第五話 トバルカインの女
■西暦1万2043年 曳航連邦・
傷だらけの黒い艦が、青い海に浮かんでいた。
古い艦だ。都市船と同じくらい古い。大昔に放棄されたそれには、切り裂かれたものや焼け焦げたもの、力任せにひしゃげたものなど、様々な戦争の傷跡が残っていた。ひときわ大きな傷口から、内部構造が野晒しになっている。
その傾いた甲板の水際に、一体の<天使>が擱座していた。
淡い土色の身体に幾何学文様が刻まれている。舷に這い上がらんとするように指を伸ばしたまま、足の先を海水に洗われて、その<天使>は沈黙していた。《円環》は消えている。
さざ波がまた打ち寄せた。
既に日は高かった。白っぽい陽光が何もかもを薄めていた。あたりも静かで、穏やかで――だが、人影がないわけではない。
ひたひたと、裸足が金属を踏んだ。
ひとりの女がその<
もっとも、波は凪いでいた。女の足取りもまた力みのないものだったが、その動きはどこか強靭な印象を与えていた。きっと、何をされても揺らぎもせず、倒されもしないだろうというような。
女は両手を持ち上げ、掌を合わせ、何か口にしようとした。そして、<天使>の項垂れた顔の影に、ひとりの人間が倒れているのを見た。
女は手を下げ、肩を竦めて、代わりにその少年を器用に抱え上げた。少年を肩に担ぐと、女は艦の中へとまた戻っていった。
◆◆◆
■曳航連邦・南端都市イザール
「だからね、統括官どの」
イザール基地の司令
「事件のことは聞き及んでおる。東の蛮族が侵入してきたとか。だが<
「ここから東部国境まで何ローグあるか知らないわけはありますまい」
部屋は明るかった。明かり採りの窓は大きく、貴重な硝子を惜しげもなく全面張りにしていた。
都市には必ず塔がある。船でいう艦橋だからだ。その階層構造になった都市中枢塔の中層までは、都市を治める連邦の軍が基地としている。
「そうでしょう?高速艇を使っても最低二週間はかかる。軍の機密奪取がためにそれほどの距離、敵地を進んできたのですよ。それで、この都市には動かせる<
「書面で提供した筈だが」司令は鼻息を鳴らした。「軍務規定の“一都市基地あたり三人”の条件はクリアされていると」
「登録簿は見ましたよ。それで、その三人は騒動の最中は一体どこに?」
大佐は顔を顰めた。
「私は政治ゲームがしたいわけではないのですよ。あなたが書面上で軍務規定をパスしていようがいまいがどうでもいい。東部戦線に<人間イカリ>をお送りになろうが大変結構。ですが、ことの大きさを解って頂きたいのです。東の諸国と内通するものがおり、それが旧市街区域の一つを壊滅させ、最重要機密は奪われ、“不死”が基地内に侵入した」
「それは君等の管轄ではなかったのかね?」
司令はここぞとばかりに嫌な笑みを浮かべて言った。
「本国から来たエリートどののことだ、きっとなにか考えがあるのだろうな、名誉挽回のための考えが?」
「無論、やつは速やかに拿捕しますよ」
大佐は言った。
「だから、あなたにも助力を頼みたい。我々に必要なのは拙速さです。例の、神話級の契約者の少年が力をつけぬうちに叩く」
「さて、こんな辺境の部隊になにが出来るというのかな?」
俗物め!大佐は心のなかで毒づいた。イザールは辺境だが、南部国境の“不毛の海”を望む要衝の都市でもある。ここより南には都市船も航洋艦もなく、
(手柄欲しさに<人間イカリ>を残らず東送りにするなど……我々がいなければ旧市街どころか正規市民にまで犠牲が出ていたかもしれんのに)
「……無論、貴方がたの助力は必要ですとも」
大佐は努めて冷静に言った。
「この都市には、“歴史”上の超音速航行潜水艇が保管されていましたね?それを借り受けたい。首都に戻るにせよ、奴を追うにせよ、<
司令は不快そうな顔を隠そうともしなかった。
「あれは文化財でもあるのだぞ?
「それがなにか」
大佐は鋭く言い、司令は思わずたじろいだ。
「言い方を変えましょうか。皇帝陛下の名の下に、曳航連邦軍特務課の権限を以て、必要物資を徴発します。是非、速やかなご協力を」
◆◆◆
■???
