墓場より   作:ひノし

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第四十三話

暦の上では秋だと言うのに、厳しい日差しは一向に治まることを知らなかった。

 

近所にて。

家から五分程にある見た目以上に深い川。

その川には、いつ架けられたかも分からない手摺のない平らな石橋があった。

その苔むして湿った古い橋に並んで腰掛けて、朝早くから鬼太郎と釣り糸を垂らしている。

釣り糸は放ってから、ずっと川を泳いでいるだけであった。

 

「……ふんふーん…」

欠伸を噛み殺している俺とは対照的に鬼太郎は上機嫌だ。

釣竿を鼻唄の調子で振っているところを見れば、未だ飽きてはいないだろう。

……多分、このまま日が暮れたとしても、楽しかった。と言ってしまえる子だ。

そんな子が隣にいれば…欠伸は出るが…退屈は無かった。

「……むにゃ、もにゃ…」

鬼太郎の傍で自立している(ふえ)の下には麦茶の入った三合升の中で、うとうと、しながら浮かんでいる目玉の親父がいる。

脱力した小さな身体が木陰の快適な風で、くるり……くるり……と回転させらていた。

 

そんな親父の姿に、俺は微かに安堵を覚える。

 

 

数日前の事。

 

 

波乱の海から森の自宅へ帰ってきた俺達を迎えたのは、砂かけのお婆さんに子泣きのお爺さんの二人だった。

二人への挨拶もそこそこにねずさんと子供達は欠伸をしながら居間に引っ込んでいった。

俺はそれを見送り、玄関先に留まった。

 

“親父は?”

 

いつもならば、いの一番で飛び出して来る目玉の姿がない事を不思議に思い、所在を問おうとした時…己の意に反し、子泣きのお爺さんの持ち物に目が止まってしまった。

お爺さんは古びた升を両手で持っていた。それも実に慎重な手付きで。

黒く色褪せた升の中には何か白っぽいものが、一つ。

最初、升の中にツマミの干物でも入っているのかと思った。

よくよく注目してみると、升の中で縮こまってるモノは何処かで見た覚えがあった。

吸い込まれる様に凝視していると、不意に干物が声を上げた。

その声は錆びた蝶番が動いた音に似ていたが容易に理解出来た。

 

“おかえりなさい”

…と…そう言ったのだ。

 

ツマミでもなく、干物でもなく、そもそも断じて物ではない。

升の中にいたのは友人であった。

……で、あったので…俺は後先をまるで考えずに三八式を抱えて、外に飛び出そうとしてしまった。

 

仙人、許すまじ。その一念だけに突き動かされて。

 

怒りに燃え、目の前の事柄しか見えなくなった馬鹿野郎の背中に飛び乗り、平時と変わらぬ柔らかい言葉と…()()()()()で留めてくれたのは、子泣きのお爺さんであった。

 

玄関先で一歩も踏み出せなくなり、震える脚でどうにか立っている俺に、お爺さんは背中に乗ったまま事情を説明してくれた。

 

話を要約すれば。

干からびたのは必要不可欠な健康診断の結果。なので命に別状は無い。

 

井戸仙人曰く、ありとあらゆる科学的非科学的反応を検証したが『目玉の親父』はそんな事では死ねるモノではなくなった。と。

そして、嘆いていたそうだ。

そんな巫山戯た有様になる前に、如何して会おうとしなかったのか?

 

健康診断よりも説教の方が長くかかったそうだ。

 

聞いた事のある話だ。

 

そろそろ…親父さんは、知己の方々には挨拶を済ませた方が良い、と強く思った。

 

同居人である俺にも伝言があった。

干からびた姿のままだったら酒と塩でもかければ治るので、気にするな。

風変わりな頑固さを持っている男なので色々苦労もあるだろうが、何とか…宜しく頼む。

それと、貴方も一度井戸に潜って来ることを勧める。

 

などと言った事を、いつもの緩い調子でお爺さんは話してくれた。

俺は百足の様に地面に張り付いて、黙って傾聴していた。

話の内容とお爺さんの重みで冷静さを取り戻したが、また別の事で頭が一杯になっていた。

 

おじいさん。はやく、どいてくれ。

せんべぇになっちまう。

 

骨が軋む音が背中から聴こえてくる気がしていた。

 

潰れかけている俺の上で更に長くなりそうな土産話でもってトドメを刺そうとする、お爺さんを枯葉の如く吹き飛ばしたのは、砂かけのお婆さんであった。

 

“ド阿呆ぅ!!!この…!見てわからんかぁ!!!?”

