<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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第十七話 太陽の追跡者

 ■【領域論(テリトリオン)

 

 人間の身体は“聖域(アサイラム)”である。

 

 ――天使学者ハティファース(10600?)

 

 ◆

 

 ■交差都市ユディト

 

 <黙示録(アポカリプス)>は、じっと二人の軍人を取り巻いていた。

 真っ黒なローブにすっぽりと覆われた彼らは、不気味なほど静かだった。男か女かもわからない。見えるのは黒だけだ。あたり一面、黒、黒、黒。いっそ、木立に引っかかったぼろ切れが、風にそよいでいるだけのようですらあった。

 

 対して、それに混じる戦士たちは豊かな感情に満ちていた。

 怒りだ。

 連邦の軍人に対する怒り、侮蔑、敵意、そして今しがた放たれた奇跡の一太刀を胸のすく思いで見るよろこびが彼らを揺らしていた。具足を打ち鳴らす音、はためく軍旗の音、荒々しい喝采と笑い声が。

 (メイ)は躊躇わなかった。

「《隔てよ(エクスペリテ)》」 

 持てる限りの【聖環】を素早く右手に嵌めるやいなや、彼女はその五つの指環に向かって、“累ねのことば”を唱えた。聖異物が多重解放され、五重の物理結界がふたりを包む。力を吐き出しすぎたのか、最初の指環がため息をつくような音を立てると、砂に変わって崩れ落ちた。

 重ねられた物理結界は、ひとつひとつは歪んだガラスのように見えたのだが、もはや霞みに霞んで霧の塊のようですらあった。その外側の一枚を、またあの奇跡が斬り裂いた。(メイ)の嵌めた指環のひとつが慄くように震えた。

 柚子(ユーリス)中佐は、いったいどうして自分はこんなに血まみれなんだろう、というふうな顔でおのれの腹を見下ろし、そして力なく膝を折った。

 軍服はすっぱりと斬り裂かれていた。まるで鋭利な刃物を当てて勢いよく引きずったように。

 その下では傷口が桃色の肉を晒していて、驚くほど鮮やかな赤い血がとめどなく溢れていた。

 

 柚子(ユーリス)は口汚い罵りを口にして、前のめりに倒れた。起き上がろうと手をついたが、うまくいかなかった。その指は地面を引っ掻くばかりだった。もはや痛みはなく、ただ熱と冷気をいちどきに混ぜたような痺れと、生命が流れ出ていく喪失感とがあった。

「まずい」

 柚子(ユーリス)は毒づきながら、地面に沈み込んでいった。

 両手を広げたくらいの範囲が、沼地のように柔らかくなっていたのだ。

 (メイ)は掌を地に突き、奇跡を注ぎ込みながら、緊張のあまり荒く息をついた。二枚目と三枚目の物理結界が、耳障りな音を立てて割れた。

「なにをしてる……奴らを始末しろ」

「そんなこと言ってる場合じゃないと思うなぁ」

 息も絶え絶えの柚子(ユーリス)に、(メイ)はいつもの軽口で返したが、その顔は蒼白だった。地面が粘りのある音を立てて、また大きく沈んだ。

「<人間イカリ>。それもかなり戦闘向きだ。退いて立て直さないと、死んじゃうよ、ユーくん。それに、<黙示録(アポカリプス)>は<天使(マラーク)>を使わないんじゃなかったの?」

 責めるようなその口ぶりに、柚子(ユーリス)は僅かに首を振った。<人間イカリ>を禁忌とする彼らが、それを戦力にするはずがない。<黙示録(アポカリプス)>に契約者がいるはずはない。聖異物(アロトリオ)を使うことはあっても。

「あれは<黙示録(アポカリプス)>じゃない……それだけじゃない。まさか、奴らが手を組むなんて、まったくもって予想外だ……」

 柚子(ユーリス)がそう呻いた瞬間、最後の結界が真っ二つに割れた。あの<人間イカリ>の男が破りすぎて細かくなった紙を投げ棄て、歓声を上げた。

 だが、二人はいなくなっていた。

 柔らかくなった地面は震え、ため息をつき、飲み込んだ口を閉じるところだった。戦士たちは剣を抜いて殺到したが、それは彼らにとっては硬い珪素の石にすぎなかった。切っ先と石がぶつかり、火花を散らす。

