<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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第三十一話 嵐を呼ぶ女

 ■ユディト 海岸地区

 

「僕は、放浪王(ザ・ウェンド)だ」

 彼女はそう言って笑った。

 小柄な女だった。歳は分かりにくいが、二十歳は過ぎているだろうか。大きすぎる帽子に、ぶかぶかの上衣を羽織っている。真鍮のかざりがちゃりちゃりと揺れた。それらを膨らませてぐらぐら揺らす、強い風があたりに吹いている。

「で、君は思っていたより小さいな」

 その足元には何もなかった。

 アゲハは<天使>の掌、地上数ヴルの高さにいるのに、彼女はそれと同じ目線で話しているのだ。風を踏みつけにして立っている。間違いなく何らかの奇跡だった。

「しかし堅牢王も、ユディトも、連邦軍も要領が悪いよね。欲しい獲物は追い詰められ、弱らせたところを横から掻っ攫うのが一番だというのに」

 その連邦共通語にはやや訛があった。アゲハにはどこのものなのか判別がつかなかったが。

「何か用?」

 アゲハは持ち前の聞かん気の強さで言った。

 放浪王はやや驚いた様子で、ゆったりと空に腰掛けた。“王”にそんな物言いをする人間は多くない。

 鉤の手がきらりと日暮れの光にきらめく。

「君が欲しいのさ」

 放浪王はそう言うと、残っている方の手を差し出した。

「一緒に来てもらおう。悪いけど、君に拒絶の権利はないよ。聞き分けがいい子だと助かるんだけどね」

 アゲハは目の前の女を睨んだ。

 そういう物言いは一番嫌いだった。いうことを聞くのが当然だと決めつけている大人気取りと子供扱い、そんな奴に会うたびに虫酸が走る。

「おれは自分の意志でここを出ていく」

 アゲハは言った。

「あんたにもその邪魔は――」

 

「不死の男に会ったんだろう?」

 放浪王はそれをすっぱりと遮った。アゲハは目を見開いた。

「どういう意味だ」

 サングィスの言葉がそのとき脳裏を走った。お前のようなやつは大勢いる、はるか昔から大勢いる――(ダーン)に導かれた人間は。

「あんたもあの人を知って……!」

 呆然とするアゲハに説明しようとでもするように、放浪王は空を歩き、彼のそばにずいと近寄ると、その傷のある顔を鼻息荒く近づけた。

「僕の顔を見ろ」

 放浪王は言った。

「見るんだ」

 有無を言わせぬ口調で彼女は命じた。

「見ろ。僕のこの顔を、見ろ!」

 アゲハは言われるがままに目の前の女を見つめた。若い女だ。丸い目に小さな顎、幼気に見える丸顔――だがその口元には皺が刻まれていて、瞼は垂れ下がり始めている。肌が乾き、しおれていくのがわかった。

 老いていっているのだ。

「わかるだろう?一刻一刻と老いさらばえているのが。あの太陽が水平線へ沈むよりも早く、歳をとっているのが」

 明らかに普通じゃない。時間がおかしくなったみたいに、異様な速さで老いている。アゲハは驚きの目でそれを見つめた。

「毎日がこうなのさ。朝は少女、日中は女、夜は老婆。若返っては老いるのを繰り返す。百年経ってもずっとこうなんだ」

 放浪王は言った。

「君は知っているはずだよ。君も同じなんだから。同じ力を貰ったんだから」

 まさか。アゲハは息を呑んだ。放浪王は静かに頷いた。

 

「僕は、不死者に血を貰ったんだよ」

 

 彼女は年老いながら、掠れた声で言った。

「契約したんだ。死にかけていた僕に、彼は言った。望みは何だ?と」

 ――君の望みは何かな?

