■
湿った風の吹く日には、
◆
母親の
朝の早いうちから、
そうだった、幼い頃は妹と二人で眠っていたのだ。
「さあ、何を寝ぼけているんだい」
母はいつも通り、いらいらと言った。
「早いとこ“湿原”へ行っておいで。分かってるね、籠がいっぱいになるまで決して帰ってくるんじゃあないよ」
二人が家からそうやって追い出されるとき、決まってまだ夜は明けたばかりだった。空にはレイラインがかすかに残っていたし、太陽は水平線の向こうで眠たげにしていた。月の光が西の空に尾を引いて消えていく。
そんな夜明けの闇の中には、黒々とした“湿原”が見渡す限りに広がっている。
“
子どもの彼女が知っているのはそれだけだった。ならば、使う名前は“湿原”だけで事足りる。この湿原を含む巨大な
“湿原”はあたり一面、丈の高い
その下には黒い泥沼があり、何とも言えぬすえた臭気を発していたが、
二人の仕事は、
茂みの中に埋もれているこの果実は、泥臭い皮を剥くと瑞々しい果肉を蓄えている。それを口いっぱいに頬張ったならそれはもう甘い果汁が喉を伝うのだけれど、残念ながら、
港町に持っていくとそれなりの値で売れるのだ。
陸地で採れるものには、そのもの以上の価値がある。魚や
「お姉ちゃん、まだそれだけなの?」
妹の
「もう日が暮れるよ、先に帰ってるね――」
たぶん、自分は要領が悪いのだ。泥のなかから素早く目当てのものを見つけて、取って、次を探す。それだけなのに、どうしてこんなにも差がつくのだろうか。
ボロ屋に帰ると、いつもどおり、母親はふたりの収穫を確かめて小言をつけた。
「やあ帰ったね。どうだい、取れたかい。籠をお出し」
「なんだい、これっぽっちしか採れなかったのかい。これじゃあおまんまの食い上げだよ。特に
母親は常からして、子供は比べて育てることで良くなるというのを持論にしていた。妹と姉、ふたりの優劣をつけるのは簡単なことだった。籠の重みをみればよいのだから。
「
「ごめんなさい」
妹の
歳は二つほど下のはずなのに、もう背丈で言えば同じくらいだ。見目だって彼女のほうがずっといい。田舎臭い
「お姉ちゃん、もっと頑張りなよ」
妹は、母親そっくりの大人びた口調で言った。
「そうだよ、まったくだ。仕事のできないやつは生まれつきこうなんだねえ、足りてないのさ。人間の足りてない奴には飯も足りないよ、当然の理屈だろう」
妹と母親にせせら笑われる
「なんだいこの子は、変な子だよ」
母親はよくそう言ったものだった。
彼女にとって、貶されているのに怒らないというのはそれすなわち間抜けの証、罵倒すら理解できない唐変木の証明なのだった。普通の、ちゃんと足りた子供なら、むきになって苛立つべきなのだ。
◆
四、五日おきに、家族は
湿原から海へと続く曲がりくねった道を進むと、いくらもせずに白い町並みが見えてくる。港にある船は殆どが硬く武装した漁船だった。町外れにはお役人が住んでいるらしい“のっぽ屋敷”が背を伸ばしているが、
「さあ、いい子で待っておいで。大人の仕事を邪魔するんでないよ」
沼林檎と、あとは葦の繊維から作った織物を売っている間、母親はそう言って、ふたりをうっちゃっておいた。
「あっちへ行こうよ!」
そう逸る妹の手を引いて、
もっとも
その店先にはサンゴの欠片を削っただけの簡素な首飾りや、耳飾り、指環がずらりと並べられていた。妹はそれを見て、にやにやと笑っていた。
「綺麗だね、お姉ちゃん」
「うん。すごく光ってる」
「買ってもらえたらいいのにね、お母さんに」
「そうだね。あっ、でもさ――」
妹は笑った。
「――お姉ちゃんには無理だよ」
その時、妹が口走った言葉につきっと
「お母さんいつも言ってるもん。お姉ちゃんにはなんにもあげないって。でも、あたしが貰ったらお姉ちゃんにも貸してあげるよ」
無邪気な口ぶりだった。
それがなお一層、
サンゴの桃色が突然、薄ら寒く見えた。
妹はそんな
「待って!」
◆
そこにいたのは、二人連れの男だった。
船乗りらしい真っ黒な外套を頭からすっぽり被っている。間違っても海の水に触れないように、船乗りは脂をすり込んだ荒布で体を覆うのだ。背の低いほうが苛立ちの声を上げた。
「気をつけろ」
「そう怒るな。子供だぞ」
背の高いほうがそう諌めた。
妹はいつもの陽気さがどこへやら、
「ごめんなさい」
彼らは――おそらく、二人とも男なのだろう――それ以上の不機嫌を顕にすることもなく、ただ黙って店の品を物色していた。背の低いほうがひときわ大きなやつを取り上げ、バカにしたように鼻を鳴らした。
