<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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第二話 天使降臨

 ■洋上

 

 その<天使(マラーク)>はゆうゆうと沖で足を止めた。

 人型の体躯はまるで黒曜石から削り出したようで、その手足には毒々しい山吹色の縁取りが走っている。眼窩があるはずのところには、それと同じ黄の光が点っていた。

 頭上には円環が回っている。冷たく白い光の細い環だ。遠目には金属を曲げて作ったリングのようにも見えた。

 黒曜石の指を持ち上げて、<天使>は手に持っていた杖の石突を都市船の方へ向けた。 

 

『《渦潮(アルボル)》』

 

 <天使>は、人間と同じ声でそう告げた。

 杖の先では、何もないはずの空に線が走っていた。まるで細いものが横に引っ掻いたような線だ。その線がゆっくり、上下に別れて開こうとしている。

 <天使(マラーク)>は杖を振り上げた。空中の()()を開き、そして、眩しそうに()()をした。

   

 ◆

 

 ■曳航連邦・辺境都市イザール中枢管制塔

 

 大抵の都市は巨大な管制塔を持っている。地上からは何百ヴルという高さにある巨塔だ。普通の船舶なら、艦橋にあたる部分だろうか。

 柚子(ユーリス)特別中佐はその中腹で、広い窓の外に目をやりながら、傍らの受話器を持ち上げた。

「大佐どの、ご報告を」

『どうした?』

「敵襲です」

 中佐は受話器を神経質そうに叩いた。

「未確認の<天使(マラーク)>が近海に出現しました」

 柚子(ユーリス)中佐は遠くの黒い影を見つめ、苦々しげに言った。

「数は1。現在、都市の右舷沖にて停止中。ですが、武装らしきものをこちらに向けています。周辺に船舶はなし」

『……なぜこれほど早く?』

 大佐は通信の向こう側で唸った。中佐は肩をすくめた。

「僕に訊かないで下さいよ」

 現れてしまったものはどうしようもない、と中佐は思った。船を出していたら案の定洋上で襲われていたな、と、少しだけ溜飲を下げる。

「ネズミが潜り込んでいるのは確かでしょう。通信系の奇跡でも絡んでいるのか……少なくともこのタイミングで来たのですから、狙いは神話級(例のあれ)で間違いないでしょうね。どこの手のものかは知りませんが」

 中佐は手に持っていた双眼鏡を置き、そこからフィルムのようなものを抜き取って大事そうに懐に仕舞い込むと、受話器を左手に持ち替えた。

「頭の上、《円環》は目視で確認しました。完全に活性化状態です」中佐は少し考えて付け加えた。「スペクトルは“黄”の伝説級。杖を持ってますね。……どうします?よければ僕が対応しますけど」

『ここの現地の部隊は?』大佐は言った。『<人間イカリ>の一人くらい動かせるだろう』

「それが契約者は全員、はるか東部戦線のほうに出払ってるようで。ええ」中佐は少しだけ声を小さくした。「……ここの司令どのが手柄欲しさに送り込んだとかなんとか」

『何を考えてるんだあの平和ボケは!ここが南部国境の要衝だと解ってないのか?軍法会議ものだぞ、そのくせ部隊の立ち入りは煩く制限して――』

「ですから、僕に言わないで下さいよ」

 中佐は金の髪を撫でつけながら言った。

「それで?」

『任せる。私が地上に上がるまで……いや、いっそ君の裁量で好きに動きたまえ。その方が動きやすいだろう、私は君の奇跡を詳しく把握しているわけでもないしな。とにかく、万が一にもあれを奪われてはいかん』

「当然。そうさせて頂きます」

 通信は切れた。中佐は窓際にツカツカと足を進めると、そこにいた見張り番に声をかけた。

「と、いうことで、あれは僕が対応します。あなたがたの出動はしなくて結構」

「よろしいのですか?司令の出撃許可もなく」 

「そんなもの待っていられませんから。それに、僕の指揮系統はあくまで本国に帰属するものなので」

「で、では、報告はしても?一応、都市内での奇跡の使用には認可が必要でして」

「ご随意に」

 呆れたように中佐は言うと、やおら全面張りの窓を蹴り破った。

 硝子が飛び散る。飛び込んできた風に煽られながら、中佐は兵に言った。

「では、後片付けだけお願いしますね」

 そして、中佐は窓から飛び降りた。兵士が慌てて覗き込んだときには、もうその背中は見えなくなっていた。

 

