<Infinite Apocrypha>   作:Mk.Z

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水甕の心臓

 ■(メイ)准尉

 

 湿った風の吹く日には、(メイ)はいつも思い出す。

 

 ◆

 

 

 母親の(シエンマー)は小言の多い人だった。

 

 朝の早いうちから、(メイ)のあばら家には甲高く鍋を叩く音が響いていた。温かくてちょっとちくちくする寝床から這い出すと、母親は大きな籠を並んだふたりへ無造作に押しつけた。

 そうだった、幼い頃は妹と二人で眠っていたのだ。

「さあ、何を寝ぼけているんだい」

 母はいつも通り、いらいらと言った。

「早いとこ“湿原”へ行っておいで。分かってるね、籠がいっぱいになるまで決して帰ってくるんじゃあないよ」

 二人が家からそうやって追い出されるとき、決まってまだ夜は明けたばかりだった。空にはレイラインがかすかに残っていたし、太陽は水平線の向こうで眠たげにしていた。月の光が西の空に尾を引いて消えていく。

 

 そんな夜明けの闇の中には、黒々とした“湿原”が見渡す限りに広がっている。

 

 “湿原(ヴォドランド)”というのは、当時の(メイ)にとって世界の名前に等しかった。母親と娘二人が住んでいるあばら家は湿原のほとりにあったし、他にまだ幾人かの湿原者(しつげんもの)がいることも知っていたが、ほとんど顔を合わせることもなかったのだ。

 子どもの彼女が知っているのはそれだけだった。ならば、使う名前は“湿原”だけで事足りる。この湿原を含む巨大な()()()()()()が都市船ジュバという名前で呼ばれていて、海の向こうに他にも()()がたくさんあると知ったのはもっと、ずっと後になってからだ。

 

 “湿原”はあたり一面、丈の高い(アシ)で覆われている。

 その下には黒い泥沼があり、何とも言えぬすえた臭気を発していたが、(メイ)は気にならなかった。妹と一緒に、大きな籠を引きずりながら、そのなかを掻き分けていく。

 二人の仕事は、沼林檎(シェリン)を集めることだった。

 茂みの中に埋もれているこの果実は、泥臭い皮を剥くと瑞々しい果肉を蓄えている。それを口いっぱいに頬張ったならそれはもう甘い果汁が喉を伝うのだけれど、残念ながら、(メイ)がそれを食べられる機会はあまりなかった。

 港町に持っていくとそれなりの値で売れるのだ。

 陸地で採れるものには、そのもの以上の価値がある。魚や海穀(フヌート)*1、紅藻みたいな海のものを食べたって毒があるわけじゃない。けれど、それでも陸の食べ物を欲しがるのが人間というものだった。味や滋養のあるなしではなく、陸で採れたということそれ自体が肝なのだ。

 

「お姉ちゃん、まだそれだけなの?」

 妹の(マンサ)が揺れる葦を掻き分けて顔を出す。

「もう日が暮れるよ、先に帰ってるね――」

 (メイ)は走り去る妹を微笑んで見送り、そしてため息をついた。空にレイラインが輝き始めているというのに、籠はまだ軽い。

 たぶん、自分は要領が悪いのだ。泥のなかから素早く目当てのものを見つけて、取って、次を探す。それだけなのに、どうしてこんなにも差がつくのだろうか。

 ボロ屋に帰ると、いつもどおり、母親はふたりの収穫を確かめて小言をつけた。

「やあ帰ったね。どうだい、取れたかい。籠をお出し」

 (メイ)と妹が籠を差し出すと、彼女は不満げに言った。

「なんだい、これっぽっちしか採れなかったのかい。これじゃあおまんまの食い上げだよ。特に(メイ)、あんたときたら」

 母親は常からして、子供は比べて育てることで良くなるというのを持論にしていた。妹と姉、ふたりの優劣をつけるのは簡単なことだった。籠の重みをみればよいのだから。

(マンサ)の半分も採れていないじゃあないか。きっと怠けていたんだろうね。分かってるね、いつも通り夕餉は半分だよ、当たり前だろう?その食べ物だって、あたしらみんなの稼ぎでやりくりしているんだ」

「ごめんなさい」

 (メイ)は言った。

 妹の(マンサ)はその横で自慢げな顔をしていた。

 歳は二つほど下のはずなのに、もう背丈で言えば同じくらいだ。見目だって彼女のほうがずっといい。田舎臭い(メイ)とは違って、妹には華があった。鄙には珍しい器量、というやつだ。

「お姉ちゃん、もっと頑張りなよ」

 妹は、母親そっくりの大人びた口調で言った。(シエンマー)がうなずいた。

「そうだよ、まったくだ。仕事のできないやつは生まれつきこうなんだねえ、足りてないのさ。人間の足りてない奴には飯も足りないよ、当然の理屈だろう」

 妹と母親にせせら笑われる(メイ)は、いつの間にかはにかんだ笑顔の仮面を身に着けていた。その巧さはちょっとしたものだ。なにを言われようと間の抜けた笑顔を浮かべていれば、それで終いになるのだから。

「なんだいこの子は、変な子だよ」

 母親はよくそう言ったものだった。

 彼女にとって、貶されているのに怒らないというのはそれすなわち間抜けの証、罵倒すら理解できない唐変木の証明なのだった。普通の、ちゃんと足りた子供なら、むきになって苛立つべきなのだ。

 

 ◆

 

 四、五日おきに、家族は港町(ハイブン)へと降りていく。

 

 湿原から海へと続く曲がりくねった道を進むと、いくらもせずに白い町並みが見えてくる。港にある船は殆どが硬く武装した漁船だった。町外れにはお役人が住んでいるらしい“のっぽ屋敷”が背を伸ばしているが、(メイ)は近づいたことがない。

「さあ、いい子で待っておいで。大人の仕事を邪魔するんでないよ」

 沼林檎と、あとは葦の繊維から作った織物を売っている間、母親はそう言って、ふたりをうっちゃっておいた。(メイ)にはよく分からなかったが、それはそれで大変な仕事らしかった。どうにかして高く買ってもらおうと、母親は必死だったのだ。

「あっちへ行こうよ!」

 そう逸る妹の手を引いて、(メイ)は通りを散歩した。細くて段々になっている裏路地を走り回ったり、堤防の陰を探検したり、通りに軒を連ねている細工物師の店を見て歩いたりした。

 もっとも細工物師(サイカー)にしてみれば、買いもしない子どもの冷やかしなど邪魔で仕方なかったのだろう。野良犬でも追い払うように時折睨むだけで、愛想のかけらもなかった。

 その店先にはサンゴの欠片を削っただけの簡素な首飾りや、耳飾り、指環がずらりと並べられていた。妹はそれを見て、にやにやと笑っていた。

「綺麗だね、お姉ちゃん」

「うん。すごく光ってる」

 (メイ)はサンゴの欠片に向かって言った。それを身に付けた自分を想像しながら。湿原にはみどりと、黒と、褐色のものしかない。こんなふうな桃色、薄紅色があったらどんなに映えるだろう、鮮やかで、淡くて、きらきらと光っていて。

「買ってもらえたらいいのにね、お母さんに」

「そうだね。あっ、でもさ――」

 妹は笑った。

「――お姉ちゃんには無理だよ」

 その時、妹が口走った言葉につきっと(メイ)は胸を刺されたような気がした。

「お母さんいつも言ってるもん。お姉ちゃんにはなんにもあげないって。でも、あたしが貰ったらお姉ちゃんにも貸してあげるよ」

 無邪気な口ぶりだった。

 それがなお一層、(メイ)を深く突き刺した。こうして安穏に遊んでいても、彼女が役立たずのほうの子供だという負い目はまとわりついてくるのだ。妹がそれを悪びれもせず口走ったのが劣等感に拍車をかける。彼女が劣っているのは特別なことではなく当然で、当たり前で、覆しようもないことなんだろう。

