<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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第二十八話 “彼の血(サングィス)

 □アゲハ宛の手紙

 

 ――あたしが、アシタ皇国を滅ぼしたんだ。

 

 あの頃のあたしはとんでもなく愚かだった。自分が全能で、強くて、なんでも思い通りにできると思っていた。名声が欲しかった。強さを認められたかった。

 

 今更、あたしたちがしたことを償えると思って助けたわけじゃない。でもなにかせずにはいられなかったんだ。これはぜんぶ、あたしの身勝手なんだ。少しでも楽になりたいっていうだけの……

 

 許してくれ。あたしの無様さを。

 

 

 ――砕可(サイカ)

 

 

 

 ◇

 

 ■交差都市ユディト

 

「おれを(アーセリング)にしろ」

 

 アゲハは大佐の顔に右手を突きつけて言った。

「あんたは知ってる筈だ。連邦の士官。“王”になる方法を」

 右手が奇跡を放てばどうなるかも、大佐にはよくわかるはずだ。“不殺”の戒律があっても脅しとしては使える。むざむざ自分を塵に変えられたい人間がいるはずがない。

 だが、彼には少しも怯えた様子なんかなかった。 

 

「わからないな」

 大佐は呟いた。 

「そう、ずっとわからなかった。君は言ったな、連邦を恨んでいるわけじゃないと。アシタを滅ぼしたのは曳航連邦だ。君は、こたびのテロリストの仲間じゃあないのか?<黙示録(アポカリプス)>と手を組んで」

「誰が!」

 アゲハは思わず吐き捨てた。あいつらの仲間になると、そう考えただけで恐ろしいほどの憎悪が湧き上がってくる。あたりの粗砂(アラズナ)が奇跡にやられて朽ちた。

「アシタ皇国なんかどうだっていい。おれが大事なのは自分の自由だけだ」

「生まれ故郷なのにか?」

 大佐は言った。

「どこまでいっても、人は生まれから逃れられない。故郷ほど強い絆もないだろうに。君だってアシタ人なんだ、それを大事に思わないはずが――」

 

「おれは、奴隷だったんだよ」

 

 アゲハは大佐に向かって言った。

 その髪が揺れた弾みに、欠けた耳がちらりと覗いた。

「奴隷階級……卑族はあの国じゃ人間扱いされない。死ぬまで誰かの言いなりにされて生きる。家畜と同じだよ。そんなの、本当に生きてるって呼べないだろ」

 大佐は思わず黙り込んだ。怒りと絶望を叩きつけるようにアゲハは唸った。

「あの戦争のとき」

 アゲハは言った。

「曳航連邦はそんなアシタをぶち壊した。思い上がった戦士階級も、偉ぶった祭祀階級も、みんな粉々にした。恨んでやしないさ、おれの最低な世界をぶっ壊してくれたんだ」

 アゲハは唇をつり上げて笑った。

「でも、連邦に来てみたら笑ったよ、同じなんだから。こっちじゃ『非正規市民』に名前が変わっただけだ。尊い人間と卑しい人間がいる、その仕組みはどこへ行っても同じだ」

 アゲハは大佐を見、辺りの正規市民たちを見、叫んだ。

「踏みつけにされる者の気持ちなんか分からないくせに口を揃えて言うんだ、仕方がない、秩序のためだ、この世の皆が皆で幸せになることはできないってさあ!」

 熾火が弾けた。

 そんな感じだった。アゲハがずっとため込んでいた熱が、燻っていたかすかな炎が、灰の底からふっと顔を出した、そんな感じだった。

 

「はじめは、<天使(マラーク)>を手に入れて、これでようやく自由になれると思っていた」

 アゲハは言葉を探すように、ゆっくりと言った。

「でも違った。<人間イカリ>の世界にはおれの知らないことが山ほどあって、あんたたち連邦だって追いかけてくる。おれを殺そうとする。うんざりだ。そんなのはほんとうの自由じゃない」

 アゲハは血と泥に汚れた顔で大佐を睨んだ。

「でも……“(アーセリング)”になれば連邦はおれに手を出せない。その資格もあるはずだ」

 

