<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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第十六話 黙示録の影

 ■【ポラリスの年代記】

 

 それらは<黙示録(アポカリプス)>と名乗っていた。

 

 ――著者不詳(11000?)

 

 ◆

 

 ■交差都市ユディト

 

 柚子(ユーリス)中佐は目の前のものから目を逸らした。

 地面に焼き付いた黒い人影は、ひどく不快な臭いを放っていた。吸い込んだら肺が穢れそうだ。

 うなじを刺していた眼差しの気配もいつの間にか消えていた。いなくなったのか、それとも眼差しを気取らせもしないような手練に代わったのか。

(どちらにしろ、放っておくわけにはいかない)

 中佐は奇跡を練り上げ始めた。

 この手の術を使うのは久しぶりだった。うまくできるかどうか。だが、躊躇っている暇はないのだ。

 中佐は高めた奇跡を両手に集めると、身体の前に手を差し出し、固く握った。

 

 奇跡は、よく水に例えられる。

 それはヒトの<天使>と契約している部分から湧き出し、身体を流れるように巡る。流れを狭めてやれば勢いを増し、鋭く溢れ出す。

 中佐はともすれば堰を切って崩壊しそうなその流れを、強い意思の力で抑え込んでいった。力天使(デュナミス)系統や能天使(エクスシア)系統ならば、それはただ流れていくだけだ。けれど、主天使(ドミニヨン)はその奇跡を身体から切り離すことができる。

 中佐は手帖の頁を広げ、インクで満たされたペンの筆先を走らせた。

 描いたのは翼の長い海鳥だ。柚子(ユーリス)中佐はそれをじっと見つめながら、頁をちぎり取った。

 途端に、引き金を引かれた奇跡が跳ねた。

 中佐の差し出した鳥の落書きに、奇跡が染み込んでいく。中佐はその鳴き声を思い浮かべてみた。きっと甲高い声を上げるだろう。白い羽はよく風を捕まえられるはずだ。

 だが、それは結局のところただの絵でしかなかった。

 ただのインクが紙の上にあるだけだ。褪せたセピアの色に、黒い線の端が滲んでいるのが見える。

 中佐はことばを唱えようとしたが、つっかえてしまって出てこなかった。奇跡がしぼみ始めた。

 中佐は唸り、落書きを見つめた。集中するのだ。絵の中の海鳥は、簡素な線描だが、今にも動き出しそうに翼を広げている。そら、嘴が開くぞ!羽ばたきだすに違いない!さっと地を蹴り、舞い上がる様子がありありと思い浮かぶ!

 今度こそ、うまくいったようだった。

 中佐は口を開き、静かに言った。

「《禁止鳥(オセロット)》」

 そうして、絵の中の鳥は翼を広げ、宙へと浮かび上がった。

 

 中佐は二、三度まばたきをし、それが()()()幻覚でないことを確かめた。海鳥は重なり合ってブレるように姿を増やし、十数羽の群れになって辺りを飛んでいた。鳥のイメージが奇跡に形を与え、風に乗って舞い飛んでいる。紙片のインクは色を失って消え失せていた。

 中佐はほっと息を吐くと、鳥たちに指を差し出した。そのなかの一羽が素早く降り立ち、中佐の手首に頬を擦りつけた。

「命じる」

 鳥たちがはっとざわめいた。

「町中を空から探しなさい。怪しいものを見つけるんです。行け」

 鳥たちはひと声鳴いて、思い思いの方向へ高く舞い上がった。一羽だけ、中佐の肩に乗って留まっている。

 

 奇跡に形を与えるのは、<人間イカリ>なら誰しも、少なからずがやっていることだ。

 そうやって具現化したほうが扱いやすいものもある。なにせ、人間は抽象的なものごとを形のないままに捉えることが殆どできないのだから。

(でも、生き物は珍しい)

 柚子(ユーリス)の術を、(メイ)は感心して眺めていた。あれだけの数にかたちを与え、実体を与え、遠くへ飛ばしてなお操り続けている。主天使系統の技の中でもかなり高等な部類だ。

 並大抵のことではない。訓練と才能がいる。

 