 サンゴの桃色が突然、薄ら寒く見えた。

 妹はそんな(メイ)の心中なんか気にした様子もなく、気にかけるべきものだとも思っていない様子で、朗らかに次の店へ駆け出していった。

「待って!」

 (メイ)がそう声を上げたとき、妹が人にぶつかった。

 

 ◆

 

 そこにいたのは、二人連れの男だった。

 船乗りらしい真っ黒な外套を頭からすっぽり被っている。間違っても海の水に触れないように、船乗りは脂をすり込んだ荒布で体を覆うのだ。背の低いほうが苛立ちの声を上げた。

「気をつけろ」

「そう怒るな。子供だぞ」

 背の高いほうがそう諌めた。

 妹はいつもの陽気さがどこへやら、(メイ)の後ろに逃げ込んで袖を掴んでいた。(メイ)は静かに頭を下げた。

「ごめんなさい」

 彼らは――おそらく、二人とも男なのだろう――それ以上の不機嫌を顕にすることもなく、ただ黙って店の品を物色していた。背の低いほうがひときわ大きなやつを取り上げ、バカにしたように鼻を鳴らした。

「これを貰おうか」

 (メイ)はびっくりしてそれを見つめていた。こんなに簡単にあんなものを買ってしまえるのだ。きっと名士に違いない。その驚きのまなざしに気づいたのだろう、さっき庇ってくれた方が優しげな声をかけた。

「この辺の子かね?」

 (メイ)は首を振った。

「ううん。“湿原”から来たの」

 その言葉に、彼らはちょっと感心したようだった。

「ほう。遠いのかね?」

 (メイ)はやや躊躇ったあとで、右手の方角を指差しながら首を振った。男はそっちを見やると、懐からなにか取り出した。

「少し道を尋ねたい。我々は曳航連邦の軍人だ。わかるか」

 再び(メイ)は首を振った。このときの彼女には、湿原と港町以外のなまえの持ち合わせがなかったのだ。それを見て、後ろから無愛想な方が嘲りを差し挟んだ。

「これだから辺境は。皇帝陛下の恩寵も理解しないで」

 (メイ)がなんのことか分からずにぽかんとしていると、彼はなおもあきれた声で続けた。

「このジュバ市も曳航連邦の一部だ。皇帝陛下は日々、その類稀な御力で迫りくる猛毒の海から人界を護っておられるのだ。おまえたちの平穏な暮らしも陛下の恩寵があらばこそなのだぞ」

「よさないか」

 男はそう言うと、手の中に握っていたなにかをふたりに差し出した。

「これをやろう。幾つか質問させてくれたらな」

 それは金属のかけらだった。(メイ)は首を傾げた。食べられもしない、かといって尖っていたり窪んでいたりするわけでもない。こんなものが何になるというのだろうか。

 

「この都市の“浄土(ゾーン)”を知っているか?」

 

 男から出てきたのは、そんな聞き慣れない言葉だった。

「“湿原”というのがあちらにあるのだろう?そこで心当たりはないかね」

 (メイ)はやっぱり首を振った。妹もようやくそれくらいの余裕を取り戻したらしく、一緒になって首を振った。

「そうか」

 男はそれだけ答えた。もう一人のほうがせせら笑った。

「“浄土(ゾーン)”のことも知らぬとは、いよいよ哀れな田舎者――」

「おい、いい加減にしろ。……お嬢ちゃん方、引き留めて悪かったな、行くといい。それは道案内の礼だ」

 なにかわからぬ金属のかけらを握りしめて、(メイ)はぺこりと頭を下げると、来た道を戻っていった。妹はやっぱりその背中を鷲掴みにしながらおじおじついてゆく。男達はそれを見送ると、ゆっくりと別の方角へ歩き去っていった。

 

 ◆

 

 母親の(シエンマー)は、その金属のかけらを見るなり血相を変えた。

「こりゃゼータ硬貨だよ」

 (メイ)(マンサ)から受け取ったものをしげしげと眺め、彼女は言った。

「カネというもんだよ。ここらじゃめったにお目にかかれない。あんたたち、そりゃきっとたいそうな名士に違いないよ。よくやったね」

「ゾーンを探してるって言ってた」

 (メイ)は褒めてほしくてそう言った。

「ねえ、ゾーンってなあに?」

 あいにく、彼女も知らなかったのだろう。

 ゼータ硬貨に見惚れるのを邪魔された母親は、とりつくしまもなく顔をしかめた。

「なんだいそりゃ。まったく、いつもいつも変なことばかり言う子だね。そんなことより、いいかい、よくお聞き。その二人連れに目を光らせとくんだ。この辺はあたしら湿原者(しつげんもの)の領分なんだからね、うまくすればもっとカネをくれるかもしれないよ」

 そこからはいつも通りだった。母親はボロ屋の女王らしく威厳たっぷりに鍋を打ち鳴らした。

「そら、水汲みに行っておいで!大甕(ダー)に三つ溜まるまでやめるんじゃあないよ」

 

 湿原の水は泥だらけで腐っている。

 だからとても飲めた代物ではないのだけれど、その泥地のなかには川のように流れの速いところがあって、そういう場所の水はまだ清らかだった。

 葦の足元をひんやりとした水がちらちら走っている。

 (メイ)と妹は甕に水を汲み、せっせと運んだ。ここでもやはりというべきか、妹はさっさと仕事を終わらせてしまった。

「お姉ちゃん、遅いよう!」

 妹は甕を背中に担ぎながら、泥沼のなかをけらけら笑って帰っていった。どうしてこんなにも仕事ぶりが違うのか、(メイ)はみじめな気分だった。水を汲むだけ、本当にそれだけなのに。

 

 ため息をついたとき、あの二人連れが近くを歩いているのに気づいた。

 不思議な男たちだった。

 (メイ)が知っている大人と言えば、港町のがさつな船乗りや、或いは居丈高で神経質そうな役人、あとは勿論、ボロ家の女王である母親だった。でも、彼らはどれとも違う。船乗りともなんだか違うのだ。

 男たちは葦をかき分け、なにかを探している様子だった。時折遠くを眺めては、また足元を見おろしている。

 面白いことに、その足は泥一つついていなかった。ふつう、湿原を歩き回るなら、大人の背丈でも膝までくさい汚れにじゃぶじゃぶ浸からねばならない。けれども彼らは、よごれた水面のうえを陸地みたいに歩いていたのだ。

「ひどい匂いだな」

 背の高いほうが言った。

「どうにも、鼻が腐りそうで参るよ」

「こうも湿っぽいのでは源流を辿るのも一苦労ですね」

 背の低い、皮肉っぽいほうが相槌を打った。

 雨も降らない、海辺でもないというのに彼はなぜか傘を差していた。大人にしても大きな傘だ。(メイ)はなんだか、その傘の影がおかしいような気がした。明らかに傘の径より倍はある。

「どこから水が来ているのか分かりやしない。どうします?当てずっぽうに内陸を目指しますか?」

「大きな都市船じゃない。海に沈んでいないことを祈るしかないが……とにかく、まずはこの辺を終わらせてしまおう」

 男は連れに言った。

「頼む」

「ええ。大丈夫ですよ」

 連れの男はそう頷くと、傘と外套の陰でよく見えない手をちらっと動かし、雨傘を回した。よく見ると、それは鋼鉄と板金で造られていた。

「《陰影(ツェール)》」

 陰が膨れ上がった。

 湿原を渡る風のように傘の影が膨らみ、黒いさざ波になって(メイ)を通り過ぎていった。

 嫌な感じがした。

 湿原の泥の中を歩いていると、時折ふいに、発酵した枯れ草の熱で温んだ澱みが冷たい清水に混じる境目を通ることがある。(メイ)が感じたものはそれに似ていた。まるでさっきまでとは全く違う異質な空間、違う世界に入り込んだような感じがしたのだ。男は風の匂いを嗅ぐようにして顔を上げた。

