<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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第二十五話 Infinite Apocrypha/Op.1

 ■ユディト市

 

 大佐は銅鏡を懐にしまった。

 それには映像の<天使(マラーク)>セレムの力が込められていて、映るものさえあれば遠くの誰かと、電源管がなくても言葉を交わすことができる。そして今しがた(ハーヴン)がよこしてきた通信は、大佐の予想を悪い方に大きく超えていた。

「それで、どうされますか?殿下」

 陛下と言うべきだったか。大佐はユディト姫のほうを窺い、静かに言った。天幕を背に座る彼女はなにも言わなかったが、傍らに立つ親衛隊長の若者が口を開いた。

「どうするというのは、どのような意味かな」

「港が賊に襲われているのですよ。それも、私の部下からの報せでは、かなり深刻な状況のようだ。その上で、どのように動かれますかな」

「不思議なことを言うものだ、特務官。私達にセム協定を押し付けたのは君たちの方だろう。おや卿、この茶葉はなかなかいけますな」

 傍らの貴族かなにかに向かって頷き、トゥバン茶の芳醇な香りを吸い込みながら、親衛隊長は言った。

「何の話だったか。あぁ、そうそう、我々の持つ軍事力は自衛用の私兵だ。都市全体の治安維持やなにかはそちらが請け負うことではないのか。それとも、ここで我々の力に頼ってみるかね」

「ただ、尋ねたまでですよ」

 大佐は冷たく言った。

 ユディトを含め、辺境都市は併合の際にその軍を大きく規制されている。わざわざ牙を抜いておいて、いざとなったときに再び軍事行動を許せば、連邦政府のシステムそのものが揺らぎかねない。

 それを名目に力を削いだのだから。ここユディトにだって独立運動はある。

「それに、貴方は中央の軍人でしょう?この都市の問題に口を出すのは憚られるでしょう。特務兵(イレギュラー)が指揮系統を無視して好き勝手に動くだけでも良くはないはずです」

 そういったのは、近くで茶菓子を齧っていた(ページ)だった。大佐はそれを少しばかり睨みつけた。

「君、屋敷に帰らなくていいのか」

「家のことは爺やに任せてあります。問題ありませんよ」

 (ページ)はそう言うと、糖蜜を混ぜた茶を優雅に啜った。

「君の神経の太さには恐れ入るな」

 大佐は(ページ)にだけ聴こえるように言った。

「うちの部下は、テロリストはアシタ人の可能性があると言った。簒奪者アゲハと関係しているかもしれん。君はまだなにか知っているんじゃないのか」

「おやおや。貴方こそ、ここに連れてきていた誰かさんはどうしたのですか?」

 シラヌイに気づいていたのか。大佐は雷に打たれたような気分で一瞬だけ言葉に詰まった。(ページ)はカップの液面を眺めながら口の端で言った。

「あぁ、当たりですか」

「なんのことか、解らないな」

「<人間イカリ>でもない貴方が、危険な単独行動をする筈がない。やけにあっさり捕まりましたしね。むしろ好都合でした。貴方は姫君のお気に召すと思っていましたから。そして昨日のあれのあとその特務兵は港に戻したんでしょう。あのまま共倒れになるリスクを冒すのは危険すぎる」

 大佐はため息をつき、折畳式テーブルの向かいに回った。

「君は何を考えている?」

「別になにも。僕がそんな陰謀家に見えますか。小さな子供ですよ」

「私が来ることは読んでいたんだろう?」

 (ページ)はカップを抱えたまま目を逸らした。

 

 大佐は肩を竦め、踵を返してユディト姫の方へ向かった。

 狩りにはお茶会が付き物だと言った言葉通り、姫は車輌(レグ)を総動員して茶会を開いていた。貯水車や貨物車に山程積み込まれた天幕と、テーブルと、真っ白な絨毯で、なにもない荒れ地があっという間に茶会の間に早変わりと来たものだ。

「姫君にお言葉を」

 親衛隊の面々に会釈して、大佐は巨大な日除けの下の彼女の方へ顔を向けた。

「すみませんが、このあたりでお暇させて頂きたく。軍港が一大事のようですので」

 それを聞いたユディト姫は、ナイフで切り裂いたように笑った。大佐は辛抱強く次の言葉を待っていた。なにせ、軽々しく言葉をくれるようなタイプの人間ではないのだろうからだ。

