だな」

 眼の前の<天使>は顔の前で両手を組み、跪くような格好で静止していた。その背には紛れもなく、屹立する翼のかたちがあった。

 身体の細かな造形はざらついた石の表面にうずもれている。鎧のような、硬質の鋭角がその端々に覗いている。指の一本が、大人の腕よりも太いほどだった。

 

 寒さとは違うものに身を震わせながら、大佐は白く曇る息を吐き出した。

「等級の測定は確かなのか?」

「不活性化状態では確実とまでは言えませんが、スペクトル測定の結果は“青”。神話級を示しております」

「青の第4位」

 柚子(ユーリス)中佐は呟いた。その声には、明らかに熱が滲んでいた。崇めるような、心酔するような慕情が。

「“王の器”というわけですか」

 

「この情報を知っているものは?」

 大佐は低く、鋭く尋ねた。博士は恭しく回答した。

「これを発見した私率いる学者団(シェジウ・マ)と、そして庶務に携わったここ現地の連邦軍人の一部には可能性がございますな」

「人の口に戸は建てられん」

 大佐は吐き捨てた。

「これは火種になるぞ。新たな神話級の発見など、ここ十数年は無かったことだ。他国に嗅ぎつけられれば最悪、この上の都市も戦場になりかねん」

「では、ご存知とは思いますが」

 博士は禿げ上がった頭を揺らして言った。

「活性化してからでなくては、奇跡の詳細は判りませぬ。契約者はあくまでも<天使(マラーク)>が選ぶもの。神話級の奇跡を手にするものが誰になるかは人智の及ばぬところです」

「ああ、一刻も早く首都へ移送せねば。民間か敵国に流れでもしたら、いささか有り難くない事態になる」  

 大佐は厳しい顔で言った。

 

「いえ、移送は待っていただきたい」

 だが、そのとき横から中佐が口を挟んだ。

「動かすべきではないでしょう、今はまだ」

 その顔には、傲慢な自信が浮かんでいた。

「遠からず、本国から契約候補者が来ます。その時までこの<天使(マラーク)>はこの都市にて保管するべきだ。深部は都市で最も堅牢な場所、下手に無防備な洋上へ動かしては敵の思う壺です」

 大佐は眉一つ動かさず、中佐に視線を向けた。

「現場では私の指揮下で動いてもらおう、中佐。それとも、私の命令には従えないとでも言うつもりか?」

「僕は正しいと思うことに従っているだけです。あなたこそ、僕の意向に敬意を払ったら如何ですか」

「それは、中央軍情報部からの出向としての言葉か?」

 渋面の錬(レン)大佐に、柚子(ユーリス)中佐はキッと鋭い目を向けた。

「上の意向は絶対だ。あなたの方が階級で上だとしても、僕の指揮系統は本国情報部の直属下にある。キャリアが違うのですよ。お忘れなく」

 中佐は振り向きもせず、その生真面目さに違わない四角四面な足取りで、来た道をさっさと戻っていってしまった。慌てて、博士もその後を追う。

 大佐はそれに続こうとしたが、ふと足を止め、名残惜しむかのように<天使>を振り向いた。

 それは相も変わらず沈黙していた。石と同じことだ。

 <天使>はそれのみでは何の意味もない。契約者がいなくては、ただの大きな石像にすぎないのだ。

 

「果たして、我らの手に収まればいいがな」 

 そして、あかりは音を立てて消えた。

 

 ◆◆◆

 

 ■都市船イザール 地上

 

 残骸拾い達が走り去っていく。

 彼らの怯えたような、面白がるような、その下卑た眼差しが、アゲハと灯(ダーン)のことを舐めるようにしては、都市構造体の奥へと消えていった。

 

 灯(ダーン)。それはシャーン語の名前だ。だが異国語を話し、そして再生する身体を持っているこの青年はどう考えたって普通の連邦人ではないのだった。

「<人間イカリ>なんだろう?」

 アゲハは尋ねた。

「さっき傷が治っていたのは、奇跡を起こしたんだ。<天使>と契約したんだ。そうでしょ?」

「僕はね、死なないんだよ」

 灯(ダーン)は尻尾のような髪を結び直しながら言った。

「剣でも槍でも爆弾でも僕は殺せない。海でさえも……だけどそんなのはどうでもいいことだよ。別に大したことじゃない」

「大したことだろ」

 アゲハは言った。

「<天使(マラーク)>の力を使えるんだ。ねえ、それってどんな気分?」

 羨ましかったのだ。

 灰(ヘザー)ですら腰を抜かして逃げていった。アゲハが刃向かったからでなく、灯(ダーン)の不死を目の当たりにして。結局は、おのれの意思を通すためには力が必要なのだ。大それた奇跡の力が。