「やはりこのあたりには何もありません、俺の領域に感じるようなものは何も。力のある人間や物品は感じ取れませんでした……いや、失敬」

 そこで、彼は(メイ)のほうを見た。

 あの“違う世界”の感覚が、男のほうに引きずり込まれるようにして薄れて消えていく。葦に屈み込んでいる(メイ)が見えるはずはないのに、男は腹立たしげな声で呼んだ。

「こそこそと何をしている、沼のネズミ」

 (メイ)はびっくりして固まった。水甕を放り出してそっと男の方を見る。葦のすき間から、男がこっちに手を、黒い手袋を向けるのが見えた。

「《来い(エクシィ)》」

 その瞬間、ぐいっと引っ張られるような感じがきた。

 (メイ)は思わず抵抗したが、無駄だった。すごい力が丈夫な綱みたいに身体を引っ張り出していく。葦を蹴立てて泥水の上を滑ったかと思うと、(メイ)の胸ぐらを男の手が掴んでいた。

 

 (メイ)は目をパチパチさせた。

 湿原暮らしの子供だって話には知っている。これは<天使>の力だ。

 <人間イカリ>の男はあからさまに舌打ちした。

「嫌ながきめ。そんなに大人の仕事を覗き見るのが好きか?」

 男は(メイ)をぶら下げると、顔をしかめて泥の中へ放った。ちらっと見えた外套の中のその顔は、どうにも蒼白くて陰険そうだった。

「ここはもともと彼らのものだ。そう邪険にするな」

 背の高いほうがそう窘めた。<人間イカリ>は首を振った。

「この世の大地はあまねく皇帝陛下のしろしめす所です」

「本当にそう思っているなら俺のこれに付き合う理由もないだろうに。さっさと行くぞ。今日のうちに10ローグくらいは稼ぎたいんだ」

 そう言って立ち去ろうとする男たちを、(メイ)は慌てて呼び止めた。母親が目を光らせておくんだよと言っていたのを思い出したのだ。褒めてもらえるかもしれない。役に立つ子供だと思ってもらえるかもしれない。(メイ)くらいの歳の子供にとって母親は王に等しかったし、ボロ家は小さな王国だった。妹は貴族だった。ならば、一番身分の低いのは(メイ)だろう。

「ねえ、聞きたいことがあるの」 

 男は振り返って立ち止まった。傘の<人間イカリ>がその後ろでやれやれというしぐさをした。

 

「ゾーンってなあに?」

 

 男たちは顔を見合わせた。

「どうするんです?」

 <人間イカリ>は言った。

「いい顔をするから懐いてしまって。餌をやったのは貴方ですよ」

「なぜそういう言い方をするのかね、お前は」

 男は頭巾の中でため息をついた。疲れた口元がかすかに暗がりから覗いていた。

「お嬢ちゃん、悪いがそれは家に帰って尋ねることだ。これでも我々は先を急いでいる。彼が()を出したのは悪かったが、すまないね、行かせてくれ」

「教えてよう」

 (メイ)は大きな声で言った。ちょっぴりばかり妹の真似をして。

「参ったな」

 男は節くれだった指で頭をかいた。よく見えないけれど、思ったより年老いているのかもしれない。

 <人間イカリ>がそれを見かねたのか、ずいと前に出てきた。

「ならば教えてやろう、小僧」

 その足がやっぱり水に沈んでいないのを見て、(メイ)は自分の膝を眺めた。泥だらけで緑色に汚れている。

「見ろ」

 <人間イカリ>はそう言って、足元を指さした。

 

 水が流れている。泥の上にこまかくのたくったような筋をつくって、ちろちろと流れている。ごつごつした石が流れに洗われて、泥から頭を出している。

「どの都市にも水はある」

 <人間イカリ>は言った。

「まあ、たいていは浄水道の形をしているが、同じことだ。清らかな水があるのだ。触れても人間を溶かさない水がな。それがどこから来るか、果たして考えたことがあるのか?猛毒の海とは違う、清らかなそれが」

 (メイ)はぽかんとして<人間イカリ>の男を見上げた。その濃すぎる陰が、ざわめいたような気がした。

「“浄土(ゾーン)”は水の源流だ。【清浄炉(ユートゥルナ)】のあるところ。この水のすべてが湧くところだよ。まさか、なんの仕掛けもなく綺麗な水が飲めると思っていたのか?そんなはずがないだろう」

 <人間イカリ>は吐き捨てた。

「虫酸が走るんだよ。そうやって、なんの躊躇いもなく膝まで水に浸かっていられる無神経さが。俺たちは今、この瞬間にも海に溶けてしまうかもしれないような哀れな生き物だというのに」

 (メイ)は<人間イカリ>の足を見た。長靴の隙間から覗くそれは、どうも銀色の機械で造られているように見えた。

「それだけだ」

 最後にそう呟くと、<人間イカリ>の男はずかずかと濁った水面を歩いていってしまった。背の高い男はちょっと会釈をすると、やっぱりそれについて去っていく。

 切れ切れの言葉だけがかすかに聞こえた。

 奇妙な訛のある彼らのことばは、(メイ)にとって特別なものに思えた。彼らは武装漁師たちや、果物を採って暮らす湿原者(しつげんもの)、市場にいる職工とはまったく違うところから来たのだ。

 

「あっ」

 それに背を向けて帰ろうとしたとき、(メイ)は声を上げた。

 さっきの拍子に倒れた水甕が、小さな石にぶつかって割れていた。

 

 ◆

 

「まったく、この子はなんてしょうがないんだい!」

 家に帰ると、母親は烈火のごとく怒鳴った。

「その、水甕一つ買うのに、沼林檎をいくつ持っていきゃあいいと思う?干し草何束が、必要だと思うね?ええ?」

「ごめんなさい!」

 (メイ)は服を剥ぎ取られ、床に転がされて、ただ只管に謝るしかなかった。

 (シエンマー)は鯨皮で作った紐を鞭のようにして素っ裸の(メイ)を叩いた。身体中を傷だらけにされていく彼女を、部屋の隅から臆するような、それでいて面白がるような妹のまなざしが見ていた。

「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」

 (メイ)にとってその「ごめんなさい」というのは、唱えてみても効き目の薄いまじないだった。母親はそれで手を緩めることなんか一切しなかったのだ。ましてや反省の色などどうでもいいことだった。母親にとって、(メイ)が迷惑な子供であることに変わりはないのだから。 

 ひとしきりの鞭打ちが終わると、革紐で天井から逆さに吊るされた。頭に血がのぼって、涙と一緒に鼻からぽたぽた落ちた。息が苦しくてあえいでみても、母親はやめなかった。

「グズ、間抜け、どうしようもない子だよ!これで何度目だい、ものをだめにするのは!どうしてこうなるかわかってるよ、あんたはものの大切さってのがわかっちゃいないから簡単に壊せるのさ!」

 (シエンマー)は、子どもの教育には痛みこそが何よりだという強い信念を持っていた。その我慢ならない根性を叩き直そうと、母親は逆さ吊りの(メイ)を手近にあった棒切れで力のかぎりぶちのめした。

「あたしゃ本当にいい母親だよ」

 とうとう血まみれで家の外に放り出された(メイ)を見おろしながら、戸口の(シエンマー)は肩で息をしていた。

「ああ疲れた。子供を叱るのだって疲れるもんだ。今日は晩飯は抜きだよ。そのぼうっとした頭を少しは引き締められるように、一晩じっくり考えるんだね」

 服は返してもらえなかった。

 “湿原”は決して寒いところではなかったが、それでも素肌を晒して過ごすには向いていない。吹き抜ける湿った夜風はじわじわとぬくもりを奪っていく。(メイ)はボロ屋の陰に座り込むと、まだちくちくしない枯草を選んで集め、裸のまま身を丸くして眠った。自分の手足だけが、唯一温かいものだった。