「これを貰おうか」
「この辺の子かね?」
「ううん。“湿原”から来たの」
その言葉に、彼らはちょっと感心したようだった。
「ほう。遠いのかね?」
「少し道を尋ねたい。我々は曳航連邦の軍人だ。わかるか」
再び
「これだから辺境は。皇帝陛下の恩寵も理解しないで」
「このジュバ市も曳航連邦の一部だ。皇帝陛下は日々、その類稀な御力で迫りくる猛毒の海から人界を護っておられるのだ。おまえたちの平穏な暮らしも陛下の恩寵があらばこそなのだぞ」
「よさないか」
男はそう言うと、手の中に握っていたなにかをふたりに差し出した。
「これをやろう。幾つか質問させてくれたらな」
それは金属のかけらだった。
「この都市の“
男から出てきたのは、そんな聞き慣れない言葉だった。
「“湿原”というのがあちらにあるのだろう?そこで心当たりはないかね」
「そうか」
男はそれだけ答えた。もう一人のほうがせせら笑った。
「“
「おい、いい加減にしろ。……お嬢ちゃん方、引き留めて悪かったな、行くといい。それは道案内の礼だ」
なにかわからぬ金属のかけらを握りしめて、
◆
母親の
「こりゃゼータ硬貨だよ」
「カネというもんだよ。ここらじゃめったにお目にかかれない。あんたたち、そりゃきっとたいそうな名士に違いないよ。よくやったね」
「ゾーンを探してるって言ってた」
「ねえ、ゾーンってなあに?」
あいにく、彼女も知らなかったのだろう。
ゼータ硬貨に見惚れるのを邪魔された母親は、とりつくしまもなく顔をしかめた。
「なんだいそりゃ。まったく、いつもいつも変なことばかり言う子だね。そんなことより、いいかい、よくお聞き。その二人連れに目を光らせとくんだ。この辺はあたしら
そこからはいつも通りだった。母親はボロ屋の女王らしく威厳たっぷりに鍋を打ち鳴らした。
「そら、水汲みに行っておいで!
湿原の水は泥だらけで腐っている。
だからとても飲めた代物ではないのだけれど、その泥地のなかには川のように流れの速いところがあって、そういう場所の水はまだ清らかだった。
葦の足元をひんやりとした水がちらちら走っている。
「お姉ちゃん、遅いよう!」
妹は甕を背中に担ぎながら、泥沼のなかをけらけら笑って帰っていった。どうしてこんなにも仕事ぶりが違うのか、
ため息をついたとき、あの二人連れが近くを歩いているのに気づいた。
不思議な男たちだった。
男たちは葦をかき分け、なにかを探している様子だった。時折遠くを眺めては、また足元を見おろしている。
面白いことに、その足は泥一つついていなかった。ふつう、湿原を歩き回るなら、大人の背丈でも膝までくさい汚れにじゃぶじゃぶ浸からねばならない。けれども彼らは、よごれた水面のうえを陸地みたいに歩いていたのだ。
「ひどい匂いだな」
背の高いほうが言った。
「どうにも、鼻が腐りそうで参るよ」
「こうも湿っぽいのでは源流を辿るのも一苦労ですね」
背の低い、皮肉っぽいほうが相槌を打った。
雨も降らない、海辺でもないというのに彼はなぜか傘を差していた。大人にしても大きな傘だ。
「どこから水が来ているのか分かりやしない。どうします?当てずっぽうに内陸を目指しますか?」
「大きな都市船じゃない。海に沈んでいないことを祈るしかないが……とにかく、まずはこの辺を終わらせてしまおう」
男は連れに言った。
「頼む」
「ええ。大丈夫ですよ」
連れの男はそう頷くと、傘と外套の陰でよく見えない手をちらっと動かし、雨傘を回した。よく見ると、それは鋼鉄と板金で造られていた。
「《
陰が膨れ上がった。
湿原を渡る風のように傘の影が膨らみ、黒いさざ波になって
嫌な感じがした。
湿原の泥の中を歩いていると、時折ふいに、発酵した枯れ草の熱で温んだ澱みが冷たい清水に混じる境目を通ることがある。
「やはりこのあたりには何もありません、俺の領域に感じるようなものは何も。力のある人間や物品は感じ取れませんでした……いや、失敬」
そこで、彼は
あの“違う世界”の感覚が、男のほうに引きずり込まれるようにして薄れて消えていく。葦に屈み込んでいる
「こそこそと何をしている、沼のネズミ」
「《
その瞬間、ぐいっと引っ張られるような感じがきた。
湿原暮らしの子供だって話には知っている。これは<天使>の力だ。
<人間イカリ>の男はあからさまに舌打ちした。
「嫌ながきめ。そんなに大人の仕事を覗き見るのが好きか?」
男は
「ここはもともと彼らのものだ。そう邪険にするな」
背の高いほうがそう窘めた。<人間イカリ>は首を振った。
