<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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第二十二話 欠けた耳

 ■【牙の書】

 

 存在は存在せず、ただ名前のみがある。

 

 ――天使学者ラベゼリン(10450?)

 

 ◆

 

 ■交差都市ユディト

 

 ユディト軍がとうとう白旗を上げても、アシタの戦士たちは止まらなかった。彼らは血に渇き、復讐に飢えていたからだ。

 怯えて総崩れになる兵を、黒い獣が刈り取っていく。恐ろしげな面頬の戦士が突き殺す。いたるところで雄叫びが上がっていた。それも、この上ない笑い声とともに。

「殺せ」 

 誰かが叫んだ。

「連邦のクズどもを皆殺しにしろ。磔にしろ。八つ裂きにしろ。火炙りにしろ!」

 真っ黒な獣化兵が吠えたけりながら、連邦の兵士を柔らかな果実のように噛み裂いた。

「俺達の、アシタの無念と恨みを晴らせ!血で贖わせろ!」

 狂乱は止まらない。

 降伏も屈服も意味がない。それを踏み躙ってこその復讐なのだから。これがアシタの受けた屈辱の報いなのだ。

 

 紙の<天使>が倒れた。

 だが、たとえ転んだとしても理性なく暴れ回る巨大な一挙手一投足が、あたりを蹴散らしていく。擁壁のひとつが牛酪(バター)のように斬り裂かれて、青白い火花を吹き出しながら崩れた。

「なぜこんな真似を」

 怒る特務兵の(ハーヴン)は壁の上に立って足を踏ん張っていた。

 <天使(マラーク)>は呼べない。彼は同化して戦った経験がほとんどなかったし、そもそもバカーシャは向かい合っての戦いに向いていない。<天使(マラーク)>のなまえを何度も呼んだせいで、奇跡だって底をつきかけている。

「卑劣なテロリストが。これじゃ、虐殺じゃないか」

 (ハーヴン)は苛々と吐き捨てたが、そこでじっとするしかできなかった。足場が悪くって、飛び降りでもしたら骨を折りそうだ。

 あの砲兵の男が、どこかへ逃げていくのが見えた。

「まだ生きてる人はいる?」

 (ハーヴン)は気の乗らない声で叫んだ。奇跡の籠もった声は不思議にあたりへわんわんと響いた。

「いたら予め謝っておくけどごめんね。《爆ぜろ(フランギミニ)》」  

 (ハーヴン)は懐から大小さまざまな小石を掴み出し、空中にばら撒いた。第三級異物【聖晶ラビエース】という石屑である。それらは本当ならば解放されるなりただ炸裂するだけの奇跡爆弾にすぎなかったが、名前を呼ぶバカーシャの奇跡と響き合うことで、やや異なる変化を起こしていた。

「《射手の喝采(バックショット・ヨレ)》」

 飴色の小石の内側で光が膨らんだ。

 オレンジ色の炎を吹き出して、石屑は一斉に消し飛んだ。その炎は見えない糸に引かれでもするように、あるいは見えざる壁に背中を押されたように、前へと熱く吹きすさんだ。

 焼ける粉塵の向こうでは、紙の<天使(マラーク)>ニヤロトが、うわごとのようになにか呟きながら、身体を起こしていた。手をついて、足を引きずって、(ハーヴン)へと向かってくるその姿は、明らかに狂っていた。

 正気をなくしている。チカチカと頭上の《円環》が瞬いている。

「まさか、()()()()()のか?」

 追加分の小石をじゃらじゃら手のひらに注ぎながら、(ハーヴン)は訝んだ。

 これでは、まるで捨て駒だ。敵勢はどれも紙の<天使(マラーク)>から離れたところへ散開していっている。貴重な<天使(マラーク)>を使い捨てるつもりなのだとしたら、随分思い切った戦術を取ったものだ。

