「こんにちはぁ」
「?こんにちは」
「今日は良きお日柄ですのぅ」
「正しくその通りですな、翁」
「ご挨拶させて頂いても宜しいかな?」
漆黒の老紳士。
一目で人間では無い事が分かった。
人間そのもののカタチをしているにも関わらず。
こんな小春日和の穏やかな陽に当てられているが、それが場違いであり、間違いである……気をさせる。
シルクハット、燕尾服、手袋、革靴、マント、ステッキ。
身につける物、全てが黒色であり、また鈍く輝き、皺一つ埃一つ無い高潔な姿を余さず晒していた。
針が真っ直ぐ水平に落ちてきた様な立ち姿は、見惚れる程であり。
そんな神経質な立ち姿をしている老紳士の顔は打って変わって…柔和な笑みを浮かべている。
それもまた何処か……そうだ……人形を思い出させた。
きっと、その柔らかな笑顔を一晩中…一厘も動かさずにやってのけるだろう。
不躾に己が姿を観察する俺の視線にも、丁寧なウインクを一つ送ってくる。
余裕そのものである。
老いた男性。
見せている姿の中、唯一皮膚が出ている顔と側頭部を見れば分かった。
皺があり、白髪であり、そして顔の造形は日本人の物ではなかった。
詳しくはないが…欧米であろうか。
……恐らくは…若かりし頃は相当の美形であったのだろう。
老いさらばえた今でさえ、その名残が残っていた。
漆黒。
……着ている衣装だけで言っているのでない。
老紳士の雰囲気。影。陰り。
何よりも……瞳だ。
あの目、眼、め、メ。
黒く、黑く、深く、暗い。
眼球に取って代わって…深淵が埋め込まれているがごとく。
そんな目を覗きこむと、心の臓が、ヒヤリ、とする。
何もかも…お見通しだよ、と。
君が…見ている間に私も十二分に観ている、と。
そんな囁きが脳の片隅に響く……気がする。
人間ではない……だが…妖怪なのか…?
それとも…ナニカ…ベツの…。
「貴君、身体の調子でも悪いのかな?」
気遣いの言葉をかけてくる紳士。
慈愛に満ちた声色。
それが…むしろ歪さを際立たせる。
「いえ…いえ大丈夫です…どうぞ、その、ご挨拶して頂いて…」
「うん、それならば良い…」
「では、改めまして、同志よ!」
「我が名を此処に高らかに!!名乗ろうではないか!!」
「我が名はルスヴン!!「ルスヴン卿であるっ!!」
「蘇りし者。不死者。生と死に見捨てられし者。魔人」
「人は、様々な異名で呼んでくれるが…我が在り方を形容するなれば!」
「唯一つ!」
「『吸血鬼』っ!!!」
「それが!それこそが!我である!!!」
「同志よ!同志達よ。以後よしなに」
朗々と口上を打ち上げた。
「『きゅうけつき』……」
「わぁ、大きなこえだねぇ」
「うむ、堂々としとるのぅ!見事!」
パチパチパチパチ
のほほん、と鬼太郎と目玉の親父は拍手を送っていた。
「ありがとう、ありがとう!!」
大仰に手を挙げながら空いた席に座る…えぇと…るすぶん卿。
「ルスヴン!ヴだ!同志よ!」
「………間違えて恐悦至極ですが…ごく当たり前に読心しないで下さい…」
「ハハハハハ!!これは失敬!」
「あと、
「うぅん?……ハハハハ!良いではないか!良き呼び方であろう?!」
………あれ程、黒を感じさせた男の言動はしかして…陽の様であった。
「るすゔん殿、儂は目玉の親父じゃ!宜しくなぁ!」
ぴょこり、と手を挙げる親父。
そんな気軽な挨拶に帽子を取って真剣に傾聴していた。
「ご挨拶、感謝感激であります。翁。いや、目玉の親父殿。以後、お見知り置きを」
……ふぅむ。随分、畏まっている……。
………親父さんがナニか知ってるのか…?
尊敬の念しか感じないので、態々、聞く気は起きないが。
…さて、続くとしようかな…。
「…自分は水木と言うものです。一応、言いますが平凡な人間です」
「平凡?」
聞き返す、ルスヴン卿。
「へいぼん!?」
吃驚している親父。
「ぼんぼん!」
……相変わらず、愛い鬼太郎。
「……以上です」
「…………?」
「!?…?…?!」
納得していない老人二人を無視して鬼太郎が手を挙げた。
「はい!はーい!」
「おっ!おー!おーおー!!小さなご令息!御名前を聞かせて頂きますかな?」
「はい!えっと!鬼太郎と言います!親父と水木の子供です!よろしくおねがいです!」
「素晴らしい!!!!」
同感。
…………語弊がある部分があったが…まぁ、良しだろう!
「以後、宜しく!鬼太郎君!!」
右手の手袋を外して差し向けた。
「よろしくね!」
両手で老いた手を包み込む鬼太郎。
「冷たいねぇ」
そのまま摩っている。
「フフフ!お優しい!……このひび割れた魂に染み渡る」
「だがね……鬼太郎君。私は温まる事は無いのだよ。生きてはいるが活きてなし。死んではいるが亡くならず」
「…?つまりぃ?」
「冷え性!」
…簡単にしたな…。
「大へんだねぇ」
スリスリスリスリ
更に摩る力を込める鬼太郎。
「ハハハ、フフフ、親切な子だ!」
「けけけけ」
「じゃろう!鬼太郎は優しい子なんじゃぁ」
「親御さん達に似たのでしょう」
「…持って生まれてくれたのですよ」
「そうじゃな…母親が渡してくれたのじゃろう…」
「……んん、日の本の方は本当に謙虚さの塊だ!」
見てられないと言わんばかりに左手で目を覆った。
「…ははは……それで…その、ルスヴン卿」
「何かな?水木君」
「私達に何の御用でしょうか?」
「それを話すならば!海程のお茶が必要だ!」
…………長くなる予感。
「ベオ!皆さんに紅茶を!」
誰だ。
「かしこまりました。ご主人様。ご用意出来ました」
ふわり
柔らかな風が顔を撫で付けて…瞬きをすれば…。
目の前には見るからに高級品なティーカープセットが置かれていた。
カップの中には透明な紅い茶が花香を立たせている。
その横には宝石の様な洋菓子が。
…そして、俺達が飲み終わっていた茶碗は卓の端に、ピカピカ、になって並べられている。
……ふん………………えっ?
何が起きた?
辺りを見回してみると…ルスヴン卿の背後に新たな闖入者が。
忽然と現れた大男。
執事…と言うものか…?
主人と殆ど同じ燕尾服と革靴を身につけて、後ろに手を組み眼を閉じて、しゃん、と胸を張って直立不動している。
またもや、欧米の方。
三、四十代だろうか…卿とは二回りも歳が離れている…様に見えた。
頭の天辺、目の覚める様な赤毛を後ろに流している。
目を閉じている面貌は日に焼けているが…丁寧に手入れされている。
そして、五体、特に四肢は満ち満ちる力を感じる。
野生的な趣を全身から感じる男であるが……それを作法で包んで、抑えてこんでいる…様だ。
妖怪…ではない…それこそ目の前の老紳士とも全く違う気配であった。
ごく普通の…俺が一番馴染み深い気配。
人間の気配しか、その男からは発せられていなかった。
「おお!ありがとう!流石は我が執事!仕事が速い!早い!」
「恐れ入ります」
男の仕業なのか…このティーセットは…。
……一瞬、風を感じたが…まさか、
その風があの男だったのか?
人間業では無い。
つまりは…やはり人間ではないのか?
「……その方は?」
「ああ、紹介が遅れましたな。彼はベオ。我が自慢のたった一人の忠実なる執事だ。ベオ!自己紹介を頼む!」
「かしこまりました」
執事が直立のまま俺達に向き直る。
「
「偉大なる『吸血鬼ルスヴン卿』のただ一人の忠実なる僕」
「心の片隅にお留め頂ければ幸いです」
恭しく、きっちり、かっちり、お辞儀をする。
「あっどうも、ご丁寧にありがとうございます」
その優雅な作法に呆気に取られ、ぎこちなく頭を下げた。
「………」
執事…ベオさんは変わらぬ貌で、また同じ位置に向き直った。
「少しばかり無愛想ではあるが…気持ちの良い男なのだ。彼は」
そんな彼を…まるで…我が子を見る様な眼差しを向けている、ルスヴン卿。
「…ルスヴン卿。ベオさんも…きゅうけつきなのですか?」
「否。彼は、そんな穢れし者では無い。断じて」
「美しく純粋、高潔な存在なのだ」
「何れ、彼自身が名乗る事を待望してくれたまえ。水木君」
「はぁ……それと…もう一つ……恐れながら…お聞きしたいのですが……」
「恐れる事なし!何でも遠慮なく聞いてくれ!」
「…助かります……『きゅうけつき』とは一体なんでしょうか?」
「…………………………………」
「…………卿?」
「………………………自惚れが過ぎたな……私も…………」
目を閉じて…そう、小さく呟いた。
「………………………………」
目を閉じたまま、むっつり、と押し黙ったままになってしまったルスヴン卿。
「………親父……すまん…俺が無知だったのか?」
声を抑えて隣の目玉に問う。
「………いや……実は…儂も…何となく……聞いたような…なかったような……」
「……千年の知恵でもか…?」
「だって……多分…西洋の事じゃもん…行った事ないわ」
「……そりゃ、そうか…」
……………………じゃもんって、何だ…。
「ほうほう」
頬杖をついて…さも、難しい話ですねぇ、と言わんばかりの鬼太郎の頭を撫でる。
「ほほほ」
「…………」
黙ったままの主人の耳元に、貌を近づけるベオさん。
「ご主人様」
低い声で囁く。
「…nn…これは失敬!ハハハハ!失敬!失敬!」
「失礼しました」
「いや、いいんだ!助かったよ、ベオ!」
再び、表情を明るくしてくれた卿。
「ハハハ!己の傲慢さに腹が立って、魂を燃やし過ぎた!申し訳ない!ご一同!」
「いいえ、お気になさらず……そもそも、自分の学の無さが悪いの「否!全ては私の不徳の致すところなのだよ!全く!永く存在している癖に…いやはや…お恥ずかしい!」
頬に少し赤みが指しているので…本気で恥じているのだろう…。
「話を戻そう!」
「まずは…吸血鬼とは何ぞや…」
「きゅう、とは吸う。けつ、とは血液。き、とは鬼」
吸、血、鬼………。
「私は、吸う。血を。鬼として」
………………………………………。
「そして、如何して私がここに居るのか?」
「話せば長くなる」
「とても」
「だが、是非とも聞いてくれたまえ」
「私の…ルスヴンの在り方の」
物語の幕が上がる。
「数百年前、私は人間であった」
「平凡な人間。ただ裕福な家庭に生まれただけの、ぼんぼん」
「今でも夢に見る、あの穏やかな日々。起きて、食べて、働き、食べて、遊び、食べて、眠る」
「家族を愛し。隣人を愛し。神に祈りを捧げる」
「そんな、ありふれた、何物にも変え難い日々を捨てたのは、最初の妻が死んだ夜だ」
「最初の妻。我が伴侶。我が愛。彼女は美しかった。髪の毛一本から、星の瞬きの様な目、小さな鼻、赤い頬、微笑むと、きゅっ、と上がる唇、余りにも慎ましい身体、そして、そして、何よりも、誰よりも、暖かく、慈悲深い心」
「目を閉じれば、いつも、ここに居る」
「今、この瞬間を含めて忘れた事は無い」
「ああ……」
