■???
<
世界最強の曳航連邦だって、世界のすべてを知っているわけではない。航路の記録や浮信号が失われたために海図から消えてしまい、誰からも
ゆるくカーヴした暗がりの廊下は、鏡のように精緻なつくりだ。これほどに滑らかな彫金は連邦でもできない。彼は巨大な扉の前に立ち、朗々と述べた。
「
扉はゆっくりと重々しく開く。その中には、同じような仮面をつけたふたりの黒ずくめが待ち構えていた。
普通の教団員とは明らかに違う。手があり、星々を象った仮面をつけ、なにより
「久しいですね、“
その片方、月の仮面をつけたものが女の声で言った。
「此度の計画はどうだったのですか」
「やあ、“
太陽の仮面をつけたサングィスは答えた。
「問題はない。いくぶんかの損失は出たが、予定通りアシタ人を利用しての
サングィスは淡々と言った。ユディトが滅びかけた厄災を、まるで大したことだと感じていない口ぶりだった。
「あの王家の末裔に現象を止められたのは想定外だったが、これでまたひとつ世は浄化の時へと近づいた。悪くない成果だ」
実際に、彼らにとってはどうでもいいのだ。
人の住める土地が減っても、猛毒の海が水かさを増そうとも、それで人間が滅びに近づこうとも、すべては計画通りなのだった。彼らは、生命そのものを拒絶する教団なのだから。
「……だが“
と、黒い椅子に腰掛けていた“
カルニスは黙っていた。サングィスは首を振った。
「それは罪だ。我らはただ時を待つべきなのだ。だが、あなたのその意見は一考しよう」
「すでに曳航連邦はかなりのところまで計画を進めているようです」
カルニスがつぶやいた。
「罪深き
「それは喜ばしいことでもある。地上に罪が多ければこそ、<
横からオスが言った。その仮面には日の沈みゆく水平線が刻まれている。
「今回のように、我らの呼び声に天は応えてくださる。結局のところ、彼らの求めるものと我らの……求めるものは同じところにある。最後のときが来たれば、おのずから審判がくだるだろう」
「さて……“
サングィスは言った。オスは首を振った。
「書庫だ。知識の長としてはよい励みなのかもしれぬが」
「構わない。計画の成功はすでに記された事実、ひとつひとつ確かめる必要などありはしない。あれはそういう男だ」
サングィスはオスに向かってそう言うと、机に置かれた分厚い書物をめくった。
「偽リベリウスはすでに<
それを受けて、カルニスが口を開いた。
「無限偽典。この<
サングィスは唇を噛んだ。
「ああ。生命も死もない完全な世界は、すぐそこにまで迫っている」
そう言うと、彼は黒い壁に手を触れた。
それが透き通った。ガラスのように、水晶のように色をなくして向こう側を映し出したのだ。
大講堂を埋め尽くす<
「諸君らよ」
サングィスは言った。黒水晶の壁を通り抜けて、その声はなぜだかよく響いた。
無数の信徒たちが姿勢を正し、その言葉を聞き取ろうとした。ローブの奥で見えない顔が一斉にサングィスを見上げる。
「生きることは罪だ」
サングィスは朗々とのたまわった。
「それは変わりゆく願い。進みゆく意思」
「我々はその罪を否定しよう」
オスが続けて叫んだ。低く籠もったような彼の声は、大講堂へとよくとどろいた。
「変化も進化もない、完全で永遠なる真の楽園へと到達するのだ」
「そう、それこそが我らのあるべき形」
カルニスが歌うように言った。
「どうか、世に<
――世に<黙示録>のあらんことを!
――世に<黙示録>のあらんことを!
一同は一斉に繰り返した。
それは一体のうねりとなってあたりを揺らした。その震動の中心点で、恍惚とした笑みを浮かべながら、サングィスたちは天を見上げていた。石に閉ざされた、その向こう側にあるものを思い浮かべながら。
◆◆◆
■曳航連邦 首都 評議会
「忌まわしい」
議場の闇のなかで、誰かがそう言った。
「忌まわしいことだ」
「まったくですな。<黙示録>めが、気味の悪いことで」
「左様、彼奴らの目的は何なのだ?これでは人類が滅びに近づくばかりではないか」
評議会の面々は、すでに事の顛末を聞き知っていた。
船ならばどう頑張っても一ヶ月はかかろうが、彼らは曳航連邦の最高権力者たちだ。普通ではない手段をいろいろと持っている。それにあの現象は世界中の沈黙病患者を揺らすほどの規模だったのだから、なおさら。
「ことを急がねばなるまい」
聞き取りづらい声が言った。
「<
「ああ。たとえ人命をいくら消費しても構わん。あれを手に入れられさえすれば、何を犠牲にしようとも問題ない。因果律の源へ辿り着くのだ」
「やはり東方征服だな。小国家群は捨て置いても東の奥深く、中心地を手に入れることだ。それでもなお、アクシズとの来たるべき決戦にはまだ数が足りぬ」
彼らは暗がりの中で口々に話し合った。掠れた老人たちの声が、たくさんの虫の羽音のように議場に響いた。
それを打ち破るように、扉が開いた。
白い光が入ってくる。彼らの多くが不満げな声を上げた。不躾にもほどがある。議場の大扉をこうも無造作に開け放つなど。
「シャハール祭司官!」
ひときわ年嵩の、ひときわ掠れた声が諌めた。皺だらけの枯れ果てた身体をひかりから隠すように、袖を持ち上げながら。
「少しは場をわきまえたまえ。この議場は伝統ある評議会の――」
「知らねーよ、バァーーカ!」