 港はほとんど制圧されてしまったようだった。船から火の手が上がり、建物が崩れていく。飛空艦(カルラ)も危ないかもしれない。今ここに残っている特務兵はどれも非戦闘員寄りだ。なんなら、(ハーヴン)自身だってそうなのだから。

「この襲撃も、あのアゲハとやらと関係があるのか?」

 それを口に出したとき、(ハーヴン)ははっとなにかを感じ取った。

 

 遠く、戦場の向こう側になにかがある。

「アゲハ」

 アシタ人のなまえを、(ハーヴン)はもう一度呟いてみた。

 奇跡が跳ねた。

 なまえを呼ぶ力が反応している。まるでふたつの磁石をそれぞれ近づけたときみたいにはっきりわかる。それが示すことは、たった一つだけだ。

 

「ここに来ているのか。神話級の“簒奪者”が」

 

 ◆

 

 ■ユディト軍港

 

「そんなところにいたのか、君は」

 タカはアシタ語でそう言った。

 一人の少年が、薄暗い建物の中で立ち上がった。

 小柄な男の子だった。擦り切れた布を羽織っていて、汚れた包帯をぐるぐると巻き付けて手脚を固めている。伸びた髪の隙間から、鋭い目がらんらんと覗いていた。

 やや足を引きずりながら、少年が一歩前へと出た。煤で汚れた左手の平に、髑髏の紋章がちらりと見える。

 タカの目が、その契約印を鋭く見つめた。そんなしるしを持っている人間が誰か、彼にはわかっていた。

 

「アゲハ」

 

 タカは静かに呼んだ。

「まさか、軍港にいたとはね」

 その声は明らかに面白がっていた。

「灯台下暗しとはよく言ったものだ。ユディト軍にしてみても、厨房の下働きの顔まで検めようとは到底思わなかったのだろうね。あぁ、本当に会えて良かったよ」

 タカはくつくつと笑った。肩をすくめ、力を抜いた様子でゆったりと立っている。

「はじめましてを言おうか、少年」

 

「あんた、誰?」

 少年アゲハは言った。

「おれを探しに来たのか?」

 タカは倒れている戦士を助け起こし、ふらつく彼等の背を押して、どこかへ歩いていくのを見守っていた。その傍らには真面目そうな若い女がいて、アゲハをじっと見つめていた。

「もちろん探していた」

 タカは言った。

「探すだろう。そりゃあそうさ、探すとも。アシタの同胞が連邦の鼻先から<天使(マラーク)>を掠め取ったというのだからね」

 タカは光のない目でアゲハを見た。

「このノコギリソウは予言者(ナビ)でね。君と僕らがユディト市で会えると彼女が予言したから、僕らはこの都市に来たのさ」

 予言者ノコギリソウが品よく首を傾げた。アゲハはそれをじっと鋭い目つきで観察していた。

「で、なんの用?」

 ノコギリソウはアゲハのそのぞんざいな口ぶりに眉をひそめたが、何も言わなかった。タカは端から気にした様子もなかった。

「決まっているだろう。僕らはね、君を助けに来たんだ」

 タカは背後に群れる避難民たちを指さし、声高に言った。

「見ろ。振り向いて見ろよ。こいつらは今、異国の軍と話す君を敵だと思っている。こいつらの目を見てみたまえよ。所詮はそういうことなのさ。僕らはこの国では異物だ」

 それはわかっていた。振り向かなくても、彼等の怯えきった視線が背中に突き刺さるようだ。

 アゲハは黙っていた。タカは憂いを帯びた顔でアゲハのその沈黙を覗き込んだ。

「どうかな。それは君だってわかっていたはずなんじゃないのかい?あのときから、そう、あの忌々しい戦争からもう七年も経つんだ。身に沁みたはずだ。僕らは国を亡くしたのだと」