 <黙示録(アポカリプス)>たちがざわざわと蠢いて、その姿を消した。戦士たちも、使った矢を抜け目なく拾い上げてから動き出す。

 <人間イカリ>の男は余裕そうに二言三言呟き、手首に巻きつけた金属の飾りを弄んだ。

 それは“鳥籠”を象っていた。

 

 ◆

 

 人体は聖域(アサイラム)である。

 それは王国に似ている。人間の身体を支配しているのはその魂で、奇跡がそれを侵すことはできない。ちょうどよそから来た旅人が、その国の兵士たちにどれだけ偉そうな口調で命令しても、見向きもされないように。

 どんなに強力で無法な奇跡であったとしても、たとえば心臓をいきなり燃やしたり、肺を握り潰したり、骨を溶かしたりすることはできない。これは絶対のことだった。

 人間を傷つけるためには、どんな奇跡であっても外から侵略しなくてはならない。ガフリートがまず皮膚を溶かすように、ハルヴァヤーがまず触れたところを灰化させるように。つまるところ、国を攻め滅ぼすのに似ていた。

 そして、自分自身のこととなると、これまた少しばかり話が違ってくる。

 

「《(オセル)》――」

 柚子(ユーリス)は自分の腹に手を当て、捨て鉢で呟いてみた。禁止の奇跡はことばによって一瞬燃え上がったが、困ったようにすぐ萎んだ。

 オセルは主天使系統だ。

 力天使(デュナミス)主天使(ドミニヨン)は他へ干渉する奇跡であって、自分に奇跡を使うことはできない。オセルでは、柚子(ユーリス)の傷の止血はできないのだ。

 自分と他人、その両方に奇跡を起こせる<天使(マラーク)>は存在しない。これは基本の大原則だった。主天使系統は自己干渉ができない。それができる系統は、主天使や力天使ではなく……

 

 血が止まらない。

 鮮血とともに意識まで流れ出ていくようだ。眠気にも似た不快なそれが柚子(ユーリス)の思考を遮った。もはや奇跡を使おうにも意思が保てない。

「しっかり、しっかりして!」

 (メイ)は金切り声を上げて柚子(ユーリス)を揺すぶった。

 ふたりがいるのは、都市峡谷に面している外壁だった。ざらざらした断崖にあるくぼみのようなところだった。温い風が谷底から吹き抜け、独特の有機的な匂いが鼻をついた。

 柚子(ユーリス)はかなり悪い状態だった。もろに奇跡を食らったからだ。その身体はざっくりと裂けていて、軍服は真っ赤に濡れていた。砂地から湧く水のように鮮血がボタボタと落ちている。

 普通の手当では、もう助からない。

「ユーくん」

 (メイ)は覚悟を決めたように言った。

「“許可”して」

 柚子(ユーリス)はなにを言っているのか分からずに怪訝そうな目を向けた。(メイ)は短く続けた。

「いいから。あたしを信じて」

 その剣幕に、中佐は曖昧な頭で、上ずった声で言われるがままに答えた。

「“許可”する」

 その瞬間、(メイ)の手で奇跡が膨れ上がった。 

 まるで暴れる濁流のようだった。それは彼女の内側から溢れ出し、与えられた許可に従って柚子(ユーリス)の身体へ染み通っていった。

 聖域を侵しているのだ。

 太腿のメイミィの紋章が瞬き、柚子(ユーリス)のオセルの紋章も驚いたようにチカチカと点滅してからおとなしくなった。注がれる力は傷口へと集まっていき、熱のようになってそこへ溜まった。

