□数十
古い石の祭壇の前に、
重苦しい岩の表面が、薄く光を灯す苔に覆われている。だからか、あたりはぼんやりと明るくこそあったが、同時に寸分の隙もなく石と岩盤とに閉ざされていた。
入口はない。ここは、“扉”でしか入れない場所だったからだ。
「【偽リベリウス記】の断片は僕に破壊され……」
「市民権を失い、本邸を手放した。この家のもので残っているのはこの【扉絵奇跡 ダルト】だけですね」
彼はしばらく動かなかった。
「姉様は沈黙病です。人の助けがなければ生きていけない。やはり僕たちが犠牲になるわけにはいかない」
笑顔も泣き顔も持たない、言葉も話せない、食事さえ無理矢理に食べさせなければ摂ろうとしない姉。
およそ人間らしいことは何一つできない姉。なにを話しかけても応えることはなく、日がな一日ぼうっとしているだけの姉。
それでも、彼女は
「姉様は、僕が守ります」
「そのためなら、何をしてもいい。なんでも捨ててみせる。姉様以外のものは、すべて……だから、もう少しだけ……」
行かなくては。首都から連邦の軍人が来ている。それも、特務兵の統括官が。
石の壁になかば同化するように鎮座する巨大な
両腕は地に投げ出され、膝を折り、こうべを垂れている。その全てを緑の苔が飲み込んでいた。背の翼は岩盤に突き刺さり、ひしゃげたように玄室の壁に沿って広がっている。
それは、ものいわぬ石に成り果てた<天使>のむくろだった。
【扉絵奇跡 ダルト】。
◇◆◇
■曳航連邦・ユディト 荒原“
勇敢で忠義者の槍使い、“扉”の
戦場で敵軍の矢に死にかけたユディト王を救うため、攻め寄せる軍勢を相手に単身で
その男こそ、初代の“扉”の契約者だったのだ。
(逸話級、
大佐は目の前で怜悧な表情を浮かべる
戒律は秘されるものだ。大佐は、たとえそれが
<人間イカリ>は戒律に逆らえない。もし破れば<天使>の力のすべてを失う。それを教えることは、自分の心臓を無防備な裸のままで差し出すようなものだ。
「なにか、僕の顔におかしなところでもありますか?」
「失礼。“扉”の継承者を前にして感嘆したまでですよ」
誤魔化すように、大佐は頭を下げた。
それは本心からの言葉でもあった。
古今、どんな都市船のどんな国々でも、王の側には<
曳航連邦という巨大すぎる群れの中では、いまや、その奇跡の意味も少なからず薄れてしまっているが、それでも、目の前にいる子供は間違いなく小さな王なのだった。
「あなたが、この家のご当主でいらっしゃいますね?」
大佐は、勿論分かりきったことだったが、丁寧にそう尋ねた。
その片腕は衣服に隠れていたが、それでもその内側が空っぽであることは簡単にわかった。なぜ腕を治さないのだろうか、と大佐は心の隅でぼんやり訝しんでいた。隻腕を治せるほどの奇跡の使い手は、きっと連邦のどこを探しても簡単には見つからないだろうが、それでも艤装くらいはできるだろう。艤腕のひとつも買えないほど貧窮しているのか。
(それとも、戒律か?治療を禁じる戒律?だが、そんな致命的すぎる禁を<天使>が課すだろうか?)
大佐はしかし眉一つ動かさずに、
「面白い人ですね、あなたは」
流暢で綺麗なシャーン語だ。いかにも正規市民が話すような。
「敵意がない。僕らを踏みにじるような意思は、あなたにはないみたいだ。連邦の軍人が、態々ひとりで訪ねてきたというのに」
「……それは、どういう意味でしょうか」
言葉の意味を計りかねる戸惑いをそのまま、大佐は口にした。
(まさか、私の精神を?)