「国」

 アゲハはその言葉を試すように口の中で呟いた。タカは興奮気味に言った。

「国だよ。それは土地や家族や財産のことを云うのではないよ。僕らが亡くしたのはね、そういう形あるなにかじゃないんだ。もっと大事で、目に見えないものがなくなってしまった」

 タカは両手を広げながらアゲハに歩み寄った。

「ここは僕らの居場所じゃない」

 タカは呟いた。

「帰る場所が必要なんだ。ここにいていいと、生きていていいと思える、“許し”がいるんだよ。それはここじゃない。もうどこにもない。連邦が消し飛ばしてしまった。不幸だったはずだ。孤独だったはずだ。苦痛だったはずだ」

 タカはアゲハの目をまっすぐに見た。

「だが、もう大丈夫。僕らが君を助けてあげよう。共に来るといい。そして力を貸しておくれ。君の神話級の力を」

 タカの声は優しかった。いたわりに満ちていた。

「僕らの居場所。アシタ皇国の復権のために」

 その差し出されたタカの手を、アゲハはじっと見つめ、日の当たる場所へと歩を進めた。柔らかく笑うタカのもとへ、アゲハが近づいていく。

 右手が動き、薄っぺらな外套の隙間から伸びた。

 

 そして、奇跡の気配が膨れ上がった。

「《火葬砲(ヒムカ)》」

 甲高い音がして、アゲハの手元で火花が散った。

 黒い火打石が、古びた鞘を擦ったのだ。すぐに消えてしまいそうなオレンジ色の小さな火花が、異様に膨らんだ。まるで空気を吹き込まれた革袋みたいに大きくなり、熱を増して、巨大な火炎になって吹きのぼる。

 石が焼け、土が焦げた。ふいごのようなシューッという音がして、ぬるい風があたりを吹き抜けていった。

 アゲハは炎に炙られながらもそこにしっかと立っていた。吹きすさぶ風に髪が揺れて、欠けた耳があらわになる。

「オオタカヒコさま!」

 ノコギリソウはたじろぎながら絶叫した。

「貴様、なんという真似を」

 怒りに顔を歪めながら【聖環】を嵌める彼女を、しかしタカの手がさっと制した。

 炎の奇跡をもろに食らったタカは、顔を覆い、一歩後ろへと下がった。赤々と燃える火柱が嘘のように消え失せ、その向こうからタカの顔が現れる。

 その顔はよこしまに笑っていた。

 

「それが君の答えか」

 タカは言った。その美しいかんばせには、ほんの少しの焼け焦げも無かった。

「残念だよ。実に残念だ。その耳……やはりそうか。君、あの男の息子だな」

 さっきまでの優しげな笑みなどかなぐり捨てて、危険な顔で、タカは吠えた。

「ほんのちょっぴりでも博打をする気分になっていた僕が間抜けだった。“アゲハ”という名前を聞いたときに本当はわかっていたはずなのに」

「いかにも“ヒコ”らしい台詞だな」

 アゲハはタカを睨みつけ、言った。

「アシタ皇国はもう無いんだ。もう無いんだよ。あんただってそう言ったじゃないか。もうあんたたちとおれとに関係はないんだ」

「詭弁だ。君に流れる血は何も変わっていない。アシタに生まれたものは、アシタに属さねばならない。君の血も、骨も、肉も、皮も、そして<天使>もまた僕らのものだ」

 タカは言った。

「力尽くで頂いていく。君ごとね。アシタ皇国再建のためには神話級が必要だ」

「願い下げだ」

 アゲハは叫んだ。

 

「あんな国、滅んで当然だった」

 

 アゲハの目に一瞬、どす黒い憎悪と屈辱の色がよぎった。

「おれは曳航連邦が嫌いだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。連邦がアシタを滅ぼしたからって恨みはない。お前たちの仲間になんかならない。手伝いもしない。おれはもう自由なんだから」