「《柔和(メイミィ)》」

 (メイ)は自分の引き金である手袋を嵌め直し、そっと触れて、血に汚れるのも構わず柚子(ユーリス)の傷に口づけをした。

 傷が歪んだ。

 まるで水面のようにそれがざわめいたかと思うと、お互いに溶け合ってくっつき、傷口を閉じた。水を斬り裂いた時のような波が肌に立ち、傷を囲む痕になって静止した。

 柚子(ユーリス)はまだ喉に残っていた血を吐きながらも、驚きの目で彼女を見つめた。

 治癒の奇跡はこの世で最も珍しいとさえ言われる。ものを壊すこと、作ることは容易いが、直すことは桁違いに難しい。

「あたしのは本物の治癒じゃないよ」

 それを見通したかのように、(メイ)は首を振った。

「身体を柔らかくして、傷を塞いだだけ。大事なものは繋がってると思うけど、身体の中は斬られたまま変わらないから、痛みは消えないし治るには時間がかかるよ」

「上等ですよ」

 柚子(ユーリス)は、彼にしては珍しく礼を言った。

 ひきつれたような痛みと違和感はあったが、身を起こしても腹が破れるようなことはなかった。彼はうまく力の入らない身体を無理矢理に動かして立ち上がった。

 血が足りない。シャツを引き裂き、中佐は自分の腹をぐるぐるときつく縛った。

 (メイ)が呟いた。

「奴らは、<黙示録(アポカリプス)>は、奇跡を禁じている教団だったんじゃなかったの?なぜ、<人間イカリ>が……」

「狂信者どもの理屈など知ったことか」

 苛ついた口調で中佐は吐き捨てた。

「ですが、あの契約者のことなら見当はつきます。あれは、<黙示録(アポカリプス)>じゃない。あれはアシタ人ですよ。滅ぼしたはずのアシタ人だ」

 柚子(ユーリス)は言った。

「ここに来て、おかしなことばかりだ。<黙示録(アポカリプス)>がアシタ人と手を組むなどと。奴らは誰とも組まないはずだった。アシタ皇国とだって戦をしたこともあったはずなのに」

「本当なんだね?」

 (メイ)は肩をすくめた。

「あれがアシタ人だっていうのは」

「あの旗には太陽の紋が染め付けられていた」

 中佐は頭の中でアシタ皇国に関する知識を探った。

「あの戦覆い、革鎧、それにあの真っ直ぐな剣。ひょっとしたら、あの獣化人間もアシタ人だったのかもしれない。だいたい、嘘をついてまでアシタ人を騙る意味なんかないでしょう」

 中佐は言った。

「だが、それと<黙示録(アポカリプス)>がどういう関わりがある?ありえない。アシタ人にとっては助勢かもしれないが、<黙示録(アポカリプス)>にとっては俗世の権力などなんの意味もないはずだ。テロリストに力を貸すはずがない。アシタ人どもが……アシタの復権を目論んでいたとしても、それは教団にとっての利にはならないだろうに」

「アシタ人があんなに生き残っていたなんて知らなかった」

 (メイ)はふと呟いた。

「アシタは、消えたんだよね?」

「それが命令でしたからね」

 柚子(ユーリス)はゆっくり息を整えながら答えた。

「僕もこの目で見たわけではありませんが。アシタ人は貴族も戦士も、幼子に至るまで殲滅されたはずです。船は全て沈められ、海域は封鎖された。生き残ったものはごく僅かで……」

 そこで、柚子(ユーリス)ははっと顔を上げた。

「そうだ。なぜ、あの少年はイザールにいた?」

「標的のこと?」

 (メイ)のことばに、柚子(ユーリス)は頷いた。

「そうですよ。どうせあのアシタ人たちも神話級を狙っているんでしょうが、そもそもがおかしかったんだ。奴は、あんなところにひとりきりで、なぜ?」

 柚子(ユーリス)は唇を舐めた。

「アシタの残党が生き延びていたのは……驚くべきことだが、わかります。連邦軍の眼を掻い潜って逃げることもできたでしょう。アシタ皇国の外にもアシタ人はいたでしょうから。でも、それは組織だからです。なぜ、やつはひとりきりで生き延びることができたんでしょう?いや……」

 柚子(ユーリス)は首を振った。

「いいや、違う、なぜ()()()()()()()()()()、ですね。やつらも蛮族同士で群れたいはずだ。それをしなかったのはなぜだ?」

 柚子(ユーリス)は興奮気味にまくし立てたあと、傷の痛みを思い出したように黙った。

 そして、天を仰いだ。

「静かに」

 だが、(メイ)は言われるまでもなくもう息を殺していた。気配が薄れ、石と金属に溶け込んで風景の一部になる。

 頭上を舞っていたのは、紙で作られた鳥だった。本物の白い植物紙だ。それは風に乗って高度を上げ、やがて通り過ぎていった。

 強いリソースの気配がした。奇跡を帯びている。きっと敵の偵察だ。

「急ごう。見つかる前に飛空艦(カルラ)に戻らないと」

 二人は断崖に足をかけ、足の幅よりも狭い階段を歩き出した。奇跡は使わなかった。リソースが騒いでしまうから。

 

