燻んだ塗り壁には、赫く錆びた銅により縁取られた鏡が掛けてある。
目の前の鏡の上半分は、蜘蛛の巣の様なひび割れが走っていた。
穢れた鏡を真っ赤な手で触れる。
「明確な敵がいるのは、楽だな。そうだろう?」
すると、どうだろう…鏡の中の人物が声をかけてきた。
問いかけに是を答える。
「敵。打倒すべし。そいつが善であろうとも、悪であろうとも」
是を答える。
「関係なんてねぇ。だって敵だからな」
是を答える。
「しこたま打ち、打ち、撃ち、ブチ倒す事だけに集中すりゃあいい。そいつに愛があろうとも、欲があろうとも」
また、是を。
「関係ねぇ。なんせ敵だからな」
是。
「さて…手前は立てるのか?」
「目を逸らしている人間に
最後の詰問は意図が解らず、答えるのが一拍遅れた。
季節も変わり肌寒くなりつつある朝に、一人目覚める。
「……………」
目覚めたばかりだというのに…俺は歯を食いしばっていた。
「…」
何か、嫌な夢を見た気がした。
酷く、障りの強い夢。
誰かが………。
何か…………………。
駄目だ。
答えの出ない思案に必死に頭を回した結果、目はすっかり冴えてしまった。
「………ぅあぁ…」
新鮮な酸素を求める脳が大きな欠伸を起こした。
「……」
ふ、と身体の上の布団へと視線を向ける。
長年使い古された薄く伸びた掛け布団。その更に上に小さな左手が乗っていた。
愛らしさ以上に心配になる小ささの丸く赤みのある手へ、自らの角張った手を、そっと重ねた。
柔らかく、温かく。重い。
起こさぬ様に、そっと撫でてみる。
指先で、甲、節、爪、と。どれも恐ろしく柔らかい。
しかし、確かな脈動を感じる。
力強い血の流れを。
耳を澄ませば…音が聞こえる気すら、する。
トク…トク……トク、ン
小さな愛しい手に触れていれば、言葉に出来ない胸のつっかえも霧散していった。
「………」
念頭に置くべき、第一の目標。
“畿内に在る港町に根を張る天幕を、調査すべし”
胡瓜好きの河童に導かれ。先生河童に説き解され。
大陸の虎へ足取りを伺い。
母子の再会への足がかりを手に入れる事が叶った。
何もかもを放り投げ、今すぐにも天幕を暴きに行きたかったが…親父さん…そして、鬼太郎にさえも止められて…先ずは仕事と同じ様に情報収集から始めた。
ぬらりひょんへ、手紙を認め。
蝿たちに、伝言を頼み。
知り合いの方々にも、風の噂や虫の知らせを聞かぬか確認して。
あらゆる手段を講じて四方八方へ手を回した。
今は、ただ、待つだけだ。
待ち、待ち、機会を逃さずに構え、蓄える。
そして、変わらぬ日常を表面的に送る。
「…………………」
僅かな時間…手の感触に癒された俺は一日を始めるべく、稚児の手を持ち主に返…そう…とした。
「………………………………………きたろう……」
…………………いない。
いない、いない、いない。
右も左も上も下も、布団の中にも、天井の面にも畳の上にも目にも。
鬼太郎の姿は無い。今、俺の手に
辛うじて…辛うじて、腹から逆流する胃酸は抑える事は出来たが…喉を裂かんばかりの絶叫は寝室に大きく響いた。
その時。
「なになになになに!??」
スパン、と襖が開き、鬼太郎が飛び込んで来た。
鬼太郎が。
酷く驚いた顔をしていた。