 そこで、柚子(ユーリス)の苛立たしげな顔と目が合った。

「何を見ているんです?」

「別に。いいじゃない、ちょっとくらいさぁ」

 (メイ)はそう言いながらも目を逸らし、肩を竦めた。

 そばには水たまりがあった。今さっきの騒動でパイプが歪んだらしい。透き通る清水が滲み出している。

「あたしはあたしの仕事をしますよぉ」

 (メイ)は屈んで、水溜りにそっと触れた。そして、懐から銅製の腕環を取り出すと、自分の手に嵌めた。子供のおもちゃのような簡素な造りのそれに、僅かだが奇跡の気配があるのを柚子(ユーリス)は感じ取った。

 (メイ)は水に手をかざし、自分のものではないことばを口にした。

「《以心伝信(セレマイ・マルオート)》」

 途端に、奇跡を込められた水鏡が揺らぎ始めた。風も吹かないのに、映るものだけがゆらゆらと揺れている。

「あの双子の奇跡だよ」

 (メイ)は言った。

「映像の<天使(マラーク)>。【伝令奇跡 セレム】……これ言っちゃまずかったかなぁ。まぁ、いいや」

 水たまりはいつしかすっかり曇っていた。水鏡の内側で白っぽい煙のようなものが動き、震え、渦巻き、そして声を上げた。

『何があったのかね?』

 それは、(レン)大佐の声だった。

『わざわざ電源管を使わずに通信してくるなど』

「火急の事態でしたのでぇ」

 (メイ)は間延びした口調で言った。

 柚子(ユーリス)は戦慄の表情を浮かべていた。

(通信系の奇跡とは)

 言葉には出さなかったが。

 離れた場所とことばを交わすには、古くから都市に張り巡らされた電源管を使うのが常だった。パイプを流れる電流は、物を動かす動力であると同時に、有線通信の道具でもある。

 船のうえでもそれは同じことだった。電源管の繋がっていない、たとえば海上の船舶どうしや<天使(マラーク)>に対しては、手旗や光信号(ストロボ)を使うのがふつうだ。

 だから、通信系の<人間イカリ>は極めて貴重だった。

 なにも介さず、ただ奇跡だけで言葉を交わせる力は、皆が欲しがるものだ。聖異物にしろ、<天使>にしろ、そういったタイプは多くない。多くは主天使系統に属するのだが、現在知られているものはすべて、誰かの支配下に入っているはずだ。あるいは、自分で自分自身を支配しているか。

(さすがは特務兵と言うわけですか)

 柚子(ユーリス)がささやかな驚きに打たれているあいだに、(レン)大佐と(メイ)准尉は二言三言、簡潔に言葉をかわし、そして柚子(ユーリス)をのほうを振り返った。

 

『それで、<黙示録(アポカリプス)>というのは本当なのか』

「状況証拠ですが」

 柚子(ユーリス)は無愛想に言った。どこの誰がいちいち仔細な名乗りなど上げて襲ってくるだろうか?

「手の切断。服装。自爆の第三級異物【聖面イグネウス】。資料にあったとおりだ。どれも特徴に一致します」

『君は優秀だな』

 当然だ。柚子(ユーリス)は誇らしげに髪をかきあげた。

「この程度、軍人として当然の知識ですよ」()()()、というところを強調しながら、柚子(ユーリス)(メイ)准尉に目をやった。「それで、どうなさるおつもりですか?」

『本国への連絡は避けられんな』

 大佐は言った。

『都市ひとつ滅ぼしたこともある連中だ、正直、我々だけの手には余る。奴らが動いているなら……少なくとも静かには済まないだろう。ことを急いだほうがよさそうだ』

 大佐は、彼にしては珍しいことに、しばし考え込んでいた。ややあって、水鏡は再び彼の声を伝えだした。

『そう、急がねばならん。こちらは別ルートから標的を追う。君たちは追跡と、引き続き調査を進めてくれ。なにか妙なことになってきたようだ。<黙示録(アポカリプス)>など、出てくるはずがないのに。偶然か?』

