<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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第二十七話 その椅子の前で踊る

 □一週間前 香油の航路(ロ・ゲィユ)上空

 

 風がウンウンと鳴いている。

 飛空艦(カルラ)の装甲板を叩く貿易風(フォン・バラーク)のその低い唸り声を聞きながら、柚子(ユーリス)中佐は分厚い窓の外に目をやり、そして高らかに言った。

「入りたまえ!」

 薄っぺらい鉄の扉を押し開けて、入ってきたのはシラヌイだった。彼はいつも通りの楽しげな顔で頭を掻いた。

「いや、すンません、昼飯を食ってたら遅れて」

「まず階級と所属を述べなさい」

 中佐は椅子に腰掛け、いかめしい様子で言った。シラヌイは姿勢を正した。

「はっ、曳航連邦軍特務課所属、二等兵のシラヌイです」

「最初からそうしておきたまえ、品位のない亜人ならばせめて」

 中佐は息を吐くように侮蔑のことばを述べると、手元の手帳にやたら細長い(ウロコ)ペンを構え、インク壺を引き寄せた。

「さて、君を呼びつけたのは情報収集のためです。今回の標的はアシタ人の少年ですから、同じ蛮人の一族のことなら蛮人に尋ねるのが道理でしょう?違いますか?」

 シラヌイはニコニコしながら頷いた。

 いっそ、奇妙だった。この若者が激昂したところを中佐は見たことがない。普通なら、悪口を言われて不快に思わないものなどいないのに。ちらっとでもそういう、怒りとか、恨みとか、そんなものがシラヌイの顔に走るのではないかと思って、柚子(ユーリス)は目をやったが、無駄だった。

 まあ、それならそれでいい。挑発しているわけではない。

 教えているだけだ。人間の定義を。この国の思想を。

「では尋ねましょうか。アシタ皇国とはどんな国だったんです?」

「あ、そういう話ですか。だったら大佐とかも呼んできましょうか?いちいち共有するよりそのほうが早いでしょう」

「彼に共有などしなくて結構!」

 中佐はいらいらとペンで帳面を叩いた。黒いイカの墨が点になって飛んだ。

「君はただ、僕の質問に答えればいいのです。偽らず。さあ、アシタ人の習性とはどんなものだったんです?」

 柚子(ユーリス)は、アゲハを罠にかけたかったのだった。そのために、シラヌイの話は必要だった。彼が知っているアシタ皇国は、文献の中にある遠い異国、野蛮な亜人たちの国だったのだから。

 シラヌイはそこで初めて真剣みのある顔に、やや近づいて、言った。

「知りたいんですか?」

「知りたくないのにものを訊く人間がいると思うんですか?思わないでしょうね。思わないのにそんなことを口に出せるその神経が愚鈍なのです。僕は馬鹿が嫌いです。わかったらさっさと答えたまえ」

 そう、今にも舌打ちしそうな中佐の顔に向かって、シラヌイは所在なさげに立っていた。椅子が欲しそうだったが、中佐は勧めなかった。こんなやつの尻に座られる椅子が可哀想だ。

「早くしたまえ」

 

「アシタは、厳格な身分制を敷いていた国でした」

 シラヌイは言った。

 魚のような金色の瞳が、不気味な輝きをもって中佐を見ていた。シラヌイは笑顔のまま続けた。

「三族制などと呼ばれるものです。祭祀階級たる貴族、戦士階級たる士族、そして奴隷階級である卑族。この三つの身分がアシタ皇国の根幹だったんですよ」

「……どう違うのです?」

 中佐は尋ねた。シラヌイの訛りは、少しだけキツくなっていた。彼は両手で三角形みたいなものを宙に描いた。

「簡単ですよ。王族を頂点において、そこから離れていくほど()()()()()んです」

「穢れている?」

 中佐は尋ね返した。そぐわない言葉に聞こえたからだ。だが、シラヌイはべつに言い間違いをしたわけではなかった。

「アシタ人はものを清浄と穢れに分けてました。この世でもっとも清いのが王の血族です。その他の氏族になればなるほど穢れていく。そして、この上なく穢れた者たちが卑族……“赦されざる氏族”になる。貴族や士族はまだ人間ですしお互い婚姻もできますが、しかし卑族らはまともな扱いを受けないというわけです。まぁ、国をあげて護ってきた幻想ですよ」