 

この時ばかりはお婆さんの怒気に、ひたすらに感謝した。

 

 

これが、数日前の顛末である。

 

 

「………」

鬼太郎達と一緒に海水浴を楽しむ筈だった俺と、ご先達の方々と温泉でぬくぬく温まる筈だった親父は、余程日頃の行いが悪いのか……癒されるどころか疲労が倍増しただけであった。

「……くわぁ……」

膨らんだ欠伸が、歯の隙間から口へと漏れてしまった。

「ぜんぜんだねぇ!」

鬼太郎は嬉しそうに、そう言った。

「…まぁ、なぁ…餌、つけてないものなぁ…」

虫達が友達である鬼太郎の前で、餌扱いなどできる訳も無い。

…最近は蚊すらも潰せなくなってきている。

餌の代用として光る飾りでも釣り針につければ、また違っただろうが…ぴったりな物は家には無かった。

「場所も悪いのかしらん?」

「いや……下をよく見てご覧。元気に泳いでいるよ」

銀色に光る小ぶりの川魚が群れで泳いでいる。

釣り針の周りを、するり、と避けながら。

「あ…本当だね…」

魚を目視しながら、鬼太郎が右へ左へ釣竿を動かす。

そうすると、群れも左へ右へ避ける、避ける。

「かしこい」

「…ああ……ここまで露骨に動くとはね…」

意図があるとは思わないが、尾鰭の動きが挑発している様にも見えた。

捕まえてみろ、と言わんばかりに。

「……手掴みの方が早そうだな」

「負けた気分になるよ。きっと」

……まさか、鬼太郎の口から勝負に拘る言葉が出るとは。

「ふふ…ふ…じゃあ根比べだぜ」

「こんくらべぇ?」

「我慢勝負ってもんだよ」

「へぇ……僕、得意かもしれない。こんくらべ」

そうだろうさ。

「頑張って、じ、と待ってりゃあー、必ず釣れるさ」

「うん。釣れる時ちゃんと見ててよぉ」

「任せとけ」

揺れる水面よりも、ころころ変わる鬼太郎の表情の方ばかり見ちまうのは黙っておこう。

「…ところで…釣ったら、何作ってくれる?」

「無難に塩焼きにするかな」

「そのまんま焼いちゃうの?」

「少しだけ手間をかけるよ。洗って、腑も取ってからだな」

「へぇ…じゃあ、直ぐには食べられないね」

「火を起こせばいいが…家に帰ってやった方が上手く出来るな」

「そう……でも、釣らなきゃ始まらないね」

「だなぁ…」

()()になってしまっても、魚屋に一走りすれば問題ない。

なにより…こんな長閑な時間は気持ちの良いものだ。

「あ」

「どうした」

「きた」

「お!かかったか!」

水面に目を向けるが沈んだ釣り針の様子確認出来ない。

鬼太郎は立ち上がり、ひょい、と簡単に釣り糸を引き上げた。

「やった!」

「上手いぞ、鬼太郎!」

さて、何がかかったのか。

「あれ、なんで?」

「…お…?」

 

………釣り針には胡瓜が引っかかっていた。

 