 ユディト姫はそれを面白がるように眺め、やっとのことで言った。

「あら。港の防衛はあなたのお仕事ではない筈では?」

「そうですね」

 大佐は認めざるを得なかった。第一声がそれか。

「しかし、友軍の危機を見捨てることこれ罷りならんということでして」

「嫌ですわ。私、自分のお茶会を中座されるのってすっごく嫌」

 勘弁してくれ!大佐は天を仰いで叫び出したい気分だった。どうせ、本気で言っているわけではない。嫌がらせでもない。これは単なる戯れだ。戯れでそういうことをする人間なのだ、彼女は。

「あちらでは人が死んでいるのですよ」

 大佐は言った。しかし、ユディトは首を振った。

「軍人さんはお死にになるのがお仕事ではなくって?」

「命を懸けるのが仕事です。それに、港にいるのは軍人だけではない」

「そうね。叉路街(サロガイ)のほうにも手が回っているかもしれないと、先程貴方の部下が奇跡越しに大声で言っていましたわね。それがなにか?」

 ユディトは茶を口にし、薄桃色の菓子を口に放り込んだ。

「非正規市民がどうなろうと、知ったことではありませんわ」

 それは切って捨てると言うよりはむしろ、優しげに聞こえた。

「そうでしょう。彼らは人間ではないのだから。それを定めたのは貴方がた。セム協定で旧王家の保有戦力を定めたのも、港の管理権は連邦軍に属するとしたのも、貴方がた。あら、ぜんぶ貴方がたのお決まりですわね。それとも……」

 ユディトの口調が僅かに冷たくなった。

「あなたは正規市民筆頭であるわたくしを放り捨てて、非正規市民の街へ行かれるおつもりかしら」

 大佐は目を細めた。正直に言って、彼はこの女をどこか浮世離れしたいかにもな貴族の娘だと思っていた。侮っていたのだ、正規市民としてぬくぬくとした暮らししか知るまいと。

 だが、彼女はもっとずっと俗で危険な女だったらしい。

「狩りはまだ始まってもおりませんわ。うちのイヌたちは“アゲハ”とやらの尻尾も見つけていないようですし。ゆっくりしてお行きなさい。このお菓子はお食べになりました?美味しいわよ」

 大佐は差し出された菓子の盆に、おずおずと手を伸ばした。

 

 そのとき、全員が不意に空を見上げた。

 それは不思議な感覚だった。日が陰ったわけでも、物音が聞こえたわけでも、風に吹かれたわけでもない。けれど、その場にいたすべての人々がなにかを感じ取ったのだった。それは見えざる輝きであり、聞こえざる叫びだった。

 大佐は青空に目を見張った。

「なぜ、昼間だというのにレイラインが?」

 空にはくっきりと白い光の軌道が現れていた。まるで剣で引っ掻いたようだ。それは天の道に沿って、輝く太陽をまっすぐに貫いていた。

 レイラインが震え、分裂した。

 人々がどよめいた。そんな天文現象は誰だって見たことがない。だが、レイラインは小さな支流を枝分かれさせると、あまつさえ、その穂先を地上に向けて伸ばした。

「降りてくるぞ」

 誰かが言った。

 そしてそれは正しかった。

 レイラインの枝は直角に別れ、凄まじい奔流となって、はるか空の彼方から他ならぬユディトに突き立った。水のように澄んだ光がちらちらと胎動して、あぶくのような小爆発が輪郭で明滅している。

 それは光の柱だった。

 

「なんだ、あれは」

 大佐はわけがわからずにそれを眺めていた。

 天から降りてきた巨大な光柱は、ユディト軍港の方角に屹立しているようだった。突然強い風が吹き、甘い香りが通り過ぎていく。純白の閃光が燃え上がっている。遠近感がうまく掴めないが、きっと軍艦よりも大きく、太いに違いない。