「彼女は、妻は病がちだった。産まれてからずっと」
「神は残酷な運命を彼女に与えたもうた」
「日が沈まなければ外出が出来なかった。陽の光が肌を焼くからだ」
「川や湖に近づく事が出来なかった。水の流れは肉を痛めつけるからだ」
「味の無い食事を摂らねばならなかった。強い匂い、味は、臓腑がひっくり返るからだ」
「銀、金、宝石、煌びやかな装飾品を身につける事は無かった。彼女には重すぎたのだ」
「鏡を見る事がなかった。自分の姿を直視したくなかったのだ。私が、どれ程の、言の葉、詩、唄を贈ろうが、彼女は……彼女は……」
“貴方様は…なんと……お優しい方………どうか…どうか…お赦し下さい……私には……勇気が……勇気が足りないの…です”
「…結局…彼女は…自らの美しさを知らずに逝ってしまった……」
「あの時程、自らの胸を切り裂きたくなった事はない」
「切り裂いて、ちっぽけな心を…心内を…何もかも…彼女に見せてあげたかった」
「そうすれば、嘘偽りの無い事を証明出来た筈だ。私の魂の拠り所を証明出来た筈だ。彼女の美しさを証明出来た筈だ」
「ああ…愛しい君…美しき君…優しき君…勇気の欠片も持ってなかったのは私の方だ……私の方なのだよ…」
…ただでさえ白い顔色が…みるみると蒼白になっていく。
隣の鬼太郎と親父さんが心配そうに見つめている。
「…お辛いのであるのならば…無理にお話しなくとも…」
「いや、聴いてくれ。是が非でも聴いて欲しいのだ、私自身が」
「私の魂が絶叫しているのだ…水木さん…それを、最早、無視出来ない」
切実な…縋るような目線に、次の言葉は出せなかった。
「……」
ただ、黙って頷いて了承した。
「感謝する」
「…私が人間であった、人間でいられた、生きる意味。人生そのものであった彼女との別れの時は…真夏の昼間…よりにもよって…そんな時に」
「その日、私は朝から礼拝に赴いていた」
「私自身は人並みの信仰心であったが…我が妻は、それはそれは信心深かった。その信仰心は暗い屋敷で寝たきりの状態であっても…いや…体調が悪くなるに連れて、より強く、深く、なっていったよ」
「暗い部屋の中で、よく二人で祈りを上げていた」
「彼女の祈りの声はまるで天使の様であった。故に私はその時間を好いていた。妻の美しい声を聞けば…神の存在が近く感じられたものだ」
「その穏やかな時間の中で、ある日、お願いをしてきた」
“…貴方様…一つ…お願いが御座います…”
「その言葉は私の心を激しく弾ませた」
「彼女が、お願いをするなんて一緒になってから数える程しか無かったのだよ!」
“…言いたまえ…私に出来る事…いや、君の為なら何でもするよ…愛しい君…”
“感謝…します…私の…ただ一人のあなた…”
“……教会に……お祈りに…行っては…くれませんか…?”
“……それは……”
「君の為に…そんな綺麗事を吐いた私だったが、彼女が請いてくれたお願いに即座に是を答える事が出来なかった」
「私が、片時も彼女から離れたくなかったからだ……ああ……なんと…身勝手な男であったか…」
“……貴方様……ごめんなさい……出過ぎた…願いでした…どうか…お赦しを…”
“何を言う!すまない、すまなかった!教会にお祈りに行けば良いのだね?お安い御用だよ……この際だ……何か…他にも願いは無いのかね?”
“ああ…貴方様、優しき旦那様……感謝の極みで御座います…私の願いはそれだけ…その一つだけです……それだけで私は…十分で御座います”
“そう…かい…ならば…明日から…通う事にするよ…”
「約束通り、次の日から通いを始めた」
「彼女のお願いだ…私は一日だって欠かさず…赴いたさ…」
「あっいう間に…教会通いを始めて三年の月日が経った」
「…………………三年。その三年の間に…彼女が願ったのは…この事だけだった」
「今にして思えば…恐らくは私に気を利かせたのだろう…看病をしている私に…無論、その事に何一つ不満など無かったが……きっと…息抜きをさせたかったのだろうな……それ程までに彼女は…優しい人であった」
「………」
「……教会には何時も同じ時間に。鶏が鳴く前の時間には着いていた」
「その教会の神父様は寛大なお方で…そんな深夜と言っても良い時間に尋ねる非常識な私を快く迎えてくれた」
「そればかりか…隣に座って…一緒に祈ってくれた」
「神へ祈る。妻に祈る。その二つとも、私と一緒になって……」
「…あの夏の日も…いつもと変わらず二人で並んで祈った」
「祈りを終えて、早々に帰ろうとする私を神父様が引き留めた」
“ルスヴンさん、お渡ししたいものがあります”
「そう言って懐から小さな包みを出した」
“ずっと探していたのですが……昨日の夜に漸く見つかりました”
「包みを丁寧に開いて中の物を見せてくれた。出てきたのは白銀の十字架であった。窓から薄く入る陽の光を浴びて輝いていた」
“なんと、見事な…この様な逸品を…”
“私の様な年寄りが何時迄も持っていても仕方ありません”
“お古でも宜しければ…是非とも”
“感謝します。神父様。謹んで拝領致します”
「陽の光と神父様の手の温まりでじんわり、と熱い十字架を受け取った」
“ええ、ええ。貴方に貰って戴ければ…妻も喜びます”
“……奥様……まさか…これは……”
“…形見なのです”
“神父様…何と……言葉では言い尽くせぬ想いです………本当に宜しいのですか?”
“勿論。さぁ、行ってください。貴方の大切な人が待っているのでしょう。さぁ、さぁ”
“……幸甚の至りです。神父様!貴方に神のご加護を!”
“神のご加護を”
「神父様はまるっ、とした微笑みで私を送り出してくれた」
「その時の私は…信じていたよ。この世界は喜びに満ちている。この世界は優しさに溢れている」
「きっと、何もかも、上手くいく」
「きっと、いつか、彼女と、この眩しい陽の光の中で笑い合える時が来ると」
「十字架を胸に抱えて、小走りで屋敷に帰った私は弾んだ息をそのままに彼女の寝室に向かった」
“今、戻ったよー!”
「………寝室を静かに開けて、まず一番に私が感じたのは…
「……寝室は…甘い香り…で一杯になっていた」
「はて…彼女が花でも飾ったのだろうか…と。久しぶりに体調が良くなったのだろうか…と。悠長な事を考えていた」
“ただいま、愛しの君。なんだか、良い香りが舞っているね”
「寝室の奥、彼女が寝ているベッドに近づいた」
「彼女の寝顔が見えた」
「私はゆっくり、とベッドに腰掛けて彼女の頬に触れた」
「暖かく。滑らかな。柔らかな感触の期待は、しかして裏切られた」
「冷たく。纏わりつく。ドロリ、とした何かが…頬一面にあった」
“………Ia……he……”
「それが、何であるかを確かめるべく蝋燭に火を点けた」
“…………なんだ……これは……”
「彼女は広いベッドの上で血の海に沈んでいた」
“……Ian……起きてくれ……頼む……私を見てくれ……”
「彼女は…あの広く、暗い部屋で、一人ぼっちで最後の瞬間を迎えてしまった」
「身体中の血液がベットに流れ出していた」
「彼女が吐いたのか?彼女が胸を裂いたのか?または……何者かが襲ったのか?」
「それは解らない…。解らないままだ。その時の私はそれどころでは無かった」
「
「その事実が私を、私の魂を、木っ端微塵にした」
「その時に人としての理性を一緒に」
“……………”
「いくら彼女の頬を撫でても熱は戻らず」
「冷たくなる一方だった」
「彼女はするり、と離れて、いなくなっていく」
“…………”
「ふと、彼女の枕元に置いた十字架に目がついた」
「粉々になった私の心が……じりじり、と熱を帯びた」
“……結局、貴方は黙ったままか…”
「私は十字架を別の部屋に移した」
「何故なら、この後、行う所業を彼女に見せなくなかったからだ」
“…神よ…彼女の御魂はきっと貴方の物だろう……”
“最愛の君。我が伴侶。我が半身。身体は君の物だ。欠けることなく墓に納めよう”
“だが、すまない。欲張りな私を赦してくれ”
“罪深い私を、どうか!どうか!止めないでくれ!”
「私は彼女から溢れ出した血液を見据えた」
“この、
“流れ出した物は!もう二度と戻らない!ならば!なればこそ!私が全て戴く!”
“誰にも、何にも、一滴たりとも渡してなるものか!!”
“……私には…これしか…もう…無い…んだ…”
「最初の血の味は、ほろ苦かった」
「……血。血。血なのだ。美味い訳が無い」
「だが、不思議な事に私の身体は拒む事なく全て受け入れた」
「……受け入れてしまった」
「翌朝、事を終えた私は慣例に従って、妻を送った」
「小さな葬式だった。私と老いた使用人夫婦。そして神父様だけの」
「その晩、彼女の葬儀を終えた私は彼女が寝ていたベッドに腰掛け、短剣を握っていた」
「……私に、天国に行く資格など無いのだからね」
「彼女と同じ格好で寝て、短剣を喉に当て、一息に掻き切った」
「そして……意識を失った」
「
“何が…起きた……”
「震える手で喉に触れたが…昨晩、確かに裂いた傷は…跡すら無かった」
“夢…だったのか?”
「それを床に突き刺さった短剣が否定した」
「私は完全なる死に損ないになったのだ」
「焼死。爆死。溺死。轢死。毒死。窒死。凍死。墜死。圧死。ありと凡ゆる死に方を試したが……全て、成功して、また失敗した」
「餓死も試したかったが…生憎…飢えを感じる事する出来なくなっていた」
「数年間、自らを殺し続けたが…それも無駄だと悟ると屋敷に篭りっぱなしに」
「また、数年が経った」
「その頃には屋敷を尋ねる人間は元使用人の夫婦と神父様だけになっていた」
「私は一日中、暗い部屋に立て篭もり彼女が遺してくれた思い出に浸っていた」
「ある晩、外の騒がしさと明るさが気になり窓から覗いてみれば…街が炎に包まれていた」
「どうやら何処かの国が責めてきた様であった」
「その光景を見て、一つの気づきを得た」
“まだ、殺された事は無かったな…”
「私は嬉々として燃える街に向かった」
「武装した兵士達が、訳の分からない言葉と剣で私を追いかけてきたが…
誰も彼も追いつけはしなかった」
「私の足が風の如く速い事に気付いたのは、この時だった」
「暗い夜。燃える街。崩れた道。泣き叫ぶ声。それにも関わらず私の目も、鼻も、耳も、身体も、十全に働いた」
「叫び声を聴いて、人の汗や血の臭いを嗅いで、目についた人々を、助け、逃した」
「兵士達には、軽く腹を撫でて眠って貰った」
「世話になった元使用人夫婦と神父様を逃せば、生きている街の人間達は皆んな避難させる事が出来た」
「後は…お待ちかねの刻であった」
「私は広場で炎と兵士達に囲まれた…否、囲ませた」
「数十人といる兵士達は武装している癖に、ガタガタ、と震え、冷や汗を流し、目は泳ぎ、息は乱れて、小声でブツブツ、と祈りを呟いていた」
“臆病者共め!!”
