<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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第二十六話 悲しみの海で

 ■交差都市ユディト

 

 ぞっとするような青色だった。

 光の柱を仰ぐ“野良”の、その空っぽの眼窩から、とめどなく水のようなものがあふれてくる。零れ落ちていく。本物の水より粘り気のあるそれは、青黒い色を抜きにすればむしろ人の血に似ていた。

 砂地や壁の上に落ち、屋根の上を流れる。どろりとした“涙”はやはり重たげに、触れるものを押し潰していく。

 

 柚子(ユーリス)中佐は慌てて懐に手を突っ込み、そしてスペクトル鏡を取りあげられていたのに気づいて舌打ちした。やむなく、彼は心を集中させ、力の気配を探った。

 途端に、凄まじい圧力が彼の第六感を襲った。中佐はひゅっと息を吸い込んで顔を跳ね上げた。

(おそらくは僕のオセルより格上……スペクトル緑の古代伝説級といったところか。それが、十体)

 “野良”は光の翼を広げ、とめどなく涙を流している。地表を覆う涙はお互いに引き寄せ合い、溶け合って版図を広げていた。

 悲鳴が聞こえた。

 シャーン語、そしてアシタ語もまた、同じような甲高い叫び声を上げている。“涙”はどうやら、軍港にいる兵士たちのほうへと進んでいるようだった。

(動いている)

 中佐は“野良”の背中側を睨んだ。

 屹立している光の柱の、巨大で強烈な明るさに押されて、港の方角はきついコントラストの中に沈んでしまっている。だが、その山の稜線のような黒いシルエットがじりじりと動いていた。

 

 そして、それが壁を這い上って溢れ出した。

 ただの“涙”であるわけもなかった。それは重力に逆らって、まるで意志あるひとつの生命体のように、壁を登って柚子(ユーリス)のほうにも手を伸ばしている。どろどろと渦巻きながら迫りくるそれに、中佐は腹立たしげな顔で右手を構えた。

 引き金(トリガー)のあの手帳は取り上げられてしまっていた。艦に戻れば予備があるが、そんな暇はなかった。

「《(オセル)》」

 引き金なしに奇跡を使うのはかなり骨が折れる。柚子(ユーリス)はなにかを千切り取るように指を擦り、手を振り抜いた。

 不安定ながら発動した禁止の奇跡は、金属質の螺子を具現化し、そして中佐とオセルとを守るように地面へ突き刺さった。

「残念ですが、そこは通行禁止ですよ」

 螺子の間をすり抜けようとした“涙”は、見えない壁に阻まれたように弾けて止まった。

 オセルの力は、中佐が決めたものを禁じる力だ。たとえ触れればまずいものだとしても、触れずに動きを止められる。

 中佐は誇らしげにそれへ向かって言った。

「禁止の結界は破れまい。しかし、これはいささか不味いですね。アシタ人……いや、<黙示録(アポカリプス)>か?まさか都市内で“野良”を解放するだなんて。だいたいこの無茶苦茶な現象もぜんぶ彼奴等の仕業なのだとしたら……」

 情報が足りない。まったくもって足りていない。結界に塞がれた濁流を見ながら、中佐は分析するように独りごちた。

 しかし、涙はどんどんとその量を増していた。“野良”は泣き続けている。音もなく、ただ落涙し続けているのだ。

「どうした?」

 みしみしと軋むような音がどこからか鳴りだして、すべての螺子がカタカタ震え始めた。拒絶しあうふたつの奇跡が鎬を削っている音だった。涙の波が結界面を叩き、ゆっくりと荒れ狂っている。

「ダメだ」

 中佐は血相を変えて怒鳴った。

「やめろ、僕は許可していないぞ。そんなもの通すな」

 

 そして、禁止の螺子が残らず弾け飛んだ。

 途端に自由になった“涙”が、中佐の背丈の倍ほどもある大津波になってあふれ出した。柚子(ユーリス)は血の気が引いた顔で飛び上がると、跪いたままのオセルの背へ、必死になって登った。

 青黒い濁流はオセルの四肢を飲み込み、胴の半ばまでを沈めながら流れていった。それには砕け散った瓦礫の欠片や、焼け焦げた武装や、まだ燃えている人間の死体が混じっていた。

「単純出力で押し切られるとは、なんて下品な奇跡の使い方を」

 這々の体でそう喚きながら、中佐はオセルの翼の先までどうにかよじ登った。軍靴の爪先を、青黒い濁流の跳ねた指先がそっと撫でた。

 そのとき、中佐の全身に痺れのようなものが走った。触れた爪先に青黒いものがへばりついて持ち上がっている。

 手だ。“涙”の海が、無数の手を伸ばしている。それはすがるように中佐の裾を引き、青黒いもののなかへ引きずり落とそうとしていた。まわりでは、たくさんの小さな手がおいでおいでと手招きをしていた。

「馬鹿な、なんだ、これは!」

 中佐は必死にオセルの翼へしがみついた。

 

 悲しみは僅かな傷から忍び込む。

 それは人間を侵し、呑み込もうとする。重苦しく沈めてしまおうとする。顔を上げることは叶わない。前を向いて歩くことは叶わない。できるのは地に顔を伏せ、咽び泣くことだけだ。

 なぜならそれは《悲嘆(マーツィバ)》なのだから。

 

「癪な真似をしてくれる」

 中佐は叫ぶと、脚に絡みついている涙に向かって左手の指を二本突きつけた。見えない頁を破り取るようにそれを動かす。

「《斬禁(オセル・へレヴ)》」

 その手の中に具現化された白い剣がするっと滑り落ち、螺旋の刻まれた刃で“涙”の手を断ち切った。

 途端に中佐の身体へ伸びていた手のようなものが消滅し、引っ張る力も消え失せる。“涙”は落ちた剣にわっと群がって、それを素早く呑み込んだ。

「やはり、本体から切り離されれば奇跡を保てないようですね」

 手に毟られた傷からボタボタと血の雫をこぼし、中佐は荒く息をつきながら翼の頂点によじ登ってあたりを眺めた。

 一帯はもうすっかり青黒いものの海に沈んでいた。遠くで塔が根本からへし折られて崩落するのがシルエットだけになって見える。とりわけ嫌なことに、この“涙”は次第に、そして着実にその水位を上げていた。

