<Infinite Apocrypha>   作:N.O.

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第三十六話 園

 □???

 

 血が止まらない。

 初めての感覚ではなかった。なぜか前にも知っているような気がした。これは死だ。生命が身体からどくどくと流れ出ていく感覚、自分が消えていく感覚。

 死にたくない。

 そう願っても、あたりはどんどん暗くなっていった。自分を浸している熱や、鳴り響くそよ風の音、ざらついた鉄の匂いもすべて薄れて消えていく。あらゆるものが淡くなっていく。

 

 その中心で、なにかが微かに脈打っていた。

 ハルヴァヤーではない。

 ハルヴァヤーの力は途絶え始めていた。契約者が死んだからだ。地上に<天使(マラーク)>を繋ぎ止めておくためのイカリがなくなって、奇跡を保てなくなってきている。まるで砂地が乾くように、奇跡の力が抜けていくのがはっきりと感じ取れる。

 だから、今感じているこれはハルヴァヤーではなかった。 

 別の力、南端都市イザールで黒い<天使(マラーク)>に襲われたとき、ハルヴァヤーと契約するときに感じた気配だ。

 死と、そしてそれに逆らうものの気配。

 

『――これは予想外だ』

 脳裡で愉快そうな誰かの声がした。知っている声だった。

『波長が合ったのかな……僕は一回きりのつもりだったのに。君ときたら、よくよく欲張りだね』

 その声は明らかに面白がって、笑っていた。

『いいよ。そんなに欲しいのなら――』

 

 ◆◆◆

 

 アゲハは目を開けた。

 心臓からまるで炎のような熱が手足へ広がっていって、つかえが取れたように感覚が帰ってきた。痒みのような再生の感覚が、自分の輪郭を描き直していく。

 手足が動く。

 アゲハはゆっくりと立ち上がり、傷一つない手のひらで、消えゆく深紅の血をぬぐった。あたりの血が赤い煙になって蒸発していった。

 傷が治っていた。今まで身体に降り積もっていた傷の痛みが、神経を苛んでいた重みが嘘のように無くなっていた。今しがた骨までばらばらにされたばかりだというのに、その名残りはもう引き裂かれた服にしかない。

 息を吸い込んだ。

 風が甘い。

 頭が澄んでいる。

 イザールからここまで、ずっと肉体がまともな状態でなかったのが今になってわかった。それだけでない、今までわからなかった力の気配までもが理解できる。人形王がどれほど格上で、練り上げられた奇跡を使っているのか。

 自分は今まで目隠しをして戦っていたのだということも。

 

『不死の力――』

 “人形王(ザ・トラス)”は許し難いものを目の当たりにしたような口調で言った。その王のリソースが震えているのが感じ取れた。

 戸惑っている。疑問の眼差しがアゲハの力を探っている。突き刺さるようなそれが厭わしくて、拒絶の意思を叩きつけると、その眼差しが退くのが分かった。

 

 そして、もうひとつの気配が近くでじっと震えていた。

 腰に下げた剣だ。眠っているように弱々しく微かな気配が脈打っている。タカのことばが脳裏によみがえった。 

 ――それは聖異物(アロトリオ)だね。

 アゲハはこの剣を鞘から抜いたことがない。抜けなかったのだ。聖異物は解言なしには使えない。使い方を知らないアゲハにとって、この剣はただ頑丈なだけの棒切れと変わらなかった。  

 なぜ、みんなああも派手に聖異物を使えるのだろう?

 そう、アゲハはおもむろに思った。一体どうやってその奇跡の使い方を知ったのだろう。船や機械のように分かりやすいスイッチがあるわけではないのだから。

 ――聖異物はその名前を呼ばれることで初めて解放される。

 鞘に収まったままの剣からは力の鼓動が伝わってくる。その弱々しいリズムが、なんとはなしに、まるで何かを囁いているように思えた。

 ――名前と解言は奇跡に必要な条件なんだ。

 唇が動く。剣を持ち上げて、力を込める。

 まるで鞘に刻まれた牙の印(クオーツ)がしかと食い止めているみたいに、それはびくともしない。けれどアゲハは呟いた。力の脈動が教えるままに、そのことばを、力ある命令を。

 

「――《復讐せよ(レッデ)》」

 

 そして、剣はずるりと抜けた。

 

 ◆

 

