■強襲装甲艦【タマノヲ】 数時間前
アシタ皇国残党軍の有する軍艦の一隻だろう。狭い部屋だ。長く使われていなかったらしく、埃が溜まった床はひどく黴臭い。強襲装甲艦の深くでエンジンの作り出す唸りが、その床からわずかに伝わってきていた。
扉の外にはふたりのアシタ人戦士が、不満げな顔を隠しもせずに立っていた。歩哨だなんて、つまらないにもほどがある。今頃港の方では連邦を相手に血みどろの素晴らしい闘いが繰り広げられているに違いないのだから。
『くだらん役だ』
戦士の片方が、名前はクルミノキといったのだが、戦覆いの下で唇を引き結んだ。相棒のニチニチソウはそれをうんざりした顔で宥めた。
『少しの辛抱だとも。もうすぐこの艦もユディト軍港に着く』
ところが、その言葉はあまり効き目を発揮しなかったようだった。若い見張りの彼はむしろ苛立ったように叫んだ。実際のところ、このやりとりはもう三度目だったのだ。
『その頃には終わってるさ。一番槍は逃したことに変わりない。俺だってアシタの戦士なんだぞ。父祖と国のため血を流してこその戦士だ』
『別に終わりじゃない。ユディト市の掌握まではまだ落さなきゃいけない場所がたくさんあるんだからな。それにだ』ニチニチソウは首を振った。『勘弁してくれよ、そっちばかり機嫌を悪くして。僕が喜んでこんな役目を引き受けたと思うか?』
『誰だってやらないさ』クルミノキは曇った小窓から中を覗き込んだ。『薬が効いてるんだ。奇跡もないのにどう逃げ出すっていうんだ?見張りっていうより、ただ立ってるだけだぞ、これは』
『噂の特務兵か』
ニチニチソウは槍を掴んだまま顔をしかめた。
『ちょっと待て。おかしいぞ。女のほうがいないんじゃないか』
確かに、そこには男の方、つまりぐったりしている
『逃げ出せるはずがないよ』
クルミノキが言ったが、自信はなさそうだった。
『ここから見えないところにいるんだよ』
『確かだって言えるか?君。目を離した隙に逃げたのかもしれないぞ。さっき水を飲みに行ったろ』
『そっちだってハル餅を食いに外したじゃないか。一人だけ甘いものなんか食べやがって』
『逃げていたらひどいぞ。皆の笑い者だ』
口ばかり動かして、ふたりは苛立たしげに船室を覗いていたが、やがてしびれを切らしたように、鍵に手をかけた。開けて見てやればいいのだ。それではっきりと分かるのだから。
『一応、剣を抜いておけ』
クルミノキはまだ一度も使っていない剣を鞘から抜き、そして神経質そうに革の布で
次の瞬間、ブーンと唸るような音がして、顎にものすごい衝撃が来た。
ニチニチソウはそれはもうあっさりと気絶して崩れ落ちた。重いものがごとりと落ちる嫌な音がした。クルミノキは仰天しながら、剣を船室の中へ当てずっぽうに突っ込んだ。
『薬が効いてるはずだ』
クルミノキはそう叫び、ぐったりしているニチニチソウの脚を掴んで引きずり出しながら、少しだけ迷った。助けを呼ぶべきか?伝声管があるから、人はすぐに呼べる。
しかし彼の自尊心がそれを許さなかった。見張りだなんてつまらない仕事だとあれだけ見栄を張ってみせて、いざとなったら人を倚むだなんて、なんて無様なのだろうか。一人前の戦士として、そんな屈辱は到底受け入れられない。
だいたい、奇跡は封じてあるのだ。弱った女ひとり、武器もない。革鎧を着ていて剣もある自分なら勝てる。自分だって一人前の戦士だ。クルミノキは思案の末、そう決め込んだ。
もっとも、手を選んでいる余裕はすでに無かったのだった。