「不敬ですよ。()()ごときが」

 ノコギリソウが戦慄きながら言った。アゲハはそれを挑戦的な眼差しで見つめ返した。

「だったらどうする?」

「ノコギリソウ、君は下がっていなさい」

 タカは優しく言った。

「あぁ、それではいけない。もっと、そう、僕の姿が見えなくなるまで走りなさい。護身用の聖異物は持っているね。そう、そうだ」

 そう言われて、躊躇いがちに走っていくノコギリソウを、タカは見つめていた。

「これから少しばかり、この一帯は危なくなるから」

 

 アゲハは包帯で覆った腕をややぎこちなく構えた。それは幾重にも厚く固められていて、小刀の一撃くらいなら防げるくらいだった。

「おれが行儀よくついてくとでも思ったのかよ。もうアシタは無いんだ。お前たちに従う義理も理由もないんだ。それに……」

 

「神話級」

 

 タカは言った。

「“葬送”の<天使(マラーク)>。奇跡特性は破壊と灰化。<黙示録(アポカリプス)>からはそう聞いている」

 タカは深く息を吸い込んだ。

「君は僕を相手にしてもどうにか切り抜けられると思っているわけだ。なぜなら、自分はもう<人間イカリ>なのだから、ましてや神話級なのだから、と」

 アゲハの内心を看破するようにタカは言った。

「ふふ、透けて見えているよ。君の持つ奇跡のうねりが。そのうえで、断言しておこう。それは思い上がりというものだ」

 タカは両の手に嵌めた指環を掲げ、宣言した。

「《炙れ(アッサー)》、そして《塗り潰せ(オブヲルヱ)》」

 右手からは真っ白な煙が乳のように溢れ出し、左手からは目に見えない揺らぎのようなものが投射される。そのふたつは混ざり合いながらアゲハに向かって崩れ落ち、そして爆発した。

 耳を吹き飛ばすような轟音が響き、凄まじい衝撃がアゲハの全身を叩く。背後の会堂で悲鳴が上がった。

『何してる』

 アゲハはシャーン語で叫んだ。

『さっさと逃げろ!ここはもう……』

「《刺せ(ペルフォデ)》」

 タカが右拳を地につけながら呟くと、奇跡が地面を伝った。アゲハの足元の土が、いくつもの棘になって盛り上がる。その切っ先は鈍くやわだったが、それでも少年の身体を打ちのめすには十分な重さを備えていた。

 アゲハは土の棘を殴り飛ばしながら、鞘に収まったままのあの剣を取り出し、火打ち石に擦り付けた。

 その瞬間、言葉を唱えるひまもなく、アゲハの手元が爆発した。

 炎に手を突っ込んだような熱にアゲハは思わず叫んだ。その足元でまた土の棘が崩れながら持ち上がり、彼を転ばせようとする。

「哲学者パプスによれば、『一シビト平方の部屋に麦の粉20グロインを撒き、火の元素を与えれば、これ即ち増幅せん』ということだ。もっと古典を読みたまえ。不勉強だね」

 もうもうと烟るタカの言葉に、アゲハは臍を噛んだ。これで火は使えなくなった。タカはそう言っているのだ。

「だったらどうしたっていうんだ」

 アゲハは鞘の剣を構え、煙の向こうの人影に向かって振りかざした。だが、そこにあったのはあの土の棘で作られた、土くれの塊だった。

「兵法家オオアレチノギクは『窮地にありて好機に飛びつくもの、愚者』と述べた。《刺せ(ペルフォデ)》」

 土くれは破裂し、粗っぽい破片になってアゲハを打った。

(なんでこっちの位置はわかるんだ……)