(目の色が変わった)

 人形王は目の前の、さっき殺したはずの少年を見つめた。

 葬送の奇跡はものを壊す力だった。破壊が再生に転じることは絶対にない。だが、アゲハは確かに無傷でこちらを睨んでいる。ずたずたの上衣から覗く肌には切れ込みの一つすらない。

『過剰適合者、彼女のほかにも……いや、他ならぬ私か。発現させてしまったのは』

 不死のことは知っている。よく知っている。そもそも力ある人々のあいだでは“彼”はそれなりに有名だった。そして、どんな奇跡でも、死にかけた使い手が一皮剥けることは珍しくない。

 アゲハが解言(かいごん)を唱えて剣を抜き放つ。それが聖異物だということも分かっていた。だが、未解放の聖異物など気にする必要もないと思っていたのだ。

(あの(つるぎ)……本質は鞘のほうだな) 

 アゲハが引き抜いた剣からは、なんの力も感じない。ただの物質だ。聖なる力は鞘に宿っている。牙の印も鞘にあるのだから。聖異物(アロトリオ)に合わせて細工物をあつらえることはままある。

 だが、奇妙な剣だった。

 刃がない。まるで鉄の延べ板と同じだ。のっぺりとした金属板には、異国風の読めない飾り文字がびっしり彫り込んである。刃のない剣で何を斬ろうというのか、とそれをせせら笑おうとして、人形王は(すんで)のところでやめた。聖異物の対になる剣がなまくらの形をしているのなら、むしろ得体が知れないと畏れるべきなのだから。

 

『どのような奇跡にせよ』

 人形王はそう言うと、【聖鎚】を構えた。

『また、同じように叩き潰せば済むだけのことだ』

 人形が人差し指を伸ばす。

 アゲハは素早く頬を背けたが、一筋の赤い線が浮かび上がってぽたりと落ちた。

 人形王は胸の内で頷いた。

(治らない。傷を癒やす力ではない。致命傷だけをトリガーとした再生、それも不完全だ)

『その不死の力、軽々しく当てにできるものではないな』

 人形王は声高に言った。

『安定していない。もう一度死んだときに間違いなく蘇る保証は無いぞ』

「知ってるさ」

 アゲハは血を吐き捨てた。

「それで、だったら、なんだっていうんだ?」

『挑発くらい素直に聞きたまえよ。可愛げのない』

 少年は無視した。

 その唇がなにかつぶやき、奇跡がうねり始める。ハルヴァヤーの力が励起され、その両手に集まって存在感を増していく。

(化けたな。さっきまでとはリソース操作の精度が桁違いだ。やれやれ)

 人形王は一考すると、人形兵たちを吶喊させた。

『《潰せ(エクスプリミテ)》』

 その“累ねのことば”に、人形が重さを忘れたかのような動きで飛び上がり、アゲハにのしかかる。人形が人形を踏み台にし、すがるように登り、あっという間に少年の姿は見えなくなった。まるで蜜にたかる黒蟻(ガイ)のようだった。

 それらを繋いでいる糸の上を、【聖鎚】の印が幾つも走っていく。宙を踊る印章が人形兵たちと一緒にアゲハを覆い尽くし、小高い丘のようになった群れの周りでぐるぐる回った。

『《暴力の刺繍(フト・プツァーツァ)》』

 代償(サクリファイス)された人形がアゲハを押し潰す。その外側から粘るような炎が空気を飲み尽くしている。いくら物質を破壊する《葬送》でも、息が詰まってしまってはどうにもなるまい。

『いやはや、終盤の粘り強さというのはあるものだな』

 人形王は言った。

『だが、所詮は悪足掻き。この私に勝てるはずなど――』

 

 そして、その山が切り飛ばされた。

 斬撃が走り抜けていく。自慢げに掲げていた【司祭(ビショップ)】の右腕がすっぱりと落ちた。その美しい切り口を、人形王は驚きをもって見つめた。

 繰り返し、繰り返し直線が走る。

 人形兵が大雑把に切り飛ばされていった。大鉈を振るったように大きめの塊に分解され、灯っていた炎も吹き消されてしまう。その切断の中心で、アゲハはなんの力みもなく佇んでいた。【司祭】に向かって挑発でもするかのように、左手の鞘でひゅっと風を切って指す。

 