「きっと特別な気分なんだろう?いいなあ、死なないってさ。おれも叶うなら――」

「――特別な力を使えるっていうことなら、別に大層な気分にはならないさ」

 灯(ダーン)はすげなく言った。

「力は手段にすぎない。大事なのは欲することだ。君はさっき、おのれの意思を通した」

「通した?」

 アゲハは自嘲的に笑った。 

「あんなのが?まさか。あいつは灯(ダーン)の奇跡を見て逃げていったんだ」

「それを僕にさせたのは君だ。君の誇りだ」

「そんなもの、無駄なんだよ!」

 アゲハは突然笑みを消して怒鳴った。

 羨ましかったのだ。

「あんたには特別な力があるからそうやって言えるんだ。最低限の、ひとりで生きていくための“力”もないような人間の気持ちがわかるのかよ。手段にすぎないって?なにを望んだって手段がなけりゃ何にもならないのは当たり前じゃないか」

 アゲハは息を漏らしながら唸った。

 

 それから、しばらくの沈黙があった。

「ごめん」

 アゲハは言った。

「おれを助けてくれたのはあんたなのに。こんな、当たるようなことをして」

「僕は僕のしたいことをしているだけさ。それで礼を言われる筋合いはない。それに僕はその“助ける”とかっていう言葉が嫌いなんだ」

 灯(ダーン)は首を振ると、足を止めた。

 砂の上に点々と続いている足跡が、途中から乱暴に消されていた。

「さすがに我に返ったか。まあ、こんな場所だからね」

 灯(ダーン)はそう言うと、アゲハに目を向けた。

「彼の居場所は知ってる?」

「言っておくけど、おれはこれ以上何かする気はないよ」

 アゲハは言った。

 確かに、報復はありえるだろう。殺されるかもしれない。だが、そのために灰(ヘザー)を、たとえば念入りに痛めつけておこうとは思わなかった。そんなことをしても憎悪を増やすだけだ。それに彼には非正規市民の仲間もいる。だから今、アゲハはただ逃げることを考えていた。

 イザールは広い。海岸伝いに逃げればどこへだって行ける。

「君、それでいいの?」

 灯(ダーン)は呆れていた。

「だめだな。負けん気がつよいくせに諦め癖がついている。臆病。頭が良すぎるのがよくないんだね、もっと馬鹿になったほうがいいよ」

 失敬な。アゲハは顔をしかめた。灯(ダーン)は首を振った。

「ああ、いいよ、じゃあ、わかったからさ。君がどうするかは置いておいて、たぶん恨みを買うとすれば君よりむしろ僕だと思うんだ。だから彼のいそうな場所を教えてくれないかな。溜まり場があるだろう?あの手の人間にはね」

 アゲハはためらったが、おずおずと口を開いた。確かに灯(ダーン)を巻き込んでしまったのは事実なのだ。彼にも自分を護る権利があるのかもしれない。死なない身体だとしても。

「いつもなら……自信はないけど」

 アゲハは言った。

「二番通りの“笛吹き鳥”っていう酒保に」

 灯(ダーン)はその裂けるような笑顔でニヤッと笑うと、アゲハの手を取って、言った。

「ありがとう。酒保だね」

 そのエメラルドの目がなにか、悪戯っぽい光を湛えていた。アゲハは手を離そうとしたが、灯(ダーン)は硬くその指を握り締めていた。

「舌を噛むなよ」

 そして、彼は瞬きをした。

 

 次の瞬間、あたりが一変した。

 景色が動いた。きり替わったと言ってもいい。砂丘の中にそびえていた崩れかけの都市構造体、そこからこぼれ落ちる珪素の砂粒の筋、薄暗い隙間とそこで動き回る採掘屋(ザークヤィル)の影は全て消え失せ、かわりに乱雑な大通りの汚れた街並みが現れた。