 その言葉は今でもアゲハの脳裏に刻まれている。(ダーン)はあのとき確かにそう言ったのだ。

 そして、アゲハは自由になりたいと答えたのだ。

「僕は、『知りたい』と答えた」

 放浪王は静かに言った。

「知りたい。まだ知らぬ場所を、世界をこの目で見たい。見知らぬ土地へ行きたい、知識が欲しい」

 それを後悔しているかのように、彼女は肩をすくめた。

「本当なら彼の力は一回だけ、致命傷を癒すだけのはずだった……問題があったのは僕の方でね。力に適合しすぎたんだ。過剰に力を受け継いだ結果が、この不完全な不老不死だよ。若返りと老いを繰り返して……」

 放浪王はアゲハの顔を指さした。

「僕はね、完全な不老不死になりたいんだ。そのためには、もっと……知っているよ、君も彼から血を貰ったんだろう?」

 彼女から凄まじいエネルギーが放たれ始めた。さっきまでとは違う、異様な気配が。

 アゲハは思わず息を止めた。

 幼い頃、水の中に落ちたときを思い出した。濃すぎる奇跡の気配があたりを塗り潰していく。今まで感じたことのない閉塞感は、まるで、さっきまでとは違う世界に踏み込みでもしたような感じがした。異質なのだ。

「寄越せよ、彼の、血を!」

 

「知らないよ、そんなの!」

 アゲハは顔を覆いながら叫んだ。あたりには睫毛から瞼まで吹っ飛ばされそうなほどの暴風が荒れ狂っていた。こんなのは普通ではない。何らかの奇跡が働いているに違いない。

「いきなり出てきて、勝手な話ばかりするんだから!」

 葬送の奇跡が対抗するように膨れ上がった。

 触れるものを跡形もなく消し飛ばす力が、右手に集まっていく。アゲハはそれを放浪王に向けて解き放った。奇跡同士がぶつかる時のあの耳障りな破擦音が響く。

 だが、それで終わりだった。

 破壊的なエネルギーは女の鼻先にすら届かずに、途中で掻き消えた。消されたのだ、放浪王の力に。

「その程度か……やっぱり神話級といっても未熟だね」

 放浪王は涼しい顔で言った。

「所詮は最弱種の力天使系統だ。触れなければ奇跡を使えない。発動対象の論理圧縮もお粗末なもの。その程度の圧縮術でこの僕に勝てるとでも思ったのならお笑いだ。見せてあげよう」

 放浪王は懐から一冊の書物を取り出した。

「本当の、王の力を」

 風にあおられてぱらぱらページがめくれていく。ひとりでに進んでいくそれがある一点で止まり、放浪王は見開きを鉤の手で押さえた。 

「《翠風術式(セアラ・エスアール)》」

 次の瞬間、風が渦を巻いた。

 

「第32番《咆哮砲(ほうこうほう)》」

 

 ぐるぐると目に見えるみどり色の淡い光を帯びて、三つの玉になって宙に浮いている。それが口を開けたかと思うと、アゲハの方に向けて暴風をたたきつけた。

 アゲハは踏ん張るひまもなく、ハルヴァヤーの手から吹き飛ばされていた。まるでこん棒で殴られたような重たい衝撃が身体を打ちのめし、嫌な音を立てて骨が軋む。たとえ足を縄で括り付けていたって、同じように吹き飛ばされていただろう。

 下は海だ。ゾッとするものが腹を伝う。

「おっと、それはよくないね」

 放浪王は言うと、また頁をめくらせた。今度はかなり初めの方だ。

「第4番《桜華旋(おうかせん)》」

 突如として、アゲハの足元で大渦巻が生まれた。

 それが空中で為すすべもない彼の身体を巻き取って、振り回しながら砂浜へ吹き飛ばす。アゲハは手足に血を持っていかれる気持ち悪さを感じながら、ごろごろと砂の上を転がった。どうにか身体を起こして女を睨む。

「この――」

「第59番《地縛天鎖(ちばくてんさ)》》」

 放浪王がそう言って指さした途端、アゲハの身体が動かなくなった。まるであたりの空気が凍りつきでもしたかのように動かせない。石のなかに閉じ込められたみたいだ。

「空気」

 アゲハは息を吸い込んだ。それだけはまだ出来たのだから。

「あんたの力は、“風”か」

「そうだよ」

 放浪王はやっぱり空に腰掛けながら言った。さっきから彼女がしていたことと言えば、腰を下ろして書を捲っただけだ。

「僕が契約したのは【翠風奇跡 セアラ】。嵐の<天使(マラーク)>」

 放浪王は笑った。 

 

権天使(アルケー)系統の神話級だ」

 