「――《風葬斬(シヅルギ)》」

 

 次の瞬間、十字の傷が走った。

 大地が裂けた。まるで定規を当てたかのように真っすぐな十字の線が、軌道上のものを分割したのだ。

 “人形王(ザ・トラス)”は素早かった。

『《操作(フト)》』

 奇跡の気配に先んじて、あたりの糸が寄り集まる。

 人形たちを支えにして織り上げられたそれは、何枚もの布地になって即座に【司祭】とアゲハの間を遮った。

 だが、十字傷はその布をもやすやすと切断した。帆布のように丈夫で厚い壁がすっぱりと斬り裂かれ、短剣を当てて引いたかのようにひらひらと落ちて、元の糸に戻っていく。

綾織(ツイル)三枚でも止めきれないとは』

 最後の一枚の向こう側で、人形王は驚嘆を込めて言った。織り布は糸の属性からやや外れるが、それでも神話級が繰り出した護りだ。それを容易く切り裂くなど、今までのハルヴァヤーとは明らかに違う。

『この術……明らかに私の奇跡に影響を受けているな。だが奇跡による分解ならさっきまでと同じく意思で拒絶できるはず。物理法則(ルール)の範囲内なのだとしたら……そうか』

 人形王は空を見上げた。本当なら必要のない仕草だったが、そうせずにはいられなかったのだ。

 

『風。あの女の真似事か!』

 そう叫びながら【司祭】は崩れ落ちた。

 ざく切りにされたのだ。ぶちぶちと糸のちぎれる音がする。【聖鎚】はもう使えなかった。拾い上げようとするたびに手足が切断されるのだから。

『しかし、調子に乗ってくれるなよ』

 金属片のクズ山から、王の声が轟いた。

『縫い合わせればいいのだ。おまえはどこまでいってもただの人間だが、この()は、私たちは人形だ、いくらでも復活するのだ』

 だから、アゲハは剣を持ち上げた。

 聖なる鞘が熱を持ち、刃のない剣身がぎらりと光った。

「《復讐せよ(レッデ)》」

 不思議と、ことばが口をついて出てきた。知らないはずの名前が、心を凝らすと奥底に眠っている。アゲハはそれに従って、口を開き、滑らかなその名前を叫んだ。

 

「【聖鞘ウルトール】」

 

 そうか、と人形王はここではじめて気づいた。

 あの剣は飾りなどではない。聖異物の力を使いやすく、指向性を定めるための助祭具なのだ。

『いいだろう』

 人形王は言った。

『見せてみろ。おまえのその異物の力を――』

 そして、糸が切れた。

 いくら縫い合わせようとしても繋がってくれない。【司祭】の人形はもはや完全な機能不全に陥っていた。金属のがらくたから、もとに戻れない。

 こんな人形の傷などすぐに縫い合わせられるはずだった。できないのは、それを妨げるなにかがあるからだ。切り口をかがるようにしても、いっそぐちゃぐちゃに縫い替えようとしても、フトの奇跡が繋がってくれない。

『だとしても、手はまだある』

 糸がざわついた。

『術者を殺せばいい』

 アゲハの不死は未完成だ。本来のものにはほど遠い。発動は不安定で力も弱い。今ならばまだ殺せる。もう一度、心臓を潰してやればいい。

 白い光が駆けた。

 少年は右手を差し上げながら体を反らしたが、それでも糸の切っ先は躱しきれなかった。宙に真っすぐに引かれた直線が、少年の身体を鋭く貫いて、後ろの地面へと根を張るように着弾した。

 

 そして、壊れた人形もまた、後ろへ弾け飛んだ。

 その壊れた体躯に、ひとりでに大穴が開く。傷口のかたちが、たった今つけてやったアゲハのそれにそっくりだった。

 人形の身体がとうとう、ぼろぼろと崩れ始めた。あたりの捨て駒(ポーン)たちも次々と倒れていく。奇跡の支点を失い、糸が切れていっているのだ。

『そうか。復讐者(ウルトール)か』

 人形王が言った。

『自らの傷を、それをつけた敵へと返す力。してやられたな……せめて“不死の力”さえなければ。しかし、それとてどれほど頼みにできるのか、怪しいものだがね』

 アゲハは黙っていた。

 息を荒くつくたび、その唇の端から血が溢れる。それを噛み潰して、少年は身体から赤く染まった白糸を引き抜いた。

『ああ【司祭(ビショップ)】はもうだめだ』

 人形王は口惜しげに言った。だが、敗北を認めたものの口調ではなかった。

『いいだろう。局地的勝利などいくらでもくれてやる。しかしすぐに、次こそは――』

 