「この世の大地はあまねく皇帝陛下のしろしめす所です」
「本当にそう思っているなら俺のこれに付き合う理由もないだろうに。さっさと行くぞ。今日のうちに10ローグくらいは稼ぎたいんだ」
そう言って立ち去ろうとする男たちを、
「ねえ、聞きたいことがあるの」
男は振り返って立ち止まった。傘の<人間イカリ>がその後ろでやれやれというしぐさをした。
「ゾーンってなあに?」
男たちは顔を見合わせた。
「どうするんです?」
<人間イカリ>は言った。
「いい顔をするから懐いてしまって。餌をやったのは貴方ですよ」
「なぜそういう言い方をするのかね、お前は」
男は頭巾の中でため息をついた。疲れた口元がかすかに暗がりから覗いていた。
「お嬢ちゃん、悪いがそれは家に帰って尋ねることだ。これでも我々は先を急いでいる。彼が
「教えてよう」
「参ったな」
男は節くれだった指で頭をかいた。よく見えないけれど、思ったより年老いているのかもしれない。
<人間イカリ>がそれを見かねたのか、ずいと前に出てきた。
「ならば教えてやろう、小僧」
その足がやっぱり水に沈んでいないのを見て、
「見ろ」
<人間イカリ>はそう言って、足元を指さした。
水が流れている。泥の上にこまかくのたくったような筋をつくって、ちろちろと流れている。ごつごつした石が流れに洗われて、泥から頭を出している。
「どの都市にも水はある」
<人間イカリ>は言った。
「まあ、たいていは浄水道の形をしているが、同じことだ。清らかな水があるのだ。触れても人間を溶かさない水がな。それがどこから来るか、果たして考えたことがあるのか?猛毒の海とは違う、清らかなそれが」
「“
<人間イカリ>は吐き捨てた。
「虫酸が走るんだよ。そうやって、なんの躊躇いもなく膝まで水に浸かっていられる無神経さが。俺たちは今、この瞬間にも海に溶けてしまうかもしれないような哀れな生き物だというのに」
「それだけだ」
最後にそう呟くと、<人間イカリ>の男はずかずかと濁った水面を歩いていってしまった。背の高い男はちょっと会釈をすると、やっぱりそれについて去っていく。
切れ切れの言葉だけがかすかに聞こえた。
奇妙な訛のある彼らのことばは、
「あっ」
それに背を向けて帰ろうとしたとき、
さっきの拍子に倒れた水甕が、小さな石にぶつかって割れていた。
◆
「まったく、この子はなんてしょうがないんだい!」
家に帰ると、母親は烈火のごとく怒鳴った。
「その、水甕一つ買うのに、沼林檎をいくつ持っていきゃあいいと思う?干し草何束が、必要だと思うね?ええ?」
「ごめんなさい!」
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」
ひとしきりの鞭打ちが終わると、革紐で天井から逆さに吊るされた。頭に血がのぼって、涙と一緒に鼻からぽたぽた落ちた。息が苦しくてあえいでみても、母親はやめなかった。
「グズ、間抜け、どうしようもない子だよ!これで何度目だい、ものをだめにするのは!どうしてこうなるかわかってるよ、あんたはものの大切さってのがわかっちゃいないから簡単に壊せるのさ!」
「あたしゃ本当にいい母親だよ」
とうとう血まみれで家の外に放り出された
「ああ疲れた。子供を叱るのだって疲れるもんだ。今日は晩飯は抜きだよ。そのぼうっとした頭を少しは引き締められるように、一晩じっくり考えるんだね」
服は返してもらえなかった。
“湿原”は決して寒いところではなかったが、それでも素肌を晒して過ごすには向いていない。吹き抜ける湿った夜風はじわじわとぬくもりを奪っていく。
(ごめんなさい)
心のなかで
自分が悪いのだ。愚図で間抜けでとんまな自分が。この家も服も食事も母親が与えてくれたものなのに、自分は迷惑をかけてばかりだ。
(ごめんなさい)
妹が羨ましかった。
要領が良くて、器量が良くて、母親から好かれている妹が。ああいうふうに生まれついたのならきっと、人に迷惑をかけることもなかっただろうに。
できるだけ世界に居場所を取らないように身を縮めながら、いつしか
◆◆◆
そんなことがあった次の日だからって、仕事がなくなるわけではない。
「大丈夫?」
妹がそう言って、
「お姉ちゃん、なんで水甕壊しちゃったの?」
それはあの人が――そう言いかけてから、
「いけないんだよ、気をつけなきゃ。横着はだめよ」
その言い方があまりにも母親そっくりだった。
腹の底をあぶるような不快感がじりじりと
自分は間抜けでぐずだ。そう言われてむきになる資格が自分にあるのか?
