■【ユディトの年代記】
かくてユディトの地は輝ける曳航連邦にひれ伏し――
――著者不詳(11900?)
◆
■交差都市ユディト・軍港
今日は
シャーンの軍旗がはためく下で、ラッパの高らかな音楽が鳴り響いている。軍の行進が終わり、ユディト陥落の故事になぞらえた劇が行われている。
旧ユディトの恐ろしき<天使>たち。
それを前にして果敢に闘う曳航連邦と、その軍艦たち。
破壊された<
そして条約に調印し、手を取り合う人々。
そこかしこに土着のユディト系への侮蔑が見え隠れしていたが、それは連邦の軍人たちに取ってみれば栄光の象徴なのだった。
(ずいぶん盛り上がっている……)
ユディト軍は残らず式典に参列しなければならないが、外様の特務兵にとっては関係ない。その自由は、居場所がないということでもあった。下手なところに入り込んだら余計な揉め事を招きかねない。況してや、特務兵はあまり好かれていないのだから。
幾重にも港を囲う城壁の上で、迷路のようになった道を、
「せっかく大佐がいないんだ。暇を潰して、のんびりやりたい」
すっかり癖になった独り言を零して、
ユディトは広い浅瀬を持つ都市だ。かつては遥かに巨大な都市だったのが、海に呑み込まれたからだった。みどりの近海には、珊瑚礁に取り込まれた古い都市の遺構がかすかに見える。所々で、海から突き出したその頭が小さな群島を作っていた。
海の底に沈んだ街は複雑に絡み合う近海流を産んでいる。遺跡の隙間には深く強い流れがあり、それが浅瀬に湧き出して緩やかになっては、またどこかへ潜っていく。
この地形こそがユディトの守りに大きく役立っていた。正しい航路を知らない船は流れに捕まって座礁するか、瀬に阻まれて進めなくなるか、とにかく上陸することすらできないのだ。
そこに、一隻の船が立ち入ろうとしていた。
◆
軍港の側で揉め事を起こす人間などいない。異国の戦線もここからは遠い。
ユディトは平和そのものだった。辺境都市にしては治安もいいほうだ。
「ご報告があります」
だから配下の兵士がそう言ったときも、勿論ユディト軍の司令はなんの心配もしていなかった。
「洋上に妙な船があると、見張りが述べておりまして」
「
司令は頓狂な声で言った。
「式典中だぞ。どこの船だ、下がらせろ」
「いえ、それが……お越し願えますか」
部下の見せた遠眼鏡には、古びた軍船が映っていた。
遠目にも傷つき、朽ち果てている。発電帆は擦り切れて破れ、装甲が落ちて竜骨が剥き出しだ。その有り様ときたら、もはや漂流船のデブリではないかと思うほどだった。
司令は唸った。
「この船舶は、アシタ様式か」
「既に光信号で現海域離脱を要請しましたが、応答がありません。如何なさいますか」
「警告を無視したのか?」
司令は上の空で言った。
「戦時中の廃船が流れ着いたんだろう。回収しておけ。危険物が載っていても困る。いちいちこんなことで私を呼びつけるな。この後に式辞が控えとるんだ」
原稿を頭の中で諳んじながら、司令はぶつぶつ文句を言って自分の席へ歩いていった。
そのくたびれた船はゆっくりと水路を進み、ユディト軍には“
水門が開いた。
「良いデブリですね」
兵のひとりが防護越しにくぐもった声で言った。
「結構な質量がある。艦の修理にも使えるんじゃないですか」
鉄は貴重だ。質のいいデブリは鋳潰して、色々な使い道がある。兵士たちはやや楽しげに、デブリの装甲板を切り開いていった。
船内は静まり返っていた。土のように積もった埃と黴が、すべての輪郭に被さっている。