「いえ……そんな奇跡じみたこと、僕には出来ませんよ」
「僕は、他人の悪意が解るんです」
「悪意……とは」
「どういうことばを充てるかは自由ですけれど。その人が僕にとってよこしまな企みを持っているなら、それと解るんです。不思議ですよね。カンのようなものですよ。あなたにはそれがない。僕らを銃殺しに来たわけではないんでしょう?」
大佐は頬を凍てつかせたまま黙っていた。だが、その胸中は驚きに震えていた。それはその才能についての畏怖でもあり、
「僕らにとって、貴方はきっと良いものをもたらしてくれるはずだ。そう思ったから、僕は貴方に顔を見せたんです」
「……銃殺など、勿論ありえない」
大佐は思案を巡らせながら呟いた。
「私は……先程も云いましたが、ただ、アシタ人の少年を追ってきて、そしてここにいる。それだけですよ。貴方がたの家と、簒奪者には接触があったはずだ。さる筋からの情報です」
さる筋。ものは言いようだ。大佐は自嘲的な気分になって座っていた。危なげな薬を嗅がせて、奇跡の力で
「協力的に、よき市民の義務を果たしてくださるのなら、もちろん貴方がたに危害など加えるはずもない。ありえないことです。アシタ人の“アゲハ”と名乗る少年、“葬送”の<
「知っていますよ」
「知っていますよ。アシタ人の彼のことは」
「では……まさか、どこにいるか」
「この屋敷に逗留させたのです。力ある<人間イカリ>であったことは確かだったので。港湾マフィアに追われてもいました。あのならず者たちが嫌なのは、僕らも利害の一致でしたから」
「それは、罪人を匿ったということですか」
大佐は詰問の姿勢を強めた。
「彼には神話級強奪の罪がある。国家機密の<
「まさか。彼がどのような素性のものであるかなんて、知る由もない。僕らに分かっていたのは、彼がアシタ皇国の生まれであり、高位の<
淀みなく言い切る
「行き先は?」
大佐は斬り込んだ。
「彼は、今、どこにいる?」
「知りません」
「本当ですよ。彼がどこにいるか、見当もつかない。知っているなら今すぐお教えして差し上げたいところですが」
「見当もつかない?しかし、人間というのは物忘れをする生き物です。些細な手がかりでも構いませんよ。思い出して頂けませんか。彼が口にした目的地だとか、人の名前だとか」
大佐は背もたれに身体を預けた。古びた椅子がいやに軋んだ。
「……もちろん、謝礼は致しましょう。ほんの気持ちですとも、ええ」
「謝礼?」
そう尋ねる
「ええ。“市民権”を差し上げましょう。協力していただけるなら」
◆
曳航連邦の根幹を成すのは、厳格な市民権制度だ。
けれど、当の連邦の側ではこれをむしろ温情だと考えていた。そして、
連邦に貢献し、利益をもたらせるなら。そこにはなんの区別もない。たとえ
(そしてそうでなければ、たとえどんな旧家でも堕ちる。
「貴方がたが、市民権を失ったことは聞き及んでいます」
大佐は静かに続けた。
「特に、あなたの姉君。彼女の市民権剥奪には些か不審な点が見受けられる。記録に照らしたところ、連邦法に定められた査問や猶予期間が設けられた形跡がない。これは由々しき事態で、私もそれなりに同情している」
「私はこのユディトに属する人間じゃない。ですが、だからこそできることもある。特務兵統括官の地位に無理を言わせれば、多少の口利きはできるでしょう。あなた達を再び、“人間”に出来るのですよ」
「“人間”……」
「沈黙病の彼女には、特に必要なはずだ」
「正規市民になれば、都市中枢の医術も技術も利用できるのだから。このままでは緩やかに衰弱して萎れていくだけだ」
大佐は言葉を連ねた。
「“人間”になりたいはずだ。かつてはその地位にいたあなた達なのだから。知っているのだから。取れる手段を知っているのに、手が出せないほど辛いこともないはずですが」
そう言い募る大佐に、
「“人間”ですか。正規市民こそが、そうだと?」
大佐は少しだけ言葉を切った。その隙に滑り込むように、
「手足の数も、目鼻の形も、なんら違わないのにただ曳航連邦の市民であるかどうかだけで“人間”でなくなるというのは、どうなのでしょうね」
「だが、事実だ」
大佐は渋々話を繋げた。
「そう、ですね。その通りだ。この国で、非正規市民は人間になれない。何一つ認められることもない。この屋敷も土地も、すでに法的には他人の持ち物なんです。そのうちに徴発されることになっているんですよ、ご存知でしたか?」
「この家は姉のものでしたからね。その市民権が取り上げられた以上、時間の問題でした。しかし……徹底的だ」
「僕は、確かに正規市民でした」
「……坊ちゃま」
思わず立ち上がりかけた老執事を、
「ユディトは一都市に過ぎない。それでも、正規市民に与えられる権限は大きなものです。そして僕はね、そのことを、そこからはみ出して初めて理解したんですよ」
大佐は黙っていた。
「それが正義だと思いますか?あなただって先に言ったはずだ。市民の間に線を引いたままでは連邦は割れる。本当なら同じ人間だったはずなのだと、心の奥底で皆が知っているから……」