(ごめんなさい)

 心のなかで(メイ)は唸った。

 自分が悪いのだ。愚図で間抜けでとんまな自分が。この家も服も食事も母親が与えてくれたものなのに、自分は迷惑をかけてばかりだ。

(ごめんなさい)

 妹が羨ましかった。

 要領が良くて、器量が良くて、母親から好かれている妹が。ああいうふうに生まれついたのならきっと、人に迷惑をかけることもなかっただろうに。 

 できるだけ世界に居場所を取らないように身を縮めながら、いつしか(メイ)は眠りに落ちていった。

 

 ◆◆◆

 

 そんなことがあった次の日だからって、仕事がなくなるわけではない。

 (メイ)は不機嫌な母親に蹴り飛ばされるようにして起きた。服は返してもらえたが、朝餉はなかった。溺れたようにぼやけた頭でふらふらと“湿原”へ行く。

「大丈夫?」

 妹がそう言って、(メイ)を覗き込んだ。

「お姉ちゃん、なんで水甕壊しちゃったの?」

 それはあの人が――そう言いかけてから、(メイ)は言葉に詰まった。<天使>なんか持ち出したって信じてくれるはずがない。案の定、ろくになにも言わないうちから妹は唇を歪めた。

「いけないんだよ、気をつけなきゃ。横着はだめよ」

 その言い方があまりにも母親そっくりだった。

 腹の底をあぶるような不快感がじりじりと(メイ)を揺らした。けれど、すぐにそれは重たげな後ろめたさになった。妹の言っていることは正しい。

 自分は間抜けでぐずだ。そう言われてむきになる資格が自分にあるのか?(メイ)がそんなことを考えている間に、妹はどんどんと先へ行ってしまっている。沼林檎を摘み始めている。

 どうしたら、ああなれるのだろう。どうしたら、母親に褒めてもらえるのだろう。

 どうしたら、ここにいていい子どもになれるのだろう。

 その惨めさを噛みしめる裏で薄っすらと、(メイ)はあの二人連れのことを考えていた。

 

 彼らがもしたくさんの“ゼータ”をくれたら、母親は喜ぶだろうか。褒めてくれるだろうか。ここにいていいと許しをくれるだろうか。食べ、着て、眠る自分の迷惑に釣り合うものを母親に返せるだろうか。

 (メイ)は湿原に踏み入った。

 冷たい泥が足の指の隙間に入ってくる。妹が素早い手つきで沼林檎を集めているのを尻目に、(メイ)はゆっくりと揺れる葦の奥へと歩いていった。

 

 “湿原(ヴォドランド)”の奥へ立ち入ることは、母親に禁じられていた。

 それはなかば脅しじみていた。二度と帰ってこられなくなる、と言われていたのだ。沼林檎を集めるのはあくまでも辺縁のほとりだけで、広いその奥がどうなっているのか(メイ)も知らなかった。

 泥と枯れ草だけが延々と続く湿原に、歩きやすい道などありはしない。それでも湿原育ちの勘で、彼女は深みを避け、浅瀬を辿って進んだ。

「ゾーン」

 その言葉だけが手がかりだった。

 彼らはゾーンを探している。そして、それは水の流れを逆さに追いかけていったところにある。それさえ分かっていれば十分だ。

 (メイ)は流れを遡っていった。うねうねと曲がりくねる流れは、次第に合流し、大きく深くなっていった。水は冷たさを増し、ややもすれば足を取られそうだ。

 馬鹿なことをしている。

 そういう声が頭の奥で聞こえたが、それでも(メイ)は進み続けた。半ば自棄(やけ)になっていたのかもしれない。泣き疲れたあとの気だるい眠気が、ぼうっと熱に浮かされたように彼女を曖昧にしている。それにたぶん、いま家に帰っても辛いだけだ。

 

 やがて、あたりの色が変わり始めた。

 真っ白な霧が出てきたのだ。それは綿毛のように前方から現れ、ゆっくりと通り過ぎてゆき、やがて四方を埋め尽くした。葦の先にしずくがびっしりと鈴生りになっている。

 湿原に霧だなんて、めったに無いことだった。まだいくらも進んでいないのに、と(メイ)はあたりを見回した。

 

 霧の中を、ぐうっとなにかが通り過ぎていった。

 大きな、黒っぽいなにかだった。(メイ)は息をひそめ、身を低くして目を凝らした。凝乳(カード)*2のように濃い乳白色のなかに、黒い影が確かに動いている。ひどくゆっくりだ。

 それは人影だった。

 文字通りに人影だった。不思議なこともあるものだ、人はいないのに、影だけが立って歩いているのだから。重さは無いのだろう、水の上を踏みしめるようにして、ゆっくりゆっくり湿原を歩いていく。

 彼らはみな(メイ)の来た方角を目指しているようだった。恐ろしげな見かけによらず、(メイ)のことには目もくれない。そもそも目があるのかどうかすら分からない。ぼんやりした人影たちは、まるで煙みたいに曖昧だった。

 

 (メイ)は人影の群れとすれ違うように進んだ。

 なんとなく、彼らが向かうのとは逆の方に目指すものがあると思った。ゾーンはきっとそこにある。

 やがて葦が無くなり始めた。

 もはや湿原は湖のようだった。肩までざぶざぶと水に浸かりながら、(メイ)は泳ぐみたいにして進んだ。何を目指しているのか分かりもしないまま。

 あたりに生き物はいなかった。あれだけ湿原を埋め尽くしていた草木はきれいさっぱりなくなり、澄み渡る水がどこまでも広がっている。その上をつうっと滑っていく霧の塊と、まばらに現れては歩いていく黒い影だけが、目の端で動くものだった。

  

 湖の真ん中には、小高い丘があった。

 真っ黒な岩で出来たその丘、あるいは小島に、(メイ)はどうにか這い上がって息をついた。そこの尖った岩肌は触れるたびに手を刺した。小石を拾い上げてみると、それはひどく重かった。

 鋼鉄のようだ。

 

 そしてそこには、あの二人連れが佇んでいたのだった。

 やっぱりあの外套を頭から被っている男達は、小島を調べるようにゆっくりと歩き回っていたが、すぐに(メイ)の頭に気づいて近寄ってきた。

「驚いたものだ」

 男は肩をすくめた。

「いや、実に驚いた。昨日の子供じゃないか。いったいどうしてこんなところにまで?」

「なにか企んでいるのではないですか」

 傘を差した<人間イカリ>が言った。

「不審ですよ。始末しておくのもいいかもしれないですね」

「まったく、よせ。こんな子供に何があるというんだ」

 男の言葉も、<人間イカリ>は取り合わなかった。

「お言葉ですが、見てくれなんか当てにならないことは重々承知のはずです。特に我々の仕事では」

 そう言うと、彼は差している傘を閉じようとした。その途端に、男は血相を変えて怒鳴った。

「力は感じないんだろう?君は腕利きだ。この子供の陰によからぬ術者がいるのなら分からないはずがない……やめるんだ」

 出鼻を挫かれたように、<人間イカリ>の男はしぶしぶ頷き、(メイ)を外套の奥の冷たい目で見下ろした。

「では、なぜ来た?」

「……ゾーンを探しに来たの」

 (メイ)は正直に言った。優しい男のほうが困ったようなため息をついた。

「とんだきかん坊だ。こんなに怪我をして……遠かっただろうに。影たちの間を抜けてきたのか」

 この傷はここに来るより前からついていた、とは(メイ)も言わなかった。男は(メイ)の傷にべたべたした脂を擦り込み、頭を軽く叩いた。

「ここは子供の来るところではないぞ」

「ねえ、あれは何なの?」

 (メイ)は聞こえなかったふりをして尋ねた。指の先にはあの人影のひとつが湖から現れ、霧の塊とともに湿原を目指して歩き出すのが見えていた。

「さあ……分からない。死者に似ているが」

 男はそう言った。

「死んだものの遺志が空間に焼きつくと、時折ああいうことが起こるのだ。あれは空間系の奇跡でもなければ消せない……空間の記憶だからな。だから変わることもない。永久に繰り返すだけだ」