 シラヌイはへらへら笑った。

「幻想だ。そうでしょう?生まれで清いだの穢れているだのって、そんなものあるわけがない。あるわけがないけど、とても都合が良いんですよ、国を治めるのにはね。そういう幻想をみんなが持っていて、認めていて、従っているってことは、国がひとまとまりになってるってことなんだから」

 外の風がひときわ大きな叫び声を上げた。

「始めはそのためのシステムだったろうただの方便を、みんな、何百年か経ったら本気で信じるようになってしまった。王族の眼をまともに見つめたら、その清さのあまり目が潰れる、とかね。大真面目に頭を下げて、少しでも清浄に近づこうとして、こぞって王族へ忠誠を捧げた。卑族を虐げた。清浄を尊ぶことと、穢れを滅ぼすことは同じことだから」

 シラヌイの言葉を、中佐はせせら笑った。

「いかにも野蛮人ですね。生まれで同胞を差別して見下すだなんて。非合理的な思想に囚われている」

「そうスね」

 シラヌイは軽薄に言った。

 そのとき、人懐っこい、笑顔を欠かさないシラヌイの顔に、わずかに冷たいものが浮かんだような気がした。それは怒りや悲しみみたいなありきたりで純粋な感傷ではなかった。もっと複雑で、込み入っていて……

「その、なんでしたか、卑族とやらの目印は?なにかあるんでしょう?奴隷には首輪をつけるのが普通だ」

 中佐は尋ねた。シラヌイは懐に手を無造作に突っ込んで言った。

「生まれたときに耳を刻むんです。欠けた耳が、卑族の証ですよ」

 そういったシラヌイの耳には、傷一つ無かった。シラヌイは眉を持ち上げた。

「わかりやすいでしょう?」

 

 ◇◇◇

 

 ■現在

 

 青黒い“涙”は、軍港から川を超えて叉路街へと襲いかかるところだった。ほんとうの水の上を《悲嘆(マーツィバ)》が、油みたいにつうっと滑っていく。

 シラヌイはため息をつき、()()から這い上がった。小高い街の上からは、“涙”に沈んでいく街の階層がよく見えた。

『ユディトはもう終わりかもなあ』

 これほどの奇跡災害にあったのでは復興は難しいかもしれない。シラヌイは鱗に覆われた頭を振った。思い出したからだ。アシタ陥落の凄惨な日を。

 

 その頭を、骨で作られた矢が貫いた。

 貫いたのは確かだったのだ。だが、シラヌイはゆっくりと後ろを振り向いた。魚のような頭には傷一つ無かった。

 そして、木の葉のような短剣を構えた戦士がその頭上から飛びかかった。

『連邦のイヌめ!』

 いきりたつアシタ人たちの一団が武装を振り回しながらシラヌイに襲いかかる。重たげな武器は、殆どが本物の鉄や石だった。

 鉄は海からは採れない。地に属するものだからだ。全世界が海に沈んだこの時代では、ほんとうの金属を使うことは大変に貴重な行いだった。その刃は、人を傷つけるのに十分な鋭さと重さを備えていた。

 シラヌイには無意味だったのだが。

『俺相手にそんなことやってる場合かね』

 シラヌイは肩を竦め、爪を軽く噛んだ。

 その途端に、ヌンの奇跡が跳ねた。

『《遊泳(ヌン)》』

 左手を広げ、腰を落とす。地へ踏み込んだシラヌイは突き出される相手の剣とすれ違うように、その鎧の腹へ掌底を突きこんだ。

 左手が鎧へ波紋とともにめり込み、戦士は身体をくの字に折って崩れ落ちた。背後からシラヌイへ斬りつけた刃も、足を薙ぎ払った棍棒も、水音ともにあえなくすり抜けてしまう。

