■曳航連邦・廃船トバルカイン
才はないな。
出力は不安定だし、領域を狭める感覚をうまく掴めていない。それは掴んだと思ってもするりと消えてしまう曖昧なものでしかなかった。成功したときでさえ、なぜ出来たのか分からないのだった。
「奇跡には実体がない」
傍らで、
「手で触れたり感じたり出来ないものを使うだなんて、目を瞑って剣術を教わるようなものだ。なにより、つい最近まで存在しなかった力を使うなんてのも土台無理な話だね。ある日突然人間に翼が生えたって、すぐ飛べるようになるわけじゃないよ」
その曖昧さを見返すように、アゲハは尋ね返した。
「
「あたし?」
「あたしは……どうだったかなぁ、あんまり苦労した覚えがないけれど」
過去に思いを馳せ始めた
こんなのじゃあだめだ。<
神話級を手に入れたことの意味は、もう判っていた。これからは逃亡者として生きなければならない。あの黒い敵もそうだったように、たとえ異国に逃れても神話級を求める人々はアゲハを襲うだろう。
(誰にも、渡すつもりはない)
紋章を握り、アゲハはどうしようもない思いに心を焦がした。掌の中のそれを奪われることを想像しただけで、ひどく身体が竦む。
これは自分のものだ。誰にも取られたくない。だから、力を守るための力を手に入れなくてはならない。
「あんたのは
ふと、それを横で眺めていた
「力天使系統?」
「<
「
「5つの位階、9つの系統。そのひとつがあたしの【鉄鋼奇跡】であり、あんたの【葬送奇跡】だ」
「じゃあ、他にも系統はあるわけ?」
「あるよ。まぁ、そのあたりは追々教えてあげるよ」
「圧縮もそうだけどね。知らないのと出来ないのは全然違うんだよ。知っているだけで役に立つことはある」
確かにそうだな、とアゲハは思った。アゲハの<
「他には?」
「<
「
そして、だからこそのこともある。
「前にも言ったろ、力が増すほど制御しづらい。逸話級より、神話級のほうが圧縮は難しいんだ。神話級のあんたが手こずっているのもそのせいかもね」
「それを聞いて考えてたんだけど」
アゲハは言った。
「圧縮は基本なんだろ?でも上手く出来ないやつもいるって、そういう人間はどうしてるのさ」
「やりようはあるんだよ」
「圧縮はなにも領域の制約だけを指すわけじゃない。論理的な圧縮だってできる」
「鉄って何だろうね?時には硬く……」
鉄が硬質化する。
「あるいは柔らかく……」
黒っぽい金属色が液化し、ドロリと垂れ落ちた。
「黒く、白く……重く、軽く……」
様々に色を変え、錆付き、そして再び鈍色に戻る。
「鉄の含む属性を取捨選択することも圧縮のうちだ。だから、<人間イカリ>は己の奇跡の本質を考えなくてはならない。あんたの“崩壊”もそうだね」
「さて、論理的な圧縮には他にもいくつかやり方がある。たとえば奇跡に発動条件を付けることもそのうちの一つで……補助でもある」
「《
鉄が溢れ、
「あたしが時々言ってたこれ、何だと思ってた?別に酔狂で言ってんじゃないよ、これも奇跡を使うテクニックのひとつなんだ」
「そう言えば」
アゲハはイザールでのことを思い出していた。
「あいつも、あの黒い<天使>も、なにか叫んでた」
「そう。奇跡には実体がない。でも人間は実体のないものをそのまま扱えるほど器用じゃない。だから、肉体的な感覚を介して奇跡を使うのさ」
「これは“
確かに
「あとは奇跡に名前をつけることも。結構馬鹿にならないんだよ、型を定めて力を扱いやすくするのは。名を呼ぶことも一種の“
ただ、と
「覚えたての人間にはあんまり関係ないけどね。こういうのは、奇跡を使っていく内に自然と出来上がるもんだから」
なら、アゲハが本当に強くなれるのはいつになるのだろう。アゲハはその遠大さに目が眩むと同時に、しかし心躍るものも感じていた。奇跡には、まだまだ先があるのだ。
「奇跡は手に似ている」
突然、
「手?」
アゲハは自分の手を眺めた。
「そう。不思議じゃないかい?人間の手の形なんておおかた変わりないのにさ、訓練次第でいろんなことが出来る。あたしは武術や剣術なら得意だけど、料理はからっきしでさぁ。逆にあたしの旦那は荒事なんかできないのに、料理の腕はちょっとしたもんだし、絵もそりゃあ上手いんだよ」
