キーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん
煩わしい耳鳴りを、そのままにしていた。
そうすれば自分一人の世界に閉じ込めるからだ。
職場である、血液銀行二階の自分の机に向かい、ジッと暑さを感じていた。
暑い………暑い………アツい………熱い……。
脳裏に、あのクソッタレなジャングルが思い浮かびそうになっていた。
この耳鳴りも、あのクソッタレからだ。
「……………ク……」
「ミ…………………ン」
課長の呼んでる声が微かに聞こえたので頭の横を軽く叩いて、耳鳴りを掻き消す。
「水木くーん」
「はーい!今行きまーす!」
外廻りは勘弁してほしい……が……。
「いやぁ暑いねぇ!今日は!」
そんな事は分かっている。
「全くですね。ご用件は何でしょう?」
「水木くんのウチは、蛙町だったよねぇ?」
「はい」
「実は、その町にお客様がいてねぇ」
初耳だ。
「そうでしたか」
「うん。そんでね。そのお客様との取り引きに問題が発生してねぇ」
「問題ですか?」
「うん。そのお客様から血を買い取って………病院に届けたのだけど……それがねぇ……うぅん……」
煮え切らない態度だ。
「病気持ちだったのでしょうか?」
「病気なら……まだ良かったんだよ………お医者が言うには………溶けた、と」
「溶けた?」
「…その血が入った………容器、棚、床…をドロリん、と」
馬鹿面を晒す。
「病院から…凄まじい剣幕で苦情が来たんだ……なにを送ってきやがった!!ってね」
…そりゃ、そうだ。まだ、溶けたのが容器で良かった……もし、もしも、そんな血を……激毒を……輸血なんか…したら…してしまっていたら……。
「……だからねぇ水木くん悪いんだけど、そのお客様のお宅に事情を説明しに行ってくれないかねぇ?」
嫌な仕事だ。
「…もう血を売りにこないで下さいと伝えればよろしいでしょうか?」
「うん。まぁ、そう言う事。そのまま直帰で大丈夫だから」
……まるで釣り合っていない。
「承知しました」
「あっ、あとこの件は……」
そう言って…課長は大きな口の前に指を立てる。
「…はい…ここだけで…」
俺だけで。
キーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん
頭を振って音を消す。
フゥーーー
溜め息と一緒に紫煙を吐き出す。
嫌な仕事だ。
血を売りに来るな。それは、ほぼほぼ死刑宣告だ。
売血をする人達は、自らの体の一部を売らなければ生活出来ない程、金銭的に精神的に追い込まれている。
売血は、いわば最後の手段。蜘蛛の糸だ。
俺は今、仏様でも無いのに、それを切り落としに向かっていた。
課長からの指示を受け、その後すぐに問題の人物の詳しい情報を調べた。
性は…インクが滲んで判別不能であった。
名は…シゲル。
「………あっ……」
住所は…………俺の家の隣…であった。
フゥーーーー
煙草を指で消し川に投げ捨てた。
嫌な仕事だ。
未だ一度も顔を合わせていない隣人への最初の挨拶が死刑宣告とは。
これから、どんな顔して家にいれば良いのだ。
いっそのこと引っ越してしまおうか。
いや父母の遺した家だ。そう簡単に捨てられない。
取り止めの無い事を考えながら、いつもの帰路を歩いていたら、もう到着してしまった。
……自宅の隣だとは…。
そもそも、俺の家の周りは、森、森、森。
唯一、建物と言うのも憚れる、寂れ、傾いた神社だった物だけだ。
まさか、そこに人が住んでいるとは夢にも思わなかった。
本当に住んでいるのか?