 ◆◆◆

 

 ■ユディト丘陵地帯

 

 港で借りた車輌(レグ)は古めかしいものだったが、表面は黒々と磨かれていた。道端の石を踏むたびに座席が小さく揺れる。

「着きましたよ」

 運転手が言った。無愛想なものだ。その目は本国から来た士官を興味深げに品定めしていた。まるで陰険なサメのようだった。ここまで連れてきてやったのだ。飲み代の小銭くらい貰えないものだろうか、とでもいうふうだ。

「お一人で?」

「あぁ。ここで待っていてくれ」

 大佐はゼータ硬貨をさり気なく何枚か座席の上に置くと、重たいレバーを捻って扉を押し開けた。

 砂の匂いのする涼しい風が吹いてきた。

 深く息を吸うと、肺から淀んだ車内の匂いを入れ替えるような気持ちになった。足元では褪せた色の硬い草が朽ちかけている。運転手の兵士が硬貨に驚くほど素早く手を伸ばすのが見えないふりをして、大佐は扉を閉めた。

 

 丘の上には、こじんまりした屋敷が見えた。本当なら上品な門構えだったのだろうが、生憎とその半分ほどは崩れ落ちていて乱雑に補修されている。石を積み上げる重い音が聞こえた。

 大佐は最後に運転手をちらりと振り返ると、丘の道を登り始めた。ところどころ大地が掘り返されて白い砂が溢れている。まるで、なにか大きなものがそこら中を暴れまわったかのようだ。

(ここに、<天使(マラーク)>がいた……)

 大佐は一瞥して歩を進めた。

 五つの指のあと、踏み荒らした荒れ地の傷、どれも人間などよりはるかに大きい。大佐はちょっと立ち止まって、なにか特別な気配を感じ取れないか目を凝らしてみた。

 <天使>のような力ある存在は、その痕跡を空間に焼き付けるものだ。感覚の鋭い人間なら、一挙手一投足から奇跡の種別まで手に取るように理解できるという。

 だが、契約者でもない大佐にはなにも分からなかった。荒野は平穏そのもので、無機質な風の香りだけがあたりを吹き抜けていった。

 まぁ、期待などしていなかった。

 大佐はまたすぐに、ゆっくりと歩き始めた。踏み固められた道はうねりながら丘の上へと続いている。

 門扉は壊れていた。

 まるで殴り倒されたような凹みが、その硬いはずの金属に残っていた。大佐はそれを踏まぬよう跨ぎ越すと、荒れ果てた庭に足を踏み入れた。金の飾り文字で刻まれた『帆都(ヴェルヴェット)』という文字は、掠れて消えかかっていた。

「失礼」

 大佐は小さく声をかけた。

「失礼!」

 その声に、ちょうど庭の石を片付けていた銀髪の老人は、矍鑠とした様子で立ち上がった。

 歩き方がぎこちない。右足を引きずっているようだ。

「お客様ですかな」

 老人は礼儀正しく言った。

「生憎とご覧の有り様で、大したおもてなしが出来るかどうか。お恥ずかしい限りです。いや、これは失礼。まずはお名前を伺いませんとな、どちら様で?」

「覚えていらっしゃいませんか」

 大佐の言葉に、その老執事は表情を崩した。記憶を探っているのだろう。その眉の上げ方に、思わず(レン)大佐は笑みを零してしまった。

「何年前だったか。サダルスード攻略戦以来です」

 老人の目が見開かれていく。それを面白く眺めながら、大佐は深く息を吐いた。

「本当にお久しぶりですね、先生(シシウス)

 久々に口から出たその単語に、(レン)大佐は奇妙な懐かしみを覚えていた。

 

 ◆

 

「酒はないぞ」

 老執事はそう言うと、顔を出した中年の女性を手だけで制した。使用人の一人だろうか。家の中も荒れ放題だったが、取りあえずはと言うべきか、埃や塵は綺麗に掃き清めてあった。突き破られた壁から、鉄の骨が覗いている。

 『帆都(ヴェルヴェット)』という家名は、かつてユディトを治めていた貴族の一人に由来している。遡れば旧ユディト王家とも親戚筋だったはずだ。本当なら、正規市民筆頭としてあの中枢の街に居を構えていた家柄だったろう。