(いつまでもは持たないな。早く移動しなくては……)

 しかし、どこへ?中佐は苛立ちを込めて唸った。どこにも逃げ場など見当たりはしないのだ。それに、オセルとの“同化”も無理やり解かれたせいでしばらく出来そうにない。だいたい<天使(マラーク)>へ触れているのにそれを動かせもしない。 

 あの光の柱のせいだ。そうに違いない。

「<黙示録(アポカリプス)>め」

 中佐はそれしか言えずに叫んだ。

 

 ◆

 

 ■ユディト 丘陵地帯

 

 軍港の近くに降り立った光の柱は、遠くからでもありありと見て取れた。

 昼間だというのに、その強すぎる光はまるで夕暮れ時のような陰を作り出している。その黒い陰影の部分がおぞましく蠢いているのが、かすかに見えた。

 叉路街(サロガイ)、そして協商港のほうへと破壊が動いている。都市構造体が少しずつ崩れ落ち、食い取られていく。

 

「わからないことだらけだ」

 (レン)大佐は遠眼鏡(エーゲンクラフト)を降ろし、ため息混じりに言った。

「あれは何だ?あの光の柱とどういう関係がある?誰か知っているものはいないのか」

 大佐はユディト姫とその取り巻きたちのほうを振り向いたが、彼女はもうなにも言わなかった。大佐も別に期待していなかった。知識は財産であり力だ。ただでくれるわけがない。

 また一つ、街の遠景で塔が崩れ落ちた。どろどろと蠢く水のようなものがそれをへし折りながら腹の中に収めるのがなんとなく見えた。

「都市を食ってるのか」

 大佐がそう呟いたとき、(ページ)が首を振った。彼はまだ残っている方の手を掲げ、そして大佐に尋ねた。

「この都市の地図はありますか?」

 大佐は変人を見る目つきで少年を見、そして懐から鯨皮紙を引っ張り出した。

簡易図(クイント)なら」

「それで大丈夫です。ありがとうございます。端を持ってて貰えますか。そう」

 素っ気ないにもすぎるユディト図を、他ならぬユディトの正規市民たちのまえで広げるのはやや恐縮だったが、大佐は従った。(ページ)は簡易図に向かって空の手を伸ばし、なにかを握るような動作をした。

 奇跡が圧縮され、みどり色の絵筆がどこからともなく現れた。

「《覗き窓(ダルタルト)》」

 そのとき、(ページ)を中心に、なにか目には見えないが細かいものが打ち上がり、上空でぱあっと飛び散って四方へ飛んでいったような感じがした。

 具現化された筆先から簡易図の上へとみどり色のインクが滴り落ち、ひとりでにさっと走った。それらは沢山の小さな四角形を造り、無数の小扉がパタパタと開閉した。それらの一部はすぐに消えたが、大部分はもとのインクに戻って地図に染み付いた。

 地図を広げさせられているままで、大佐はため息をついた。

「書き込むのなら予めそうと言ってほしかったな」

「すみません」

 (ページ)は特に悪びれた様子もなくそう言うと、地図上に残ったみどり色のしるしをさした。

「これはあの……ドロドロしたものの位置を示しています。わかりますか」

「“扉”の奇跡か」

 大佐は感心して少年を見ていた。地図上のしるしはかなりの広範囲に渡っている。(ページ)は後ろで覗き込んでいるユディト親衛隊の面々をちらりと見て、彼らが見えるように身体をどかしながら、言った。

「僕の“扉”を一瞬だけ繋いで、あのドロドロが見えた地点だけにマークをしました。見て分かる通り、沿岸部を動いています。今は協商港を目指しているようですね」

「都市構造体を取り込んでいるんだろう?」

 大佐の言葉に、(ページ)は首を振った。

「ものを食っているんじゃありません。もしそうなら、ここ……わかりますか?ここには“白の廃墟(ヴィトー)”という放棄された街があるんですよ。軍港から出たところのすぐそばです。なのに、あれはこの街を無視している。なにより、ここにはベトリア運河の支流路があるんですよ。地形に流れ込んでしまえばそのまま内陸へ進むはずなのに」

「地形を無視している」

 大佐は唇を舐めた。

「人口密集地を目指しているというのか」

「はい、目的は人間だと思います」

 (ページ)は言った。

「あれはただの水じゃないんです。自分の意志で、生き物みたいに動いている。この動きから察するに、叉路街(サロガイ)を食い尽くしたあとは……」

「……ユディト中枢部へ向かう」

 大佐があとを引き取った。

「何百ローグもの津波に襲われては、流石に堅牢な中央といえど長くは持つまい」

 (ページ)は頷き、背後の親衛隊と貴族たちを振り向いた。

「ええ、ですから一刻も早く軍備を固めたほうがいいと思います。なにせ、肝心の曳航連邦軍が港ごと――」

「控えたまえ」

 そのことばを、ひとりの貴族が遮った。初老の男だった。

「君はすでに市民権を失効した非正規居住者である。この場におわすいずれに対しても、そうも賢しげな口を利ける資格のないこと、ゆめ忘れるな」

 その男の額には、立派な二本の角が生えていた。

 雄牛(エレフ)の<天使(マラーク)>の継承者だった。能天使系統なのだろう。見上げるほどの筋骨隆々の巨躯を折り曲げて、その貴族はユディト姫へ奏上した。

「殿下、ことここに至りましては、ユディト市の守りを固めるとともに、かの奇跡の発生源を叩くことが必要と推察されます。取り急ぎ、征伐の指揮をお任せいただきたく」

「許すわ、行儀(ギンガム)。では任せるわね」

「ありがたく」

 大佐はそれを冷たい目で眺めていた。茶番だ。

(そうか、零落した“扉”の一族が出てくるのは、他の旧家にしてみれば面白くないのか。権力争いというのはどこにでもあるものだな。こんな辺境都市のなかだけの狭い権勢を取り合っても、虚しいものだろうに)