 大佐は静かに首を振った。

「ああ、そうだ、しかし」

 そう言うと、大佐はアゲハの眼を真っ直ぐ見つめ返した。

「君はわかっていない。“諸王(アーセリング)”はみな、都市一つを容易く滅ぼせるほどの力を有していて、だから連邦は盟約を結ぶんだ。そんな<人間イカリ>と敵対することは、致命傷を意味するから。

 君にはそれがない。圧倒的な力がない。“王”になれば連邦は手が出せないと言ったな。違うんだよ、順序が逆だ。手が出せないような怪物だから、“王”になれるのさ」

 大佐はアゲハの手を掴み、挑戦的に体を起こした。

「なり方などない。少なくとも私は知らない。“王”とは自ずからなってしまうもの、なろうと思ってなるものではないんだ。それが運命であり、器……“王の器”なのだよ」 

 大佐は立ち上がり、胸に押し付けられているアゲハの手をぐいと押した。

「私は、連邦の軍人だ」

 アゲハは気圧されたように一歩下がったが、それでも右手は動かさなかった。

「だから、君が嫌いなそれをあえて言おう。この世の人間すべてが幸せになることはできない、と」

 アゲハはなにも言わなかった。突きつけた手が震えながら大佐の心臓を狙っていた。撃つわけにはいかないのだ。“戒律”があるのだから。

 大佐もそれ以上のことはできなかった。周りの人間達も、手を出せるはずがなかった。ぴんと張った糸を引っ張り合うように、彼らは見つめあった。

 

 そのときだった。アゲハの腹をかすめるように、黒いなにかが空から飛び込んできたのは。

 

 どおん、と地が揺らいだので、アゲハは大佐を突き飛ばすところだった。ぎりぎりで踏みとどまった二人は、怪訝そうにそれを見た。

 砂地に突き立っていたのは、漆黒の金属で作られた槍だった。滑らかな柄には握りの意匠もなく、ただ先を研いだだけの鋼の棒のようなものだ。

「なにが……」

 そして、アゲハのまるく抉れた腹から血が吹き出し始めた。

 アゲハは血相を変えてそれを抑えた。傷を負ったのだと気づいた途端、焼けるような痛みが胴から頭までずきずきと走っていく。血が止まらない。

 悪寒がする。アゲハはもつれる舌で力の名前を呼んだ。

「《(カラ)》」

 奇跡が身体の周りで燃え上がった。

 次の瞬間、またしても鋼の槍が、今度はアゲハの頭を撃ち抜いた。

 アゲハはうめきながら地面を転がった。額からだらだらと血が流れている。けれども今度は、葬送の奇跡で自分を覆っていたのが幸いした。触れるそばから塵になって消えた槍が、切っ先を失って落ちた。 

「これは、矢か?」

 (レン)大佐は立ち上がりながらどうにか言った。

 それと同時に三発目の矢が着弾した。足を撃たれたアゲハは身を起こそうとして転んだ。

 ようやく、彼らはそれがどこから飛んできたのか気づいた。右後方の空からだ。

 大佐ははるか背後を振り仰いだ。

 ひときわ小高くなった丘陵地帯の端に光るものがかすかに見える。誰かがいる。こちらを見ている。

「まさか。あんな距離からの狙撃だと?」

 大佐はそれを睨んだ。弓術には限界がある。どれだけ鍛錬をしてもあれほどの距離を飛ばすことはできない。できるとしたら、人間業ではない。

 それこそ奇跡だ。

「おお、姫殿下」

 “雄牛”の男が親衛隊によりかかりながら息も絶え絶えに言った。 

「これぞ我らが姫のお力に違いあるまい」

 大佐はそちらへ向き直った。

「では、これはユディト姫の術だと?」

 

『あら、なにを驚いてらっしゃるのかしら』

 そんな大佐をからかうように、どこからか、あの鈴のようなユディトの声がした。

『曳航連邦が相手といえども、獲物をみすみす持っていかせるほど私は甘くありませんの。言ったはずですわよ、早いもの勝ちだと』

 いったいどこから?大佐はあたりを見回した。

『こちらよ、ほら、もっと目を凝らして御覧なさい』

 