 けれど、今やそれも過去の話だ。曳航連邦では、都市国家の貴族も王族も名誉以上のものではない。衰えれば血筋に依らず絶える。

 勧められた椅子に、大佐は躊躇いがちに腰を下ろした。老人も向かいの椅子に座った。水の入った椀を机に置く。

「精悍になった」

「それは、どうも。貴方は変わりませんね」

「既に十分老けきっておるからな」

 執事は笑った。いつもの上品な笑みではなく、どこか荒々しく若い表情だった。皺が深くなり、一瞬だけ好々爺ではない戦士の面立ちが現れて、消える。

「貴方が軍を辞めて執事になると聞いたとき、正直に言って驚きましたよ、私は。なにかの比喩かと思った」

 大佐はまず、そんな話から始めることにした。

「貴方には何度も殴られましたね。あのときの私は不貞腐れたろくでなしだった。無理はない。いつも誰かを睨んでばかりいた」

「今や佐官か。出世したな」

 老執事は静かに言った。(レン)大佐の襟に光るあかしを見ながら。

「その若さで大したものだ。私が君の歳の頃は、まだ中尉止まりだった」

「貴方のお陰ですよ」

「君は優秀だった。それが認められるようになったのは何よりだ。誰か、いい後ろ盾が見つかったのかね」

 老人の言葉に、大佐は曖昧に頷いた。

「ええ、まぁ。まず立場を固めよ。嫌悪する相手とこそ飲め。これも貴方の教えですよ」

「新しい部隊を作ったそうだな」

 老人は軽やかに言った。大佐は眉一つ動かさなかったが、その沈黙はむしろその感情をよく伝えていた。

「驚いたかね?これでも昔の友人から噂話くらいは入ってくるのだよ、もうあまり、健やかに生きてはおらんが。特務兵(イレギュラー)か……君は常々、改革を望んでいた」

「そうでしたか?」大佐は何気ない手つきで、口元に手を当てた。「隠していたつもりでしたが」

「見え透いておったとも、私には。君の理想の部隊というわけか」

「いえ……どちらかといえば、逆でしょうか」

 大佐は言葉を探して黙った。嘗てと同じように辛抱強く、老人は待っていた。こういうふうに、まずこちらの話に耳を傾けてくれる人だった、と大佐は思い出した。

「連邦という国は大きくなりすぎた」

 大佐は静かに言った。

(いびつ)はあちこちにあります。それはもとを辿れば建国以来の長い時間に由来するもので、現在の私には簡単には変えられない。それでも、私はどうにかしたかったのですよ」

「どうにか?」

「曳航連邦の“理想”にそぐわぬ人間にも立つ場所を与えたかった。そうするべきだと思っていた。異国の民や非正規市民も、征服されてしまえば同じ連邦市民のはずだ。それが支配者の傲慢であり、果たすべき責務でしょうから」

「跳ね返りの部隊だと聞いているよ」

 大佐は苦笑して頷いた。けれど、それこそが彼にとって大事なことでもあったのだ。

「間違ってはいません。ですが、多少問題があるからと言って彼らの資質や、奇跡を……才ある<人間イカリ>を腐らせておくことはこの国のためにならない」

 大佐は断言した。

「この国では、零れ落ちるものが多すぎる。切り捨てられた人々はどうなります?今は無力だとしても、少しずつ、きっとこの先には大きなうねりになって牙を剥くはずだ。そうなれば国は割れる。もう、今までのやり方ではこれ以上進めないところまで来ているとは思いませんか」

 大佐はそこで顔をこわばらせた。けれど、この老人の前では、たとえ話しすぎたとしても拙く取り繕うよりはましだと思ったのだ。

「それとも、また、私を叱りますか。昔のように」

 だが、大佐のその挑むような言葉に、老人はただ微笑んだ。

「それを決めるのは私ではない。こんな老いぼれ執事を捕まえて聞くことではないよ。君と、その周りの人間が答えを出すだろう。時を掛けてな。何事も、時間が必要なものだ」

 老人は言った。

「人は愚かだとよく言うがね、私は違うと思う。変わってしまうだけだ。状況も、自分でさえも。その時だけの正解などなんの意味もないし、また同時にそれのみが信じられるものだろう」