「危険物は見受けられませんね」
「あぁ。やはり戦時中の残骸だろう、しかし……」
妙だ。
死体がない。戦争で漂流したのなら、乗組員たちの亡骸が残っているはずだ。渇きに耐えかねて海へ飛び込んだのか、それともなにか他の理由でもあるのか。船内は無人だった。血のひとしずくすら、残ってはいなかった。
兵士のひとりが慎重に、操舵室へと踏み込んだ。
そこにはやっと、ひとりの亡骸があった。
座席に深く腰掛けて、腕をだらんと垂らしている。擦り切れた襤褸を身にまとい、よく見えないが、手足は鎖で繋がれているようだった。
そのとき、強い電燈に照らされて、その手が眩しそうに動いた。
「生きてるぞ」
先鋒を張っていたふたりが慌てたように銃を抜き、その頭に突きつけた。
「何者か。航行目的と所属を答えよ」
亡骸だった男はなにも答えなかった。兵士は自分の驚きを塗りつぶそうとするようにくぐもった声で喚き立て、銃口をかちゃかちゃと鳴らした。自分たちの呼吸音が耳障りだった。
男が振り向いた。
船乗りだというのに防護服もつけていない、晒されたその素顔を見て、兵士たちはどよめいた。ひとりはその顔を知っていた。もはや、この廃船が単なるデブリでないことは明らかだった。
男が口を開いた。
「……
その落ち窪んだ瞳は、明らかに正気でなかった。
「
酒に似ているが明らかに違う、辛い匂いがつんと香った。薬品臭い、鼻を刺す匂いだ。
「いるんだろ、ここに、この場所に、どこだ?どこにいる?」
兵士たちが答えに窮したその一瞬で、突如、
「いるって聞いたんだ。ここに!たしかに!」
喚き立てながら
思わず発砲した兵士の銃声が、
粘つく血を垂らしながら、
「こ、来い……【紙片奇跡 ニヤロト】」
そして、《円環》が開いた。
◆
■軍港基地・
出し物はまさに最高潮というところだった。
いよいよユディト王が正義の軍隊の前に膝を突き、こうべを垂れる。“
『まこと喜ばしきことに、愚王ユディトは討たれり!して大シャーンの栄光、この地に轟きたり!』
そして、その背後で光が爆発した。
デブリの破片が爆ぜた。鈍い金属の欠片がひゅるひゅると叫びながら飛び散り、次いで煙の混じった風が吹き渡る。
あの廃船の船体を引き裂いて、《円環》が廻りながら浮上してきた。その下には<天使>が吊り下がっている。隊列を組んでいた兵士たちが凍りついたように足を止めた。
その<
【紙片奇跡 ニヤロト】。
紙の<天使>は、外套に首を埋めるようにして、静かに大軍を睥睨した。人、人、人。美しい幾何学模様を描く粒が
角笛が鳴った。
<
戦斧と槌、弓を携えた彼らは、まっすぐな戦意を顕にして、混乱している連邦軍の隊列へと襲いかかった。
「襲撃だと?デブリに潜んでいたのか?」
突き出した司令塔の透過装甲からそれを目の当たりにして、司令はようやく地団駄を踏み始めるところだった。
「式典狙いなぞ、無粋な真似を」
「如何なさいますか」
「砲塔を内側に向け直せ。銃を知らぬ野蛮人どもへ集中砲火を浴びせてくれる」
司令部の兵たちは敬礼をすると、有線通信の鍵盤に手を置いた。だが、副官の男は動かなかった。司令は訝しげに怒鳴った。
「何をしておる。非常時だ。さっさと仕事をせんか」
「……貴方がここの司令になったのは、ちょうど一年前でしたかね」
彼はゆっくりと話し始めた。
「熟練の軍は東の戦争へ送られて、今、この都市にいるのは二線級の者たちばかりだ。もちろん貴方と私も含めて。この平和な街ではどうしても実戦経験に難がある。むざむざと偽装デブリを引き込んでしまった」