「へぇ…きゅうりって川にできるの?」

「できんなぁ」

首を傾げる鬼太郎の手の中の胡瓜。

水々しく、緑の濃い立派なものだ。

「すんすん」

採った本人は小さな鼻で匂いを嗅いでいる。

「腐ってはいないね」

「じゃあ、川の上で誰かが落としたものかもな」

「……その誰かさんはすごい慌てん坊みたいだ」

鬼太郎の視線の先。

遥か向こうの川上から何十、何百本もの胡瓜が怒涛の勢いで流れてきていた。野菜の大群に臆した魚達は散り散りになって逃げていく。

俺も若干臆していた。

「……投網漁の時間だぜ、鬼太郎さんよ」

「盛り上がってきたね!」

(ふえ)から変化した(ふえ)で掬っては払い掬っては払いを繰り返して、濡れた橋の上に緑の山を積み上げる。可笑しな作業をしている俺の横では鬼太郎が自在のちゃんちゃんこを振り回して胡瓜を収穫していた。子供の成長は早いもので。鬼太郎のちゃんちゃんこの操作技術は目を見張るものになっていた。

 

ものの数分で、されるがままの胡瓜を綺麗さっぱり採ってしまった。

 

「………釣りに来たんじゃなかったのか?」

いつの間にか起きていた目玉の親父が一等大きな胡瓜に腰掛けて、唖然と呟いた。

「釣ったは釣ったよ、お父さん」

最初の一本はな。

「…じゃな。魚より難しそうなものを…楽しかったか?」

「うん!」

「なら、善いの。でかしたぞ、鬼太郎!当分、青物には困らんのぉ。のぅ水木」

「食うのか、これを」

「食わんのか」

「腹に入れるには、怪しすぎないか」

「心配症じゃなぁ。なんの変哲もない胡瓜じゃわ」

「楽観的すぎねぇかい」

「一本、食べてみる?」

「まだ、待ちなさい。鬼太郎」

「じゃあ、儂が食うか?」

「待ちなって。これが只の胡瓜でも、この多さだ。自然じゃないだろ。もしかすれば、落とし主が探しに来るかもしれん」

「ん、そう言う見方か。ハハハ、変わらずの親切じゃな……そう言うのであるなら、も少し微睡んでいようかの」

「じゃあ、僕は釣りの続きするよ」

 

「そうしといてくれるか。俺は、そこいらを探ってみるよ」

「なに?」「え?」

二人が素っ頓狂な声を上げた。

 

「?何か変な事言ったか」

「一人で行く気か?」

何歳だと思ってんだ。急に。

「おいおい。此処は庭と変わらんぜ」

「……楽観的はどちらかを議論したくなってきたわ」

「何を。家の裏手とはいえ、近所も近所だ」

「その裏手っていうのが……あ」

「あ。って何だよ」

「伝えてなかったか」

「?」

「この森、殆んど異界になっとるぞ」

……こんのオヤジ何を黙っていやがった。

 

「……説明」

 

「悪かった。悪かったから、そうプンスカするな」

よく言う。

「説明…なんて詰められても、そう、なってしまった事だけ。不可逆な事に理屈を求めても仕方なかろう?()()に、一人で行かなきゃ良いだけじゃし…そう睨むなよぉ。なぁんで成ってしまったか、じゃな?」

睨んだつもりなんて毛頭無いが、話を止めたくなかったので訂正はしなかった。

「土壌じゃよ。此処は墓場。それに加えて、墓場と見立てた私達(ゆうれいぞく)が埋まってしまっている。其処らじゅうにな。そんな土地に最近、近しいモノ等が妖怪達が、それはもう元気一杯に活動してしまっては()()()()()()()()()()()?」

そうだな。

 

なんて言うか。

張り切るってなんだ。ご存命なのか。

 

「亡くなったからとて、意思はこの世に焼きつくものじゃよ」

「…まだ、貴方達の強さには驚かされてばかりですよ…!」

「そうじゃろ」

悪戯な表情を浮かべる目玉。

つついてやろうか…。

「………異界になったのは、一先ず…不本意だが置いとくとして…どうして俺が一人で出歩けないんだよ?」

「念の為じゃ」

「受けた言葉を返すが、心配しすぎだろ。今となっちゃ妖怪変化には慣れてしまった」

「それじゃよ。念を押す問題は。犬も歩けば…そんな言葉以上に出歩けば不可思議を持ち帰って来るお主を簡単に放しておけるか?」

「…………痛てぇな」

「どこが!?」

「…ケケケ…怪我ではないぞ。倅や」

「……」一回、つつこう。

「な、なんじゃ。ふは、くすぐったい…くすっぐ…ふひ…たいぞ…水木」

 