体勢を立て直そうと思わず仰け反ったその喉元に、
「まさか、奇跡なしで君がこれほどやるとは」
眠ったふりをしていた
「見事なものですね」
「そりゃどうも。あぁ、駄目だねやっぱり」
(やはり奇跡は使えない。まぁ、どっちにしろ使わないほうがいいかもしれませんね。あの敵の<人間イカリ>に力を気取られるかもしれない)
「そんな丁寧に。次はどうするんです?足でも拭いてやりますか」
「別にいいでしょ」
「まだ若い。少年兵じゃないとは思うけど」
「戦士が足りないんでしょう。七年前に随分と減った筈ですからね。わかりきったことでしょう。無駄な配慮ですよ、どっちみち敵なんだから」
しかし
武装ごとふたりを船室に閉じ込め、閂をかけると、
アシタ様式の船は、連邦のものとはかなり違っている。連邦の船は整然とした四角い内装だが、アシタの船はもっと有機的なふうだった。ブリキと鉄の甲板がうねるように打ち付けられ、その上に伝声管の丸いパイプが這い回り、鋲で打ち付けてあった。
痺れの抜けない身体をそれに預けて、
艦内は静かだった。エンジンの唸り声以外はなにもない。誰も歩いていない。
こういう静謐を、ふたりはよく知っていた。戦の前の静けさなんだろう。
(人が出払っている)
(ユディトを襲いに行ったな。蛮人ごときが調子に乗って)
「どこに行くべきだと思う?」
「操舵室へ」
「了解」
上官を立てられもするんじゃないか。
(銃がないのが心許ないが、それでも舵さえ抑えてしまえばこの艦も我々のものだ。ユディト軍港へ戻れたなら装備を整え直せますね)
何より、他の特務兵や何かに助けられるなど屈辱の極みだ。余計な救援なんかが来ないうちに何食わぬ顔で戻ってやる。
「で、操舵室ってどこ?」
「僕が知るわけないでしょう。
どうせ蛮人相手では、締め上げて喋らせてもこっちが解らない。
やりにくいことこの上ないな。
「あっちですね」
「なんで分かるの?」
「勘です」
「あちらのほうが電源系の優先順位が高いようなので」
ちらつかなかった電燈の方に、
「扉を適当に開けてみるという手もある」
「勘弁してよ」
「銃があればもっと安心なんですが。間違っても一回くらいは取り消せる」
ふたりは大通りに出てきていた。つまり、船内通路のメイン・ストリームだ。
それは街に似ていた。大通りから曲がり角が生え、細い路地に分化していく。階層を二つぶち抜くほどの高さがある大通りには、同じくらい巨大な扉が据え付けられていた。
「あれは?」
「さあ。操舵室だと思いますか?」
貨物の影に身を潜めながら――通りすがる人影は数えるほどしか無かったのだが――ふたりはその大扉を眺めた。簡便な電磁式の錠が施してある。緊急のときには扉を閉ざせる仕組みになっているのだ。
「試してみる価値はあるかもしれない」
「試すの?外れたら?」
「中にいる人数によりますね。誰もいなければそれで良し。数人ならぶちのめして切り抜ける。まさか軍勢でもいたなら……」
「……勝ち目はないですね」
そこには、息を呑むほどの人々が蠢いていた。
灰色の重ね着を巻き付けたかれらは、どれも怯えた顔をする女たちだった。幼子と赤ん坊を抱きかかえた母親たちだった。ふたりがアシタ人でないことを即座に見て取ったのだろう、手前にいた十数人が食器を振り上げて人垣を作った。
「これって」
「まさか、こんなことが」
「
「なんですって?」
頓狂な声を上げる
「こいつも、こいつも、こいつも、連邦政府の目の届かないところで、巣を作って数を増やしているんだ」
狂気すら滲ませる口調で、中佐はいった。