「何がいいたい」
司令が顔を真っ赤にして唸った。副官は懐からなにか取り出し、顔に被った。
それは仮面だった。赤くバツ印の付けられた、硬質な殻だった。
「いや、だから死ぬのですよ、とね。《
<
次の瞬間、未だことの趨勢が飲み込めずに呆けている司令と、慌てて銃を抜く指揮官たちを残らず巻き込んで、副官の身体が爆発へと変わった。壁と強化ガラスに閉じられた司令部は、一瞬だけ身悶えするように震えて、そして内側から膨れ上がる炎と爆風によって粉々に砕け散った。
◆
砲塔を内側に向け直せ。
その慌てた通信があった後、当の司令部が跡形もなく吹き飛んだのを見て、連邦軍は総崩れになった。できるのは、眼の前の敵に立ち向かうことだけだ。
だが、骨と革を膠で固め、鉄で裏打ちした重武装の鎧には、生半な刃では通らない。銃を使いあぐね、ナイフを取り落とし、思うようにならぬまま、数に劣る相手に次々と刈り取られていく。
アシタ人の戦士たちが通ったあとには、死体と、死にきれずに呻く軽装の兵たちが稲藁のように積もっていった。
連邦は銃と砲の軍だからだ。
息遣いや血の匂いが手に取るようにわかる、鎧の金具と軍靴の音が互いを踏み荒らすような、こんな距離は不得手もいいところだった。この時代、12000年代にはありえないほどの超近距離戦が、アシタの敗戦を生き残った精鋭たちを相手に、次々と制されていった。これほどの距離では、銃は役に立たないどころか、同士討ちを招くだけだ。
しかも、ただの兵ではない者たちが混ざっていた。
アシタ人たちのうち、薬を呷った幾人かの影が膨らんだ。上背が盛り上がり、獣のような毛むくじゃらが鎧の隙間から溢れ出す。手だったものには真っ黒な鉤爪がついていて、その一振りで連邦の兵士が腰から上を失くした。太ましい尾が背後の敵をも殴り倒している。
その懐から、空の小瓶が落ちて砕け散った。
獣化兵だ。連邦軍はその叫び声もろともに、獣化人間たちに吹き飛ばされていった。
<
しかし、それでも時間にして一分。曳航連邦軍が態勢を立て直すまでに十分な時が過ぎようとしていた。
『
短い戦符号が繰り返し響き渡り、隊列の後方で兵たちが寄り集まり始めた。防衛の任にあたっていた部隊がそれに加わっていく。
『
砲台が引かれ、長銃が茂みのように展開した。背後の城壁では砲塔がアシタ人たちを睨んでいる。
「陣形を整えよ!第三種迎撃陣を敷くのだ!」
連邦の士官たちはその奮戦をいっそ哀れむように、最後方から眺めていた。槍や剣、せいぜいが弓といった古式ゆかしい武装を使うしかない蛮人に勝機などあるはずがない。銃を知らず、文明を知らないがゆえにただ剣を振り回すだけの彼らが、どうしようもなく哀れだった。
「銃を構えよ!」
確かに不意をつかれた。少なくない兵を失った。だが、もう陣は整っている。アシタ人が最前線を食い破った瞬間、集中砲火が彼らを打ち砕いておしまいだ。ここはユディト軍の本丸であり、腹の中なのだから。
『
あと数秒で、アシタ人たちがなだれ込んでくるはずだ。
だがそのとき、軍鼓の調子が変わった。
ドロドロと鳴り響くそれが重苦しいリズムを描き、角笛が高らかに吹き鳴らされる。乾いた大気を、変わった節回しの笛の音がつんざいた。
アシタ人たちの動きが変化した。
連邦軍を食い破るその流れがふたつに割れた。擁壁に沿って戦場が開いていく。
角笛が終わった。
星明りのようなものがかすかに光って、金属がぶつかる音がした。前線の兵たちが崩れ、その隙間を通り抜けるようにして、目に見えぬ大気のゆらぎのようなものが押し寄せた。