 粗砂が紅く染まっていた。

 あの槍のような鋼鉄の矢が突き立ったところから、あたりの砂が赤みを増し、ざらざらと地面を這いずり始める。風もないのにひとりでに、ずるずる、ざらざらと渦を巻いていく。

 その一粒が跳ねた。

 ぱちぱちと音を立てて、赤く変じた砂がはぜる。次第に高さを増す砂煙が人間の顔に見え始めたような気がして、大佐は目をこすった。

 舞い上がる砂がモザイク画のようにユディトの顔を描いている。宙に浮かびあがったあいまいな顔の像が、大佐にまなざしを向け、いたずらっぽく笑った。

『お可愛いこと』

 大佐は愕然としてそれを見ていた。

 思念像(ソートフォーム)だ。

 奇跡を介して精神の像を結ぶ技だ。どれだけ強い<人間イカリ>でもかなりの技量がなければ使えない技術だった。知っているものさえ多くはないはずだ。実際に使える術者は大佐も数人しか知らない。

「流石はユディト王家の知識、ということですか」

 大佐は社交辞令のつもりで尋ねた。ユディトの返答はにべもなかった。

『身の程をお知りなさいな。知識は力、簡単にあげられるものではありませんわ。それにもちろんあの簒奪者、私の獲物もまた』

 ユディトは続けた。

『むざむざと渡したりはしませんことよ』

 大佐は聞こえなかったふりをしてアゲハに近づいた。

 けれど、その足元でぶんぶんという音がして、赤黒い棘がいくつも大佐の軍靴を貫いた。

 地面の中から現れたのだ。大佐は痛みに呻いた。

 それは血だけではなかった。もっとざらついた赤みが、大佐の軍靴を覆っていた。鋼鉄の矢が崩れ落ち、赤い塵になって吹き荒れた。

『《劣壊(ハールーダ)》』

 力の名前が告げられる。その赤き渦の中で、親衛隊が途端に臣下の礼をした。

「偉大なるユディト陛下に、栄光あれ!」

「栄光あれ!」

「栄光あれ!」  

 ぐるぐると赤褐色の塵が渦を巻く。

 まるで浮塵子(ウンカ)だ。ぶんぶんという音もそっくりだった。空が暗くなるほどの群れが立ち昇ってはいくつもの渦を作っていく。

「これは……“錆”?」

 そう尋ねた大佐の言葉へ、ユディトの声が荘厳に答えた。

『これが我が王家に伝わりし<天使(マラーク)>の奇跡』

 大佐の軍靴が崩れ落ちた。ぼろぼろと赤い欠片に砕け散って、その破片もあたりを飛び回る群れへと加わっていく。

 

『【劣壊奇跡 ハールーダ】』

 

 ユディトは告げた。

『主天使系統、古代伝説級。錆の<天使(マラーク)>』

 あたりでは、赤錆がその侵食を広げていた。触れるものを紅く染め、支配し、自分たちの一部に変えて群れを大きくしていく。

『ですから、私の獲物には手を出さないことですわ。錆屑になりたくないのなら』

 赤い渦が速度を増していく。

 それらはざらざらと鎌首をもたげ、そしてアゲハに向かって一斉に牙を向いた。

『磨り潰しなさい、ハールーダ』

 一万匹の羽虫が羽をこすり合わせたような耳障りな合唱とともに、赤いそれらがアゲハに飛びかかった。アゲハは荒い息をつきながら吠え、奇跡を炸裂させた。

 

 だが、葬送の奇跡はそれをすり抜けてしまった。

 なんの力も及ぼさず、お互いにすれ違ったのだった。灰色のオーラは明後日の方向で爆発し、赤い渦はあいも変わらずアゲハを狙っている。

 アゲハは驚愕の表情を浮かべ、慌てて腰の剣を振り回した。赤い錆が尖ったつるぎのように切り立って、アゲハの手を浅く切り裂いた。

 見事な奇跡操作技術だった。錆の群れはときに寄り集まり、剣や、槍や、また獣の牙のような輪郭をとっては喰らいつき、アゲハを少しずつ削り取っていった。文字通り、その肉を削り取っていっているのだ。