「駆除しなくては」
その瞬間、彼のその激情の気配が、針のようにその場の全員をちくちくと刺した。
思わず止めようとして
(薬が残ってる。奇跡を制御しきれてない。こんな状態で無理やり力を使ったら……)
なにより殺気が濃すぎた。非契約者にも勘付かれかねない。
「非戦闘員だよ」
「だから?」
「今までとは違う。<人間イカリ>でもない、兵士でもない人間を、あなたは――」
「こいつらは人間じゃない。姿形が似ていても中身は別物だ」
「そこをどきたまえ准尉」
「どかない」
「この人たちがなにか悪いことをしたっていうの?ただ必死で生きて、逃げてきただけなのに。それを殺す必要なんてないじゃない」
「存在そのものが悪だと言っているんだ」
「悪いやつには生きる価値すらない。簡単な理屈ですよ。そいつらは生きているだけで罪深いんだ」
「言い過ぎだよ」
「なにも言い過ぎではないでしょう。君のその、のべつまくなしのお優しさにはもううんざりです」
それとも、と中佐は声音を変えた。より陰湿なものに。
「そうやってやたら異人に感情移入するのは、自分を弁護したいからですか」
「君のことは調べました。准尉」
「君は入隊後、複数の男たちとやたら関係を持って問題を起こしていますね。それも立て続けにだ。あの大佐に取り立てられ、
「違う」
「君は自分に重ねているんだ。ルールを守れないクズの自分と、蛮族とを重ねているんだ。規律を守れない者ほど同類に優しい。同病相憐れむとはよく言ったものですね」
「やめて」
「受け入れてほしい。守ってほしい。認めてほしい。君が蛮族に向ける眼差しは自分への欲望ですね。浅ましいあばずれめ。色仕掛けでしか他人と繋がれない壊れた女のくせに、本物の人間のフリをしている」
「それでも……生きることは罪にならない」
「どんな、どんなにダメなやつだって、生きていていいはずなんだよ。生きていていいんだよ。そうじゃなきゃ、それだけは、最低でも許してくれたっていいじゃないか」
「クズに生きる資格などない。あの“アゲハ”だって同じですよ」
中佐は断言した。
「生命は安くない。クズには、ただ地に足をつけて生きるだけでも過ぎた贅沢だ。世界が海に沈もうとしているこの時代には特にね。ましてや社会に害をもたらすような者は排除されなくては。それこそが、僕らの仕事でしょう」
「でも」
「安い自己憐憫だと言っている」
中佐は絶叫した。
「最後だ。そこを退け」
その命令口調は、まるでオセルの螺子みたく
アシタ人たちが恐怖に慄き、なにごとか喚きだした。奥では子供達が騒ぎ始めていた。母親たちが必死で宥めているというのに、赤ん坊の泣き声が止まらない。
「うるさいな」
凄まじい頭痛を堪えるように、自分の頭を抱きかかえた中佐が、紋章の刻まれた左手をさっと剣のように突き出した。
だが、奇跡は発動しなかった。
赤ん坊がうるさい。必死に泣き喚いている。
禁止の奇跡は出てこない。
「蛮族の幼体め……」
「ユーくん」
「黙、れ!」
中佐は耳を押さえ、緩慢に床の上をのたうち回った。ずいぶん具合が悪そうだった。
「まさか、戒律?」
中佐の戒律を
そして、背後で分厚い大扉が轟音を立てて吹き飛んだ。
『《
力あることば、紙を破く音とともに、鋼鉄の剣を打ち合わせたような甲高い衝撃音が響く。
「やっぱり見つかっちゃったか」
「《
硬いはずのブリキの床が、飴細工のように彼女の手で引っ張り上げられ、即席の防壁を作る。
だが、それはすぐに震えて溶け落ちた。
(失敗した!)