『おれの<天使>は“(ヌン)”だからね』

 シラヌイはアシタ語で言った。

『ものを泳ぐ。剣も鎧も、水と同じだよ』

 戦士たちは弾かれたように止まった。

 それは自分たちと同じことばだったからだ。

「若きものよ、貴様、同胞(はらから)か。どこの氏族だ」

 年老いたひとりが牙を剥く戦覆いを外し、皺だらけの顔を顕にした。この一団の長なのだろう。シラヌイもまた身をゆすり、《変身》を解いた。人好きのする人間らしい顔が現れる。ただ、その瞳だけは魚のままだった。青白い金色の瞳で、彼は戦士たちを見つめた。

「どうした、なぜ名乗らぬのかね――」

 老いたる戦士はそう言いかけて、はっとシラヌイの顔を見つめた。なにかに気づいたみたいに。脳裏の記憶を探るその顔が歪み、はっきりとした確信とともに引きつる。

「まさか」

 シラヌイは黙って微笑んでいた。後ろにいた戦士が、これも戦覆いをずり下げて叫んだ。

「どうした。ハマヒルガオ殿が尋ねておられるのだ、いらえをしないか」

「やめんか馬鹿者!」

 ハマヒルガオと呼ばれた初老の男はその戦士を叱り飛ばし、必死の形相でシラヌイの顔から目を外した。埃が立つほどの勢いでしゃがみ込み、額を地につける。その有り様は、あの光の柱の前の<天使>たちに滑稽なほどそっくりだった。唖然としている戦士たちに向けて、彼はわなわなと叫んだ。

「なにをしておる、ひれ伏すのだ!早うせぬか!」

「しかし長よ、なぜです。このものがどうしたというのですか」

 ハマヒルガオは答える暇も惜しいと言わんばかりに、不服を唱えた戦士の膝を掴んで引きずり下ろした。その形相に、他の者達もおずおずと膝をつく。

「申し訳ありませぬ、まさかこのようなところにいらっしゃるとは思いもよらず」

「気にするなよ」

 シラヌイはへらへら言ったが、ハマヒルガオは咳き込みながらなおも言い募った。 

「あまりの不覚、あまりの不敬、本来ならば我が血を以て清めるべきところをどうかお許し下され。火急のことにありますゆえ」

 シラヌイはニヤッと笑い、その頭を見下ろした。

「にしてもよくわかったね。おれが()()だって」

「一度、遠目にお見かけしたことがありまする。それにその“(ヌン)”の能天使(エクスシア)、気づいて然るべきでありました」

 ハマヒルガオは叫んだ。

 

「アシタ皇国が第四皇子、シラヌイ親王殿下」

 

 その言葉を聞いた途端、その場の皆が今度こそひれ伏した。戦士たちは顔を地につけ、こすり取らんばかりに平伏していた。目を合わせれば、あまりの清さに目がつぶれると言う。

 シラヌイは困ったように笑った。

「昔の名だ」

「畏れながら、御身の清浄は変りませぬ。国家再建の場に御身が居られますこと、まさに僥倖。運命の采配にございましょう」

 シラヌイは首を傾げ、自分の目を薄く撫でた。

 魚のような金色の瞳が褪せ始めた。焦げ茶色に近づいていき、瞳孔が丸くなり、そして瞬き一つでほんとうのシラヌイの瞳が現れる。

 それは血のような、または炎のような真紅の瞳だった。

 

 紅い瞳でハマヒルガオを見下ろし、シラヌイは尋ねた。

「ここに来ているのはお前たちだけか?残党軍の規模は?」

「さほどのものではございませぬ。第三軍の残りと避難船二隻ぶんとの頭数が合流した程度でありまする。然しながら、<黙示録(アポカリプス)>と名乗る者たちによりまして支援は手厚く」