 

「圧巻であろう」

 少し離れた所でへたり込んでいる雄牛の男が言った。

「我らが姫殿下の奇跡は」

「ええ」

 大佐は短く答えたが、内心では全く違うことを考えていた。

 アゲハの奇跡が効いていない。あれはすべてを破壊する奇跡だ。錆屑とて吹き飛ばせてしかるべきなのに、うまくいっていない。

 けれど、大佐はこの現象に見覚えがあった。

(奇跡の相互作用)

 奇跡はその性質によっては、拒絶しあったり、また強めあったりする。

(《葬送》が《劣壊》を防げないのは、彼らの奇跡が本質的に似通った力だからだ)

 戦場で遠巻きに、氷の<天使>と霜の<天使>の戦いを見たことがある。

 彼らはお互いの凍結の奇跡を防げていなかった。奇跡戦において、同じような力をただ単純にぶつけ合うだけでは決着がつかないのだ。あれと同じだ。勝つには、奇跡をもっと巧妙に、狡猾に操る技術がいる。

(ユディト本体ははるか遠方だ。それに、あの少年はまだそこまでの圧縮術は使えないだろう……だが、それよりも)

 大佐は怪訝そうにアゲハを見た。

(ただの分解と錆ならああなるはずがない。錆だって破壊はできるはずだ。薄々分かってはいたが……あの少年の奇跡は単なる破壊の力ではないのか?ものを粉々に崩壊させるのは何らかの、もっと別の奇跡の結果だということか?だとするなら、ハルヴァヤーの奇跡の本質は……)

 

 アゲハは地を転がりながら奇跡を乱射していた。

 赤錆の粒はそれをものともせず、まるで火蟻のように這い上ってはアゲハの身体を刺した。寄り集まって刃を作り、また離れては渦を巻いて襲い来る。足元から登って肌を食い破り、肉を噛みちぎる。

「何でだ、なんで!」

 アゲハは苦しみ悶えて叫んだ。彼は顔を覆い、固く目を瞑っていた。まばたき一つの合間に目玉をも抉られそうだったからだ。

「なんで、奇跡が効かない!」

 奇跡の感覚は術者であるアゲハにもよく伝わる。術は発動しているのに、うまく作用していない感じがする。

『あなた、妙ね』

 ユディトの声がした。

『私の奇跡と相乗している』

 ユディトにとっても、それは意図しないものだったらしい。彼女は不思議そうにそう言ったが、だからといって手を緩めてやるほど優しくはなかった。

『奇跡を扱いきれていないのかしら、可愛いものね。神話級といえど、使い手が未熟では詮無いものですこと』

 その声がやや凄絶なものを帯びた。

『ならば大人しく食い尽くされるがいい。弱々しい獲物らしく』

 獲物。

 アゲハは歯を食いしばった。

「誰が、獲物、だって?」

 錆の粒にたかられながら、アゲハは二本の脚でしっかり立ち、目を開けてあたりを睥睨した。連邦の軍人、ユディト市の正規市民たち、弓矢の術者。錆のひとひらが瞳のすぐ下を軽く齧った。

「おれは王の器だ」

 アゲハはふらつきながら、血走った瞳をぎらぎら光らせて絞り出すように言った。

 

「あんたら皆、蹴散らして、正面から勝つ!」

 

『虚勢ですわ』

 ユディトは言った。

 アゲハの周りにいるのは、すべてが敵だ。こんな状況で勝てるはずもない。気概と気迫、立派なものだ。だが、それだけではどうにもならない。

 ことばと意思だけでは意味がない。力がなくては。(レン)大佐も柚子(ユーリス)も、ユディト親衛隊たちも、冷ややかな諦観でそれを見ていた。

 けれど、アゲハは(ページ)のことばを思い出していた。

(捨てることは強めること)

 (ページ)はやはり、かけがえのないものをくれていたのだ。それは形のない知識だった。それこそが黄金や剣なんかと同じくらい強いものだと、アゲハはもう分かっていた。

 《葬送》の破壊から抽出することで、火や土の応用技を編み出すのと同じだ。可能性を捨てることで、残ったものは何倍にも強くなる。

 アゲハは血みどろの左腕をゆっくりと掲げた。その動作になにか危なげなものを覚えてか、錆の群れがややたじろいだ。

 捨ててやる。最後のひとつまで、捨ててやる!