 放浪王は残っている方の手を広げた。

「力天使は触れたもの、主天使は遠隔操作、能天使は変身して奇跡を使う。どれも()だ。自分のまわり、狭い範囲にしか奇跡を起こせない。主天使だけはそれを切り離して動かせるけど、結局は点であることに変わりない」

 だが!と放浪王は誇らしげに言った。

「権天使系統は()だ。僕らは君たちみたいな狭い奇跡とは違う。領域として奇跡を展開する」

 アゲハに向かって、放浪王は鉤の手を突きつけた。

権天使(アルケー)は人呼んで、最強種なんだよ」

 あたりには異様な気配が満ち満ちていた。真昼にふと日が陰ったような、真夜中に突然あかりを吹き消したような、あるいはまた――嵐の中に踏み込んだときのような。

「ここ一帯の空間はすでに僕の奇跡が支配している。君はもう腹のなかさ。同じ神話級でもスケールが違う。今まではリソースのごり押しでどうにか勝ってきたんだろう?ひとつ覚えておくといい」

 放浪王は厳かに言った。

「僕ら絶対強者のレベルではね、そんな稚拙な戦術は通じないよ」

 その顔にはさっきまでの軽い少女らしさはなかった。年老いた女の老獪さが滲んでいる。

「力は制御されてこそ真価を発揮する。そうやって力に使われているだけでは<人間イカリ>とは言えないな」

「偉そうに」

 アゲハは聞いちゃいなかった。

 力押しは間違っていない。ここ一帯の大気が相手の支配下にあるのなら、それを力で奪い取ってやればいい。

 問題は、アゲハの奇跡がまだ風を破壊したことがないという点にあった。火と土はできるようになったが、形のない空気は難しい。

 それでもアゲハは奇跡を撃とうとした。拘束を跳ね除けるために。奇跡は意志の力だ。迷うより無理にでもやってみたほうが強い。  

「《葬送(ハルヴァヤー)》!」

 アゲハは掌を砲口のように広げ、力の名前を叫んだ。

 

 けれど、なにも起こらなかった。 

 奇跡は起こらなかった。そよ風ひとつも吹きはしなかった。大気はあいも変わらず放浪王の命令を聞いていて、アゲハのほうには顔を背けたまま、びくともしなかった。

「無理だね」

 放浪王が呆れ顔で首を振った。アゲハは唇を噛んだ。

(力が……)

 ハルヴァヤーの奇跡は、もうとっくに尽きていたのだ。

 力を使おうとしても、奇跡が送られてこない。泉と同じだった。際限なく湧くからといって使いすぎれば涸れる。タカとラーシュのとき、サングィスのとき、アゲハは今日もう二回も全力で戦っていたのだから。

(まさか、そんな……あの硫黄(ガフリート)相手のときだって結局、力が無くなったことはなかったのに!)

「無駄な使い方をしすぎるからそうなるんだ。君の中の力の残り方くらい外からでもわかる。だめだよ、そんなに怒ったって無駄なものは無駄」

 放浪王は低く唸るように笑った。

「ふふふ、はは、その殺気だけなら大したものだ、感服するよ。針みたいにひりひりと刺してくる怒りじゃないか。だけど如何せん意思だけではね。力なき意思は世界に対して意味を持てない」

 そのことばはまるでアゲハの心を見透かしているようだった。

「どうにも、君は素直すぎるなあ」

 そして、それは実際に真実だったのだ。

「君や、僕のような強いリソースと結びついた人間はね、そういうふうに感情をあらわにしてはいけないんだ。リソースが大きいほど意思の揺らぎはよく伝わる。君が敵意を向けている場所、感情の種類、意識を凝らすだけで手に取るように分かるよ。奇跡の多寡だってそうだ。僕のように、もっと力の気配を制御することを憶えないと」

 放浪王はゆっくりと近づき、はじめてその足で風ではないものを踏んだ。砂上の歩みは、足の重みがないみたいに軽やかだった。

「それとも、直に食らってみるかい」

 一瞬だけ、放浪王はその制御を緩めた。

 質量を持った敵意とでも呼ぶべきものがアゲハを刺した。蛇に睨まれた蛙みたいに、全身を固めてしまうほどの敵意が。いつの間にか拘束の術は解除されていたが、アゲハはそれでも動けなかった。他者の意思力を拒絶するすべを知らない彼は、あまりにもこの手の術に無防備だった。