“私は孤軍!私は丸腰!何を怯える事があるか!!”
「そう煽ってやれば、誰かが一際大きな声で絶叫した」
「その声は私でも解る言語であった」
“黙れ!!悪魔!!化け物!!怪物め!!”
「私は、その罵倒が非常に気に入った」
「故に、こう切り返した」
“フフフフ!!フハハハハハハハハハ!!!”
“そうだ!!そうだとも!!!私は悪魔!!”
“私は化け物!!”
“私は怪物!!”
「血だらけの彼女の姿が
“……私は人喰い!!”
“吾輩こそが!!『
「その時の私は吸血鬼などと言う単語を知らなかったが、何故だか口から、するり、と流れ出た」
「そして、その自称に、成程、そうか。と納得した」
「私は吸血鬼に、その時、漸く成ったのだ」
“ウワワワアァアアアア!!!”
「数人の兵士が逃げだし、私を囲む残された兵士も後退りをした」
「それでは、困ると、私はもう一度煽る事にした」
“ハハハハハハ!!!!退くのか!?退却するのか!?”
“フハハ!!愉快!愉快!良いだろう!退却を許そう!!”
“どんな人間であれ、命は大切だろう!!大事であろう!!”
“そうだろうとも!!そうでなくては!!!”
“故に許す!!逃げたければ逃げれば良い!!私は追いはしない!!”
「兵士達が息を飲んで…また一歩下がった」
「だが、二歩目は許さなかった」
“だが!!”
“だが!!いいのかなぁ!!?”
“ここで私を取り逃して!!”
“私は吸血鬼!!”
“人肉を貪り尽くす者!!”
“その私が、この私が!この先、何処にいってしまうのか!!”
“そんな事も想像できないのか!!”
「兵士達は足を止めて…怪訝そうな顔をした後、絶望の表情を晒した」
“そうだ!!
“貴様等の匂いは覚えたぞ!!”
“匂いを辿って行ってやる!!”
“貴様等の国に侵略してやるとも!!”
「表情が絶望から懇願へと変わった」
“フハハハハハハ!!!良い表情だ!!美味そうな表情だ!!”
“だが、もう決めた事!”
”貴様等も!貴様等の家族!!母親父親祖母祖父叔父叔母従兄弟兄弟姉妹そして何よりも娘に息子!!妻!!!”
“一族全員、私の夕食にしてやる!!!”
“ふ、ふ、ふ、ふふふふふふふふふはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは、は、は”
「兵士達は一歩も動けなくなっていた」
「……少し虐めすぎたと思う」
“糞……畜生………ふざけやがってぇ……”
「一人!一人だけ!私を罵倒してくれた者。男。若者」
「彼は血走った眼で私を睨みつけていた」
「勇気ある者。諦めない者が…そこに居た」
“………素晴らしい………”
「私は炎の中で感嘆の息を溢した」
「彼だと思った。彼に殺されてみたいと思った」
「だから…彼の顔を、眼を合わせて、こう言った」
“さぁ!君はどうする…ね……”
「嘲笑いながら」
“……フゥーーーー…やってやる………ぶっ殺してやる!!!”
“てめえの肉一片、血の一滴まで!!全部!!ぶち壊してやる!!!”
“うおおおおおおおおおおーーーーー!!!!!”
「彼は私に向かって…突進してくれた」
「私は彼に向かって手を差し出した。差し出すだけ…」
“ゴシャアッ!!!”
「彼は錆びた剣で見事に私の頭蓋を真っ二つに、ぶち破ってくれた」
“……か……ん…しゃ…うる”
“おおおおおおおおおおおおお!!!!”
“ゴシャッ!!ベシャ!!メキメキャ!!”
「……私の謝意が彼に伝わる事と、きっちり死ねる事を祈りながら意識を手放した」
「翌朝、私は目覚めた」
“………………はぁ………”
「爽やかな朝の中、酷く落ち込んだものだ…一筋の希望も呆気なく失ってしまったからね」
「その後、街の惨状を散歩がてら見回った」
「兵士達は真面目に仕事をした様だった」
「徹底的に、隅々まで蹂躙し尽くしていた」
「建物を燃やし、壊して、道を掘り返し、塞ぎ、畑を踏み躙り、井戸には泥や糞尿が投げ込まれていた」
“…よく…やるものだ…”
「私はある種の感動を持ち合わせながら……裸で眺めた…」
「誤解しないでくれたまえよ。そんな趣味は無い。兵士達は私の服ごと身体を八つ裂きにしてくれたのだ…」
「散歩も…何か着れる物を探すついでだったのだよ」
「まぁ…布切れ一つ見つからなかったのだが…」
“帰ろう……”
「私は無人の街を後にして屋敷に向かおうとした」
“寒くないの?”
「…私は一つ勘違いをしていた。街は無人ではなかったのだ」
「声のした方を見下ろせば」
「煤に塗れた小さな少女が私を見上げていた」
“お嬢さん、ご機嫌よう”
“ごきげんよう、おじさま。ねぇ、どうして、すっぽんぽんのままなのかしら?”
“私は、おっちょこちょいでね。服を何処かに置いてきてしまったんだ”
“ふぅん。ねぇ、おじさん。もう一ついいかしら?”
“何だい?”
“どうして体がくっついているの?うぅんと、えぇと、きゅーけつきだから?”
“……そうだよ……お嬢さん………見てたのかい?”
“うん”
“…私が怖くないのかい?”
“何で?”
“…………私は怪物なのだよ?”
“そうね。かっこよかったわ”
“………ハハハ、お褒めに預かり光栄だ。お嬢様”
“良くってよ”
「…時に…子供達は…大人の勇気を軽々と超えていくものだ…」
“ところで、お嬢さん。親御さんは
“……はぐれちゃった……”
“………それは…すまない……では…お家は何処かな?”
“あれ”
「少女が指さした先には炭の山が積み上がっていた」
「山の下の辺りに小さな穴が空いてたので、そこから少女が這い出てきた事が推察された」
「私は小さな身体の少女の、その偉業に心を揺さぶられた」
「枯れていたと思っていた涙腺を刺激されたよ」
“…お嬢さん、我が家に招待しても宜しいかな?”
“……ええ、良くってよ”
“感謝致します……それでは…”
「私は少女に背中を見せながら腰を落とした」
“なにしてるの?”
“道が大変荒れているのだよ。そんな道を淑女を歩かせる訳にはいかない。差し支え無ければ、どうか私に身を預けてほしい”
“そうなの…わかったわ。おねがいするわ。おじさま”
“しかと掴まっていてくれたまえよ”
「私は裸で少女を背負って崩壊した街を風の様に駆けた」
「………中々に気恥ずかしい瞬間であった」
“……ねぇ、足の速いおじさま…まさか…丘の屋敷に向かっているの?”
“その通りだ。背中のお嬢さん”
「我が屋敷は遠目で見ても無傷だった。あの兵士達は私を八つ裂きにした後に直ぐに撤退した様だった」
「…我ながらの名演技をしたお陰で…屋敷を守る事に繋がったのは少しばかり誇らしかった」
“あの、お屋敷に住んでいるの?”
“ああ、そうだとも”
“じゃあ、おじさまがルスヴンさんなのね?”
“おや、私の事を知っているのかい?”
“ええ、お父さんもお母さんも街の人達も皆んな一日に一回は話していたわ”
“余り、良い噂ではないだろう”
“そうでもないわ…皆んな、皆んな、おじさまの心に安らぎがおとずれるように祈っていたわ”
“………………そう……だったのか………お嬢さん、ありがとう”
“どういたしまして”
「数十秒で屋敷に到着した私は、一度少女をリビングの椅子に座らせ、お茶を出した。少女がお茶を飲んでいる間に湯を沸かし、桶に入れ、裏庭に運んだ。そして、石鹸とリネンを手渡して、身体の煤を落としてはどうだろう?と提案した」
「少女は自らの髪を撫でつけて指に付いた煤を見つめてこう言った」
“おやまあ!ばっちい!”
“ふふ、そうだろう?綺麗にして、さっぱりしたまえよ”
“何から何までありがとう。おじさま”
“言いなさるな。当然の事だ”
“おじさまは紳士ね”
“お嬢さんが淑女だからね”
“おやまあっ!!”
「少女は可愛らしい悲鳴を上げて裏庭に逃げ出した」
「それから……」
「……………………それから」
ルスヴン卿の顔色が少しだけ良くなり目には穏やかな光が点っていた。
「少女との同居を始めて、あっという間に三年の歳月が経った」
「一応、断っておくが。その三年の間、ただ屋敷で無為に過ごしていた訳では無い」
「街の周りで少女の両親を探した」
「見つからなかったので捜索範囲を段々に広げた」
「隣街。その隣街。そのまた隣。隣の隣」
「それでも、手がかり一つ無し」
「なので、街の…少女の家だった物を掘り返した」
「怪力を手に入れたこの身体にも、煤や土を綺麗さっぱりに掘り返すのは至難の業だった」
「私と背の伸びた少女は頭の天辺から爪先まで真っ黒になっていた」
「這いつくばって山の底を手当たり次第に探っても…少女の両親の一欠片も残されていなかった」
“………お嬢さん………”
“……………私は大丈夫よ…”
“ここにいないと言う事は…お母さんもお父さんも逃げ切れたのよ”
“…待ってれば帰ってくるわ”
“…確かに…その通りだ”
“だから……大丈夫”
“私は大丈夫よ。おじさま”
“…私は大丈夫……”
「最後の一言は自分自身に言い聞かせてる様だった」
“帰りましょう。お屋敷に”
“……ああ…帰ろう”
「その晩、夕食を食べ終えた少女は直ぐに自身の寝室に入った」
「同居生活を始めて、そんな事は初の出来事であった」
「吸血鬼となった私は食事を必要とせず」
「日に三度の食事の時間は、美味しそうに頬を動かす少女を見ている時間であった」
「食事を堪能した少女は、その後は必ず私とお茶を一緒に飲んでくれた」
「お茶をしながら、その日起きた事、今まで起きた事、これから起きて欲しい事を話した」
「しかし、その日は食事も少しばかり残して」
“おじさま、ごめんなさい……もう休みます”
“いいんだ……よくお休み”
「…無理も無かった……」
「私は暗いリビングで久しぶりに美味くもないワインを呑んだ」
「アルコールの回る感覚を波打つ血管に感じながら独りごちた」
“………神よ………貴方は……何処までも残酷だ”
「酔った口からは恨み言しか出なかった」
“彼女達が…何をしたのだ……何の罪が……何の罰だ……”
“…………蘇らせるのならば……私では無いだろう………”
“彼女…や…少女の両親を……
“でなければ…私の信仰心は最早、敵愾心に裏返るぞ”
「傲慢なる小さな私は哀れな脅しを神に対して吐いていた」
「そんな我儘を言った所で…神も誰も動く訳無く」
“………………そっちが……その気であるのならば……”
「私は絡れる足をそのままに…二階……妻の寝室だった部屋の隣…あの…神父様から賜った十字架を放ってある部屋に向かった」
「部屋に行って…どうするか…何、至極単純…私は…私という存在は…ただ、ただ、食べるだけの、暴食するだけの存在」
「だから…ワインのつまみにする気であった」
「銀の十字架を」
「私は乱暴な手つきで部屋の扉を剥がした」
「そして、その勢いのまま十字架を噛み砕こう、としたが…それを止める者がいた…」
“今晩は随分と元気一杯ですね”
“貴方様”
「
「彼女が十字架を両手に携えて。月明かりの下。窓の側。きちん、と両足で立っていた」
“……やぁ、久しぶりだね。死に別れて以来だ。我が最愛の君。立っているが辛くはないのかね?”