 益体もないことを思いながら、大佐は表情を殺していた。初老の貴族が振り向いたからだった。それくらいの処世術は軍隊で身に着けている。

「もちろん、この非常時に“自衛”を認めないなどとは言いますまいな?」

「私の管轄ではありませんね」

 大佐は簡潔にそれだけ言った。ユディト市の対外折衝に口を差し挟む気はない。特務兵は嫌われ者だ。面倒を連れてくれば今度は連邦軍からも睨まれかねない。

(嫌なものだな)

 大佐は自嘲した。

(こんなときにあとの損得勘定をしている)

「私は軍港へ向かいます。大事な部下の安否を確認せねばなりませんのでね」

 内心を毛ほども感じさせぬ鉄面皮で、大佐は言った。

「あなたがたの討伐隊と同行させていただいても?連邦軍に話を通せる人間がいたほうがよいでしょう」

「勿論。構いませんとも」

 “雄牛”の男は鷹揚に頷いた。

 大佐はしかし、特務兵たちのことは大して心配していなかった。あれでも全員が手練れた<人間イカリ>、それに飛空艦(カルラ)もある。どれほどの相手でも悪いことにはなるまい。

 だから、本当に心配しているのは別のことだった。

(この人口密集地を狙う動き)

 嫌な予感がしていた。

(人間を襲う本能。それは、もしかすると……)

「ところで、あのふたりの“(アーセリング)”は?」

 思いだしたようにそう尋ねた大佐へ、ユディトはいった。

「“放浪王(ザ・ウェンド)”はあざなの通り風のように気まぐれでいらっしゃいますわ。どこかで遊んでいるのでしょう。“堅牢王(ザ・ハーデン)”は……もしかして、港へ向かったのかもしれませんね」

 ユディトは笑って付け加えた。

「なにせあのお方は、こういうことを黙って見ていられない(たち)でしょうから」

 

 ◆

 

 ■ユディト軍港

 

「何がどうなっているんだよ」

 (ハーヴン)は装甲壁の頂上で怒鳴った。

 光の柱。青黒い“涙”。遠くから発せられる異様な気配。

 そして【紙片奇跡 ニヤロト】が、眼の前で跪いていた。

 両手をつき、膝を折り、《円環》を浮かべる頭を垂れている。あのうぞうぞと蠢く無数の帯腕も動きを止め、地面にうずくまっていた。まさに戦意喪失、行動停止状態といった趣だった。

 (ハーヴン)はそばに丁度突き立っていたガラスの破片へと、腕に嵌めた銅の腕環を突きつけ、力の名前を呼んでから言った。

「こんな現象……見たことがない。どうなっているんだじいさん」

 ガラスの面が震えた。

『いきなり呼び出しておいて第一声がそれか』

 映像の奇跡越しに、(ゲラック)老の声がした。

『しかし、ふむ、ほう、見えておるぞ。興味深い。このような事例はおそらく記録にない。まるで……畏れているようだな』

「<天使>がなにかを恐れるなんてことがあるのか?」

 (ハーヴン)は爆発性の小石を握り締めたまま、言った。それを食らわせようとしていた【ニヤロト】は、もうすっかり動かなくなってしまっていた。

「それに、この格好はまるで」

『崇拝。礼拝。畏敬』

 (ゲラック)は繰り返した。

『いかにも、()()()()()()()()のざまではないかね?』

「<天使>だぞ?」

 (ハーヴン)は薄ら寒いものを感じて、叫んだ。

「人間以上の、力ある、この世で最も貴い存在が<天使>だ。それが崇めるようなもの、そんなものってさあ」

『……そう。そんなものは存在しないはずだ。なにを崇める?なにを畏れる?物理法則の上にすら立つ奇跡の存在が崇めるものとは何だ?皆目見当もつかんな。【偽リベリウス記】にもそんな記載はない。<天使(マラーク)>の階級は五つだけだし、それにしたって上位のものに下位のものが(かしづ)いた例などない。すべての<天使>は平等だ』

「なら、<天使>じゃないってことになるんじゃないのか」

 自分で言っておいて、少年は首を振った。そんなものは存在しない。するはずがない。

「じゃあ、あの光の柱は?あれがなにかしてるんだ、そうだろ?」

 天へ続く輝きを睨んで、(ハーヴン)は言った。だが、やはり老人の答えは芳しくなかった。

『わからん』

「憶測でいい」

『わからんのだ。憶測すら立てられん。何もかもが前代未聞の事態だ。関わりがあるのは間違いなかろうが、しかし、<天使(マラーク)>に膝をつかせる光など』

「あぁそう」

 (ハーヴン)は苛立たしげに頷いた。

「とにかく、正体不明ってことでいいんだな」

『<黙示録(アポカリプス)>がどうこうと、あの嬢ちゃんらが言っておらんかったか?それ絡みではないのか?あの秘密結社はどうも連邦も知らぬ知識を保有しておるようだぞ。だいたいあのふたりはどこへ行きおったのだ?』

「あんたが同僚の仕事を把握してたとは驚きだね」

 (ハーヴン)は皮肉っぽく言った。

「いいから、艦を守ってよ。最悪港から出すんだ。テロリストに占拠されでもしたらまずいことになる。飛空艦(カルラ)は技術部の最新実験機だろ?鹵獲されたら僕ら、軍法会議ものだよ」

『賊ならすでに艦内へ侵入したようだぞ』

 その言葉に、(ハーヴン)は目を剥いた。

「侵入した?それで、あんたはどうしたわけ?」

『何も。だが、あの()()がおったからな。生きてはおるまい。それに“あれ”の側に近寄るなど死んでも御免被るわい』

「それでも特務兵かよ、あんたは」

 憤る(ハーヴン)に、(ゲラック)はどこ吹く風で言った。

『儂ゃ知らん。荒事はぬしらの領分だろ。儂は医学薬学畑の<人間イカリ>じゃい。シガオーンで“同化”戦闘でもさせる気か?撃墜されるのが関の山だぞ』

「頼まないさ、くそっ」

 (ハーヴン)は深くため息をつくと、偽の水平線に飲まれつつある内陸部を睨んだ。

 