「簡単な手品さ。しかし確かに“力”の制御ほど難しいものもないよ。身体とは違って、思うだけで動いてしまうからね」

 気を遣いでもしたようにそう言って、放浪王は肩をすくめながら歩み寄ると、アゲハの額に指を当てた。

「さ、貰おうか。君の中の血を」

 その途端、アゲハの頭がかっと熱くなった。

 

 ◆

 

 共振。

 それはまさしく共振だった。同じ不死の力を受けた二人の間で、体内の力が震えあっているのだ。放浪王のそれは大きいのに対して、アゲハのそれはひどく小さな名残のようなものだった。

「死にたくないんだよ」

 放浪王はうわずった声で言った。

「どんな生き物もいつかは老いて死ぬ。そんなのはまっぴらなんだ。僕以外のやつが死ぬ運命だからって、どうして僕がそれに従わなくっちゃあならないんだ?」

 アゲハは答える余裕もなかった。

 目がかすみ、耳が遠くなる。放浪王のことばだけががんがんと頭の中に響いている。手足が動かない。夢を見ているみたいだ。

「永遠のいのちが欲しい。まだ知らない世界を、この目で見たい。すべてを知りたい。だから寄越せ、生命を!存在を!この僕に!」

 ふたりの頭上に、微かだが光が現れはじめた。それは丸い環を描いてくるくると回っている。<天使>の持つ《円環》と同質のひかりだ。

「君の血があれば、もっと彼の血があれば、僕は完全な不老不死になれる!さあ、寄越すんだ!さあ、さあ、さあ!」

 そのとき、ふたりの精神は血の力を介して繋がっていた。

 アゲハの中に、放浪王の意思が入り込んでくる。凄まじい異物感、気持ちの悪さだった。喉に手を突っ込まれた気分だ。

 人間の身体は、魂は、一種の聖域(アサイラム)だ。そこに他人がずけずけ踏み込んでくるというのは、まるで見知らぬ人間に裸を晒すような、いつの間にか親兄弟が別人になっていたような、そっとするおぞましさがあった。

 

 そしてアゲハは、自分のものではない記憶を見た。

(なんだ、これ)

 脳裏に映像が走る。

 知らない場所だ。

 痛いほどの純白の都市だった。白い砂のうえに精緻なガラスで造られた巨大な塔のふもとで、鮮やかなみどり色の<天使(マラーク)>が膝をついている。そしてその前に立つ、同じ色の目をした長髪の男――

((ダーン)!)

 微笑む男がなにか言うと、手を差し出した。血まみれの小さな手がそれを掴み――

 記憶が切り替わる。

 焼けた砂。燃え上がる都市。凄まじい暴風に煽られて吹き飛んでいっている。こともあろうに都市船を丸ごと、恐ろしいほど巨大な嵐が包みこんでいるのだ。それをやっているのは他ならぬ自分自身の手だった。手の中にはやわらかな布に包まれた赤ん坊がいて――

 また、記憶が切り替わる。

 部屋の中だ。びろうどを張り付けた豪奢な一室で、見知らぬ若い男と向かい合っている。怒っているようだ。詰問しながら、その男が顔を上げた。その顔が――

(あの軍人だ)

 アゲハはその顔を知っていた。連邦の軍人だ。(レン)大佐にそっくりだ。だがどこか違う。似ているが、どこか雰囲気が違う。ひょっとして血縁なのかもしれない。

 そしてまた、記憶が切り替わって――

 

『――だめだよ』

 