煙草を半ば噛むように咥える。

火はつけない。

「しかし…いよいよ…家の周りもかぁ…」

「丁度、家の裏手から先だけじゃよ。家の裏手。つまりは儂等がいた荒屋が境界になっておる」

「彼処が」

「うむ。元々は神社なのも要になっておるかもな」

「成程」

「…まぁ、その、なぁ。裏口から出る時は儂等と一緒に頼むよ。玄関からならば一人でも構わないからのぅ」

「そういうのは、逆なんじゃないか」

「うん?」

「いや、なんでもない…ハハハ…はぁ…」

脳の奥が煙を欲しがって疼いていた。

「じ、地獄みたいにはならんから」「比べる対象が桁違いだ。親父」

 

「けけっ!!また、かかったよぉ!!」

釣りを再開していた鬼太郎が、また元気な声を上げた。

 

と、同時に。

 

「くぇええ!!!しまったぁあああ!!!?」

珍妙な叫び声が水面から噴き上がった。

 

「あ。かっぱだ」

 

「何じゃ。かっぱか」

 

「久しぶりに見たな。かっぱ」

 

「はなひへぇええ!!!」

釣り糸で全身を巻き上げられている『河童』の姿を見て、無性に寿司が食べたくなった。

 

緑色の滑らかな皮膚に巻き付いた細い糸を解すのは難しい作業だった。

 

「はぁあ…はぁ……締め…殺さ…れる……も、のかと…」

「そんな事しないよ…立てるかい?」

手を差し出す。

「へぇ…どうも…へぇ」

立ち上がった河童の手足や甲羅、皿に傷がない事を確認した。

「ごめんね、かっぱさん」

「い、いいよ、大丈夫。大丈夫」

「すまんかったのぅ。まさか其方等の縄張りじゃったとは」

「うぇ!」

河童が目を丸くした。

「上?」

驚くべき存在の当人は事もなし気である。

「……あ、すんません…いえ…此処はまだ違いますので…欲張って来たオラがいけんかった、です」

欲張って、か………河童の後ろに積み上がっている胡瓜が目に付いた。

「そうかい。ときに、其方」

「はい、何ですか?目玉の人」

「山程の胡瓜に心当たりはあるかのぅ?」

「心当たりしかないです!まさか、ぜぇんぶ流れていっちまいましたか?」

「安心せぇ」「後ろを見てみて」

親子が続けて答える。

「はれ?……………ぅうぉお」

振り向いた河童は胡瓜の山に、静かな感動の声を上げた。

「えぇ、すっげぇ。ひぃ、ふぅ…」

夢中になって数を数え始めた。

一本、一本、橋に並べながら。

「……水木の言った通りにして良かったわ」

「うん」

「……まぁ…河童の物とは想像出来なかったけどな…」

 

存外、几帳面な河童は手際良く胡瓜の本数をだした。

 

「六百と四…」

…そんなにあったのか。

「あ、あ、ああののの!!」

河童は落ち着きなく皿と嘴を撫で回しながら、声をかけてきた。

「なんだい?」

「こ、これを取ったのは、誰でそうか?」

「あぁと…俺とこの子だよ」

鬼太郎の肩に手を置く。

「あ、お、お二人…何方がより多く?」

「どっちが…鬼太郎の方が取ったよな?」

「そうだね」

「そうですか…!鬼太郎君!!」

河童が鬼太郎の手を取り、固く握った。

「うん?」

 

 

「優勝です!!おめでとう!!!」

おぉ……おぉ?