「ああ、やっぱりあの秘密結社か」

 シラヌイはため息をつき、そして背後を指さした。

「で、あれは何だ?」

 そこではちょうど、川の塔を“涙”がへし折りながら引きずり込むところだった。

「お前たちがやったのか?」

「分かりませぬ。我らの目論見とは外れております。奇跡ではありましょうが。オオタカヒコどのが“野良”投入を早めたのやもしれませぬ」

「“野良”の投入とはね」

 シラヌイは天を仰いだ。心底呆れたものはこうするだろうという、演技っぽいしぐさだった。

「まあ、いいや。お前たちの計画はどうだったんだ?軍港の式典狙いで動いていたのか?」

「はっ、曳航連邦軍を無力化したのち、ユディト中枢部を落とす予定にございましたが、あいにくこの正体不明の現象により兵も混乱しております。あの青い波、そしてなにより……」

「あの光の柱か」

 シラヌイは肩越しにそれを振り仰いだ。これほど遠くにいてもわかる。能天使(エクスシア)系統にとっては特にそうだ。あれが特別で、奇妙で、普通ではないことがわかる。

「じゃあ、お前たちもなにも知らないんだね?」

「我が身の不出来に申開きのしようもなく……」

「いや、いや、いいんだよ。お前たちさ、もういいんだ。とりあえず落ち着いて、そうだ、そこに立ってくれるかい」

 シラヌイは朗らかに言った。

「もう少し……そう、その位置がいい。ちょっと動かないでいてくれよ」

 

 そう言ったシラヌイの腕が、銀色に閃いた。

『《游泳剣(ヌン・へレヴ)》』

 甲高い音がして、戦士たちが血と臓物を吹き出しながら崩れ落ちた。シラヌイの幾重にも突き出した鋭い鱗が肉をえぐり、腹を削ぎ取ったのだ。異様に伸びた腕を引きずりながら、シラヌイは言った。

「ひとり残ったか」

 ハマヒルガオだけは咄嗟に剣を抜いてそれを受けていた。無意識だったのだろう、自分でも驚いた顔をしている。白い髭を蓄えた彼は、呆然とシラヌイの胸元あたりを見やった。

「なぜです」

 足元で呻きながら死んでいく仲間たちを見回し、ハマヒルガオは叫んだ。

「なぜこんなことを」

「おれの奇跡はものを泳ぐ力のはずなんだが」

 シラヌイは腕の変身を薄めながらどこ吹く風で呟いた。

「なんで受けられた?あぁ、(つるぎ)が特別なのか。聖異物(アロトリオ)だな」

「何故かと問うておるのです、殿下!」

 いきりたつハマヒルガオへ、シラヌイはそこで初めて目を向けた。

「なぜかって、そりゃあさ――」

 シラヌイは血を踏み、爪を噛み、勢いよくハマヒルガオに近づいた。瞳が金に染まり、身体が鱗で覆われていく。

『――おれはもう、特務兵だもの』

「嘘ですな」

 ハマヒルガオは血を零しながら言った。

 その腹を、シラヌイの無造作な貫手が刺し貫いていた。赤いものを吐きながら、老人はぶつぶつ言った。

「あなたは、そんなことどうでもいいと思っておられる」

『ご明察。やっぱり年の功だね。人を見る目には一日の長がある』

 シラヌイははらわたを掴んだまま頷いた。

『最期に言い残すことは?』

「あなたは、清きアシタを率いるべき血筋のおかた……どうか」

『くだらないよ』

 シラヌイはハマヒルガオを突き飛ばし、乾いた口調で言った。

 

『心底くだらないよ。血とか王とか誇りとか、そういう時代遅れのものにしがみついていたからアシタは滅んだんじゃないの?幻想なんだよ。人間に貴賎なんてないんだ。平等に無価値で無情なのさ』

 足元にすがる死体どもを見やって、シラヌイは笑った。

『言ったろ、おれは連邦の特務兵だもの。見たことある?曳航連邦はすごいよ、空飛ぶ船に強い銃、それに<人間イカリ>もごまんといる。今はこっちのほうが面白いんだ。黴臭い王権ごっこなんかもう飽きちゃったや』

 だが、ハマヒルガオ老はもう事切れていた。シラヌイはため息をつき、変身を解きながら独りごちた。もちろん、真紅の目は隠したまま。

「さて、“アゲハ”はどこにいるのかな?」

 

 ◆

 