「死んだ人?」

 (メイ)はぽかんとして繰り返した。男は頭巾を揺らすように首を振った。

「よそう、こんな話は。別に害があるわけじゃなし」

 それより、と男は薬壺をしまい込みながら言った。

「折角の機会だ。この“歴史”的遺物をぜひ君も目にしたまえ」

 <人間イカリ>が唸るように咳払いをしたが、男は聞こえないふりで歩きはじめた。

 島の大きさは(メイ)の家よりひとまわり広いくらいのもので、その中心までもたいして距離があるわけではなかった。黒い地面から、のっぺりした石碑(モノリス)がいくつか頭を出している。その門のような隙間を通り抜けると、男は(メイ)に向かって言った。

「我々はついに辿り着いた。おめでとうご両人、ようやく、辿り着いたというわけだ」

 

 そこにあったのは、大きな裂け目だった。

 深い、ひどく深い大穴が口を開けている。それを満たしている水が恐ろしいほど澄んでいた。覗き込むだけで吸い込まれそうなほど透き通っていた。

「ここが“浄土(ゾーン)”、その中心点だ」

 男は傘の<人間イカリ>に向かって言った。

「では、頼めるか?」

 <人間イカリ>は前髪を一本引き抜くと、その坑を満たす水に垂らした。それは澄んだ水の中でただ、ゆらゆら揺れた。

「ええ、これは普通の水です。言うことを聞かせられるでしょう」

 そう言って、彼は手袋を裏返しに嵌め直した。真っ黒な革の裏地は毛羽立って褪せた白だった。

「《行け(アビー)》」

 白手袋を翳してそう呟いた途端、水がぱっくりと割れた。

 形のないはずの水が、包丁で切り裂かれた凝乳(カード)のように開いたのだった。その向こう側には、何も見えない真っ暗な闇が澱んでいる。都市船の太古からの闇だ。

「その子供はどうする気です?」

 <人間イカリ>は肩をすくめた。長身の男は咳払いをした。

「連れて行くしかないだろう。荒野に放っておけというのか」

「お好きに」

 もはや抗弁する気力もなくした<人間イカリ>は(メイ)に向かってため息をつくと、傘をちょっともたげて言った。

「《私達の影踏み(ツェル・ラハーヴ)》」

 影が膨らんだ。

 油を水に垂らしたように丸く広がって、男たちと(メイ)とを乗せたまま動いていく。三人はそのまま、深い裂け目の中へとゆっくり降りていった。

  

 ◆

 

 “裂け目”の中は見かけより広くなっていた。

 口から降りるとすぐにぐんと四方が遠ざかり、どんどんと広い場所へ下がっていくのが分かった。上を見上げると、あの水が次第にまた元のように閉じ始めている。

 足元が揺らいだ。

「ここは暗すぎますね」

 <人間イカリ>は忌々しげに言うと、左手の指環に向かって命令した。

「【聖環L(ルークス). トラクトゥス】……《見せろ(オステンデ)》」

 左手にぼうっと蒼白い光がともった。 

 足元が安定しだした。(メイ)は周りを見渡してみた。

 溶けた鋼鉄のような黒い岩肌がどこまでも続いていた。あの湖の真ん中の丘と同じものだ。こんな場所が、湿原の地下にあっただなんて!

地下の街(ネクロポリス)……都市船の古層か」

 男がつぶやいた。

 確かにそこは街の遺跡だった。陰の中にぼんやりと道や家の輪郭が見える。三人はその中心めがけて降りていっているのだ。

「深度は?」

「海抜から50ヴルは降りたはずです。深部としては大した数字じゃありませんがね。それに、もう終わりが近いようだ」

 ちょうどその時、降下が終わった。

 一番下の地面に降り立つと、長身の男は興味深そうにしげしげとそこかしこを観察して回った。広い街道や、アーチや、水路のような遺構を。

「ここには水がないですね」

 うしろで<人間イカリ>が言った。男は頷いた。

「物理結界だろう。地上の湿原はここまで入ってこれんのだ」 

 (メイ)はおっかなびっくりあとについて行った。なにか役に立ってみようと思ったのだが、あいにく難しそうだ。一緒にいるだけでも彼らはゼータ硬貨をくれたりしないだろうか。

 そして、二人は足を止めた。

「これは凄い……壮観だな」

 

 そこにあったのは、巨大な扉だった。

 石とも金属ともつかない、独特の光沢があるなにかで造られている。高さは見上げるほどのもので、人間が使うような大きさには思えない。表面には文字のようなよく分からない紋様が細かく彫り込まれていた。

 扉を取り囲むように、無数のパイプが枝分かれして広がっていた。きっと地上へ向かうのだろう。かすかに水が動いている音がする。

 その扉の前には、一体の<天使(マラーク)>が鎮座していた。滑らかで美しい曲線でできている体躯の、その丸っこさはどこか、昨日の(メイ)が割ってしまった水甕の腹に似ている。

 二人はそれを敬うようにそっと見あげた。

「門番だとでもいうのか」

 その<天使(マラーク)>は両の腕を広げて、壁に手をついていた。あたかも扉を封鎖しているかのような格好だ。

 けれども力なく項垂れた頭、くずおれた膝はどうにも弱々しい。

 なにより、その体躯は灰色の石に覆われていた。

「まるっきり石化している。不活性化状態だ。こんなところに<天使(マラーク)>があるとは、驚かせてくれるではないか」

 男はそう言うと、軽くその石に触れた。足元でおずおずとたじろいでいる(メイ)に笑いかける。

「そう怖がらなくともいい。石化している<天使(マラーク)>はそのとおり石と同じだ。契約者なしには動かない」

 男達は喜びをあらわにした。

「では、ここがそうなのですね?」

「ああ。まず間違いあるまい」

 <天使>に鎖される扉を見上げながら、長身の男は言った。  

 

「【清浄炉】だ」

 

 (メイ)はその言葉を口の中で転がすように繰り返してみた。清浄炉、清浄炉。不思議な響きだ。

「“歴史”の遺産だよ」

 男は(メイ)に向かって呟いた。

「かつての文明が創り出したものだ。我々には未だにこれを作ることができない。海の毒を浄化する技術だからな」

「海を?」

 (メイ)は首を傾げた。湿原に住んでいる彼女だって、海のことは知っている。それに触れてしまって身体を失くしたものたちを港で何人も見た。

「海水の毒を浄化し、水と電力を取り出す仕組みだ。どうやっているのかは未だに未解明だがね。なにせ人類は、未だに海の毒の正体すら解析できていないのだから」

 男はそう言うと、扉の表面を愛おしげになでた。

「“歴史”の人々は一体どのような民だったのだろうな……この向こう側の【清浄炉】にその答えがあるといいが」

「ですが、開きそうにはありませんね」

 扉の周りをぐるりと歩き回っていた<人間イカリ>が首を振りながら戻ってきた。

「探してみましたが、抜け道も見つかりません。あとはいささか荒っぽい手しか残っていませんよ」

「ここまで来て躊躇うはずもない。やってくれ」

 男の言葉に、<人間イカリ>は満足気に頷いた。

 持ち上げた左手が突如、まばゆく発光した。白い光が足元の影を濃く、鋭く切り取る。ギザギザした陰影がそのまま剥がれて持ち上がった。

 <人間イカリ>はその影に向かって、冷たく命令した。

「《残影刃(ツェル・へレヴ)》」

 影で出来た剣が、扉に切っ先を叩きつけた。

 その鋭さときたら、目で見ただけで瞳が切れそうなほどだった。こおん、と澄んだ音が鳴るくらいの勢いで、それを叩きつけたのだ。

 けれど、扉には傷一つつかなかった。

 <人間イカリ>はプライドの傷ついた声で言い訳した。

「いや、調子が悪くて」

「“歴史”のものだからな。やはりそう簡単には壊せないのだろう」

 男はため息混じりにそう言った。分かっていた、と言いたげな口ぶりだった。

「試しに爆薬でも持ってこよう。どうも腰を据えて粘る必要がありそうだ」

 