 非契約者の常人たちにも、はっきりと分かった。あの光の柱が凄まじい力、リソースを秘めているのが。

「何事です」

「賊の新兵器か?」

「馬鹿なことを。これは天災ですよ。レイラインの一部が地上に降りてくるなど」

 口々に言い合う貴族たちや親衛隊の者どもは誰しも大佐をちらりと見たが、大佐にこんなことの答えの持ち合わせがあるわけもなかった。こっちが聞きたいくらいなのだ。

 そのとき、ユディトの姫がぽつりと、聞こえないくらいの声で呟いた。

 

「“天御柱(アミダ)”……」

 

 大佐は振り向いた。(ページ)も飛び上がってこちらを向いた。それにつられて親衛隊の幾人かも身体を姫に向けた。

「あれをご存知なのですか」

 ユディト姫はそのとき、彼女にしては珍しく、真剣な口調になって言った。

「いいえ。まったくもって知りませんわ」

「しかし」

「ただ事ではないことだけは確かですわね」

 姫は肩を竦めると、両手をぱちぱち叩いた。小姓や召使たちが慌てて茶会を片付け始める。テーブルが折り畳まれ、車輌が唸り声を上げて煙を吹き出した。

「移動しましょうか。獲物がいるとしたらあちらですわ」

 その言葉に、その場の面々は顔を見合わせた。ユディト姫は唇を尖らせた。

「そうね。ここから先は帰っていただいても結構ですわよ。狩り本番ですもの。狩人でない方々には危ないやもしれませんわ」

「それはどういう意味でしょうか、姫」

 大佐のことばを無視して、ユディトは言った。 

「特別な獲物は、特別な場所にいるものですわ」

 そう言って彼女はしずしずと車輌(レグ)へ乗り込んでしまった。大佐は客車の扉へと向かう人々の列の最後尾で、(ページ)の顔を見た。

「君はなにか知っているのか?」

 (ページ)は顔を上げ、首を傾げ、眼差しを大佐に向け、そしてこれみよがしに肩をすくめた。大佐は深い、深いため息をつき、いつも持ち歩くようにしているスペクトル鏡を取り出して、遠くの光の柱に翳した。

 それはあいも変わらず真っ白だった。だが、その白い光のなかに、美しい紫色がかすかに見えたような気がした。

 大佐はレンズをしまった。こんなのは初めてだ。<天使>の等級は下から橙、黄、緑、青。そして、その上の……とにかく、それ以外の色がレンズ越しに見えるはずがない。

「“反応無し”か」

 あの白い光が透けただけだったのだろう。

 大佐は客車に乗り込み、(ページ)もまたそれに続いた。

 

 ◆

 

 ■帆都(ヴェルヴェット)の屋敷 

 

 “扉”の<天使(マラーク)>が安置されている空間には、今や三人の人間たちがいた。(ページ)の姉、老執事、そして使用人の女である。彼女は不安そうにあたりを見回していた。

「こんな場所があったなんて知りませんでしたよ。ええ、知りませんでした。知ってたら掃除に入ってますとも」

「ここにはそんなものいるまい。この屋敷の中で……いや、もう屋敷の中でもないが、一番安全な空間だ。扉の奇跡で作られた場所であると坊ちゃまは仰られた」

 老執事は近くの岩に腰掛け、同じように座って宙を眺めている“姉さま”に目をやった。その顔は虚ろで、口元からは涎が垂れていた。何をするでもなく、ただじっとしている。

「沈黙病か」

「なんです?今更」 

「いや。何を言っても無礼にしかなるまい」

 執事は憐れむような、慈しむような目で彼女を見ていた。

「私の叔母も確か、そうだったのだ。私が幼い頃に亡くなったがね」

「あら、それは、残念でしたね」

「そうかね?そうかもしれんな」

 老執事は白い髭を撫でさすりながら眉を上げたが、それきりその話題を打ち切った。

「坊ちゃまはよくやっておられる。しかし、私はどうもあの方が心配でならんのだ。危険を冒しすぎる」

「まだ子供ですよ」

 女は言った。

「それなのに、あんな大人びたふうで。子供のまま、何も知らないままでいさせてあげられたらどんなによかったか。早熟だなんてのはね、いいことでもなんでもありませんよ」

「そうだな」

 執事は頷いた。

「だが、我々にできるのはせいぜい足枷にならないことくらいだ。そのために坊ちゃまはここへ我々を許可してくださったのだからな。ここは本来、【扉絵奇跡 ダルト】の継承者しか入れないはずのしきたりだ」