 アゲハは苛つきながら地に手を付けた。深呼吸して、奇跡を右手に圧縮し、選り分けていく。ハルヴァヤーの奇跡が脈打ち、黒い波紋が全周囲に広がった。

「《土葬陣(ハニノワ)》」

 途端に、煙が薄れだした。

 右後方でずぶずぶと、なにかが地面に沈む音がする。晴れていく視界に、足を取られたタカの姿が写っていた。地面に転がっていた煙の指環が土に飲み込まれていく。

「おや、なるほど」

 タカは膝まで沈みながら首を傾げた。

「さっきのもそうだった。火と土。火と土か。どうも妙だね。君の奇跡は、ものを破壊するものだと聞いていたが……あぁ、そうか」

 タカは得心がいった様子で、アゲハを見た。

「既に()()()()に進んでいるのか。悪くない。君を見くびっていたよ」

「このまま生き埋めにしてやる」

 アゲハは地に奇跡を注ぎ込みながら言った。

「頑張って掘り出してもらえばいいさ。いっぱい仲間を連れてきてるんだろ」

 もっとも、周りにはアシタ戦士たちの姿はもう無かった。戦場の前線はすでにもっと奥へ動いてしまっているのだ。

「追ってきたらただじゃ済まさない」

 アゲハは精一杯脅しの声を作って言った。

「おれはもうお前たちに従うだけの人間じゃない。自由なんだ。自由な人間なんだよ。行くところも留まるところもおれが選ぶ。おれはもう、()()じゃないんだ!」

 

 だが、タカは微笑みを崩さなかった。まるで、こんな事態はのんびりした昼下がりのちょっとした面白みに過ぎない、とでもいうふうに。

「言っただろう」

 タカは力を使い果たした指環を捨て、両手を持ち上げた。

「それは思い上がりだと……《変身(エシュターネ)》」

 そして、掌を一拍した。

 

 次の瞬間、アゲハの身体が吹き飛んでいた。

 軽やかに宙を舞う感覚にぞっとしたと思ったときには、すでにアゲハの背中は近くの城壁に叩きつけられていた。肺から残らず空気が叩き出され、痺れが手足の先までびりびりと伝う。

 何が起きたのかまるで見当もつかずに、アゲハは自分がさっきまでいた会堂の前の広場を見た。大人の足で二十歩はありそうなほどの距離を飛び越えていたのだ。

 なにより、タカの姿はもうそこには無かった。地面は砕け散り、足跡だけが深く残っている。

『見えないだろう?』

 そう声がしたと思ったとき、アゲハの身体はまた宙に跳ね上げられていた。

 (はらわた)がひっくり返るような感覚とともに、地面が遠くなる。驚きも束の間、左半身に棍棒で殴られたような衝撃が来て、アゲハは再び地上に叩きつけられた。

『だから思い上がりだというんだ』

 

 地に這いつくばるアゲハの前にいるのは、タカの名を持つ人間のはずだった。

 いや、本当にそうなのか、アゲハにはもう確信が持てなかった。それはもう人間の姿をしていなかったからだ。

 オレンジ色の鮮やかな羽毛に身を包み、茶色い鱗が手脚を鎧のように覆っている。白い仮面のようなものは嘴に違いなかった。腕は大きく伸び、脚は鳥のそれのように曲がっている。ナイフのような爪が生え揃い、瞳は猛禽のように鋭い。

 アゲハは息も絶え絶えに呟いた。

能天使(エクスシア)