 その瞬間、ふたりのどちらでもない声がした。

 視界が弾けた。

 砕かれたガラスのように記憶世界が崩壊し、本物の風景が戻ってくる。ざらつく砂の感触、頬をなでる風の冷たさ、目の端に差し込む日暮れが。

 アゲハは我を取り戻し、砂の上に座り込んだ。放浪王もまたよろよろと後ずさり、自分の掌を見つめる。彼女の手は、焼けた鉄へじかに触れたみたいに赤く傷ついていた。

「拒絶された」

 放浪王は独りごちた。

「術のつながりを壊された。今の声は……」

「今の声は」

 アゲハもまた正気にもどって呟いた。知っている声だった。

(ダーン)の……声だ」

「そう呼んでいるのかい?」

 放浪王は呆然のさまで立ち尽くしていた。

「ああ、彼はたくさんの名前を持っているからね。僕の時は、フォースファーと名乗っていたよ……」

 放浪王は上の空で言った。

「不死の力はあくまで彼のもの。身勝手は赦さないというわけか、フォースファー」

 彼女は吐き捨てた。

「なんで、なんで……なんでだ!最低だ!このままじわじわと年老いて、普通の人間みたいに死ねっていうのか!あんまりだ、なんていう仕打ちなんだ……!」

 放浪王はまるで子供がやるみたいに泣き崩れると、砂の上に膝をついてアゲハを湿っぽく見やった。

「失敗だ。君から力の残滓を奪い取るもくろみは失敗した。力の共鳴まではうまくいったのに。君の中にまだ名残があることは確かなのに」

「残念だったね」

 アゲハは皮肉っぽく言った。言っただけだ。立ち上がれそうにはなかった。足ががくがくと揺れて、頭痛がぶり返しはじめていた。鼻から馬鹿みたいに赤すぎる血が垂れているのに気づいた。風が吹くだけで身体中がずきずき痛む。

 放浪王は顔を微動だにさせず座っていた。

「そうだね」

 その顔がみにくくゆがんだ。

「諦めきれない。君の中にかけらが残っていることは確かなんだ。この場で奪い取るのが無理なら、やり方を変えてみないとねえ」

 

 その時だった。

 海の向こうからなにかの動く音が聞こえてきて、アゲハはそっちを見やった。

 巨大ななにかが近海に現れていた。船というより、都市ほどの大きさだ。錆茶色の巨大な丸いものが、海のかすんだ風を押しのけて近づいてきている。 

 

「やはり君は連れて行く。僕の船に連れて行く」

 放浪王は言った。

「僕の国に連れて行く。身体をじっくり調べさせてもらおう、我が<タルシシュ船団>で」

 冗談じゃない。

 アゲハは血の混じった唾を吐き捨てると、“同化”しようとした。奇跡はもう尽き果てたけれど、まだどうにか海の中に逃げ込むくらいはできるかもしれない。

 だが、ハルヴァヤーの名前は呼べなかった。

 息ができなかった。声が出せない。いくら吸い込んでも喉に入ってくるものがない。

 放浪王はまた、あの本の頁を広げていた。

 きっとそれが引き金なのだ。

「第66番《音無笛(なむざ)》」

 風を操る奇跡なら、息をできなくすることも簡単だろう。

 ちくしょう。そう呟いたはずの悪態も聞こえなかった。どんどんと気が遠くなっていく。手足の感覚が失せ、あたりが暗くなっていく。

 <タルシシュ船団>が警笛を鳴らした。放浪王のつぶやくのが聞こえた。

「安心しなよ、生命は保証するからね――」

 彼女はニヤッと笑った。

「――たぶん」

 そして、アゲハの意識は闇に沈んだ。

 

 ◆◆◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◆◆◆

 

 ■数日後

 

 柚子(ユーリス)は、白い寝台の上ではっと目を覚ました。

 薬臭い。

 正方形の天井の模様は得体の知れないしみで汚れている。思わず起き上がろうとしたが、手足に嫌なしびれが走ったのでやめた。体中がずきずき痛むうえに、妙な眠気が頭の芯を覆っている。

 

「起きたんだ」

 傍らには、(メイ)准尉が座っていた。

「まだ動かないほうがいいいよ。ものすごい数の骨折だって。熱もあるみたいだし」

「寝覚めに見るものが君の顔とはね」

 中佐は元気に悪態をついた。もっとも、普段の彼から言ってその口ぶりはやや弱々しかった。

「それで、どうなったんです?今回の顛末は」

「事態は収束した」

 そのとき扉から入ってきた(レン)大佐が言った。おそらくは、だ。扉のほうを見られるほど首を持ち上げられる状態ではなかったのだから、もとより部屋の隅にいたのかもしれない。