「あ、あ!ああ!あああ!鬼太郎!鬼太郎!!!」
軽い布団を投げ飛ばして、鬼太郎の身体を掴んだ。
「どど、どどうしたの?大丈夫?怖い夢でもみたの?!」
「て、てて、手が、手だけが!!いや、確かにこの手は鬼太郎の!!間違えねぇ!いや、いや!なんで、どうして、大丈夫なのか!?!」
首振り人形の様に、カラカラ、と頭が揺れている鬼太郎は少しだけ目を開いているだけで、顔色は平時と変わらない。
如何して、変わっていない。
「ああ!それ!」
「そ、それって」
何を呑気に。
「取れるようになったの」
………………………………………。
「…………………………」
「ほら、かしてみて」
「……」
左手の部品を鬼太郎の右手へ渡した。
「みてて」
「…」
「がしーん」
効果音を自ら発し、欠けた手首に左手を差し込む鬼太郎。
「ほらほら、大丈夫でしょう」
ピースサインを作った左手を、俺の白い顔の前で何度も振る。
「…………」
「ね……あの……怒ってる?」
目尻を下げたつぶらな瞳で、俺を窺う。
冷えた心臓に熱が戻り、肚から上がった生温い息を一つ吐いた。
「……………死ぬかと、思った」
「どういうこと?!」
「どういう事も何も………いいか、鬼太郎」
「う、うん」
「二度と。二度と。二度と、黙って、人の上に、身体の一部分だけを置いてくれるな」
「あ、はい」
「………それと…何か、また何か特技を覚えたのならば……頼むから俺に教えておいてくれよ……一等、賞賛を贈りたいからな」
「ふ、ふふ、はい。けけけ」
「ところで、だ。その格好はどうしたんだい?」
寿命を縮めてくれた愛くるしい幼子は、何処から出したのか…ぶかぶかの割烹着を着ていた。ご丁寧にも頭には三角巾まで。
「あ、そうそう。もうちょっとだからねぇ」
もうちょっと、か。
……開かれた襖から、漂ってくる味噌の匂いから大凡、察せられた。
「朝飯…作ったのか?」
「うん、四人でね」
「四人…四人?」
鬼太郎、親父さん…それに恐らく、垢嘗め………残る一人、は?
「はい、これ読んで待っててね」
今朝の新聞を俺の手に残して鬼太郎は台所に戻っていった。
「…………ふぅ……はぁ……」
立ち上がるのには数分を要した。
台所からの、楽しげな声とテキパキとした調理の音に安心して、鬼太郎に言われた通りに居間のちゃぶ台にて、新聞を読んでいる。
垢嘗めが運んできてくれた熱い茶を時折、啜りながら。
「………」
何ヶ月か前の俺は俗世間にまるで興味が持てなかった為、新聞なぞ取っていなかった。
しかし、現在の職種にしてからは…流石に…あれだろうと思い、購読を決め、今はこうして真面目に隅から隅まで目を滑らせていた。
楽しみになる程の面白さはありはしないが、ほんの少し社会に繋がっている気がしていた。
…まぁ…この新聞も烏たちが毎朝、配達してくれている物ではあるのだが。
「………………昨日も、
新聞の片隅に記された活字。
……町の……通り……佐藤……氏が件の怪異に遭遇!!
佐藤氏の証言はこれまで寄せられたものと一致!
何度も姿を現す異形の真の目的とは!!
我々、野馬新聞は……大学の山田教授にご意見を伺い人面犬の正体を追跡中!!
………にて目撃証言を受付中。………金一封も贈呈イタシマス!!