 そして、すべての(フト)は光の塵になって消えた。

 アゲハは血の混じった咳をすると、身体をくの字に折って、精巧な人形(マスターピース)の磨き上げられた装甲を見下ろした。

 そこに映る自分を見下ろした。

「同じであるものか」

 アゲハはつぶやいた。

「おれがおまえと同じであるものか」

 小さく映る自分の顔が、口を開いてそう言った。

 

「おれは、おれだ。おれだ!」

 

 ◆

 

 シャルキイイとウミガラスは、ちょうどその後ろに姿を現したところだった。彼らはあたりを見渡し、壊れ果てた人形の群れにほっと息をつき、そして顔を歪めた。

「いったい、何が?」

 ウミガラスがそんな、なんの情報も持たない言葉をこぼした。シャルキイイは<ジン>特有の第六感で、アゲハをじっと見つめていた。

 少年の髪が真っ黒に染まっていたから。

 今までのあの柔らかな褪せたベージュ、明るい土色ではない。両の瞳はまるでエメラルドのような緑色に輝き、肌の色もはるかに明るく、白くなっている。

 アゲハが顔を上げた。

 その致命傷が赤い蒸気を上げて再生していく。シャルキイイは畏怖を込めて呟いた。

「不死の力……あぁ、あの、彼の!我らが王と同じ、過剰適合者……」

 少年の顔は、どこか別人のようだった。

 丸く見開かれていた目は凛と切れ上がり、憂いがある。唇は薄く、頬骨はもっと切り立ち、耳が小さい。ほんの僅かな、見間違いかと思えてしまうほどの、それでも確かに異なる顔立ちだ。

 その違和感が次第に消えていく。潮が引くように、元の顔へと戻っていく。 

 髪の色、瞳の色が見慣れたアゲハのそれを取り戻していく。肉体の再生が完全なものになるにつれ、少年は少年へと戻っていった。

 けれどその瞳には、赤みがかった鳶色の瞳孔の片隅にだけは、ひとかけらのエメラルドが残されていたのだ。

 

 ――代償。

 アゲハは呟いた。

 人は、代価なしに力を得ることはできない。強い奇跡を使えば、絶対にその代償を求められる。それはこの世界のルール、奇跡の法則なのだ。<天使>が契約のために戒律を課すように、聖異物が使い手に名前を呼ばせるように。(ページ)が腕を捧げたように。

 不死の力は、一回きりのはずだった。

 だが、アゲハは死にたくないと願った。願ってしまった。

 だから、またしても代価を支払わなくてはならないのだ。

「あの人の眼だ。あの人の……」

 アゲハは自らの瞳を見つめながら言った。

 力を使うたびに、アゲハは“彼”に近づいていく。自分ではなくなっていく。このまま復活をみだりに濫用すれば、いずれアゲハはあの不死の男のコピーになってしまうだろう。

 おそらくは、魂までも。

 寒気が走った。自分の顔が、声が、手が、そして記憶までもが他人のものになってしまう、そう思っただけで途轍もなく恐ろしかった。自分のとても大事なところが、取り返しのつかないほどに踏み荒らされ、穢されたような気がした。たとえ、今はまだ瞳のひとかけらに留まるのだとしても。

 おれは、おれだ。アゲハはまた小さく呟いた。

 けれどそれは、さっきまでのそれとは違って、もうまるで拠り所の欠けた、曖昧な言葉に過ぎないのだった。

 

 ◆

 

「過剰適合者――あの男の力だ」

 シャルキイイはウミガラスに向かって言った。

「かつて、東海域のとある宮廷に身を置いていたことがあるんですよ」

 <ジン>は揺らめきながら言った。

「知っていますか?東の天使学には一部こちらで遺失した文献が伝わっているところもあるのですよ。もっとも、彼らの技術的関心は曳航連邦のそれとはやや違う方向を向いていますが。だが、その彼らでも不死の本質は掴めなかった」