どうしたら、ああなれるのだろう。どうしたら、母親に褒めてもらえるのだろう。
どうしたら、ここにいていい子どもになれるのだろう。
その惨めさを噛みしめる裏で薄っすらと、
彼らがもしたくさんの“ゼータ”をくれたら、母親は喜ぶだろうか。褒めてくれるだろうか。ここにいていいと許しをくれるだろうか。食べ、着て、眠る自分の迷惑に釣り合うものを母親に返せるだろうか。
冷たい泥が足の指の隙間に入ってくる。妹が素早い手つきで沼林檎を集めているのを尻目に、
“
それはなかば脅しじみていた。二度と帰ってこられなくなる、と言われていたのだ。沼林檎を集めるのはあくまでも辺縁のほとりだけで、広いその奥がどうなっているのか
泥と枯れ草だけが延々と続く湿原に、歩きやすい道などありはしない。それでも湿原育ちの勘で、彼女は深みを避け、浅瀬を辿って進んだ。
「ゾーン」
その言葉だけが手がかりだった。
彼らはゾーンを探している。そして、それは水の流れを逆さに追いかけていったところにある。それさえ分かっていれば十分だ。
馬鹿なことをしている。
そういう声が頭の奥で聞こえたが、それでも
やがて、あたりの色が変わり始めた。
真っ白な霧が出てきたのだ。それは綿毛のように前方から現れ、ゆっくりと通り過ぎてゆき、やがて四方を埋め尽くした。葦の先にしずくがびっしりと鈴生りになっている。
湿原に霧だなんて、めったに無いことだった。まだいくらも進んでいないのに、と
霧の中を、ぐうっとなにかが通り過ぎていった。
大きな、黒っぽいなにかだった。
それは人影だった。
文字通りに人影だった。不思議なこともあるものだ、人はいないのに、影だけが立って歩いているのだから。重さは無いのだろう、水の上を踏みしめるようにして、ゆっくりゆっくり湿原を歩いていく。
彼らはみな
なんとなく、彼らが向かうのとは逆の方に目指すものがあると思った。ゾーンはきっとそこにある。
やがて葦が無くなり始めた。
もはや湿原は湖のようだった。肩までざぶざぶと水に浸かりながら、
あたりに生き物はいなかった。あれだけ湿原を埋め尽くしていた草木はきれいさっぱりなくなり、澄み渡る水がどこまでも広がっている。その上をつうっと滑っていく霧の塊と、まばらに現れては歩いていく黒い影だけが、目の端で動くものだった。
湖の真ん中には、小高い丘があった。
真っ黒な岩で出来たその丘、あるいは小島に、
鋼鉄のようだ。
そしてそこには、あの二人連れが佇んでいたのだった。
やっぱりあの外套を頭から被っている男達は、小島を調べるようにゆっくりと歩き回っていたが、すぐに
「驚いたものだ」
男は肩をすくめた。
「いや、実に驚いた。昨日の子供じゃないか。いったいどうしてこんなところにまで?」
「なにか企んでいるのではないですか」
傘を差した<人間イカリ>が言った。
「不審ですよ。始末しておくのもいいかもしれないですね」
「まったく、よせ。こんな子供に何があるというんだ」
男の言葉も、<人間イカリ>は取り合わなかった。
「お言葉ですが、見てくれなんか当てにならないことは重々承知のはずです。特に我々の仕事では」
そう言うと、彼は差している傘を閉じようとした。その途端に、男は血相を変えて怒鳴った。
「力は感じないんだろう?君は腕利きだ。この子供の陰によからぬ術者がいるのなら分からないはずがない……やめるんだ」
出鼻を挫かれたように、<人間イカリ>の男はしぶしぶ頷き、
「では、なぜ来た?」
「……ゾーンを探しに来たの」
「とんだきかん坊だ。こんなに怪我をして……遠かっただろうに。影たちの間を抜けてきたのか」
この傷はここに来るより前からついていた、とは
「ここは子供の来るところではないぞ」
「ねえ、あれは何なの?」
「さあ……分からない。死者に似ているが」
男はそう言った。
「死んだものの遺志が空間に焼きつくと、時折ああいうことが起こるのだ。あれは空間系の奇跡でもなければ消せない……空間の記憶だからな。だから変わることもない。永久に繰り返すだけだ」
「死んだ人?」
「よそう、こんな話は。別に害があるわけじゃなし」
それより、と男は薬壺をしまい込みながら言った。
「折角の機会だ。この“歴史”的遺物をぜひ君も目にしたまえ」
<人間イカリ>が唸るように咳払いをしたが、男は聞こえないふりで歩きはじめた。
島の大きさは
「我々はついに辿り着いた。おめでとうご両人、ようやく、辿り着いたというわけだ」
そこにあったのは、大きな裂け目だった。
深い、ひどく深い大穴が口を開けている。それを満たしている水が恐ろしいほど澄んでいた。覗き込むだけで吸い込まれそうなほど透き通っていた。
「ここが“
男は傘の<人間イカリ>に向かって言った。
「では、頼めるか?」
<人間イカリ>は前髪を一本引き抜くと、その坑を満たす水に垂らした。それは澄んだ水の中でただ、ゆらゆら揺れた。
「ええ、これは普通の水です。言うことを聞かせられるでしょう」
そう言って、彼は手袋を裏返しに嵌め直した。真っ黒な革の裏地は毛羽立って褪せた白だった。
「《
白手袋を翳してそう呟いた途端、水がぱっくりと割れた。
形のないはずの水が、包丁で切り裂かれた
「その子供はどうする気です?」
<人間イカリ>は肩をすくめた。長身の男は咳払いをした。
「連れて行くしかないだろう。荒野に放っておけというのか」
「お好きに」
もはや抗弁する気力もなくした<人間イカリ>は
「《
影が膨らんだ。
油を水に垂らしたように丸く広がって、男たちと
◆
“裂け目”の中は見かけより広くなっていた。
口から降りるとすぐにぐんと四方が遠ざかり、どんどんと広い場所へ下がっていくのが分かった。上を見上げると、あの水が次第にまた元のように閉じ始めている。
足元が揺らいだ。
「ここは暗すぎますね」
<人間イカリ>は忌々しげに言うと、左手の指環に向かって命令した。
「【聖環
左手にぼうっと蒼白い光がともった。
足元が安定しだした。
溶けた鋼鉄のような黒い岩肌がどこまでも続いていた。あの湖の真ん中の丘と同じものだ。こんな場所が、湿原の地下にあっただなんて!