 どっ、と音が押し寄せてきた。

 アゲハは耳を押さえた。下品な音楽が鳴り響いている。すえたような匂い、革袋に詰められた酒の匂いが鼻を刺した。まばらな人ごみの半分は酒に酔い、もう半分ほどは酒よりも悪いものに酔っている。灰色の店構えはかつての都市構造体ではなく、もっと新しい、廃材を組み上げて造られた手製のものばかりだった。

 間違いない。ここはもう内陸側、非正規市民の旧市街の中だ。アゲハは近くの標識を見あげた。落書きに埋もれて消えかけた共通文字で、“二番通り”と書かれていた。

「どうやって?」

 アゲハは灯(ダーン)を見た。

「ここはいったいどこなんだ」

「どこって。君が教えてくれたんじゃないか。名前を」

 灯(ダーン)は肩をすくめた。

「さあ、行こう。奴をとっちめにね。どうする?跪かせて二度と手を出さないと誓わせるくらいじゃあ甘いと思うんだ。この都市から出て行かせるというのはどうかな。うん、それがいい。遠くへ行ってもらおう」

 灯(ダーン)は凶暴な笑みを浮かべた。

「路銀すら足りないほどの遠くへ」

 これも灯(ダーン)の、不死の奇跡の一部なのか。アゲハはまだ混乱して辺りを見回していた。当の灯(ダーン)はすたすたと見知らぬ街を歩きだしていた。

 

 笛を吹く海鳥の絵が掲げられた酒保は、すぐに見つかった。 

 目つきの悪い黒ずくめの若者が屯している。何人かは重たげな短剣を手遊びに弄んでいた。アゲハと灯(ダーン)が近づくと、彼らは野良犬のように牙を剥いて唸った。

「灰(ヘザー)に用がある」

 灯(ダーン)は言った。

「出しなよ」

 ごろつきは灯(ダーン)を頭の上から下まで眺め回すと、何か得心したのか、端的に言った。

「失せろ」

 灯(ダーン)は無視した。ごろつきのひとり、ひときわ背の高いものがにじり寄って彼の額を見下ろした。

「失せろ。それとも殺されたいか」

 灯(ダーン)はため息をついた。

「臭いな」

 アゲハは聞き違いかと思った。彼らの方でもそうだったのだろう。だが、灯(ダーン)は顔の前で手をぱたぱたやりながら続けた。

「ちゃんと身体を洗ってるのか?ひどいものだ。まるで腐った魚と口をきいてるみたいだよ。まさしく君の言うとおり、匂いだけで死にそうな気分になるね」

 ごろつきは短剣を握ったまま、灯(ダーン)の頭を、まるで殴り飛ばすようにして掻っ切った。だらりと血が流れた。額からこめかみにかけてざっくりと切れている。

「こんなのばかりだな」

 灯(ダーン)は平然としていた言った。

「少しくらい奇跡かなにか使える奴はいないのか?」

 ごろつき達はたじろいだ。傷が赤い煙を上げて塞がっていく。血があっという間に乾き、埃のようにぼろぼろと崩れた。

 危険についての特有の嗅覚を働かせたのか、ごろつき達は素早かった。ふたりは背を向けてさっさと逃げ出し、一番背の高いものもゆっくりと後退る。

 だが、灯(ダーン)の腕がその胸ぐらを掴んだ。

「まあ落ち着きなよ。僕らは灰(ヘザー)を捜しているだけだ。店の中にいるのか?」

 ごろつきは首を振った。灯(ダーン)は面倒そうに瞬きした。

「じゃあどこにいる」

 ごろつきは黙って指を指した。

 

 通りの向かい側で、灰(ヘザー)が転がされていた。

 セラミックの杖で殴られている。それを持っているのは屈強な大男で、高価そうな装身具を身に着けていた。なにせ、その殆どは鉄と鋼だったのだから。その周りには取り巻きなのだろう者たちや、情婦のような女が、冷酷な目で灰(ヘザー)を見ている。

「あれは?」

 灯(ダーン)の問いに、ごろつきは大人しく答えた。

「借金だ。あの人は金貸しだから……灰(ヘザー)は前からかなりの金を借りていた。相当焦げ付いていたらしい。約束の日がそろそろだったんだ」

 金を返せとか、そんなふうな怒号が確かに聞こえてきていた。

 ――明日までに一万ゼータ。

 アゲハの脳裡で、灰(ヘザー)の言っていたことがこだましていた。

 恐ろしい悪党だと思っていた。アゲハたち残骸拾いを殴りつけて躊躇わないごろつきだと。だが、ああやって通りに転がされて、砂と埃にまみれながら許しを請うているさまは、そんな印象とは全く違っていた。

