これは、上弦討伐を成し遂げる十ヵ月前の出来事。
第壱話:炎柱 煉獄
第壱節:炎柱 煉獄
享和2年 02月22日(西暦:1802/03/25)──────
火焔模様を織り交ぜた羽織が、風に煽られるかのように揺れていた。
その羽織は、代々煉獄家に継承され、炎柱となった者のみが着用を許されている。
よって、今こうして荒々しい足取りで森の奥深くを力走する、この者こそ当代の炎柱である。
彼の名は、隆寿郎。
彼が地面を踏みしめる度に風が吹き抜け、木々がそれに応えてささやくように揺れた。
その様子はまるで、森自体が彼の存在を賛美し、導いているかのようであった。
そして、そんな彼の目は、闇を貫いて何かを捉えようとしていた。
──────突然、凄まじい悪臭が隆寿郎の鼻腔を襲った。
その臭いは生肉と腐敗の匂いが混ざり合ったものであり、胃をひっくり返すような感覚を与えるものだった。
隆寿郎は刀を抜き、歩を緩めると慎重に臭いの元へと進んでいく。
一歩一歩進むたびに、さらに臭いは強烈になっていった。
それに呼応するように、指骨が白く浮かび上がるほど、彼の指先には力が込められていく。
そして、臭いが最高潮に達したと同時に、異形な存在が暗闇に浮かび上がる。
その瞬間、隆寿郎の表情を含む身体全体が一気に強張った。
──────異形。
その姿は"肉の塊に包まれた怪物"と呼ぶにふさわしく、人のそれとはかけ離れていた。
とは言え、手足や顔と思わしき部位は確認できる。
しかし、口元は爬虫類を連想させるような形で飛び出ていた。
目元は肉で覆われているが、眼球の部分が凹んでおり、周辺の肉が動くことで表情を読み取ることが出来る。
また、怪物の体から伸びた、胴よりも太い触手のようなものに、女が二人、男が一人囚われている。
彼らの目は虚ろだが、ヒューヒューと息をしており、おそらく叫ぶ体力すら無いことが伺える。
そんな中、怪物はこちらの存在に気づいたのか、眉の下にある虚空で隆寿郎を捉える。
「あーあーあー食事中にバッタリとか勘弁してくれよォ」
強い不快感を覚える、粘つくような声。
怪物はため息をつくと、触手を緩め、捕らえていた人間を地面にボトリと落とす。
臭いの正体は怪物の消化液であった。
おそらくこの怪物の捕食方法は触手で人を捕らえて、消化するのだろう。
そして、犠牲となった三人の惨状。
しかし彼らは、目を背けるのを許さなかった。
「お願い・・・私を・・・殺して・・・」
彼女は隆寿郎に手を伸ばし、懇願する。
隆寿郎は人々を守る鬼殺隊だ。
彼女の願いを受け入れてしまっては、柱として失格だろう。
苦しくても拒絶しなければならない。
しかし、隆寿郎の瞳には迷いが見えた。
それはおそらく、彼女の姿によるものだろう。
ドロドロに溶けた身体は誰かの助けを得ないと生活すらままならない。
顔も半分が崩れており、もし仮に嫁入り前なのであれば猶更、不憫と言える。
誰が見ても、彼女の未来が苦しく辛いものになることが分かるのだ。
隆寿郎は眉間に皺を寄せ、唇を噛む。
その表情から苦悩が見て取れる。
しかし、突然パチンと隆寿郎は自らの頬を叩くと、凛とした表情で空を見上げる。
すると鎹鴉と見合い、隆寿郎が頷くと、鎹鴉は元来た道へと羽ばたいていった。
しかし、怪物が口から勢い良く消化液を吐き出すと鎹鴉に当たり、ボトリ、と地面に落下した。
そして、怪物は心底愉快そうに口元を歪ませた。
「げへっ・・・げへげへへっっ・・・げっひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!」
口を大きく開けて笑う怪物とは対照的に、隆寿郎の口は固く結ばれ、表情は険しいものだったが、気にするそぶりもなく怪物は嗤笑を続ける。
「その顔・・・げへへへっ・・げへっ・・・ふう・・・あーーーーーー良いもん見たわ」
しばらく笑った後、満足そうな表情を浮かべる怪物は、今度は周囲に横たわる人間の方へ顔を向ける。
そして、怪物は表情一つ動かさずに、女性の頭部を踏みつぶした。
──────隆寿郎の目の前で、軽々しく命が奪われた。
それは恐ろしく自然な動作であり、隆寿郎は思わず反応を一瞬遅らせたが、その後すぐに表情を一変させる。
「──────!貴ッッ様!」
隆寿郎は声に怒気をにじませながら怪物に斬りかかろうとする。
だが、そんな状況でも、怪物は依然として余裕を保ったままだった。
「ああ?好みの女だったか?わりィな」
怪物は欠伸をしながら、もう一人の女性の頭部を蹴り飛ばした。
すると即座に、隆寿郎は女性の頭部を受け止める。
隆寿郎は怒りに震えながら、彼女の瞳を閉じ、地面にゆっくりと置くと静かに手を合わせた。
弔いを終えると、隆寿郎は激情を抑え込むよう、ゆっくりと深呼吸をした。
「なぜこんなことを平然と出来る?」
隆寿郎は憤りを抱えながらも冷静さを保ったまま、目の前の怪物に問いかける。
だが、その言葉は怪物にとって何の意味も無かった。
「おいおい、そんなに怒るなって。こんなんたまにしかやんねェよォ。俺様だって雇われの身だ。暇じゃねェさ。でも分かってくれんだろォ?たまの息抜きってやつよ」
「・・・どんな趣味趣向であろうと、人の命を弄んで良い理由にはならない」
「チッ・・・俺様はただ悲鳴を聞きながらうまい飯を食ってるだけなのに、ピーピーやかましいんだよな鬼狩りってのはよォ」
怪物は考えを改めるつもりは欠片も無く、鬱陶しいと言わんばかりに声を荒立てる。
その音は、快楽を貪るだけの獣の鳴き声として、隆寿郎の耳に響いた。
「大体わかった。もう喋らなくて良い」
怪物の邪悪な本質に触れたためか、静かに告げる隆寿郎の瞳には激しい殺意が宿っていた。
そして、隆寿郎のこの言葉が戦いの合図となった。