 中佐は目を開けた。

 耳元で風が唸る。どんどん近づいてくる地上が、視界を飲み込んでいく。叩きつけられたらきっと即死だ。 

 

 眼下には都市中枢の森林地帯、それを囲む荒野の沿岸地帯。そしてその向こう側の海に、あの黒い“敵”が佇んでいる。

 中佐はそれを睨みつけた。なにせ<天使>本体が敵とあっては、こちらも()()して戦わざるを得まい。

 もちろん、壮大な自死のために飛び降りたわけではなかった。

「来い」

 左手を掲げる。紋章が光と熱を持った。 

 中佐は高らかに叫んだ。

 

「【禁則奇跡 オセル】!」

 

 ◆

 

 ■南端都市イザール・右舷沿岸地帯

 

「黒い……<天使(マラーク)>……」

 アゲハは現実を自分に言い聞かせるように呟いた。

 それはヒトを象ったようなシルエットで、洋上に静止していた。重力に逆らって空を踏む姿は、まさしく超常のものだ。頭上には光の円環が回り、背には小さな翼の意匠が突き出している。

 

 それが杖を突き出し、空中を引き裂いた。

 なにもない空間に切れ目が走り、上下に開く。その内側には黒く渦巻くものがあり、周りの風を段々と吸い込み始めていた。

 まるで瞳のようだった。空に開いた瞳孔が、あらゆるものを吸い込んでいるのだ。

「奇跡だね」

 (ダーン)はつまらなさそうに言った。

「真空?吸引?瞳?それか……“渦の天使”とでも言ったところかな」

 アゲハは一歩後ずさった。<天使(マラーク)>が来たのなら、ここも戦場になるのだ。 

 渦巻く“目”はその勢いを増し、風どころかその下の海水をも吸い上げ始めた。よじった紐のようになって、大気に開いた瞳孔へと水が昇っていく。

『《渦潮(アルボル)》』

 また、厳かな誰かの声が響いた。

 二つ目の“目が開く。今度は街の上だった。<天使>はもう既に浜辺と旧市街の境目にまで到達していた。地上10ヴルほどを滑るようにして、どんどんと南西を、都市船の中央の方角を目指している。

「あの、目……街を吸い込んでる」

 アゲハがそう言った途端、二つ目の“目”の直下で、家屋が砕け散った。無数の瓦礫と幾人かの人影が、まるで栓を抜いた桶の上に浮いた埃のようにぐるぐると吸い込まれていく。  

 

 アゲハは思わず駆け出そうとして、その足を止めた。<天使>の速度は人のそれよりずっと速い。まともに逃げたって避けられやしない。

 でも、同じ<人間イカリ>ならどうにかなるかもしれない。

「ねぇ、あんたは、(ダーン)は、<人間イカリ>なんだろ?さっきみたいに奇跡を使って、あいつを追い払えないの?」

 アゲハは言った。だが、彼は得心しないようすで首を傾げた。

「僕に言ってるのかい?」

「名前を呼んだだろ。早く、不死の<天使(マラーク)>を使って戦ってよ!」

「嫌だね」

 (ダーン)は首を振った。

 

「どうせ、あんな奇跡じゃ僕は死なない。吸い込まれようが踏み潰されようが、物理的な損傷じゃ僕を殺すなんてことは永遠に出来ない。それに、あの敵襲は僕にとっても都合がいいんだ……探しものを炙り出してくれるかもしれないしね」

「探しもの?」

「そう。僕は連邦が掘り出した()()を目当てにこの都市まで来たんだよ。あいつが引っ掻き回してくれるならそれでいい。あぁ、気を付けなよ、君は一度死んだら終わりだからさあ」