……その後は、面白おかしく…人面犬の正体についての議論じみた活字が記載されていた。
現在進行形で進む第二の目標。
“都内に出没した人面犬を調査すべし”
ぬらりひょんからの依頼である。
人面犬。
巷の噂を信じれば、見たまま、名のまま、人の貌をした犬。
恐らくは妖怪ではあるのだろうが…。
そのモノ…人面犬の行動もまた、特別注目すべき点はない。
人間の前に現れ、一言二言、言葉を交えて姿を消す。
ただそれだけだ。
これが人を噛んだ、だとか。呪詛を吐いた、だとか。火を吹いた、だとかだったならば、俺だって呑気に茶を啜ってはいられない。
ぬらりひょんからの依頼書も、はっきりと、俺を動かすべきか悩んだと明記されていた。
それでも、依頼になったのは。
“こんな時代に、そんな妖怪が、あっさり生まれてる現状が奇妙であるのだよ”
そんな言葉で今回の依頼書は締め括られていた。
「おまたせぇ」
新聞を畳み卓袱台の下に放った。
「手伝おうか?」
「いいぇ、座ってて」
小さな料理人さんが湯気を立たせる椀を乗せたお盆を運んできてくれた。
熱い椀を四方に配ってくれている健気な鬼太郎の頭を撫でくりまわすのは我慢した。邪魔するのも悪い。
「ありがとう、鬼太郎」
「いえいえ」
謙遜して、鬼太郎はまた台所に戻っていった。
「おはようさん、水木」
卓袱台に配置された椀に目玉が浮いていた。
「………おはよう、親父さん」
どの椀が、友人の風呂であるのか…
「お召し上がりを!」
「いただくぞぉ………初の倅の料理……感無量じゃ…」
「べるん」
「……ま…す…」
弾ける声を皮切りに各々、食事を始めた。
………震々…戻ってきたのか。
久方ぶりであったが、ふらふら、ぶるぶる、としながら白湯を飲む姿に変わりは無かった。
…ご帰還が…ちょいと早い気もするが…暦の上では秋も始まったしな……本人の意思に任せるか…。
さて……。
「いただきます」
「どうぞ、どうぞ。口に合うといいんだけど」
期待と不安の交じった幼子の視線を感じながら、まずは熱いうちに味噌汁を啜る。
ズズ…ズズ……
「…どうかしらん」
「うん、うん。いやぁ、美味いよ。上手……初めてでここまでなら、上手なんてモノじゃあないぞ。うん、旨い!」
味噌の量も具材の火の通りも、正に塩梅良し。
仄かな塩味が食欲を引き出させてくれる。
「ほんとぉ?ほんとにほんと?」
「鬼太郎達が作ってくれたものに嘘なんて言えないよ」
「けけ…けけけ…あちち!」
笑いながら味噌汁を含もうとした鬼太郎が熱さに顔を顰めた。
「おお、気をつけな」
「美味い!!美味い!!美味い!!!」
親父は先から一単語でしか会話が出来なくなっていた。
「べるん。べるん」
垢嘗めは舌を巻きながら、微笑みを浮かべている。
「……よかっ…た……ねぇ」
声を震わせるのは、震々。
……感動しているのか、平時の振動のせいかは分からない。
も一度、熱い味噌汁を啜り、また熱々の白飯を口に放り込む。
正直、この二つだけでも立派な朝飯になるのだが、嬉しい事に卓袱台の真ん中には大皿に載った主菜が鎮座されていた。
まるまると肥え、脂の乗った蛙の丸焼きが。
……初めてにしては難易度の高い料理に挑んだなぁ。
ぷるん、とした身を箸で摘み上げて白飯の上に一度載せてみたが、前脚後脚が茶碗から大きくはみ出る。
…どっから食べりゃあいいのか、毎度悩むな。
ぐえ、と喉を鳴らした気がする綺麗な焦げ目のついた顔を見つめてみる。
よく見れば目玉が丁寧に取られていた。
味噌汁の具材をどこから調達したのかが、これで分かった。
頭から丸齧りした蛙は股肉の食感と、よく似ていた。
感動的な朝食を終えて俺と親子はゆるゆる、と支度をして、街に繰り出した。
日差しは目が焼ける程に激しいが、時折、肌を撫でていく風は涼やかで爽快であった。
「で、今日は何処から行くの?」
肩の上に座っている鬼太郎が本日の指針を問う。
「昨日、人面犬に遭遇した佐藤何某氏に取り敢えず話を聴いてみよう……今朝の新聞…遠回しに住所、載っていたからな」
……守秘義務なんて
「ほう、そうか。毎日、精が出るのぅ。人面犬とやらは」
人の頭の上で何やら体操らしき事をしている親父。
「ああ。新聞に嘘がなければ、出没地点もてんでバラバラ。どれほど駆けずり回っているか分りゃしねぇ」