『そう。僕は伝説級、能天使系統の契約者』

 怪物は、タカの声でそう言った。

 タカが軽装で戦場をうろついていたのは、なにも伊達や酔狂ではない。その生身の身体が、重武装の戦士よりもむしろ、なおいっそう危険なほどだからなのだ。

『能天使は変身する系統だ』

 タカはそういい、ぐったりしているアゲハの首筋を掴んで持ち上げた。

『どれだけ強い奇跡を起こせる<人間イカリ>だろうと、その身体は生身の人間だ。だが、能天使系統だけは自分の体を人間以上のものにできる』

 アゲハが力なく叩きつけようとした右手の剣の鞘を、タカは見もせずに押し留めた。その膂力は動かざること岩のごとく、強い。

『こと近接戦ではね、能天使系統は最強なんだよ』

 怪物はそう言うと、アゲハをやにわに殴り飛ばした。

 見えなかった。ただの人間の目ではその動きを捉えることすらできないのだ。鼻血を吹き出しながら地面を転がるアゲハを、タカは憐れむように見た。

『それで、心は変わったかな?』

 アゲハは血みどろになりながらどうにか立ち上がった。

 身体中が痛い。口の中を切ったのだろう、鉄の味がする。どこかの骨に罅が入ったかもしれない。頭がぐらぐらして、今にも気を失ってしまいそうだ。

 なにより、タカはまだ一度も固有の奇跡を使っていない。

(純粋な肉体のスペックだけで、これか)

 アゲハは血を吐き捨て、タカを睨みつけた。

「《火葬(ヒム)――」

『遅い』

 火打ち石がすっ飛び、剣がもぎ取られた。

 右手の指が嫌な音を立てて曲がり、途轍もなく重い蹴りがアゲハを突き飛ばした。天地がひっくり返り、硬い地面が身体中を叩く。蹴られた腰には粘りつくような痛みがじんじんと痺れている。

『君は確かに成長している』

 タカは教え諭すように言った。

『奇跡の圧縮術は、単に狭めるだけでなく、応用させてこそだ。君はおそらく、そのハルヴァヤーとやらの奇跡から火と土の属性を引き出した。熱と地盤沈下か』

 

 だらだらと血を垂らしながら、アゲハは思わず一歩下がり、後ろを振り向いた。

 振り向いた先には、すでにタカが立っていた。

『応用技は自分の奇跡を理解していなくては編み出せない。よく頑張ったね。けれどね、君はまだ未熟だ。()()は時間がかかりすぎる』

 特に急いだふうもなくアゲハの逃げ道を塞いで見せたタカは、奪い取った剣をこれ見よがしに持ち上げた。

『君が応用技を準備するより早く、僕は君を殺してしまえる。これでもかなり気をつかっているんだ。さっきの蹴りもね、かなり力を抜いたんだよ。それともこうすれば解りやすいかな』

 タカは剣を片手でつまんだ。

 鋭い風が吹いて、いつの間にかアゲハの肩がえぐれていた。

 焼きごてを当てられたような灼熱の痛みに、思わず膝をつく。鞘に入ったままの剣は、後ろの擁壁に突き刺さっていた。石の壁を砕いて、土煙を巻き上げながら、砲のように突き刺さっていた。いつ投げたのか、アゲハには何も悟らせないまま。

『丈夫な剣だ』

 タカは世間話でもするように言った。

『どこで拾ったんだい?』

「教える義理が――」

『それは聖異物(アロトリオ)だね』

 タカの言葉に、アゲハははっと目を見開いた。

『剣……いや、鞘の方だな。剣は後から造られたものだね、年代が違う。未解放か。牙の印があるだろう?』

 確かに、その剣の鞘には噛みつくような三角形の印が二対、刻まれている。向かい合うようにして、その“牙”はぴったりと綴じられていた。

『それは聖異物のしるしだよ。物を知っている人間なら、贋作にも必ずつけるものだよ。だが君はその解放の仕方すら知らない』

 タカは残念がるように言った。

『知りたいかい?』

 タカはいかにも猛禽らしく首を傾げ、大きな瞳でアゲハを眺めた。

『ほら、耳が動いたよ。本当は知りたいんだろう。いいよ、教えてあげようか』

 アゲハをからかいながら、タカはなにか思い出すように首を傾げた。

『名前を呼べばいいのさ』

 タカは聖異物を指さしながら言った。

『天使学者の、たしかラベゼリンだったかな。“存在は存在せず、ただ名前のみがある”。聖異物はその名前を呼ばれることではじめて解放される。名前と解言(かいごん)を述べるのは奇跡発動に必要な条件なんだ、なぜなら聖異物とは――――ほら、熱心に聞いてるじゃないか』