 シャルキイイは言った。

「<天使(マラーク)>の不可能の一つに、“死”があります。死を取り扱うことは何人(なんぴと)の術にもできない。強制的に死を下すことも、あるいはまた逆に、死者を蘇らせることも。あの男の血にある力を除いては――」

 シャルキイイはどこか憎々しげに続けた。

「東方の歴史にはずっと、あの男の姿が見え隠れしています。おそらくは“歴史”が終わった時、そして現在の世界が始まった時、そのすべてのはじまり、二千年前のそのときから。だがそんな大昔の記憶は誰にも継承されていませんし、二千年のあいだ生き続ける奇跡もあるはずがない。そもそも、不完全にしろ、血を使って他人に力を引き継げるというのも不自然です」

 そう答えたシャルキイイに、ウミガラスは言った。

「自らの不死化。自己改編といえば、熾天使(セラフ)系統の奇跡ですね」

「しかし、熾天使の契約者の血を飲んだとしても、力を引き継ぐなんていうのはふつう無理ですよ」

 シャルキイイは続けた。

「あの髪や眼の色も何なのでしょう。分からないことだらけだ。だが、過剰適合者はそも例外存在のようですからね。統一された枠組みで考えることがそもそもお門違いなのやもしれません。力の発現のしかたも、我らが王のそれとは違う……再生ではなく、若さを引き継いでいる彼女とは」

「陛下か」

 ウミガラスは空を見上げた。

 

 そこは相変わらず、暴風の壁に閉ざされていた。時折、オレンジ色と赤の光が乱舞するように走り、こもったきらめきになって明滅している。

 第六感を凝らしてみれば、いや、そんなことをせずとも、恐ろしいほどのリソースがぶつかり合っているのがわかった。

「タルシシュ始まって以来の事態だな。こんなことになるなんて、思いもしなかった。かの王があれほど手こずるのは珍しい」

()を貸さないのですか?」

 シャルキイイは言った。

()()を使えば……いや、使わなくては。同じ王と<超級>が相手とあってはね」

 そこで、彼は放心しているようなアゲハに目をやった。守るものがある戦は特に難しい。ウミガラスは自らの胸を押さえた。

「下知があれば」

 

 そのときだった。

 うねるような地響きがして、頭上が暗くなった。

 シャルキイイは平然としていた。ウミガラスも身構えたが、すぐに構えを解いた。

「よせ。味方だ」

 彼はそう、奇跡を番えるアゲハに声をかけた。

「そうだよな?まだ人間性は残っているか?瑪瑙(マークナイン)

『石にされたいのかしら』

 全身に目のある怪物は、鱗をすり合わせ、金属質の声で答えた。軋んでいて聞き取りづらかった。

『あたりまえよ』 

 そう言うと、彼女は金属のがらくたを吐き捨てた。がらがらと音を立てて転がるそれらは、完全に死んでいた。ウミガラスはそれに向かって言った。

「よく殺しきれたな。君達はてっきり、もっと手こずると思っていたんだ」

『失礼ね』

 瑪瑙(マークナイン)の身体は縮み始めていたが、人間の姿を取り戻すのにはまだかかりそうだった。

『王様から伝言よ。睡蓮(スマール)先生と巨人のアンデシンのほうには黒檀(カラユダン)が知らせを飛ばしてるわ。あれを使うって、王様が』

 怪物はちらっとアゲハに目をやってから言った。

『“極限圧縮”を』

「ああ。だろうね」

 ウミガラスは頷いた。瑪瑙(マークナイン)は鉄をすり潰すような唸り声を上げると、人形を憎々しげに蹴散らしながらどこかへ這いずっていってしまった。

「さて、シャルキイイさん。そういうことですから、悪いんですが操舵室へ飛んでもらえますか、タルシシュの物理航行を停止するように。空間錨(ワールドアンカー)は大丈夫ですが、ただ、座標がこんがらがるといけないんでね」

 シャルキイイは頷くと、文字通り姿を消した。

 ウミガラスはアゲハを見やった。

「何を始めるんだ?」

 アゲハが尋ねた。ウミガラスは言った。

「儀式だよ」

 その胸元で、ぼうっとひかりが揺れた。

「ヒトの、圧縮術の限界を超えるためのね」

 

 ◆◆◆

 

 ■上空 放浪王と人形王

 