「あの正体不明のレイラインもだ。あれから学者が観測を続けているが、一切の異常はない」

 大佐の顔は傷だらけで、頬に湿布が張られていた。(メイ)の顔にもだ。それがおかしくて中佐は思わずにやにや笑った。

「いい顔ですね」

「君もな」

 大佐はそう言うと、椅子には腰掛けず、立ったままで続けた。

「今回の犠牲者はまだはっきりしないが、アシタ人とユディト軍、そして“堅牢王”に連れ去られた数百人が行方不明だ。返還交渉は行われているが、あまり芳しくはない」

 奴隷狩りの王だ。彼女は戦場で奴隷を集めては、ところ構わず売り捌いている。返してくれる見込みは薄いだろう。あるいは、よほどの対価を支払わねばなるまい。

「ユディト市の海面はおよそ300ヴリムは上がった……というより、ユディト市が沈んだんだ。概算だが、都市面積の四割ほどは海に呑まれて使い物にならん。協商港ももうだめだ。沈んだ場所のほとんどは、非正規市民たちの町だがな」

 大佐は鼻を鳴らした。こういうことがあっても沈みにくい都市の中枢だからこそ正規市民たちの領域なのだ。これからは非正規市民たちが大挙してそこに押し寄せるだろう。一部は他の都市へ逃げるかもしれない。市民権がないとはいえ、彼らの頭数が減れば都市そのものの国力が弱る。

 彼女の後釜は大変だろうな。大佐はそう思った。

「そして、ユディトが死亡した」

「……まさか、旧王家の当主が?」

 中佐のことばに、大佐は頷いた。

「<黙示録(アポカリプス)>の仕業だそうだ。下手人の遺体はユディト市から回収できたが、調べても有力な証拠はなにもつかめなかった。だが、奴らの遺体が手に入ったのは珍しい収穫だ。本国に移送して、死体に強い<人間イカリ>に調べさせる」

 大佐は唸った。

「なんとしても<黙示録(アポカリプス)>の尻尾を掴んでくれる。これ以上、連邦の秩序を脅かされるわけには――」

「“アゲハ”はどうなりました?」

 中佐は冷たく遮った。

「簒奪者は。死んだのですか?」

「行方不明だ」

 大佐は短く答えた。

「遺体は見つかっていない。(ハーヴン)に調べさせはするが、すぐにとはいかないからな」

「ならば任務は続行ということですね」

 中佐は憤懣やる方ないというふうだった。

「必ず見つけ出して始末してくれる。あの忌々しい小僧め」

「その意思は買うがね、君は絶対安静だぞ。手足の数が揃っているだけありがたいと思うんだな。どのみち飛空艦(カルラ)も修理が終わるまでは飛べないし」

 大佐は(メイ)を見た。

「なにせ電気系統が残らず黒焦げだったのだからな」

「あはは、すみません」

 (メイ)は反省していない様子で笑った。大佐はため息をついた。

「では、私は失礼するよ。こっちでも報告を纏めなくてはならんのでね。なにせユディト軍ときたら指揮官クラスが軒並み不在で――」

 

「あの少年の奇跡がわかりましたよ」

 

 それを遮るように、柚子(ユーリス)中佐は言った。

 大佐は静かに振り向いた。中佐は繰り返した。

「ずっと考えていました。あの簒奪者の奇跡が何なのか。単なる破壊にしてはどうも趣が異なると」

「君は優秀だからな」

 大佐は言った。

「私以上に奇跡理論に通じているのは知っている。それで、なにが分かったんだ」

「単純な破壊の奇跡ではないということです」

 柚子(ユーリス)は言った。

「ものを壊す奇跡なら、あんな圧縮ができるのはややおかしい。やつは圧縮術をほとんど知らないはずですから」

「ああ。やつは火を使い、土に遺跡を飲み込んだ」

 大佐は頷いた。

「物質の分解からそんな特性を引き出すのは不可能に近い。ならば、なぜ?」

 中佐は息を吸い込んだ。呼吸するたびに肋が痛む。痛み止めを増やしてほしいが、そうすると眠ってしまうのだろう。意識のあるうちに、正気のうちに伝えておかねばいけない。

 

「時間ですよ」

 