「吸血鬼がいるのだ、今更、幽霊をミて動揺する私では無かった」
“ええ、ちっとも。体が羽より軽いわ”
「透けた笑顔が素敵であった」
“すまないね。きっと私が君の血をすっかり戴いてしまったからだろう”
“うふふ。きっとそうね。お味は如何でしたか?愛しの貴方様”
“苦くて、生臭くて、辛かった。まぁ、その、つまるところ”
“…つまりは…
“あらあら!それは良うございました”
“ハハハハハハハハ”
“フフフフ”
「嬉しかったよ。まさか、彼女が死んでから夢が叶おうとは」
「眩しい陽の光ではなく、静かな月の輝きではあったが」
「二人共、人間ではなくなったが」
「彼女と笑え合えれば…私は…それで良かった」
“フフフ…それで貴方様。どうして扉をむしり取ったのでしょうか?”
“ハハハ…少々、気が立っていてね!いや、何、今、憤りは半分になったが”
“貴方様が怒るなんて稀有な事ですね。もう半分はどうすれば収まるでしょうか?”
“きっと、その十字架を食べれば収まるだろうさ”
“まぁ!お腹を壊してしまいますよ?”
“構うものか!”
“私は既に人でなし!!”
“こんな身体!こんな身体になったという事は!きっと、きっと、神は居られるのだろうさ!悪魔の証明は、それと同時に神の証明に値するだろうさ!”
“しかし!唯一絶対にして万物の創造主は、何もかもを生み出した後は沈黙なさっている!”
“生前の君の病も!あの少女の両親も!救っては下さらなかった!”
“……私だけじゃあない筈だ!皆が望む事だ!当然の事だ!”
“私ではなく!私の家族!隣人をお救い下さいと!”
“だが、返ってくるのは無言であり、沈黙だ!!”
“だから!私は、その十字架を喰う!”
“その十字架には彼が磔にされておられる!”
“油をそそがれた者。神の子。世の光”
“故に尊き彼には…私の腹に入城してもらう!”
“そうすれば…教会の中より!暗い部屋の中より!世の中の悲劇を見てもらえるだろう!”
“神の独り子に見て戴ければ!神にも届くだろうさ!”
“故に!さぁ、その、十字架を渡しなさい!”
“憤りが半分になった今ならば噛み砕く事なく、丸呑みとしよう!”
「私は彼女と十字架に手を伸ばした」
「彼女は柔らかな優しく温かい笑顔のまま、こう言った」
“嫌ですわ。お馬鹿さん”
“へっ!?”
“全く、もう”
“私の伴侶。私の夫。私の唯一つの愛”
“十字架を丸呑みする必要などありません”
“そんな事しなくとも、主は見ておられましょう”
“何故だ!?どうして、君がそう言える?!”
“貴方ですよ、優しき旦那様”
“何を…!”
“お分かりになりませんか?”
“貴方が生まれて、生きて”
“私は貴方に出会えた”
“貴方という、光に”
“私は、もう、それで、救われてしまったのです”
“この身も心も、全部、貴方が救ってしまったのです”
“貴方こそが私の全てであったのです”
“そして主は、この運命をただ黙って見守り下さった”
“私にとって、この事実”
“貴方と出会えた奇跡が神の証明に他なりません”
“………違う!それは違うのだよ!”
“私なんだ!私が救われたのだ!”
“君が私を救ってくれたのだ!”
“フフフ!では、それで良いではありませんか”
“お互いに救いあった”
“なんて素敵な事でしょう!”
“嬉しい!嬉しいです!貴方に救われて!貴方を救えた!”
“私の人生は報われました!!”
“…ハッ…ハハハハハハ!!!”
“ウフフ。やはり貴方には笑顔が似合います!私の愛しき旦那様!!”
「笑いが止まらなかった」
「涙が止まらなかった」
「壊れた筈の心から温まりが溢れ出るのを止めたくなかった」
“はぁ、良かった……”
「半透明な彼女の身体がゆっくりと朧気になっていくのに、涙で気づくのが遅れてしまった」
“ああ……もう行くのだね…”
“はい、ゆきます”
“待っててくれたまえよ…私も直ぐに“それは駄目です”
“……駄目、なのかい?”
“はい。だって、貴方はまだ生きてますから”
“こんな状態で、そう言えるかい?”
“言えますとも!貴方の身体は文字通り半死半生かもしれませんけれど、けれど、けれど!心は違いましょう?”
“そう…だろうか…”
“そう、という事にしておきましょう”
“それに、貴方にはやるべき事があるでしょう?”
“あんな可愛らしい子を一人にする気ですか?”
“そんな事が出来る貴方様ではないでしょう”
“それに私からも一つお願いしたい事があります”
「彼女の死んでから初めてのお願いは唐突に」
「それを断れる理由が私にある訳がなく」
“なんだい?君の為なら何でもするよ。愛しい君”
“本当ですか?”
“本当だとも”
“本当に本当?”
“本当に本当”
“では、後妻を迎えて下さい”
“!!!!……………………nnnn………それは……厳しい…な…”
“そんな!私に嘘を吐いたのですか!?”
“それは卑怯だよ、君”
“手段を選んでられませんから”
“………せめて、理由を聞かせてくれ……”
“愛した貴方様に幸せな生活を望んでいるだけで御座います”
“それなら君との想い出があれば十分だ!”
“あっ嬉しい”
“………”
“うっゔん…では、少し変えましょう”
“…そうですね………………申しこまれた求婚を断らぬ事………これならどうですか?”
“こんな化け物に求婚する者が現れる筈がないだろう”
“……では、このお願いは聞いてくれますか?”
“…………”
“我が最愛の貴方様”
“………分かった。分かったよ。聞き届けた。我が最愛の君”
“ああ!ありがとうございます!!”
「半透明の体で、ぴょんっ、と跳ねた彼女は、心から嬉しそうであったよ」
“これで、心残りはありません!”
“…それなら良かったとも”
“………ふぅ……では、そろそろ時間です”
“時間…か…”
「彼女が、ふわり、と浮かんで、私を朧気な身体で抱き締めてくれた」
“逢えて良かった!出会えて良かった!”
“私の人生は貴方に出逢えて始まりました!”
“私は間違い無く幸福でした!!”
「私達は互いに愛と別れの言葉を送りあった」
“私だって…私だってそうだよ!”
“私の人生に意味を!意義をくれたのは君だった!君だけだった!”
“君との人生は哀しみ一つ無かった!!”
“私に愛を教えてくれてありがとう!!”
“ウフフフ!!さようなら!ご機嫌よう!!”
“ルスヴン!!死んでも愛しているわ!!”
“ううううぅ!!さようなら!!ありがとう!!”
“アイアンシー!!滅んでも愛しているよ!!”
「……彼女は満面の笑みを最後に見せて…去った」
「銀色の光が射す部屋には私一人に」
「私の胸には確かに彼女の温まりが残った十字架だけがあった」
“……ぅぅ……ぅ…”
「耳が痛くなる程に静かな部屋に一人ぼっちになった」
「…………だが…しかし…」
“…寒いのですか?おじさま”
「私は、また勘違いをしていた」
「一人ではなかった」
「少女は、みっともなく蹲る私の背中を、その小さな手で暖めてくれた」
「……彼女達は、こんな醜い化け物を一人にしないでくれた」
「……なんと……慈悲深き事であろう…か」
「とっくに死ぬ理由は消え去り…生きる、生きねばならぬ理由が明確に私の中にあった」
「少女を…少女が一人立ち出来る、その日まで」
「私は生きなくてはいけなかった」
「そうしたい、と思った」
「……………」
「妻との二度目の離別の夜から数年が経った」
「私と少女…いや、その頃には既に少女の殻を脱ぎ捨て大人の女性になりつつあった」
「私と
「…未だに街に人は帰って来てはいなかったが」
「それでも生まれ育った街が破壊されたままなのは、私も彼女も許す事が出来なかった」
「力仕事と汚れ仕事は勿論、私の仕事。私が壊して、建てている間、彼女は街の美観を丁寧に復元していた」
「主に彼女の努力もあって…無人の街ではあったが、きっと国一番に美しかったという自負がある」
「毎日、朝早くから…昼食の時間まで作業した」
「その後は彼女の勉強の時間であった」
「…殆ど私の我儘だ。彼女に様々な事を教えたかった」
「そうすれば、いつかの嫁入りに何の不安も無いと思ってのことだった」
「優しき彼女はそんな私の考えに意を唱えず、粛々と勉強に付き合ってくれた」
「屋敷にある全ての本を暗記し、言葉を覚え、言語を覚え、計算も速く、作物の作り方にも詳しく、世の情勢に詳しく、炊事家事なら何でもござれの素晴らしき女性…人間になってくれた」
「彼女は何をやらせても覚えが早かった。同居生活の最初は私が家の事をやらせて戴いていたが…その内に一割、二割、と彼女の配分が増えて、その時には七割もやってしまっていた」
「私のやる事と言えば屋敷の内外を上から下まで掃除をする程度だった」
「天井で逆様になって掃除してれば、彼女は昔と変わらぬ笑みを向けてくれたものだ」
“おやまぁ!蝙蝠みたいね、おじさま!”
“吸血鬼だからねぇ……ふふはははー!お嬢さんの血を吸ってやるぞぉ!”