火のはぜる音がする。
香ばしいものが鼻腔をくすぐった。目を開けると、橙色の炎が据え付けられた電気トーチの上で揺れていた。
頭上には真っ黒な夜空が開け、だだっ広く平坦な珪素材の床が広がっている。かつてはまだ上にも積層構造の天井があったのだろうが、それらはもう折れた柱の基礎に名残を遺すだけだった。
視界は開けていた。
「……お、起きたか」
炎を挟んで座っていた人間が、そう言ってアゲハに目をやった。共通語だ。それも、訛りのない。
「寝たふりをしてもだめだよ。息遣いが変わったから」
アゲハは諦めて体を起こした。見渡す限り、平らな船の最上層が広がっていた。
「ここは?あんた、誰だ」
「航洋艦トバルカイン。何百年も前の戦争で廃棄された、古代の遺跡だよ」
炎の向こうで、その女は言った。
短く刈り揃えられた黒髪が、炎を映して光っていた。瞳も、背後の夜のように黒く暗い。小柄だが、動きやすく纏められた服装から覗く身体は獣のように引き締まっていた。
「あたしが買ったんだ。連邦政府からね。都市船での暮らしは煩くて性に合わないから。あたしは、
「……アゲハ」
炎が揺れた。黒い煙がポッと上がり、
「長いこと使ってなかったからなぁ」
そうぼやいて、丸っこいドライブを挿し直しながら、
「それで、アゲハくんはさぁ、<人間イカリ>なの?」
アゲハははっと左の掌を握った。
「隠すなよ。別に咎めたわけじゃないだろ。あんたは海辺に<
「おれは、イザールから来たんだ」
アゲハはまだぼんやりして言った。記憶は曖昧だった。“同化”は二回目だが、いつもこうだ。気が昂って、最後には何もわからなくなる。
「南端都市か。まぁ、距離的には妥当だね。誰かと揉めたのかい?それとも<天使>と契約したのが嬉しすぎてついハシャいじゃった?」
「そんなんじゃない!」
アゲハは思わず言った。眼の前の女が誰か、知りもしないのに。
「連邦の、軍の奴等、おれが契約したのは機密だからとかなんとか言って、おれを死刑にしようとしたんだ!」
「へぇ?」
「詳しく聞かせなよ、その話」
◆
アゲハは洗いざらい話した。
「あぁ、なるほど!そういうわけか!あんた、軍の神話級を盗んだのか、あいつらの鼻先から!」
「そりゃあ追われるわけだ、あんたも災難だね。これが軍と無関係な<天使>なら少なくとも隠し通せたし、もっと低位のものならそんな騒ぎにもならなかったろうに」
ひとしきりゲラゲラやったあとで、
「軍は面子を潰されたわけだ。それに、神話級は強すぎる。全力であんたを再逮捕しに来るだろうね。可哀想に」
アゲハは魚を受け取り、齧った。焼け過ぎて味もない。炭を食べているみたいな気分になった。
「面白い話を聞かせてもらったよ。久しぶりだ、連邦相手にそんな無茶をやったやつは」
その言葉に、アゲハは怪訝そうな顔を見せた。
「あんたは、連邦の人じゃないのか?」
「あんたじゃない、
女は眉を上げた。
「連邦のやつらは外つ国の言葉を嫌う。苦労したろ」
「おれは、アシタの生まれだ」
アゲハは呟いた。もしかしたらまた、彼女がアシタ語を使えたりするんじゃないかと思って。
だから、その時の
「
「あぁ、いや……悪いけど、アシタ語は話せないよ。あたしが使えるのは
「あれは、本当に酷い戦争だった。今の曳航連邦がやってるどんな戦も、あれに比べればマシだ」
「ついてきな」
裸足で歩き出す
夜空には、白銀の星々が瞬いていた。それと同じ色で輝く月は、既に高く昇っている。月の軌道には、細く輝く硬質な光の筋が伸びていた。
「今日はレイラインが明るいね」
「あれがよく見えるのは凶兆なんだそうだよ」
「おれは良い兆しだって教わったけど」
二人は艦の中へ入ろうとしていた。層になった構造の裂け目から、傾いた通路が奥へ奥へと続いている。女はそこでふと足を止めた。
「ちぇっ、崩れてきてるな」
石の壁が崩壊しかけていた。大きく割れ目が入った壁の縁を、注ぐ月光が照らしている。その罅が床の方にまで伸びているのを確かめると、
「《
その手から、黒い金属が湧き出した。