 中佐は言った。

「やつの奇跡、ハルヴァヤーの正体は時間ですよ。ただの破壊じゃない。時間を加速して破壊しているのです」

 大佐は沈黙していた。中佐は寝台のそばに置かれた机に目をやった。

「その机」

 なんの変哲もない机だ。ろくにものも置けないような。

「千年後に、その机が原型をとどめていると思いますか?」

「君の言いたいことは分かった」

 大佐は答えた。

「確かに千年、二千年という時間の中でカタチを保っていられるものは無いに等しい。経年劣化と風化だ」

「火と土も同じことです」 

 中佐は呟いた。

「やつは、加速された時間の中で受けるエネルギーのジャンルを絞っているのです。熱だけを選んで加速すれば炎に、重力を選べば地盤沈下に。そこにあるものから恣意的に選んで、強める……」

「錆の奇跡と噛み合わなかったのは、あれもまた劣化だからだ。同じ方向性だからうまく打ち消せなかった。奇跡特性の相互干渉だな」

 大佐は恐れ慄いているようだった。無理もない。

「神話級……だとしても。“時”を属性とする<天使>は年代記にも三体しか確認されていない。南の諸国(アクシズ)に一体、連邦に二体だけだ。もし本当にハルヴァヤーが時間を司っているならばだが」

「さすがは、と言ったところですね」

 柚子(ユーリス)は乾いた唇を舐めた。

「ものごとを終わりまで進める力。終末としての未来……神話級らしいといえばらしいですが。もし充分に成長すれば、やつはありとあらゆる事象を世界から取り出し、加速することで強められるようになる。そうなれば、本当に万能だ」

「報告しておこう。重要事項としてな」

 だが、中佐はできる限りの幅で首を振った。

「ありえませんよ。そんな力は強すぎる。強い力ほど圧縮は難しくなる。奇跡の基本ルールです。十年や二十年では無理でしょうね」

「だが、可能性はある。恐ろしいのはそれだ。君も知っている通りな」

 大佐はそう呟くと、病室をあとにした。今度は中佐も呼び止めなかった。

 

 

「難しい話してんのね」

 (メイ)准尉がぽつりと言った。中佐は顔をしかめた。

「君も出ていってくださいよ」

「駄目だよ、急に苦しみだして死んじゃったらどうするのさ」

 そう言う彼女は、この状況を間違いなく面白がっていた。

「心配だからついててあげてるんじゃあないの。おとなしくしてなさいったら」

「僕にありうべからざる醜態だ。こんな無様な」

 中佐は心底嫌そうに言った。(メイ)は首を傾げた。 

「ユーくん、あの船でも似たようなことになってたじゃない」

 柚子(ユーリス)は目を細めた。(メイ)は続けた。

「ほら、あの難民たちのとき……どうなったんだろう、あの人たちは」

「異民族の末路は服従か絶滅ですが」

 冷たく言う柚子(ユーリス)に、(メイ)は問いかけた。

「どうして、そんなに異民族が嫌いなの?」

 中佐は信じられないという目で彼女を見た。

「嫌いも何もない。これは国是ですよ」

「ユーくんはあのとき、苦しんでたね」

 (メイ)は静かに言った。

「あたしもずっと考えてたんだ。赤ちゃんの泣き声でしょう。ユーくんはあれを聴いてからおかしくなった。“戒律”だよね。それも一番重い……忌避型の戒律」

「やめろ」

「子供がだめなんだ。どうして?ユーくんはどうしてあんなに異民族が嫌いなの?人間じゃない、まともな人間じゃない、って言うの?それは――」

 

 ――自分こそがまっとうな人間だと思いたいから?

「やめろ!」

 柚子(ユーリス)は血を絞り出すように叫んだ。掠れた声がひっそりと言葉を落とす。

「やめてくれ……」

「ごめん」

 (メイ)は黙り込んで、自分の爪の白い部分を眺めていた。指にも傷があった。親指の腹がすっぱりと切れている。

「あたしの戒律はね、“柔和”」

 (メイ)はぽつりと言った。

「“他人を罵倒してはならない”……禁止型の戒律。だからあたしは人の悪口が言えない……言いたくない。誰かを人間じゃないだなんて詰ることはできない」

 自分の戒律を明かすのは、弱点を相手に委ねることと同じだ。それは戒律をずけずけ尋ねたことへの(メイ)なりの謝罪なのかもしれなかったし、または柚子(ユーリス)に向けたある種の信頼なのかもしれなかった。