「言われなくても知ってるよ!」

 アゲハは叫んだ。

「この薄情者!」 

「それはそうと」(ダーン)はアゲハを遮って言った。

「この街にだって他に契約者はいるんじゃないのかい?」

 そんな(ダーン)に向かってアゲハがまた何かを喚こうとしたとき、別の声がどこからか高らかに響き渡った。

 

『《(オセル)》!』

 そして、あたりが暗くなった。

 

 ◆

  

 ■【禁則奇跡 オセル】

 

 その<天使>を、誰もが流麗だと評するだろう。

 対峙する“黒”とは対照的に、丸みを帯びた純白に身を包んだ外観は、青磁のような、あるいは儀礼鎧のような気品に満ちている。滑らかな表面には薄青い文様が走り、金の縁取りが陽を映してきらめいている。頭上には《円環》が回り、背には翼がある。

 そしてその端々には、大きな螺子がいくつも突き刺さったような螺旋形が突き出ていた。

 

 街の上に浮かび、その影を町並みに落としながら、白い<天使(マラーク)>、柚子(ユーリス)中佐は敵を睥睨した。

『賊よ』

 中佐は<天使>と同化した身体で、高飛車に叫んだ。

『速やかに同化を解除して投降し給え。現在、君は曳航連邦所属、南端都市イザールの領土を侵犯している。即座に降伏すれば生命だけは保証してあげましょう』

 黒い<天使(マラーク)>は答えなかった。“目”は相変わらず、近づくものを延々と吸い込んでいた。

 中佐は苛つきを隠そうともしなかった。

『聞こえなかったんですか?今すぐに、奇跡を解除するんですよ。それとも蛮族だから人間の言葉を解さないのですか?』

 “黒”は押し黙っていたが、やがてゆっくりと前進を再開した。頭上の《円環》が微かに歌うような音を立てていた。

『ならば、こちらも奇跡を使うまでだ』

 白い<天使(マラーク)>は、後ろ手に携えていた身の丈ほどもある杖を振り上げた。

 そして、“目”が悲鳴を上げて閉じられた。

 

『……《(オセル)》!』

 黒い<天使(マラーク)>は驚いたように“目”の方へ顔を向けた。閉じられるはずがないのだ、生半なことでは。

 だが、渦の目は瞼を閉じていた。無理やり縫い留められていたのだ、青磁のように美しい、一本の大螺子に。

『ふん』

 中佐は勝ち誇って笑った。

『伝説級。杖を持ち、遠隔への展開が可能な奇跡。僕と()()でしょうね。同格、同系統ならば、僕の“禁じる”奇跡に敵うはずもない』

 白いオセルは肩から螺子を引き抜き、槍のように構えた。

『遠隔操作は、この僕の土俵でもある!』

 そして、オセルは長螺子を投擲した。

 “黒”は両掌を突き出しそれを止めようとしたが、無駄なことだった。螺子は掌を幻影のようにすり抜けると、胴体と右腕を貫く位置で静止した。

『《禁》』

 そして、オセルは吶喊した。

 《円環》に支えられた巨体が空を蹴り飛ばす。螺旋が刻まれた杖を振り上げて、中佐が絶叫する。

『《封鎖禁爆(オセル・プツァーツァ)》』

 小さな螺子が溢れ出す。それらは“黒”の左腕へと群れをなして突撃し、

『“爆”せ』

包み込むように貫いて、左の前腕を押し潰した。

 “黒”はそれを嘆くように左腕を振り上げ、身体を捩った。

『もう一度言って差し上げましょう。投降し給え。今なら、なるべく安らかに息の根を止めてあげますよ』

 “黒”を見下ろし、オセルはその喉頸を掴もうとした。

 

 だが次の瞬間、オセルの手は弾かれたように引き戻され、渦巻く“目”に磔のように吸い上げられていた。

『貴様』

 中佐は悪態をつこうとして、言葉を切った。

 黒い<天使(マラーク)>の背後では、数え切れぬほどの渦巻く“目”が、あたりをじっと睨めつけていた。一つや二つではない。さっきまでとは比べ物にならない数の“目”が、空に開いている。

 それらは一斉に、全てを吸い込み始めた。

 