 ■交差都市ユディト 白の廃墟付近

 

 大佐は懐から銃を引き抜き、眼の前でのたうちまわる“涙”に撃ち込んだ。いくつもの手の形が起き上がっては手招きをし、崩れ落ちてどろどろ流れてくる。形のない銃撃はそれをえぐり飛ばし、飛び散ったしずくを蒸発させたが、いささかやり方がせせこましかった。

「何をしておられる?」

 親衛隊のひとりが後ろから問いかけた。

「あまり効いているようには見えませんが」

「そうだな」

 大佐は苦々しげに言った。

「この丘の上に登りたいんだ。丘と言っていいのか知らないが」

 たしかにそこは、朽ちて崩れた都市遺跡が小高い丘のようなものを造っていた。あたりは晒した骨みたいに白かった。その上を青黒い“涙”が、勢いは弱々しかったが、やはり侵食してきていた。

「……いかん、いかんぞ。指揮を取るのは私だ。連邦軍のきみは、少し黙っていてくれないか」

 部下に支えられながら、“雄牛”の男は力なく言った。まるで手足が萎えてしまったみたいだ。光の柱に近づくにつれ、彼はどんどんと具合が悪くなるようだった。

 大佐はそれを興味深げに見つめた。

「しかし、その有り様では難しいでしょう」

 大佐は言った。

「あなたは能天使(エクスシア)ですね?変身の解除はできないのですか」

「これでも解除している」

「なるほど、では、変身しすぎましたな。若き日の勲章というわけですか」

 大佐は男の額にある角を見て言った。男は息も絶え絶えに呟いた。

「あの光だ。あの光はなにかおかしい。きみはなんともないのか」

「私は<人間イカリ>じゃない。たぶん、その症状は、あなたが能天使系統だからでしょう。純粋な人間ではないからだ。いっそお帰りになったら如何ですか」

「ふざけるな。姫殿下のご期待を裏切れるものか」

 親切で言っているのに。大佐はため息をこらえ、あの女性はそういう献身に理解を示すタイプではないと思いますよ、という言葉を喉の奥にしまった。その後ろでは、青黒い腕が鎌首をもたげるところだった。

「あぁ、実に邪魔だな」

 大佐は吐き捨てると、指を鳴らした。

「《巻け(ロタ)》」

 コートがはためき、襟で牙の印が開いた。みどり色の風が渦を巻いて、大佐の突き出した掌からあふれ出した。

 青黒い“涙”が吹き飛ばされ、散り散りになって飛んでいく。頬に張り付いたひとしずくを引き剥がしながら、大佐は歩を進めた。

「やはり、本体から離れると力を保てないらしい」

 手の中で仄暗い光に崩れていくそれを投げ捨てて、大佐はずかずかと歩いていった。ユディト親衛隊の少しばかりと、吐きそうな顔をした“雄牛”の契約者がそれに続いた。

「きみ、何を探しているのかね」

「ご無理はなさらずに」

 大佐は足元を薄く覆う《悲嘆》を踏みつけにし、丘を登った。ねばつくそれは靴を重くしていたし、あたりに広がる骨のような瓦礫は尖っていて歩きにくかった。唯一の救いは、この少人数相手に“涙”の凶暴性も量も少なくなっていることだった。人口密集地を目指しているのだ。

「……“扉”の少年は、人を襲う動きだと言っていたでしょう」

「ああ。忌々しくも、今頃になって戻ってきたあの家の――」

「私はそれに心当たりがあるのですよ」

 大佐は遮るように言った。

「人を襲う動き。人と人の作ったものを襲う本能を持っているもの。私はそれを知っている。あなただって知っているはずだ」

「何がいいたいか、わからないな」

「そうですか」

 大佐は丘の上にたどり着くところだったので、空返事をした。後ろから、“雄牛”の男もぜえぜえ言いながら顔を出した。

「なにが見えるというのかね!」

 

 大佐は黙って舌打ちした。

 予想が当たった。当たってほしくない予想が見事に当たったのだ。

 十体の【悲嘆奇跡 マーツィバ】は、じっと光の前にいた。こゆるぎもせず、ただ、空へ登る光の柱を拝んでいる。その背には光の翼が手のように広がり、同じように空を目指していた。