入ってきたのは、長身の青年だった。
乱雑に刈られた黒髪はあらゆる方向に跳ね、後ろ髪だけを長く伸ばして大ざっぱに編みまとめている。
その様はあたかも、毒を持つ蠍に似ていた。みどり色の瞳がぎらぎらと煌めいている。
彼はにやりと笑った。
その顔は、不死者のそれに瓜二つだったのだ。
「退屈なんだよ。内緒話ばっかりコソコソやりやがって」
だがあの
「そういや、聞いたぜ。あの
曳航連邦元老院の評議会といえば、その最高権力者だ。常人ならその影すら踏むことの憚られる老人たちに向かっているというのに、青年の態度はまるで敬いのないものだった。
「シャハール。控えるのだ」
老人たちの一人が重々しく告げた。
「そう騒ぎ立てるものではない。機密事項ぞ」
その窘めにも、シャハールは顔を歪めるばかりだった。
「嫌だ嫌だ、長生きすると腰が重くなって嫌だね」
シャハールは両手を懐に突っ込んだまま首をひねった。
「まさにそれだよ。せっかく俺が長生きにしてやったのによ、やることといえばちまちました相談と密談。足りねーんだよ、つまんねーんだよ、あんたらには世界を相手に領土をガツガツ切り取ってやろうっていう気合が、飢えが、欲望が……王の資質が無いんだよ」
砲声のごとく一発、シャハールは床を踏み鳴らした。
「曳航連邦はすげー国なんだぜ。世界最強、<
シャハールは恍惚とした笑みを浮かべた。
「ものすごい量のリソースがひとつに集まって殺し合うあの熱!ぶつかり合う力と力!あれは最高だった……せっかくそれで世界にケンカを売ったのに、ビビって小さく縮こまってんじゃねーよ」
「これは戦略というものだ」
「東方と南のアクシズと、同時に相手取るのは愚の骨頂だ。特にアクシズには、まだ三体の――」
「それがビビりだって言ってんだよ」
シャハールはつまらなさそうにため息をつくと、ギラつく目を議場に注ぎ込んだ。それは光だけではなく、何か別のものをも捉えて睨めつけていた。
「あんまり俺を失望させんなよ?せっかくくれてやったその
評議会はとたんに沈黙した。シャハールから危険なリソースの気配が漂い始めた。蠍のような黒髪が震える。
「忘れたのか?お前たちの繁栄も、長命も!すべてこの俺が与えてやった、導いてやったものだ。お前たちに光を齎したのが誰か、いちいち思い出させてやらなきゃあいけないのかよ」
シャハールはゆっくりとした足取りで議場を進んだ。老人たちは押し黙っていた。口を開いた瞬間に舌が切れそうなほどの張りつめた静寂が満ち満ちていた。
天井から一滴のしずくが落ち、沈黙を破る。
「……なんてな。嘘だってばァ!」
シャハールは突然破顔すると、腹を抱えて笑い始めた。
「なァんだよ、急にマジになっちゃってよ、そんなことするわけないだろ?あんたらは大事な俺の仲間じゃんか。それに、一世一代の戦争がまだこの先に控えてるからな」
シャハールは侮辱的な仕草で上を指した。
「“天”に喧嘩を売るんだろ。早くしろよ。退屈なんだよ。始めたいんだよ、不死の俺も消し飛ぶんじゃねーかってくらいヒリヒリする大戦争をよォ」
そう言うと、シャハールは指を鳴らした。
「話は終わりだ」
その身体が薄れ、透き通りだした。
光の塵になるのとは違う、実体を留めたままの消え方でどこかへ失せていく。さっきまで空間を埋め尽くしていた強いリソースの気配がなくなって、つかえが取れたような清々しさだった。
老人たちは最後まで残ったシャハールのおぼろげな輪郭を、眩しげに目を細めて睨みつけた。大扉がひとりでに閉じていく。
「言われずとも分かっておる」
暗がりの中、ひときわ年老いたものが言った。
「
◆◆◆
◆◆◆
■ユディト近海 “
海風のなかを、白い鳥が飛んでいく。
海鳥は船乗りにとって幸運の象徴だ。なぜなら彼らの姿は、近くに都市があることを意味するのだから。
それに混じって、異様なものが空を飛んでいた。
それは毛織物だった。粗く硬い獣毛を織った敷物だったのだ。真っ白な布地を縁取るように金の糸が波打ち、黒い房糸が縫い付けられている。なにより目を引くのは、まるで牙のように彫刻された金属の
牙の印は聖異物のあかしだ。
その空飛ぶ絨毯のうえで、これまた純白の男が水平線を睨んだ。
眼差しの先には、巨大な船がゆうゆうと霞の奥へ消えていくのが見えていた。戦艦タルシシュだ。忌々しい“
「厄介なおまけがついてきたものだな」
堪えきれず、“
その口元が、唇の端に煙草のごとく咥えた笛へ、かすかな息を吹き込んだ。
「《
力ある言葉が唱えられる。
次の瞬間、そばにいた少女がゆっくりと立ち上がった。
真紅の瞳の彼女は押し黙ったまま、全身の銀の鎖をちゃりちゃりと鳴らす。その右腕が高らかに掲げられ、太陽を指した。
指先がぱっと燃え上がった。
まるで太陽に触れた指が、そこからひとつかみの炎を摘み取ったみたいだ。顔を向けるだけで瞳が焼けそうなほど熱い。
けれど、それを持っている彼女の滑らかな黒髪も、うすぎぬの衣も、白くたおやかな指先だって、ほんのひとかけらも焼けこげてなどいなかった。
「さあ、今こそ働いてもらおう……我が“炎”よ」
人形王がかすかに指先を動かす。
少女は凍りついたような無表情のまま指先の太陽を握りしめると、はげしく燃え盛るそれをタルシシュめがけてそっと投げ放った。
To Next Episodes…