「手は可能性そのものだ。武、芸、工、同じような手から無限の可能性が生まれる。あんたの手がどういう手になるか、楽しみだね」
「でも、おれの奇跡は壊すだけだよ」
アゲハはそばに落ちていた石ころを拾い、それを灰に変えようとしたがうまくいかなかった。何度か試したあと、遠くへ投げ捨てる。
「うまく使えもしないのに」
「さぁ、あんたの奇跡が本当に“崩壊”かどうかってことも、考えてみる価値のあることだと思うけどね」
「そうだ、まだ教えとかなきゃあいけないことがあった」
「なんだよ」
「“戒律”のことだよ」
「念を押しておきたい。あんたがしたのは契約だってことを」
<
「契約ってのはどちらかだけに有利なものにはならないし、なれない。公平なんだ。<天使>から奇跡を得る代わり、あんたは代償……守るべき“戒律”を与えられたはずだよ。なにか、自分に関するルールをね」
「“戒律”?」
アゲハは記憶を探った。あのとき、頭に流れ込んできた情報を。
「そういえば……確かに……あれが?」
「あたしも含め、<人間イカリ>はみんな戒律を持ってるんだ。気をつけな。それを破ると契約は破棄されるから」
逆に言えば、契約を破棄するための逃げ道が“戒律”なのだ。アゲハは心底ぞっとして紋章を握った。色がついているのに、触れた感じは何もしなかった。痣みたいなものだろうか。
「確か、おれの戒律は、ひ――」
「うわ、馬鹿!」
「口に出すんじゃあないよ、この馬鹿」
「それは弱点なんだよ、あんただけの。<人間イカリ>である限り自分の戒律は守らなきゃいけないし、破ったら契約は消える。もし明かされたら、あんたの敵は容赦なくそこを突いてくる」
アゲハは黙って頷いた。
「あたしの知り合いに、『犬を傷つけてはならない』という戒律を持った男がいた。そいつはこともあろうに酒場で酔っ払って、自分の戒律をべらべら喋ってしまったんだ」
「その人は、どうなった?」
アゲハは言った。
「死んだよ。家ぐらいある犬をけしかけられて」
戒律は絶対だ。
「話は終わり。食事にしよう。たぶんこれ以上やったってあんたの圧縮術は上達しなさそうだし」
アゲハも頷いた。確かに、そろそろ空腹だった。
そして、ふと気になって言った。
「
「言ったろ」
女は振り向かずに答えた。
「あたしはあんたを気に入ったんだよ」
「そう?」
アゲハは首を傾げた。
「でも、おれのそばにずっといたのは、おれを見張るためだろ?」
アゲハは平坦な口調で言った。
「あんたは一度もおれから目を離さなかった。それは、おれがなにか変な気を起こしてもすぐに止められるようにじゃないのか?それに、あんたの夫が姿を見せないのも、契約者じゃないからか」
「答えろよ、
「……あたしは」
そう言いかけて、
まるで、風を読む渡り鳥のように。
「まさか、こんなに早いとは……」
「問答も昼飯もあとだ、すぐに塒のほうへ向かいな。昨日あんたを案内した場所だ、解るだろ」
「待てよ、まだ話は終わってない!」
「くどい!」
「確かに、あたしはあたしの都合であんたを助けている。でも、あんたのことを案じているのは紛れもない事実だ。信じな」
そう言って、
「来たんだよ、追手が。<人間イカリ>が!」
◆
アゲハが漂着した地点から少し船尾にずれて、大きな軍艦が停泊していた。連絡橋を伸ばし、海水を避けてひとりの士官が降りてくる。
「お初にお目にかかります、私は
「
少しも息を切らすことなく、飛び降りてきた女は言った。足元で、なにやら硬い音がした。
「定期便には早いね。軍人が何の用だい」
「それがですねえ、ここから南方に少し離れた都市船イザールにて、非正規市民が軍事機密を盗んで逃亡したとのことでして」
「この廃船も探索する必要があるかなと存じますね。どうです?この少年、ご存知で?」
「知らないね」
「あたしは自分の領地に土足の軍人を入れる趣味はないんだ。帰んな」
「それがそうも行かないのですよ、御婦人」