いや、黙っていられなかったからこそ、黙っていたのだった。いつもなら、くだらない会話であったなら、つまらない軍人の仮面を被ったまま当たり障りのない受け答えができたものを。
「……それは通らない」
気づけば、大佐は口を開いていた。その喉から込み上げてくるものの手綱を必死に引きながら、彼は言った。
「この世界が終わりかけていることは、あなたも知っているでしょう」
それは、誰しもがわかっていることだった。
「海は年々その水位を増し、都市船を飲み込もうとしている。水も土も、木々も、獣も、人間も、あの毒の海に触れれば消えてなくなってしまう」
大佐は言った。
「【清浄炉】はそれを先延ばしにしているだけです。いずれ海面が上がりきれば、私たちはすべてを失う。海水を浄化して電力と水を取り出す技術は、“歴史”の遺産ですから。再建は不可能です。都市船も、【清浄炉】も、他のいろいろなものも、すべてが」
大佐は渋面を浮かべながらも、しかし止まれなかった。
「産まれる子は年々数を減らし、奇形と沈黙病が蔓延っている。沈みゆく都市を巡って諸国は争い、戦火で多くのものが死んでいく。逃げ出した移民船は航海のさなかで半分が飢え死んでいた。有機物の流出は止められず、砂と錆の土地では食べ物は作れない」
二千年前、世界はとうに終わっている。
今の時代はその残り火なのだ。消え逝く炎を必死に守り続けて、それでもいつか本当の終わりがやってくる。
「どこかで線を引かなくては。切り分けなくては。永遠に減り続ける豊かさを、皆に配ることはできない。何かを得るためには、何かを捨てなくてはならない。それが国というものだ」
「それは、わかりますよ」
「僕は、家族を守るためならなんでもする」
「ならば、それと同じだ。私はこの国を愛している。いや……愛してはいなくても、必要だと思っている……だから、この国が在り続けられるように、一線だけは守り続けなければならない。それだって、そう無慈悲でもない。敵国でさえなければ、我々の一部になれるのだから」
「そう、それが国の、王の論理です」
「僕達は選び続けなければならない。大事な物と、そうでないものを。なにかを選ぶことは、なにかを選ばないことだ。家族を守ることは、敵を殺すこと。腹を満たすことは、誰かを飢えさせること……でも、本当にそれだけなのですか?」
「このまま、そうやって定められた緩やかな滅びを先延ばしにして、目を背け続けるだけの世界で、それでいいと思うんですか。理想なら、理想を謳うなら、この世の全員が救われていいはずだ!」
「実現できない理想に縋り続けるのは、現実から逃げているだけだ」
「それで捨てられたものが納得すると思うんですか」
「僕は切り捨てられた側の人間だ。でも、切り捨てる側の人間でもある。だから、簡単に捨て去るだけだなんてできない」
「何が言いたいのです」
「あのアシタ人を……“アゲハ”を、
大佐は目を剥いた。
「何を……」
「あなたは言いましたよね。特務兵は、切り捨てられた者たちを活かすために作ったと。彼こそそうでしょう。力はあるはずだ。十分すぎる力が。
このまま、連邦の理想にそぐわぬ人間を弾き続けるんですか。それはあなたの理想じゃないでしょう。あなたは、それに抗いたい人のはずだ」
そうだ。大佐は心の中だけで肯んじた。
許せなかったのだ、この国の在り方が。理想から外れた者たちを亜人と呼んで憚らない、この国の人間中心主義が。たとえ異物でも、異物なりにいられる場所があっていいはずだ。
だが、答えはわかりきっていた。
(それができるなら……だが、“予言”がある以上それはない。奇跡で首輪をつけても、上が決して許すまい。“滅び”の可能性は完膚なきまでに排除されなければいけないと言うだけだろう)
それに、他ならぬアゲハが拒絶したのだ。その道はすでにない。
戦の道具だとしても、居場所を与えられただろうに。
「……そこまで言わせるほどの友人だったというわけですか?」
大佐は冷たく言った。
胸の内が冷えていくのがわかった。激情も熱意も消えて、やるべき仕事だけが残っている。
「最後の通告だ。彼の情報を渡しなさい。さもなくば、罪人を隠匿した疑いを以て処断させていただく」
老執事は青白い顔で控えていた。それを見ることもなく、
「いいえ」
そして、顔を上げた。
「よろしい。いいでしょう。彼の居所を教えます。……と言っても、手がかり程度のものですが」
「その言葉を楽しみにしていました」
大佐は立ち上がった。
足元で、かすかな水音がした気がした。だが、
「では、行きましょうか。ご案内しますよ。この僕自らが」
「それはありがたい」
大佐は滑らかなコートを羽織った。その分厚い襟には、噛み付いているような、牙のような印が固く盛り上がっていた。
自分も上衣を持ち上げた
「宜しいのですか。本当に」
「ええ」
「姉様を守るためなら、僕はどんなことでもしますよ」
◆
■???