 ◆

 

 ■旧市街・地上

 

 アゲハはもうなりふり構わず走り始めていた。

 朽ちかけた遺跡の上に積もるように築かれた町並みを、風のように通り抜けていく。<天使(マラーク)>がぶつかり合う衝撃音が背を震わせていた。まるで、凡人は疾く去れと告げるかのようだった。

「最悪だ」

 どっちかは連邦軍の<人間イカリ>なのだろう。そんな区別はことここに来てはどうでもいいことだったが。

「最悪だ……最悪だ!」

 家が弾け飛ぶ。珪素製の都市構造体が裂け、割れ、砕けていく。

(ここは旧市街、都市の非正規の外縁。軍人が気に掛けるはずなんかない)

 ここにいるのは正規の市民権を持たない人間ばかりだ。いくら踏み潰したって気にも留めるまい。 

 アゲハは構造体の上を走った。早く、少しでも遠くへ離れなければいけない。

 故郷が亡んだときもそうだった。<天使>というやつは!

 そんなアゲハを嘲笑うように、彼の歩幅など取るに足らないと見せつけるように、“黒”の奇跡は容易く彼を追い越した。

 無数の“目”が大気に散らばったのだ。見上げる空を渦の目が瞬く間に埋めていく。

 なにもない場所が裂けて、渦になるなんて、まったく不合理だ。不条理だ。

「奇跡……なにが奇跡だ」

 アゲハは吐き捨てた。味方してくれない奇跡なんてただの呪いだ。

 一番近い“目”は瞬きをすると、アゲハの周りの廃墟を砕き割りながら吸い込み始めた。

 アゲハは躊躇わなかった。一瞬の遅れが命取りだと、身にしみて判っていた。アゲハはあの不死の人間とは違う、吹けば飛ぶような徒人(ただびと)に過ぎないのだから。

 天へ昇る渦の柱たちの隙間を縫って、アゲハは廃墟を蹴った。

 産毛が引っ張られているのを感じて、アゲハはぞっと戦慄した。“目”は少しずつだが散らばるように動いている。目算を誤れば吸い込まれて終わりだ。

 

 当てはあった。

 都市船は、上層部より下層の基礎構造部のほうが広い。都市の下は折り重なる迷宮のようになっていて、扉を閉じてしまえば<天使>でさえも易易とは入ってこれない。

 普段は海抜より下に行くことを恐れる人々も、この大騒ぎには堪らず下層へ逃げ込んでいるらしい。市街地の人々は既に疎らで、流れる水のように近い坑道口(コリドーシル)のほうへと動いていた。

 アゲハは息を荒くし、胸を押さえながらちらりと空を見上げた。最初に現れた“目”は、相変わらず海水を吸い上げていた。

 ふと、嫌な予感がした。

 あの吸い込まれたものは何処へ行くのだろう?奇跡だなんて言ったって、際限なくものを吸い込めるものだろうか。無限に何かを吸い込むだなんて、そんなだいそれた奇跡があるものだろうか。

(まさか、あの目は)

異国民(イリン)!』

 そのとき突然、アゲハの足を手が掴んだ。

 アゲハは体勢を崩して転んだ。壁に手を突き、咳き込みながらすぐ立ち上がる。

 そこにいたのは、(ヘザー)だった。

『お前、この小僧が!どこへ行く気だ!』

『今そんなことをやってる場合かよ!』

 アゲハは怯えなんかかなぐり捨てて共通語で喚いたが、すぐにその語気は萎んだ。

 (ヘザー)は足から血を流していた。この騒ぎの中、どこかで怪我をしたらしい。右足を引きずり、アゲハを睨んでいる。

異国民(イリン)が!さっさと、俺を助けろ!肩を貸せ、近くの坑道口(コリドーシル)まで連れてくんだ!』

 アゲハは唇を引き結び、躊躇いがちに走り去ろうとしたが、(ヘザー)はアゲハの左腕を掴んで引き止めた。

『逃がす、か!この、グズが!俺が()()()()()やらなきゃ、お前みたいなのの居場所なんか簡単に失くせるんだぞ!故郷(くに)も家族もねえ、口もろくに利けねえくせによ、俺に逆らうのか!』