「この世に偶然などありませんよ」

 柚子(ユーリス)は冷たく言った。

「ですが、<黙示録(アポカリプス)>が神話級目当てにあのアシタ人を狙うというのは確かに考えにくい。なにか他の狙いがあるのではありませんか?あれに()()()()なにかが」

『……君はもともと情報部にいたんだったな。奴らの密偵がどのレベルまで連邦に入り込んでいるか、見当がつくか?』

「……各都市ならともかく、首都の中枢クラスは思想検査も内偵も効いているはずです。あり得ませんよ。常識的に考えるならね」

『気を揉むだけ無駄というわけか』

 奇跡が終わった。

 水鏡は粘つく煙を上げて、白く濁った。もうなにも映らない。セレムの腕環を仕舞って、(メイ)は首を傾げた。

「ひょっとしてあたしの知らない話をしてた?」

 柚子(ユーリス)は華麗に黙殺した。“滅びの予言”のことは、万が一にも口に出すわけにはいかなかったからだ。

(もし、<黙示録(アポカリプス)>があの予言の成就を狙っているとしたら)

 中佐はしかし、考えるのをやめた。あまりにあり得ないと思ったからだ。予言のことを知っているとしたら、彼らの“耳”は首都の中枢にまで食い込んでいるということになる。そんなのは、荒唐無稽すぎる。

「あと、出てくるはずがない、っていうのは?」

「君、<黙示録(アポカリプス)>のことは知ってるんでしょうね」

 問を重ねる(メイ)に、我に返った柚子(ユーリス)は呆れたように言った。(メイ)は頬を膨らませて答えた。

「あたしだって、さすがに知ってるったら。“最悪の反連邦組織”でしょう?何百年も前からいるっていう」

「では、なぜ最悪なのかは御存知ですか?」

 (メイ)は答えに詰まった。

 瞬きが二回あったあと、彼女は柚子(ユーリス)に向かって口を開けたり閉めたりしてみせた。

 

 柚子(ユーリス)は深く、深くため息をつき、しかしまた同時に自分の知識をひけらかせる喜びを浮かべながら、高飛車な口調で言った。

「<黙示録(アポカリプス)>が、狂人の集まりだからですよ」

 中佐は言葉を選びながら続けた。

「叛逆者は、なぜ戦うんだと思います?」

 彼は指折り数えた。

「例えば金。例えば資源。例えば国土。誰だって欲しいものがある。戦争は奪うために起こすものです。だから、極端な話ですが、欲しいものさえ手に入れば戦は終わるはずだ。そうでしょう」

「“彼ら”は違うってこと?」

 察しが良くてなによりだ。

「彼らの目的は、一切が不明です」

 中佐は静かに言った。

「やることは自爆ばかりだ。何もかもを壊し、最後には自分たちすらいなくなる。まるで戦争と破壊そのものが目的であるかのように」

 (メイ)は静かに考えていたが、やがてぽつりと言った。

「復讐って可能性もあるよね」

 それを思いついたのは、きっとアシタ人の名前を聞いたからだ。

「国を滅ぼされた人たちは、連邦を恨むんじゃない?他の全部を擲ってでも、連邦を滅ぼしたいって思うんじゃあないの?」

「さぁ、おそらくはそれも違うのでしょう」

 だが、中佐は首を振った。

「もし連邦にだけ恨みを抱いているなら、他とも敵対する意味がわからない。反連邦組織のほとんどは、他国の後ろ盾を当てにして存続しているんですからね。曳航連邦を滅ぼしたいのなら、諸外国にまで牙を剥く意味はない」

 柚子(ユーリス)は一本調子に言った。

「本拠地も不明、組織構造も不明。どの勢力とも敵対しているのに、なぜか滅びることもない。秘密結社とでも言うべきか。まるで、都市を……人間そのものを憎んでいるかのような」

 (メイ)は納得したように肯んじた。

 だが、すぐに彼女はさっきより深く首を傾げた。

「ならどうして、出てこないはずだった、なんて言えるの?」 

「ええ、そうですね」

 柚子(ユーリス)はちょっと感心したように眉を持ち上げた。

「ただひとつだけ、彼等の“思想”でわかっていることがあります。神話級<天使>を奪おうとするなんてあり得ないはずだった」

 柚子(ユーリス)は慎重に言葉を選びながら言った。

 