「“我が手に所有せし――」

 

 そのとき、大地がわずかに揺れた。

 

 ◆◆◆

 

 大佐は内心、もどかしい思いだった。

 アゲハ抹殺は彼の任務だ。必死に追いかけてきた標的が、為すすべもなくユディトに嬲られているのはあまり気分の良いものではない。

 だが、本当に合理的なものの考え方をするなら、ユディトがアゲハを始末してくれるというのを大佐は喜ぶべきだった。

 予言は絶対だ。彼はいずれ曳航連邦を滅ぼす。それは確定した事実だった。生かしておく理由がない。

 それでも、大佐は気が進まなかった。気が進まないことをやらねばならぬのがおとなというものだ。

(甘さか)

 大佐は顔をゆがめた。くだらない拘りは失態のもとだ。

 結果だけをみればよいのだ。簒奪者は始末され、彼らの任務は達成される。曳航連邦は目先の危機を逃れる。いい事ずくめだ。たとえ、そのためにまつろわぬ異国民の少年が殺されようとも――

「……これでいい」

 大佐は呟いた。自分に言い聞かせるように。

 

「ほう、そうか?」

 そのとき、後ろで聞き知らぬ声が聞こえた。

 (レン)大佐は首筋を氷に舐め上げられたような感じがした。首がねじ切れそうな勢いで振り向く。 

 

 そこにいたのは、黒衣のローブに身を包んだ、長身の、仮面の男―― 

 

「誰だ」

 見知らぬ男だった。

 ユディト親衛隊でも、連邦軍でもない。そして今、その他にこの都市を彷徨いているものに、まず味方はない。

「誰だ!」

 大佐は鋭く尋ねた。ただの通りすがりでないことは明らかだった。むざむざとこんな距離にまで背後を取られたまま近づかせるほど、大佐は間抜けじゃない。

「曳航連邦軍の名において命ずる、貴様は――」

 

 その男が傍らに小柄な青年を抱えているのに、大佐はそこでようやく気づいた。

 薄汚れているが、知った顔だ。

柚子(ユーリス)中佐」

 脇に抱えていた中佐を、その仮面の男は無造作に放りなげた。

 大佐の足元にどさりと転がされても、中佐はまったく動かなかった。気を失っている。普段なら罵詈雑言を吐き出すはずのその唇は、弱々しく浅い息づかいをするばかりだった。

 仮面の男はそれを見下ろした。

「連邦の士官……哀れなものだな。人間の定義に拘ってばかり。頭に血が上るとなにも見えなくなる」

 彼は肩をすくめた。この上なく侮蔑的な仕草だった。そのまなざしが、仮面の内側で大佐に向いたようだった。 

「おや、おや、どうした、そんなに怖い顔をして。これはおまえの部下だろう?喜ぶべき再会ではないのかね。礼でも言ったらどうだ?」

 危険なものを見る目つきで、大佐は目の前の男を睨んだ。

 中佐は手練の<人間イカリ>だ。そう簡単にやられるはずがない。それを倒したというのなら、この男は絶対にただ者ではない。

「貴様!」   

 大佐は右腕を振り抜いたが、その時にはもうその男の姿は消え失せていた。間違いなく瞬きなどしていない。ちゃちなトリックや、くだらないまやかしなんかではない。

 

