幼い頃から人という存在がわからなかった。自分の事でさえも、どこか他人のように振る舞える。だがそれでいいと納得している自分がいた。
だが周りは別だった。特に自分の父からは出来損ないの烙印を押され、文字通り家で干された。
我が母は、自分が他者の顔どころか性別すらもわからぬと知れば、捨て置き。愛人に走った夫を追いかける。自分のことなぞいない者として見ていた。それもまた、仕方なきことだと自分は納得できていた。名家の長子に生まれたが、家督は弟が継ぐ、それも仕方ない事だと理解できていた。
『顔で分からないなら、相手を観察し、声や素振り、体格で見てみなさい』
家の中で唯一と言っていもいい、自分に声をかけてくる存在は叔父貴である
自分ができることは無いか、最初はそんな気持ちだったかも知れない。今では商売道具である遊戯、将棋や囲碁などを対局していた時だった。人生を変える言葉を授かったのは。
言われるがまま、自分は他者を全体で捉え、その他の構成要素で見るやり方で世界を見た。観察という名の対局に自分が座った時…自らの世界が本当の意味であったのだと、初めて思った。
それから他者が遊戯の駒に見えるようになった。優秀な者ほど良い駒に見え、初めて見た叔父貴の駒は竜王駒。やはり叔父貴は優秀なのだと心から嬉しんだ。
他者を識別できるようになってある日…叔父貴は西へと留学すると聞いた時、どれだけ悲しかったか。それだけ家での理解者が少なかった。
一人になっても趣味となり、生きがいとなった遊戯の腕は負け知らず。長子としての立場故に稀に挨拶に来る連中と、何だかんだで対局させるなどして過ごす日々。
自堕落とまでは言わないが、前の自分よりかはマシな生活を送っていた。そんな日々に終止符を打つ出来事がある意味、必然と訪れる。
『お前のようなできそこないの欠陥品でも、漢の字を背負う者だ』
家柄とは時に有用で、時に枷となる。自分の父にとって自分は邪魔だったのだろう、武の才が無い者にいきなり長となり出陣しろなど、死にに行けと言われた。
(こちらは歩、馬、銀…相手側は崖下に飛車がいる、ならここに置くか)
しかし、自分にとっての戦は対局と変わらなかった。他者が駒に見え、地形は盤と化す。まるで、実体となった対局をしているかのように心躍る場所だったのだ。
家柄のおかげで最初から長として、差し手になれたのは幸いだったと言うべきか、どちらにしても楽しい日々を過ごさせられて最高だったと答えられる。まあ、やはり駒に囲まれた空間はどんなに体験しても苦手だ、対局だけしたいものだ。
他者を駒と見えるようになり、世界は文字通り変わった。同時に自らがどうしようもない孤独だと改めて理解した時でもある。そんな日々が永遠に続くのだと思っていたのだ…彼女と出会う前までは…
「詰みよ」
盤遊戯で負けたことは無かった、少なからず武官として成功を収める日々において一度も。
立場を得た自分が、部下を含め飲み会に参加せざる得ない事もあり、いつも通りの自分を表面に出しながら遊戯に耽る。そうすれば、周りは勝手に離れていき、自分は変人として置かれる。それで勝手に自分の周りに駒は減る。
それを、妓女がいる場でやろうなど空気を汚すだけだろう。男女問わず、見物はすれど心は離れゆく。それが普通だと思っていた。
「お相手できないでしょうか」
その女は妓楼であり、妓女でありながら男になびかない性格だった。最初は単なる対局相手、知はあっても腕はどのようなものかと高を括っていた。
(所詮は井の中の蛙)
一手、また一手…互いに打つ音を響かせる静かな時。爪を染めているうっすら染まった赤い色、それも一瞬の出来事として思っていた。
くっははは!