「そう、彼らの“思想”は、<天使(マラーク)>との契約者を……<人間イカリ>を禁忌とするはずだったのですから」

 

 ◆

 

 ■飛空艦(カルラ)

 

 (レン)大佐は格納庫を渡る鉄橋を歩いていた。

 暗い庫内は大きなもので埋まっている。それがヒトの形をしていることは、薄暗くてもどうにか見て取れた。

 オセル、メイミィ、バカーシャ……色とりどり、異形の<天使(マラーク)>たちが肩を並べて静止している。たった一体でも世界の理を歪めるそれを並べるほどに有していることが、曳航連邦の力のこの上ない証明だ。

(<天使(マラーク)>の運用は国是だ)

 大佐の足音が冷たく響く。

(奇跡の効率的な運用なしには諸外国とのパワーバランスは保てない。<黙示録(アポカリプス)>……反奇跡主義組織の存在は、この国が抱える宿痾だな)

 そこで、柚子(ユーリス)中佐の勇ましくも甲高い罵声が聞こえてくるような気がして、大佐は眉をひそめた。

(あの中佐は解っていない。いくら連邦に降って長いとはいえ、辺境海域の民の心には、今でも固く捻れた恨みがある。決して表には現れないが、確かに心の底にある恨み。非正規市民や異国民もそうだ。それをああも頑なに拒絶してばかりでは……いずれ中央と辺境で国が割れる。東との戦が終結すれば、次は北か南か……それほどに大きくなりすぎたこの国が、果たしてどれほど保つものだろうか)

 <天使>たちの列の端に見慣れぬ毒々しい黄色があるのを、大佐はちらりと見た。【黄蝕奇跡 ガフリート】という名で呼ばれていたその<天使>は、すっかり沈黙したまま枷に繋がれていた。

(パワーバランス……そう、パワーバランスだ。力の不均衡は不幸を招く。彼らの拗れた恨みに切っ掛けを与えてはならない。七年前のアシタ戦役とて、そもそもアシタ皇国で見つかった“あれ”が……)

「入るぞ」

 (レン)大佐は飛躍し始めた思考を断ち切って扉を開けた。

 

 その部屋は鋼鉄で固められていた。戸口の厚さは大人の掌ほどもあり、薄ぼんやりした明かりだけが灯されている。

 悪趣味な部屋だ。中には鼻を突く香の匂いが立ち込め、やや霞んでいた。おどろおどろしいボロ布のようなものがあたりに散らばり、赤黒い染みが飛び散っていた。

 その壁に、一人の男が磔になっていた。

 重い傷を負っている。手足は欠け、身体は蝕まれている。それでも、その男からは血の一滴すらも流れていない。床の上には、取り外された艤装が転がしてあった。

 

 蟻洞(ギリアード)と呼ばれていた男だ。

「首尾はどうかね」

 大佐は穏やかに尋ねた。

 向かい側に座っていた老人が、それに頷いてみせた。椅子の上で膝を丸め、だぶついた衣服に首を埋めている。すえたような異臭がその身体から漂っていた。

(ゲラック)老。状況は?」

「よくない」

 老人は言った。

「口を割らぬ。穏当な説得では効果がないようだ。容易くないな」

「穏当、か」

 大佐は(ゲラック)の血走った瞳を見た。この老人のいう穏当が、果たしてどれほど穏当だろうか。残虐な人体実験を繰り返して一度は軍を追われた老人の……

蟻洞(ギリアード)

 (レン)大佐は呟いた。

蟻洞(ギリアード)

 彼は再びそれを呼び、そして息を吸い込んだ。

蟻洞(ギリアード)!」

「そう、叫ばずとも、聞こえる」

 鎖の音を鳴らしながら、蟻洞(ギリアード)は顔を上げた。その瞳は怒りと屈辱に燃えていた。脇腹の紋章がかっと黄色く粘る光を上げたように見えたが、すぐに薬の効き目でその光を喪う。