まだ【混乱薬】の効き目が残っていたのだ。
制御できなかった奇跡が暴発して、あたりを溶かしながら広がる。それに足を取られて転んだ
蹴り飛ばされて転がる
やはりあの男だ。“鋏”の<人間イカリ>、紙を破って視界を断ち切る男。恐ろしげな仮面の内側から、敵意に満ちた笑顔が覗いている。
男は女たちを庇うように踏み込み、手首に提げたいくつもの紙の
『《
上に向けた掌の上に、色の歪みのようなものが浮かんだ。
無数の黒い線が乱雑に書き殴られているような、ざわざわと蠢くなにかが、丸く灯っている。それがふっと動いた。
血相を変えた
斬撃の塊なのだ。
クラゲのように漂うそれは、触れるものを火花とともに切り飛ばしながらふたりへと迫った。
「やっぱり主天使系統か。ねぇ、ちょっと、起きてよ!」
うまく位置関係を変えられてしまった。背中にはもう誰もいない。相手にとって見れば、気兼ねなく奇跡を撃てる。
それに気づいたところで
そこで彼女は、周りの異様な気配に気づいた。
『《
あの男が呟きながら扉の外に出てきた。鳥籠を象ったペンダントを弄りながら、ふたりを指差す。
具現化した檻が、二人を取り囲んだ。
(まさか、この聖異物の奇跡発動対象条件は、「境界線を超えること」!)
エネルギーがパチパチ弾けている。傍にあった電源管の端子から、男の提げているペンダントに電力が吸い込まれていく。第一級異物ともなればさぞ大喰らいなのだろう。そんなことを今更考えている
「じかん、だ」
“鋏”の男が、下手くそなシャーン語で言った。
◆
■強襲装甲艦【タマノヲ】甲板上
この船【タマノヲ】は、アシタ残党軍が有する強襲装甲艦のうち、最後の一つだった。
タマノヲは軍港からやや離れた洋上に待機していた。街にいるよりは、まだ海の上にいたほうがよかろうというオオタカヒコの判断だった。中には女子供も多いのだ。
そして<
“鋏”の<人間イカリ>、戦士長のひとりガザミは、甲板上に据え付けられた議場を満足気に眺めた。丸く囲まれた簡易の祭壇に、具現化された【聖籠】と、その中のふたりの“特務兵”が閉じ込められている。
「我が名はガザミ」
ガザミはいかめしく名乗った。それに続けて、祖先の偉業や氏族の歴史が淡々と語られる。
“血の名乗り”だ。アシタ人は祖と氏族を尊ぶ。
「血と戦を以て、汝らをアシタの霊に捧げん……やれやれだな」
ガザミは定められた言葉をアシタ語で諳んじ、そして首を振った。
「連邦のイヌ相手じゃなあ。おい、暴走用のクスリはどうした」
『ここに』
<
「これを打ち込めばお前たちはもう終わりだ。特務兵どもよ」
やはり通じていやしない。ガザミは舌打ちし、肩をすくめて準備に取り掛かった。
<
「連邦軍の鼻先に放り込んでやる。連邦のイヌ同士で、せいぜい殺し合うがいい」
怪しげな儀式の準備をする男たちをよそに、
その傍らで、
「蛮人どもめ……僕こそが人間だ……本当の人間なんだ……」
「ねえ、大丈夫?」
「うるさい、この僕を哀れむな、劣等兵のくせして!」
途端、
「お前のような精神的惰弱者が、僕のような真の、真っ当な、本物の人間を、心配するなどと……そうだ。僕は人間だ、人間なんだ、こんな動物どもに関わるのが土台間違いだったんだ」
そのとき、あの<人間イカリ>が持っている毒々しい色の液体を湛えたアンプルが、編み物でもするかのように太い針を取り付けられるのを見て、震えながら
「僕の正しく完璧な理性が消滅などしてなるものか」
「ユーくん」
「うるさいと再三言いましたよね!」
「君のようなクズが、僕を心配するなどとおこがましいにも程がある。屈辱だ。屈辱そのものだ。なぜ僕がこんな不当な目に遭わなければいけないんだ?」
薬瓶を構えたガザミが近づいてくる。だが、情緒不安定気味の