“…どうぞ”
“いや、逃げたまえよ”
「…彼女は外見も…老いた私から見ても…美しくなっていった」
「金髪は長く、一本、一本、手入れされ纏り輝いていた」
「眉は薄く。睫毛は長く。瞳には静かな好奇心が煌めいていた」
「鼻筋が通った控えめな鷲鼻。一文字に結ばれた薄い唇。無駄が無く引き締まった頬」
「足も手も長く、それでいて健康的な太さであった」
「それら全てが彼女の知性と美性を感じさせた」
「時折、隣の隣街まで買い物に出かければ。すれ違う人間達は皆んな振り返ったものだ」
「…こんな
「随分と懐かれたものだ、と笑って肩に手を置くと、彼女は不機嫌そうな顔をした」
“…何か気に障る事をしたかな?お嬢さん”
“…………なんでもありません”
「なんでもないわけがない顔で、そう言われると、私には閉口するしか手が無かった」
「買い物に出かけた私達を人々が見れば、祖父と孫娘に見えた事だろう」
「そうとも。今と同じ様な年齢の姿に私はなり果てていた」
「思えば…私は…悍ましい吸血をしてから…何も食していなかった」
「時折、お茶と夜毎ワインを飲む程度」
「散々、試した自らの殺し方は、どうやら餓死が正解だった様だ」
「私に年齢などという尺度が当てはまるかはさておき、その時はまだ誕生して四十余年であった」
「実に効率良く死に向かっていた」
「そして…その歩みを止める気は無かった」
「少女は…彼女は確かに健やかに成長してくれたのだ」
「最早、化け物にやるべき事など残されていなかった」
「それからの一年の私の老い方は中々に愉快なものだった」
「雨垂れに砕かれ、風に突かれ、雪に潰された、朽ち果てた老木」
「まさしく私の事であった」
「見た目の年齢で言えば…百は優に超えていた」
「………いや…訂正する」
「そんな長生きの老人の姿ではなかった」
「普通の人間が、その時の私を見れば…青ざめて、こう叫ぶだろう」
「歩く死体、と」
「うん。これがしっくりくる」
「何年も経て、遂に外見と中身が揃った」
「やはり、化け物の姿は醜悪に限るだろうさ」
「少なくとも私自身は醜く有りたかった」
「そんな醜い私を彼女は見捨てないどころか…甲斐甲斐しく世話をしてくれた」
「朝は、ほぼ骨と皮と血になり軽くなった私を、彼女は、ひょい、と背負って蘇った街並みを散歩した」
“……降ろしてくれ”
“丁重にお断りします。あっ、綺麗な蝶ですわ!見えますか、お爺ちゃん?”
“まさか、私の事か?”
“他に誰かいらっしゃるのですか?”
“…………きれいだね”
「昼は、リビングのソファに私を置いて全ての家事をこなした」
“………よいせっ”
“何してやがるのですか?”
“げっ。うっゔん、言葉使いが乱雑だよ。お嬢様”
“あら、ごめん遊ばせ!”
“親愛なるおじ様が雑巾を持って天井に張り付いてらして、その上腰にはバケツまで括り付け。口には、はたきを咥え。ひっくり返って。それはそれは器用に掃除なさっていらしゃったので驚いてしまいましたわぁっ!!”
“サーカスにご入団なされたら如何でしょうかぁっ!!!”
“………まさか、怒ってるのかい?”
“まさか!?まさかですって!??”
“怒ってるのだね…”
“ええ、ええ。ええ!怒ってませんわよぉお!!!!!”
“降りるから…降りるから…落ち着いて”
“お早くお願い出来ますか!?!”
“ああ、それなら”
「私は、ひっくり返ったまま頭から飛び降りた」
“ぐぅえぃいいぎゃああああああ!!!?”
“彼女が潰れた悲鳴を上げて私を受け止めようとしたが…私は空中で身を翻し、姿勢正しく二本足で、ゆったりと着地した”
“ぬあああああああああああ!!!????”
「百点満点の着地をした私に、走り出した勢いを止められない彼女が迫ってきていた」
「可愛らしい弾頭が追突するまで目測二秒」
「その間に私は掃除道具を傍に運び、胸ポケットのハンカチで丁寧に手の汚れを落とした」
「そして、物凄い形相の彼女を受け止めた」
「勢いと衝撃を逃がす為に、くるくる回りながら彼女を横抱きにした」
「我ながら素晴らしき反応であった」
“大丈夫かい?お嬢様”
“何してやがるんですかぁあああ!???!?!”
“言葉使い”
“お黙り!!!”
「夕方には彼女お手製の料理が振舞われた」
“はい、あーん”
「広いテーブルであるのに、態々私の隣に座りスプーンを顔に突き出してくるのが彼女の日課だった」
“…お嬢さん。何遍も言った筈だが…私の分は要らないと”
“またまたまた、作りすぎてしまったのです!”
“あーこんなに沢山!私一人きりでは食べきれないわぁ!”
“誰かさんが手伝ってくださられなければ…大切な食べ物を粗末にしてしまうわぁ!”
“それ、私に言ってるのかね?”
“あーこまった。こまった。困りましたわぁー”
“才色兼備な君にも苦手な事があるのだね。勿論、その演技について言ってるのだが”
“あーーー誰か、男の人ー。お爺様ー。吸血鬼ー。何処かにいませんことーーー!?”
“止めたまえよ”
“後、吸血鬼を呼びなさるな”
“鬼ー。悪魔ー。腹ペコさーん”
“料理が残ってしまっても、私は構わないのだが…”
“構いますわよ!!ぜぇったいにいけません!許されざる蛮行ですわ!!”
“必死だね”
“はい!あーーーーーん”
“おや、演劇は終わったのかい?可愛らしかったのに”
“ぐぎぎぎぎ”
“歯軋りはやめなさい。真珠の様な歯を痛めるよ”
“ぎぎぎぎー”
“まさか、食べるまでやる気かい?”
“ぎぎー!”
“返事まで……器用なことだ…よし、分かったよ。食べるよ”
“ぎ?”
“ああ、食べるとも。だから、言葉を取り戻したまえ”
“やりました!!勝ちました!!!”
“うんうん。降参だ”
“うふふふふ!そうれ、あーーーん”
「私は影から使い魔である蝶の群れを呼び出した」
「蝶達は私の意を汲み、私の目の前の料理を全て吸って平らげてくれた」
「………いや、蝶が人の料理を食せる訳がない…そんな事は分かっているよ」
「だが、私に常識を求められても…ねぇ?」
“まぁ、綺麗”
“ではなくてぇ!!!!何ですか!?この子達はぁ!?いつの間にこんな奇術を!?”
“朝、君が綺麗な蝶に目を奪われていたろう?“
“それで閃いたら出来たのだ!”
“余計な事を!!朝の私ぃ!!”
“し、しかしですよ!?おじ様!食べる、と!食べると仰ったではないですか!?”
“私に嘘を吐いたのですか!?”
“食べるとは言ったが…私が、とは言っていない”
“あ”
“ははははは!!呆けた顔も愛らしいね!はははは!!”
“ううううううう”
“あ”
「彼女は真っ赤になって、大粒の涙をぼろぼろと零してしまった」
“うわぁーーーーん!”
「…彼女は、ありとあらゆる仕草が洗練されていたが…泣き方だけは出会った時と変わらなかった」
「私には、それが急所であった」
“お、お、お、おお。すまなかった。意地悪だったね!すまない!”
“うそついたあああ!!”
「成人間近の淑女が大声を上げて号泣しているのは、止まった心臓にも悪い程、迫力があった」
“どうか、どうか、泣き止んでくれたまえよ!!花の様に綺麗な顔が涙に濡れるのは忍びない!!どうか!どうか許してくれ!!”
“ひぐっひぐ!ぐっぐうううううううあう”
「美人が泣きながら睨みつけてくるのは、化け物の私でも戦慄が走った」
“おお、おお!お、お、お!!”
「泣き喚きながらも、まだ料理を掬ったスプーンを私に差し向けていた彼女」
「腕だけ彫像の如く、身じろぎ一つしていなかった」
「私は思考をぶん投げて、スプーンに残った一口を口に含んだ」
“んぐ”
“ああああーーーー!!”
「……数年ぶりの食事は…しかして、味を感じる事は出来なかった」
「が、彼女の真心は確かに染みた」
「…誠に美味であったとも」
“ふむ……美味しいよ。素晴らしい腕前になった。我が事の様に嬉しいよ、お嬢さん!”
“おや……まぁ……口を開いてくださいまし!!”
“信頼を失ったようだ……はい”
「彼女は凝視した」
“食べた。のですね……”
“食べたとも。一口だけね”
“……あらぁ…”
“これで許してくれるかな?”
“……ええ…ええ。ええ!!”
“良くってよ!!”
“それは重畳”
“さあ!!はい!も一つ、あーーん!!”
“それは君の分だろう……”
「なんとか彼女を宥めて、夕食に入って貰った」
“ところで……”
“んっ…何ですの?”
“この攻防は何故夕食の時だけなのかな?”
“?おじ様、吸血鬼でしょう?”
“ああ”
“ならば…夜でしょう”
“その心は?”
“雰囲気”
“……雰囲気……か”
“明日も召し上がって下さいね!”
“……………”
“お返事は!?”
“………………………………………………………”
“この爺ィ”
“言葉使い”
“黙らっしゃい!!”
「夜、夕食を終えて。彼女はお茶を飲みながら。私はワインを飲みながら歓談をしてから夜が更ける前に私は寝室に追い立てられた」
“別に眠くないのだが”
“はいはーい。目を閉じれば眠くなりますわよー”
「私はまるで子供をあやす様にベッドに寝かされた」
“……いやはや…”
“お本も読みますか?”
“おやすみ!”