「まだまだ暑いのに頑張るねぇ…」
お気に入りの麦わら帽子を被り団扇を自分と親父と俺を煽っている鬼太郎は感心した様に、そう言った。
「なぁ、親父」
「うん?」
「今更なんだが…犬の妖怪なんて大勢いるんじゃないのか?その内の一体とは考えられないのか」
「…その着眼点は悪くないがのぅ…犬はなぁ」
ストン、と親父が腰を下ろした。
「なんだい?」
「…そも大勢はおらん……数少ない犬の怪は、大きく分けて三つの在り方であるのじゃが」
「うん」
「一つは、再現性が無いモノ。主人や仇の為に変生せしモノ」
「…なんとも健気なモノじゃあないか」
「うむ。古来からの人間との関係性が強く現れた、と言える。忌むべき例外一つだけ除けば…一重に恩義の為に歩み続けたモノの一つの到達点じゃ」
………その例外一つが気になって仕方がないのだが……親父。
「……まぁ…あれだな。忠犬なんて言葉が人間だけの勝手ではない証左と思える在り方だ」
「でなきゃ、此処まで永い付き合いにはならんよ。水木や」
「……そうだな」
「ハハハ……二つ目は、現象。災厄、加護を犬として
「人間の主観で決定されたモノ、か。姿形は見えず、尻尾も掴めない。それでも犬としてミた」
「フフ…いよいよ理解が深くなってきたなぁ……その通り。コレは議論したって無駄じゃよ」
「そして、三つ目。問題なのは三つ目……人間では到底敵わないモノ。逆らえないモノ。宥め、避けるしか無いモノ」
「まさか…
「左様。人間に依らずとも在り続けれる誇り高きモノ達。犬なんて字では表せず…狗、狼、御狐様…この暴かれた時代にあっても…鎮座し続けておる。そも人間達からの信仰も絶えず続いておる様だしなぁ」
「……百年経っても廃れる気がしないぜ」
「廃れたとて微塵も揺らがんぞ」
「正しく
「いやいや、そんな顔をお主がする必要はないじゃろ、水木」
「そこまで背負った気もないよ。それでも、だ。何度、一つの種族を滅ぼせば気がすむのか…そう疑問に思っただけだ」
「手があり、足があり、頭があり、心があるならば。その道は決して絶える事はない。いつか来たる次の者に辿り着くまで。
「………まさか、そんな言葉を親父から聞けるとは思わなかった」
「…結局、儂は信じてるおるだ…け……いや…違うな…信じたくなった。信じられる気がした。何事も最初の一歩は愛である事をな」
「……」
「……何を…人を眩しそうに見とるんじゃ」
「分かるだろ」
「はぁ〜あ。最近の若者は恥ずかしがり屋でいかんのぅ」
「嫁さんと手を繋いだだけで赤面していた貴方にだけは言われたくない」
「は?!な!?い、い、いつ?ど、どこで!?あああの神社か!!なっにを言うか!顔色なんて分からなかっただろうに!!」
「その反応が、なによりの答えだろうが」
「お父さぁん、話が明後日に飛んじゃってるよぉ」
「お…おう…すまんの」
オッサン二人よりも仕事熱心の幼児が頬を膨らませて、話の続きを促す。
「…犬の妖怪が一口に纏められない事は理解したが、親父さん……それならば、もう答えは出ているんじゃあないのか?」
一つ目の再現性の無いモノ。
それが妥当だろう。
「
「オイオイ、今までの講釈は一体なんだったんだよ」
「水木さん……………水木さん…………この際ハッキリさせておこう」
……一体何を。
「今の、この時代に人間が最も恐れるモノとはなんじゃ?これが百年前ならば、五十年前ならば、まだ…まだ暗闇を、枯れ尾花を、恐れても何も可笑しくない。だが。だがな。最早、違う。全く変わってしまった。この時代の人間達の恐怖の矛先は、そんな曖昧なモノでなくなってしまった」
「あえて言うよ、水木さん。貴方は何が恐ろしい?」
「……………」
足が止まる。
「
「全ての恐怖は今や、同族から同族へと」
「それこそが、それだけが、人間を滅ぼし得る業火になった」
「誰も彼もが、明日には、次の瞬間には、他人事ではなくなる」
「空を堕とし海を燃やし地を蹂躙し星を穢し、それでもなお前進を続ける暴力の渦」
「最早、誰も妖怪なんて恐ろしくもない」
「最早、誰も、そんなあやふやなモノなんて恐ろしくもない」
「この前提を念頭に、よく聴いてくれ」