 

 

「万歳!!万歳!!」

河童が珍妙な動きの踊りを鬼太郎の前で繰り広げ始めた。

 

……話がまるで見えんが、鬼太郎が祝福されている。

「ありがとう?」

喜ばしい事である。

 

「さぁさぁ!どうどう!鬼太郎君!是が非でもオラについてくれんと!!」

「はぁ…」

理由の解らぬ大興奮の河童に鬼太郎が押され気味だ。

「待て待て。何処に連れていく気じゃ?儂の倅を」

「皆んなの処です!」

「…其方等の住処に行く、と」

「勿論!」

「いや、なんでじゃ?」

「鬼太郎君は本日の主役ですので!()()()()()()の優勝者だもんで!」

面白そうな事をやってんだなぁ。

「あぁ、祭りをやっとたのか。それなら……しかし、鬼太郎を連れて行くなら儂等も一緒じゃぞ」

良いのか。

「どうぞどうぞ!!さぁ、お三方オラの甲羅に乗ってくだせぇ!!」

大いに張り切っている河童は川へと、ぐぐ、と低く低く構えて、立派な甲羅のある背中を俺達に向けた。

「…大丈夫かい?」

河童の背丈は俺の半分程しかない。

「お任せをば!!」

「水木さん、河童というのは()()()()()()()()じゃよ。気兼ねなく乗ってやれ」

「へぇ……分かった。河童さん、荷物を纏めるから少しだけ待ってくれるかな?」

「えぇ!えぇ!待ちますよぉ」

 

釣竿やバケツを、胡瓜と一緒にちゃんちゃんこに包んで背負う。

「あ」

……忘れてた。みたいな表情をする河童。

「俺が持っていっても良いかな?」

「やぁ、いやぁ!それはもう、本当に!!」

赤くなった河童は更に体勢を低くしていた。

 

親父を自らの眼孔の四畳半に仕舞い込んだ鬼太郎が先頭に座り、俺はそれに続いて脚が邪魔しない様にと思い、縮こまんだ胡座になった。

河童の身の丈には釣り合わない甲羅の乗り心地は、そこまで悪くはなかった。硬いはずだろうに…尻の座りが随分と快適だった。

 

「ほんじゃあ行くんで、捕まってて下さいよぉ!」

「はぁい」

 

ひょい、と軽快に跳んだ河童は何不自由なく川の表面をまるで滑るような滑らかさで泳いだ。風を切る音が聞こえる手前の勢いで、曲がりくねった川に沿って泳いでいるというのに、乗っている俺達には何一つの重力を感じさせなかった。

「………」

河童とは…まさしく文字通りの意味である事を身をもって実感した。

 

 

想像以上或いは人智を超えた、永く、拡く、旧い河川を遡って進んでいると辺りの光景が見に覚えのある怪しさを漂わせ始めた。

 

草木は曲がりくねり歪み囁き、地と砂は震えて蠢き鳴いて、空と雲は沈黙しながらも明滅している。ただし、川の流れだけが何一つ人界と変わらない有様であった。此処に於いてはそれが一番の異常であった。

 

…軽い眩暈がする…が…いい加減に体が慣れてきたのか…瞑目するまでには至らなかった。

 

「…たすけぇた……かめに…ぃ…ふぅんふんふーん」

前に座って小さな頭を揺らしている鬼太郎は、先日覚えたばかりの童謡を鼻唄で歌っていた。

…………なんとも、不思議な因果だ。

そんな事に、はたと気づいた。

 

そして、もう一つ気づいた。

勢いが減速している。

 

「ぷは!」

それに気にかけたと同時に河童が頭を上げた。

「河童さん、何かあった……いや、やっぱり重かったかな?」

「いや、んな事はねぇんですけども…ちょ、ちょっと、皿の具合が気になって…すんませんけども、鬼太郎君、水掛けてくれませんかね?」

皿。

確かに頭の皿の潤いが、先よりも無く光りを失っていた。

 

…そうか。

 