後ろ髪を思いっきり引かれながら、朽ち果てた玄関先らしき所に立った。
「ごめん下さーい」
反応は無い。
「ごめん下さーい!!血液銀行の者でーす!!」
………反応は無い。
はぁ、仕方がない。少し時間を潰して、出直そうと思い、自宅に向かおうとした時、嫌な匂いがした。
甘い匂いだ。
キーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん
あのジャングルで、散々嗅いだ甘ったるい匂いだ。
どこからだ。目の前の傾いている扉を引いた。
匂いは強くなった。間違いない。この先だ。
靴を脱ぎ、曲がり、歪み、割れ、軋む、廊下を歩いて行く。
「.......ゥゥゥゥ」
「...ウゥゥゥゥ」
声がする。人がいる。まだ……生きている。
また扉が邪魔をする。
ゴンゴンッ、と頭を殴りつけて、耳鳴りを消し、扉を引いた。
薄暗い部屋の真ん中、薄汚い、薄っぺらな布団が敷かれている。
それに、女が寝ている。
身体はすっぽり布団に包まれ、髪は乱れ、顔は腫れ上がり、口らしきものが少しだけ動いているだけだ。
「ひゅううううう」
女が息をするたびに、甘い匂いは、部屋中に広がった。
これはまずい……もう…直ぐだ。
女の傍に近づく。
「ダレダ」
ひび割れた声が俺を引き留めた。
「………血液銀行の水木という者です。」
手を挙げ、背中に嫌に纏わりつく汗と視線を感じながら、振り向かず答えた。
「……何の用だ?」
背中から、声は聞こえるが、気配が一切無い。
まるで幽霊と話しているようだ。
「シゲル様にお話があってきました」
「…………それは私だ…………こちらにどうぞ」
ギシギシと廊下の軋ませる足音が聞こえる。
女の様子を見たかったが、仕方なく振り向いた。
シゲル氏はもういなかった。
慌てて、滅茶苦茶な廊下を真っ直ぐ歩いていたら、襖が開いている所があったので、その部屋に入った。
部屋は座敷であり、部屋の真ん中に机が有り、その机の真ん中に蝋燭が一本、何か白い破片の上で、揺ら揺らと灯いていた。
その……何か……白い破片が……人骨、である事に気づくのは、そうは時間がかからなかった。
「お座り下さい」
奥の暗闇から声が聞こえる。
「失礼します」
机の前に座った。
「まずは謝罪を。勝手に押し入ってしまい、申し訳ございません」
「お気になさらず。それで話と言うのは?」
……単刀直入に話をしよう。
一思いに……。
「…大変、恐縮でございますが…実は、お客様から頂いた血液に問題が御座いました」
「………」
何も答えない。
「…その為、当行としましては、お客様の血液の買取はもう出来ない、という結論になりました」
「…………………そうですか………」
「…申し訳ございません」
謝っても仕方が無かったが、俺は頭を下げた。
「…………………」
「…………」
暫く沈黙が流れた。闇から微かに息遣いが聞こえた。
未だ、甘い匂いはしていた。
そして、闇の中のシゲル氏からも同じ匂いが発せられいる事に気がついた。
沈黙を破る。
「………奥におられるのは、奥様でしょうか?」
「……はぃ」
「失礼ですが、お加減が?」
「…………もう………長くは無いでしょう」
「…………シゲル様も…でしょうか?」
「…ええ」
「病院には?」
「……行けません。お金が、もうありません。それに……………人の病院では………」
人の病院?