 大佐は肯んずることも、否定することもしなかった。ただ、彼は沈黙のままに座っていた。それを許してくれる相手だと思っていたから。

 

 だが、それも長くは続かなかった。

「懐かしい時間を楽しんでいたいですが。今回、ここに来たのはある任務のためです」

 やがて、大佐は口火を切った。

「アシタ人の少年を知っていますか」

 本題に入るとき、大佐は少しだけ声音を変えた。かつての、若かった己を塗り込めるように。話し方も毅然として、硬いものになった。

 あまり気の進まない仕事だ。

「軍の<天使(マラーク)>を簒奪し逃亡した少年です。連邦法に照らせば極刑は確実ですよ。これも既に、噂くらいは耳にしておられるかもしれませんがね。最も新しき神話級……欲しがるものは多いはずです。港湾マフィアが吹き飛んでいるのを見かけましたよ、街で」

「簒奪者か」

 老執事は繰り返した。

「アシタ人。簒奪者。それは君の言う、連邦の理想にそぐわぬ人間ではないのかね。それを追い立てることが目的か」

「ええ。私は軍人ですから」

 大佐は断言した。

「ご存知ではありませんか?“葬送”の<天使(マラーク)>と、その契約者を。ユディトにいることは確かです」

 老人は首を振ったが、それは否定の意味ではなかった。

「解るだろう、()()()()()。今も昔も、私は誰かに仕える身だ。何事も、長に伺いを立てなくてはな。たとえ、つまらない世間話をするのにも」

「……その名、憶えていて下さったのですね」

 大佐は驚嘆を込めて頷いた。

 

 そのとき、大佐の背後で扉の開く音がした。

 だが、大佐の後ろに扉はなかったはずだ。後ろは壁だった。薄青い壁紙を貼った、ただの壁だったはずだ。

「お待たせしましたね」

 その声は若く、幼い。けれどその口調には、凛とした冷たいものがある。

 大佐は立ち上がり、穏やかに振り向いた。

 やっぱり、そこには扉なんかなかった。そこにいた隻腕の子供は、年格好に似合わぬ冷徹な表情を湛えていた。非情なふうではない。ただ、微笑みに温度が伴っていない。

 似たものを知っている、と大佐は思った。首都の議員や貴族たちはよくこういう顔をする。心の内を隠している顔だ。好悪もなにも、その表情から読み取れないように。

 為政者の表情(かお)だ。

「僕が、(ページ)=帆都(ヴェルヴェット)です。我が家へ、ようこそ」

 子供はそう言って、軽く首を傾げた。

 

 ◆

 

 ■ユディト・叉路街(サロガイ)

 

 叉路街(サロガイ)

 この街がそう呼ばれるのは無数に交差する道ゆえにだった。それはなにも、地上の道のことだけではない。

 

 壁に刻まれた階段状のへこみが、ずっと上まで続いている。ひとたび足を踏み外したら下へ真っ逆さまのそれも、この街ではれっきとした道の一つだった。

 100ヴルおきぐらいに、電動昇降機のワイヤーが上下に伸びている。上を見れば、尖塔や角ばった屋根が群れ集まったキノコみたいに空を目指して背比べをしていて、その最上層では未だに建造が続いていた。反面、下層には日の光すら届いていない。まるで、昼に洗い流しきれなかった夜が溜まっているみたいだ。

 その縦の構造を繋ぐように、小さな橋や滑車がいくつも架けられている。足を乗せたらへし折れそうなほど拙い作りだ。実際、柚子(ユーリス)は何度もそれを踏み抜いては悪態をつく羽目になった。

 

 柚子(ユーリス)(メイ)の二人はいくつもの角を曲がった。上下左右にだ。

 どこも空から明かりが来ないので薄暗かった。それでなくてもこの協商(クシュ)港側、都市船の首根っこに当たる地域は年じゅうを通して排気と水蒸気のけむりに霞んでいるのだった。

 道は人一人通れるかどうかというものばかりだった。道というより、足場といったほうが良いかもしれない。灰色の壁に彫刻された石段を踏むたびに、小石の欠片がぞっとするほどの高さから蒸気に煙る下へと落ちていった。

(この街は隠れるのにもってこいですね)