 そう勝ち誇り、指摘されて、鼻白んだアゲハの顔へと向かってタカの指が動いた。

『君は何も知らない』

 タカが断じる。

『何も知らない。奇跡戦のことも、聖異物の使い方も、<天使(マラーク)>のことも。圧縮の基礎ぐらいは知っているようだが……誰かいい師がいたのかい』

 アゲハは黙っていた。砕可(サイカ)のことは言いたくなかったから。怪物の姿で、タカは肩をすくめた。

『一緒に来るのなら、知識を与えてあげよう』

 タカは厳かに、凶器のような手を差し出した。実際、その手が容易く石を切り裂き、鉄をも曲げられるのは確かだった。

『これははっきり言っておきたいんだが、君にとっても損ばかりじゃあない。僕はね、虐待をしたいわけではないんだよ。欲しいものはなんでも与えてあげよう。君は利発そうだ。このまま、宿無しの一人ぼっちで一生を終える気か?つまらない罪人として、居場所のない異国で彷徨い続ける気なのか?連邦に処刑されるだけだよ』

 アゲハは地面に片膝でうずくまったまま、顔を上げた。

『そういう暮らしが欲しかったんじゃないのか?()()()()()()()()()()()()()

 その冷たい貌からはなんの気持ちも読み取れず、顔色は蒼白だった。今にも倒れそうなほど色褪せた唇が、かろうじて開く。

 そして彼は云った。

 

「《葬送(ハルヴァヤー)》」

 

 その瞬間に、灰色のオーラが燃え上がった。

 アゲハの周囲60ヴリムほどの狭い範囲が、灰に変わって崩れ、風に乗って立ち昇っていく。火も爆発もなく、ただ強制的に灰化させられていく。

「起こりの早い単純な技なら、お前でも止められない。そっちが言ったことだ」

『ああ。君は利発だよ。だが馬鹿だな』

 タカはため息をついた。その鋭い爪の先が剣のように突き出され、アゲハに迫る。

 しかし、燃え盛るハルヴァヤーの奇跡がその切っ先を拒絶した。金属同士がぶつかるような高い音が鳴って、タカの手が押し止められる。表情のわかりにくい顔で、タカは確かに顔をしかめた。

「使い続ければいい」

 アゲハは言った。

「《葬送(ハルヴァヤー)》を使い続ければ、お前にだってこの防御は破れない。途絶えることなく燃やし続ければ。そうだろ?」

 両手に圧縮されることなく、ただ身体中に凝縮された奇跡が、アゲハの身体すべてを鎧のように覆っていた。

「今、思いついたんだ」

 それは消えることなく燃え続け、灰の粉を噴いていた。

「《(カラ)》」

 名前で繋ぎ止められた圧縮術が、安定して作動し始めた。しゅうしゅうと蒸気のような音を上げ、それはタカを威嚇した。

(この土壇場でさらに進化したのか)

 格上との戦いは、たしかに人を大きく成長させる。タカは感心をこめてアゲハを見た。灰色に燃え上がる少年が、あたりの風を吸い込んでいる。

 ぎりぎりの場面で、よくぞ編み出したものだ。

 しかし、タカは首を振った。

『それは悪手だよ。息を止めたまま全力で走り続けるようなものだ。いつまでやれるかな?それにそんな無茶な使い方をすれば、遠からず奇跡そのものが尽きる』

 奇跡が揺らぐ。アゲハは必死でそれを立て直した。一瞬でもこれが解ければ終わりだ。タカの力なら、アゲハを殺さずに無力化する方法くらいいくらでもある。

 吐き気がする。目眩もだ。血と涙も止まらない。立ち上がるのだって億劫なほどだった。

 