「それで、なんだ?わざわざのお出ましだというのに、そうやって脳味噌のない街灯みたいに立ってるのが趣味なのか?」

「質問に答えたまえ」

 大佐は言った。

「お前は港湾マフィアと関わりがあった、そうだな?お前はアシタ人の簒奪者、少年に会っているはずだ。交戦したのか、交渉したのか」

「あぁ、知ってるよ」 

 蟻洞(ギリアード)は唾を吐き捨てた。

「お前達が、連邦軍が取り逃した小僧だろう?カネを払うから捕まえてくださいと、こういうわけだな」

「彼の居所、手がかりや目的は?」

「なんなら、そこで頭でも下げたらどうだ。顔面で床掃除ができるくらい低く」

 その挑発を無視して、大佐は穏やかに続けた。

「有益な情報を提供するなら、我々にはお前を多少優遇するつもりがある」

「有益な?」

 そこで、蟻洞(ギリアード)は目を見開いた。唇の端の泡だった涎に血が混じっていた。

「だったら俺を自由にしろ!そうすれば、捕まえてきてやるさ。無能なお前達にはできなかったことだ。小僧ひとりにしてやられたんだ、そうだろうが。俺の……俺の<天使(マラーク)>を返せ!」

「そうか。お前の<天使>の、名前は?」

 ふと、大佐が尋ねた。蟻洞(ギリアード)はつっかえつっかえ答えた。

「俺の、お、俺の、俺の<天使>だ。俺の」

 まるで、口に出そうとしてもできない、思い出せもしないようなようすだった。蟻洞(ギリアード)は最後に小さくぶつぶつ呟いてから、諦めたように黙った。

「繰り返す」

 大佐はいささかうんざりした口調でいった。

「有益な情報を提供するなら優遇の余地はある。それだけだ」

 大佐のその言葉に、蟻洞(ギリアード)は威嚇するように鋭い息を吐いた。

「偉そうに、小僧一人捕まえられなかった馬鹿どもが俺に命令などするな」

「それが返答かね」

 (レン)大佐はため息混じりに言った。

「捗々しくはないな」

「言うたろう。容易くないと」

 老人は楽しそうに言った。絶対に尋問を愉しんでいる顔だ。あまりいい気分ではなかったが、大佐はそれを咎めることはしなかった。

「老」

 代わりに、彼は(ゲラック)に言った。

「奇跡を使ってくれ」

 老人は困惑の表情とともに大佐を見た。それはすぐに暗い歓喜のそれへと醜く変わっていった。黄色い歯が剥き出しになる。

「ええのか?」

 大佐は少しばかり後悔しながらも、しっかりと頷いた。たとえ嫌でもやらねばならぬことはあるものだ。

「状況が変わった。事態は急を要する」

「気が変わっても、取り返しはつかんぞ」

 老人は椅子から飛び降りた。ひたひたと、裸足の足音が部屋に響く。

 (ゲラック)は懐からなにか大きなものを取り出した。大佐は思わず目を細め、蟻洞(ギリアード)は顔を背けた。

「なにせ皆、一度きりで壊れてしまうのでな」

 取り出されたのは、ヒトの頭蓋骨を象った仮面だった。

 その古びた凹みには黒い錆のような汚れが纏わりつき、細かい傷に覆われている。そのガラス質の透き通った上っ面の奥に、どす黒い金属のような材質が見え隠れしていた。

「奇跡は使えまい」

 (ゲラック)は虜囚の眼前で立ち止まり、腰を下ろし、言った。

「身体もろくに動かない」

 老人は重たげな仮面を慈しむように撫でた。

「何故か解るかね」

「【混乱薬】だろうが」

 皮肉っぽく返す蟻洞(ギリアード)に向かって、老人はブツブツ話し始めた。

「そう。<人間イカリ>の虜囚には薬を飲ませて奇跡を封じるのが普通だ。さもなくば、枷も檻も大して意味はないからな。

 だがの、本当は、本当はな、奇跡を封じる薬などあり得んのだよ。そうだろう?『人間の技術では<天使(マラーク)>をどうこうするなど出来ない、それは天上のもので、人間の領域を超えたもので、決して理解できないものだから』、常識だ。では、()()()()()()()()()?」