「<天使(マラーク)>」

 誰かが言った。そして、それがただの<天使>でないことは誰の目にも明らかだった。

「しかし、《円環》がない」

「光の翼だ。翼をひろげている」

 後ろで口々に言うものたちを無視して、大佐は言った。

「やはり“野良”か」

「ばかな!」

 “雄牛”の男は掠れた声で叫んだ。

「“野良”が地上に現れるなど。あれは、あれは、海に属すもののはずだ。なぜだ」

「あり得ないと?」

「そうだとも。洋上なら分かるが、ここはもう、都市船ユディトの、内陸部だぞ。なぜ“野良”が、こんなところに、い、いるというのだ。そんな馬鹿げたことが、そうそう、あるものか」

(<黙示録(アポカリプス)>)

 大佐は嫌な予感を捨てきれなかった。

(もし、どうだ?<黙示録(アポカリプス)>が<天使>についての知られざる知識を保有しているなら。野良を遣うこともできるかもしれない。あり得ない仮定かもしれないが。<人間イカリ>を禁忌とし、<天使>との契約を罪とうそぶく彼らがそんなことをするのか?だが、同じ場所でこうも重なるのがただの偶然だと言えるか?)

 そのときだった。

 野良の一体が埋まったような首を胴ごと回し向け、彼らを見た。とめどない涙を流す虚ろな眼窩が、見えているのかいないのか、とにかく彼らのほうを向いたのだ。

 大佐は慌てて叫んだ。

「下がれ、早く」

 自分も後退りをしながら、彼は言った。

「丘を下るんだ」

 だが、そのとき、大佐は右手に持っていた銃をさし上げてしまったのだ。

 掲げられたそれを見た途端、野良が吠えた。

 残りの野良たちも大佐のほうに目を向けた。大佐ははっと気づいて、銃を投げ捨てた。始末書ものだ。

(銃に反応したか、くそっ)

 水位が上がり始めた。港の方に向いていた《悲嘆(マーツィバ)》が戻ってきたのだ。荒ぶる涙の波がぐわんと揺れ、一丁の銃へ襲いかかって粉々にすり潰した。

「失態だな」

 大佐は叫ぶと、指環を嵌めてコートの裾を軽く叩いた。

「《巻け(ロタ)》そして《隔てよ(エクスペッレ)》」

 その瞬間、物理結界が風を受けた発電帆のように大きく膨れ上がって、“涙”の大波とぶつかりあった。足元では結界に切断された“涙”が身を捩って消滅していた。

「おお、流石」

「安心するのは早いですよ」

 大佐は不快そうに言った。

 指環がカタカタ震えていた。物理結界にヒビが走っているのが微かに見える。【聖套テンペストゥス】の力で無理に拡げたせいだ。結界面に吹きすさぶ風のおかげでギリギリ保っているが、所詮、聖異物では<天使(マラーク)>には押し勝てない。

「だが、やはり弱点は切り離しだ。やつらは主天使(ドミニヨン)じゃない。一瞬でも吹き飛ばせれば、この忌々しいドロドロも消滅させられる。誰か、あれに大きいのを一発撃ち込んでやれれば」

「無理だ」

 雄牛の男は地面に手をつきながら言った。ほとんど吐いていた。

「そんな大仰な奇跡、そうそうあるものではない。私には無理だ。わ、私は、逸話級なんだぞ」

 大佐は必死で聖異物を制御しながら、懐を探った。

 奥の手はある。使いたくはないが……そうも言っていられるような余裕のある状況ではないかもしれない。

「本当に無理なのか?」

 大佐は叫んだ。

 返事はなかった。走り去っていくものもいた。無理もないが、これが決壊したらたとえ全力で疾走しても逃げ切れはすまい。

(仕方がないか……なんという屈辱)

 大佐が懐のものに手をかけた、そのときだった。

 