“うふふ。おやすみなさいませ。おじ様”
“また明日、お会いしましょう”
「日々の終わりの平凡な挨拶……彼女の目には切実な祈りが込められていたが」
“大丈夫だよ。お嬢様。私は大丈夫だ”
“……ええ、そうね”
“おじ様は大丈夫”
“よくお休み。お嬢さん”
“お休み。おじさん”
「部屋の灯を消してから彼女は静かに寝室から去る」
「部屋の扉まで進んで、私がまだいる事を目視して…扉を閉める」
「…その後の彼女はいつも日が変わるまで勉強していた」
「何度か…気配を消して…影に潜んで彼女の様子を見ていた」
「読む本は全て医学の本であった」
「内科に外科に民間療法…はては魔術被りの物まで」
「……彼女の考えは分かるだろう?」
「その時の私も分かっていた」
「……どれだけ…残酷な事をしているのは理解していた」
「だが…どうしても…死ぬ事を諦められなかった」
「真実、私は人でなしだったのだよ…」
「一年の終わり、クリスマス」
「私の出鱈目な命は漸く風前の燈になっていた」
「待ち望んだ刻が来た私の心は……どう…だっただろうか…」
「すまない…覚えていない」
「穏やか?高鳴る?落ち込む?燃え上がる?」
「どれも、そうだったかも。どれも、違ったかも」
「…思えば…私は死に対して余りにも無抵抗だった」
「故に……」
「………………」
「止そう」
「言い訳は」
「怖かったよ。ああ、恐ろしかった」
「あれ程、焦がれた。あれ程、望んだ。あれ程、求めた」
「それが目の前になって。私は」
「震えて眠っていた」
「明らかな矛盾だろう?」
「何度も何度も自殺を試みた私が今更…」
「そうだな。今更、今、あの時」
「あの時は。私には隣にあの子がいた」
「彼女。親愛なる我が友。我が生徒」
「我が娘」
「彼女を前にして…私は迷っていた」
「彼女は私を慕っている」
「彼女は私を救おうとしている」
「彼女は私を見捨てないでくれた」
「そんな彼女を私は一人にするのか……」
「無償の愛の返礼に空虚な死を」
「それが人間の…仮にも人間だった者がする事か…」
「私は彼女の為に死にたくなかった」
「だが。だけどね」
「
「そうしなくてはいけない理由があった」
「彼女は…彼女には…友人一人いなかった」
「彼女は屋敷から一日以上離れた事がなかった」
「彼女は人生の半分以上この化け物と一緒だった」
「孤独だ」
「窮屈だ」
「異常だ」
「全ては私の責任であり、咎であり、許されない罪だ」
「私は彼女の肉親ではない」
「たまたま、あの日に灰かぶりの彼女に出逢ったに過ぎない」
「私は彼女を離すべきだったのだ」
「私は彼女を遠ざけるべきだったのだ」
「いくらでも、いくらでも方法はあった」
「どう思われようと、何をしようと、彼女を人間社会に帰すべきだったのだ」
「それをしなかったのは己が弱さであった」
「彼女は、この化け物、この一匹の吸血鬼を恐れないでくれた」
「隣にいてくれた」
「私は、その優しさに甘えてしまったのだ」
「結局、私は独りになるのが嫌だったのだ」
「餓鬼だ。糞餓鬼」
「呆れた幼稚さであった」
「彼女をこの餓鬼から解放せねばならなかった」
「彼女は優しい……」
「私が生きてさえいれば……ずっと、この監獄に有り続けるだろう」
「きっと、そうする」
「だから…私は死なねばならぬ」
「彼女を縛りつけているのは他ならぬ私だ」
「絶対に破壊する必要があった」
「我が娘の自由の為に」
「我が娘の尊厳の為に」
「我が娘の人生の為に」
「絶対にやり遂げなくては」
「この私の為に一刹那だって、これ以上使わせなくはなかった」
「彼女は素晴らしい」
「掛け値なく素晴らしい」
「ここから出ていけば」
「こんな処から抜け出せれば」
「こんな私から離別できれば」
「彼女は素敵な人生を歩めるのだ」
「友人も、仕事も、趣味も、信仰だって持てるだろう」
「そして、恋をして、愛を知り、家庭を築くだろう」
「そうすれば、その頃には、私の事など綺麗さっぱり忘れられるだろう」
「私など…揺れる影法師」
「華やかな人生になんの役にも立たない!!」
「あってはならなかったのだ」
「速く、早く、してくれ」
「運命よ、私を終末へ導いてくれ」
「私がこれ以上、望まぬ様に」
「彼女との日々を!」
「私にこれ以上、奪わせないでくれ」
「
「…………私はベッドに寝そべり…指一本動かせぬ身で焦っていた」
「死を急かしていた」
「死にたくなかったが…死ななくてはいけなかった」
「どちらも…彼女の為…と傲慢にも考えていた」
「恐怖と怒りと焦りに震えながら…寝ていると…扉が無造作に開け放たれた」
「その先に彼女が直立していた」
「肩で息をして…私を睨みつけている」
「目で射殺す如く」
「そして、口を大きく歪めて怒鳴った」
“ルスヴン!!!この愚か者!!!”
「彼女は激怒する」
「しかし、私には何の事か分からなかった」
「故に…申し訳なかった」
「彼女は理由なく怒る訳が無い。私が、それこそ致命的な失敗、不手際を起こさねば」
「だが…私は考えても思い起こせなかったので…最悪だった」
「一番、拙いのは…失敗を失敗と理解していない事」
「今回、それが起きてしまったのだと」
「私は…猛烈に謝罪したかったが…身体は動かず」
「言葉を絞りだすだけであった」
“す……ま…ない“
“黙りなさい!!何も理解していない癖に謝罪などするな!!!”
“これはどう言う事!!!!!”
「彼女は何かを床に叩きつけた」
「それは本であった」
「書斎の隠し金庫の中身であった」
「その本には世界中の吸血鬼の伝説、噂、伝承が網羅されている」
「私の個人的な研究書であった」
「…それが見つかってしまった」
「身体が動く内に焼却するべきであった」
“ルスヴン!!!これは!これには!!吸血鬼の在り方が全て書かれていた!!!”
“ごちゃごちゃ色々とね!!”
“重要なのは!!”
“一番最初!!そこに書かれていた!!”
“不老不死!!!!”
“老いず、死なず!”
“巫山戯るな!!”
“ならば!!!その姿は如何なる事!!?”
「私はずっと彼女を誤解させていた」
「吸血鬼は…力持ち。怪我なら治る。ただ、それだけの化け物、だと」
「そして…」
“頭を殴られた衝撃だった!!”
“吸血鬼は何百年と生きる者!焼こうが煮こうが毒だろうが死ななない!!”
“絶対に死なない!!”
“病なども当然無い!!”
“よくも!!よくも!!今まで!!”
“どんなに私の心が引き裂かれたか!!”
“貴方に分かるものか!!!”
“うううああああ!!!!”
“それだけなら!!ここまでの怒りは無い!!”
“一番、一番!!私を怒り狂わせるのは
“このワインだ!!!”
「あのワイン」
「それを彼女は手にしていた」
“信じてた!信じたかった!”
“だけど!一度、胸に落ちた疑念はインクの様に染み渡った!!”
“何もかも!!確かめられずにいらなくなった!!”
“吸血鬼ルスヴン卿!!!”
“私は貴方のワインを口にした!!”
“…………ぁ……ぁ”
“貴方が血の酒だと言っていたワインを!!”
“だが!真実は!!真相は!!この瓶の中身は!”
“ぁぁああ!!!
“血なんて一滴たりとも入ってないんだろうがぁ!!!”
“答えてみろ!!吸血鬼!!!”
「答える事はなかった」
「全て、彼女の言った通りだから」
「……私はずっと、彼女に嘘を一つ吐いていた」
「私は…吸血鬼ルスヴンは…この血の入った酒が主食だと」
「これがあれば…私は大丈夫だと」
「誤解、虚偽、虚飾、拒食」
「それが…今際の際に全て暴かれた」
「暴いてしまった…」
「彼女は憤怒に染まった顔を涙で濡らしていた」
「私は私を殺したくなった」
“………す…ま…な…ぃ”
“黙れ!黙れ!!黙れ!!!”
“……ゆ…る…し……て……く…れ”
“許さない!!!絶対に!!!”
“私は許さない!!”
“貴方が死ぬ事を許さない!!”
“死んで逃げるな!!”
“私から!!自分から!!罪業から!!”
“苦しんで死ぬくらいなら!!”
“苦しみながら生きよ!!”
“生きれるのならば生きるべきだ!!”
“そうするべきだ!!”
“そうしなくてはならない!!”
“私は叫ぶ!!”
“私は伝える!!”
“貴方に!”
“貴方へ!”
“他ならぬ貴方!!私を、私の心を創り上げた貴方!!”
“この想いも!!この考えも!!この意思も!!”
“貴方が!!創った!!”
“その貴方が!!貴方自身を裏切るなぁ!!”
“私を見ろ!!”
“貴方が創った私を見よ!!”
“私の目を!!私の手を!!私の成し得る事を!!”
“とくと見ろ!!吸血鬼!!”
“そして、呑み込め!!”
“貴様が創り上げた娘の血潮を!!!”
「…彼女は隠し持っていた短剣を右手に持って…空の左手を突き刺す」
「そう、しようとした」
「そうはさせなかった」
「私の身体は動かないと思っていた」
「怪力も風の様な俊敏さも消えたと思っていた」
「事実、そうだった」
「だが…あの瞬間。咄嗟に私の身体は応えてくれた」
「彼女の手を奪った。彼女の短剣を奪った。彼女の自由を再び奪った」
「その勢いのまま、短剣を天井に投げ捨てた」
「不協和音を上げながら短剣は天井に深く突き刺さった」
「次の瞬間。仕事を終えてくれた私の体は」
「四肢から崩れた」
「私の両手両脚は文字通り崩れて塵になった」
「土は土に。灰は灰に。塵は塵に」
「私にはお似合いの有様であった」
「私は自らの胴体を床に落としてしまった」
「そのまま落ちたならば…今頃、私は故郷の土くれであっただろう」
「そうはならなかった」
「彼女が必死に受け止めてくれたからだ」
「音を立てて、彼女は私の一部だった砂の上に腰を落とした」
「彼女は強く、強く、抱き留めてくれた」
「しかし、悲しいかな。その慈善にすら私の身体は耐える事が出来なかった」
「彼女に触れられている処から、さらさら、と崩れ始めた」
「砂時計の様になった私の残り時間は最早残されてはいなかった」
“ああああ!!いや!!やだ!!やだやだ!!”
“いかないで!!いかないで!おじさん!!”
“落ち着いて。お嬢さん。大丈夫。私は大丈夫だよ”
「彼女の涙が口に落ちたお陰で私は以前の様に話す事が出来た」
「それ以外は散々たるものだったが」
「倒れ伏した砂の人形は、ただ、お喋りするのみになっていた」
“とめて!!これを!!とめてよ!!”
“しんじゃう!!ほんとうにしんじゃうわ!!!”
“すまなかった。嘘つきな私ですまない”
“あやまるな!!”
“もうそんなこと!!ほんとうはそんなこと!!”
“どうでもいいの!!”
“ゆるすわ!!ゆるしていたわ!!”
“だからいかないで!!”
“わたしをひとりにしないで!!!”
“おじさんひとりでいかないで!!!”
“すまない。生きることができなくて”
“だけど、だけどね”
“私には、もう未練は無い”
“一欠片の後悔も”
“全部、君が叶えてくれた”
“全部、君が暴いてくれた”
“君のお陰で私は堂々と死を迎えられる”
“ありがとう。お嬢さん”
“だめだめだめ!!”
“まだ!!まだよ!!”
“まだ、私は大丈夫じゃないわ!!”
“まだ、一人で生きていけない!!”
“まだ、そばにいてよ!!”
“それだけでいいの!!”
“あなたがいるだけで、わたしはなんでもできるの!!”
“でも!!”
“あなだがいなきゃ!!!なんにもできないの!!”