「なんですって?それを早く言ってくださいよ」

 女は素早く立ち上がると、恐れ入ったようにじっと壁際に立ち尽くし始めた。老人は苦笑し、自らもやや丁寧な座り方へと脚を組み替えた。

 そのとき(ページ)の姉、(アーヤ)が突然立ち上がった。

 老人も女も、驚いて固まった。“姉さま”が自らの意思を感じさせるような動きをすることなど、今まで一度たりともなかった。いや、沈黙病とはそういうもののはずだったのだ。生きるべき本能とでもいうべきものを欠いたように、ただ沈黙したままに衰弱していく、そのはずだった。

 彼女はふらふらと歩き出し、そして上を見上げた。岩盤と苔に閉じられたその向こう側を見ているようだった。

 

 そして、あたりが大きく揺れ始めた。

 安置されている<天使(マラーク)>ダルトの躯体が軋み、頭上から岩の欠片が降ってくる。ふたりは慌てて(アーヤ)に覆い被さり、その身を守ろうとした。

 老人は自分を安心させるように言った。

「ここは空間そのものが奇跡による具現物だ。崩れたりなどありえぬ」

 それを言うなら、そもそもこの揺れこそありえないのだけれど。しかし、確かに地震はすぐ収まった。ぼうっと光る岩窟の中で、三人はおずおずとあたりを見回した。

 

 そのとき、沈黙病のはずの“姉さま”がなんと口を開いた。

 息を吸い込み、ゆっくりと吐く。生まれてこのかた言葉を発したことのない少女は、確かに、声らしきものを震わせていた。

『わたしは……』

 ふたりは彼女を抱き抱えながら目を見張った。まさか、不治の沈黙病が治ったのだろうか?ほうぼうの医者がみな匙を投げた生まれつきの難病が快癒したのだろうか?

 けれども、そうではなかったのだ。それはすぐに分かった。

『わたしは……ノア!』

 彼女ははっきりとそう言った。

「何を仰っておられる?」

 老人の言葉にも無反応のまま、使用人の女の呼びかけにも応えぬまま、病の少女はうわ言のように叫び続けた。いや、それはまさしくうわ言なのかもしれなかった。意味の通らないことばでしかなかった。ふたりの名前や、この状況や、ましてやたった一人の家族に違いない(ページ)のことやなんかは、ひとつたりとも口から出てこなかったのだ。

『わたしはノア。わたしは……』

「なんですこれは、なんのことを言ってるんです」

「私が知るものか。なにかおかしい。呼吸も変だ」

 ふたりは慌てた顔を見合わせあった。医術の腕のない彼らには、どうしていいのかわかるはずもなかった。

 ぜえぜえと喘ぎながら、沈黙病の(アーヤ)はその間も呟き続けていた。悪いものに取り憑かれたみたいだ。絶対に普通ではない。

『わたしは、デューカリオン』

「お嬢様。大丈夫ですか。お嬢様」

 老人は少女の背を擦った。うわ言のテンポは次第に速くなり、開かれた眼差しはまばたきすら忘れていた。

『わたしはクシストロス。わたしはベーゲルミア。わたしはマヌ。わたしは……』

 苦しそうに呼吸しながら、二人の腕の中で、彼女は絞り出すように最後の句を告げた。

 

『わたしは……“リベリウス”』

 

 ◆

 

 光の柱がユディトに突き立ったとき、様子がおかしかったのは(ページ)の姉だけではなかった。

 あらゆる沈黙病の患者が口を開いていた。彼らは一斉に、光の柱の現出に合わせて同じ言葉を口にしていた。それはユディト市だけではなく、他の都市船でも、あるいは遠く離れた別の国々でも同じ事が起きていた。

 だが、その言葉の意味がわかるものは誰もいなかった。

 もちろん、沈黙病が治ったわけでもないのだった。彼らはただうわ言のように呟き続けるだけだった。医術師にもどうすることも出来なかった。彼らは沈黙病だって治せなかったのだから。

 