 老人はなにがおかしいのかクツクツ笑い、なにやら深皿に黒っぽい粉で山を作り始めた。

「ヒトのほうを弄ってやるのさ」

 老人の相貌は、陰影に濃く浸かっていて、ひどく不気味だった。

「奇跡の仕組みは判らずとも、人間の仕組みならよう分かっとる。儂もよう知っとるよ。神経の中枢、運動や認識を司る部分を上手く、上手く麻痺させてやると、奇跡を起こすためのイメージが働かなくなる。足も立たん。奇跡と言っても所詮は人間が扱うものだ。人間の肉体感覚の延長でしかない」

 皿に盛られた香に火花を散らして点すと、そこから立ち上る紫煙を、老人は鼻を広げて吸い込んだ。

 蟻洞(ギリアード)はふと、その手にある髑髏の仮面が凄まじい量の力を磁気のように帯びていることに気づいた。

 目を凝らせば、その輪郭を静かにうねる力の帯が取り巻いているのがわかる。ひとつひとつは薄っぺらいものだったが、幾重にも重ねられて力強いものになっているのがわかる。

「人間の精神も、肉体に縛られておる」

 紫煙は揺らぎ、老人の顔を覆い尽くした。蟻洞(ギリアード)はその独特な苦みのある香りに顔をしかめ、突如はっと息を呑んだ。

「嗅覚を、引き金(トリガー)にしているのか」

 引き金は個人に特有だ。けれど、よりによって匂いを引き金に選んだ人間など滅多に見かけるものではない。

「《狂妄(シガオーン)》」

 老人は煙の中で、力の名前を呟いた。

 仮面が持ち上げられ、嫌がる蟻洞(ギリアード)の顔へと充てがわれた。それは不思議なことに、ひとりでに吸い付くようにして彼の顔を覆った。

 煙が膨れ上がり、渦を巻きながら壁の蟻洞(ギリアード)に襲いかかった。鼻腔、眼窩、耳朶、あらゆる穴から紫煙が体内へ吸い込まれていく。蟻洞(ギリアード)は喚き、叫んだが、声を上げるほど煙に巻かれるばかりだった。

「貴様、この、下種な爺が」

「人間の肉体は聖域(アサイラム)だ」老人はブツブツ言った。「主たる魂の許可なくしては、どんな奇跡も体内への直接干渉は出来ん。だが、こんなふうに身体の中へじかに入ってしまえば、煙を媒介にしちまえば、いとも簡単じゃあないかね?儂は脳の<天使>、【癲狂奇跡 シガオーン】の契約者だ。お前の身体はもう儂の自由」

 老人は振り向いて、言った。

「ええぞ。だが、できる質問はひとつだけだからな」

 壁際に立っていた大佐は軽く頷いて、口を開いた。

 

「“アゲハ”はどこにいる?」

 

 蟻洞(ギリアード)は答えなかった。それどころではなかったからだ。煙を掴もうとでもいうように戒められた左手を蠢かせている。喉が腫れ上がるような不快感が、耳目の奥を這いずり回っていた。

『その答えは知らない』

 だが、そのとき頭蓋骨の仮面が蟻洞(ギリアード)の声で話し始めた。彼は口を閉じようとしたが、無駄だった。張り付いた仮面が無理矢理に口を動かしていたからだった。

 蟻洞(ギリアード)は仮面の裏で、愕然としたものを苦悶の表情に混ぜて浮かべた。神経を麻薬のように奇跡が冒していく苦しみだ。

『だが、見つけ方は知っている』

「見つけ方とは?」

 大佐の問に、髑髏の面は答えているのかなんなのか、淡々と続けた。蟻洞(ギリアード)の脳髄を、その血肉を読み取っているのだった。

叉路街(サロガイ)の向こう、荒れ野に、『帆都(ヴェルヴェット)』という名の家がある』

帆都(ヴェルヴェット)?」

 大佐は眉を上げた。

「それは帆都(ヴェルヴェット)家のことか?“(ダルト)”の継承者の」

『簒奪者“アゲハ”の居場所は俺も知らない』

 髑髏の動きは次第に小さくなり始めていた。

『だが帆都(ヴェルヴェット)は知っている……きっと知っている……』

 奇跡が終わった。疲れた顔で、老人は仮面を取り外した。

「また奇跡を溜め直さねば」

 煙が霧散する。髑髏の汚れはいつの間にか綺麗さっぱり失せ、そこに込められた力も蒸発したように薄れてほとんど消えていた。蟻洞(ギリアード)はぐったりと動かなくなっていた。その唇が、誰かを呼んでいる。