「犯罪者の隠匿もまた罪です。これ以上拒否なさるのであらば、実力行使も厭いませんが」
「ふん、軍の狗ごときが、盟約すら忘れたか」
「
「対等などと、それは建前です。盟約はあくまで双方の信頼に依るもの。当然、罪人の庇い立てを見過ごすことの免罪符になど、なるはずもないでしょう」
「ええ、光栄ですよ。かの“
「伝説級の身でありながら“王”の二つ名を賜ったその異例さは確かです。だがそれ故に、貴女は私に勝てない」
頬の紋章を見せつけるように、
「我が契約せしは金剛石の<
「このあたしに向かってそんな口を利いたやつは久しぶりだね」
「《
次の瞬間、
振り抜かれた
「隊長!仮にも相手は“
「お黙りなさい。盟約を盾に連邦を背信する不届き者に遠慮などいりません」
艦からの謹言を、
「さぁ、鋼鉄の。どうしました?こんなものですか?」
「いきなり殴りかかるとか、ホントに見境がないな、お前」
「もう一度言おう。あたしはガキなんか知らん。さっさと帰れ」
「来たれ、【煌々奇跡 ヤハローム】」
そして、みどりのいかずちが墜ちた。
空に開いた《円環》から現れたのは、緑がかった宝石のような<天使>だった。透き通った身体の内には白色の骨組みがあり、その輪郭はまるで筋骨隆々の
『隠し立てするか、女ァ!』
『偽証は悪よりも罪深い……我が奇跡と戒律に賭けて、貴様を斃す』
「さっきから、随分と舐めた口を利くじゃないか、筋肉達磨」
「《
そう言って
「……すごい!」
アゲハは遠くからそれを垣間見、呟いた。
『《
だが、みどりの結晶が障壁になり、その波を押し留めた。背後の軍艦から、おお、というどよめきが上がった。
『質量は大したものですが』
膨れ上がった上体で威圧するように、ヤハロームが空へと浮き上がる。
鉄の波が荒れ狂う。切っ先を尖らせ、伸び上がり、幾筋もの刃になっては結晶へと突撃した。そのたびに、こぉん、と美しい音が鳴った。
『伝説級ごときが』
だが、
アゲハは、それを遠目に呆然と眺めていた。
その奇跡の少しでも人の身には致命的だというのに、やはり<
「きみ!」
そう呆気にとられていたアゲハの肩を、誰かが叩いた。
「こっちだ、早く」
若い男だった。真面目そうな顔立ちに掛かった大きな眼鏡は、大きすぎて少し傾いている。わずかに食事のいい匂いがした。画材の油臭い香りも。
「僕はサィール。
この男、異人だ。アゲハは黙ってその男に頷いた。サィールは手招きし、石造りの割れ目から艦の下層へと降りていった。
「きみを助けるよう頼まれていたんだ。
アゲハはその差し出された鯨皮紙を黙って懐にしまった。サィールは悲しげに続けた。
「見ての通り、僕は非契約者だ。あんな化け物じみた戦場には足を突っ込めない。なんの力もないからね。でも、彼女は君をえらく気に入っているようだからさ」
「……それは、なんで?やっぱり、初対面で気に入ったとかだけじゃないんだろ?」
「いや、それも大いにある」
サィールは微笑んだが、アゲハの凍てついたような顔を見て気まずそうに頭をかいた。
「
サィールは肩をすくめた。
「もう一つの理由は……あれを読めばいい。僕の口から言うわけにはいかない。彼女の心の内だから」
そして、サィールは立ち止まった。道を歩くというよりほぼ落ちるようだった道程は、そこで終わっていた。
浸水している。艦の大破した外殻装甲から、海水が入り込んでいるのだ。向こうには、日の差す大きな割れ目も見えた。
「ここからなら、あの軍艦には見つからない」
そこには、小型の船艇が浮いていた。
紅白の装甲に染められた小さな船だ。電源のケーブルを外しながら、サィールはぶよぶよした塊をアゲハに放った。
「水に触れないように気をつけろ。僕の昔使っていた防護服だ。大きさはどうにかなるだろう」
そのとき、廃船トバルカインが大きく震えた。
「
サィールは天井を仰いだ。砕けた石の埃が落ちてくる。
「船の操り方は分かるね?操縦把を握って、電力が切れない内に着けるように。水と糧食は少しだけ積んでおいた。そんなに良い船ではないから、乗り心地は保証しないよ」
サィールはアゲハにそう言って、東を指した。