「来い、【禁則奇跡 オセル】」
思わず、
空に風穴が開いた。
光の円環が空間をこじ開けて、その内側から<
アシタの戦士たちがざわめき、剣と槍を構えた。だが、ガザミは悠々とそれを止めた。
「悪あがきだ」
そう言うと、ガザミは<天使>オセルの膝下へ歩いていき、嘲るようにその冷たい体躯を叩いた。いくら“
この【聖籠】越しには、どんな<人間イカリ>も“同化”はできない。
「暴走を目前に錯乱したか。哀れなものだな、敗者というやつは」
ガザミは中佐に向かって肩をすくめてみせた。
「<天使>を呼び出したところで、その檻の中で、何をしようというつもりなんだ?」
そう、
そして、オセルの右腕が中佐のそれと同じように動き、ちっぽけなガザミの身体を容易く吹き飛ばした。
誰も動けなかった。
その場にいた全員が、宙を舞って甲板の上を跳ねるガザミの身体を、間抜けみたいにただじっと眺めることしか出来なかったのだ。一瞬遅れで、ようやくアシタ人たちはわっとガザミに駆け寄った。
「嘘だ」
<
<天使>と<人間イカリ>は常にセットだ。契約者がいなくっては、どんなに強大な<
<
『あの知識……』
もっとも、彼らの驚き方は他とは少々違っていた。
『しかし失伝していたはず……』
『よもや【偽リベリウス記】の失われたページが……』
『“遠隔同化”……』
彼らはお互いに囁きあい、そして禁止の<
オセルの頭上では《円環》が輝いている。そして
「見せたくはなかった」
『なんという失態か!この術を、この程度の相手に露呈させてしまうとは……主天使系統の奥義を』
「ねぇ、ちょっと、大丈夫?」
虚ろな目で呟く中佐が心配になって、
(空っぽだ)
人体は
それは、主たる魂が支配するそれを許可もなく冒せないからだ。
しかし、
(まさか肉体を残したまま、魂だけ“同化”を?そんなこと、理論すら思いつきもしなかった)
あの鳥の眷属術とは違う。
これは本当にだめだ。知っているだけでも口封じに粛清されかねないような価値のある、首都テーバの秘儀の一つだ。
やはり、曳航連邦軍は独自に【偽リベリウス記】の失われたページを保有しているに違いない。
『邪魔な鳥籠ですね』
オセルは二人を捕らえている檻を見、力なく起き上がろうとしているガザミを見た。
『しかしこれは具現物だ』
その胸元に揺れるペンダントを。
『それが本体か!』
次の瞬間、風を吹き飛ばして突き出されたオセルの腕が、ガザミの胸の【聖籠セラ】を指先に引っ掛けるようにして掴み、そして周りにまとわりつかせた白い螺子ごと粉々に握りつぶした。
その場にいた全員が、誰かの断末魔のような絶叫を幻聴した。
檻が光の塵になって崩れ去った。時間凍結が消えたのだ。ふたりは久方ぶりの自由を楽しむように、その消えゆく欠片を踏み崩した。
なにせ、今度は奇跡も好きに使える。
二度、殴り飛ばされたガザミは、血みどろになって甲板を転がっていた。
肋が折れている。額を切ったのであふれる血が止まらない。他にも身体じゅう、決して軽くない傷だらけだ。しかし彼はまだ死んでいなかった。
「“野良”を放て」
ガザミは息も絶え絶えに、隔壁のそばにいる船員に怒鳴った。
「装甲壁をすべて全開にしろ」
「よろしいのですか、あれはユディト市侵攻のために取っておくはずでは」
「もうそれどころじゃない、最悪、この船ごと沈められるぞ。早くやれ!」
そう叱り飛ばしたときに、ガザミは目の端で動くものを捉え、咄嗟に手元の懐紙を千切った。その素早さときたら、ガザミは自分で自分を褒めてやりたいくらいだった。
「《
『《
斬撃と大螺子がガザミの鼻先でぶつかり合い、その身体を後ろの装甲壁に叩きつけた。切り裂く奇跡が甲板上に縫い止められ、お互いに食い合いながらぐるぐると回った。まるで刃の竜巻みたいだった。