「
男がつぶやいた。
確かにそこは街の遺跡だった。陰の中にぼんやりと道や家の輪郭が見える。三人はその中心めがけて降りていっているのだ。
「深度は?」
「海抜から50ヴルは降りたはずです。深部としては大した数字じゃありませんがね。それに、もう終わりが近いようだ」
ちょうどその時、降下が終わった。
一番下の地面に降り立つと、長身の男は興味深そうにしげしげとそこかしこを観察して回った。広い街道や、アーチや、水路のような遺構を。
「ここには水がないですね」
うしろで<人間イカリ>が言った。男は頷いた。
「物理結界だろう。地上の湿原はここまで入ってこれんのだ」
そして、二人は足を止めた。
「これは凄い……壮観だな」
そこにあったのは、巨大な扉だった。
石とも金属ともつかない、独特の光沢があるなにかで造られている。高さは見上げるほどのもので、人間が使うような大きさには思えない。表面には文字のようなよく分からない紋様が細かく彫り込まれていた。
扉を取り囲むように、無数のパイプが枝分かれして広がっていた。きっと地上へ向かうのだろう。かすかに水が動いている音がする。
その扉の前には、一体の<
二人はそれを敬うようにそっと見あげた。
「門番だとでもいうのか」
その<
けれども力なく項垂れた頭、くずおれた膝はどうにも弱々しい。
なにより、その体躯は灰色の石に覆われていた。
「まるっきり石化している。不活性化状態だ。こんなところに<
男はそう言うと、軽くその石に触れた。足元でおずおずとたじろいでいる
「そう怖がらなくともいい。石化している<
男達は喜びをあらわにした。
「では、ここがそうなのですね?」
「ああ。まず間違いあるまい」
<天使>に鎖される扉を見上げながら、長身の男は言った。
「【清浄炉】だ」
「“歴史”の遺産だよ」
男は
「かつての文明が創り出したものだ。我々には未だにこれを作ることができない。海の毒を浄化する技術だからな」
「海を?」
「海水の毒を浄化し、水と電力を取り出す仕組みだ。どうやっているのかは未だに未解明だがね。なにせ人類は、未だに海の毒の正体すら解析できていないのだから」
男はそう言うと、扉の表面を愛おしげになでた。
「“歴史”の人々は一体どのような民だったのだろうな……この向こう側の【清浄炉】にその答えがあるといいが」
「ですが、開きそうにはありませんね」
扉の周りをぐるりと歩き回っていた<人間イカリ>が首を振りながら戻ってきた。
「探してみましたが、抜け道も見つかりません。あとはいささか荒っぽい手しか残っていませんよ」
「ここまで来て躊躇うはずもない。やってくれ」
男の言葉に、<人間イカリ>は満足気に頷いた。
持ち上げた左手が突如、まばゆく発光した。白い光が足元の影を濃く、鋭く切り取る。ギザギザした陰影がそのまま剥がれて持ち上がった。
<人間イカリ>はその影に向かって、冷たく命令した。
「《
影で出来た剣が、扉に切っ先を叩きつけた。
その鋭さときたら、目で見ただけで瞳が切れそうなほどだった。こおん、と澄んだ音が鳴るくらいの勢いで、それを叩きつけたのだ。
けれど、扉には傷一つつかなかった。
<人間イカリ>はプライドの傷ついた声で言い訳した。
「いや、調子が悪くて」
「“歴史”のものだからな。やはりそう簡単には壊せないのだろう」
男はため息混じりにそう言った。分かっていた、と言いたげな口ぶりだった。
「試しに爆薬でも持ってこよう。どうも腰を据えて粘る必要がありそうだ」
その奇跡ですら傷つかない頑丈さが、どんなふうなのか触ってみたくなった。
冷たかった。光沢のあるみかけとは裏腹にちょっとざらざらしている。匂いはない。指を滑らせると、石の中で透明なひかりがちらちらと追いかけてきた。
そして、扉がごとりと音を立てて動いた。
「なんの音だね?」
男は頓狂な声を上げて振り向き、凍りついた。
巨大な扉が開いていく。
刻印に沿ってひかりがちらちらと踊っていた。何百年も、ひょっとしたら千年以上動かされていなかったのだろうそれが、ゆっくりと口を開けていく。
「いったい、なぜ開いているのだ?この俺の奇跡ですら傷がつかなかったのに」
<人間イカリ>はそう言って、所在なさげに立っている
「あの、ごめんなさい」
「ちょっと触っただけなの」
「知っている。お前ごときになにかができるものか」
<人間イカリ>はそう吐き捨てて眼差しを外したが、もう一人の男は首を振った。
「いいや、違うな」
まさに開きかけている扉を、男は重々しく見あげた。