 下でリソースがざらりと跳ねた。

 何かあったのだ。良し悪しは分からないが、とにかく大きな何かが。けれど、よそへ第六感を向けるような余裕はもう無かった。目の前の王は年若く格下のはずだが、間違いなく強い。

 

「《堰け(ストルエ)》」

 指環を傷口に充てがって、放浪王は命令した。

 黒い光が半ばで断ち切られた右腕を覆い、固まって、鮮血をせき止めた。人形王はそれを余裕そうに見過ごしていた。

「すぐに真っ二つにしてくれる。今度は胴をな」

「鉤の手一本落としただけで有頂天か。人物の出来が知れるな」

 放浪王は負けじと言った。だが、その顔は青白かった。血を失いすぎているのだ。

「切断は糸の属性の一つだ。我がフトの斬れ味は貴女のセアラを凌いでいるということがこれで証明された。我が刃は貴女の喉元に届く。あとは囲み、近づいて、詰めるだけだ」

 そう言った彼の顔を、放たれた暴風が張り倒した。

 王は帽子を押さえながら笑った。襟元が風ではためく。

「なんだ。接近戦はお嫌いかね、放浪王(ザ・ウェンド)!」

 人形王は風に乗って突進した。

 白い糸がその周りを目にも留まらぬ速さで回っていた。煌めくひかりの雲のようだった。風の防壁と糸の刃が触れ合った途端、鋭く澄んだ衝撃がこだました。

 放浪王が風を強めた。だが、人形王はせせら笑った。

「力天使の真似事はやめるべきだな……《装飾操作(フト・キシュート)》!」

 糸が膨れ上がったように見えた。

 回転数が上がったのだった。風と糸の悲鳴が、耳を切りそうなほどに喚き立てる。一瞬だけ持ちこたえたあと、放浪王が耐えきれずに吹き飛ばされた。風の防壁も揺らめいて消える。

「お気に召さなかったかな?」

 人形王は外套を揺すると、咥えた笛を吹き鳴らした。

「《疾走操作(フト・レディーパ)》」

 外套から糸が溢れ出した。

 さっきまでの細糸とは違う、目に見える太さを持った糸だ。その見かけときたら、いくつもの針のように尖っていた。糸の切っ先が折れ曲がり、伸びながら、“放浪王”に向かって追い縋る。

 

「第55番《双連翼(そうれんよく)》!」 

 放浪王は即座に叫んだ。

 その腰に渦巻く風の玉が二つ生まれ、暴風を噴き出して彼女を吹き飛ばした。まるで翼のような風をあとに広げながら、王が矢のように飛んでいく。

 人形王もまた【聖套】の出力を上げた。

「いいだろう。付き合ってやる。機動戦と洒落込もうか」

 

 風の翼が曲がった。

 放浪王がまるで跳ね上がるように空へと跳び上がる。上下左右、軌道を自在に折り曲げながらタルシシュの上空を駆け抜けていく。

 それでもなお追いかけてきている糸を振り向き、放浪王は片腕で頁を捲った。

「消し飛べ」

 領域が濃くなった。

 圧縮された大気が砂のように飛び散り、そして次々に破裂していく。ぶつかった糸も千切れ飛んで、ぼろぼろと崩れて消えていった。実物の糸ではない、奇跡で具現化されただけのものだからだ。

 

「さすがに空中戦はお手の物だ」

 放浪王よりはやや劣る速度で飛びながら、人形王は呟いた。どうしても純粋な速度では聖異物と<天使>の差がある。

「ならば手数で埋めるまで」

 そういうと、彼は手をさっと振り下ろした。

「降りてこい、グランディス」

 天を塞いでいた【聖顔】がごろごろ唸りながら落ちてきた。放浪王の軌道を押しつぶすように、雲を押し退けていく。上に向かおうとしていた放浪王は、血相を変えて何事か叫んだ。

 大気が震えた。

 平たい刃のような竜巻ががりがりと広がり、巨大な【聖顔】を、ヒトの顔を象った像を削り壊していく。土気色の岩を砕きながら、放浪王はやむを得ず軌道を右下にひねった。

「《激情操作(フト・ベイーラ)》」

 それを狙い撃つように、赤い糸が撃ち込まれていく。  

 糸が燃えていた。赤熱した炎の直線がいくつも、いくつも、放浪王のジグザグした軌道を掠めて、折れ曲がり、追いかけていく。

「奇跡は複合されてこそ真価を発揮する。<超級(スペリオル)>はもう私の人形なのだ。私にも、その火が使えないとでも?」

 だが、放浪王はまだ飛び続けていた。赤い糸も、白い糸も、崩壊しながら降り注ぐ巨像の顔面も、彼女の軌道をいま一歩で殺しきれていない。だから人形王は、最後の一手を打った。