 時を同じくして、海が騒ぎ始めた。

 光の柱を振り仰ぐように、魚たちが水面に集まっていた。ユディト近海のあらゆる水棲生物が同じ方角を目指して泳ぎ始めていた。

 ヨロイイッカクが海面に顔を出し、鯨の歌を歌いだした。

 水棲生物たちが残らず歌っていた。響きあい、ふるえ、こだましていくハーモニーが海を揺らしている。鰭のあるもの、尾のあるもの、角のあるもの、鎧のあるもの、あらゆる種族が声を揃えて、歓喜の歌を叫んでいる。

 次に、珊瑚礁が目を覚ました。

 老人の指のように節くれだったそれが、海面を突き破って隆起し始めた。どんどんと、無数の塔になって突き出すそれらは、空気に触れて死ぬと真っ白な骨のようになって骸を遺した。

 その形は、まるで五本の指を持つ掌のようだった。天へ焦がれて手を伸ばしているようだった。

 

『おめでとうございます』

 光の柱を遠くに仰ぎながら、<黙示録(アポカリプス)>たちは口々に言った。感情のない平坦な声音だった。

『おめでとうございます。成功ですね』

『はい。あのアシタの女の絶望を引き金(トリガー)として、“天御柱(アミダ)”の示現は果たされました』

『彼女は浄化され、真理の一部となりました。大いなる歓びです。おめでとうございます』

『本当に、おめでとうございます』

 曳航連邦のできるより前に滅んだはずの言語で、彼らは口々に言った。<黙示録(アポカリプス)>たちはレイラインから続く光の柱を拝み、そしてサングィスに顔を向けた。

『本当におめでとうございます、師よ』

「おめでとう。諸君らはよく役目を果たしてくれた」

 同じく古き言葉で、サングィスは祝福した。その手には鋭い鉄剣が握られている。

「では新たなる“殉教徒(デフェクティオ)”よ、前へ出たまえ」

 <黙示録(アポカリプス)>のうちから、幾人かのものたちが両の手を顕にして歩み出た。サングィスは剣を構え、解言を唱えた。

「《満ちろ(エクスプレー)》」

 指環がぼうっと光り、剣を包みこんだ。

 熱が封じられていたのだ。見えざる熱が鉄の剣を温め、焼き焦がし、赤々とその刃を燃やす。

 

「世に、黙示録のあらんことを」

 サングィスはそう言うと、鉄剣を振り下ろした。

 赤熱する刃が彼らの手首を落とした。

 誰一人として怯みもしなかった。指環から剣に纏わりつく見えざる熱が、傷口を焼灼して止血している。それにしたって、本当ならば悲鳴を上げ、自分の手を見やり、こらえようの無い涙を流すだろう。だが、彼らは静かだった。不気味を通り越して荘厳ですらあった。

「これにて汝らの罪は雪がれた」

 サングィスは焼け爛れた剣を投げ捨てた。

 手を失った殉教徒(デフェクティオ)たちは、深々と頭を下げて感謝を示した。痛みや恐怖はなにひとつ、そこには感じられなかった。

『ありがとうございます、師よ』

「いいや、賛辞は諸君らにこそふさわしい。よくぞその身を教えに捧げた。その境地へ至らぬ罪深い私を許せよ」

 サングィスは感極まったように言うと、光の柱を見上げて絶叫した。

「素晴らしい。清浄なる滅びのはじまり、その一端がここにある」

『はい、本当におめでとうございます、師よ』

「それもこれも諸君らのおかげだ。見ろ、始まるぞ」

 サングィスは光の柱を指さした。

 そこに流れる凄まじい量のリソースが、動き始めようとしているのが分かった。サングィスは両手を広げて吠えた。

 

「始まるぞ、“無限偽典(インフィニット・アポクリファ)”現象が!」

 

 ◆

 

 ■ユディト軍港

 

 光の柱の穂先が地上に触れたのは、アゲハたちがいるところからさほど遠くない、軍港のそばだった。

 まさしくそれは炸裂だった。熱のない爆発だった。光を含んだ暴風が甘く香りながら周囲を吹き飛ばしていった。まるで重苦しい大銅鑼(ダライラダ)を打ち鳴らしたような衝撃音がとどろいて、それはかたちを安定させ、空と地上とを繋ぐように屹立した。