「特務兵の長だったな」

 その男は、忽然と大佐の背後に立っていた。

 あり得ない。回り込む様子などなかった。近接格闘術にはそれなりに心得がある。目の端でも捉えられなかったことなど今までにない。

「“転移(シフト)”……?」

 大佐は呆然として言った。男は答えになっていない言葉を、呟くように返した。

「理想のための野心。しかしながら、いかんせん凡人だ。諦めと古傷だらけの、つまらない男」

 男はそう言うと身を翻した。まるで初めからいなかったみたいに消滅し、またしてもその影がまったく違うところに落ちる。

「ユディトの親衛隊か」

 今度は雄牛の男がいるそばに出現すると、サングィスはその弱々しい顔を覗き込んだ。大佐のところからは大人の足でも数十歩以上は離れている。一瞬で、どうやって移動したというのか?

「俗物の集団だ。得意なのは金勘定とお世辞の言葉選び。くだらない」

 大佐は彼から絶対に目を離さなかった。だが、瞬きをしたわけでもないのに、男はいつの間にか違うところにいるのだ。誰も見ていない、誰かの背後へと。

「さて」

 男の姿が消えた。

 

「ユディトの姫君」

 そこははるか離れた丘陵の上、ユディト姫の陣中だった。

 ユディト姫は、一体の美しい彫刻みたいだった。ゆるくカーヴした純白の長弓を携え、丘の上に立っている。白い砂の上で、今にも干からびそうな草がまばらに倒れている。

「驕慢。生まれながらの残酷さ」

 その大弓を構えた彼女の裳裾が揺れているのがかすかに触れるほどの距離に、男は立っていたのだ。

「人の命などなんとも思っていない。甘やかされて育った人間とは、かくもみにくい生き物に成り果てるものだな」

 背後からかけられた言葉に、はっとユディトは振り向いた。

「どちら様かしら」

 その弓が引き絞られ、弓弦がりんと鳴った。

「《形成せよ(フォールマー)》」

 白い弓弦の上に、あの巨大で黒い鋼鉄の矢が出来上がった。それは具現物とは違う、本物の金属だった。本当の物質の重さ、存在の確かさを備えていた。その矢に紅の染みが紐のように纏わりつく。ユディトはその(やじり)を男の顔に突きつけた。

 だが、その時にはもう男の姿は無かった。

 

「そして、ああ、“簒奪者”か」

 驚くほどの距離を飛び越えて、仮面の男はとうとうアゲハの前に立っていたのだ。

 仮面の男は小柄な少年を見下ろし、乾いた唇をゆがめた。

「燃えあがる愚か者。身のほど知らずの欲望で吠え立てるだけのけだものだな。おのれの分というものを弁えていない」

「誰だよ」

 アゲハは言った。

「いきなり出てきて、随分とご挨拶だな」

「おまえこそ、言葉には気をつけることだ」

 彼が味方でないことは確かだった。

 アゲハはじっと男を見つめた。薄く体を覆う《葬送》の灰色が静かに蠢いている。だが目の前の男は、それにもまったく臆した様子がなかった。

「ふむ。奇跡か」

 仮面の男はそう言うと、誰かを呼ぶように手を叩いた。

 

 途端にあたりが暗くなった。

 いや、それは正確でない。濃い影が落ちるのとともに、ちらちらとおどる色とりどりの光が動いている。

 アゲハは空を見上げた。つられて、大佐たちも天を仰いだ。

 あのレイラインの光の柱を背に、大きな影が空から舞い降りてきてくる。

 “野良”の一体が姿を現したのだ。逆光で黒ずんでいるが、しかしその背には光の翼が輝いている。風を押しのけるぐわっという音がして、踏みつぶされた風がばたばたと吹き抜けた。

 大佐は身を固くして後退りした。

「まさか貴様、“野良”を」

 使う?従える?操る?それらのことばは、こと“野良”にはどうにもしっくりこない。だが、目の前の男が“野良”を呼び寄せたことだけは確かだった。

 そして、そんな事はありえないのだ。

 “野良”は人類の敵だ。本能で人間を襲う怪物だ。

 だが、その“野良”はまるで獲物をとる海鳥みたいに翼を広げてゆっくりと降りてくると、砂を踏み、光の翼をたたんで、軽やかに着地した。まるで仮面の男のそばに控えるように。