はじめ、
体が怠い。粘るような眠りから意識をとろとろと引き剥がして、彼は目を開けた。
ややあって、軽率だったな、と彼は思った。訓練では、こういうときには意識がないふりをしろと叩き込まれたものだ。うまく頭が回っていない感じがする。
水音がする。
間を空けることもなく注ぐそれは、海のものではなかった。鈍い頭で彼はユディトの地理を思い出した。都市中枢から
小さな部屋だった。
あたりは薄暗かった。明かり取りらしい窓は塞がれていて、隙間から赤い陽光が少しこぼれているだけだ。かなり時間が経っているらしい。空腹の具合から、日はまたいでいないようだけれど。
中佐は自分の内側に意識を集中した。
あの【聖籠】は消えていた。第一級異物とはいえ、奇跡が続かなかったのだろう。<
けれど、中佐は怖気に身を震わせた。
奇跡が感じ取れなかった。まるで、<
手足に力が入らない。それに、この妙な気怠さ。
うまく、ものが考えられない。
「お目覚め?」
隣で、
彼女は壁に背を預けてじっとしていた。同じように、力が入らないのだろう、足を投げ出して座っている。
「奇跡は使えないよ」
「……おや、貴重な情報ですね。知りませんでしたよ」
中佐は吐き捨てた。その目が怒りに燃え上がった。
「これは、奇跡封じの?」
「どうだろう。あたしは投与された経験がないから。でも、奇跡は使えないし立ち上がることもできない」
「なら、間違いないでしょう」
中佐は荒く息を吐くと、床をひっかくようにして、目の前の扉に頭を預け、どうにか体を起こした。かなり呼吸が楽になったことに彼は気づいた。
そしてすぐさま絶叫した。
「【混乱薬】だと!蛮族が、それに<
「静かにしてよ、ユーくん」
「落ち着いてなどいられるものか」
「【混乱薬】は連邦の独占技術だ。これは<
「吐きそうな気分です」
乾いた唇がひび割れて痛い。舌が動かない。
名前が思い出せない。技の名前が。圧縮した奇跡に付けたはずの名前が。
「屈辱だ」
「思い出せない、力の名前が。あぁ、クソ、屈辱の極みだ!」
怒鳴った拍子に咳き込みながら、彼は地面をのたうち回った。柔らかな痺れにも似た無力感が身体中に根を張っている。
「静かにしたほうがいいよぉ」
「さっきから気配がしてる。足音を殺してるみたいだけど、三人かな。こっちに近づいてきてるね。一人は扉の前にいる。もう二人はちょっと離れたところで止まった」
壁や床の僅かな響きを全身で感じ取りながら、彼女は扉に目を向けた。
「ほら」
鍵を弄るような音がして、扉が勢いよく開いた。
「動くな」
立ち入ってきた男は、あの<人間イカリ>だった。紙を破くのが引き金の、断ち切る奇跡の使い手だった。辿々しい
男はゆっくりと小部屋を睥睨すると、痛みに顔をしかめながら鼻を触っている
中佐はものすごい形相で男を睨んだが、何も言わなかった。“動くな”ということなのだと理解していたからだ。
男は焼き締めたフラム*1を無造作に取り出し、床の上に二つ放った。腹の足しにだけなればいい、ほどのものでしかないのだろう。
「二人、特務兵。お前たち、とりこ、でない」
「僕が
「我々、従い、奇跡つかうなら、赦し、与える」
そう言って、男はちょっと笑った。陰険な笑みだった。男は振り向いて部下らしき二人になにか言い、そしてまた野卑に笑いあった。
「従わない、お前たち。構わない」
「お前たち、心縛る。心壊す。どちらでも、いい」
「蛮人が」
「技術も哲学も理性もない、未発達な言語もどきしか持たないくせに!上から偉そうな口を利くものだ、芸の披露ならもう少し練習してからにしろ、言葉のマネを覚えた程度で!
精神干渉系の奇跡か?聖異物?何にせよ、僕らを“使った”ところで、お前たちに待っているのは死だけです。生きたまま有機物の循環炉に放り込まれて農地プラントの肥やしになるがいい!誇り高き連邦軍人は野蛮な猿などに屈することはない!お前たちは叩き潰されるでしょう、我らが気高き曳航連邦軍の手によって――」
次の瞬間、
金属を打ち合わせるような甲高い音と、細く硬い白色光が瞬いて、
男は、白い樹脂に覆われた武器を構えていた。鉄色の銃口が、ゆっくりと二人の顔を睨めつける。
「銃」
「そんなもの」
「たかだか一丁を僕から奪ったところで……」
男の手に握られていたそれに、
気づいてしまったからだ。
「まさか」
「銃を、なぜ、おまえが」
けれど、銃の技術を持っているのは曳航連邦だけのはずだ。
ひとつふたつくらいなら、どこかで盗んだのだろう。けれど、もし、そうではないとしたら。
「【混乱薬】に……銃までも、お前たちは……」
その表情に満足したのか、男は笑みを浮かべて、悠々と踵を返した。
「その時をまつがいい」
扉が閉められると、また鍵の掛かる複雑な音がした。
To be continued…
通常のものを海フラム、陸の穀物から作られたものは