猶予はその一瞬だけで十分だったらしい。アシタ人の船乗りが鍵盤を操作して格納庫の天井を開け放ち、巨大な装甲板が持ち上がり始めた。陽の光を浴びた“野良”たちがぼうっと這い上がり、頭を出す。
「いいぞ、出てきたな」
ガザミは叫んだ。
「そら、“野良”ども、あの<
けれど、“野良”は動かなかった。
「どうした。何をしている」
野良の<天使>たちは開け放たれた格納庫から出てくると、艦の上に止まり、一斉に太陽を仰いだ。それはまるでなにかを探しているか、待ち受けているか、とにかくそんなふうだった。話に聞く殺戮と破壊の権化のようにはとても見えない。
ガザミは愕然として言った。
「まさか、<
立ち尽くすその身体を、みたびオセルの拳が撃ち抜いた。
おとな一人を握りつぶせそうなほど大きなそれが、めきめきと嫌な音を立ててガザミを文字通り吹き飛ばした。もはや<
さしものアシタ戦士長も、それでようやく動かなくなった。
遠浅の向こうのユディト軍港から、そのときひときわ大きく火の手が上がった。
煙が見える。“紙”の<天使>が暴れまわっているのも、かすかに。
『《
次の瞬間、船の進路が変わった。
最大稼働した《円環》が白く輝き、奇跡で船を掴んでいるオセルごと、軍港へと向かっていく。珊瑚礁を蹴散らし、ぶつかり、踏み砕きながら、ゆっくりと強襲装甲艦は加速させられていった。猛毒の波しぶきが上がり、船上の乗組員たちが慌てて走り出す。もう、逃げ出そうとしている捕虜を構う余裕などどこにもなかった。
ひときわ大きな波が船腹で砕け、逃げ遅れたアシタ人が数人、弾けた海の欠片に触れて溶けた。体の半分を失って這いずるもの、足首しか残っていないもの、様々だ。
「あたしのことはもう見えてないみたいね」
慌てて即席の塹壕を奇跡で掘った
もっとも、軍港がひどいことになっているのは間違いなかった。近づいてくるとわかる。なにか強い力の気配がいくつも動いている。戦っているのだろう、その気配はどれも戦意と敵意に揺れていた。
「こんなに強い<人間イカリ>が何人も――」
そう彼女が独り言ちようとしたとき、物凄い衝撃がきた。
頑丈なはずの強襲装甲艦の船体がぐわんと波打ち、一瞬音が消えて、それから凄まじい爆発音が響く。
上下左右がひっくり返って、それからぜんぶバラバラになった。引き裂かれた電源系が甲高い声で鳴いて、青白い火花を吐き出した。
そうして、揺れが収まったと思ったとき、石と鋼鉄の欠片が空から、黒い雨のように降り注いだ。
「操船試験なら落第の着港だねこりゃ」
無理やり軽口を叩きながら、打ち身だらけの
あたりは死屍累々の有り様だった。港に突っ込んだ強襲装甲艦タマノヲは、衝角すら砕けさせ、黒い煙を吹いて擱座していた。もう二度と走れまい。煙の奥に、飛んでいくオセルの後ろ姿が見えた。
「また置いてきぼり?」
そして振り返った。
背後では、あの“野良”たちが動き始めていた。あの暴走にすら毛ほども動じていなかった野良の<
彼女は身体を強張らせて、いつでも動けるように腰を落としながら、“野良”を見ていた。けれども野良たちは彼女なんかには目もくれず、一心不乱にひとつの方角を目指して、軍港の方へ飛び立った。<
壊れた艦橋も、そびえ立つ城壁も、まったく目に入っていないかのように体当たりをすると、野良たちは無理やりそれを押し通り始めた。まるで見えない糸に引かれているような、まっすぐとした動き方だった。
「なんだ、これ」
「アシタ人と<
畏れ多い。
<人間イカリ>が“野良”に感じるその不思議な、理由のない、本能的な感覚が次第に強まっていくのを、彼女ははっきりと心のなかに感じていた。
To be continued…