 青黒い大波は、進路上のすべてを呑み込みながら本当の海へと向かっていた。

 そこには、連邦もアシタもなかった。さっきまで殺し合っていた彼らの戦争は、ひとからげに青黒い“涙”に押し流され、圧壊させられていく。みな武装を捨て、足を少しでも軽くしようとして走っていた。

 けれど、“涙”は素早かった。

 すうっと足元へ流れ込んだそれは、ほんの少しの浅瀬だというのに、ものすごい力で人々の足を取り、転ばせ、そして枝を広げて呑み込んだ。

 “涙”の伸ばした無数の手が、身体中の至る所を食い破って、引きずり込まれた人たちの体の中に入り込んでいくのだ。

『助けてくれ』

 ひとりのアシタ人が、ねとねとする手脚を眺めながら、傍らの連邦兵へ叫んだ。そこにアシタ戦士の誇りは微塵も感じられなかった。戦いで死ぬのはいい。殺し合うのはいい。だが、これは違う。こんな意味のわからないものに飲み込まれて死ぬのは、戦士の名誉なんかではない。

『助けて、くれ!』

 戦士は涙をぼろぼろ零して唸った。

 しかし、その涙もまたおかしかった。青黒いものが混じったそれは、滝のように勢いを増して流れ落ちた。

 戦覆いの下で、男の顔はどんどんと萎れていった。まるで、身体中の湿り気を絞り出して泣いているみたいだった。それは異常だった。ありえないことだ。普通ではないこと、つまり、奇跡じみている。

『誰か、誰でもいい、助け――』

 そして、紙のようにカラカラに乾いた男の肉体が、次の瞬間、透き通った水に変わって弾けて飛んだ。

 身につけていたものだけが空っぽになって、落ちる。何もかも、足元に広がる《悲嘆》の海が飲み込んでしまった。さっきまで人間だった水も、透明なしぶきになって、青黒い“涙”に混じって消えていく。

 誰かが悲鳴を上げたが、長続きはしなかった。その連邦兵もまた、水になって流れて消えてしまったからだ。恐ろしい光景だった。

「人間を食ってるのか?」

 (ハーヴン)は顔をしかめた。心底ゾッとしていた。こんなのは、まっとうな人間の死に方じゃない。

「だけど、なんでテロリストまで巻き添えになってる?これはあいつらの起こしたことだろ」

『助けないのか?半分は少なくとも友軍だ』

「無理に決まってるだろ」

 (ハーヴン)はいった。

「僕じゃだめだ。噛み合わない。こんな規模を相手にするなら同じ広域制圧タイプの奇跡がいる。それに、バカーシャは使えないんだ」

 (ハーヴン)は叫んだ。こんなときに大佐はどこに行ったんだ?

「名前がわからないんだよ。これを起こしてる<天使>の名前が分からなきゃ、呼ぼうにも呼べない。僕の奇跡の対象外だ。なによりさあ」

 その眼差しの先には、膨れ上がる大波がそびえていた。

「人の心配してる余裕なんかないよ」

 

 そのときだった。

 (ハーヴン)はなにかうなじがひりつくような感覚を覚えて、右の方を振り向いた。

 力の気配がする。とてつもなく大きなリソースの存在感が。

 ぼうっと空を見ている様子の彼に、老人が鏡面のなかから言った。

『どうした』

「来る」

 (ハーヴン)はそれだけ答えた。

「なにか、来る」

 それは轟音を立てて、軍港に着弾した。

 石を砕いた土煙がもうもうと立ちのぼり、青黒い涙が悲鳴を上げて吹き飛んでいく。しぶきは光の塵に溶けていった。具現物が破壊されたときの光だった。

「やはり本体から離れると保たないのか」

 煙の中で、人間大のなにかが言った。

 (ハーヴン)は目を見張った。人類の言葉をこそ使っていたが、人間とは思えない凄まじいリソースを有していたからだ。まるで、太陽を直視しているような、熾火を握りしめているような、軍艦を背負っているかのような、重く燃え盛る存在感だった。

「主天使系統ではないのかな。まあ、どちらでも構わないが」

 その声は地響きに似ていた。ごろごろと胸の奥で臼でも挽くような、それでいて甘く弾むような旋律も兼ね備えている。

 土煙が晴れた。

「何者だ!」

 (ハーヴン)は叫んだ。放っておけはしなかった。 

 

 眼の前にあるのは、長身の女がヴェールに身を包んだ姿だった。

 

 しかし、それがなんのあてにもならないことを彼はよく分かっていた。これほどまでに強い<人間イカリ>にとって、外見や性別なんか、たいして意味のあるものではない。

「どこから来たんだ」

 その、顔を隠した女は、ぐるりと首を回したようだった。

「随分とご挨拶なことだ。おれに食って掛かっていられるような状況だと思うのか?」

 その足元では、青黒い涙の浅瀬が素早く忍び寄っていた。

「ゆっくり話もできん」

 女はため息をつくと、爪先をタップするように軽く踏み鳴らし、言った。

「《荒らせ(ペリメ)》、【聖靴イングラータ】」

 聖異物が吠えた。

 黒い革靴が獣のように唸って、赤黒い風を足の裏から噴き出したのだ。吹き散らされる“涙”が怒ったようにぐるぐると渦を巻き、彼女の周りを旋回した。彼女は手に握ったペンダントを差し向け、懐中時計みたいな蓋を指で弾いて、内側の真っ白な鏡をあらわにした。

「《結べ(アダリガー)》【聖盤ミラビリス】」

 次の瞬間、涙が見渡す限りに渡って凍結した。

 青黒いものの上っ面を白い霜が覆っている。動きも止まっていた。時間でも止められたみたいに、躍動感を残して凍てついている。ペンダントの鏡に映っているところは、すべて。