 アゲハは歯を食いしばった。あれではまるで、さっきまでの自分と同じではないか。

「違う」

 アゲハは唸った。

「違う!」

 灰(ヘザー)は恐ろしい敵であるはずだった。

 アゲハを虐げる敵であるべきだった。けれど彼もまた誰かに虐げられる弱者に過ぎないのだとしたら、いったいどこにその敵意を向ければいいのだろう。 

 

 アゲハは思わず、駆け出していた。

 人垣を押しのけて、金貸しが面食らうのも構わずに、その手が灰(ヘザー)の胸ぐらを掴んだ。

「何をしてるんだ、そんなざまで!」

 アゲハは共通語で叫んだ。

「おれをずっといたぶっていたくせに。敵のくせに。今になってそんな、誰かに殴られる側に回ろうっていうのか!」

 灰(ヘザー)は呆然としていた。

 おのれにのしかかっている少年があのアゲハなのだと、分かっていないような顔つきで。

「おいおい、君、いきなり出てきて何かね?」

 金貸しが肩をすくめた。

「異国民(イリン)だな。正しい言語を持たない民。この私の仕事を邪魔しないでくれないか。それとも、君がこの男の借金を払うのかね?」

 金貸しは言った。

「それでも構わんよ。私は。もっとも卑しい異国民にそんな金の持ち合わせがあるかどうかは疑問だが。涙ぐましいね。金のない屑どもの馴れ合いというやつは」

 アゲハは呆けている灰(ヘザー)の胸ぐらを投げ捨てると、唾を吐き捨てた。異様なほど頭に血が上っているのがおのれでも分かった。

「うんざりだ」

 アゲハは吐き捨てた。

「誰が卑しいって?人に言えるほどお前は高潔なのかよ、禿じじい」

「異国民ごときがそんな口の利き方を」

 金貸しの目が冷酷に鋭くなった。

 彼は嵌めていた指環の一つをアゲハに翳すと、続けてなにか言おうとした。

「愚かな異国民。傲慢さの代償は、傷で支払うがいい――」

 

 灯(ダーン)の指が、その手を押さえた。 

「やめなよ」

 青年は言った。ごろつきが後ろでそそくさと逃げ出していた。

「この男は僕らの獲物なんだ。君が彼に何を貸しているか知らないが、僕らの用が済んでから取り立ててもらえないかな」

「連邦人(シャーン)か。これはおまえの奴隷か?」

 アゲハを指さして、金貸しは言った。アゲハは憤慨した。

「奴隷だって?誰が!」

「彼は僕の、今日からの友達だよ」

 灯(ダーン)は臆面もなく言った。

「友人に対する侮辱は許せないたちでね。この男にもきっちり代償は払ってもらう。そうだろう?アゲハ」

 アゲハは灰(ヘザー)を見下ろした。

 

 地面の彼はしょぼくれて、薄汚れていた。

 あんなに恐ろしく残酷に見えていたのに、今やなすすべもない。そう思った瞬間、憎しみや哀れみとも違うなにかが胸を満たした。決して愉快ではないものが。

 

「――いいよ」

 アゲハは灰(ヘザー)を靴の爪先で押し退けて、あっさりと跨ぎ越した。

「もういい。もう十分だ」

「十分だって?」

 アシタ語に切り替えて灯(ダーン)は言った。

「なにが十分なのさ。この男は君の敵だ。憎い敵だったはずだ。それをこのままにしておくことを、君の意思は許すのか?」

 憎悪はある。

 嫌悪も、踏みにじって後悔させてやりたいという思いもある。だがそれ以上に、重たげな疲れが心を満たしていた。

 灰(ヘザー)も所詮は誰かのしもべだった。きっとこの金貸しも同じなのだろう。支配し、支配され、その鎖はどこまでも続いている。残酷に威張っているやつも、ところを変えれば誰かの奴隷なのだろう。