『知るか!嫌がらせしかしないくせに!お前なんか自分ひとりで逃げればいいだろ!』

 アゲハは心底頭に来て言った。

『なにが“目をかけて”だ!だいたい、お前に仲介してもらわなきゃ食べ物も買えないなんて、そっちのほうが土台間違って――』

 

 そのとき、音が変わった。

 (ヘザー)でさえ、そちらを見た。

 海の“目”はもう海水を吸い上げてはいなかった。代わりにその“瞼”が痙攣を始めている。それは幾度か脈打ち、渦が解けるように膨らんで消えた。唸るようなふるえ音が甲高く叫んだ。

「まずい」

 そして、それが破裂した。

 

 “目”が吸い込み溜め込んでいた海水と大気は、圧縮から解き放たれ、無数の飛沫になって壊れた旧市街を襲った。目に見えるそれからやや遅れて、重い爆発音が耳に響いた。

 人の頭ほどもある水滴が無数に降り注ぐ。風を切る音がして、飛沫が弾ける。

 アゲハは思わず顔を覆った。あれに触ったらおしまいだ。もし触ってしまったら……

 

 アゲハは目を開けた。

 眼の前で、(ヘザー)が死んでいた。 

 降ってきた海水に触れたのだ。胴を真上からくり貫かれたように溶解させて、首を無くした身体が倒れ、崩れ落ちた。桃色の肉と、白い骨の鮮やかさが覗いている。

 飛び散った海水が甘い芳香になって揮発していく。アゲハの腕を握り締めていた死体の手が緩み、水音を立てて落ちた。

「……逃げ、なきゃ」

 

 あたりは惨憺たる有り様だった。

 運悪く海水に触れた人々が、身体を失くして横たわっている。中にはまだ生きていて、這いずっているものも大勢いた。

 アゲハは自分の左腕を押さえた。飛んできた雫に触れてしまったのだろう、そこにはいくつかの凹みが、痛みもなく開いていた。

「逃げなきゃ」

 甘い匂いがそこらじゅうを覆っていた。優しくて温いそよ風の、ちぐはぐな穏やかさが気持ち悪かった。

 アゲハは腹の底を掴まれたような悪寒とともに、後ろを振り返った。瓦礫をしこたま吸い込んだ渦の“目”たちが膨れ、次々に弾けようとしていた。

 遠くには、あの蒼白い<天使(マラーク)>が“黒”と鎬を削っているのが見えた。

 アゲハは疲れたように足を止めた。

 

「なにも――」

 アゲハは呟いた。轟音と、街の軋む音と、うめき声が耳を塞いでいる。

「おれは何もしてないじゃないか!」

 アゲハの心を支配していたのは、激しい怒りだった。どうせ、今からではどれだけ走ったって坑道口(コリドーシル)には届かないのだ。アゲハの歩幅は、奇跡の前にあまりにも小さかった。

「悪いことなんか何もしてない!ただ生きてた、何もなかった、やりたいことも、やれることも!それなのに、これで終わりなのかよ?」

 許せなかった。人間の領域をはみ出した力も、それを振るう彼等の傲慢さも。

「<人間イカリ>、<天使(マラーク)>、それがどれだけ偉いっていうんだ!こんな、憎まれもせずに、狙われもせずにさぁ、たまたまそこに居たってだけで、それだけで死ぬのは嫌だ、嫌なんだよ!」

 “目”がひときわ大きく揺らいだ。それらはおしなべて蒼白の<天使(マラーク)>のほうを睨んでいた。

「少しはこっちを見ろよ、おれを見ろ!」

 

 そして、“目”は次々と炸裂した。

 

 ◆◆◆

 

 雨のように、砂礫のつぶてが降ってくるのをアゲハは眺めていた。

 走馬灯ってやつだろうか。あたりの色が失せていく。風も音も光も灰色に溶けて、緩慢になっていく。

「あぁ……」

 か細い怒りの吐息を吐いて、アゲハは己の死を待っていた。

 故郷を戦火に焼かれ、落ち延びた先の敵国でも爪弾きにされ、なんの希望もない暮らしだった。ただ生命を繋ぐだけの、代わり映えもしない灰色の日々だった。

(その果てが、これか)