 

「これで王手(チェック)だ――」 

 笛の音が鳴った。

 紺碧の<超級(スペリオル)>が炎に変わった。かと思うと、それが四角い翼の切っ先へ動いていく。

 圧縮されているのだ。力天使や主天使が発動点を絞るように、熾天使系統は自分の身体の中で奇跡を圧縮する。

 

「――《焼却(エシュ)》」

 放たれたそれらが、空を爆撃した。

 文字通り、粘つくような赤い炎が空を埋め尽くしたのだ。線の攻撃ではない、面の攻撃は、飛び回っていた放浪王の行く手を真っ赤に塗り潰した。

 放浪王はそこへもろに突っ込んだ。その燃え盛る空の中心へ、鋭く赤い線がいくつも飛び込んでいった。  

 

 ◆

   

 “人形王(ザ・トラス)”は油断なくその火の名残を見つめた。

 長く生きた<人間イカリ>ほど、生き抜くすべに長けているものだ。ただ強いだけの術者なら、百年あまりも生き残ることはできない。

(“同化”か、聖異物を隠し持っているという手もある。油断して背を向けたところを返り討ちだなどと、笑えもしない話だ)

 果たして、放浪王は生きていた。

 ただし満身創痍だった。風で身を守ったのだとしても、<超級天使(スペリオルマラーク)>の炎は並ではない。衣服は焦げ落ち、白い肌には赤いやけどが広がっていた。

「なんだ、存外呆気なかったな」

 そう言って、人形王は彼女の手元を指さした。

「勝った」

 そこではあの【翠風秘典】が焼け焦げ、灰になってばらばらと崩れていくところだった。黒ずんだページがはためいて次々と地上に落ちていく。

「ははは、は、はっ!勝った。勝ったぞ。“引き金(トリガー)”を潰した。これでもう貴女は術がろくに使えない。飛車角落ちの状態で、こちらの攻めを受け切れるはずもない」

 勝ち誇って、人形王は叫んだ。

「普段の私なら、情をかけるところだ。生命だけは助けてやるから、と。しかし貴女が相手ではそうもいくまい。いつ逆転の一手を思いつくか分からない。すまないが私は臆病でね」

 <超級(スペリオル)>が炎を握りしめた。

「仕留めさせてもらおう」

 人形王が優雅に指先を動かす。

「恥じることはない、この私と<超級(スペリオル)>が相手だったのだから……拍子抜けではあるがね。もっと奥の手を隠しているものと期待していたよ。名折れ、というやつだな」

 

 その時、放浪王は確かに笑ったのだった。

 人形王は怪訝そうに言った。

「なんだそれは。自嘲の笑みか?自棄になったのか?」

「諦めだよ」

 放浪王は黒焦げになった帽子を脱ぎ捨て、ほとんど裸のような有様で空に浮かんでいた。

「僕はこれでも矜持を持って戦っていた。だが、ここまで追い詰められたとあっては、はじめから躊躇いを捨てておまえを潰すべきだったのかもしれないと思ってさ」

「聞いていて恥ずかしくなるほどの負け惜しみだな」

 人形王はそう言ったが、彼女はまったくこたえた様子もなく、首を振った。

「ああ。そう聞こえるだろうね」

 次の瞬間、人形王は、彼女の領域が薄く広がったのを感じ取った。

 なにかをしようとしている。厄介ななにかを。

「エシュ!」

 人形王が命じたそのとき、横合いからなにかが彼に向けて迫ってきた。

 撃ち放つはずだった炎を防御に回す。エシュの握りしめた火にぶつかったのは、長々と伸びる竜巻のしっぽだった。

「ここにきてくだらぬ悪あがきを」

 人形王は吐き捨てた。単純な気流操作で勝てる相手でないことはもう分かっているはずだ。

 けれど、その竜巻がどこから来ているのか、人形王はすぐに勘づいた。

 放浪王の<天使(マラーク)>【翠風奇跡 セアラ】は権天使(アルケー)系統だ。神話級ともなればその領域は都市すら覆い尽くせる。タルシシュの外へまではみ出した奇跡領域が、一体なにを狙ってのものなのか――