「…儂もな。最初は違和感こそあれども、そう珍しい事でもない。と納得しておった。しかし、この一年もの間、お主と共に生活し人間社会を体験した、
「お主が遭遇した妖怪。その中の二つ」
「仮称『ヒノエンマ』…今。丙午生まれの女人が
「仮称『テケテケ』…今。国の為。家族の為。明日の為に命を懸けて文字通り身体を懸けて奮闘した兵が、まるでいないモノとして扱われ、失望に溺れたとしても。やはり、今、魔道に堕ちかけるのは、有り得ぬ」
「だが、事は起こったじゃないか」
どれだけ有り得なくとも。
「そうじゃ。故に道理が通らぬ。曖昧であれ、人間なくば妖怪なし。恐怖なくば怪異なし。その指向性が消失しかけている、と言うのに事は起きた。二度も。そして、今も三度目かもしれぬ事が…よりにもよって、この帝都で起きている」
「
「で、あれば、ぬらりひょんの依頼も布石であったのじゃろう」
「先の依頼書の締めの言葉の事か」
あの方も…こんな時代に。そんな妖怪が。あっさり生まれる。そう。
「その前からじゃよ」
「何?」
「ぬらりひょんが妖怪の総大将。そんなのはな…人間の街談巷説でしかなく。あの妖怪は唯の茶呑み妖怪でしかない。そんな飄々とした妖怪が身に覚えのない風聞を態々、呑み込んで奔走するなぞ尋常ではなかったのじゃ……してやられたわ」
して…………そうか…親父も
そんなはずが無いと分かりきっていると言うのに…初対面の時の記憶は、いつ思い出しても…あの御仁が昔からの友人である事を錯覚させてくる。
しかし…人間の記憶ばかりか…親父の知識にすら隠蔽工作が可能だとは。
俺達の前では好々爺を崩さぬ『ぬらりひょん』ではあるが、これまで出逢ったどんな妖怪よりも空恐ろしい在り方をしている事を再認識する。
「世の常が…乱れ歪み…されど止まらずに…儂等は逃れられない混沌の渦の中に閉じ込められてしまった…そんな気がするのじゃ」
足元の自らの影の隣に…霞んだ墨の様な散り散りの影が映っていた。
「…なぁ……俺は…物好きで、渦に飛び込んだ男だ。何が起ころうとも文句は無いさ」
「わかっておる。わかっておるから不安の種が蒔かれた現状に…」
隣の影は霞んだまま頭一つ大きな男をなぞる様に動いていた。
「俺は…貴方みたいに先々を見通す慧眼なぞ持ち合わせちゃいない…目の前の事しか…手の届く範囲で何とか頑張るだけだよ」
「……世の変化を恐れるより…己が日々を精進するが真っ当な道…か」
「んな高尚な哲学なんて、持っちゃいないぜ」
「ねぇ…つまりはさ……パパッと人面犬を捕まえちゃえば…色々、分かり易くなるんじゃない?」
先程から俺の耳たぶを揉みほぐしていた鬼太郎が、そう…先ずやるべき事を纏めてくれた。
肩に座る鬼太郎へ手を伸ばし、取り外し可能のもちもちの手と握手する。
「おお、あってるんだね」
「親父…鬼太郎の素直な考え方を見習ったらどうだい」
「………子の成長と共に自身の老いを感じる…嬉し悲し」
「しわくちゃになっても、お父さんはお父さんでしょう?」
「……………………めぎゃ」
「あれ…ひっくり返った…お父さん干からびちゃったのかなぁ、水木」
「あー…取り敢えず部屋に入れてあげな。鬼太郎」
「はぁい…わぁ…震々みたいだ」
死にかけの蝉の有様になった親父は…愛息子の宿へと引っ込んでいった。
……感動性発作は酷くなる一方である。
再び、目撃者の元へ歩を進める。
「犬かー犬…遠くからしか見た事ないなー」
お出掛けに慣れた鬼太郎は自分で用意したおやつの胡瓜を齧りながら、指先で俺の髪の毛をくるくる回していた。
「水木は犬、好き?」
「好きだな。飼った事は無いが…中々可愛いぞ」
「へぇ…あ」
「ん?」
「シーサーも似てるよねぇ」
「あ、あぁ…前…本人に…ワンちゃんなんて言っちまったよ」
「アハハ!!じゃあ僕も今度会ったら、そう呼ぼうかしら」
「やめてくれぇ……犬じゃないって即答してきたんだ。絶対気にしているから」
「じょーだん。でも、シーサーは何度呼ばれても怒らないと思うよ。でーん、としてるもの」
「…確かに、でーんとしているな」
真紅の獅子の真体は巌と見紛う存在感であった。
「いっぱいいるんだって」
「いっぱい……シーサーが…?」
「うん。ふるさとに、いっぱい」
「そ、そう、なのか……」
シーサーが…!