「かあさん」

 蟻洞(ギリアード)はか細く言った。

「かあさん。今日は薬を持ってきたよ。きっと良くなる。そのうち市民権も手に入るさ、かあさん。かあさん……」

「壊れてしもうたか」

 (ゲラック)蟻洞(ギリアード)の頭をつっつき、残念そうにため息をついた。

 

 大佐はそれを無表情に眺めていた。

帆都(ヴェルヴェット)か」

 彼は踵を返した。そのとき金属製の足元で、チャポンと水音がした。硬いはずの床に、まるい波紋が走ったように見えた。

『どうしますか?』

 突然、シラヌイの声がした。

『俺が行きましょうか』

 大佐は視線を動かさず、静かに言った。

「いや、私が直接出向く。お前も同行してくれ」

 

 ◆

 

 ■交差都市ユディト

 

 柚子(ユーリス)は塔の縁に腰掛けていた。

 ユディトの街は、交差する無数の壁で出来ている。その深い谷間は足を滑らせれば真っ逆さまに落ちてしまいそうで、また見上げればどこまでもよじれながら続いていくのだった。

 石で作られた壁面はざらざらとしていて、白っぽい廃墟苔(ヘクタール)が時折その上に貼りついている。電源と水のパイプが枝分かれし、古びた茂みのように這い回っていた。鉄の梯子がそれに沿って打たれていたが、大部分は金属を盗むごろつきの手によって引き抜かれて、無くなっていた。

 

 彼の肩に止まっている鳥がそのときひとこえ鳴いた。塔の端で、中佐は勢いよく立ち上がった。

「見つけたか」

 意識を集中すると、鳥の一羽が見ている視界が、不鮮明ながらも頭に入り込んでくる。彼は吐き気を必死にこらえて、どうにかそれを意味のある(ヴィジョン)として結ぼうとした。奇跡から入ってくる感覚を自分の頭で組み立て直すのは、とんでもなく難しい作業なのだ。

 それでも彼はどうにか映っているものを掴んだ。

 あの黒衣だ。自分で爆発したあの黒衣と同じ格好が、朧気な影になって見えた。重なった視界にふらつきながら、柚子(ユーリス)は歩き出そうとした。あの獣化人間の持ち物を調べていた(メイ)が、のぞみ薄のそれを放り捨てて駆け寄ってきた。

 

 そのとき、頭に殴られたような衝撃が走った。

 像が途絶えた。まるで読んでいた書をいきなり閉じられたみたいに、見えていたものが即座に消え失せていく。

 中佐は頭を押さえながらぐらりと傾いた。本当に殴られたわけではないとわかっていた。だが、痛みにも似た不快感は頭蓋の中で暴れていて、まだその余韻をわんわんと残している。

「鳥が消された」

 柚子(ユーリス)は息も絶え絶えに言った。

 喪失と破壊の感覚が頭に響いていた。傍らではあの海鳥が凍りついたように動かなくなり、ひくひくと痙攣を起こしていた。(メイ)は血相を変えて尋ねた。

「どうしたの!?」

「僕が放った、鳥が消されたんですよ」

 柚子(ユーリス)はがんがんと鳴り響く痛みを無視して身体を起こした。

「すべての鳥で、一斉に術が途絶えた。ふつうの消え方じゃない。あれらには十分奇跡を注いだはずだ。こんな、外から無理やり壊されでもしなければこんなことには」

 