そして、連邦軍の長銃陣が砕け散った。
軽装の兵士たちが倒れていく。銃が残らず爆発し、焼け付いた金属の嫌な匂いがあたりに漂った。砲台も砲塔も真っ黒な煙を上げながら潰れて、炎に飲み込まれていく。大気を破裂音が満たしていた。連邦軍がよく知っている音だ。
「馬鹿な」
士官のひとりは、棒立ちになりながら叫んだ。
「なぜ、奴らが“銃”を持っている」
火と煙の向こう側に見える、アシタの銃士たちの銃口が光った。
銃声が絶叫して、まるで箒で掃き寄せたように、ユディト軍は次々と薙ぎ倒されていった。
◆
■銃火器
銃は曳航連邦しか造れない。
“歴史”の技術だからだ。
銃は空間を支配する。物理法則を局地的に書き換え、莫大な電力を費やして、運動エネルギーそのものを空間に書き込むのだ。その根本のところ、エネルギーを直接扱う歴史的技術を再現できた国は他にはまだなかった。
剣や弓とはわけが違うのだから。
『銃は矢のように曲がりません』
黒尽くめの<
女の声だった。若いが掠れている。その右手はまだ指を持ち合わせていたが、左手の方は手首から落とされていた。
『威力、射程、速度、口径などは予め定めた通りにしか撃てません。必要に応じて整えて下さい』
冷たい声だった。まるで隙間風がたまたま人の声に聞こえたかのような、やけに人間味のない声だった。
黒尽くめが差し出したその銃を、“鋏”の<人間イカリ>……ガザミは胡散臭そうに眺めた。
外装は白い樹脂と陶器だった。なかには金属製の機械が綴じられている。杖のように長いその穂先からは銀色の銃口が覗いていた。銃床には連邦のシャーン文字でなにやら細かく記してある。
「いらん」
ややあってガザミは首を振った。後ろにいたひとりに投げ渡す。
「ヤマアジサイ、これは長銃部隊に回しておけ。こっちの方面は俺ひとりでどうとでもなる。俺が使う必要はない」
ガザミが腕をまくりあげ、紋章を顕にした。
しるしが熱く灯った。奇跡の気配が膨れ上がり、パチパチと弾けるようだ。そばにいるだけで産毛が逆立ち、血潮が震える。
「これは緒戦だ。消耗がないに越したことはない」
<天使>の力を手に圧縮し練り上げながら、ガザミは声を低め、素早く敬虔に、戦に捧げる前口上を言い終えた。両の手が持ち上げた薄紙に、奇跡が研ぎ澄まされていく。
「紅き血にて浄められんことを」
ガザミは紙を透かし、その向こうのユディト軍を見つめ、そして一気に破り捨てた。
「《
風が断ち割れた。
紙の破れ目に沿って奇跡が撃ち放たれ、ユディト軍を吹き飛ばしたのだ。アシタの戦士たちが声高く喝采をあげる。
「野郎共」
ガザミは響く軍鼓に負けぬよう叫んだ。
「死ぬんじゃあないぞ。あとで酒を奢ってやるからな」
そう言って、ガザミはまた奇跡を撃った。銃を構えていた連邦の戦列が、横一閃に薙ぎ払われて悲鳴を上げながら崩れる。戦士たちは凶暴に喚きながらそれに襲いかかった。
『奇跡』
傍らにいた<
『奇跡。意思の顕現、罪の顕現、人の身に天上の理を降ろす錨、欠落なき円環の写し、一切浄化の降臨』
「わかる言葉で話せ」
ガザミは吐き捨てた。黒尽くめのそれはなおもブツブツ続けた。
『
「薄気味悪い連中め。あぁ、オオタカヒコどのはなぜこんなやつらを味方に引き入れたんだ、まったく」
ガザミは牙のような恐ろしい戦仮面を跳ね上げると、舌打ちを一つしてから、
「奇跡がありゃあ銃なんぞいらないんだよ、なぁヤマアジサイ」
「あぁ、陣形を崩したらあとはあっちでやれます。どうも」
「もう二、三発撃ち込んでおくぞ」