「…まるで人では無い様な言い方ですね」
「……あっ……いや………その…………」
暫くシゲル氏は吃っていた。
「…………………とても…奇妙な話ですが……聞いてくれますか?」
「聞きましょう」
死刑宣告をしたのだ。せめて話ぐらいは、聞いてあげたかった。
「……では」
闇の中から、立ち上がり、こちらに近づく音が聞こえる。
そして……微かな光の中に、シゲル氏が現れた。
「!!!」
「…………顔を合わせた方が説得力があるでしょうから…」
現れた人物は全身を様々な布切れでぐるぐる巻きになっていた。
……硬く固く、締め付けられており……まるで…身体が崩れぬように…しているかの有様だった。
唯一、顔の部分は、布切れが無く、その素顔が晒されていた。
赤黒い。表皮は既に無い。左目の位置はただただ暗い孔がある。右目は真っ赤になっていた。鼻も無い。頬の部分は肉が無く骨が剥き出しになっていた。口には歯が三本程、見ている間にニ本程になった。所々にウジが湧いて蠢いていた。
とても生者ではない。
「…何故生きていられるのです……か?」
友人達の最期の顔を思い出しながら聞いた。
「それも含めて…お話を…」
机をはさんで俺の正面に、シゲル氏は呻き声をあげながら座った。
世にも奇妙な話だった。
「私達、夫婦は幽霊族と呼ばれる人間とは違う種族です。
幽霊族には人間を超越した能力があり、身体能力は勿論。
第六感。超能力。そして、何より生命力に優れておりました。
幽霊族は貴方達、人間が生まれる遥か古代から、数は少ないながらも地球で平穏に生きていました。
しかし、人間が生まれ、増えてから、全てが変わった。
古代の時の権力者達は幽霊族を都合の良い道具、奴隷として利用しようとしました。
当然、幽霊族も抵抗をしましたが、人間は幽霊族の何十倍何百倍も多く、
どんなに力があろうとも数には勝てませんでした。
そして、幽霊族は人の居ない地下の世界へと逃げ、そこで生活するようになりました。
しかし、地下の世界には食べ物が無く、餓死者が何人もでました。
そこで幽霊族は、人間が眠る真夜中に地上へ赴き、虫や蛙や蛇を食べておりました。
………その姿を人間達が見て、『幽霊だ!!』と呼んだそうです。
そうして何千年も世界の影で生きてきた、幽霊族も今や私達夫婦が最期の生き残りになってしまいました………その生き残りも、あと数日の命……」
話が終わるとシゲル氏は俯いてたった一つの目から、ぼたぼた、と血の雫を落としていた。
「…妻のお腹には子供が、いるのです」
………なんて事だ。
「せめて子供が産まれるまでは生きようと、2人でこの神社に移り住み、
食べ物を買う為に私は血を売りました」
「…よく出歩けましたね」
「…その時はもう少し人の形をしていましたので…………もはや……………もう……
もうお終いです。食べ物は、もうありません……それに…血が売れなくなってしまっては……いいえ…この姿では……何処にも行けれませんね…」
「…………」
「…………」
血の雫が落ちる音だけが、部屋の中に響いた。
暫くしてシゲル氏が顔を上げ、こちらに語りかけた。
「…お話確かに、お聞きしました。もう血を売りに行く事はないでしょう。
この家で聞き、見た事は全て夢だったと思って下さい。
どうぞお気を付けて………お帰りくださいませ」
顔を真っ赤に濡らしながら、シゲル氏はそう言った。
「…………………分かりました」
立ち上がり、廊下に出る。
「どうかお大事に……」
そう言って、俺はシゲル氏の家から辞去した。
崩れかかった…家から……現から…去る…逃げ出す……。
「……………………………………………………………………………………………………………駄目……だな………」
俺は走り出した。
自宅に大急ぎで帰って、家中の食べ物をかき集めて風呂敷に入れ、すぐさま隣家に戻った。
「ごめんくださーい!!…シゲルさーん!!」
程なくして、シゲルさんが出てきた。
俺の顔を見て不思議そうな顔をしている。
「どうしましたか…?」
「いやぁ、あの、その、実は自宅が、ここから走って一分程度の所にありまして」
「!?そうだったのですか……ご挨拶に行かずに…」
「いえ、いえいえ、お気になさらず。それで……家にこれしかなかったんですが…」
そう言って、風呂敷に入った食べ物を見せた。
「?」
シゲルさんは、ますます不思議そうな顔をしている。
「貰ってください」
「!!……何を………どうして?」
俺は照れ隠しに少し笑った。
「困った時はお互い様でしょう?それにたった一軒のお隣さんですから」
「…………ぁ……ありがとう……ございます………ありがとぅ……」
シゲルさんは泣きながら、震える大きな手で風呂敷を受け取った。
受け取ってくれた。
隣人の残された右目から澄んだ涙が一滴、地面に跳ねた。
ご拝読ありがとうございました。