 柚子(ユーリス)は口の中だけでため息をついた。

 簒奪者“アゲハ”はいい隠れ家を見つけたものだ。まるで蟲の巣のようなこの街の路地、通路、昇降機、あるいは壁に刻まれた階段のひとつひとつまで、調べ尽くすのは無理というものだろう。きっとユディト軍でさえ、殆どはろくに把握していないはずだ。 

 そんな場所でも用心深い非正規市民たちの人影が、幾つも見え隠れしては薄暗がりの奥へ消えていった。

「“採掘屋(ザークヤィル)”め」

 柚子(ユーリス)は吐き捨てたが、ことを荒立てはしなかった。

 ここの住民たちは、みな立体的な生活に慣れていて、その上、軍人を嫌っていた。上下左右から粘り付く視線にはかすかな敵意と恐怖が、そして強い好奇心が乗っていた。非正規市民の中でも貧しい者たちが、連邦のイヌである軍人を嫌うのはよくあることだ。

人間(市民)にすらなれないゴミどもめ。時間と余裕さえあれば残らず有機物にしてやるものを」

 柚子(ユーリス)は電源管を探しながら言った。(メイ)はわざとらしく唇を尖らせたが、なにも言わなかった。

 

 ようやく見つけた電力と水のパイプは、褪せた石壁に沿ってよろよろと這い上っていた。基幹系からは遠いのだろう、掌でつかめそうなほどに細い。浄水管はところどころで穴が空いていて、滴り落ちる清水が階段をくだり、細やかな滝になってはるか下へと流れ落ちていた。その水を糧としてか、苔とカビが小さな森のように背を伸ばしている。

「ありましたよ。ポートです」

 柚子(ユーリス)は折れ曲がった電源管の角にある四角いポートを指して言った。そこで階段は終わっていた。足を踏み外せば、なにもない空中に真っ逆さまだ。錆びた鉄柵は持ち去られていて、欠片しか残っていなかった。こびりついた(やに)のようなもので乱雑な落書きがしてある。読めない文字だ。中佐は首を傾げた。

 その前にいた浮浪者が、やはり採掘屋(ザークヤィル)のようだったが、軍人に眉をひそめながら煙を吐いた。大きなタバコが黒いケーブルで電源管と繋がっている。あたりに漂っている煙はひどく辛かった。電圧を上げすぎだ。

「あんちゃんよう、ここは……」

 柚子(ユーリス)は銃をその顎に突きつけた。その非正規市民らしい唸るようなアクセントの共通(シャーン)語に、舌打ちをしながら。

「下衆め。さっさと失せたまえ」

 男は口答えしようとした。

 その瞬間、柚子(ユーリス)は男を蹴り飛ばした。

 その男は一瞬信じられないという顔をしたあと、藻掻きながら都市の谷へと落ちていった。どこかでなにかに引っかかる音がした。柚子(ユーリス)は間髪入れずケーブルを引き抜き、重たげなタバコ機械も乱暴に投げ落とした。

「通信機は?」

「周波数は合わせてあるよ、こんな末端だと、ノイズが多そうだけど。ねえ、出会う人全員に喧嘩を売らなきゃ生きていられないの?」

 (メイ)は足場の下を見下ろした。

「生きてればいいけど」

「非正規市民がどうなろうが知ったことか。邪魔なだけです」

 柚子(ユーリス)は少しだけ鬱憤の晴れた表情で、腹を押さえながら、眼差しだけで合図をした。(メイ)はなにかいいたげに口を開けたが、やがて唇を引き結び、小さな通信機を取り出すと、電源ポートにそれを差し込んでダイヤルを回した。

「できたよ。あと数秒で、軍港に通信が繋がる」

 

 そのとき、ふたりの耳元で嫌な声がした。

『《鎖せ(クラウデ)》』

 ほぼ同時、金属で出来た棒きれが、しぶきのように(メイ)の触れていた場所から噴き出した。

 何本も、何本も、光沢のあるそれが伸び上がり、二人を取り囲みながら手をつないで格子を作る。驚きから覚めたのは、(メイ)のほうが一瞬早かった。その手が奇跡を帯び、泥団子でも潰すみたいに通信機を一瞬で砕く。

 けれど、それは止まらなかった。光沢のある檻が“鳥籠”のような輪郭を作り上げていく。

(既に条件が発動してしまっているのか)