“そんな事は無いよ。断じてね”
“君は素晴らしい”
“掛け値なく素晴らしい”
“君は私が願った以上に素晴らしき人間になってくれた”
“だから…ね”
“ここから去りなさい”
“わたしから去りなさい”
“人々に出会いなさい”
“人々と生きなさい”
“そうするべきだ。そうでなくては。そうすれば”
“君は全てを手に出来る”
“君を知らぬ人間はいなくなる”
“君をよく知る友人が出来る”
“君を愛して、君に愛される人”
“かけがいのない人間に必ずや出逢えるとも”
“私にとっての君の様に”
“そんなの………”
“そんなことむりよ…”
“そんな事ない”“いえ…そうじゃないの…むりなの”
“ここにあるの”
“ここがそうなの”
“貴方がそうなの”
“おじさん”
“おじさん”
“ルスヴン”
“貴方がそうなのよ”
「そう言ってくれた彼女のなんたる美しさであったか」
「私にはそれを表現できる自信も、言葉も無い」
“ルスヴン。貴方がそうなの”
“貴方が私のかけがいのないひと”
“私の愛する人”
“貴方こそが私の全て”
“貴方なしでは私で無いの”
“………莫迦を言うな”
“こんな老耄。こんな悪魔。こんな化け物。こんな怪物に”
“そんな事を言ってくれるな”
“馬鹿は貴方よ”
“私の心が分からないの?”
“………………やめてくれ”
“あの日から”
“頼む……やめてくれ”
“出逢えた日から”
“やめるんだ”
“貴方だけが…私の”
“…私の運命”
“…………やめろ”
“ずっと、ずっと”
“やめろ”
“お慕い申しておりました”
“やめろぉ!!!黙れ黙れ黙れ!!それ以上!!口を開くな!!”
“君は恐ろしい事を!!恐ろしい事を言おうとしている!!”
“やめろ!!やめるんだ!!やめてくれ!!”
“愚か者に成り果てたいのか!!?”
“そんな事するな!!そんな事してはいけないのだ!!”
“もう私に話しかけるな!!!“
“頼む!!頼む!!!お願いだ!!”
“ミナ!!!”
“ルスヴン。私と結婚してくれませんか?”
“…うううああ!!!……………ああ!………………ぁあああ…”
“…………なんて、ことを……”
“どうして…今なのだ!”
“今だからよ…さぁ”
“答えて。定められた返事を”
“…………まて……定められた……だと……”
“まさか…君”
“卑劣な私を赦して下さい”
“そうです”
“あの夜に…私も奥様との約束を聞いておりました”
“それどころか……”
“奥様はこんな私に機会を下さったのです”
“あの約束は私の為に”
“小さな少女の初恋の為に”
“あの夜、奥様は私を見つけて…見つめて”
“微笑んでから”
“あの約束を貴方にして下さったのです”
“あの夜に奥様と約束したのは私もそうだったのです”
“約束は今ここに”
“貴方と私を追い詰めたのです”
“ルスヴン。愛しい人。可愛い人”
“どうか、私に返事を聞かせて”
“……聞くまでもないだろう…”
“答えは一つしかないのだから”
“それでも貴方から聞きたいのです”
“貴方の口から”
“貴方の言葉で”
“貴方の声で”
“……ああぁあ”
“すまない”
“こんな事になってしまって”
“君をここまで…追い詰めてしまって”
“言うよ……答えるよ”
“ミナ……喜んでお受けする”
“ああ!!!あああ!!!”
“うれしい!!うれしいわ!!”
“……すまない”
“何を謝るのですか?”
“私は今!幸福の絶頂です!!”
“………すまない”
“だから!!大丈夫ですって!!”
“私は…だっ…いじょうぶ……ぅぅく”
“ぐくくくううううう”
“ううううあああぁああ、くぅうう”
“………
“私も幸福だよ……嘘偽り無く”
“我が愛。我が妻”
“私のミナ”
“うわあああああん!!!
“私のルスヴン!!”
“いいかい。妻よ。よく聞くんだ”
“残された時間は少ない”
“うぐぐぐ……なぁに……?”
“良い
“一つ、お願いがある”
“……莫迦な事は言わないで…”
“いいや、莫迦な事を言う”
“聞いてくれ”
“………………”
“君の血を私にくれ”
“……ぇ……………”
“私に君を食べさせてくれ”
“………駄目…だろうか?”
“そんな!!!喜んで!!!喜んで!!”
“この身を捧げるわ!!”
“そこまでは……”
“いや、ありがとう”
“では……指を私の口に…牙に当ててくれ”
“鋭いから気をつけるのだよ”
“ええ、分かったわ”
“宜しい”
“………いいわ………”
“どうぞ、召し上がって”
“ああ、いただきます”
“…二度目の吸血は甘かった”
“甘くて、甘ったるくて、夢のように甘美だった”
“彼女の心の味だったのだろうか…”
“私の心の錯覚だったのだろうか…”
“夢見る乙女の味は砂糖一杯の味だった”
“……っ…”
“ど、どうかしら?”
“美味しい?”
「少し切った指から滴る血を全て舐めていた」
「汚らしい怪物の食事風景」
「それを前にして…」
「自らの生きた血の味を気にする
「私には甘すぎる」
“……あまい…”
“ああ、そうなの”
“お菓子食べ過ぎたかしら?”
“ふふふ……”
“うふふ”
“最期の晩餐には丁度良かった?”
「妻は少し枯れた声で問う」
「しかし、それは…全くの見当違いであった」
“さいごではない”
“………優しい人ね”
“待ちたまえ”
“……いいのよ”
“違う。そうじゃないんだ”
“最期に誤魔化さないで”
“だから…最期ではないのだよ。我が妻よ”
“私は
“そして、
“我が妻。我が伴侶。我が愛”
“……
“…………はえ…たの…?”
“生えるさ。私はなんだ?君の夫はなんだい?”
“可愛い奥さん”
“………吸血…鬼”
“吸血鬼。吸血鬼!”
“なんて出鱈目なのかしら!!”
“巫山戯た身体!巫山戯た存在ね!!”
“は、は、はははは!!”
“返す言葉も無い!”
「彼女の指を口から外して」
「
「彼女と目線を合わせる様に座った」
“可愛い君”
“全く……これでまた死は先送りだ”
“妻一人を残して…私が死ねるものかね”
“それだけは出来ない”
“残される痛みは嫌と言うほど知っているからね”
“それも君にはお見通しだろうが”
“ええ、貴方は優しい人”
“底抜けに優しい”
“だから…結ばれてしまえば…もう少しは生きてくれる、と”
“今は安心しています”
“………しかし…………本当に……良かったのか?”
“……手段と目的が逆転してしまったけれど…”
“貴方を想う心に…偽りなど……”
“……
「今更ながら…頬を赤く染めた…奥さん」
「美しい髪も御顔も…しっちゃかめっちゃかになっていたが……」
「………昔と変わらず…愛い娘だった」
“好きな人と最期に結ばれて”
“最期の想い出を胸に生きていくつもりが”
“貴方の化け物的性質にひっくり返されました”
“なんですの?その身体?”
“なんだろうね?この身体”
「コップ一杯にも及ばぬ…僅かな血液で私の身体は五体は完璧に揃っていた」
「そして…手の甲の皺を見るに…幾らか若返ってもいた」
“……愛の力ですわ!”
“そんな御伽噺みたいな…”
“御伽話の登場人物が何を仰るのですか”
“…………まぁ……そうだね”
“ところで……まだお腹は空いてませんの?”
「彼女が赤く染まっている左手の薬指を挙げた」
“…………………………よりにも、よって……………その指だったのか…………”
「私の牙の傷跡が…まるで指輪の様になっていた…」
“えへへへへへー”
“意外と余裕があるなぁ!君!”
“まさか!!……………まぁ、何年も妄想した場面ではあるので……”
“計画的求婚だったのか…”
“むしろ、無計画的求婚があってたまりますか”
“…………はぁ……手を此方に……”
“あら、お代わりですか?”
「彼女の左手をとる」
「まだ血の滲む薬指を舐めた」
“違うよ…君の美しい指に痕が残るのは忍びないからね”
「吸血鬼の回復能力は無論、私の体液にも存在する」
「故に傷など舐めてしまえば」
「一瞬にして塞がった」
“あーーーー!!!”
“どっどうした!?痛いのか!?”
“何で消したのですかーー!?!?“
“何でって……傷痕なんて無い方が良いだろう?”
“余りにも不粋!野暮天!!”
“えらく言いなさる”
“もう!!浪漫が分からない人ですね!!”
“私の旦那様は!?”
“…すまない…ね”
“はい!!”
「再び、薬指を私に差し向けてきた」
“いやはや……”
“噛んでください!!”
“断る”
“今更ぁ!!?”
“貴方、何年振りの食事ですか!?”
“あんな微々たる量で足りる訳無いでしょう!?”
“胸一杯”
“黙りやがって下さい”
“酷いなぁ”
“さぁ!さぁ!!さぁ!!!”
“おあがりよ!!”
“…実は…実はねぇ……胸焼けして…気持ちが……”
“んな訳あるか”
“…………………”
“…………………”
“黙って…指を口に突っ込もうとするんじゃない”
“口を閉じたまま喋らないで下さい”
“無駄に器用な人ですね。我が夫は”
“本当にお腹一杯だから………満腹だから………”
“こんのぉ!!力が強い人ね!!”
“やめたまえよぉ………”
“グゥーーーーーー”
「…………吸血鬼にも腹の虫が生息しているなど想像出来ず」
「そして、どうやら、私の虫は…大物だった」
“…………………”
“…………………”
“………ぐぅうう…”
“無理がありますわよ”
“ほらぁ!!ほらぁ!!!!ほらほら!!”
“やっぱ、お腹空いてるじゃないですのーーー!!!!”
“観念しなさい!!!”
「今までの人生で感じた事がない程の空腹感」
「飢えの大波が私の腹と喉と口を襲った」
「如何して今まで我慢できたのか…まるで理解できなかった」
「……甘い血は中毒性があるのか…と訝しんだ」
「今…思えば……何百年も経て…今思えば…」
「目の前の可愛い娘。愛。伴侶。妻」
「そのお人に…誘われれば…欲望も爆発するだろうさ」
“ぅぅぅぅ……”
“えっ、ず随分、苦しそうなのだけど”
“えっ、えっ、うえっ”
“まさか、まさか、またしんじゃわないわよね……”
“ダイジョウブダ!!!!”
“ひぇ、やっ野生的な感じも……いいわね…”
“……ィマ…トキメクナ……”
“兎に角!!早く!!お食べになって!!?”
“ダメダ!!!!”
“意固地になって!!!早く噛んじゃいなさい!!”
“チガウ!!……ユビハ……マズイ…!”
“えっ不味いの!?!えーーー!!?”
“ソウジャナイ……ユビハ……カミキッテシマウ……”
“あっ…………痛そうね”
“…………そうだ………では、ここなら?”
「彼女は衣服をずらして…首筋を覗かせた」
「頚動脈から美味そうな音がした」
「首元からは甘美な香りが立っていた」
“ここなら血も大量だし噛み切れる事も無い”
“穴が空いても…治してくれるでしょう?”
“何より貴方の顔が近くなるわ”
“どうせなら、近くで見たいわ”
「彼女は私の為に医学を必死に勉強していた」
「…それが…こんな形で役に立つとは…ね」
「人生は解らぬものだよ」
“ダイ…ジョウブ…ナノカ?”