 その奇跡ですら傷つかない頑丈さが、どんなふうなのか触ってみたくなった。(メイ)はしゃがみ込み、不思議そうにその扉に手を伸ばした。

 冷たかった。光沢のあるみかけとは裏腹にちょっとざらざらしている。匂いはない。指を滑らせると、石の中で透明なひかりがちらちらと追いかけてきた。

 

 そして、扉がごとりと音を立てて動いた。

「なんの音だね?」

 男は頓狂な声を上げて振り向き、凍りついた。

 巨大な扉が開いていく。

 刻印に沿ってひかりがちらちらと踊っていた。何百年も、ひょっとしたら千年以上動かされていなかったのだろうそれが、ゆっくりと口を開けていく。

「いったい、なぜ開いているのだ?この俺の奇跡ですら傷がつかなかったのに」

 <人間イカリ>はそう言って、所在なさげに立っている(メイ)に気づいた。

「あの、ごめんなさい」

 (メイ)はか細い声で言った。そんなつもりはなかったのだ。

「ちょっと触っただけなの」

「知っている。お前ごときになにかができるものか」

 <人間イカリ>はそう吐き捨てて眼差しを外したが、もう一人の男は首を振った。

「いいや、違うな」

 まさに開きかけている扉を、男は重々しく見あげた。

「都市船の古層がひとりでに動くなどありえない。まさか……そうだ。これは明らかに内側から開いている。この子が鍵だったのではないか?」

 男は堪えきれずに呵々大笑した。

「素晴らしい!まったくなんという偶然だ、天の采配のようではないか!まさしく運命だ!」

 その手が(メイ)を抱え上げ、嬉しげに揺すった。

「ジュバの民だ。土着の民の血筋だよ。信じられぬ幸運だ、あるとしてもとうに失われているものと諦めていたが、こんな偶然が――」

 (メイ)はなんだか分からずにへらへら笑った。男は別れていく扉の隙間の、暗い内側を指さした。

「見ろ、道が開くぞ」

 

 真っ暗な扉のなかには、まだ巨大な道が続いていた。 

「《見せろ(オステンデ)》!」

 きつい口調で<人間イカリ>が唱えると、指環の明かりが強くなった。

 わずかに下っている。都市船の古層のますます古い場所へと続いているに違いない。その先はよく見えなかった。古層の闇は、明かりのひとつで払い切れるほどやわではないのだ。

「実に唆られるではないか。この先にあるのだ、かの“歴史”の遺した秘奥が。人類の叡智の欠片が」

 男は暗がりを覗き、足を半分突っ込みながら、ふいに後ろの(メイ)へ笑いかけた。

「どうしたね。来ないのかね?きっと【清浄炉】の炉心などそうそう拝めるものではないぞ」

 (メイ)はちょっと考えて、首を振った。

 その道が、なんだか不気味だったからだ。さっきまでの闇とは違う、恐ろしいものがその奥にあるような気がした。気のせいなのかもしれなかったが。

「しかし、ここまで来たというのに」

 残念そうに肩を竦める男へ、<人間イカリ>が呆れた声をあげた。

「いいじゃありませんか。さっさと追い返すべきだったんですよ。だいたい、その子供は今回のことになんの関わりもないのですから。足元をちょろちょろされたんでは気が散ります」

「しかし――」

 男はなおも食い下がったが、やがてあきらめたようだった。陰になっている顔は見えないが、張り詰めたものが正気に戻った感じがした。

「そうだな。ひとまず地上へ戻ろう。腹も空いたしな」

 

 ◆

 

 鉄の小島はあまり落ち着くところではなかったが、それでも彼らは十分に食事を楽しんだ。携帯式の火でトビクチナワ*3の干し魚を炙っただけの代物だったが、(メイ)はあっという間に食べてしまった。腹ぺこだったのだ。

「君には助けられたな」

 男はぼそりと言った。静かだが熱を感じさせる口調だった。

「まったく予想外だった。だがわれわれにとっては天の救いだ。相応しい代価を支払わないと気がすまないと思う」

 そう言うと、男は懐から革張りの財布を掴み出し、(メイ)に差し出した。

「無粋だが、感謝の気持だ。君にはそれくらい感謝していると分かってくれ」

 (メイ)は不躾にもそれを開けて――開け口の細工がよく分からずに手間取ったのだが――中を確かめた。

 そこには大小さまざまなゼータ硬貨が、たくさん入っていたのだ。いろんな形をしていて、色も濃淡さまざま、価値は分からなかったが、きっと安くはないに違いない。

「ありがとう」

 (メイ)は小さく言った。からだじゅうが震えていた。あれっぽちで母親が大騒ぎするようなものが、これだけたくさんあるのだ。

 きっと認めてもらえる。まともな人間になれる。褒めてくれるに違いない。そうなると、居ても立ってもいられなかった。

「じゃあね、おじさん達」

「いい。さっさと失せろ」

 <人間イカリ>は干し魚を齧りながら傘の石突を振り回した。長身の男はちょっと微笑んで首を振った。

「気をつけて帰りたまえ。送ってやれんですまないね」

 

 帰り道は分かっていた。

 (メイ)はもらった財布を帯の内側にくくり込むと、水の中にすうっと滑り込んだ。冷たい水は、やっぱり清らかで、不思議なほど澄んでいた。

 霧はやはり濃かったが、迷う心配はなかった。人影たちが歩く方へ向かえばよいのだった。黒くてあいまいな彼らは、(メイ)の住む湿原のほとりと同じ方角を目指していたのだから。

「帰ったら、お母さんはなんて言うかな」

 (メイ)は傍らを歩いていた影に話しかけた。その囁き声の固まりは、まともな返事なんか返さない。それでも、(メイ)の胸は躍っていた。

 

 ひとりでこんな冒険をしたのは初めてだった。母親はきっと心配しているだろう。妹もなにがあったのか聞きたがるだろう。その二人の前に、軍人からもらったゼータ硬貨をじゃらじゃらと吐き出してやるのだ。

 帰ったら、まずはどこに行っていたのかを教えてあげるのだ。今ごろ探しているかもしれない。そう思うと、足取りは行きしなよりぐんと速くなった。

 

 葦が茂り始め、霧が失せていく。

 一緒に歩いていた人影が薄れて消滅した。きっと、人間の世界には行けないのだろう。(メイ)は黒い囁き声の名残に手を振ると、泥まみれの湿原へ戻っていった。

 

 すでに見知ったところにまで帰ってきている。家はすぐそこだ。湿原のほとり、今にも泥に沈みそうな掘っ立て小屋が見える。

 (メイ)は財布を帯の上から押さえて走った。泥を蹴立てて足葦を踏みつけにし、沼林檎を蹴飛ばして走った。

 湿原から出る。硬い地面に飛び出す。

 扉の前で息づかいを整える。

 耳を澄ましてみた。今にも(メイ)を呼ぶ声が聞こえるんじゃないかと思って――

 

