■曳航連邦・洋上
アゲハは夜明けの風が好きだった。
星が集まったようなレイラインの光が薄れ、その名残に沿って月が水平線へ降っていく。振り向けば、翡翠と緋を混ぜたような黎明の太陽がその先触れを伸ばしていた。
「ここは高台だ。心配しなくても海水は来ない。もう百年くらいしたら、ここもいずれ海に沈むだろうけど」
アゲハは女をじっと見つめた。その足元には、古びた浄水管と電源管のパイプがのたくっていた。
「この艦にも【
「腹が空いてるだろ。食べな。食べないと頭が働かないから」
包の中は蒸し焼きになった魚だった。塩と香藻の匂いが香しい。
「塩だけは買わないといけないんだ。行商船が来たときにね」
そう言えば、彼女はいったいどうやって生計を立てているんだろう。アゲハは訝しんだ。塩はそれなりに貴重品だ。香り付けは海からよく揚がる
「あ、あいつまた野菜入れてる。嫌いだって言ったのに」
油で光る
「あぁ、遠慮するなよ。香辛料とかはあいつの趣味なんだ、料理が好きだから」
「あいつ?」
「うちの旦那」
アゲハは思わずぽかんと口を開けた。
「この船に、他に人がいたのか?」
「あいつは人見知りなんだよ」
「……美味しい」
「前は……
「うわ、あれ食べるやつなんか本当にいたのか」
「それで、昨日言ってたのは?」
アゲハは期待を隠しきれない眼で、
「奇跡の使い方を教えてくれるって」
いかにも嬉しそうだ。伸びすぎた髪の隙間からでも、眼が輝いているのが解る。口元は緩んでいたし、身体はウズウズと動きたがっているように見えた。
「あぁ、いいよ」
「なら、まずは奇跡を使ってみな」
アゲハは頷いて、目を閉じた。
朧になった記憶にも、あの感覚は焼き付いていた。奇跡を使う感覚だ、腹の底から熱を汲み上げるような、まるでどこまででも行けるような底なしの感覚。
ハルヴァヤーとの力の紐を辿って、奇跡を呼び起こす。
だが、奇跡は発現しなかった。風は穏やかにそよいでいて、日は白く降り注いでいる。
あの時とは違う。ハルヴァヤーの存在は感じられるのに、奇跡だけが使えなかった。
「出来ないんだけど……」
そう首を傾げるアゲハに、
「なら、言い方を変えよう。奇跡でこれを壊してみな」
アゲハはそれに手を伸ばした。さっきと同じように、体の奥から熱を呼び出だして。
そして指先が触れた途端、魚の骨はチリになって消えた。
アゲハははっと息を吐き出した。胴から指まで、稲妻のような熱が走って消えていったような気がした。
「奇跡だ……!」
「そう。これが奇跡だ」
その掌の狭間から、黒鉄が溢れた。蠢く金属結晶はやがて形を変え、一振りの棒になった。
「最初、あんたが奇跡を使えなかったのは、漠然と力を使おうとしたから。<
「そうだ、あのときは……あいつを倒したくて……」
監獄のときだって、逃げ出したいっていう強い目的があった。
「まずひとつ。ただ奇跡を使おうとするな。それは手段に過ぎない。身を守りたいのか、誰かを攻撃したいのか、目的の良し悪しは問わず結果をイメージすることだね」
その上で、と
「力の使い方を考えるのも大事だよ」
「使い方、って?」
「さて、ね。例えば……道が崩れた瓦礫で塞がれていたとしたら、どうする?」
「……何、その喩え?」
「いいから。どうやって先へ進む?」
「おれの奇跡で……壊す」
「不正解。別の道を行けばいい。奇跡なんかいらないよ」
なんだ、その話?アゲハは文句を言おうとしたが、
「必要なときに、必要なことだけをしろ。これは極意であり、基本だ。無駄な力を使うことはそれだけあんたを苦しめることになる。人間ひとりにできることなんてたかが知れているんだ、奇跡は大事に使わなきゃあさ」