「都市船の古層がひとりでに動くなどありえない。まさか……そうだ。これは明らかに内側から開いている。この子が鍵だったのではないか?」
男は堪えきれずに呵々大笑した。
「素晴らしい!まったくなんという偶然だ、天の采配のようではないか!まさしく運命だ!」
その手が
「ジュバの民だ。土着の民の血筋だよ。信じられぬ幸運だ、あるとしてもとうに失われているものと諦めていたが、こんな偶然が――」
「見ろ、道が開くぞ」
真っ暗な扉のなかには、まだ巨大な道が続いていた。
「《
きつい口調で<人間イカリ>が唱えると、指環の明かりが強くなった。
わずかに下っている。都市船の古層のますます古い場所へと続いているに違いない。その先はよく見えなかった。古層の闇は、明かりのひとつで払い切れるほどやわではないのだ。
「実に唆られるではないか。この先にあるのだ、かの“歴史”の遺した秘奥が。人類の叡智の欠片が」
男は暗がりを覗き、足を半分突っ込みながら、ふいに後ろの
「どうしたね。来ないのかね?きっと【清浄炉】の炉心などそうそう拝めるものではないぞ」
その道が、なんだか不気味だったからだ。さっきまでの闇とは違う、恐ろしいものがその奥にあるような気がした。気のせいなのかもしれなかったが。
「しかし、ここまで来たというのに」
残念そうに肩を竦める男へ、<人間イカリ>が呆れた声をあげた。
「いいじゃありませんか。さっさと追い返すべきだったんですよ。だいたい、その子供は今回のことになんの関わりもないのですから。足元をちょろちょろされたんでは気が散ります」
「しかし――」
男はなおも食い下がったが、やがてあきらめたようだった。陰になっている顔は見えないが、張り詰めたものが正気に戻った感じがした。
「そうだな。ひとまず地上へ戻ろう。腹も空いたしな」
◆
鉄の小島はあまり落ち着くところではなかったが、それでも彼らは十分に食事を楽しんだ。携帯式の火でトビクチナワ*3の干し魚を炙っただけの代物だったが、
「君には助けられたな」
男はぼそりと言った。静かだが熱を感じさせる口調だった。
「まったく予想外だった。だがわれわれにとっては天の救いだ。相応しい代価を支払わないと気がすまないと思う」
そう言うと、男は懐から革張りの財布を掴み出し、
「無粋だが、感謝の気持だ。君にはそれくらい感謝していると分かってくれ」
そこには大小さまざまなゼータ硬貨が、たくさん入っていたのだ。いろんな形をしていて、色も濃淡さまざま、価値は分からなかったが、きっと安くはないに違いない。
「ありがとう」
きっと認めてもらえる。まともな人間になれる。褒めてくれるに違いない。そうなると、居ても立ってもいられなかった。
「じゃあね、おじさん達」
「いい。さっさと失せろ」
<人間イカリ>は干し魚を齧りながら傘の石突を振り回した。長身の男はちょっと微笑んで首を振った。
「気をつけて帰りたまえ。送ってやれんですまないね」
帰り道は分かっていた。
霧はやはり濃かったが、迷う心配はなかった。人影たちが歩く方へ向かえばよいのだった。黒くてあいまいな彼らは、
「帰ったら、お母さんはなんて言うかな」
ひとりでこんな冒険をしたのは初めてだった。母親はきっと心配しているだろう。妹もなにがあったのか聞きたがるだろう。その二人の前に、軍人からもらったゼータ硬貨をじゃらじゃらと吐き出してやるのだ。
帰ったら、まずはどこに行っていたのかを教えてあげるのだ。今ごろ探しているかもしれない。そう思うと、足取りは行きしなよりぐんと速くなった。
葦が茂り始め、霧が失せていく。
一緒に歩いていた人影が薄れて消滅した。きっと、人間の世界には行けないのだろう。
すでに見知ったところにまで帰ってきている。家はすぐそこだ。湿原のほとり、今にも泥に沈みそうな掘っ立て小屋が見える。
湿原から出る。硬い地面に飛び出す。
扉の前で息づかいを整える。
耳を澄ましてみた。今にも
『――まったく、せいせいしたよ』
『いなくなっちまいやがって。あたしゃあんなに目をかけてやったというのに、ちょっと折檻したらこれだ。堪え性がないんだよ。堪え性がないやつはなにを教えても駄目だね』
心配してくれているはずだった。
違うんだよお母さん。怒られたことなんて、なんとも思ってないよ。
『人間ってのは生きてるだけで迷惑をかけるもんだ。だからそのぶん働かなくっちゃあいけないってえのに、ぷらぷら湿原に飛び出していっちまった。まあ、悪いことばかりでもないがね。どのみちあの子の稼ぎなんて知れていたんだ。口が減るだけ儲けものだよ』