 なによりその<天使(マラーク)>の三角形の体躯に、アゲハは見覚えがあった。

 アゲハの目の前で野良に成り果てた<天使>。

 どこかへ彷徨い歩いていってしまった<天使>。

 【喧騒奇跡 ラーシュ】だ。

 

「ラーシュ……それは、タカの」

「ああ。アシタ人の頭目だな。彼は悲しくも愚かだった」

 仮面の男は<天使>ラーシュの顔を見上げ、両の手を悠々と広げた。

「どれほどの血を流しても、彼らは居場所が欲しかったのだよ。あまつさえ我々の力すら借りて。くれてやったら、喜んで飛びついてきた。まったくいい道化だったよ。彼らのお陰で、我々も計画を少しばかり進めることができた」

「計画だと?これもお前達の仕業なのか」

 (レン)大佐は光の柱を指で指した。

「この異常事態こそがお前達の狙いか」

「ああ」

 仮面の男は意外にも、重々しく頷いた。

「そうだ。見たまえよ。アシタ人の絶望によって、天の引き金(トリガー)はつつがなく引かれた。これこそ大いなる浄化の一端だ。ああ、どうか、世に<黙示録>のあらんことを!」

「やはり<黙示録(アポカリプス)>だと」

 大佐は男を睨みつけた。得体の知れなさからいって、それは納得のいく答えだった。

 <黙示録>の男は静かに言った。

 

「私は、“彼の血(サングィス)”」

 

 サングィス。

 彼はそう名乗ったのだ。アシタの軍船で、中佐たちの前に姿を現したのも彼だった。予言者ノコギリソウを光の柱の引き金にしたのも。

「<黙示録>の教導師(ドゥケース)だ」

 教導師。

 その言葉を、大佐は口の中で繰り返した。聞き慣れないあざなだった。<黙示録(アポカリプス)>の組織階層は謎が多いが、指導者層なのだとしたら前代未聞のことだ。そんな高位の構成員はいままで表に出てきていなかったのだから。

「貴様たちはなにが狙いなのだ」

 大佐は気を失っている中佐をさりげなく後ろに引きずりながら叫んだ。

「“野良”も貴様たちの仕業だな。あの光の柱は何だ。答えろ!」

 

 そのとき口を開いたサングィスの頭上で、小さくなにかが光った。

『痴れ者が』

 ユディトの声がした。

 彼女が鉄の矢を放ったのだ。人間一人くらい簡単に串刺しにできるほど大きな矢が、風を貫いて、真上からサングィスに迫った。その周りで錆の粒がはね、ユディトの怒り顔がぼんやりと浮かぶ。

『我が領邦で、絶滅主義者に好き勝手はさせませんわよ』

 そばにいる【喧騒奇跡 ラーシュ】は動かなかった。“野良”らしく、彫像のように佇むだけだった。

 あの矢なら人間の頭くらい粉々に砕く。だが、サングィスは五指を揃え、なにかを押し留めるようにまっすぐ掌を翳した。

 

「《不動(ツェダーク)》」

 

 その瞬間、ユディトの矢が静止した。

 宙で静止したのだ。まるで見えない壁にぶつかったみたいに。見えない手に掴み取られたみたいに。

『ばかな!』

 ユディトが怒りの声を上げると、鋼鉄の矢は紅く染まって崩れ、蜂の群れみたいに切っ先を尖らせながら溢れ出した。ぶんぶんと唸る群れは、サングィスの手をずたずたにしようといきり立っている。

「“(ハールーダ)”か。どうも、しつこいな」

 サングィスはこともなげに言うと、掌をすうっと動かした。

 錆のかけらたちが縛られたように動きを止める。驚いたユディトの顔に、サングィスは指先を突きつけて言った。

「そして、か弱き思念像ごときが、この私の前に立てると思わぬことだ」

 そういうと、サングィスはぐいっと何かを押し込むような手つきをした。

 ユディトの顔が揺らいだ。

 ざらざらと動いていた錆の粒がバチッと弾けるような音を立て、そしてぽとぽと落ちた。その色が急速に赤みを失っていく。女の甲高い悲鳴みたいな耳障りな音がして、ユディトの思念像(ソートフォーム)は完全にかき消された。