嫌悪(イングラータ)は人を退け、驚異(ミラビリス)は凍りつかせる……あまり長くは持たないがね」

 女はぐるりとあたりを見回した。

 (ハーヴン)は乾いた唇を舐めた。傍らのガラス面では、老人が狼狽えていた。

『おお、おお、おお!これは!』

「じいさん、知ってるのか?」

『知っておるとも。おお、知っておる……かの女。東の戦争でサダルスード市をひとりで陥落させた女。“ギデオンの壁”、“鎖の主”、“傷つかざるもの”……』 

 (ゲラック)は神経質にわめきたてた。

 

『“堅牢王(ザ・ハーデン)”』

 

 (ハーヴン)ははっと顔を向けた。その頬には白い霜が薄く張り付いていた。

(アーセリング)だって?」

 それはしかし、確かに納得のいく話だった。眼の前の女から放たれる存在感は、絶対に只者ではないのだから。

「連邦の奇跡使いか……良かったよ、少しは耳の広いやつがいて」

 彼女はそう言うと、凍結した波濤に足をかけて登った。そこには、干からびた死骸が顔を掻きむしるようにして死んでいた。くくれた眼窩を覗き込んで、女は言った。

「哀れなことだ」

 そして、女はその死骸を持ち上げた。

「実に、哀れなことだ」

 周りには何人ものアシタ人が、そしてまた連邦兵が腰を抜かして座り込んでいる。凍りついた“涙”に襲われるすんでのところだったのだ。

「人の死!生きながらにして奇跡に侵され、涙を絞り出しながら乾くだなどと、あまりにひどい。あまりに悲しい。こんなことが許されていいはずがない。おれがお前たちを救済してやろう。さぁ、我が手を取るがいい」

「あ、ありがとうございます」

 たまさか近くにいた連邦兵は、シャーン語で答えると、差し出されたその手を取った。徒人の感覚でも“堅牢王”の巨大な力はそれとなくわかるのだろう、安心と依頼心が綻んだ顔に浮かんでいた。

 “堅牢王”の手から、鈍色の鎖がジャラジャラと飛び出すまでは。

 

 鎖に絡め取られた連邦兵は、悲鳴を上げながら尻餅をついた。“堅牢王”は優しく言った。

「安心したまえ。お前の生命と健康と安全は約束しよう。だから、もう、自由などという危険なものにその身を晒すこともない。お前の心身のすべては、もう、おれの所有物だ」

 なにを言っているのか解らず、連邦兵は全身に巻き付く鎖を引き千切ろうとした。けれど、鈍色の金属でできたそれはびくともしなかった。鎖は手脚を貫き、身体中に潜り込んでいった。そうしている内に抵抗する動きそのものが、縛られたように大人しくなった。

 (ハーヴン)は知っていた。あれは柚子(ユーリス)中佐の“禁止”の螺子とおなじだ。人間の身体になにかするタイプの奇跡はああやって、傷はなく、奇跡的に肉体を突き抜ける。

『あの鎖には触れるなよ』

 老人が言った。

『あれは奴隷狩りの王だ。下手に近づけば奴隷にされるぞ。都市船サダルスードの民族まるごとに枷をかけたこともある<人間イカリ>だ』

「人はみな自由の刑に処せられている」

 “堅牢王”は嘆かわしそうな声で叫んだ。

「自由とは、荒野への追放のようなものだ。自由に生きたために人は死に、傷つく。ならば奴隷のほうがいいとは思わないか。人に飼われることで健やかに生きられるのなら、それがいいとは思えないか?」

 鎖に縛られた連邦兵は答える代わりに呻いた。あたりの人々は悲鳴を上げて緩やかに逃げ始めた。“堅牢王”の放つリソースの存在感は、さっきまでの心強さから恐ろしい脅威のあかしへと変わってしまっていた。

「そうだな。お前たちはいつだってそうだ」

 彼女はため息をついた。そして軽く手を叩いた。

「なら、その哀れで、肥大した、夢見がちな()()()()()をおれが治療してやろう。《増やせ(アンプリフィカー)》」

 “堅牢王”の全身から、あの鎖と同じものが水のように噴き出した。“堅牢王”はさっと手を振り抜きながら続けて宣言した。

「《伸ばせ(エクステンデ)》《縋れ(ハェレー)》《疾走れ(プロペラー)》!」

 次の瞬間、煙のようになった鎖の群れがあたりの全員に襲いかかった。

 非契約者の彼らに逃れるすべは無かった。次々に絡め取られては地に叩きつけられて、藻掻きながら動けなくなっていく。薬を使った獣化兵でさえ、鎖の群れには敵わなかった。

「一体いくつ異物を持ってるんだ!」

 (ハーヴン)は怒り声で叫んだ。あれだけの数の聖異物を同時に並列解放するなんていうのは並大抵のテクニックじゃあないのだ。なにより、うねる鎖の穂先は(ハーヴン)にも向いていた。

諸王(アーセリング)のくせに連邦都市上で暴れるなんて、なんのための盟約だと思ってるんだ。これじゃ敵が増えただけじゃないか!」

 (ハーヴン)はヒステリックに叫んだ。反射面の中で(ゲラック)老が言った。

『【聖鎖ソールス】だ』

「上々、じいさん!」

 (ハーヴン)はさっと鎖を指さし、名前を呼んだ。

「《止まれ(ダイ)》、“ソールス”よ!」

 (ハーヴン)に飛びかからんとしていた鎖は、鼻先から少しのところで宙で止まった。だが、今にもバカーシャの拘束を振りほどこうと身を捩っている。(ハーヴン)は残り少ない奇跡を掻き集めて【聖鎖】へ注ぎ込んでいた。長くはもちそうにない。

「なんとかしろ、じいさん」

『無茶を言いおる』

「役立たずめ」

 (ハーヴン)はとうとう両手を差し出した。バカーシャの契約印の光が明滅しはじめている。ギシギシと鎖の軋む音が聞こえた。

 いや、それはきっと別の音だったのだ。

 