『ねえ、あたしは大丈夫でしょう?』
妹の声がした。
『あたしはお姉ちゃんみたいじゃないよね』
『そうとも
母親はしばし沈黙し、再び口を開いた。
『血がよくなかったのかも知れないねえ、あれの父親もろくでなしだった。のろまでぐずだったよ。あたしの親戚にもっと北のヴォホーフトで
『なんにせよ、これでせいせいしたよ!あんなのでも腹を痛めて産んだ子だからね、自分で捨ててくるわけにもいかないし。ま、これからは家が広くなるよ、
この人たちは。
それは、
ここにいていいと、そう認めてくれる人はいない。誰かを傷つけても、なにかを壊しても、それでいいと許してくれる人はいない。得ならば受け入れられ、損ならば弾かれる。あるのは、そういう冷徹な計算だけだ。
損得勘定抜きで価値を与えてくれる人はいない。
だから、
「ただいま」
母親も、妹も、びっくりした顔をして
「貰ったの。すごいでしょう?あの軍人さんたちがくれたんだよ」
母親は呆けた様子からようやく立ち直ると、無数のゼータ硬貨を掴み上げ、しげしげ眺めたあとで裂けるような笑みを浮かべた。
「よくやったねえ」
彼女は
母親はほくほく顔で、優しく褒めた。
「本当によくやった。おまえは私の自慢の娘だよ、
その瞬間、
あれほど求めていた母親の笑顔が、褒め言葉が、なにかを壊したのだ。どす黒いものが胸のうちから湧いてくる。自分でも信じられないような言葉を、
「死んじゃえ」
低く、
「死んじゃえ!みんな、無くなっちゃえばいいのに!」
そのとき、遠くでひかりが爆ぜた。
◆
■都市船ジュバ 古層
ふたりは暗い道を歩いていた。
立ちはだかっていた<
「なぜ、ついてきてくれたのかね?」
男は言った。<人間イカリ>は肩をすくめた。
「どうしたんです、藪から棒に」
「これは君には関係のない話だったろう。上から睨まれるだけだ。それなのに、声をかけたとき君は二つ返事でついてきてくれたな」
男は笑った。
「目標を目の前にして、言いたいことを言っておきたくなったのさ」
「別に、たいそうな理由はありませんがね」
<人間イカリ>は言った。
「ただ見てみたくなった。【清浄炉】を……俺たちをこの世界から救い続けているものの根源を。知りたくなるのが人間というものでしょう」
その声に強い感情が混じった。呼応した影が、揺らめいて消える。
「俺は知りたいんですよ。なぜ俺たちが海に拒絶されているのか。おかしくはありませんか?
<人間イカリ>は道の先を睨みつけた。
「海の毒がなにか。いろんな話を聞きましたよ。かつての巨大産業文明が遺した環境汚染だとか、天変地異の災害だとか。俺に言わせればそんなものは答えになっちゃいない。大昔の、見たことも聞いたこともない出来事にどうして今を生きる俺たちが苦しまなければならないのか。その答えの、ほんの少しのかけらでも、この道の先にあるような気がするんです」
「我々は世界に拒絶された生き物なんだよ」
男はつぶやいた。
それっきりふたりはなにも言わなかった。道はみるみる狭くなり、尖った岩が現れはじめていた。濁った結晶が床から、天井からその丸い切っ先を生やしている。
「どうやって、海を浄化しているのだろう」
男は不意に言った。
「
その呟きに、<人間イカリ>は期待を隠しきれぬ声で答えた。
「この先を見ればわかることでしょう?」
「どうだろうな。浄化の仕組みが分かったとしても――」
そこで、行き止まりだった。
パイプは無かった。
そこにあったのはただの空っぽの石室だった。完全な立方体なのだろう、すべての辺が同じ長さで作られている。
古代の文明の機械も、叡智を凝らした技術も、なにもなかった。部屋の底には海水が溜まっていて、その下ははるか深海に通じているようだった。くろぐろとした闇がどこまでも続いている。
「まるで祭壇だな」
男はそう言い、顔をしかめた。
「至聖所か?どういうわけだ。まさかこれが清浄炉の正体だとでもいうのか」
想像とはまるっきり違っている。ちくたく音を立てる懐中時計の蓋を外してみたら、中身が空っぽだったような気味の悪さだ。
男は不思議そうにそこへ近づき、息を飲み込んだ。
祭壇の前にあったのは、ひとりの人間の屍蝋だった。
祈るように手を合わせ、頭を項垂れたまま死んでいる。その足元では恐ろしき海水がひたひたと揺れていた。
それだけのことで、なんの変哲もないはずのものだ。軍人なのだから屍体には慣れている。
だがここには、大気が張り詰めたような神聖さが満ちていた。ふたりは何を言われるでもなく理解した。ここは