ガザミは圧縮の名前を呟き、さらに紙を千切った。とうとう細かくなりすぎて使い物にならなくなったそれを投げ棄てて、ガザミは手をさっと振り上げた。眼差しのその先にはあのニヤロト、紙の<
「それで本体のお前は何をしてるんだ」
ガザミは舌打ちした。
「さっさと動け!連邦を討ちに行け、この愚図が」
そのとき、紙の<天使>を連邦軍の砲撃が直撃した。
少し遅れて、腹を揺らす砲声があたりいっぱいに轟いた。耳を抑えながら、ガザミは誰にも聞こえない口笛を吹いた。
<
眼光がぼうっと膨らみ、自分を撃った砲を見た。その砲口から白く上がる煙と、怯えた顔の砲手たちとを。
ニヤロトの纏う、外套のようなものが割れた。
それは薄っぺらな紙、鉄を打ち伸ばした箔のようでもあった。升目のような規則正しい線が走って、外套がばらばらの帯になる。その一本が、掠めた兵舎を大きく切り取った。
それはいわば腕だったのだ。
薄い、鋭い、何本もの帯の腕が乱雑に振り回され、触れるものすべてを切り取った。素早く折れ曲がりながらそれは砲塔めがけて進み、砲身を真っ二つにして切り開いた。
「下がれ!巻き込まれるぞ!」
動き始めた<
「暴れる<天使>になんざ近づかんに限る。お前らは下知どおりこの港と水路をものにしろ。あの“紙”には連邦を削ってもらう。好きにやらせておけばいい」
「ガザミ殿は如何なさるのですか」
「俺ァちょっと別に用があるんでな」
ガザミは醜く笑った。
「オオタカの大将から預かってるんだ。あの特務兵どもを、人間爆弾にして連邦に放り込んでやれとな。お前たちは離れてろよ、巻き込まれるぞ」
そういって、ガザミは駆け出していった。戦場は混沌とし始めていて、その背中もすぐ土煙の中に見えなくなってしまった。
◆
■壁上
<
さっきとは打って変わって、細い体躯があらわになっていた。あの外套のようなものは、すべて“紙”の奇跡を象徴するような帯へと変わっていたからだ。その内側にはヒトのそれによく似た本物の両腕があり、何かを掴もうとするように投げ出されていた。
壁の上にあった砲門のうち、五つが<天使>に狙いをつけた。
電気のブーンという唸りが段々と高くなっていく。金属の打ち合うような音とともに火花が散り、鈍色の砲口で星が瞬くような光が見えたと思ったその時、五つの砲撃が放たれた。
空間の上に演算された軌跡に従って、実体のない衝撃が<
風が爆発し、砲撃が<
「全弾命中。損害……認められず!」
<天使>は無傷だった。
軽く仰け反った程度で、ニヤロトはゆっくりと自分を見回すと、砲のひとつに向かって手を伸ばした。
途端に帯が騒ぎ出した。
一斉に押し寄せたそれらが四角い末端で砲の口を塞ぎ、砲手を真っ二つにし、周りの壁をも巻き込んで乱切りにする。寸断された電源管の切り口からは青い火花が散り、焼け付いた
効いていない。
砲手達は自分が思わず後ずさるのを感じていた。あの<天使>には銃火器が効かない。なら、非契約者の自分たちには立ち向かうすべがないのだ。どんな馬鹿にもわかる。あんなに大きくて偉大なものに、ちっぽけな人の身で勝てるはずがない。
<天使>はゆっくりと振り向き、次の標的を定めたようだった。その《円環》が頭上で輝きを強めると、巨大な体躯がゆっくりと浮き上がった。足が地上から離れ、空を踏んで歩いている。
誰かが銃を抜いたようだったが、やはり無駄だった。小さな銃撃は<天使>のその表面で滑っていくだけだった。
「《円環》と銃は相性が悪いんだよ」
突然のその声に、砲手はいよいよ飛び上がった。