 軋みが大きくなってきていた。あたりが震えている。“堅牢王”も怪訝そうに顔を上げ、あたりを見渡した。

 そして、一面の白い氷に大きな罅が走った。

 その隙間から、鉄砲水のように青黒い“涙”が宙を走り抜け、女の手元を撃ち抜いた。第一級の【聖盤ミラビリス】が欠片を零しながら吹っ飛んでいく。

 そうなるやいなや、純白の霜が音を立てて残らず砕け散った。割れた氷壁の裂け目からはあの青黒い“涙”が溢れ出し、その場にいた彼らへと一斉に牙を剥いた。驚異(ミラビリス)の術が解けたのだった。

 “堅牢王”も、哀れな戦士たちも、怒涛を打ってなだれ込んだ青黒い涙に呑み込まれていく。それは皮膚から染み込んで、じわじわと人を侵すのだ。涙の毒は、人間を滅ぼす歓びに満ちているかのように、喜び勇んで彼らをねぶり、舐め、覆った。

「貴重な第一級を……」

 だが“堅牢王”は慌てることもなく、じっとそこに立っていた。

 捕らえられた奴隷一歩手前たちも、“涙”に沈みながらも無事な様子だった。涙は彼らの皮膚を冒せずに、その手前でうろうろと震えていた。さっきまでのような、触れるものを干上がらせる悲嘆がまったく太刀打ちできていない。

「悲嘆か。人の足を取り、沈め、涙を搾り取るもの。その程度だな」

 “堅牢王”は言った。

「その程度では、おれと……おれの【堅牢奇跡】は破れない」

 《悲嘆(マーツィバ)》は、彼女の身体に傷一つつけられていなかった。鎖で捕らえた人々も巻き込んで、防御の奇跡を使っているのだ。

「自己対象の奇跡かよ」

 鎖を必死に抑え込みながら(ハーヴン)が呟く。その傍らで、(ゲラック)の声がした。

『あれが奴の、守護の<天使>の力だ。自らの護りの力を支配した者たちにも拡張している。あらゆるものを防ぐ絶対防御の力。それに、攻撃用の聖異物とて腐るほど持っておろう』

 “堅牢王”はまさに、なにかしようとするところだった。あの鎖が鎌首をもたげ、今度は“涙”の海に向かってちゃりちゃりと切っ先を突きつける。

「どこのどいつか知らないが、おれの前で人が殺せると思うなよ。こいつらはもうおれのもの、おれの生命だ。だから《堅牢(カシェ)――」

 

 そしてそのとき、【紙片奇跡 ニヤロト】が顔を上げた。

 

 動かないはずだった。皆がそう思っていた。<天使>は、あの光の前では動けなくなるはずだ。(ハーヴン)も、“堅牢王(ザ・ハーデン)”も、思わずそちらを振り返った。

「なんだ?」

 ニヤロトを見つめ、(ハーヴン)は言った。

「なんで動いてるんだよ、さっきまで跪いてたはずだろ。それがあの光の柱の力じゃなかったのか?なあ?」

 (ハーヴン)はガラス面を見た。

 が、奇跡はもう途絶えていた。セレムの奇跡が力尽きたのだ。

 (ゲラック)との通信は使えない。(ハーヴン)は苛立たしげにニヤロトに向かって言った。

「何を見てるんだ」

 紙の<天使(マラーク)>は首をもたげ、あの光の柱を見つめていた。跪いたまま止まっていたはずのその動きに、なにか嫌なものを(ハーヴン)は感じていた。

 畏れ多い。

 

 そのときニヤロトの頭上に浮かぶ《円環》が回転数を増し、揺らめいたかと思うと、甲高い音とともに光の粒子に変わって、弾け飛んだ。

「あっ……」

 (ハーヴン)は思わず声を上げ、ニヤロトを指さした。

 最後に光の柱へと向かって、頷くように、まるでなにかを《肯定》するかのように頭を動かすと、<天使(マラーク)>はゆっくりと軋みながら立ち上がった。その背で翼が屹立し、電気のような光を帯びて膨らみ始める。眼の燐光が燃え上がり、人間たちを睨む。

 色が褪せていく。<天使>の身体がくすんで、どこか遠いような色に変わっていく。

「我を失ったのか」

 <天使(マラーク)>は……否、その“野良”は、光の翼を拡げると、宙へと浮き上がった。もはやそこに(ニア)の、<人間イカリ>の自我は欠片ほども遺されてはいなかったのだった。

 

 ◆

 

 ■ユディト軍港付近 白の廃墟(ヴィトー)

 

 アゲハは白亜の街の上に立って、眼下の惨状を見下ろした。

 青黒い“涙”の海が、薄く、しかし力強くすべてを覆っていく。カビみたいだな、とアゲハは思った。もしくは苔だ。じわじわと増殖して広がっていくその有り様が。

 その増殖に、悲鳴を上げながら飲み込まれていくものたちには、アシタも連邦もなかった。みな平等に足を取られ、肉体を食い破られ、水に溶け落ちていく。

「なんだ、これ」

 アゲハはぞっとして立ち尽くしていた。

「これも誰かの起こした奇跡なのか?」

 だとするなら、あまりにそれは大きすぎた。人間が使える力の範囲を超えている、そんな気がした。こんなのは、人の手に余る力だ。

 なにより、光の柱へと向かって荘厳に立つ十体の<天使(マラーク)>の姿が、不気味だった。それは恐ろしかった。人間味に欠けていたからかもしれない。眼窩からとろとろと“涙”を零し続ける彼らは、一度たりとも微動だにしなかった。

 その頭の上に《円環》がなくって、代わりに背中の翼が光に変わっているのを、アゲハは怪訝そうに見つめた。

 