「例えば、別にさ、手じゃなくてもいいんだよ」
次の瞬間、
「奇跡は全身から出せる。あたしの奇跡は鉄を産むこと。形は自在に変えられる。でも硬度には難があってさ」
「だけどさ、なにも全身で奇跡を使う
そういった瞬間、足の鉄が剥がれ落ちて塵になった。風に流れていくそれを猛々しい鉄の手で掴みながら、
「例えば、製鉄の奇跡を手だけに限定して発現させる。そうすることで、奇跡の出力は飛躍的に増すんだ」
言うなり、
鉄の拳には、傷一つ付いていなかった。
アゲハは呆然とそれを見つめていた。
「力の、奇跡の
◆
「“圧縮”だ」
「奇跡そのものには実体がなく、ただその力の結果を受ける
水のようなものだ、と
「水門を狭くすれば水の流れる勢いは増すだろ?」
「圧縮……」
アゲハは呟いた。
「言っとくけど、これは秘術でもなんでもないからね?<人間イカリ>ならみんな基本的にやってることさ。だから、あんたの奇跡が全然だめな理由も分かったろ」
ハルヴァヤーは強い。それでも、アゲハは<人間イカリ>として未熟者にすぎない。
「素の奇跡をただ振り回すだけじゃ、いくら神話級といっても大した力は使えない。必要なときに必要な部分にのみ奇跡を集中させ、時にはほかを捨てる……その取捨選択が奇跡を強め、ヒトを強めるんだ」
アゲハは足元の鉄の欠片を拾い上げ、それに奇跡を込めた。ただ力を呼び出すのではなく、それを水のようにイメージする。胸の奥から湧いてきたその流れが、手の一点にだけ溢れ出すような。
掌大の鉄片はあっという間に灰になった。
だが、
「違う。それは力を抜いてるだけだろ。“圧縮”なんだよ。力を緩めるんじゃなく」
アゲハは掌の上で灰になった鉄を見つめた。
「力の総量を減らしてはダメなんだ。大量の力を引き出しながら、それを同時に抑え込む。矛盾してるようだけど、そこが重要なんだ。奇跡は意思の力。強い意思で制御されない限り、どんな奇跡も無意味だ」
「これって、本当におれにも出来るの?」
「一日でとは行かないよ」
これは仕方がないことだった。圧縮は基礎にして秘奥だ。
なにより、と
「<人間イカリ>には、長いこと修行してもろくに圧縮が使えないやつもいる。あんたがあたしのレベルに達するのにはもっと、何十年もかかるだろう」
アゲハは考え込んだ。
その内容を見透かしたように、
「あんた、もう二度と同化はするんじゃないよ」
アゲハははっと
「そうだ、おれの……おれのハルヴァヤーは?」
「昨日のうちに海に沈めた」
あれが水に浮くはずもない。深度数百ローグの深海に没したのなら、もはや現在の人類の技術では回収不能だ。
「な、なんでそんなことを!」
「落ち着きなって。契約した<
「軍人なら軍艦に載せておくんだろうけどさ。あんたじゃ、そういうのは無理だろ。水棲生物は絶対に<
「絶対に襲わない……?」
アゲハだって噂には知っている。一突きで軍艦を沈め得るヨロイイッカクや、艦砲射撃すら跳ね返すシマクジラのことを。
だが、
「同化限界に達するまで<
「別に、なんともなかったけど」
「そう?記憶は鮮明かい?意識は?はっきりと同化していたときのことを思い出せる?」
「さっきの喩えだけど、奇跡は水だ。同化すれば確かに出力は跳ね上がるよ、口を広げるようなものだから。でもそんな大きな力、未熟な人間に使いこなせるものじゃない」
アゲハの脳裏には、金属管を流れる水流が浮かんでいた。開いた水門の、大きな出口から勢いよく吹き出し、やがて緩んでいく。