拒絶されている。
その思いが肌を刺した。耳の中でぶんぶんと蟲の羽音のような耳鳴りがする。
――出るぞ。
思わずそう言おうとして、男は振り向いた。
「しるしが……」
<人間イカリ>は自分の手を押さえて苦しんでいた。契約の紋章があるはずの場所だ。
「だめだ、ここは……おれの中に、入ってくる……」
頭巾がずり落ちる。
<人間イカリ>はひどく青褪めた顔で、浅い呼吸を繰り返した。
それへ近寄ろうとした男も、崩れるように膝をついた。力が抜けていく。
【清浄炉】は人類のオアシスだ。だからその中心にも善なるものがあるはずだと思っていた。だが違う。これは善にしろ悪にしろ、もっと恐ろしいものだ。優しげにのどを潤してくれる水とは違う。
「なぜ気づかなかったのか」
男は這々の体で零した。
「順番が違ったのだ。“歴史”と、<
「――りかいしたぞ」
<人間イカリ>が突然、目を見開いてさけんだ。明らかに正気をなくしている。
完全なる立方体の部屋が淡い光を放ち始めた。
「りかいできてきた。ここは“ガフの部屋”なんだ。にんげんのたましいがあるところとつながっているんだ。ああ、なんて、おれたちはつみぶかいのだろうか……!」
まばゆい白色光が侵入者を照らし出す。
それを受けたふたりの肉体は、塩の柱に変わって崩れ落ちた。
◆
痛いほど白い閃光が、“
あの黒い影たちが足を止めた。光を振り向くようにして立ち止まり、それを見上げてはひとりずつ消えてゆく。
それは天からの光ではない、地上からの光だった。
真っ白な光に視界が塗り潰されていく。母親と妹がこの世の終わりだと悲鳴を上げ、家の外へとまろび出た。
その身体が、みるみるうちに白く変わっていった。
塩になっているのだ。ふたりは喚きながら逃げようとしたが、それも叶わずどんどんと塩の柱に変わっていった。人間の形すら保てぬままに。
「待って!」
(違う)
(さっきのは、こんなのを望んだんじゃない。死んじゃえって、消えちゃえって言ったのは本気じゃなかったのに)
この不可思議ななにかの正体も、理屈も、
消えてしまえばいいと。
妹だった塩の柱の首に、あのサンゴの首飾りが揺れている。本当はそれが羨ましかっただけなのだ。
愛してほしかった。
ここにいるだけでいいのだと、肯定してほしかっただけだ。
そのとき、頭の上で別の光がざわめいた。
光の環が空間をこじ開けた。暗い内側からなにかが降りてくる。ばらばらと、石の欠片が降ってくる。
そこにあったのは、一体の<
それがなにかを問いかけてきているのを、はっきりと
「生きたい」
「死にたくない」
家族に死んじゃえとまで言っておいて、こと自分の生命は惜しいのだ。そのどうしようもない浅ましさと恐怖が、塩辛い涙になってぼろぼろこぼれている。
けれど<天使>は、それを肯定するように眼光をまたたかせた。
その身体の色はまるで、あの珊瑚と同じような薄い桃色だった。
“同化”したのだ。
空から見ると、あれほど広い“湿原”も“港町”も驚くほどちっぽけで儚いもののように見えた。そこにある人間も、葦も、泥も、パイプも、すべてが塩に変わって消し飛んでゆく。重なりあった薄紅色の
その白い光があの“
<
◆◆◆
■現在 ユディト市
――はっと、
いつの間にかまどろんでいたのだ。窓の外はもう暗くなっていた。病室の中は薬臭いにおいでいっぱいだった。椅子に座ったまま手を伸ばして窓を開けると、弱々しい風がそれを少しだけ薄くした。
結局、あれが何だったのか、今でも
ユディト市を襲った災害とは、似ているけれど、違う。ユディトの先日のあれは天から降り注いだものだったが、ジュバのあれは地の底からやってきたものだ。
この世界は思ったより人間に優しくないのかもしれない。咄嗟に<天使>と契約していなければ、
理屈の上ではそうだった。
でも、
故郷を滅ぼしたのと、同じではないだろうか。軽はずみな願いで、考えなしの呪詛で。
だから判っている、自分のこころにあるこれは歪みなのだと。こうして耳を澄ましてみると、あの日の幼い自分が胸の中でまだ泣き続けているのが聞こえる。
分かったって、どうしようもないのだった。
特務兵のみんなは優しい。けれど、胸の中の子供を泣き止ませるには足らない。家族ではないのだから。
それに、そんな子供じみた不安を抱えているような人間を好きになってくれる誰かなんて、果たしてこの世にいるのだろうか。
「ユーくんはさ……あたしのこと、好き?」
戯れにそう尋ねると、寝台に横になっている重傷の
To be continued…