「人間の家一つにふたりだって」
「か、飼われているのか!?!」
シーサーが…!!!
「ううん、護ってるんだって」
「…護ってる…かい……海行ってから、薄々考えていたんだが…シーサーって本当に妖怪か?」
「偶に妖気がピカピカしてるからねぇ…お医者さんの獏みたいに。幻獣の仲間じゃないかなぁ」
「…光ってんの…?」
「綺麗だよ」
「はぁ〜、そりゃまた……目が良いんだなぁ。鬼太郎も」
「その内、水木も見える様になるよ」
「楽しみにしておくよ」
長閑は会話を続けながら、目的地付近の住宅街に着いた。
「佐藤…佐藤…」
新聞に載っていた名前の表札を探しながら、右へ左への行ったり来たりを繰り返した。
「お、此処だ」
「この家なんだね」
「そうだ」
これと言った特徴の無い平屋であった。
「じゃあ、降りるよ。ありがとう」
「真面目だな」
「仕事だからね」
「フフフ…」
「けけけ…」
鬼太郎と並んで…玄関先にて、声を掛ける。
「ごめんくださーい!」
………返答は無い。
軽く耳を澄ませてみても、足音一つ聞こえない。
「鬼太郎……中に人がいるか解るか?」
小声で、超人の幼子に問う。
「もうやったよ。でも、誰もいないみたい」
「…そうか……無駄足だったかな」
既に退職して余生を過ごしている年齢の方であったが…。
「待つのも…なぁ…」
「僕は構わないよ」
「いや、な…その労力に見合うかどうか、怪しいとは思うんだ」
どうせ記者が根掘り葉掘り掘り返しただろうしな。
「仕方ない。じゃあ、遭遇場所に行ってみるか。
「そうだね…外れっぱなしだから、頑張るよ!水木!」
「おう。鬼太郎しか頼りがいないからな。俺ぁ応援するっきりだ」
「それで十分」
敷地から失礼して、再び住宅街を両断している道に戻る。
佐藤氏が人面犬と遭遇したのは近くの商店街の路地裏、と新聞には書かれていた。
「商店街、商店街は…」
「通り道には無かったね」
「そうだなぁ…じゃあ、もう少し進んでみようか」
「ご案内しましょうか?」
唐突に背後から声をかけられ、振り返る。
年若い青年が微笑んで立っていた。
青いハンチング帽。卸したての様な真っ白なシャツにはズボンを吊っているサスペンダーがピッタリ密着していた。
「えぇと…?」
なんだろう、この人は?
「どうも。佐藤氏…いえ、人面犬に御用がお有りと推察したのですが」
「…まぁ…その通りですが」
気の抜けた返事をしている最中、脱力した右手に、するり、と…陽の下では冷たく感じる小さな手が滑り込んできた。
……人見知りとは珍しい。
優しく握り返す。
「しかし…なんだって私が人面犬に用があるなんて、思われたのでしょうか?」
「直感ですよ」
「はぁ……失礼ですが…貴方は?」
「ああ!申し遅れました。自分はこういう者です」
青年が慣れた手つきで名刺を渡してきた。
縦書きの名刺には、丁度今朝読んだ新聞の名前が控えめに記されていた。
「あぁ…記者さんですか」
「はい」
「……何故、此処に?」
「張り込みですよ。件の存在が戻らぬとは限らないと思いまして」
「それはそれは。ご苦労様です」
「いいえ。仕事ですので」
「そうですか」
「…それで、どうでしょうか?事件現場にならば、ご案内出来ますが如何しますか?」
「これは…ご親切にどうも…では、お願いします」
「こちらです」
意図の解らぬ親切心を発揮する青年の後へ、俺達は続いた。