 柚子(ユーリス)は巨大な光の柱を見上げ、それがレイラインに続いているらしいことを見て取った。その超高濃度のリソースも。

 そして、オセルが突如として震えた。

『どうした、オセル』

 中佐は慌てて名前を呼んだ。

『どうしたのですか、オセル!』

 四肢の制御が利かなくなった。

 オセルは地面に膝をつき、力なく倒れ伏した。地響きとともに砂利と土煙が舞う。受け身すら取れずに、衝撃が<天使(マラーク)>の身体を揺らした。

 まるで力が入らない。起き上がることもできない。オセルは地に額をつけ、光の柱の方に跪くような形で静止していた。

 誰かの術ではない。姿も見せないのに、他人の<天使(マラーク)>にこれほど強く干渉できるような奇跡など、まずありえない。

(なんだこの現象は?なにが起きている?)

 中佐はわけがわからずに必死で力を込めたけれど、無駄だった。それに、“野良”を見たときと同じようなあの畏怖の感覚が、より強くなって身体じゅうを駆け抜けていた。

 畏れ多い。

 中佐は突然理解した。腹のうちを震わすようなあの畏怖の感覚は、<人間イカリ>が感じているものではないのだ。

 契約している<天使(マラーク)>から伝わってきたものが、<人間イカリ>を震え上がらせている。他ならぬ<天使>が目の前のものを畏れているのだった。あのレイラインから降りてきた光の柱を。

 あれは“野良”の向こう側にあるものだ。“野良”を見たときの畏れはこれを畏れていたのだ!

(ありえない。<天使(マラーク)>は心のない物質でしょう!常識だ。【偽リベリウス記】に書いてある常識だ。感情があるはずがない)

 柚子(ユーリス)はわけがわからずにあたりを見回そうとした。身体の自由はとてもきかない。いつもなら、人間以上の疾さで動き回れるというのに、首を動かすだけで精一杯なのだった。

 傍らでは、タカもまた苦しんでいた。

 能天使系統の変身は、肉体を<天使(マラーク)>に近づける力だ。完全に同化したオセルほどではないものの、彼にとってもこの光の柱は近づきがたいものらしい。地に膝をついて荒い息をついている。立ち上がるのも難しそうだ。

 同じだ、と柚子(ユーリス)は思った。自分のオセルを跪かせているのと同じものが、あの変身者にも働いている。

 

 だからこのときこの場で自由に動けるのは、純粋な人間の身体を持つものだけだった。

「何をしてる?」

 血まみれのアゲハは、戸惑ったように二人を見、一歩下がった。

 罠かもしれないと思っているようだった。隙を見せて、気を抜いたところになにか仕掛けてくるつもりかもしれない。

『逃がすものか』

 中佐は辛うじてオセルの腕を伸ばしたが、身体は起こせなかった。額をつけたまま這いずるようにアゲハのほうに向かい、途中で力尽きる。

 アゲハは背後の光の柱を振り仰いだ。

「あれのせいか」

 その顔に、得意げなものがかすかにちらついた。

「動けないんだな!あれのせいで!」

『調子に乗らないことです、蛮人め』

 中佐は跪きながら口だけで罵った。

『すぐに処刑してやる。そこで待て』

「ごめんだね」

 アゲハは共通(シャーン)語でそう言うと、剣を拾い、ゆっくりと足を引きずって歩き始めた。中佐は言葉を唱え、その後ろ姿めがけて奇跡を撃ってみようとした。

『《(オセル)》。《(オセル)》!』

 けれど、力は使えなくなっていた。まるで戒律に触れたときみたいだ。

 中佐は理解した。正体もわからぬ“あれ”の前では、あまねく<天使>は無力なのだ。

 

『この現象はなんだ?まさか<黙示録(アポカリプス)>の仕業か?』

 タカのほうは、苦しみながらもどうにか立ち上がっていた。

 やはり奇跡は使えない。能天使系統の持つ凄まじい肉体のスペックも、今や足の萎えた病人ほどに衰えてしまっている。タカは眼の前で崩れ落ちている<天使(マラーク)>と、光の柱とを見比べて目を細めた。

(あの様は何だ?まるで祈っているような……礼拝でもしているような。この光の柱は一体……)