『――まったく、せいせいしたよ』

 

 (メイ)は扉にかけた手を止めた。家の中から、母親の尖った声が響いてくる。

『いなくなっちまいやがって。あたしゃあんなに目をかけてやったというのに、ちょっと折檻したらこれだ。堪え性がないんだよ。堪え性がないやつはなにを教えても駄目だね』

 心配してくれているはずだった。

 違うんだよお母さん。怒られたことなんて、なんとも思ってないよ。(メイ)は沈黙したまま立ち尽くしていた。

『人間ってのは生きてるだけで迷惑をかけるもんだ。だからそのぶん働かなくっちゃあいけないってえのに、ぷらぷら湿原に飛び出していっちまった。まあ、悪いことばかりでもないがね。どのみちあの子の稼ぎなんて知れていたんだ。口が減るだけ儲けものだよ』

『ねえ、あたしは大丈夫でしょう?』

 妹の声がした。

『あたしはお姉ちゃんみたいじゃないよね』

『そうとも(マンサ)、おまえはまだまっとうだよ。だからご褒美をくれてやったじゃあないか。いちいちそうやって聞くんじゃない、煩いね』

 母親はしばし沈黙し、再び口を開いた。

『血がよくなかったのかも知れないねえ、あれの父親もろくでなしだった。のろまでぐずだったよ。あたしの親戚にもっと北のヴォホーフトで家畜(ヤシ)を飼ってるやつがいるけれどもね、やっぱり仔の時分からどっか鈍い、弱いやつがいるそうだよ。あれがそうなのさ。生まれつきだよ』

 (メイ)ははあはあと息をしている自分に気づいて口を押さえた。なにがなんだか分からなかった。母親は高らかに笑った。

『なんにせよ、これでせいせいしたよ!あんなのでも腹を痛めて産んだ子だからね、自分で捨ててくるわけにもいかないし。ま、これからは家が広くなるよ、(マンサ)

 この人たちは。

 (メイ)は気づいた。この人たちは自分を愛してくれることはない。絶対にない。同じ家族だと思っていない。だからあんなことが言えるのだ。きっと、(メイ)に面と向かってだって言えるだろう。

 それは、(メイ)にとって、生きる場所の喪失を意味していた。

 ここにいていいと、そう認めてくれる人はいない。誰かを傷つけても、なにかを壊しても、それでいいと許してくれる人はいない。得ならば受け入れられ、損ならば弾かれる。あるのは、そういう冷徹な計算だけだ。

 損得勘定抜きで価値を与えてくれる人はいない。

 

 だから、(メイ)は扉を開けた。

「ただいま」

 母親も、妹も、びっくりした顔をして(メイ)を出迎えた。言葉も身動ぎもなく、固まったまま。その口が動く前に、(メイ)は貰った財布をひっくり返した。ゼータ硬貨がざらざらと零れ落ちる。

「貰ったの。すごいでしょう?あの軍人さんたちがくれたんだよ」

 (メイ)は母親と、妹の顔を順繰りに見た。姉が帰ってきただけだというのに、妹はなんだか不安そうな顔をしていた。その胸元には、あのサンゴの首飾りが揺れていた。

 母親は呆けた様子からようやく立ち直ると、無数のゼータ硬貨を掴み上げ、しげしげ眺めたあとで裂けるような笑みを浮かべた。

「よくやったねえ」

 彼女は(メイ)の肩を叩き、にまにました笑顔を向けた。見たことがないほどの笑顔だった。そう思っているのは(メイ)だけで、妹はいつもこの笑顔を見ていたのかもしれない。  

 母親はほくほく顔で、優しく褒めた。

 

「本当によくやった。おまえは私の自慢の娘だよ、(メイ)

 

 その瞬間、(メイ)のなかで何かが割れる音がした。

 あれほど求めていた母親の笑顔が、褒め言葉が、なにかを壊したのだ。どす黒いものが胸のうちから湧いてくる。自分でも信じられないような言葉を、(メイ)は口走っていた。

「死んじゃえ」

 低く、(メイ)は呟いた。途端に大粒の涙が溢れ出した。足ががくがくと震える。母親と妹に向かって、(メイ)は泣きながら叫んだ。

 

「死んじゃえ!みんな、無くなっちゃえばいいのに!」

 

 そのとき、遠くでひかりが爆ぜた。

 

 ◆

 

 ■都市船ジュバ 古層

 

 ふたりは暗い道を歩いていた。

 立ちはだかっていた<天使(マラーク)>をあとにして、どんどんと奥へ進んでいく。次第につややかだった壁が荒削りになり、甘い海の香りが漂い始めていた。

「なぜ、ついてきてくれたのかね?」

 男は言った。<人間イカリ>は肩をすくめた。

「どうしたんです、藪から棒に」

「これは君には関係のない話だったろう。上から睨まれるだけだ。それなのに、声をかけたとき君は二つ返事でついてきてくれたな」

 男は笑った。

「目標を目の前にして、言いたいことを言っておきたくなったのさ」

「別に、たいそうな理由はありませんがね」

 <人間イカリ>は言った。

「ただ見てみたくなった。【清浄炉】を……俺たちをこの世界から救い続けているものの根源を。知りたくなるのが人間というものでしょう」

 その声に強い感情が混じった。呼応した影が、揺らめいて消える。

「俺は知りたいんですよ。なぜ俺たちが海に拒絶されているのか。おかしくはありませんか?(おか)の生き物はみな海に触れられない。魚や鯨や珊瑚は、あの毒の海の中でも生きていけるというのに。なぜ俺たちはこうも不幸せなのでしょう?」

 <人間イカリ>は道の先を睨みつけた。

「海の毒がなにか。いろんな話を聞きましたよ。かつての巨大産業文明が遺した環境汚染だとか、天変地異の災害だとか。俺に言わせればそんなものは答えになっちゃいない。大昔の、見たことも聞いたこともない出来事にどうして今を生きる俺たちが苦しまなければならないのか。その答えの、ほんの少しのかけらでも、この道の先にあるような気がするんです」

「我々は世界に拒絶された生き物なんだよ」

 男はつぶやいた。

 それっきりふたりはなにも言わなかった。道はみるみる狭くなり、尖った岩が現れはじめていた。濁った結晶が床から、天井からその丸い切っ先を生やしている。

「どうやって、海を浄化しているのだろう」

 男は不意に言った。

海学者(ハラウ)の分析では、海水に含まれる毒物を精製しようとしても何も残らないそうだ。揮発するだけだ。あれは普通の水とは明らかに違うというのに、肝心の何が違うのかは分からない」

 その呟きに、<人間イカリ>は期待を隠しきれぬ声で答えた。

「この先を見ればわかることでしょう?」

「どうだろうな。浄化の仕組みが分かったとしても――」

 

 そこで、行き止まりだった。 

 

 パイプは無かった。

 そこにあったのはただの空っぽの石室だった。完全な立方体なのだろう、すべての辺が同じ長さで作られている。

 古代の文明の機械も、叡智を凝らした技術も、なにもなかった。部屋の底には海水が溜まっていて、その下ははるか深海に通じているようだった。くろぐろとした闇がどこまでも続いている。

「まるで祭壇だな」

 男はそう言い、顔をしかめた。

「至聖所か?どういうわけだ。まさかこれが清浄炉の正体だとでもいうのか」

 想像とはまるっきり違っている。ちくたく音を立てる懐中時計の蓋を外してみたら、中身が空っぽだったような気味の悪さだ。

 男は不思議そうにそこへ近づき、息を飲み込んだ。

 