 身体は動かなかった。灰色の時間の中で、感覚さえも淡くなっていく。迫りくる石礫の雨が、ひどくゆっくりと近づいてくる。漂う砂煙さえ、凍りついたように遅い。

 このまま灰色に……“死”に溶けてしまえたら楽かもしれない。きっと穏やかで、心地よいだろう。

 

 けれどそのただ中に、一つだけ色のあるものをアゲハは見た。

 純白の光の粒が、目の前を漂っている。それに意識を向けると、眼差しを通じて痛みが走るようだった。

 心地よい灰色の世界にあって、それだけが異質だった。

 気づけば、左手が動いていた。それは錯覚だったかもしれない。走馬灯の中での荒唐無稽な幻覚かも……

 

 けれど、やがて、手のひらはそれに触れた。

 途端に光が脈動して、“痛み”が戻ってきた。うねる血潮、打つ鼓動、軋む骨、焦がれる心の“痛み”が。

 それは、命の感覚だった。

「そうだ」

 身体が動く。声が響く!

「おれは、おれはまだ――」

 痛みが全身を覆い、稲妻のように走り、そして左手へ集まっていく。

 

「――生命(いのち)が欲しい!」

 

 ◆◆◆

 

 時が動き出す。

 “目”はその渦の内側のものを全て吐き出して、再び吸引を始めていた。石の礫は触れるものを切り裂き、貫き、穿っては、破壊の波を広げていく。

 

 その惨劇の中心で、アゲハは死んでいた。

 砕け散った瓦礫の切っ先が、全身を貫いたのだ。血と臓物を溢れさせ、躯は力なくくずおれて、少年は死んでいた。

「仕方がないな」

 そして、その頭上には肉体の再生を終えた(ダーン)が立っていた。

 彼は構造体の切り立つ頂点で、鳥のように地上を見下ろしていた。真下には、少年の冷えていく身体があった。

「せっかく“手に入れた”のに、ここで終わるのかい?やっと欲したのに、まなざされたのに、選ばれたのに、ここで全て終いだなんて」

 そう言って、(ダーン)は裂けるように笑った。邪悪な、ひどく恐ろしい凶相だった。

「そんなのはさ、赦さないよ」

 拾い上げた切片で、彼は自分の手首を裂いた。吹き出した鮮血は、さっきの海と同じように地上へ降り注いだ。その深紅のひと雫が、まるで丸くて赤い果実のように、アゲハの唇へ飛び込んだ。

 

 変化はすぐに現れた。

 肉が膨らんで、皮膚が繋がり、骨が伸びていく。肉体が再生されていく。溢れんばかりの血が止まり、最後にそっと身震いして、アゲハが目を開けた。

 

 眠りから覚めたようにぼんやりと、手を突き、地を踏み、頭を起こす。その肉体は、完全に蘇生されていた。傷ひとつ無い己の身体に、いっとう驚いているのは、なによりアゲハ自身だった。

 

 生き返った少年が困惑するのをよそに、(ダーン)は呟いた。

「欲することは罪だ。願うことは罪だ。けれど、ただ“生きたい”というその“傲慢”さ、僕は気に入った」

 アゲハはおずおずと立ち上がった。自分の身体を不思議そうに眺め、そして左手に眼を止める。

 

 そこに刻まれた、“髑髏”の紋章に。

「さぁ、叫べ!」

 絶叫する(ダーン)を、アゲハは振り仰いだ。(ダーン)はかきむしるように言った。

「呼ぶんだよ!君の、“奇跡”を!」

「あぁ、そうだ」

 アゲハは頷くと、熱に浮かされたような顔で息を吸い込んだ。その面相は、明らかに正気ではなかった。

 無意識のうちに、口が動いていた。

 少しの静寂。そして、太初(はじめ)には常に言葉がある。

 

「来い、【葬送奇跡 ハルヴァヤー】!」

 

 To be continued……

 

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