振り向いた場所には、ひとりの少年がいた。帽子で眼差しを隠している。着崩しているが軍服を羽織っているところを見ると、軍人らしい。散歩でもしていたところを通りすがったみたいに、彼は壁の上の小路でただ立っていた。
「ユディト軍に実戦経験が足りないってのは本当らしいね」
少年、
「<
「つまりさ、世界を書き換える強度で負けてるわけ。海に唾するようなものだよ。だからいくら出力を上げても電力の無駄だよ」
その顔に影が差した。
あの<天使>が両腕を伸ばし、天から舞い降りようとしていた。ヒトに似た指が蠢いて、ふたりを掴もうと開く。それは金属にのようにも、または陶器のようにも見えて、硬く冷たい色をしていた。
「あれの名前は?」
「ねぇ、あれの名前は?」
砲兵はやっとその問いかけに気づいて、躊躇いがちに応えた。
「【紙片奇跡 ニヤロト】……港湾マフィアの手下だった男の奇跡だ」
「ふん」
「《
途端に、巨大な<天使>の手が止まった。
まるで、なにかの壁にぶち当たったようにせき止められている。
「《
名前を呼ぶことは、それを掌握することだ。呼び出すことも、退けることもできる。
「《
ニヤロトは見えない力場に押し出されるようにして、壁の上からゆっくりと吹き飛んでいった。その背から生えた帯が暴れまわっている。
「《
なおも起き上がるニヤロトを睨みつけながら、
「緊急事態です、大佐」
そして、彼は事の顛末を告げ始めた。
◆
◆
■軍港・会堂
どぉん、となにかが爆ぜる音がした。
地響きが唸って、会堂の壁と床を這い回る。そこに押し込められた人々は、じっと身を潜めていた。不安と心配がささやき声になって、じわじわと伝播していっていた。
ここにいるのは、皆、軍人ではない市井の人々だった。港に働き口を求めてきていた非正規市民たちだ。その殆どは老人や女子供だった。
扉にほど近い壁際で、ひとりの賄い婦が言った。
「戦争だよ」
それは、隣に話しかけたのだった。
帆布のようなもので顔と身体を覆ったその彼は、咎めるような目つきで女を見つめた。女は答えを期待する風でもなく続けた。
「ごろつきさ。きっと連邦に歯向かおうって連中なんだ。全く嫌なもんでないかい。え?あたしらは真っ当に生きてるだけだってのに、こんなことに巻き込まれて」
砲声が轟いた。
なにか重たいものが崩れる音と、人間の雄叫びが聞こえた。泣き始めた赤ん坊の口を必死で塞ぐ母親と、それを睨みながら舌打ちするものたち、そんな苛立ちが次第に高まりつつあった。
恐怖が怖いのだ。怖がることさえ怖いから、そうしてつまらないことに目を向けずにはいられない。
「運が悪かったよ」
隣の人影に向かって、女はまだ続けていた。
「あたしの息子がね、馬鹿息子だよ、軍に入りたいってんでそのまま東の戦争に行っちまったんだ。それきり音沙汰なしさ。便りもない。死んじまったに違いないんだ。馬鹿だよ。他の子供はぜんぶ流れちまって、あいつっきゃいないのに、あたしにゃ」
「……あんたも、軍に?」
隣の人影はやっと口を利いた。女は、ややびっくりしたように瞬きをした。見知らぬ人影はぶっきらぼうに言った。
「続けてよ。聴きたいんだ」
「あたしゃただの下働きさ。料理番だよ。いくら軍人だからって飯は食わなきゃいけないんだからね」
また砲声がした。
「近いね」
女は耳を澄ました。
「奴ら近づいてきてる。軍人どもめ、役立たずなんだから」
女は深く壁に背を預け、ふーっと息を吐いた。
「首都に行きたかったんだが」
女は言った。