 

「まさか、そんな酷いことを」

 人形王はわめいた。

 竜巻は水を含んでいた。極端な低気圧が水を吸い上げて運んできているのだ。

 ただの水ではない。ひどく甘い匂いがする。

「海を!海水を巻き上げているのか」

 人形王は信じられないという口調で言った。

「なんということを。なんて恐ろしいことを。海を()()()などとは、まっとうな人間なら決してしないはずだ。貴様には人の心がないのか?躊躇いを捨てるとしても、たとえ戦争でも、やっていいことと悪いことがあるだろうに」

 取り乱して喚く人形王は、エシュの炎で竜巻を受け止めた。

 <天使>は海に耐えられるけれど、人間はそれにわずかでも触れれば溶けてしまう。たとえ能天使系統の変身者でも、熾天使系統の自己改編でも、人間である限り例外はない。火にあぶられた海水が揮発して、甘く危険な香りがむせ返るほどに濃く立ち込めている。

「そうまでして生き残りたいのか、貴女は」

 

「ああ。僕は死にたくない」

 放浪王は言った。

 シンプルな言葉に鋼鉄のような重みを込めて。

「そのためなら何でもする。何を犠牲にしてもいい。僕は僕自身とその意思を愛している……ほかの誰を踏みにじっても、苦しめても、辱めることになってもいい」

 その眼には、強い決意が灯っていた。

 何かする気だった。とんでもないことを、常識を超えた何かを始めようとしている女の目だった。

 

「君、権天使系統の圧縮術を知ってるかい?」

 ふと、放浪王は焼け焦げた指を差し上げた。

権天使(アルケー)は領域だ。それを狭めることで奇跡を高めていく。だが、それは矛盾でもある。権天使の本質は結局、どこまで行っても“広さ”だからね。

 力が高まれば高まるほど領域は広がろうとする。それを抑えつけて無理やり圧縮するのにも限界がある。広がろうとする力と、狭めようとする意思、そのふたつのせめぎ合いの限界はせいぜい半リーユってところかな」

「何が言いたい?」

 炎に包まれた人形王の言葉に、放浪王は答えた。

「その圧縮の限界を、術者の意思が超えられたなら……矛盾した広さは外ではなく“内側”へと向かうんだ」

 

 それは、人形王の知らない知識だった。

「なぜそれを私に教える?」

 人形王はわけが分からずに言った。

「知識は力だ。それを私にむざむざと教えて、ただで譲り渡すことに何の意味がある?自暴自棄か?それともでたらめで攪乱のつもりか?」

 それを聞いて、放浪王は高らかに笑い出した。

「馬鹿だなあ、教えるさ。喜んで教えてやるよ。一度聞いたくらいで出来るものか。この僕でさえはじめて知ってから出来るまでに何十年もかかったんだ。それなのにまだ他人の助けがいる……いいかい、真の知識というものはねえ、言葉で一通り聞いたくらいで本当に理解できるはずなんかないんだよ」

 竜巻がやんだ。

「奇跡はよく水に例えられる」

 放浪王は言った。

「水がいずれ沸き立つように、奇跡もどこまでも圧縮できるわけじゃない。限界を超えたものは“次の段階(フェイズ)”へと進む。まったくの別物になるんだよ。変わるのさ」

 セアラの領域がぐんぐんと狭まっていき、吸い込まれるように放浪王のもとへ集まっていく。それが濃く、甘く、鮮烈に圧縮され、小さな玉のようになり、ひとつの点になって、そして、消えた。

 

「さあ、奇跡は“相転移”する――」

 

 そう宣う放浪王へ、防御に回していた炎を攻撃に変えて、人形王は吶喊させた。あの海水のせいで足止めを食らっていたが、なにをするにせよ、あと一押しだ。

 あと一押しで敵の(アーセリング)を詰められる。

 セアラの領域は消えていた。彼女はまったくの無防備だった。

 まるで、あれほど強大だった奇跡がどこかへ行って無くなってしまったかのように。

 

「――“翠風園(ガン・セアラ)”」

 

 そして彼らの姿もまた、この空から消え失せていた。

 

 To be continued…

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