「敵対行為とみなす!」

 大佐は声を荒げ、コートの襟首を掴んだ。牙の印が動く。

「《巻け(ロタ)》!」

 大佐の突き出した指先に従って、みどりの竜巻が大砲のように轟いた。

 だが、それもまるで見えない壁に突き当たったかのように止まった。サングィスは嘲るように微笑むと、その静止した風を弄ぶように軽くつついた。

 それに巻き上げられた砂が、塵が、ほこりが、静止していた。目の錯覚を疑いたくなるくらい、完璧に止まっていたのだ。

 

 アゲハは状況が理解できずに立ち尽くしていた。サングィスの眼差しを向けられて、その凄まじい存在感(プレッシャー)に思わず右手を構える。

 そう、存在感だ。サングィスからは今や、強烈なリソースの気配が熱のように放射されていた。目を向けるだけでまなざしが焼けそうな、危険な気配が。

「何者なんだ、貴様は」

 大佐は砂まみれで苦々しげに言った。

 間違いない。あの手を翳す動作は“引き金(トリガー)”だ。聖異物を使う様子もなく、ああも不思議な力を操るなんて。

 奇跡だ。サングィスは間違いなく奇跡を使っている。けれども、それはありえないはずのことだった。

「<黙示録(アポカリプス)>は、<人間イカリ>を禁忌とするはずの――」

 

「――ああ。罪深いな」

 静止した風の中で、サングィスは言った。

「<天使>は天上の存在。それを人の意志で汚し、貶め、使うなど、なんとこの世には罪が多いことか。

 ゆえにこの私もまた罪をもって、その罪に抗わねばならぬ。それこそが教導師の役目」

 そう言って、サングィスは天を仰いだ。

「しかし……嗚呼、お赦しください!」

 その懺悔らしきものは高らかに、空に向かって響いた。

「どうかお赦しください!来たるべき<黙示録(アポカリプス)>のために我が身を汚す罪をお赦しください!我が魂は世の罪人どもと同じく、最期のときに貴方様の法で裁かれることでしょう!」

 そう、ひとしきりヒステリックにわめきたてたあとで、放心したかのようにどっと力を抜き、サングィスは呟いた。

「そして」

 サングィスは気絶している中佐を、呆然と立ち尽くす大佐を、その他の人間たちを順繰りに指した。

「錆の奇跡。嵐の聖異物。ああ、確かに偉大な力だろう。だが、たとえどのような奇跡で攻め立てようとも、どのような力で圧せられようとも」

 サングィスは指を立てた。

 その周りでは、巻き上げられた砂粒が、弾け飛んだ錆の欠片が、奇跡の風が、ありとあらゆるものが静止していた。凍りついたように。縛られたように。

 

「それでも、“正義(ツェダーク)”は動かない」

 

 正義の契約者は言った。

「正義の<天使>は揺るがない。力天使(デュナミス)系統【不動奇跡 ツェダーク】。神話級の力は」  

 青の第4位。

 その凄まじい力の圧が、その場にいた全員を打ちのめした。アゲハでさえ動けなかった。

 初めてだったからだ。自分と同格の、神話級の契約者に会うのは。

 

「生きることは罪だ」

 

 サングィスは説法をするように告げた。

「欲することは罪だ。願うことは罪だ。それは進化する力、変化するという願い。より良き方へと向かうことは悪だ。なぜならば、それはもとの欠けたるがゆえなのだからな」

 サングィスは裂けるように笑った。その笑みが、誰かに似ているような気がして、アゲハは身震いした。

 

「我々はその罪を()()しよう」

 

 サングィスは言った。

「我々こそ、生命を否定するものだ。嗚呼、生きる意思にあふれる諸君らよ。どうかその意思に安らかな<黙示録(アポカリプス)>があらんことを」

  

 To be continued…

 

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