河童さんは俺達の姿勢の為に頭の天辺を背中と水平にしてくれていたのだ。気にせず泳げば、皿を水に浸けたままにできただろうに。

心遣いのある御方だ。

「あ、ごめんね。水木、バケツ貸してくれる?」

「おう。たんと、掛けてあげな」

背負ったちゃんちゃんこが気を利かしてくれて、小ぶりのバケツが鬼太郎の手の中に、ぽん、と投げ込まれた。

 

「どんどん掛けていいの?」

「へぇ、へぇ!どんどんじゃばじゃば!!」

「了解」

 

鬼太郎が一杯掛けてみれば、再び元の勢いで進み始めた。

 

「ほい…ほい…それ」

二杯、三杯、四杯、五杯。

律動的な水の音と鬼太郎の掛け声が耳に心地よかった。

 

「…あ、それ」

大凡、三十杯を超えたくらいで、河童が再度停止した。

 

 

どうやら、目的地に着いたようだった。

 

 

目の前の広がる光景。

何処から発生した水がこの光景を作り出していているのかは、とん、と理解が追いつかないが、兎に角、其処には澄んだ水が沢山在った。

 

真ん中にある穏やかに揺蕩う湖は、底抜けに蒼い空を鏡の様に映している。

湖の周りには小さな玉砂利が一面に敷かれて、河童達が走り回ったり、転げ回る度に、カラコロ、と軽やかな音を自らと共に水面に落としている。

……此処までならば……世界の何処かには存在するだろうが。

 

何よりも、何よりも目を惹かれるのは(たき)である。

 

何十尺の一段の瀑が入り口の河川を除き、この空間を完全に囲んでいる。

 

まるで…海に馬鹿デカい穴を開けて、そのまま時を止めた…様に見える。

 

そして、水の行き先。

毎秒落下する有り得ない程の莫大な水流は、全くの()()で砂利の微かな隙間に飲み込まれ続けていた。

 

「………は、はは」

 

乾いた笑いが無意識に出た。

 

大自然。

んな言葉で片付けられる場所では絶対になかった。

 

一から十まで、人間の物差しでは測れない。

地獄や悪夢の中とは違う。

目を逸らせない()()()。確かに存在する…してしまえる…ずれた冗談の様な異質な空間には物理的にも精神的にも押し潰される様な重力が満ちていた。

 

「風流な住処じゃなぁ」

不気味とも言える穏やかさで鬼太郎の左目は、そう呟いた。

 

湖の畔で降ろしてもらった。

 

 

「さ、さ!まずは長老に会って下せぇ!!」

 

 

急いで飛び出した小走りの河童さんに続く。

小刻みの歩幅であったので、俺達は早足でもついていけた。

「河童の長老ってどんな方なんだ…親父さんよ」

「いやぁ…年老いた河童には会ったことはあるが……長老と、呼ばれている方に御目通りするのは、初めてじゃなぁ」

「そうかい………………河童って歳取るんだな」

不変の種類ではない妖怪か。

「じゃあ、ものすごーーーく長生きのヒトかなぁ」

鬼太郎が手振りを交えて考えを述べた。

「そうじゃのぅ……ま、すぐに解るじゃろ。すぐに」

 

肺の中まで湿った感覚を覚えながら…透明な砂利を踏みしめて河童さんの後を追う。

 

場への酔いも覚めてきて河童達の様子と声が意識に滑り込んできた。

「くわ、きゃくだ!」「すわ、きゃくね!」

青い着物の河童と赤い着物の河童が物珍しそうに俺達を見ていた。

「人間だ!」「中年だ!」「刀、持ってねぇなぁ!」

木桶を頭に被り、鍋の蓋を構えている河童達が警戒していた。

「不思議な子供だ!」「変な大人だ!」「親子かな!」「兄弟かな!」

肩を組んだ全く同じ小さな背丈の四匹の河童が観察していた。

「おっさんもガキも強そうだな!」「いーい角力だぁ!一丁やってみてぇな!」

仁王像の様に体格の良い大柄な二人組の河童が腕を組んで、強い視線をぶつけてきていた。

「「「すっげぇ、胡瓜もってんなぁ!!」」」

「「「ありゃあ!!立派な方達だぞぉ!!!」」」

「「「だって、あんなにも胡瓜持ってんだからよぉ!!」」」

正座した白装束を纏った老いた河童(河…婆?)は、とんでもなく大きな声で、それぞれに言い聞かせる様に叫んでいた。

 