「惨劇だね」

 そのとき、後ろから声がした。

 アゲハはゆっくりと慎重に振り向いた。どのみち、もうほとんど動けなかったのだ。頭がガンガンと痛み続けている。

 アゲハにそれをやった張本人のタカが、背後に立っていた。

 だがしかし、彼はアゲハのほうになにかするでもなく、人間の姿で、穏やかに壁の縁まで歩いてきた。清々しい足取りだった。タカは背後から照りつけている、あの光の柱をちらっと振り返ってから、独り言みたいに言った。

「あの光の柱は、<天使>になにかしているんだ。能天使系統は肉体を<天使>に近づけるすべだから、変身を解いてやれば……ただの人間に戻れば、普通に動ける。もっと早く気づくべきだったな」

「……しつこいな、あんたも」

 アゲハは敵意を込めて剣をふらふら構えた。だが、タカはそっちを見もしなかった。

「ああ、もういいんだ」

 タカは静かに言った。

「もういいんだよ、そういうのは。君と戦う気はないよ。まあ、戦いにすらなっていなかったが」

 タカは深く、深くため息をついた。

「もう疲れたんだ」

 光のない瞳でのたまうタカを、アゲハは睨みつけた。その手が遠くで“涙”に飲まれていく者たちを指した。

「あれはそっちの仲間だろ。アシタ人は同胞なんだろ?なんで助けに行かないんだ?ここでそうやってぼうっとして、なんでそんなに落ち着いていられるんだ!戦争まで始めておいて、おれを捕まえに来ておいて!」

「それを君が怒るのか?」

「当たり前だ」

 アゲハはふらつきながら唸った。

「あの青いあれだって、あんたたちの兵器かなんかだろ」

 タカは笑っていた。破滅的な笑みだった。

「あれは“野良”だよ。<人間イカリ>なしで動いている<天使>さ。あれには契約者は()()いない。<天使(マラーク)>そのものだ」

 タカはちょっと言葉を切って、首を傾げた。

「だが、そうとも、確かに僕らが連れてきたものだ。こんなはずじゃなかったんだけどな」

 

 そして、タカは突如激昂した。

「そう、こんなはずじゃなかった!僕らは勝つはずだった!ユディトを落とし、君の神話級を手に入れ、連邦を滅ぼす、そのはずだった!」

 その怒りは嘘臭かった。怒っている人間ならみんなこうするだろう、という演技を見ている感じがした。たぶん、そういう普通の怒りとは違う、やり場のない、名前もない激情がドロドロと胸の内で燃えていたのだ。それは声を荒げたり、路傍の石を蹴り飛ばしたりしても、決して消えるようなものではなかった。

「……この光の柱が出てきたときから、おかしいと思っていた」

 タカは萎むように気炎を収めた。

「こんなことは計画になかった。“野良”の投入はもっとあとのはずだ。あの光の現象のことなんか、誰も知らなかった。これは、きっと<黙示録(アポカリプス)>の仕業だな」

「<黙示録>?」

「あぁ」

 タカはアゲハに向かって言った。が、その喋り方はやっぱり壁に話しかけているみたいだった。眼差しも噛み合わなかった。

「彼らと取引したんだ。戦うなら、力を貸すって。その通りだった。彼らは武器を、知識を、資金をくれた。軽すぎる取引だった……」

 タカは話し続けていた。

「始めからわかっていたことだ。怪しすぎる連中だった。<黙示録(アポカリプス)>が僕らを助けることに意味なんかあるはずがない。他の、隠された目的があるに決まってる。それは分かっていた。取引をするべきじゃなかった」

 タカは言った。

「それでも手を取るしかなかったんだ。僕らには選択肢がなかったんだから」

 仕方がなかった。そうするしか道がなかった。そういうことはよくあるものだ。物事はなるようにしかならない。

「人には居場所が必要だ。生きる場所がないなら、せめて死に場所が必要だとは思わないか?」

「じゃあこれが、あんたの望んだことだったっていうのか」

 “涙”があらゆるものを呑み込んでいく。見渡す限り、青黒い悲嘆の色に染まっていく。

「これが。こんなことが。こんな、人の命をもてあそぶようなことが!」

 アゲハは血の混じった声で殴りつけるように叫んだ。だが、タカはもうそんなことに心を動かされるほど瑞々しい精神状態ではないようだった。

「人殺しを始めておいて、ちゃんと()()をやろうともしない!あんたは結局、何がしたかったわけ?」

 手応えのなさに苛々しながら、アゲハはそう尋ねた。タカはそこで初めて、驚いたような、悲しんでいるような顔でアゲハを見返した。

「僕……僕かい?決まってるじゃないか。アシタ皇国の再建だとも」

 タカは言った。だが、その顔は不思議そうだった。

「……いや、うん、そうだな。そのはずだったんだけれど。でも、ただ、縋るものが欲しかったのかもしれないな」

 タカは首を傾げながら、自分の掌を眺めていた。勿論そこになにか手がかりになるようなものがあるはずもなかった。アゲハは不快そうに顔をしかめていた。

「あの国が正しかったと、あんたは本気で思ってるのか」

 まるで今にも炸裂しそうな爆弾を腹の中に抱えているような顔で、アゲハは背を屈めて言った。

「あの国がわざわざ作り直されるべきほどのものだと、本気で」

「君はそう言うだろうね」

 タカは呟いた。

「けれど秩序は必要だ。まさか、この世の人間ぜんぶが幸せに暮らせる楽園がどこかにあると思ってるのかい?ありえないよ。多少、割りを食うものがいたって仕方ないだろう。それが国だ。秩序だ。大義なんだよ」

 タカはそうつらつらと述べたが、どこか腹落ちしないようすだった。それは誰かの言葉、誰かの理想であって、タカのものではないような感じがした。

 

「君の方こそ、何がしたかったんだい?」

 タカは問うた。アゲハはそれをキッと睨み返して口を開いた。

「おれは自由になりたかった」

 アゲハは言った。

「でも、力があっても、どこかへ行けても、追われてるのならそれは繋がれてるのと一緒なんだ」

「自由か。自由なんてたちの悪いまやかしみたいなものさ」

 タカは吐き捨てるように言った。

「望むままの可能性に溢れた未来っていうのは、たいがいの人間にとっては重荷なんだ。手に余るのさ。罰みたいなものなんだよ。自分がどんな人間か、残らず自分で決めなくちゃならないんだからね。その可能性こそ力そのものだ。大きすぎる力は人を不幸にする」