 祭壇の前にあったのは、ひとりの人間の屍蝋だった。

 祈るように手を合わせ、頭を項垂れたまま死んでいる。その足元では恐ろしき海水がひたひたと揺れていた。

 それだけのことで、なんの変哲もないはずのものだ。軍人なのだから屍体には慣れている。

 だがここには、大気が張り詰めたような神聖さが満ちていた。ふたりは何を言われるでもなく理解した。ここは聖域(アサイラム)なのだ。聖なる領域、人間の立ち入ってはいけない領域なのだ。俗なるものは取り除かれ、聖別されねばならない。

 拒絶されている。

 その思いが肌を刺した。耳の中でぶんぶんと蟲の羽音のような耳鳴りがする。

 ――出るぞ。

 思わずそう言おうとして、男は振り向いた。

「しるしが……」

 <人間イカリ>は自分の手を押さえて苦しんでいた。契約の紋章があるはずの場所だ。

「だめだ、ここは……おれの中に、入ってくる……」

 頭巾がずり落ちる。

 <人間イカリ>はひどく青褪めた顔で、浅い呼吸を繰り返した。

 それへ近寄ろうとした男も、崩れるように膝をついた。力が抜けていく。

 【清浄炉】は人類のオアシスだ。だからその中心にも善なるものがあるはずだと思っていた。だが違う。これは善にしろ悪にしろ、もっと恐ろしいものだ。優しげにのどを潤してくれる水とは違う。

 聖域(アサイラム)を侵してしまった。ここは人間が立ち入ってはいけないところだったのだ。

「なぜ気づかなかったのか」

 男は這々の体で零した。

「順番が違ったのだ。“歴史”と、<天使(マラーク)>と、海は――」

「――りかいしたぞ」

 <人間イカリ>が突然、目を見開いてさけんだ。明らかに正気をなくしている。

 完全なる立方体の部屋が淡い光を放ち始めた。

「りかいできてきた。ここは“ガフの部屋”なんだ。にんげんのたましいがあるところとつながっているんだ。ああ、なんて、おれたちはつみぶかいのだろうか……!」

 まばゆい白色光が侵入者を照らし出す。

 それを受けたふたりの肉体は、塩の柱に変わって崩れ落ちた。 

 

 ◆

 

 痛いほど白い閃光が、“浄土(ゾーン)”から立ち昇った。

 あの黒い影たちが足を止めた。光を振り向くようにして立ち止まり、それを見上げてはひとりずつ消えてゆく。

 それは天からの光ではない、地上からの光だった。

 

 (メイ)はゆっくりと振り返った。

 真っ白な光に視界が塗り潰されていく。母親と妹がこの世の終わりだと悲鳴を上げ、家の外へとまろび出た。

 その身体が、みるみるうちに白く変わっていった。

 塩になっているのだ。ふたりは喚きながら逃げようとしたが、それも叶わずどんどんと塩の柱に変わっていった。人間の形すら保てぬままに。

「待って!」 

 (メイ)は思わず叫び、そして悲鳴をあげた。自分の体も硬い塩に変わっていっていることに気づいたからだ。

(違う)

 (メイ)はしゃくりあげた。

(さっきのは、こんなのを望んだんじゃない。死んじゃえって、消えちゃえって言ったのは本気じゃなかったのに) 

 この不可思議ななにかの正体も、理屈も、(メイ)にはわからない。でも、なんだか自分のせいのような気がした。自分で声に出して願ったのだ。さっき、ほんのついさっき、確かに願ったのだった。

 消えてしまえばいいと。

 妹だった塩の柱の首に、あのサンゴの首飾りが揺れている。本当はそれが羨ましかっただけなのだ。

 愛してほしかった。

 ここにいるだけでいいのだと、肯定してほしかっただけだ。

 

 そのとき、頭の上で別の光がざわめいた。

 光の環が空間をこじ開けた。暗い内側からなにかが降りてくる。ばらばらと、石の欠片が降ってくる。

 そこにあったのは、一体の<天使(マラーク)>だった。あそこにいた<天使>だ。けれどその体躯からは石化が剥がれ落ち、本当の姿を現そうとしている。

 

 それがなにかを問いかけてきているのを、はっきりと(メイ)は感じた。<天使>は言葉を話さない。それでも、(メイ)にははっきりと分かったのだ。

「生きたい」

 (メイ)は泣きながら言った。

「死にたくない」

 家族に死んじゃえとまで言っておいて、こと自分の生命は惜しいのだ。そのどうしようもない浅ましさと恐怖が、塩辛い涙になってぼろぼろこぼれている。

 

 けれど<天使>は、それを肯定するように眼光をまたたかせた。

 その身体の色はまるで、あの珊瑚と同じような薄い桃色だった。

 (メイ)は思わず手を伸ばした。その手が光の粒子になってほどけ、塩の柱から抜け出していく。

 “同化”したのだ。

 

 空から見ると、あれほど広い“湿原”も“港町”も驚くほどちっぽけで儚いもののように見えた。そこにある人間も、葦も、泥も、パイプも、すべてが塩に変わって消し飛んでゆく。重なりあった薄紅色の花弁(はなびら)のように。

 その白い光があの“浄土(ゾーン)”から発していることに、(メイ)はようやく気づいた。あのふたり連れは大丈夫なのだろうか。いや、大丈夫なはずがあるまい。

 

 <天使(マラーク)>の身体に溶けあい、空を舞いながら、(メイ)は滅びゆく生まれ故郷を見おろしていた。こんなつもりじゃなかった、と叫ぶこどもの泣き声が、“湿原”だった場所にわんわんと響き渡って――

 

 ◆◆◆

 

 ■現在 ユディト市

 

 ――はっと、(メイ)は物思いから覚めた。

 いつの間にかまどろんでいたのだ。窓の外はもう暗くなっていた。病室の中は薬臭いにおいでいっぱいだった。椅子に座ったまま手を伸ばして窓を開けると、弱々しい風がそれを少しだけ薄くした。

 

 結局、あれが何だったのか、今でも(メイ)は知らない。

 ユディト市を襲った災害とは、似ているけれど、違う。ユディトの先日のあれは天から降り注いだものだったが、ジュバのあれは地の底からやってきたものだ。 

 この世界は思ったより人間に優しくないのかもしれない。咄嗟に<天使>と契約していなければ、(メイ)だって塩の柱に変わっていた。災害に理由なんかない。巻き込まれただけだ。

 

 理屈の上ではそうだった。

 でも、(メイ)はずっと後ろめたいものを覚えている。なくなってしまえばいいと叫んだのは本当だし、なくなってしまったのも本当だ。だったら、真実はどうあれ、(メイ)がみんなを殺したのと同じではないか?

 故郷を滅ぼしたのと、同じではないだろうか。軽はずみな願いで、考えなしの呪詛で。

 

 (メイ)はもう大人だ。

 だから判っている、自分のこころにあるこれは歪みなのだと。こうして耳を澄ましてみると、あの日の幼い自分が胸の中でまだ泣き続けているのが聞こえる。

 分かったって、どうしようもないのだった。

 特務兵のみんなは優しい。けれど、胸の中の子供を泣き止ませるには足らない。家族ではないのだから。(メイ)がどれだけ汚くって、劣っていて、醜悪であるとしても、無条件に抱き締めてくれるような人々ではないのだから。

 それに、そんな子供じみた不安を抱えているような人間を好きになってくれる誰かなんて、果たしてこの世にいるのだろうか。

 

「ユーくんはさ……あたしのこと、好き?」

 戯れにそう尋ねると、寝台に横になっている重傷の柚子(ユーリス)が、包帯まみれで不快そうな否定の唸り声を返した。

 

 To be continued…

*1
海に生える穀草。粉にして食す。

*2
家畜の乳に酢を入れて固めたもの。

*3
細長い尻尾をもつ小型の魚。小骨が多い。群れで海面近くを跳ねるのでこの名がある。

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