“やいの  やいの”

“人間  人間”“間の男  間の子”

“地上の男 地下の子”

“いらっしゃい いらっしゃい”

“きゅうり は  いい”

 

大方はこんな事を、ひそひそ、ざわざわ、ぎゃあぎゃあ、話していた。

 

右も左も、水と河童。

 

ああ、(まさ)しく此処は河童の住処であった。

しかも、割と近所である!

………どうなってんだ、俺の故郷は。

 

「止まれぃ。()()

 

途中から瀑に向かってすすんでいた河童さんと俺達を制したのは荒々しい声だった。

制する声を出した方、そのヒトは平気な顔で…超質量水の柱に打たれ続けている…河童であった。

瀑に身を預けている河童は痩せた体躯の持ち主であったが、雷の様な力強い声と視線を俺たちにぶつけてきていた。

 

………河童、河童、河童で頭がこんがらがってくるな。

 

「長老に会いに来たんだ」

河童の八さんは意も返さずに用件を伝えた。

「そんな事ぁ、解る。入り口と出口は同じ数だけ。一つだけだ。それ故に俺は此処に居続けなきゃならねぇ。それでよぉ、何の用向きだぁ?八ぃ」

どうにも八さんの声が届かなかった様だ……それとも…おちょっくているのか?

「んな所にいるんだから聞こえねぇんだ。もいっぺん言ってやらぁ「八。八ぃ。八よぉ。俺がよ。俺がぁよぉ。こんな事を。仕事をよぉ。仕事やんのが好きじゃあねぇ事は分かってんだろぉ。だからよぉ、八助ぇ。察してくれやぁ。みなまで言わせんでくれやぁ。めんどくせぇんだからよぉ」

その割には、お喋りがお好きな様だ。

「あぁ、うるせぇよ。大体だな、河童についてくる人間がまだいやがる事、それが何よりもあり得ちゃいけねぇ事じゃねぇのか、おぉ?母親に教えてもらわなかったのかぁ?見知らぬ同族以外のモノについていっちゃ駄目よ。ってよぉ。それとも何だぁ?迷ったクチか?迷いたいクチか?なんだったら俺がよぉ…俺が引導を渡してやろうか。俺の念仏は坊さんにも褒められた程に上手い。一撃一言で天竺に渡してやろう」

瀑の河童は見た事もない武器を肩に担ぎながら、微塵の殺気も感じさせずに己に殺される事を勧めてきた。

「…失礼しました」

俺は素直に頭を下げた。

……なんで、こう、簡単に思考を読まれるのだろうか。俺は。

 

ギギギギギ

 

「…ん…」

下げた視界の上から、何かを、引き摺る様な音がした。

 

「この人に手を出せると、思うのか?」

寒気がする程までの伶俐な声が、徳の高い河童を制した。

 

……軽い頭を上げてみれば…()()()が前に進み出て瀑の河童と俺を遮っていた。

鬼太郎の表情は窺えない。

しかし、だが、多分、絶対、怒ってる。

下駄を履いた小さな足が渾身の力を持って、玉砂利を踏み潰さんとしていた。小さな拳は固く固く、握りしめられていた。常はふんわりとしている茶髪が、今や針山の如く逆立ち、不協和音を出して電気を炸裂せんとしている。

 

怒髪、天を衝く。とは、この事であろう。

 

………と、言うか。

 

お、怒り過ぎじゃないかい?……鬼太郎?