「この街はもうだめさ。東の国境に近すぎるし。首都テーバで一旗挙げられりゃ、もうちょっといい暮らしができると思ったんだがね。ここで貯めた路銀も、無駄になるかもしれないね。港でカネを貯めて、船に乗るはずだったのに」
「随分落ち着いてるんだな」
人影は言った。女は笑った。
「この年になるといつ死んでもいい気になれるのさ。あんたもあと二十年くらい生きたら解るよ。どうせ夢も希望もあったもんじゃないからね。あんたは、ここで何をしてたんだい?軍人に上がりたい口かい?」
人影はその問いに少し戸惑った様子で口をつぐんでいたが、やがて、ゆっくりと一言だけ答えた。どこか面白がるような調子がその声にはあった。
「人を待ってるんだ」
「人を」
女は得心がいったように頷いた。
「なんだ、軍に知り合いでもいるのかね。東の戦争から返ってくるのを待ってるわけかい。父親かい?兄弟?」
人影は今度こそ確実に笑っていた。
「追手……かな」
その言葉の意味を女が考え始めたとき、ひときわ大きな音がして、会堂の巨大な扉が裂けた。
悲鳴とともに、人混みが揺れてたじろいだ。白い光が入ってくる。
異国の戦士がふたり、扉を蹴破って飛び込んできた。
だが、白刃を構えた彼らは、入り口ですぐ足を止めた。拍子抜けだったのだろう。中にいるのはみな、薄汚れた非正規市民の労働者ばかりだ。
「お迎えがきたね、やれやれ」
女は諦めたように言うと、天を仰いだ。屋根に塞がれた薄暗い天を。
ふたりの戦士は異国語でなにか叫んだ。だが、ユディトに育った非正規市民たちの殆どにとって、それは唸るような雑音でしかなかった。
苛立ったように、戦士たちは反りのない剣を構え、一歩踏み込んだ。濃い血の匂いがした。戦の興奮が、ふたりに纏わりついていた。
そのとき、あの人影が女の傍らでぱっと立ち上がった。
『去れ!』
小柄な人影が、戦士たちと同じ異国の言葉で言った。
『ここに戦士はいない。去れ!』
戦士たちは面食らったように、その影へ剣を向けた。人影はなおも毅然として叫んだ。
『戦士はいないと言ったはずだ。宝もない。武器もない。アシタの戦士階級がその誇りを汚すのか?』
賄い婦の女は呆然としてそれを見上げていた。戦士たちはまたなにか叫び、また一歩埃っぽい会堂へ踏み入った。
『やめろ』
その言葉に、戦士たちは口々になにか言った。詰問と戸惑いと、そして最後に嘲るような口ぶりがある。小柄な人影は果敢に反論した。
『ああ。だけど違う。嘘じゃない。おれは……』
戦士が激昂したように喚き、直刃の剣を振りかざした。
その下には、赤ん坊を抱えたあの母親がいる。頬のこけた彼女は、絶望の顔で赤ん坊をきつく抱き締めて隠した。
『そうかよ』
人影は舌打ちすると、身に纏う帆布を翻し、腰に吊ってあった古い剣を鞘ごと抜き放った。
その右手には、火打ち石のようなものが握られていた。彼はそれを剣の鞘に叩きつけ、オレンジ色の火花を甲高い音とともに散らして、なにか宣言するように叫んだ。
その瞬間、まばゆい光が会堂を埋め尽くした。
暗がりにいた彼らの目は、その光に耐えきれず眩んだ。賄い婦の女も、あの痩せた母親も、思わず顔を背ける。温かい風が埃を吹き散らしていく。
目を開けたとき、そこには、壊れた扉の向こうに叩き出された戦士たちと、荒く息をつく外套の少年の姿があった。
「あんた」
年老いた女は思わず声をかけたが、すぐに言葉を失った。
陰鬱な目をした少年の、突き出された左の手のひらには、恐ろしげな髑髏の紋章が刻まれていたのだ。
どこからか、別の声がした。
『あぁ、そこにいたのか。アゲハ』
To be continued…