「ここから東へ、浮信号を辿って行くと大きな都市船に行き着く。ユディトだ。その端には数多の人々が交差する
「あ、ありがとう……」
「礼ならいい、それよりも、君自身の心配をするんだ」
サィールは言った。
「
アゲハは船に乗り込み、歯を食いしばった。そんなのは御免だ。曳航連邦に飼われることも、支配されることも、抹殺されることも。
「……
キャノピーが閉まる寸前、アゲハはサィールに言った。
「おれは、王になるって」
「王?」
「……誰にも」アゲハは言った。「誰にも支配されない人間になるってさ」
◆
『何故そうまでして罪人を庇うのです?貴女の戒律ですか』
「下種な勘繰りだな」
『それも無駄なことです。貴女の奇跡はただ鉄を生み出す、それだけ。だが、私の奇跡はもっと実戦的だ』
鉄の槍を難なく砕き、ヤハロームは両手を突き出した。奇跡が膨らみ、さらなる変化を成していく。陽射しが光り、結晶の内側で乱反射を繰り返す。
硬さ、それは金剛石の持つ側面の一つに過ぎない。ヤハロームにはもっと別の属性もある。
例えば輝きだとか。
『《
あたりに飛び散った光点は収束し、鉄の一点で煙を上げた。赤熱する光が揺れ動き、鉄に紅い傷を刻み込む。
鉄は音を立てて落ちた。光が焼き切ったのだ。縋る盾を失った
鉄すら破る奇跡なら、人の肉など容易く討てる。女一人、焼き殺すもよし、叩き潰すもよし。
『これが最後です、大人しく、情報を渡しなさい』
「……大人しく、か」
女はだらりと身体の力を抜いて立っていた。
その瞳が一瞬、なにかを透かし見るように動く。
「確かに、そろそろ切り上げ時かもね」
そう言って、彼女はちらりと海に目をやった。
「時間稼ぎはもう十分だろ。ここからは、実演してあげないとね。あたしが言ったことを」
『何を言っている?』
「お前の態度が気に入らねーッて言ってるんだよ、筋肉達磨」
そして、宣言した。
「来い……【鉄鋼奇跡 バルゼル】」
背後の鉄壁が呼応して丸く焼き切れる。破片が飛び散った。黒ずんだ<
その<天使>はまるで鉄のようだった。重たげな身体は鈍色に光り、眼窩には真紅の燐光が灯っている。鉄のカーテンを纏ったような分厚い翼と、右側だけが肥大して突き出した頭部が目に付いた。
『これが、“鉄”の!』
その<天使>バルゼルは、光の塵に変わっていく
『“同化”したか』
ヤハロームの結晶が脈動し、膨らむ。
『だが、所詮は伝説級。私の敵ではないと言ったはずですがね』
それを否定するように、バルゼルは屹立した。鋼鉄の奇跡がその手に灯っている。
『
ヤハロームのほうを睥睨し、
『研ぎ澄ませるんだ、何よりも鋭く。欲するのは一つだけ、何より大事な一つだけだ』
『何を言い出すかと思えば……私の圧縮は充分実用レベルですよ』
呆れたように言う
『忘れるな、奇跡は手だと。人の手はあらゆる技の可能性に通じている。奇跡の使い方を決めるのは<人間イカリ>だ』
鉄がギラリと光った。
『捨てろ、余計なものは。己の欲することだけを、成せ!』
『我が圧縮術を愚弄するか、女!』
ヤハロームは鋭い結晶を纏い、金剛石の怪物のようになってバルゼルへと飛びかかった。バルゼルは剣を構え、ただ待っていた。
風が動いた。二柱の<天使>が今にも激突せんとしたとき、
『《
一瞬、何もかもが静かになった。音すらも断ち切って、黒い剣が閃いた。
『圧縮された伝説級は、神話級にさえ勝る』
そして、上下に両断されたヤハロームが落ちた。
胴を泣き別れにしながら、バルゼルがヤハロームを海中へ叩き落としたのだ。惚れ惚れするほど美しい断面を晒して、緑がかった金剛石は水に沈んでいった。有毒の水飛沫が舞い上がり、すぐに揮発して消えた。
口々に
「騒ぐな!心臓は外してやったんだ、とっととサルベージして基地へでもなんでも帰れ!」
アゲハは船の中で、廃船トバルカインを振り返った。キャノピー越しに見える鉄の船は、依然として朽ちかけたまま海を漂っている。きっと、この先もそうなのだろう。
目の端に小舟が刻む白い航跡を捉え、
「行けよ、少年……どこまでも」
To be continued…