「おれはいい。やりたきゃ勝手にやれば」

 アゲハは灯(ダーン)を見上げた。

 弱いものがさらに弱いものを探していただけのことだったのだ。金があっても、別の場所に逃げても、きっと次の支配が待っている。最悪の気分だった。

 それとも、その一番“上”まで行ければこのどうしようもない連鎖からも自由になれるのだろうか?だが、そんなことは無理なのだと、アゲハにはよく分かっていた。

 灯(ダーン)は拍子抜けしたように頷くと、金貸しに向かって言った。

「命拾いしたね」

「待ちたまえ。私の仕事に手を突っ込んでおいて、ただで行かせると――」

 灯(ダーン)はそういう金貸しを振り返った。

 そのエメラルドの瞳がじっと彼を見つめた。なにも言わない。指先一つ動かしていない。だが、灯(ダーン)が何かしているのは明らかだった。金貸しの額に脂汗が浮かび、そばにいる取り巻きもぞっと息を潜める。

 動けなかった。

 

 灯(ダーン)はアゲハの背中を追うように、そこを後にした。その足取りが遠くなってからやっと、彼らを縛っていたなにかも霧散して消えた。けれど、誰一人としてあの青年を追おうとはしなかったのだった。

 

 ◆◆◆

 

 ■イザール 沿岸

 

 海風が抜けていく。

 かすかに甘い匂いを含んだそれは、崩れた都市構造体の谷間を吹き抜けて、白い砂を運んできていた。

「家に帰らないのかい?」

 ぼうっと座っているアゲハに、灯(ダーン)は声をかけた。

「ここは冷えるよ」

「家なんかないよ」

 アゲハは言った。非正規市民の、あまつさえ異国民が、住処など持てるはずもなかった。どうせ蓄えるべき財産もない。雨さえ降らなければどこでも寝られる。

 路地は終わっていた。一段下になった町並みが、目の前に広がっている。旧市街を眼下に望む高台で、アゲハは手摺にもたれかかった。パイプを嵌めただけのそれの足元には、水道管と電源管がうねっていた。

 

 今日はどこで眠ろうか、そんなことを考えるのも億劫だった。

 町並みの向こうには海が見える。きらきら光るさざ波が見える。

 右舷の街は、都市の北東の海に面している。水平線の向こうにはきっと別の都市船があり、その果てには別の国があるのだ、きっと。

 けれど、アゲハはどこにも行けない。

 海鳥が風に乗って踊っている。彼らなら別の都市船に行けるのだろうか。それともこのイザールで一生を過ごすのか。

「他の国って、どんなだった?」

 アゲハは尋ねた。灯(ダーン)はため息をつきながら言った。

「行けばいいじゃないか。世界を見たいと言って手作りの船で出航したやつも僕は知っている。やってやれないことはないだろう」

「その人はどうなったの?」

 アゲハは尋ねた。灯(ダーン)は平然と答えた。

「死んだよ。嵐に巻き込まれて」

 アゲハはちょっと笑った。面白かったからではない。

 

 そのとき、灯(ダーン)がはっと顔を上げた。

 風の匂いを嗅ぐようにして、海にまなざしを向けている。その口元が楽しげに持ち上がった。

「どうしたんだ?」

 アゲハは尋ねたが、答えはなかった。かわりに青年は指を伸ばし、洋上の一点を指し示した。

 

「来たか」

 そのさざめく波の上に、滑るように動く小さな影があった。

「思ったより早かったな。いい耳をしている。最悪、一月くらいは覚悟していたんだが」

 その言葉には期待が滲んでいた。なにかを楽しみに待っている口調だったのだ。

 

 船ではない。それは水を割くのではなく、躍る波の先を掠めながら、近づいていた。触れもしないのに、脚の下で波紋が後ろに拡がっていくのが見えた。

「血の気の多いやつらだよ」

 そう、それは人の形をしていたのだ。両の足があり、手があり、背には翼のような構造体が突き出し、頭はこの都市船をじっと目指している。

 影は大きさを増していた。

 近づいている。

 アゲハは息を呑んだ。呼吸が早くなるのがわかった。腹の底に冷たいものが走った。

 アゲハは知っていた。現れたそれが何なのか、よく知っていた。 

「あれは……」

 

 黒い影の頭上には、光の円環が回っていた。

 

「……<天使(マラーク)>!」

 

 to be continued…

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