 オレンジ色の火が膨れ上がった。

 ついで遺跡が沈み始めた。どろどろと、白い骨のような丘が高さを失っていく。その表面を炎が炙り、“涙”を蒸発させて粉々に吹き散らした。

 物理結界が一瞬だけたわんだかと思うと、本体の【聖環】ごと断ち切れた。【聖套】も苦しみもがくようにバタバタはためいた。途端にものすごい轟音が聴覚を吹き飛ばし、殴りつけるような強風がその場にいた全員を打った。

 “涙”は悲鳴のような音を上げて、無数の手の形になって立ち上がった。すかさず次の攻撃がその真ん中に撃ち込まれ、それらすべてを灰に変えて吹き飛ばした。

「何事だ!」

 背後で“雄牛”の男が叫んだ。その頭上からは、分厚い灰の雪が降り積もっていくところだった。

 “灰”。

「まさか」

 大佐は呟いた。

 彼は<人間イカリ>ではない。あたりは灰と土埃に閉ざされていて、視界は塗りつぶされてしまっている。

 それでも、第六感をこらせばなんとなくはわかる。凄まじい力の気配が、それに乗せられた強い感情が、あたりに立ち込めているのが。

 

 次の瞬間、灰の渦巻く視界の中から、小さなものが大佐めがけて飛び出してきた。

 胸を殴られて、大佐は思わず倒れた。背を打つ衝撃に息が残らず抜けていく。だが痛みに顔をしかめるまもなく、誰かが大佐の首筋を握り締めた。

「連邦軍の、あの士官だな」

 地に押さえつけられて、大佐は呻いた。それでも、振りほどこうと思えばできた。それをしなかったのは、聞き覚えがあったからだ。

 その声の訛りと、負けん気の強さとに。

「見つけたぞ」

 声は言った。

「見つけたぞ、待ってたんだ、おまえを。お前たちを!」

「……いやはや、いい度胸をしている」

 大佐は仰向けのまま、まばゆい光を遮る小さな人影を見上げた。

「“アゲハ”か」

 大佐に馬乗りになって、首に右手を押し当てているのは、他ならぬアゲハだったのだ。煤で汚れ、泥に塗れ、なにより、その身体からは濃い血の匂いがしていた。あるいは、鉄の匂いが。

「おれの右手にどんな力があるかはわかってるだろう」

 アゲハは脅すように左手の紋章を見せると、側の砂地に向かって奇跡を撃ってみせた。砂は、はじめから砂だというのに、細かく崩れて消えた。

「火と土。火と土か」

 大佐はその後ろで爆発炎上しながら地に飲まれていく“涙”に目をやり、呟いた。

「お前の奇跡は分解、破壊のはずだった。純粋なまでの……どうやって、そこから火と土の属性を引き出した?」

「あんたの身体で確かめてみる?」

 アゲハは凶悪に笑った。

「死にたくなければ、余計な質問はなしで、おれの要求に従え」

 その脅しに、大佐は決まり文句で答えた。

「愚かな。連邦軍人は国のために命を捧げることこそがその職務、私はすでに死んでいるも同然だ。その手の脅迫は無意味だよ」

「本当に?」

 アゲハは言った。

「そんな人間がいるなんておれは信じない。死んでいるも同然だなんて、そんなやついるわけない。誰だって希望があるはずだ。欲しいものが」

 アゲハは大佐の眼をまっすぐに見下ろした。

「あんただって、そうだろ」

 大佐の瞳が少しだけ揺れた。ややあって、諦めたように彼は言った。

「一応、聞こうか。君の望みはなんだね?」

 アゲハは血の気の引いた顔で、口を開いた。その頬には血に濡れた髪が張り付いたまま固まっていて、傷のある耳があらわになっていた。濃すぎる血の香りが漂っている。

「あんたは連邦の軍人だ。それに、<天使(マラーク)>に詳しい。<人間イカリ>の部下だっている。だから知ってるはずだ。どうやったらなれるか、なり方を知ってるはずだ」

 アゲハは上ずった声で言った。掌で、奇跡の気配が揺らいだ。

 

「おれを、“(アーセリング)”にしろ」

 

 To be continued…

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