 そのとき、ざわめくような足音がした。 

 いつの間にかあの黒い影たちが、遠巻きにだが、二人を囲んでいた。みなおしなべて同じ格好をしている。顔は見えない。どこが顔なのかすら分からない。

 それは次第に包囲の輪を狭め、そして全員が外套の下から切り落とした手首の断面を突き出していた。

「<黙示録(アポカリプス)>」

「テロリストめ」

 柚子(ユーリス)は苦痛に顔を歪めながら銃を引き抜いた。

 擦るような甲高い音で、なにかが鳴った。ついで、びんっと震える音がして、中佐の左半身に強い衝撃が来た。

「ユーくん!」

 思わず銃を取り落とし、地に転がりながら、柚子(ユーリス)は自分の肩を見た。焼けるような感覚とともに、赤い血が染みを広げている。その中心では、骨を削って作ったような矢柄が突き立っていた。

 側にいた海鳥が矢を喰らって吹っ飛び、薄らいで溶けるように消えた。眷属術の破壊に苦鳴を漏らしながら、柚子(ユーリス)は矢を肉ごと無理やり引き抜いた。出血はひどくなるが、傷が締まらないうちに抜かねばあとで厄介になる。

「《隔てよ(エクスペッレ)》」

 (メイ)が【聖環】を嵌めながら叫び、手を突き出した。空気のゆらぎのような物理結界が宙を遮り、襲い来る矢を弾いて止めた。そこでようやく、二人は敵をまともに見られるようになった。

 <黙示録(アポカリプス)>たちはただ沈黙していた。当然だ、手がないのだから。戦などできるはずがない。

 

 だから弓を引いているのは彼らではなく、その背後にいる者たちだった。

 その者たちは黒衣ではなく、骨と革、金属を織り交ぜて作った鎧を身に着けていた。顔は恐ろしげに造形された面覆いで隠している。それらのすべてが古びていて傷だらけだった。

 身体もそうだ。彼らの躰はそこかしこが欠けていた。それは海に触れたあかしなのだった。

 その、腰に帯びている反りのない真っ直ぐな剣に、柚子(ユーリス)は覚えがあった。たしか書物で読んだことがある。

 南の海に住まい、反りのない剣を使う民。顔を威しの面で隠す民。火と太陽を崇め、黎明の名を持つ民。

「お前たちは……」 

 敵は<黙示録(アポカリプス)>の黒衣たちに向かって不気味な言語でなにか喚くと、弓を射るのをやめ、仲間内でなにやら下知を飛ばしはじめた。静まった群衆を掻き分けて、戦士たちの幾人かが歩み出てきた。

 その鎧には、全くもって不合理なことだが、二の腕の位置に穴が開けられていた。男はそれを覆う錫の鎖帷子をめくり上げ、自慢げに晒した。日に焼けた肌には、“布を断つ鋏”の紋章が刻まれていた。

 もう一人は角笛を持っていた。シシクジラの三番角で拵えたものだろう、淡く黄色い模様が走っている。男がそれを吹くと、金属の軋るような耳障りな音が響き渡った。

 三人目は面を額へ跳ね上げると、朗々と通る声でなにか言った。それは詩を吟じているようでもあり、また判決を言い渡す裁判官のようでもあった。彼は口上を終えると、後ろから旗を取って掲げた。

 柚子(ユーリス)はその旗を見つめ、信じられないという口調で怒鳴った。

「なぜだ」

 その襤褸切れのような旗には燃え盛る円と、それを横切る直線のしるしが染め付けられていた。

 

「なぜ、()()()()がこんなところにいる」

 

 その言葉に、(メイ)は仰天して柚子(ユーリス)を見た。

 だから気が付かなかったのだ。あの<人間イカリ>が、腕の紋章をしまい、代わりに懐から白い紙切れを取り出したことに。

 男はそれを顔の前へと持ち上げ、それに二人を透かして見つめ、そのまま手に力を込めて素早く破り捨てた。

 男の口が動いた。

『《斬首(メザメロト)》』

 次の瞬間、紙の破れ目に沿って物理結界はひとすじに裂かれ、その軌道上にいた柚子(ユーリス)の身体も、一直線に赤く斬り裂かれていた。

 

 To be continued…

 

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