 

宥めようと近づこうとしたが………背中のちゃんちゃんこが力尽くで俺を留めた。

「ぐぐぐ、な、なんで…ふが…」

口まで塞いでくれやがった。

 

「ほぅ…!幽霊族……その最期の一人、か。く、くくくく!くくっ!知ってか!知らずか!人間と共にするか!」

「知らん。()()()()()()()()()()()()()()。僕は…此処にいるだけだ。此処にいたいだけだ」

 

……鬼太郎。

 

「ほぅ。ほぅ!こいつはまた…なんとも……最期の足掻きにしてはとんでもない者を遺したな」

「残された覚えはない「んん〜?そうは言うが…坊主「だよね。父さん」

「そうじゃなぁ。まだ一緒におる事だし」

鬼太郎の左の眼孔から、ぬるり、と親父が滑り落ちて、倅の開かれた小さな掌に着地した。

「…坊主、目ぇとれたぞ。ちゃあんとしまっときなぁ」

「僕のじゃない」

「そうかい。目玉の泥棒とは、手癖の悪いこった」

「倅を泥棒呼ばわりするなっ!」

すかさず、親父が抗議の声を上げた。

「………おい、坊主」

「何だ」

「その目玉は喋るのか?」

()()()()()()()()。僕の父さんだ」

鬼太郎は瀑の河童に嫌味でもって返答した。

「オイ!貴様!!水木にも鬼太郎にも!儂の目の黒い内には手を出させんぞぉ!!かかってこんかぁ!!」

威勢は良いが、これっぽっちの迫力もない目玉の親父がちっぽけな拳を構えて戦闘体勢をとっていた。

「落ち着いて、父さん」

……同感だ。

 

「く、くくくく」

 

すると、どうした事か。

 

「クククククくくくくくくく!!!「く、キ、キ、!!キキキキキキ「キハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

何が面白いのか、瀑の河童が獰猛な笑いを晒したのだった。

獰猛にして凶暴な嗤い声は、場の空気どころか、頭上の瀑までも猛烈に揺らしていた。

 

「く、くく!!おぅ、おぅ!うんうん!もう、もういいぜぇ。通りなぁ」

全く思考が読めない瀑の河童が、肩に担いだ棒状の武器を一振りしたと思えば、瀑に一筋の隙間が出来た。

隙間の奥には剥き出しの岩壁があり、その底辺に緩い光を放つ正方形の穴が開いていた。

この先に長老と呼ばれる方がいるのだろう。

「むぅー。なにがしたいんだよぉ。酔っ払っているのかぁ?」

八さんは思いっきり顔を歪めて、瀑の河童を責める。

「いや、いやなに、気にすんな八ぃ。悪かった……アンタ等も悪かったな。試す事が俺の仕事なんでなぁ。さぁ、もう、問答もしねぇし。手も足も出さなねぇからよぉ。通ってくんな!」

 

「頭の一つでも下げたら、どうだ」

 

「…………」

きたろう。もう、やめなさいって。

 

「ククク。道理だな……大変な失礼を致しました。お客人。どうぞ、お通り下さい」

二重人格か疑うくらいの変わり様で、折り目正しく瀑の河童は頭を下げて通行を促した。

「…ふんだ…水木、いこぉ」

穏やかではない話が終わってから、ちゃんちゃんこは俺を解放した。

「…お、おう…なんか、すみませんでした」

「なんで、敬語なの?」

 

「さ、この向こうでさ!」

再び、ちょこちょこ走り始めた八さんを追う。

 

「……」

通りすがら、瀑の河童にも軽く頭を下げた。

「……善い人間なんだな…アンタ…今時、珍しいぜ。苦労は絶えないだろうによぉ」

小雨の様な囁きは俺にだけ聴こえていた。

「…好きでやっていますので…」

「……本気で珍しいなぁ、アンタ」

それきり、瀑の河童は座り込んで瞑想に耽った。

 

余りにも完璧な正方形の通路を進む。

通路の岩壁には定点で、白い提灯が掲げられている。

奥から吹く風の音は雅楽の様な響きをもたらしていた。

 

人の手が入った通路を渡り終えれば、ほんの僅かに広がる空間に出た。

空間の入り口には真新しい紅い鳥居があり、鳥居の上部には打って変わりひび割れた木の板が金の釘で打ちつけられている。

 

 

 

其れには『水神』と、記されていた。

 

 

 

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