「奇跡は決して無限じゃない。出口が広がれば、枯渇するのもずっと早くなる。圧縮だって人間態よりずっと至難の業になる。だから奇跡は人間のまま扱うんだ」
「手慣れた戦士なら、たとえあんたが同化したとしても、それを躱し続けることはそう難しくない。最後には、あんたは奇跡の尽きた状態の無防備な本体を敵前に晒すことになる。本当なら、よほどの実力差があって、倒し切れると判断した場合でしか同化はしちゃあいけないんだよ」
「……あぁ」
「力に呑まれるな。人間は力を使うものであって力に使われるものじゃない。もし、激情に任せて同化し続ければ、今度こそ……
「まあ、今は慣れることだね」
「正直言って、今のあんたには何もかも足りないから!まずは圧縮の感覚を掴むことと、あとは全力を出せるようになるんだね。あんたはまだ、自分の本気の引き出し方すらよく解ってないよ」
◆◆◆
■同・建州 洋上
滑らかな
連絡橋が繋がり、タラップを踏む軽やかな音が響いた。
「これはこれは統括官どの」
その艦を束ねる士官は、恭しく頭を下げた。
波が落ち着くのを待ってから、彼は潜水艇に降り立った。
純白と紺碧の装甲板は、金属とも樹脂ともつかぬ滑らかな素材で、チラチラと光が走っている。ふつうの艦とは似ても似つかない、“歴史”の船だ。これを造るための技術はもう残っていない。あたりには、微かにだが薬品のような鼻を突く香りが漂っていた。
「知らせを受けたときはまさかと思いましたよ。これがイザールの誇る遺物ですか。いや、美しい船だ」
「
「緊急の出動、ご苦労だった」
「いえ。ちょうど付近の哨戒を行っておりましたゆえ。郵便船と出くわしたのも幸運でしたよ」
真面目そうな男だ。髪には油が付けてあって、服もぱりっと糊が効いている。小さな色付き丸眼鏡が鼻の上にちょこんと乗っていた。尤も、その物腰の柔らかさに対して図体の方はかなり威圧的だったのだが。
「それに、近頃は腕が鈍っていましてねえ」
その背後の甲板には、見上げるほど大きな海獣が転がされていた。
鋭い鱗を連ね、分厚い脂肪と筋肉に覆われたオオクチナワは、叩き潰されたようにその腹をひしゃげさせて死んでいた。小型船舶と同等の大きさを誇る水棲生物がだ。
「部隊の食い扶持の足しにはなりましょうかね」
「中型を一人で仕留めるとはな。どこが鈍っているんだ?」
「いえ、苦労はしたのですよ。我が<
そう言う
「して、これから首都へ?」
「あぁ」長旅を思って、大佐はため息をついた。この高速艇を使ってもそれなりにかかる。尤も、行きは数週間を掛けて補給を繰り返しながらイザールまで来たのだ。それを思えば数日など、大したものではないが。
「だから君に頼みたい。周辺海域の初動捜査をしないわけにはいかないのでね」
そこで、大佐は振り返って言った。「君のほうが残ってくれてもいいんだが」
「お断りですね」
「僕はあなたの部下じゃない。あなたの失態を報告する立場です」
「そうか。この先もその立場でいられればいいがね」
大佐は皮肉交じりに言った。
「おおかたの事情は判りました、食料と水の備蓄はまだ充分ですから。都市船ギルガルへ帰還する前に、その簒奪者を捜索するとしましょう。ええ、きっとご満足頂けるかと」
「助かるよ」
大佐は軽く肩を叩き、
「では……是非またお目もじ叶いますよう」
潜水艇が海水を巻き上げないようゆっくりと離れ、沈んでいくのを眺めながら、曳航連邦軍中佐
「さて、現海域を離脱。イザール周辺海域にて船舶を捜索するとしましょう……そう言えば」
男は舌なめずりをした。
「あの辺りには、“彼女”が住んでいましたね?」
To be continued…