 能天使の契約者である自身もそうだった。気を抜くと膝を折ってしまいそうだ。見上げれば、あの光の柱から注ぐ不可思議な感覚が光のように身体中を通り抜けていく。

「アゲハ……」

 傷だらけのアゲハよりやや遅いくらいの素早さで、異形のタカはその後を追って歩き始めた。

 

 ◆

 

 立ち去ろうとする二人の背に向けて、中佐は悔しげに絶叫した。口汚く喚き散らし、獣のように吠えた。

 だが<天使(マラーク)>はあいも変わらず動かせなかった。それは中佐だけのものであったはずなのに。自分の手足も同然だったはずなのに。

(こんな現象は、連邦保有分の【偽リベリウス記】にも書かれていなかった。何だ?これはいったい、何だ?あの光の柱は何だというのだ!)

 中佐は地を掻きむしった。そして、うなじに感じるあの光の柱に恨めしい憤りを向けた。

 その瞬間、気配が変わった。

 光の柱からなにか意思のようなものが向けられているのを、中佐は感じていた。それは明確なことばではなかったし、予言者(ナビ)が見るというヴィジョンのようなものでもなかった。 

 曖昧でしかないそれは、しかし明確に、中佐に注意を注ぎ、なにかを訴えかけてきていた。この光を見ている<人間イカリ>ならみんなが同じものを感じているに違いない。

 それはなにかを問いかけてきていたのだ。

 中佐は心の底まで震え上がって、ただ必死に目を背けた。いや、眼差しはとっくに地面へ跪いている。そのうえでなお、考えることすらも恐ろしかった。中佐は心のなかからさえ、必死に光の柱のことを追い出そうとしていた。

 まるで、じっと息を潜める子供のように。途方もなく大きな“なにか”の目にとまらないように。

 

 やがて、問いかけるような気配が消えた。

 自分は《否定》したのだと思った。中佐は深く息をつき、そして気づいた。

 息をしている。手が土に汚れている。いつの間にか、“同化”が解除されていた。人間の姿で、中佐は地面に転がってぶるぶる震えていた。吸い込む空気の甘さで、ずっと息を止めていたのだと分かった。

 

 そして、背後で金属の軋むような音がした。

 あのアシタの船にいた“野良”たちが、軍港を押し潰すようにして輪を描き、やはり光の柱のほうへ向かって額づいていた。その有り様はいっそ敬虔に見えた。背にある翼が電気のようなものに縁取られて光っていた。

 “野良”が顔を上げた。

 中佐は警戒心を剥き出しにしてそれを遠目に眺めていた。

 そのとき、中佐はなんとなく、彼らは《肯定》したのだと思った。どうしてそんなことを思いついたのか、はっと我に返った中佐が疑問を抱いたとき、なんと“野良”が歌い始めた。 

 一体、また一体と“野良”たちはそれに続いた。それは鐘の音とパイプオルガンを混ぜたような、深く、甘く、金属光沢のある滑らかな響きだった。その顔には鼻も口も無いのに、なにかを称える歌を歌っているのだ。

 背の翼が広がった。白い光が燃え上がり、石の翼を包んで膨らむ。それは天に向かって伸び、噴き上がった。その光がレイラインのそれ、ひいては目前の光の柱と同質のものであることに中佐は気づいた。

 その分かれていく光の輪郭は五指に似ていた。人間の手に似ていたのだ。まるで天を掴もうとでもするように、その光の翼は空へ伸びていった。

「“天に触れし手(フェレシュテ)”」

 中佐は呆然として、意味もわからず暗記させられた【偽リベリウス記】の一節を諳んじていた。

 リソースが動いているのが分かる。それはこの光の柱から、“野良”の広げた光の翼へとふんだんに注がれていた。掲げた掌に油を注ぐように。宝物を賜るように。

 あれはまさしく、天に触れし手なのだ。

 <天使(マラーク)>たちから、なにか言葉のようなものが聞こえた気がした。

 

『……《悲嘆(マーツィバ)》』

 

 “野良”たちは光の翼を広げ、宙に浮き上がった。光の柱に向けられた彼らの顔の、その虚ろな眼窩から青黒い涙が溢れ出した。とめどなく溢れるその涙は、どろどろと地表に流れ落ち、一斉にあたりを埋め尽くし始めた。

 まるで海のように。

 

 To be continued…

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