 柚子(ユーリス)は歯噛みしながら、素早く頁を引きちぎった。ことばが唱えられ、圧縮された奇跡が螺子の形になって檻に打ち込まれる。形成を《禁》じられた檻が歪み、一瞬だけ止まった。

 だが、その“鳥籠”はオセルの螺子を容易く弾き飛ばした。

 柚子(ユーリス)は目を剥いた。

「まさか、僕の奇跡が力負けした?」

 

 とうとう完成された鳥籠越しに、柚子(ユーリス)は外を見た。

 都市の断崖に刻まれた道に、びっしりといつの間にかあの<黙示録(アポカリプス)>が並んでいた。足を踏み外せば、さっきの男のように真っ逆さまだというのに、臆する気配もない。それ以外の人間味もだが。

 一方のアシタ人たちは、空を飛んでいた。

 紙で作られた大きな鳥が、アシタの戦士たちを載せて旋回しながら降りてくる。何羽も何羽も、数え切れないほど降りてくる。

(紙を操作対象とするタイプの奇跡……主天使系統だな。本当の実物を媒介に使ってるぶん、出力勝負じゃ分が悪いか)

 中佐はその紙を睨みつけた。

 

「見つけた」

 あの<人間イカリ>の男が、鳥籠を象ったペンダントのようなものを振りかざしながら、紙の鳥に乗って近づいてきた。怒り狂った柚子(ユーリス)中佐は頁を握り、奇跡を纏った手で籠を殴りつけた。

 だが、なにも起こらなかった。

 触れられもしなかったのだ。中佐の手は籠に近づくほど遅くなっていき、遠ざかっていくようだった。まるで目の錯覚が現実になったみたいだ。すぐそこにあるのに、どうしても触れられない。

聖異物(アロトリオ)

 中佐は呆然として呟いた。

「時間、止まる。壊せない。まじない、逃げ出す、籠、捕まえる」

 途切れ途切れの辿々しい共通(シャーン)語で、男は言った。中佐は堪え難きを堪える顔で叫んだ。

「この亜人が。口も利けないうすのろのくせに、この僕によくも罠など仕掛けたな。時間ですって?」

 中佐は悔しそうに呟いた。

「時と空間に干渉できる異物は、第一級以上にしか存在しないはずだ。お前たちのような屑が、そんな」 

「なるほどぉ、第一級(プライマリ)かぁ」

 彼がこれ以上ひどい悪態をつくのを遮って、(メイ)は残念そうに言った。

「なるほどね、あたしのメイミィも通じないみたい」

 その手では、奇跡が力なく萎んでいくところだった。

「力が届かない……力天使(デュナミス)の射程距離外にあるって感じ。眼の前にあるみたいに見えるのに。柔らかくできない。これは、手詰まりかな?」

 ものを柔らかくする力は、無数の紐のようになって金属製の檻を舐めていたが、とうとう触れられずに萎びて消えた。

「人間未満の蛮人如きが、不相応なものを」

 柚子(ユーリス)は歯を食いしばりながら言った。追い込まれているから口を噤もうなどという考えは、彼にはないようだった。

「貴様たちは何を狙っている?絶滅主義の<黙示録(アポカリプス)>と組むなどと、この上ない愚行を犯してまで国が欲しいのか。蛮族の巣なんか、我々のような文明国に亡ぼして貰ってありがたいくらいのもののくせに」

「お前達、国、壊した」

 アシタ人は言った。その短い言葉に、計り知れないほどの憎悪を込めて。

「だから、殺さない。お前達、<天使(マラーク)>……俺達、使う」

「何を言っている?」

 柚子(ユーリス)は銃を振り回しながら叫んだ。

「僕らの<天使(マラーク)>を奪うつもりですか?馬鹿なことだ、契約済みの<天使>が奪えるものか。非文明的な猿の考えそうな浅知恵ですね」

「違う」

 男は嘲笑を込めて、ゆっくりと言った。

「お前達、こころ壊す、使う」

 柚子(ユーリス)(メイ)が絶句した隙を突くように、間髪入れずに男は唱えた。

『《開け(アペリー)》』

 鳥籠に一部分だけ穴が空いた。すかさず男がそこに指環を嵌めた拳をあてがった。

『《沈めよ(オブルエ)》』

 指環から紫色の煙が噴き出した。甘い香りがする、と思ったときには、もう二人の意識は昏睡に沈んでいた。

 

 To be continued…

 

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