「……ハルヴァヤーは神話級だ」

 アゲハは荒く息をつきながら言った。

「王の器なんだ。だから」

『あぁ、連邦の諸王(アーセリング)か』

 タカのそれには、ちょっぴりばかりの嘲りが込められていた。

『だから?君も王になれると?』

「そうだ」

 アゲハは敵意と決意を込めてタカを睨みつけた。

「おれはつまらない罪人なんかじゃない。居場所のない人間なんかじゃない。もう違う!生きてていい、生きる権利のある、特別な人間だ!<人間イカリ>なんだよ!」

『それは無理だよ』

 タカは冷えた口調で言った。待っているのだ、奇跡が尽きるのを。

 

『君では王になれない。君は逃げているだけだから』

 アゲハの目を、タカの怪物の瞳が真っ直ぐに見た。

『君は恨んでいるだけだ。憎んでいるだけだ。不自由を、それを齎した世界を。否定形でしかものを考えられない人間が、王になれるはずがない。王とはすべからく、自分の理想を実現する存在なんだから』

 ハルヴァヤーの奇跡が揺らいだ。

『君にはそれがない。世の中を変えようという理想がない。さっきの君の言葉のなかに一つでもそれがあったかい?君、徹頭徹尾自分のことしか考えていないじゃないか。どういう王になりたいのか、君には明確な答えがないんだ』

 タカの言葉には、さっきまでのうわべだけの柔らかさとは違って、心の中の本音に近いのだろう虚ろで寂しいものが乗っていた。

『人にはね、生来の器があるんだよ。人の上に立つ人間とそうでない人間の差はなんだと思う?王になれる人間と、臣下になる人間。君は後者だ。人間の本質は一生変わらない。それは生まれながらに決まっているのさ』

 だから、とタカは再びハルヴァヤーの奇跡の中に手を突き込んだ。

『君は、僕らと来るべきだ。僕らの戦士として。使われるための人間として!』

 その指が、荒立つ《(カラ)》に焼け付きながら、アゲハの喉元に届こうとしていた。

 <人間イカリ>の奇跡は、意志に直結している。だから奇跡を使うことは、自分の意志を貫くことに等しいのだった。管弦楽器を擦り上げるような叫びが耳をつんざいて、ぶつかり合うふたりの<人間イカリ>の意志が文字通り火花を散らす。

 

 そのとき、あたりが突然暗くなった。

『見つけ……たぞ』

 どこからか聞き覚えのある声がして、あたりの空間に敵意が満ちる。

 聞こえたそれは、連邦のシャーン語だった。

『まさか』

 タカはアゲハを見た。

 その周囲は抉れ、小さなクレーターを作り、灰の粒を巻き上げている。絶え間なく延々と発動する奇跡と同じように、その灰は空へ一条の()()()みたいに立ち上っていた。

『まさか、君、最初から』

 アゲハの奇跡操作は未熟だ。吹き上がる灰だけではなく、その身の内のリソースも神話級の気配を強く発している。アゲハはまだ、それを隠すすべを知らないのだから。

 だから感覚に優れた人間たちにとっては、ここに彼がいることは火を見るより明らかだったのに違いなかった。

『来ると思ってたんだ……あいつは、絶対にしつこくって、面倒臭いに決まってるんだから』

 血の気のない顔で、アゲハは無理やり唇の端を持ち上げた。

 

『呼び寄せたのか、自分の奇跡を目印にして』

 タカははじめて余裕ぶりを崩し、はっと空を見上げた。

 そこには、美しい一柱の<天使(マラーク)>がいた。白と青の身体は青磁のようにたおやかで、全身に螺旋の意匠を持っている。手には杖があり、それを二人めがけて構えていた。

『馬鹿な……どうやって逃げ出した!』

 タカは信じられないものを見る目で叫んだ。

 そんなタカを嘲笑うように、<天使>は杖を掲げると、地表すれすれのところで高らかに宣言した。

 

『《(オセル)》』

 

 禁止の<天使>が、空から降臨する。

 

 To be continued…

 

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