 タカは苦々しい顔で、自分のうなじの紋章を撫でた。アゲハも左手の中にあるしるしを握った。

「そうだよ。<天使>と同じだ」

 タカは頷いた。

「王と同じだよ。おのれの、世界の、その理想を追い続けるのは、苦しい。だから珍しいんだ、大器を持つ人間というのは。おのれの強い願いに耐えられる人間は」

 光を背にしたその顔は、濃すぎる陰影のせいで、病んだような影を帯びているみたいに見えた。それはひょっとしたら、彼の気持ちにぴったりと合うものなのかもしれない。

「僕は疲れた」

 タカは零した。

「疲れたんだ。疲れた……アシタ皇国をどうにか取り返そうとして、いつの間にか、こんなところまで来てしまった。もういいんだ。理想を追いかけて君と戦ったりはしない。するつもりはない」

 タカはふらふらとアゲハに歩み寄り、息がかかるほどのそばで、その瞳に向かって言った。

「君だってそうだ」

 その言葉には嘲るような笑みが滲んでいた。

「君もいつか僕みたいになるさ。自由を持て余すようになる。自分の望みとはまったく違ったものになる。成り果ててしまう」

 にやにやと、タカはアゲハの顔を覗き込んで言った。

 

「かつてアシタで()()()()()()()君ごときが、本当に王とやらになれるものか、楽しみにしているよ」

 

 アゲハはなにも言わずにただ黙っていた。その目はしかし明瞭に、反骨心を湛えてタカを向いている。タカのほうは、感情の褪せたような顔で話し続けていた。

「意志は力だ。わかるだろ。力はまさに諸刃の剣だ。呑まれれば、扱いきれなかったら、そのときそれは簡単に呪いに変わる」

「知らないよ、あんたのそんな小難しい理屈なんか」

 吐き捨てるアゲハに、タカは言った。

「大きすぎる力はその身を滅ぼす」

 それは、きっと別のことについてもそうだったのだ。たとえば、力の筆頭……<天使(マラーク)>についても。

「なぁそうだろう、ラーシュ。ラーシュ」

 タカは天を見上げ、ふっと名前を呼んだ。

「来い、【喧騒奇跡 ラーシュ】!」

 その言葉を言うやいなや、タカの頭上に光が灯った。

 

 やっぱりか、とアゲハは身構えたが、さっきから彼自身の言う通り、タカにはもう戦意などなかった。<天使>を呼んだのは戦いの為ではなかったのだ。

 タカの肉体が、少しずつだが光の粒子にほどけ始めていた。“同化”が始まったのだ。それが立ち昇る先には、空に開いた裂け目が、その向こうにいる大きななにかが、少しずつ降臨してきている。

「……<天使(マラーク)>は偉大な存在だ」

 タカはぽつりと言った。

「天上のものなんだ。だから、その力をこんなふうに地上に繋ぎ止めておくのは簡単じゃない。君だって本当は分かっているんだろう?“同化限界”は同化してられる限界じゃない。()()()()()()()()()()限界なんだってことをさ」

「何を」

 アゲハは光の眩さに顔を手で覆い、タカを見つめた。(ページ)の言っていたことが脳裏でリフレインしている。

 奇跡は、棄てることで強められる。

 タカはあぶくみたいに曖昧な言葉をこぼし続けていた。

 

 

「僕らは(アンカー)なんだよ。イカリなんだ。天上の<天使(マラーク)>を、人間の世界に繋ぎ止めておくための。だから、だから……だからこそ<人間イカリ>っていうのさ」

 

 

 オレンジ色に縁取られた<天使>が、空から降りてきた。頭は三角形で、爪先は尖っていた。鋭角で俊敏そうな印象を与えるその体躯は、やっぱりタカの変身した姿に少しだけ似ていた。

「イカリを投げ込んだ水面(みなも)には、丸い波紋が立つものだ」

 そして、タカの<天使>ラーシュの頭上へ、丸い《円環》が灯った。それは白く細い光の環であった。

 いよいよ光に溶け去りながら、タカは呟いていた。

「これは偉大なる引っ張り合いなんだ。イカリが負けてしまえば、人間は一気に<天使>の(サイド)へ引き上げられてしまう。もう人間ではいられなくなる。人間は天に属さないんだから」

「まさか、あんたは」

「<天使(マラーク)>は捨てることで強くなる」

 光に溶けながら、タカは言った。

「僕は、僕を棄てるよ。……“我、我が身を捧ぐ”」

 その瞬間、彼の身体はざわめく光の粒子になって<天使>の心臓へと吸い込まれていった。

 ラーシュの瞳が生気を得て発光し、その頭上で《円環》が燃え上がる。

 そして、《円環》は光の塵になって爆発した。

 背の翼が持ち上がり、稲妻みたいな光を帯びたかと思うと、五本の光になって空へ伸び上がった。背後では、あの巨大な光の柱がとろとろと燃えていた。<天使>ラーシュの身体は色を失い、遠く褪せたように変わっていった。

 我を失ったのだ。

 もうそこには、タカの自我は無かった。彼の名前はその心臓のどこにも無かった。一体の“野良”能天使(エクスシア)だけが、天へ向かって翼を広げていた。

 それはゆっくりと動き出した。足元のちっぽけなアゲハなんかには目もくれずに、白い廃墟をあとにして、都市船ユディトの中枢部へと向かっている。その動きに明瞭な意志なんかは感じられず、ただ、死んだように歩いているだけだ。

「それがあんたの結論か」

 アゲハは言った。

 どうしようもなく嫌な気分だった。アゲハは“野良”の翼を睨みつけ、吐き捨てた。風に煽られた髪の内から、欠けた耳が覗いていた。

 

「おれは、あんたみたいにはならない」

 

 To be continued…

 

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