それは水のように広がると、割れ目を埋め、壁に取り付いて、そのまま硬く動かなくなった。その出来栄えに満足しながら、
「あんたは、神話級と契約した。きっとこの先、良くも悪くもいろんなものがあんたに関わろうとする。いろいろな力がね。ひょっとすると、神話級の奇跡はあんたにとって呪いにしかならないかもしれない」
「
アゲハの言葉に、
「ああ。あたしは、鉄の<天使>と契約した。伝説級だけれどね。でも、あたしは今のあんたより強いよ」
その言葉には力を驕る傲慢さも、威厳を保つための脅しもなかった。
「あんたは奇跡の使い方について何も知らなさすぎる。このままじゃ、早晩神話級を狙う奴等にいいようにされ続けるか、或いは……己に与えられた奇跡を持て余して不幸になるだろう」
「あたしが教えてやる。奇跡の使い方を。<
「……なんで?」
アゲハは立ち止まった。
「なんで急に、そんなにしてくれるんだ?おれは
「
「あんた幾つ?十五とか?親切を素直に受け取るのも美徳の一つだよ。納得できないんなら、まぁ……面白い話の礼だと思ってくれればいいよ」
それに、アシタの民だっていうなら……
艦の裂けた傷口から見えるレイラインに目をやって、女は言った。
「……もう遅い。続きは明日だ。あんたもまだ、疲れてるみたいだからさ。半日気絶してたのに、まだ寝足りないって顔してるぜ」
◆◆◆
絞り切った小さな灯火のそばで、軽い毛布に包まって寝息を立て始めたアゲハの顔を見つめていた
「アシタ人の生き残り、か」
7年前の戦争期の思い出は、今も彼女の心にこびりついている。一度見聞きしたことは真には忘れないものだ。時折、思い出せないだけで。
「にしても、そんな子が神話級に見初められて、あたしの船へ転がり込んでくるなんて……」
奇縁もあったものだ。
「これもあんたの差し金かい、
その瞬間、アゲハが目を開けた。
それがアゲハの意識でないことは傍目にも明らかだった。身体は寝息を立てたまま力無く緩んでいたし、視線もまた何も捉えてはいない。
「なァ、
『久しいね、
アゲハの口が動き、アゲハのものではない声で言った。
『どうやら無事に着いたらしいね』
「あんた、ずっと見てたのかい?」
その異様さにも動じず、
「それにしても、雑な道案内をしたもんだね。イザールから北東の都市だなんて、プロキオン、ギデオン、ギルガル……ひょっとしたら“観測都市”カノープスあたりまで行ってしまったかもしれないのに」
『それならそれが運命だよ。でも実際にはそうはならなかった。彼を助けてくれるだろう?』
「
「“不死”の力は、あと何回残ってるんだい?」
『ゼロだよ。彼には一度復活できるだけの力しか分けていない。それが彼自身のためでもあるだろう?これくらいならまだ、代償を払わなくても済む』
『どちらかが私益を貪るだけの契約は、たとえ僕の側が赦しても絶対にありえない。こうして身体を乗っ取ることくらいで済ませられるなら、そのほうがいいんだ。それも今回で終わり。これ以上彼に余計な干渉をする気はない』
「干渉?」
「あんた、前に会ったときも似たようなこと言ってたよな。どういう意味?」
『言葉通りだよ。彼の運命は彼自身のものだ』
「でも、手は出したんだろう」
「少なくとも死なれちゃ困るってわけだ。あんたはこの子になにをさせようとしているんだ?」
『……
突然、質問を無視して
『僕はね、嫌いなんだよ。月も、星も、なにより空を走るレイラインが』
「あたしは好きだよ。綺麗じゃんか」
『そう。なら、それでいいさ……』
『彼を補ってやってくれ……アゲハには何もかもが足りない……最低限の知識と……奇跡の扱い方を……』
「言われなくてもやってやるよ」
「結局、あんたもこの子を使ってなにか企んでるのかい?」
それにも構わず、
「だけどね、あんたは間違ってるよ。この子の奇跡は、この子が使うものだ。生き方もね」
つまみを回す。電圧が下がりきって、炎が揺らめき、最後に小さく煙を吐いて、消えた。
To be continued…