“………失血死になる前には止めるわ”
“だから、止めてね”
“間違って殺さないでね”
“まだ、貴方と生きていたいのだから”
“ルスヴン。私を見ててね”
“貴方が止めなきゃ”
“私、
“さぁ、おいで”
“……分かったよ……ミナ”
“いま、ゆこう”
「私はゆっくり、ゆっくりと丁寧に彼女の首に牙を立てた」
「彼女の胸の高鳴りは心地良かった」
「私は何もかも満たされた気持ちになった」
「事実、その後、そうなった」
「翌朝、私達はベッドの上で転がっていた」
「……まぁ、そう言う事だ……」
「情け無い話だ」
「食欲を満たした後に……それ以外も満たしてしまった」
「節操が無いにも程がある」
「それはもう!己を責めたさ!」
「私はベッドの上で、ぼんくらな頭を抱えていた」
“……むにゃあ………”
「気の抜ける声が横からしたので見てみれば」
「彼女が無様な寝顔を私に晒していた」
「髪の毛は荒れ果て。体は生まれたての様に。顔はもちゃっ、と潰れていた」
「………私は現実逃避の為に彼女の潰れた顔を撫でくり回した」
“うーーん。なぁにぃよぉ”
“おはよう。我が奥さん”
“ぅぅん?…………キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアーーーーーーー!!!!”
「彼女のかん高い叫び声で部屋が揺れた」
「何だ、案外うぶな所があるじゃないか、と微笑んで部屋の隅っこに飛んだ彼女を見つめる」
“えっえっえぅええええーーーー!!!?”
“今頃、恥ずかしくなったのかい?”
“昨晩以上に恥ずかしい事など無いだろうに”
“あっいや!!昨日は幸せでしたとも!!確かに恥ずかしかったけれど!!”
“そんな事より!!そっそそそその姿は何ですか!???”
”うん?姿?…………どう、見えてるのかなぁ?”
“目の覚める様な!!彫刻の様な!!陽の光の様な!!”
“言葉では言い尽くせないわ!!”
“ああもう!!兎に角!!兎に角、絶世の美青年よ!!見ているだけで顔が熱くなるわぁ!!”
“………へっ?”
“手の甲を見れば…成る程、確かに数十年前の瑞々しさが戻ってきていた”
“……まぁ、彼女の評する所は…言い過ぎだと、思うが”
“………おや、まぁ”
“こっちの台詞よ!!”
「その後、私達は共に在った」
「人生を二人で分かち合った」
「実に幸せであったとも」
「言葉では言い尽くせぬ程に」
「最期は私が彼女を見送った」
「お互いに年老いた姿であったが……笑い合って別れる事が出来た」
「彼女……ミナとは一番付き合いが長かった」
「……別れる刻、彼女も一つの約束を遺した」
“生きれるのならば生きるべきです”
“きっと、そうしてね。あなた”
「私は生存する事を途中で投げ出す事が出来なくなったのだよ」
「その後の、この吸血鬼の人生には…常に隣にいてくれる人がいた」
「皆んな、私を独りにしないでくれた」
「皆んな、死が別つ刻に約束を遺してくれた」
「麗しき妻達との約束は総じて十二!」
「その約束と思い出が今の私を生かし創り上げ、歩ませている!」
「『吸血鬼ルスヴン卿』は私一人では有り得ないのだ」
「……そして……」
「そして、先月、私は妻を見送ったばかりだ」
「
「次の花嫁は…貴方から探してみては、とね」
「故に、私は此処にいる」
「水木君、それが私がこの国に来た理由だ」
「私は、この極東に花嫁探しに来たのだよ」
「この国に着いて…
「君達が居た。貴方達がいてくれたのだ!」
「旧き一族の親子と……平凡な人間!」
「故にご挨拶をした!」
「その後に!君が平凡だと名乗ったので…平凡だった私の物語を話したくなったのだ!!」
「ここまで…私と彼女達の話を家族以外に話したのは…君で
「どうか、忘れないでくれたまえよ!!」
「私と…何よりも麗しき彼女達を!!!」
「長い、永い物語をね!!」
長大な物語の一部分の幕が下がる。
割れんばかりの拍手も、
何故なら、しかと、俺の魂に焼きついたからだ。
「忘れたくとも忘れられませんよ」
「はははは!!そうだろうね!!こんな珍妙な話は!」
「珍妙だなんて、とんでもない」
「美しい、ただ美しい話だと思いましたよ」
「涙は流れませんが…笑みが浮かぶばかりですが…」
「俺は感動しました」
「そして、貴方の教えを胸に刻みましたよ」
「『吸血鬼ルスヴン卿』」
「は、は、は、はは……ありがとう。水木くん」
「私達、化け物に…君は優しいね」
「違いますよ。貴方達が優しいのです」
「俺は…それを返しているに過ぎません」
「…ふぅ…やれやれ……余り、言ってくれるな」
「歳を取ると……涙腺の締まりが悪くなるのだよ」
「そうでしょう?目玉の親父殿」
隣で、ずっと動かずに黙って聞いていた親父に目を向ける。
「…………………」
親父さんは何も言わずに流れる涙をそのままにしていた。
小さな身体は涙の泉に浸かっていた。
「……黙って泣いてる………」
「…………」
サーーーーピチョピチョ
桜の木の元で…清流の様な音が流れる。
「此方をどうぞ。翁」
ルスヴン卿がハンカチを差し出す。
「がだじげない。卿」
ぐちゃぐちゃの声を出して受け取る親父。
「ひぐっひぐっ」
しゃくり上げて自分の目玉を拭くのに難儀している。
「あぁ……親父。貸してくれ、俺が拭うからさ」
「ずまんのう、みずぎ」
ハンカチを受け取る。
「やれやれ…ふふ」
「こうして涙をハンカチで拭うのは久しぶりだな…親父さん…」
「ぐおおおお!!」
「なんで号泣するんだ!?」
「なんでいまいうんだあ〜〜」
「察するに君が悪いのでは?水木君」
「えぇ……」
「そうかねぇ、鬼太郎?」
右手で涙の洪水な親父を拭きながら。
空いた左腕の中で眠っている鬼太郎に問う。
お茶を飲んで、お菓子を食べて、話の途中で俺の所に潜り込んできていた。
「けけ……け……」
どうやら夢の中で笑える事があった様だ。
それは良い事だ。
夢くらいは、ずっと楽しいくらいで丁度良いだろう。
「……よく寝てるなぁ…」
「ふふふ!可愛らしいねぇ!」
「さて、と、長話しすぎた!これ以上迷惑は掛けれまい!」
すらり、と立ち上がるルスヴン卿。
「あっ、お待ちを…ハンカチ…濡れてしまいましたが…」
「いや、いいんだ。次の機会に返してくれたまえ!」
「まだまだ、この街にいるつもりだ!」
「また、お邪魔させて戴くやもしれん!」
「だから、その時まで持っていてくれ」
「そうですか。きっちり、洗濯しておきますね」
「ふ、ふふ!ありがとう!」
「さぁ、ベオ!後片付けは…終わってる!流石はベオ!」
「勿体無いお言葉」
「では!行こうか!」
「では!では!ご機嫌よう!水木君!目玉の親父殿!鬼太郎君!!」
「再び逢う日まで、ご機嫌よう!!」
「同志達よ!!」
堂々と二人は歩いて去った。
忘れ難い物語を残して。
「ひぐぅ、おぐぅ…」
「大丈夫か?親父さん」
「ぐぅ、ぜんぜん、だいじょうじゃないぃ……」
「………花粉症か?」
「ちがうひぐっわぁい!ひぐっ」
「ははは、冗談だ!」
「さぁ、俺達も帰ろう!」
「飯を食べれば涙も引っ込むさ!」
「おぅ、帰ろう…みずきぃ。ありがとなぁ」
「……こちらこそ、だ」
ゲ。ゲゲ。
場所と時間と語り手を変えまして。
ここは大都会の路地裏。
燦めく大通りの光を吸い込んで無闇矢鱈に広がる枝道。
そこに吸血鬼と、その従者が歩いています。
「いやぁ〜!やはり異国の地は歩いているだけで楽しいねぇ!ベオ!」
「左様で御座いますね」
「ふ、ふ、ふ!そうだろう!そうだろう!」
吸血鬼が懐から銀の懐中時計を取り出した。
「おやまぁ!こんな時間か。すまない。歩き過ぎたね、ベオ」
「早い所、宿に戻って夕食にしよう」
「ご主人様。恐れながら……ワインの残量が心許無くなっております」
「………そうか…彼女の遺してくれた時間も…そうは無いか」
「出来るなら急いで…花嫁を探さないと…か…」
「ご懸命な判断です」
「……いると思うかい?この地に?」
「ご主人様の魂のお姿を見れば…花嫁の一人や百人」
「止めてくれ」
「失礼致しました」
「あっいや!別に気に障った訳ではない!」
「存じております」
「……あぁ、そう……はは…では、行こうか…」
「はい」
「血液なら表に出ればあるじゃないか」
「無礼者!!!」
「…貴君、何者だ?」
吸血鬼と、その従者が路地裏の濁った闇に相対した。
「まだ、だれでも、なにでも、ない」
「それを思い出そうとしている最中だ」
「……そんな君が私達に何の用かね?」
「いや用など無い」
「ただ強そうだな、と思っただけだ」
「使ってみれば楽しそうだ、と思っただけだ」
「ugggggggaaaaaaa!!!!!!」
「grrrrrrr」
従者の声が夜に響いた。
「いいな。実に良い。君一匹で何人殺せるかな?」
「待て、ベオ」
「rrr……」
「良い子だ」
「なんだ止めるのか?それを
「我が友を畜生の様に呼ぶな!」
「今宵は気分が良かったのだ…故に警告してやろう」
「このまま去るか」
「或いは」
「私に蹂躙されるか、だ」
「私の妻との約束に」
《敵は徹底的に退けなければならない》
「があるのだ」
「故に、私と戦えば…徹底的に貴様をぶち壊してやるぞ…
好々爺の周りに死の運命が舞い始めた。
吸血鬼。
それを相手に夜に戦うなど無謀の極み。
「………………」
「さぁ!…どうするね……」
「……いいよ。ここはいなくなってあげよう」
「かんのいいじいさんはきらいだしね」
「あまいじいさんだ。あまい、あまい」
「ぼくとおなじでころすしかのうがないくせに!」
「UUUUGGGGGGAAAAAA!!!!!!!!」
「じゃあねぇ」
無邪気な声を最後に見えぬ声の主は消えた。
「……凄い国だ!!日本!!」
「……gr…何故、喜んでおられるのですか…」
「あんなのが!!あんなのが!!今更!!この時代に生まれるなんて!!」
「一体、何なんだこの国は!!?」
「は、は、は、ははははははは!!!」
「…………ふ、ふ、ご主人様が愉しそうで何よりです」
「だが、こうしちゃいられないぞ!!ベオ!!」
「君の腹拵えが終わったら、直ぐに
「お気遣い、誠に有難う御座います」
「さぁ!さぁ!飛んで、飛んで、宿に戻ろう!!」
「畏まりました」
二人は、あっという間に夜の空に消えた。
何かが生まれて、何かが起きようとしていた。
それを見ていたのは自分達だけであった。
ゲ。ゲゲ。
ご拝読ありがとうございました。