「本当に後悔していることはね、永遠になくならないんだよ」

 (メイ)は言った。

「失せろ」

 中佐は吐き捨てた。

「イカれた特務兵の馬鹿女め」

「そうだよ」

 そういうなり、(メイ)柚子(ユーリス)の頬に手を当てた。

「わからないんだ。あの船で君の言った通り、あたしはまともじゃないんだ。生きてる価値がないのかもしれない。だからね、必要だって言ってほしいの。値段をつけてほしいの。特務兵として、女として、なんでもいいけど、誰かが保証してくれないとさ、不安なんだよね」

 (メイ)は力なく呟くと、また椅子に深く背を預けた。 

 

「悪いやつが生きてることは、罪だと思う?」

 

 いつもなら柚子(ユーリス)は激しく頷いていただろう。だが、彼は何も言わなかった。答えを出すことを投げ捨てたまま、彼は目を閉じ、傷の痛みに満ちたまどろみに落ちていった。

 

 ◆

 

 大佐は柚子(ユーリス)が言ったことを考えながら歩いていた。

「時間」

 ――ハルヴァヤーの正体は、時間ですよ。

 破壊でも分解でも消滅でもない。それは葬送なのだ。

 あらゆるものに訪れる滅び、悲観的な未来、ものごとを無理やり終わりへと導く力なのだった。

「似合いのモチーフだな」

 滅びの予言には。

 大佐はちょっと微笑んだ。面白いアイデアに思えたからだ。曳航連邦を終わらせるという<天使>が、時の属性とは、いやはや。

 

(レン)大佐でいらっしゃいますね?」

 そのとき、誰かに呼び止められて大佐は足を止めた。

 そこにいたのは軍服の女だった。

(ユディト軍……ではないな)

 大佐は訝しんだ。

 辺境軍の服装ではない。軍服はきっちりと襟を止めている。髪はまるで定規を当てたように几帳面に切りそろえられている。なにより印象に残るのは、死んだ魚みたいなその目だった。

「誰です?」

 大佐は尋ねた。

 女は答えなかった。服装からは所属も階級も読み取れなかった。大佐は目を細めた。そういうのは、軍規違反じゃなかっただろうか。

「なんの御用です?」

 大佐は言った。女は静かに薄い唇を開いた。

 その鎖骨の真ん中、喉の部分に、“せせら笑う唇”を象った契約印があるのに大佐は気づいた。

 間違いない、<人間イカリ>だ。

「ご伝言に上がりました」

 女は無味乾燥そのものの声で告げた。

「大佐殿にご命令です。『可及的速やかに首都テーバへと帰投せよ』と」

「しかし、私は評議会直々の任務を仰せつかっているのですよ。ユディトに来たばかりで帰れというのですか、首都へ?」

 大佐は答えた。

「評議会の任務を取り消すというのは、それこそ評議会レベルの審議があってのことでしょうな?」

 そこで、女ははじめて人間らしい表情を見せた。ちょっとだけ笑ったのだ。

「これは皇帝陛下からの、直々のご命令です」

 

 大佐ははっと顔を凍らせた。

「拝命しました」

 女はそれきりなにも言わなかった。行ってよいということなのだと判断できるまで待ってから、大佐は躊躇いがちに頭を下げ、早足で歩いていった。予定を組み直さなくてはならない。

 不気味な女だ。だが、皇帝陛下直属ということは、その地位は大佐よりも上になる。

 そうでなかったら、普段のように黙殺してやれたのに。

 

 当の女は、そんな大佐の後ろ姿を眠そうな目で眺めていた。

 鎖骨の紋章がかすかに光った。大佐のにおいがまだかすかに、ふつうの人間になら感じ取れないような薄さで残っている。

 彼女は薄い唇からべろりと舌を出し、端正な顔に似合わぬ仕草で空気を味わった。

 獲物を狙う肉食獣がやるように、野性的で危険な仕草だった。

 

 なにより、その薄桃色の舌には、“歯と牙”の紋章が白く鮮やかに刻まれていたのだった。

 

 To be continued…

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