腹をかかえて笑ったのは何時だったか、いや人生において初だったかもしれない。周りの者達が何か言っているが、自分には雑音としか聞こえなかった。
(人とはこういう顔をしているのか)
自分が侮っていたのが気に入らないのだろう。後手となり、油断と傲慢をしていた自分の差し手は彼女にとって不愉快に映ったに違いない。
初めて人を認識できたのは、自分にとって奇跡であり、妓女であり好敵手の出会いは人生を本当の意味で歩む切っ掛けだった。
ひたすら碁と将棋を繰り返す、そんな日々が何年も続いた。武官の地位が上がるに連れ、彼女を買う手筈を整えていく。だが彼女が優秀過ぎた故に遠のいていくジレンマに襲われた。
妓女は知・技があれば地位を、価値を高めていく。彼女は他者に冷たく接し、何年も対局をしている自分にも変わらない。こんな女子を好む輩は出ないだろうと、高を括っていたが、好事家とはどこでもいるようだ。買い手の者同士が仲が悪く無駄に競い合う形で値がつり上がっていく。
「次はいつ来られますか?」
「また、三月後に」
「わかりました」
出世と共に給料も増えた。同時に彼女の価値も増えていく。決して埋まることの無い差を三月分の給料で何とか取り戻す日々。気休めでしかない事と理解している…どうしたらよいか。
ふと、悪いことが頭によぎった。やってはならぬ事だと頭を振る…しかし、この世界で初めて、今後の人生において出会えないであろう存在と考えた瞬間。
「…次の対局の時、賭けをしないか?」
「珍しい、あなたから提案なんて」
「受けるかは、その時決めてくれ」
それからまた三月経ち、彼女との対局が始まった。その時は、彼女から鳳仙は試合に集中したいからと、女童たちを下がらせていた。
その後、どちらが勝ちとはわからぬまま、気が付けば手が重なっていた。最初に重ねたのは自分からだったのは覚えている。
甘い言葉なんて互いにない、自分の腕の中で碁がやりたいと口にして、自分は将棋がしたいと思った。
その後に起こった出来事は自分にとっての選択だったか。
仲の良かった叔父が失脚し、家が父に傾いた。叔父が優秀だったが故、比べられていた父は叔父に嫉妬心を持っていた。叔父も叔父で要領の悪い性格故に、火に油だったのが災いした結果だ。
叔父の影響を受けていた自分も遊説を命じ、実質家に来るなと言われた。ハッキリ言ってそれは良かった、問題なのは長い間、鳳仙に会えなくなる方が問題だった。
武官である父は自分の上司でもあった。無視すれば、あとあと面倒になるだろうと予想できた。
身請け話は破談になった…その文を受けたあとの出来事である。自分は覚悟はできていた、自分だけの人生ではない、彼女の人生も背負う覚悟が。もしもだ…もし、彼女を身篭ませていればと考えた時の事を考える。
大きくなった腹を撫でる彼女、そして自分…大きくなった子供、そして笑顔で言うのだ。
『
雨がよく降る盤だった。雷の音が鳴り響き、駒は動かず、盤だけが動く時…あえて一手、動かした。
不幸な事故だ。崖は滑りやすく、足をすくわれる。盤の一部が破損すれば、その対局は無効となる。禁じ手をするのはこの時のみ…心に誓い、自分の世界に戻るのだ。
家で騒動になりはしたが、叔父を戻せばいいだけの事。自分の家との距離が離れたが、必要経費と考える…叔父の心が離れたのは、今でも悲しい事であるが仕方なかったのだ。
それから、鳳仙の下へ向かった。何だかんだ値が上がっていた時と同様三月かかったが、彼女に出会えた。少し留守の間に自室に送られた文の中に…身篭知らせがあった時、他者に聞こえるほど天に叫びを響かせ、その勢いのまま向かったのだが、待っていたのは怒りを隠そうとしない、
『お前かい!抱きやがったのわ!』
覚悟はしていたが、開幕罵倒と顔面
『たくっ…泣かしたら承知しないよ』
腫れた頬を抑えつつ、立ち上がり礼をする。そんな自分の前に、再度手を伸ばされる。
『有り金、全部で手を打つよ』
手を金に見立てた形にされ、ニヤリと笑顔を浮かべたと感じられるほどの圧を受け、あっけらかんとしながらも自分は笑顔で有り金を渡した。
それからの日々は…どうしようもないほど、淡々と過ぎて行った。彼女と共に過ごす待ち遠しかった日々、いざ始めて見れば腹の子が膨れる違いはあれど対局、盤面遊戯に心躍らせる。互いに望んだことに全力を注ぐ、そんな生活。
時折、重い体に無理させないように慣れない手で彼女を支える。そんな彼女が、自分ではできない料理などを手掛け、自分は食す。互いに互いを思う、他者から見たら熱がない家庭と思われるかもしれない。だが自分達にとっては暑すぎて溶けそうになる日々だった。
『この子の名は決まってる?』
『もちろんだ!この日の為に沢山用意した!』
産まれた我が子を見た。妻と変わらず、人の顔だった。それだけでも愛おしい、更に妻との鳳仙との子というだけで抑えきれない程の感情が表に出ていた。
木簡に大量に書かれた名前の列…流石に引いた鳳仙は、悩んでいる夫に一言いった。
『あなたの思った字を名にしましょう』
木簡を奪い取られ、あたふたする。普段から盤に見える勝ち筋が見えず、どうすればいいか考え…最終的に鳳仙を見た。
『猫…
『あら、その心は?』
『心を奪われても、依然として美しく、とても自由で…捕まえるのに苦労する。そんな女になればとな』
苦笑した顔で妻に触れ、それを同じように受け入れる夫婦の姿がそこにあった。
「ねえ、猫猫はどうしてここに来たの?」
「人さらいに売られた」
「ええ!そんな」
「あー…でも大丈夫だ。保護者がたぶん来るから」
後宮で出会った友達と話す猫猫。父と叔父は何故か仲が微妙だったが、子の自分が叔父との関係改善に出て何年経っていただろう。徐々に家族間で仲良くなると同時に叔父から薬学を学んでいたその帰り、人さらいに会い後宮の下女として売られたのだ。
「よかった~知り合いの人?」
「・・・父親」
「何で嫌そうなの?…うん?何か声が」
猫猫の目が座り、何とも言えないような顔を見て疑問に感じた。そんな時、後宮の門の方から喋り声が響いてくる。その声が猫猫に聞こえたのか、一息入れ重い腰を上げながら門の方に歩みを進めた。
その男は無精ひげに片眼鏡をつけた飄々とした中年だった。息も絶え絶えになりながらも、後宮の入口で宦官達に取り押さえられながら叫ぶのだ。
猫猫!
こういう世界もありやろ。